通鑑紀事本末楊行密、淮南に拠る(楊行宻據淮南)

高駢が方士呂用之に惑わされて淮南を乱したところから、楊行密(もと行愍)が廬州・宣州を足がかりに淮南を制し、呉王に封ぜられて死ぬまで。中和二年(882)から天祐二年(905)まで。畢師鐸の挙兵で高駢は殺され、行密は孫儒との数年の死闘を制して淮南を平定、清口で朱全忠の大軍を破って北の圧力を退けた。田頵・安仁義・朱延寿の叛乱を鎮め、鄂州の杜洪を滅ぼしたのち没し、子の楊渥が後を継ぐ。

年表(17件)

僖宗中和二年(882年・呂用之の妖術と高駢の失政)

  • 淮南節度使の高駢は神仙を好んだ。方士の呂用之は妖術の一味として指名手配され、逃れて駢に身を寄せた。駢は厚遇して軍職を与えた。用之は鄱陽の茶商の子で、長く広陵に客居して土地の人情に通じ、丹薬を煉る合間に公私の利害をよく語ったので、駢はますます非凡と見て次第に信任した。
  • 駢の旧将である梁纉・陳珙・馮綬・董瑾・兪公楚・姚帰礼はいずれも駢に厚遇されていたが、用之は権を独占しようとして策略で次々に排除した。駢は纉の兵を奪い、珙の一族を処し、綬・瑾・公楚・帰礼はいずれも疎んじられた。
  • 用之はさらに一味の張守一と諸葛殷を引き入れて駢を惑わせた。守一はもと滄州・景州の村民で、術を売り込んでも相手にされず極貧だった。用之が「私と心を一つにすれば富貴は間違いない」と言って駢に推すと、駢は用之と並ぶほど寵遇した。
  • 殷が鄱陽から来る前、用之は駢に「玉皇は公の職務が繁重であることを思い、側近の尊神一人を割いて公の政を助けさせます。厚遇して長く留められるよう、人間界の重職で繋ぎ止めるのもよいでしょう」と吹き込んだ。翌日、殷が拝謁して詭弁を弄すると、駢は神だと信じて塩鉄の要職に就けた。
  • 駢は潔癖で、甥や姪ですら同席させないほどだったが、殷が風疽を病んで搔きむしり爪に膿血をためていても、駢だけは同席して膝を突き合わせ、杯や器を共にして食べた。左右が諫めると、駢は「神仙がこうして人を試しているのだ」と言った。駢の飼い犬がその生臭さを嗅いで寄ってくるのを駢が怪しむと、殷は笑って「私は昔、玉皇の御前でこの犬を見た。数百年ぶりでもまだ覚えていたのだ」と言った。
  • 駢は鄭畋と不和だった。用之は「宰相が剣客を送って公を刺そうとしています。今夕にも来ます」と言った。駢が恐れて対策を問うと、用之は「張先生がその術を学んでおります。防げます」と答えた。駢が守一に頼むと、守一は承知し、駢に婦人の服を着せて別室に隠し、自分が駢の寝台に代わって寝た。夜中に銅器を階に投げて派手に音を立て、また密かに袋に入れた豚の血を庭に撒いて格闘の跡らしく見せた。翌朝、守一は笑って「危うく奴の手に落ちるところでした」と言い、駢は涙ながらに「先生は私の再生の恩人だ」と謝して金宝を厚く与えた。
  • 蕭勝という者が用之に賄賂を贈って塩城監の職を求めた。駢が難色を示すと、用之は「勝のためではありません。近ごろ上仙の書を得たところ、塩城の井戸に宝剣があり、霊官に取らせよとある。勝は上仙の側近ですから、剣を取らせたいのです」と言い、駢は許した。勝は着任数か月で銅の匕首を一振り箱に納めて献じ、用之はこれを見て叩頭し「これは北帝の佩刀。これがあれば百里の内で五兵も犯せません」と言った。駢は珠玉で飾って常に座の隅に置いた。
  • 用之は自らを磻渓真君、守一を赤松子、殷を葛将軍、勝を秦の穆公の婿だと称した。
  • 用之はさらに青石に奇怪な文字を刻んで「玉皇が白雲先生・高駢に授ける」とし、密かに左右に命じて道院の香案に置かせた。駢がこれを得て驚喜すると、用之は「玉皇は公の修行の功を認めて真官に補されるおつもりです。鸞鶴の降臨も近い。その折には我らの謫期も満ちますから、必ずお供して上清へ帰れましょう」と言った。
  • 以後、駢は道院の庭に木の鶴を刻ませ、羽衣を着てこれに跨り、日夜、斎醮を行い、錬金と焼丹に巨万を費やした。
  • 用之は微賤のころ江陽の后土廟に身を寄せ、事あるごとに祈っていたので、志を得ると駢に言ってその廟を壮大に建て直させ、江南から工匠と材木を選ばせ、軍旅の大事のたびに少牢を供えて祈った。また「神仙は高楼を好む」と言って迎仙楼を作らせ、十五万緡を費やし、さらに高さ八丈の延和閣を作らせた。
  • 用之は駢の前でいつも風雨を叱りつけ、空を仰いで礼をとり、「神仙が雲の上を通った」と言い、駢もそのたびに従って拝んだ。しかも駢の側近に厚く賄賂を贈って駢の動静を探らせ、共謀して欺いたので、駢は気づかなかった。少しでも異論を唱える者は用之にたちどころに陥れられて死んだので、皆ひそかに胸を撫で指を噛むばかりで、口には出せなかった。
  • 駢は用之を左右の手のように頼み、公私大小の事はすべて用之が決した。賢者は退けられ不肖の者が進み、刑は濫り、賞は乱れ、駢の政事はここに大きく崩れた。
  • 用之は上下の怨憤を知って謀反を恐れ、巡察使の設置を請い、駢は用之に領させた。狡猾な者百余人を募って街中を横行させ、これを「察子」と呼んだ。民間で妻を叱り子を罵ったことまで筒抜けだった。用之は人の財貨を奪い婦女を掠めようとすると、その者を叛逆と誣告し、拷問で自白させて殺し、奪い取った。破滅させられた家は数百に上り、道行く人は目で語り合うだけで、将吏も士民も家にいてさえ足を重ねて息をひそめた。
  • 用之はさらに兵威で諸将を抑えようと、諸軍から驍勇の士二万人を選び募って「左右莫邪都」と号することを請い、駢は張守一と用之を左右の莫邪軍使とした。将吏を置くさまは帥府と変わらず、武器は精良、衣装は華麗で、出入りには千人近い供回りを従えた。用之は侍妾百余人を抱えて贅を尽くし、費用が足りなければ三司の輸送物資を自邸に留めた。
  • 用之はなお奸謀が漏れることを恐れ、駢に「神仙を招くのは難しくありませんが、道を学ぶ者が俗塵を絶ちきれぬために降臨されぬのです」と言った。駢はそこで姫妾をすべて去らせ、人との交際を断ち、賓客も将吏も会えなくなった。やむなく会う場合も、まず沐浴斎戒させたうえで、拝礼が終わればすぐ退出させた。こうして用之は思うままに威福を行い、憚るものはなく、領内ではもはや駢の存在すら知られなくなった。

中和三年(883年・楊行愍の台頭)

  • 春三月、淮南押牙の楊行愍(合肥の人)を廬州刺史とした。行愍はもと廬州の牙将で、勇敢でたびたび戦功があったが、都将に妬まれ、刺史の郎幼復に讒言されて何度も外の守備に出された。行愍は出発の挨拶に行ったとき、都将が甘言でなだめ「入り用のものはあるか」と尋ねると、行愍は「ちょうどおまえの首が要る」と言って立ち上がり斬った。そのまま諸営を率いて入営都知兵馬使を自称し、幼復は抑えられず、高駢に推薦して自分の後任にと請うた。駢は行愍を淮南押牙・知廬州事とし、朝廷もこれに従って任命した。
  • 呂用之は左驍雄軍使の兪公楚の口利きで高駢に会えた。用之の横暴を咎める声があると公楚は責められ、たびたび「少しは慎んで、私に迷惑をかけるな」と戒めたので、用之はこれを恨んだ。右驍雄軍使の姚帰礼は気骨があってはっきり物を言い、とりわけ用之のやり口を憎み、面と向かってその罪を数え、いつも自ら斬りたいと思っていた。
  • 癸未の夜、用之が一味と妓楼で会っているとき、帰礼が密かに人を送って火を放たせ、似た顔の者数人を殺した。用之は服を替えて逃れ、翌朝、徹底的に調べて放火者を捕えると、いずれも驍雄軍の兵だった。用之は以後、日夜この二将を駢に讒言した。
  • まもなく駢は二将に驍雄の兵三千を率いて慎県の賊を襲わせた。用之は密かに行愍に「公楚と帰礼が廬州を襲おうとしている」と伝え、行愍は兵を出して不意打ちした。二将は備えておらず全軍が殲滅された。行愍は「二将が乱を謀った」と駢に告げ、駢は用之の策謀を知らずに行愍を厚く賞した。

中和四年(884年・高澞の直諫)

  • 春三月、高駢の甥で左驍衛大将軍の高澞が呂用之の罪状二十余枚を書き連ねて密かに駢に呈し、泣いて訴えた。「用之は内には神仙の説を借りて尊聴を惑わし、外には節制の権を盗んで百姓を虐げております。将佐は死を恐れて口を開けません。年月が経てば羽翼は整います。今これを除かねば、高氏累代の勲功が一朝にして地に落ちましょう」。そして嗚咽して抑えられなかった。駢は「酔ったか」と言って抱え出させた。
  • 翌日、駢が澞の書状を用之に見せると、用之は「四十郎(澞)は先に困窮を訴えられましたが、ご希望に沿えなかったので、この恨みがあるのです」と言い、澞の自筆の手紙数枚を差し出した。駢はひどく恥じ入り、澞の出入りを禁じた。
  • 一月余りののち、澞に舒州事を掌らせた。群盗の陳儒が舒州を攻め、澞は廬州の楊行愍に救援を求めたが、行愍には力がなく、将の李神福に諮った。神福は「刃を交えずに追い払いましょう」と言い、多くの旗を携えて間道から舒州に入り、しばらくして舒州の兵に廬州の旗を立てさせて出撃し、地形を指し示して大陣を布くふりをした。賊は恐れて夜のうちに逃げた。神福は洺州の人である。
  • のち、群盗の呉迥と李本がまた舒州を攻め、澞は守りきれず城を棄てて逃げたが、駢は人を送って殺した。楊行愍は将の田頵(合肥の人)・陶雅(清流の人)・張訓らに呉迥・李本を撃たせて捕え斬り、陶雅に舒州刺史を代行させた。
  • 秦宗権が弟に兵を率いさせて廬州を侵し舒城に拠ったが、行愍は田頵を送って追い払った。

光啟二年(886年・呂用之と高駢の離間)

  • 夏四月壬子、朱玫が襄王李煴に軍国の事を代行させ、制を承けて封拝を行った。五月、和州刺史の呂用之を嶺南東道節度使とした。用之は牙を建て幕を開き、すべて高駢と同じ体裁を整え、駢の腹心や有能な将校をみな自分に従わせ、事を行うにも駢に諮らなくなった。駢はさすがに疑い、密かにその権を奪おうとしたが、根はすでに深く手の施しようがなかった。
  • 用之はこれを知って恐れ、一味の前度支巡官・鄭杞と前知廬州事・董瑾に相談した。杞は「もう遅すぎます」と言い、用之が策を問うと、杞は「曹孟徳の言に『われ人に負くとも、人にわれに負かせず』とあります」と述べた。翌日、杞と瑾は一通の書を封じて用之に渡した。その中身は秘され、誰も知らなかった。
  • 冬十二月、寿州刺史の張翺が将の魏虔に一万を率いさせて廬州を侵した。廬州刺史の楊行愍は田頵・李神福・張訓に防がせ、褚城で虔を破った。滁州刺史の許勍が舒州を襲い、刺史の陶雅は廬州へ逃げた。高駢は行愍に名を行密と改めさせた。

光啟三年(887年・畢師鐸の挙兵)

  • 夏四月、高駢は秦宗権が淮南を侵すと聞き、左廂都知兵馬使の畢師鐸に百騎を率いさせて高郵に屯させた。当時、呂用之が実権を握り、宿将の多くが誅されていたので、黄巣からの降将である師鐸は常に身を危ぶんでいた。
  • 師鐸には美しい妾がおり、用之が会いたがったのを師鐸は拒んだ。用之は師鐸の外出中に忍んで会い、師鐸は恥じ怒って妾を追い出し、ここに隙が生じた。師鐸が高郵へ赴くにあたって用之がことさら厚遇したので、師鐸はいっそう疑い恐れ、禍は目前だと考えた。
  • 師鐸の子は高郵鎮遏使・張神剣の娘を娶っていたので、師鐸は密かに相談したが、神剣は「そのようなことはない」と言った。神剣の名は雄で、剣の使い手なので神剣と呼ばれた。当時、府中でも「師鐸は誅される」と噂され、その母は人を送って「もしそうなら、おまえは自分で努力して逃げよ。老母や幼子に構うな」と伝えた。師鐸は疑いながら決しかねていた。
  • ちょうど駢の子の四十三郎という者が用之を憎み、師鐸に外鎮の将吏を率いて用之の罪悪を父に上申させようと考え、密かに人を送って「用之は近ごろしきりに令公に働きかけて公を陥れようとしている。すでに指令書が張尚書のもとにある。用心されよ」と偽って告げた。師鐸が神剣に「昨夜、使司から文書が来たはず。翁はなぜ言わぬのか」と問うと、神剣は事情を解さず「そんなものはない」と答えた。
  • 師鐸は不安に耐えかね、営に帰って腹心と謀ると、皆が用之誅殺の挙兵を勧めた。師鐸は「用之は数年来、人に怨まれ鬼に怒られている。天が私の手を借りて誅そうとしているのかもしれぬ。淮寧軍使の鄭漢章は同郷で、昔、帰順したときの副将だ。かねて用之に歯噛みしている。私の謀を聞けば必ず喜ぼう」と言い、夜、百騎を率いて密かに漢章のもとへ行った。
  • 漢章は大喜びして鎮の兵をすべて出し、住民も駆り集めて千余人とし、師鐸に従って高郵に至った。師鐸が張神剣に「指令書」の件を詰問すると、神剣は驚いて「そんなものはない」と言った。師鐸の声色が険しくなると、神剣は奮って「公はなぜそこまで事情に暗いのか。用之の奸悪は天地の容れぬところ。まして近ごろ権貴に重い賄賂を贈って嶺南節度使を得ながら赴かない。この地を窃取して拠るつもりだという者もある。もし彼が志を得たら、我らが刀の柄を握ってあの妖物に仕えられようか。あの数人の賊を切り刻んで淮海に謝せばよい。多言は無用」と言った。漢章は喜んで酒を取り寄せ、腕を切って血を酒に滴らせ、皆で飲んだ。
  • 乙巳、衆は師鐸を行営使に推し、天地に告げる文を作り、淮南の領内に書を回して、用之および張守一・諸葛殷を誅す意を告げた。漢章を行営副使、神剣を都指揮使とした。神剣は師鐸の成否が読めないとして、自分の部隊は高郵に留めたいと請い、「一つには公の後詰めとなり、二つには糧を供給します」と言った。師鐸は不満だったが、漢章が「張尚書の謀も悪くない。終始心を同じくすれば、事が成った日には子女玉帛を分かち合えばよい。今さら仲違いすべきでない」と言い、師鐸は許した。
  • 戊申、師鐸と漢章は高郵を発ち、庚戌、偵騎が高駢に報せたが、呂用之は握り潰した。
  • 師鐸の兵は不意に広陵城下に至り、城中は驚き騒いだ。壬子、用之は麾下の精兵を重賞で釣って城を出て力戦し、師鐸の兵はやや退いた。用之はようやく橋を断ち門を塞いで守りを固めた。
  • この日、駢は延和閣に登って騒ぎを聞き、左右が師鐸の変を告げた。駢は驚いて用之を急ぎ召して詰問した。用之は落ち着いて「師鐸の兵が帰りたがったのを門衛が止めたのです。適宜処置いたしましたので、じきに退散しましょう。もし収まらぬときは、玄女の力士一人の手を煩わせるまで。令公はご心配なく」と答えた。駢は「近ごろ、そなたの偽りに気づくことが多い。よくよく心得よ。私を周侍中のようにするな」と言い、話し終えて長く沈み込んだ。用之は恥じ入って退いた。
  • 師鐸は山光寺に退いて屯したが、広陵の城は堅く兵も多いので、かなり後悔の色があった。癸丑、属官の孫約と自分の子を宣州に遣わし、観察使の秦彦に援兵を乞い、落城の暁には彦を迎えて帥とすると約束した。
  • 折しも師鐸の館客・畢慕顔が城中から逃れ出て、「衆心は離散し、用之は憂え窮している。堅く攻めれば数日で潰える」と告げたので、師鐸はようやく喜んだ。
  • この日の未明、駢は用之を召して事の経緯を問い、用之は初めて事実を答えた。駢は「私はもう兵を出して攻め合いたくない。温厚で信のおける大将を選び、私の手紙で諭せ。それでも従わねば別に処置する」と言った。用之は退いて考えたが、諸将は皆自分の仇敵で、行かせれば自分に不利になる。
  • 甲寅、用之は自分の部下の討撃副使・許戡に駢の指令書と用之の誓状、それに酒肴を持たせて師鐸を労わせた。師鐸ははじめ、駢の旧将が労いに来れば用之の奸悪を訴えて積年の憤りを晴らせると期待していたが、戡が来たのを見て「梁纉や韓問はどこだ。こんな汚物を寄越すとは」と大罵し、戡が口を開く前に引き出して斬った。
  • 乙卯、師鐸は書を城内へ射込んだが、用之は開かずに焼いた。
  • 丁巳、用之は甲士百人を連れて延和閣の下に駢を訪ねた。駢は大いに驚いて寝室に隠れ、しばらくして出て「節度使の居所に理由もなく兵を連れて入るとは、謀反か」と言い、左右に追い出させた。用之は恐れて子城の南門を出ると、鞭で門を指して「私はもうここへは入れぬ」と言った。ここに高氏と呂氏の決裂が始まった。
  • その夜、駢は甥の前左金吾衛将軍・高傑を召して軍事を密議し、戊午、傑を都牢城使として、涙ながらに励まし、親信五百人を与えた。
  • 用之は諸将に城中の丁壮を根こそぎ捜索させ、朝士も書生も構わず白刃で追い立てて縛り、城壁に登らせ、分けて城上に立たせ、朝から晩まで休ませなかった。外の敵と通じることを恐れて場所を頻繁に替えたので、家人が食を届けようにも居場所が分からなかった。このため城中の人は、むしろ師鐸の入城が遅いことを恨むようになった。
  • 駢は大将の石鍔に、師鐸の幼子とその母の手紙、それに駢の指令書を持たせて楊子まで送り、師鐸を諭させた。師鐸はすぐ子を返して「令公がただ呂・張を斬って示されれば、師鐸は恩に背きません。妻子を人質に出しましょう」と言った。駢は用之が師鐸の一家を殺すことを恐れ、師鐸の母・妻・子を引き取って使院に置いた。
  • 辛酉、秦彦が将の秦稠に三千を率いさせて楊子に至り師鐸を助けた。壬戌、宣州軍が南門を攻めたが落とせず、癸亥、羅城の東南隅を攻め、城が落ちかけたことが四度あった。甲子、羅城の西南隅の守兵が戦格を焼いて師鐸に応じ、師鐸は入城して衆を入れた。用之は千人を率いて三橋の北で力戦し、師鐸は敗れかけたが、高傑が牢城の兵を率いて子城から出て、用之を捕えて師鐸に渡そうとしたので、用之は参佐門を開いて北へ逃げた。駢は梁纉を召して昭義軍百余人で子城を守らせた。
  • 乙丑、師鐸は兵を放って大掠した。駢はやむなく守備を撤して延和閣の下で師鐸と会い、賓主の礼で拝を交わし、師鐸を節度副使・行軍司馬とし、制を承けて左僕射を加えた。鄭漢章らもそれぞれ官を進めた。
  • 左莫邪都虞候の申及はもと徐州の勇将で、駢に会って説いた。「師鐸の逆党は多くありません。諸門にはまだ守兵がいない。令公はこの機に元従三十人を選び、夜、教場門から出られよ。師鐸が気づいたときには追いつけません。そのうえで諸鎮の兵を発して府城を取り戻せば、禍を転じて福となせます。一、二日で事が定まってしまえば、しだいに難しくなり、私も側にいられなくなります」。そう言って泣いた。駢は迷って聞き入れなかった。及は話が漏れることを恐れて姿を隠し、張雄が東塘に来たとき、その下に走った。
  • 丙寅、師鐸は果たして兵を分けて諸門を守らせ、用之の親党を捜索して皆誅した。師鐸は使院に入って居し、秦稠は宣州軍千人で使宅と諸倉庫を分けて守った。同日、駢は牒を出して任を解くよう請い、師鐸に府事を兼判させた。師鐸は孫約を宣城に遣わして秦彦に渡江を促した。
  • ある者が師鐸に説いた。「僕射が先に兵を挙げたのは、用之らが奸邪で暴虐なのに高令公が自ら耳目を塞いで処理できずにいたためで、衆心に順って一方の害を除いたのです。今、用之は敗れ、軍府はがらんとしています。僕射は改めて高公を奉じて補佐し、ただ兵権を総べて号令すれば、誰が服さぬでしょう。用之は淮南の一叛将にすぎず、各地に書を回せばただちに梟首できます。そうすれば外には推戴の名があり、内には兼併の実がある。朝廷が聞いても臣節を損ないません。高公が聡明なら必ず内心恥じるでしょうし、改めぬなら俎上の肉です。なぜこの功業を他人に渡すのか。人に制せられるどころか、いずれ共食いになりかねません。先日、秦稠が真っ先に倉庫を守ったことでも、互いの疑心は明らかです。しかも秦司空が節度使になれば、廬州や寿州がその下風に立ちましょうか。私には戦いの端が尽きるとは見えません。淮南の人が肝脳を地にまみらせるだけでなく、僕射の功名の成否すら分かりません。今すぐ秦司空を止め、渡江させぬに如くはない。彼が安危をわきまえるなら軽々に進みますまい。他日、約に背いたと責められても、高氏の忠臣であることには変わりありません」。
  • 師鐸はまるで取り合わなかったが、翌日これを鄭漢章に話すと、漢章は「それは知者だ」と言った。捜したが、その人物は禍を恐れてついに現れなかった。
  • 戊辰、駢は一家を移して南邸に住まわせ、師鐸は甲士百人を護衛につけたが、実質は監禁だった。この日、宣州軍は求める物が得られないとして進奉の両楼数十間を焼き、宝貨はすべて灰となった。
  • 己巳、師鐸は府庁で執務し、兵権を持たぬ官吏はすべて元のままとし、駢をさらに東邸に移した。落城以来、諸軍の大掠は昼夜やまなかったが、ここで師鐸は先鋒使の唐宏を静街使として禁じた。
  • 駢は長年塩鉄使を務めながら貢奉せず、揚州にあった貨財は山と積まれていた。駢が作った郊天御楼、六軍立仗の儀服、大殿の元会や内署の行幸に用いる調度は、いずれも金玉を彫り、蟠龍・蹙鳳を施した品が数十万点あったが、すべて乱兵に掠められて民間に渡り、彼らはその中に張り巡らせて寝起きした。
  • 庚午、諸葛殷を捕えて杖殺し、屍を路傍に棄てた。怨みを持つ者がその目をえぐり舌を断ち、衆が瓦や石を投げつけ、たちまち塚のようになった。
  • 呂用之が敗れたとき、その一味の鄭杞は真っ先に師鐸に帰順し、師鐸は杞に海陵監事を掌らせた。杞は海陵に着くと密かに高霸の落ち度を記録して師鐸に報告した。霸はその書を手に入れると、杞の背を杖打ち、手足を断ち、目をえぐり舌を切ってから斬った。
  • 辛未、駢が密かに金を看守に贈っていたことを師鐸が知り、壬午、駢を道院に迎え入れ、高氏の子弟・甥姪十余人を捕えてともに幽閉した。
  • 畢師鐸が広陵を攻めたとき、呂用之は高駢の牒を偽造して廬州刺史の楊行密を行軍司馬とし、兵を率いて入援するよう命じた。廬江の人・袁襲が行密に説いた。「高公は惑い、用之は奸邪、師鐸は悖逆。凶徳が揃ったところで我らに兵を求めてきた。これは天が淮南を明公に授けるものです。急ぎ赴かれよ」。行密は廬州の兵をすべて出し、和州刺史の孫端からも兵を借りて数千人で赴いた。
  • 五月、天長に至った。鄭漢章が師鐸に従ったとき、妻を残して淮口を守らせていた。用之が衆を率いて攻めたが十日たっても落とせず、漢章が兵を率いて救援に向かった。用之は行密が天長に来たと聞いて兵を率いてその下に走った。
  • 張神剣が畢師鐸に財貨を求めたが、師鐸は「秦司空の指図を待て」と答えたので、神剣は怒って衆を率いて楊行密に帰した。海陵鎮遏使の高霸、曲渓の劉金、盱眙の賈令威もことごとく衆を率いて属した。行密の衆は一万七千に達し、張神剣は高郵の糧を運んで供給した。
  • 甲午、秦彦が宣歙の兵三万余を率いて竹の筏で長江を下ったが、趙暉が上元で迎え撃ち、殺害・溺死はほぼ半分に及んだ。丙申、彦は広陵に入り、淮南節度事の代行を自称し、なお畢師鐸を行軍司馬とし、池州刺史の趙鍠を宣歙観察使に補した。
  • 戊戌、楊行密は諸軍を率いて広陵城下に至り、八つの寨を築いて包囲した。秦彦は城を閉じて守った。
  • 六月戊午、彦は畢師鐸と秦稠に八千を率いさせて城の西に出て行密を撃たせたが、稠は敗死し、士卒の七、八割が死んだ。城中は食糧が乏しく薪を取る道も絶え、宣州軍はついに人を食べ始めた。
  • 秋八月、秦彦は前蘇州刺史の張雄の兵が強いのを見て、その力を借りようと僕射の告身を雄に、尚書の告身三通を裨将の馮弘鐸らに授けた。広陵の人は争って金玉・珠・繒を持って雄の軍に食を求め、通犀の帯一本で米五升、錦の衾一枚で糠五升だった。雄の軍は豊かになるともう戦おうとせず、まもなく楊行密に加勢した。
  • 丁卯、彦は城中の兵一万二千をすべて出し、畢師鐸と鄭漢章に率いさせて城の西に布陣した。長さ数里に及び、軍勢は盛んだった。行密は帳中に安らかに寝ていて「賊が近づいたら知らせよ」と言った。牙将の李宗礼が「衆寡敵しません。堅く守り、ゆるゆると帰師を図るべきです」と言うと、李濤が怒って「我らは順をもって逆を討つのだ。衆寡を論じてどうする。大軍がここまで来て、どこへ帰るのか。濤が部下を率いて先鋒となり、必ず公のために破ってみせる」と言った。濤は趙州の人である。
  • 行密は一つの寨に金帛と麰米を積んで弱兵に守らせ、その傍らに精兵を多く伏せ、自ら千余を率いて敵陣に突撃した。交戦するや行密は敗走を装い、広陵の兵が追って空の寨に入り金帛と麰米を奪い合ったところへ伏兵が四方から起こった。広陵の衆は乱れ、行密が兵を放って撃ち、ほぼ全滅させた。屍は十里に積もり、溝はすべて埋まった。師鐸と漢章は単騎でようやく逃れ、以後、秦彦は出撃を口にしなくなった。
  • 九月、道院にいた高駢への秦彦の供給はきわめて薄く、左右は食に窮して木像を燃やし革帯を煮て食べ、共食いする者まで出た。彦と師鐸は出兵のたびに敗れるので、駢が呪詛しているのではないかと疑い、外の包囲がいっそう急になると、駢の一党が内応することを恐れた。妖尼の王奉仙が彦に「揚州の分野は極めて災いが大きい。必ず一人の大人が死ねば、そこから吉に転じます」と言った。
  • 甲戌、彦は将の劉匡時に命じて駢を殺し、子弟・甥姪も老幼の別なく皆殺しにして同じ穴に埋めた。乙亥、楊行密はこれを聞いて士卒に喪服を着せ、城に向かって三日間慟哭した。
  • 冬十月、秦彦は鄭漢章に歩騎五千を率いさせて張神剣と高霸の寨を撃たせ、破った。神剣は高郵へ、霸は海陵へ逃げた。
  • 楊行密の広陵包囲は半年近くに及び、秦彦と畢師鐸は大小数十戦してほとんど不利だった。城中は食がなく、米一斗が銭五十緡、草の根も木の実も尽き、粘土を餅にして食べ、餓死者は半ばを超えた。宣州軍は人を掠って店に運んで売り、羊や豚のように縛って屠り割いたが、一声も上がらなかった。屍が積み血が流れて坊市に満ちた。彦も師鐸もどうしようもなく、眉をひそめるだけだった。
  • 外の包囲がいっそう急になると、彦と師鐸は憂悶して生きる気力もなく、向かい合って膝を抱えて一日中黙り込んだ。行密も城が長く落ちないので引き揚げようとしていた。
  • 己巳の夜、大風雨のなか、呂用之の部将・張審威が麾下三百を率いて明け方に西の壕に伏し、守兵の交代を待って密かに城壁に登り、門を開いて味方を入れた。守兵は戦わずに潰えた。
  • それまで彦と師鐸は尼の奉仙を信じ重んじ、戦陣の日時から賞罰の軽重まですべて彼女に決めさせていた。ここでもまた「どうすれば救われるか」と諮ると、奉仙は「逃げるのが上策」と答え、二人は開化門から出て東塘へ逃げた。
  • 行密は諸軍合わせて一万五千を率いて入城した。梁纉が高氏に節を尽くさず秦彦・畢師鐸に用いられたとして戟門の外で斬った。韓問はこれを聞いて井戸に身を投げて死んだ。高駢の従孫の高愈に副使を代行させ、駢とその一族を改葬させた。城中の生き残りはわずか数百家、飢えて痩せ衰えて人の姿ではなく、行密は西寨の米を車で運んで賑給した。行密は淮南留後を自称した。
  • 秦宗権は弟の宗衡に一万を率いさせて淮を渡り、楊行密と揚州を争わせた。孫儒を副とし、張佶・劉建鋒・馬殷および宗権の族弟の彦暉が皆従った。十一月辛未、広陵の城西に至って行密の旧寨に拠り、まだ城内へ運び込めていなかった行密の輜重は蔡州の兵に奪われた。
  • 秦彦と畢師鐸は東塘に至ったが張雄に受け入れられず、渡江して宣州へ向かおうとしたところ、宗衡が呼んだので兵を率いて戻り宗衡と合流した。
  • まもなく宗権が宗衡を蔡州へ呼び戻して朱全忠に当たらせようとしたが、孫儒は宗権の勢いが長続きしないと見て病と称して行かず、宗衡が再三促すと怒って、甲戌、宗衡と酒を飲む席で自ら刺し殺し、首を全忠に送った。宗衡の将・安仁義は行密に降った。仁義はもと沙陀の将で、行密は騎兵をすべて委ね、田頵の上に列した。
  • 儒は兵を分けて隣州を掠め、まもなく衆は数万に達した。城下は食に乏しいので、秦彦・畢師鐸とともに高郵を襲った。
  • 辛巳、高郵鎮遏使の張神剣が麾下二百を率いて揚州へ逃げ帰った。丙戌、孫儒が高郵を屠った。戊子、高郵の残兵七百人が包囲を突いて来たが、楊行密は変事を憂えて諸将に分属させ、一夜のうちにことごとく生き埋めにした。翌日、神剣をその邸で殺した。
  • 行密は孫儒が勝ちに乗じて海陵を取ることを恐れ、壬寅、鎮遏使の高霸に兵民をすべて率いて府城へ帰るよう命じ、「違う者は族滅する」と告げた。こうして数万戸が資産を棄て家屋を焼き、老幼を連れて広陵へ移った。
  • 戊戌、霸は弟の暀、部将の余繞山、前常州刺史の丁従実とともに広陵に至り、行密は城外へ出て迎え、霸・暀と兄弟の約を結び、その将卒を法雲寺に置いた。
  • 朝廷は淮南の乱が長引くため、閏月、朱全忠に淮南節度使・東南面招討使を兼ねさせた。
  • 楊行密は高霸を天長に屯させて孫儒を防がせようとしたが、袁襲は「霸は高氏の旧将で、常に両属です。我らが勝てば来て、負ければ叛く。今、天長に置けば自ら帰り道を絶つようなもの。殺すに如くはありません」と言った。己酉、行密は甲士を伏せて霸と丁従実・余繞山を捕えて皆殺しにし、さらに千騎を送って法雲寺でその一党を襲い、数千人が死んだ。この日は大雪で、寺の外の数坊の地はいずれも赤く染まった。高暀は逃げたが、翌日捕えて殺した。
  • 呂用之は天長にいたころ、楊行密を騙して「私は銀五万鋌を住まいに埋めてあります。落城の日には麾下の一杯の費用に充てていただきたい」と言っていた。庚戌、行密は士卒を閲兵しながら用之を顧みて「僕射はこの者たちに銀を約束したはず。なぜ食言する」と言い、引き倒して械をかけ、田頵に取り調べさせた。用之は、鄭杞・董瑾と謀り、中元の夜に高駢を自邸へ招いて黄籙斎を建て、入静のところを縊り殺し、「昇天した」と称して、莫邪都に諸軍を率いて自分を節度使に推させる計画だったと自白した。
  • この日、用之を腰斬にし、怨みある者が屍を切り裂いて跡形もなくし、あわせてその一族と一党を誅した。軍士がその中堂を掘ると、桐の人形に駢の姓名を胸に書き、桎梏をはめて釘を打ったものが出てきた。
  • 袁襲が行密に「広陵の飢えと疲弊はすでに極まっています。蔡の賊がまた来れば民はいよいよ困る。避けるに如くはありません」と言い、甲寅、行密は和州の将・延陵宗に二千を率いさせて和州へ帰し、乙卯にはさらに指揮使の蔡儔に千人と輜重数千両を率いさせて廬州へ帰した。
  • 朱全忠は内客将の張廷範を送って楊行密に朝命を伝え、行密を淮南節度副使とし、また宣武行軍司馬の李璠を淮南留後として、牙将の郭言に千人を率いさせて送った。

文德元年(888年・孫儒に追われる)

  • 春正月甲寅、孫儒が秦彦・畢師鐸・鄭漢章を殺した。彦らが秦宗衡に帰属したとき、その衆はなお二千余人いたが、その後しだいに儒に奪われた。裨将の唐宏は自分たちにも禍が及ぶと察し、巻き添えを恐れて、「彦らが密かに汴軍を招いている」と誣告した。儒は彦らを殺し、宏を馬軍使とした。
  • 張守一は呂用之とともに楊行密に帰したが、また諸将のために仙丹を合わせ、軍府の政に干渉しようとしたので、行密は怒って殺した。
  • 張廷範が広陵に至ると行密は厚く礼遇したが、李璠が留後として来ると聞いて怒り、受け入れぬ気配を見せた。廷範は密かに人を送って全忠に「自ら大軍を率いて任地へ赴かれるべきです」と伝え、全忠は従って宋州まで来た。ところが廷範が広陵から逃げてきて「行密は図れません」と言い、甲子には李璠も来て「徐州軍が道を塞いだ」と報じたので、全忠は取りやめた。
  • 二月、朱全忠は楊行密を淮南留後とするよう奏した。
  • 夏四月壬午、孫儒が揚州を襲って落とし、楊行密は逃げ出した。儒は淮南節度使を自称した。行密は海陵へ逃げようとしたが、袁襲が廬州へ帰って再起を図るよう勧め、これに従った。
  • 秋八月、行密は孫儒の圧迫を恐れ、軽兵で洪州を襲おうとした。袁襲は「鍾伝が江西を平定して久しく、兵は強く食は足りている。容易に図れません。趙鍠は宣州を得たばかりで、乱に乗じて残暴を働き、衆心は付いていません。公はへりくだった言葉と厚い贈物で和州の孫端と上元の張雄を説き、采石から渡江してその境を侵させれば、彼は必ず迎え撃ちに出ます。公は銅官から渡江して合流すれば、鍠を破るのは確実です」と述べ、行密は従った。
  • 蔡儔に廬州を守らせ、諸将を率いて糝潭から渡った。孫端と張雄は趙鍠に敗れた。鍠の将・蘇塘と漆朗が二万を率いて曷山に屯すると、袁襲は「公は兵を率いて急ぎ曷山へ向かい、堅く守って戦わなければ、彼らは我らが怯えていると思う。その怠りに乗じれば破れます」と言い、行密は従って塘らを大敗させ、宣州を包囲した。
  • 鍠の兄の乾之が池州から衆を率いて宣州を救おうとしたが、行密は将の陶雅に九華で撃たせて破り、乾之は江西へ逃げた。雅を池州制置使とした。

昭宗龍紀元年(889年・宣州奪取)

  • 夏五月甲辰、潤州制置使の阮結が没し、銭鏐は静江都将の成及を代えた。
  • 六月、楊行密が宣州を包囲した。城中は食が尽きて人が人を食い、指揮使の周進思が城を押さえて趙鍠を追い出した。鍠は広陵へ逃げようとしたが田頵が追って捕えた。まもなく城中は進思を捕えて降り、行密は宣州に入った。諸将が争って金帛を取るなか、徐温ひとりは米倉を押さえて粥を炊き、飢えた者に食べさせた。温は朐山の人である。
  • 鍠の将・周本(宿松の人)は勇が軍中一だったが、行密は捕えて釈し、裨将とした。鍠が敗れると左右は皆散ったが、李徳誠だけは離れなかったので、行密は宗室の女を娶わせた。徳誠は西華の人である。
  • 行密が朝廷に上表し、詔で行密を宣歙観察使とした。朱全忠は趙鍠と旧交があり、使者を送って引き渡しを求めた。行密が袁襲に諮ると、襲は「首を斬って送るに如くはありません」と言い、行密は従った。
  • まもなく襲が没し、行密は哭して「天は私の大功を成させぬつもりか。なぜわが股肱を折るのか。私は寛大を好むが、襲はいつも殺すよう勧めた。それが長生きできなかった理由か」と言った。
  • 孫儒が兵を送って廬州を攻め、蔡儔は州を挙げて降った。
  • 冬十月、給事中の杜儒休を蘇州刺史とした。銭鏐は不快に思い、知州事の沈粲を制置指揮使とした。楊行密は馬歩都虞候の田頵らを送って常州を攻めさせた。
  • 十一月、田頵は常州を攻めるにあたって地道を掘って城内に入り、夜、旌旗と甲兵が制置使・杜稜の寝室から現れ、そのまま捕虜とした。三万の兵で常州を戍らせた。
  • 十二月戊寅、孫儒が広陵から兵を率いて渡江し、壬午、田頵を追って常州を取り、劉建鋒に守らせた。儒が広陵へ戻ると、建鋒はさらに成及を追って潤州を取った。

大順元年〜二年(890-891年・孫儒との死闘)

  • 元年春正月、汴の将・龐師古らが十万と号する軍で淮を渡り、行密救援と称して天長を落とし、壬子には高郵を落とした。二月、師古は淮南深く進んだが、己巳、陵亭で孫儒と戦って敗れて帰った。
  • 楊行密は将の馬敬言に五千を率いさせて隙を突いて潤州を襲って占拠させた。李友が二万で青城に屯して常州を攻めようとし、安仁義・劉威・田頵が武進で劉建鋒を破った。敬言・仁義・頵は潤州に屯した。友は合肥の人、威は慎県の人である。
  • 三月、宣歙軍に寧国の号を賜り、楊行密を節度使とした。
  • 夏六月、孫儒が朱全忠に好誼を求め、全忠は淮南節度使とするよう上表したが、まもなく全忠がその使者を殺し、また仇敵となった。
  • 秋八月丙寅、孫儒が潤州を攻めた。蘇州刺史の杜儒休が着任すると銭鏐は沈粲に殺させたが、折しも楊行密の将・李友が蘇州を落とし、粲は孫儒のもとへ逃げた。
  • 九月、行密は将の張行周を常州制置使としたが、閏月、孫儒は劉建鋒に常州を攻め落とさせて行周を殺し、そのまま蘇州を包囲した。
  • 冬十二月己丑、孫儒が蘇州を落として李友を殺した。安仁義らはこれを聞いて潤州の家屋を焼いて夜のうちに逃げた。儒は沈粲に蘇州を、将の帰伝道に潤州を守らせた。
  • 二年春正月、孫儒は淮蔡の兵をすべて挙げて渡江し、癸酉、潤州から転戦して南下した。田頵と安仁義はたびたび敗れて退き、楊行密の城や戍はいずれも風を望んで潰えた。
  • 儒の将・李従立が突然宣州の東渓に至ったとき、行密の守備はまだ固まらず、衆心は危ぶんでいた。行密は夜、将の臺濛(合肥の人)に五百を率いさせて渓の西に屯させ、濛は士卒に何度も声を掛け合わせて往復させた。従立は大軍が続いていると思い、ただちに引き揚げた。
  • 儒の前軍が溧水に至ると、行密は都指揮使の李神福に防がせた。神福は退いて怯えを装い、儒軍が備えを怠ったところを、夜、精兵で襲って千人を捕殺した。
  • 夏四月、行密は将の劉威・朱延寿に三万を率いさせて黄池で孫儒を撃たせたが、威らは大敗した。延寿は舒城の人である。
  • 孫儒は黄池に布陣したが、五月の大水で諸営が水没し、揚州へ帰り、将の康暀に和州、安景思に滁州を守らせた。楊行密が李神福に和州・滁州を攻めさせると、康暀は降り、安景思は逃げた。
  • 秋七月、朱全忠が使者を送って行密と孫儒挟撃を約した。儒は兵の強さを恃んで先に行密を滅ぼしてから全忠に当たろうと考え、藩鎮に牒を回して行密と全忠の罪を数え、「宣州と汴州を平らげたら兵を率いて入朝し君側の悪を除く」と言った。
  • そこで揚州の家屋をすべて焼き、丁壮と婦女を残らず駆り立てて渡江し、老弱を殺して食に充てた。行密の将・張訓と李徳誠が密かに揚州に入って残り火を消し、穀数十万斛を得て飢えた民を賑わした。泗州刺史の張諫が数万斛を貸して軍に供したので、訓は行密の名で贈物をし、諫はこれで行密に恩を感じた。
  • 乙未、孫儒は蘇州から出て広徳に屯した。楊行密が兵を率いて防ぐと、儒はその寨を囲んだ。行密の将・李簡(上蔡の人)が百余人を率いて力戦して寨を破り、行密を助け出した。
  • 冬十二月、孫儒は蘇州・常州を焼き掠め、兵を率いて宣州に迫った。銭鏐はまた兵を送って蘇州を押さえた。儒はたびたび行密の兵を破り、旌旗と輜重は百余里に連なった。行密が銭鏐に救援を求めると、鏐は兵と糧を助けた。

景福元年(892年・孫儒の敗死と淮南平定)

  • 春正月、楊行密は諸将に「孫儒の衆は我らの十倍で、我らはたびたび敗れている。退いて銅官を守ろうと思うがどうか」と言った。
  • 劉威と李神福は「儒は地を掃うようにして遠来しており、速戦が利です。険要に拠って堅壁清野し、その軍を疲れさせ、時おり軽騎を出して糧道を襲い、掠奪品を奪えば、彼は前に戦えず退いて糧もなく、座して擒にできます」と述べた。
  • 戴友規は「儒と我らは数年相持し、勝敗はほぼ互角。今、全軍で死力を尽くしてかかってきているのに、風を望んで城を棄てれば、まさにその計に嵌ります。淮南の士民で公に従って渡江した者や儒の軍から降ってきた者はきわめて多い。公は将を送って先に淮南へ護送して生業に復させるべきです。儒の軍は淮南が安堵していると聞けば、皆が帰心を抱く。人心が揺らげば敗れぬはずがありません」と述べた。行密は喜んで従った。友規は廬州の人である。
  • 二月、孫儒が宣州を包囲した。かつて劉建鋒は儒のために常州を守り、兵を率いて儒に従って行密を撃っていた。甘露鎮使の陳可言が部兵千人で常州を押さえたところ、行密の将・張訓が兵を率いて突然城下に至り、可言があわてて出迎えたところを訓が自ら斬り、常州を取った。行密の別将はさらに潤州も取った。
  • 夏五月、行密はたびたび孫儒の兵を破ってその広徳の営を落とし、張訓が安吉に屯して糧道を断った。儒は食が尽き、士卒に疫病が大流行し、将の劉建鋒・馬殷に兵を分けて諸県を掠めさせた。
  • 六月、行密は儒が瘧を病んでいると聞き、戊寅、兵を放って撃った。折しも大雨で暗くなり、儒軍は大敗した。安仁義が儒の五十余寨を破り、田頵が陣中で儒を捕えて斬り、首を京師に送った。儒の衆の多くは行密に降った。
  • 丁酉、楊行密は衆を率いて揚州へ帰り、秋七月丙辰、広陵に着き、田頵に宣州、安仁義に潤州を守らせるよう上表した。
  • かつて揚州の富裕は天下一で、当時の人は「揚州が一、益州が二」と言った。ところが秦彦・畢師鐸・孫儒・楊行密の兵火を経て、江淮の間は東西千里が掃き清められたように荒廃した。
  • 秋八月、楊行密を淮南節度使・同平章事、田頵を宣州留後、安仁義を潤州刺史とした。
  • 孫儒の降兵には蔡州の人が多かった。行密はそのうち特に勇健な五千人を選び、俸禄を厚くし、黒衣に甲を着せて「黒雲都」と号した。戦のたび先登・陥陣させたので、四方の隣国が恐れた。
  • 行密は財政不足から茶と塩で民の布帛と交換しようとしたが、掌書記の高勗(舒城の人)が「兵火のあとで十室九空です。そのうえ利を漁って苦しめれば、また離叛します。我らにある物を隣道にない物と交換すれば軍を賄うに足ります。賢い守令を選んで農桑を勧め課せば、数年で倉庫は自ずと満ちます」と述べ、行密は従った。田頵はこれを聞いて「賢者の言は、利が遠くまで及ぶものだ」と言った。
  • 行密は騎射も武技も得意ではなかったが、寛大で簡素、智略があり、将士をよく撫し、苦楽を共にし、心を推して人に接して疑わなかった。あるとき早朝に出かけたところ、従者が馬の鞦を切ってその金具を盗んだ。行密は知りながら咎めず、後日また同じように早く出かけた。人はその度量に感服した。
  • 淮南は六年にわたり兵禍を受け、士民はほとんど流亡していた。行密は着任当初、将吏への賜与も帛は数尺、銭は数百に過ぎなかったが、勤倹によって用を足し、公式の宴以外は音楽を用いず、流散した民を招撫し、徭役を軽くし賦斂を薄くしたので、数年たたぬうちに公私ともに富み、ほぼ承平の昔に復した。
  • 冬十一月、廬州刺史の蔡儔が楊行密の父祖の墓を暴き、舒州刺史の倪章と兵を連ね、使者を送って印を朱全忠に届けて救援を求めた。全忠はその反覆を嫌い、印は受け取ったが救わず、しかも牒で行密に知らせた。行密は謝意を伝え、行営都指揮使の李神福に儔を討たせた。

景福二年(893年・廬州・歙州の平定)

  • 夏四月、李神福が廬州を包囲し、甲午、楊行密が自ら廬州へ赴き、田頵も宣州から兵を率いて合流した。
  • 秋七月丁亥、行密は廬州を落として蔡儔を斬った。左右が儔の父母の塚を暴くよう請うと、行密は「儔はそれで罪を得たのだ。私がなぜ真似をする」と言った。
  • 八月丙辰、行密は田頵に宣州の兵二万で歙州を攻めさせた。歙州刺史の裴枢は城を守って長く落ちなかった。当時、刺史となった諸将の多くは貪欲で暴虐だったが、池州団練使の陶雅だけは寛厚で民の心を得ていた。歙州の人が「陶雅を刺史にしてくれるなら命に従う」と言い、行密がただちに雅を歙州刺史とすると、歙州の人は受け入れた。雅は礼を尽くして裴枢に会い、朝廷へ送り返した。枢は裴遵慶の曽孫である。
  • 冬十月、舒州刺史の倪章が城を棄てて逃げ、行密は李神福を舒州刺史とした。

乾寧元年〜二年(894-895年・北へ進出)

  • 元年春三月、黄州刺史の呉討が州を挙げて楊行密に降った。夏五月、武昌節度使の杜洪が黄州を攻め、行密は行営都指揮使の朱延寿らを送って救わせた。冬十二月、呉討は杜洪の圧迫を恐れ、印を納めて交代を請い、行密は先鋒指揮使の瞿章に黄州を代行させた。
  • 二年春二月、行密は朱全忠の罪悪を上表し、易定・兖鄆・河東の兵と会して討つことを請うた。
  • 三月、行密は淮水を舟で下って泗州に至った。防禦使の臺濛が接待の設えを飾り立てたので行密は不快だった。出発後、濛は寝所で継ぎ当てのある衣を見つけ、急ぎ使者を送って返した。行密は笑って「私は若いころ貧賤だった。本を忘れるわけにいかぬ」と言い、濛はひどく恥じた。行密は濠州を攻め落として刺史の張璲を捕えた。
  • 丁亥、行密が寿州を囲んだ。夏四月、落とせずに引き揚げようとしたところ、庚寅、将の朱延寿が「試しにもう一度攻めさせてください」と請い、一鼓のうちに落として刺史の江従勗を捕えた。行密は延寿に寿州団練使を代行させた。
  • まもなく汴の兵数万が寿州を攻めた。州の兵は少なく吏民は恐れた。延寿は軍中を一旗二十五騎に編成し、黒雲隊長の李厚に十旗を率いさせて汴兵を撃たせたが勝てなかった。延寿が斬ろうとすると、厚は「衆寡敵しませんでした。兵を増やして再度行き、勝てねば死にます」と願い、都押牙の柴再用(汝陽の人)も取りなしたので、五旗を加えた。厚は決死の戦いをし、再用も助け、延寿が全軍で乗じて汴兵を敗走させた。厚は蔡州の人である。行密はさらに兵を送って漣水を襲い落とした。
  • 三年夏五月、淮南の将・朱延寿が突然蘄州に至って城を包囲した。大将の賈公鐸はちょうど狩りに出ていて帰れず、林中に兵を伏せ、勇士二人に羊の皮を着せて夜のうちに延寿が掠めた羊の群れに紛れさせ、城内へ潜り込ませ、夜半に門を開いて火を挙げて合図する約束をし、二人は皮を着たまま戻って復命した。公鐸は約束どおり兵を率いて城の南門に至り、火が挙がると力戦して包囲を突いて城内に入った。延寿は驚いて「私は彼が囲みを破って出るのを恐れていたのに、逆に破って入るとは。この城は急には落とせぬ」と言った。
  • そこで行密に、軍中で公鐸と旧交のある者に誓書と金帛を持たせて説得させたいと申し出た。寿州団練副使の柴再用が姻戚関係を許すことを条件に自ら行くと請い、城際で語りかけて利害を説いた。数日で公鐸と刺史の馬敬章が降伏を請い、敬章を左都押牙、公鐸を右監門衛将軍とした。延寿は進んで光州を落とし、刺史の劉存を殺した。

乾寧四年(897年・清口の大勝)

  • 春二月、詔で楊行密を江南諸道行営都統として武昌節度使の杜洪を討たせた。
  • 夏四月、杜洪は行密に攻められて朱全忠に救援を求め、全忠は将の聶金に泗州を掠めさせ、朱友恭に黄州を攻めさせた。行密は右黒雲都指揮使の馬珣らを送って黄州を救わせた。黄州刺史の瞿章は友恭の到来を聞いて城を棄て、衆を率いて南の武昌寨を守った。
  • 五月辛巳、朱友恭が樊港に浮橋を架けて武昌寨に進攻し、壬午に落として瞿章を捕え、そのまま黄州を取り、馬珣らは皆敗走した。
  • 朱全忠は兖州・鄆州を得て兵力がいよいよ盛んになり、秋九月、大挙して楊行密を撃った。龐師古に徐・宿・宋・滑の兵七万を率いさせて清口に塁を築き揚州へ向かわせ、葛従周に兖・鄆・曹・濮の兵で安豊に塁を築き寿州へ向かわせ、全忠自身は宿州に屯した。淮南は震え上がった。
  • 行密は朱瑾と三万の兵で楚州に汴軍を防ぎ、別将の張訓が漣水から兵を率いて合流し、行密はこれを前鋒とした。
  • 龐師古は清口に布陣したが、ある者が「営地が低湿で長く留まれません」と言っても聞かなかった。師古は数を恃んで敵を侮り、常日ごろ碁を打っていた。朱瑾が淮の上流を堰き止めて水攻めにしようとしていると告げる者があると、師古は「衆を惑わす」として斬った。
  • 十一月癸酉、瑾と淮南の将・侯瓉が五千騎で密かに淮を渡り、汴の旗を用いて北から来たように見せかけて中軍へ突入し、張訓は柵を越えて入った。士卒があわてて防戦しているところへ淮水が押し寄せ、汴軍は驚き乱れた。行密が大軍を率いて渡淮し、瑾らと挟撃して汴軍を大破し、師古および将士の首一万余級を斬り、残る衆は皆潰えた。
  • 葛従周は寿州の西北に屯していたが、寿州団練使の朱延寿に破られて濠州へ退き、師古の敗報を聞いて逃げ帰った。行密・瑾・延寿が勝ちに乗じて追い、渒水で追いつくと、従周は半ば渡ったところで淮南の兵に撃たれ、殺害・溺死はほぼ全滅に近かった。従周は逃れ、遏後都指揮使の牛存節は馬を捨てて徒歩で戦い、諸軍はどうにか渡淮できた。四日間食べられず、折しも大雪で汴の兵は道々凍え飢えて死に、帰り着いた者は千人に満たなかった。全忠も敗報を聞いて逃げ帰った。
  • 行密は全忠に書を送って「龐師古や葛従周では相手にならぬ。公自ら淮上へ来て決戦されよ」と言った。
  • 行密は諸将を集め、行軍副使の李承嗣に「はじめ私は先に寿州へ向かおうとしたが、副使は清口へ向かうほうがよいと言った。師古は敗れ従周は自ら逃げた。まさに読みどおりだ」と言い、銭一万緡を賞し、上表して承嗣に鎮海節度使を領させた。行密は承嗣と史儼をきわめて厚遇し、邸宅も姫妾も特に良いものを選んで与えたので、二人は行密のために力を尽くしてたびたび功を立て、ついに淮南で没した。行密はこうして江淮の間を保ち、全忠も争えなくなった。

光化元年〜三年(898-900年)

  • 元年春正月、両浙・江西・武昌・淄青がそれぞれ使者を送って、朱全忠を都統として楊行密を討つよう請うたが、詔で許されなかった。
  • 二年春正月、楊行密と朱瑾が数万の兵で徐州を攻め、呂梁に布陣した。朱全忠は騎将の張帰厚を救援に送り、自らも徐州を救いに向かった。行密はこれを聞いて兵を引いたが、汴の兵が下邳で追いついて千余人を殺した。全忠は輝州まで来たとき淮南の兵がすでに退いていたので帰った。
  • 三年、楊行密に侍中を兼ねさせた。

天復二年(902年・呉王への冊立)

  • 春三月、帝は左金吾将軍の李儼を江淮宣諭使とし、御衣に文字を書いて楊行密に賜り、行密を東面行営都統・中書令・呉王として朱全忠を討たせた。朱瑾を平盧節度使、馮弘鐸を武寧節度使、朱延寿を奉国節度使とし、武安節度使の馬殷に同平章事を加えた。淮南・宣歙・湖南などの道で功を立てた将士には、都統の牒によって制を承けて任じ昇進させ、そののち上表することを許した。儼は張濬の子で、李姓を賜っていた。
  • 武寧節度使の馮弘鐸は宣州と揚州の間に挟まれて常に身を安んじられなかったが、楼船の強さを恃んで両道に仕えなかった。寧国節度使の田頵はこれを図ろうとし、弘鐸の人を募って戦艦を造らせた。工人が「馮公は遠くから望んで木を選ぶので、その船は長持ちします。ここにはそれがありません」と言うと、頵は「構わぬ、作れ。一度使えばよい」と言った。
  • 弘鐸の将・馮暉と顔建が先に頵を撃つよう説き、弘鐸は従って衆を率いて南上し、洪州を攻めると称して実は宣州を襲おうとした。楊行密が人をやって止めたが従わなかった。六月辛巳、頵が舟師を率いて葛山で迎え撃ち、大破した。
  • 弘鐸は残衆を収めて長江を下り海へ出ようとした。行密は後患となることを恐れ、使者を送って軍を犒い、「公の衆はなお盛んだ。なぜ滄海の外に身を棄てるのか。わが府は小さいが公の衆を容れ、将吏にそれぞれ居場所を得させるには足りる。いかがか」と説いた。弘鐸の左右は皆慟哭して命に従った。
  • 弘鐸が東塘に至ると、行密は自ら小舟に乗り、従者十余人、常服で武器も持たずに弘鐸の舟に乗り移って慰めた。全軍が感じ入って喜んだ。弘鐸を淮南節度副使とし、館と給与を厚くした。
  • かつて弘鐸は牙将の尚公廼(丹徒の人)を行密のもとへ送って潤州を求めさせ、行密が許さなかったとき、公廼は「お聞き入れくださらぬなら、楼船に敵わぬのを恐れるだけです」と大言していた。ここで行密が公廼に「潤州を求めたときのことを覚えているか」と言うと、公廼は「将吏はそれぞれ自分の主のために働くもの。ただ成せなかったのが残念です」と詫びた。行密は笑って「そなたが馮公に仕えたように楊爺に仕えてくれるなら心配はいらぬ」と言った。行密は李神福を昇州刺史とした。
  • 楊行密が兵を出して朱全忠を討つにあたり、副使の李承嗣に淮南軍府事を代行させた。軍吏が巨艦で糧を運ぼうとすると、都知兵馬使の徐温は「その水路は長く使われておらず葭や葦で塞がっています。小舟を使えば通りやすいでしょう」と言った。軍が宿州に至ったとき長雨で重い船は進めず、兵に飢えの色が出たが、小舟が先に着いた。行密はこれで温を非凡と見て、初めて軍事を議するようになった。行密は宿州を長く攻めたが落とせず、結局は糧の輸送が続かず引き揚げた。
  • 冬十月、李儼が揚州に至り、楊行密は初めて制敕院を建て、封拝があるたび儼に告げ、紫極宮の玄宗像の前で制書を並べて再拝してから下した。

天復三年(903年・田頵・安仁義・朱延壽の乱)

  • 春正月、楊行密は制を承けて朱瑾に東面諸道行営副都統・同平章事を加え、昇州刺史の李神福を淮南行軍司馬・鄂岳行営招討使、舒州団練使の劉存(泌陽の人)を副として、杜洪を撃たせた。洪の将・駱殷が永興を戍っていたが城を棄てて逃げ、県民の方詔が城を挙げて降った。神福は「永興は大県で輸送の要。すでに鄂州の半ばを得たも同然だ」と言った。
  • 三月、李神福が鄂州を包囲し、城中の荻の山を望んで監軍の尹建峯に「今夕、公のために焼いてやろう」と言った。建峯は信じなかった。当時、杜洪は朱全忠に救援を求めており、神福は部将の秦臯に軽舟で灄口に至らせ、樹上に松明を挙げさせた。洪は救兵が来たと思い、果たして荻を焼いて応じた。
  • 夏四月、杜洪の求めに応じて全忠は将の韓勍に一万を率いさせて灄口に屯させ、使者を送って荊南節度使の成汭、武安節度使の馬殷、武貞節度使の雷彦威に出兵して洪を救わせた。
  • 汭は全忠の強さを畏れ、また淮南の地を侵して版図を広げたいと考え、舟師十万を出して長江を東下した。汭は三年がかりで巨艦を作り、その構造は府署のようで「和州」と名づけ、その他にも「斉山」「截海」「劈浪」の類の船が多数あった。
  • 掌書記の李珽は「今、一艦に甲士千人を載せ、稲米はその倍。急な事態には動かせません。呉の兵は身軽ですばやく、角逐は難しい。武陵も長沙もいずれも我らの仇敵です。背後を顧みずにいられましょうか。驍将を巴陵に屯させ、大軍は対岸で堅く守って戦わずにいれば、一月もせず呉の兵は食が尽きて自ら逃げ、鄂州の囲みは解けます」と諫めたが、汭は聞かなかった。珽は李憕の五世孫である。
  • 五月、汭がまだ鄂州に着かぬうち、馬殷は大将の許徳勳に舟師一万余を、雷彦威は将の欧陽思に舟師三千余を率いさせ、荊江口で合流して手薄になった江陵を襲い、庚戌、これを落として住民と貨財をすべて掠めて去った。汭の将士は家を失ってみな戦意を喪失した。
  • 李神福はその到来を聞き、自ら軽舟で偵察して諸将に「彼の戦艦は多いが互いに連携していない。制しやすい。急ぎ撃つべきだ」と言った。壬子、神福は将の秦裴・楊戎に数千を率いさせて君山で汭を迎え撃って大破し、風に乗じて火を放って艦を焼いた。士卒は潰え、汭は水に飛び込んで死に、戦艦二百艘が奪われた。韓勍もこれを聞いて兵を引いて去った。
  • かつて寧国節度使の田頵は馮弘鐸を破ったのち広陵へ行って楊行密に謝し、あわせて池州・歙州を管内に加えるよう求めたが、行密は許さなかった。行密の側近から獄吏に至るまで頵に賄賂を求めたので、頵は怒って「吏は私が投獄されると思っているのか」と言い、帰るとき広陵の南門を指して「私はもうここへは入れぬ」と言った。
  • 頵は兵が強く財も豊かで攻略を好んだが、行密は淮南を平定してからは境を保ち民を休めようとして、そのたびに抑えた。頵は従わず、さらに銭鏐を釈放した件で特に恨みを深め、密かに叛意を抱いた。
  • 李神福が「頵は必ず反します。早く図るべきです」と言うと、行密は「頵には大功があり、反状はまだ露見していない。今殺せば諸将は皆わが身を危ぶむ」と答えた。
  • 頵には康儒という良将がいたが、頵と議論が合わないことが多かった。行密はこれを知って儒を廬州刺史に抜擢したので、頵は儒が自分に二心を抱いていると見て一族を滅ぼした。儒は「私が死ねば田公の滅亡も間もない」と言った。
  • 頵はついに潤州団練使の安仁義とともに挙兵し、仁義は東塘の戦艦をすべて焼いた。頵は二人の使者を商人に仕立てて寿州へ送り、奉国節度使の朱延寿と結ぼうとしたが、行密の将・尚公廼が出会って「商人ではない」と見破り、一人を殺してその書を得て行密に告げた。
  • 行密は鄂州から李神福を召した。神福は杜洪に阻まれることを恐れ、「命を奉じて荊南を攻める」と言い触らして兵を整え舟を用意し、日暮れに長江を東下し、そこで初めて将士に田頵討伐を告げた。
  • 己丑、安仁義が常州を襲った。常州刺史の李遇は迎え撃ち、仁義を口を極めて罵った。仁義は「あれほど平然と私を辱めるのは必ず備えがあるからだ」と言って引き揚げた。
  • 壬辰、行密は王茂章を潤州行営招討使として仁義を撃たせたが落とせず、徐温に兵を率いて合流させた。温は衣服も旗も茂章の兵と同じにしたので、仁義は気づかず、兵を増やしてまた出戦したところ、温が奮撃して破った。
  • 行密の夫人は朱延寿の姉である。行密が延寿を軽んじからかったので、延寿は怨んで密かに田頵と通じた。頵は前進士の杜荀鶴を寿州へ送って延寿と結び、さらに大梁へ送って朱全忠に告げた。全忠は大喜びして宿州に兵を屯させて応じた。荀鶴は池州の人である。
  • 九月、朱延寿の謀がかなり漏れた。楊行密は目を病んだふりをし、延寿の使者に会うときは受け答えを取り違え、柱にぶつかって倒れてみせ、夫人に「私は不幸にも失明した。子はみな幼い。軍府の事はすべて三舅(延寿)に授けるほかない」と言った。夫人が再三延寿に書き送り、行密も自ら使者を送って召し、密かに徐温に備えさせた。
  • 延寿が広陵に至ると、行密は寝門まで迎え出て捕えて殺した。部兵が騒いだが徐温が諭すと皆命に従った。そのまま延寿の兄弟を斬り、朱夫人を廃した。
  • 延寿が召しに応じて発つとき、妻の王氏は「この行きの吉凶は測れません。毎日一人使者を出して私を安心させてください」と言った。ある日、使者が来なかったので、王氏は「事は知れた」と言い、僕たちに武器を配って門を閉じ、捕吏の騎が来ると家人を集め、宝貨を積み、百の松明を放って屋敷を焼き、「私は潔白なこの身を仇の辱めに任せぬと誓う」と言って火に飛び込んで死んだ。
  • 延寿は軍法が厳しく、寡兵で衆を撃つのを好んだ。かつて二百人を汴の兵と戦わせたとき、残るはずの一人が行きたいと願い出たのを、命に背いたとしてその場で斬った。
  • 田頵が昇州を襲って李神福の妻子を捕えたが、丁重に扱った。神福が鄂州から東下すると、頵は使者を送って「公が機を見るなら地を分けて王となろう。さもなくば妻子は残らぬぞ」と言わせた。神福は「私は一兵卒から呉王に仕え、今は上将だ。義として妻子と志を引き換えにはせぬ。頵は老母を顧みずに叛いた。三綱すら知らぬ者と何を語ろう」と言い、使者を斬って進んだ。士卒は皆奮い立った。
  • 頵は将の王壇・汪建に水軍を率いさせて迎え撃たせた。丁未、神福は吉陽磯で壇・建と遭遇した。壇と建はその子の承鼎を捕えて見せつけたが、神福は左右に射させた。
  • 神福は諸将に「彼は多勢、我は寡兵。奇をもって勝つべきだ」と言い、日暮れの合戦で敗走を装って舟を遡らせた。壇と建が追うと、神福は引き返して流れに乗って撃った。壇・建の楼船は松明を多数並べていたので、神福は「松明を見たら撃て」と軍中に命じた。壇・建の軍が火を消すと旗が入り乱れ、神福は風に乗じて火を放って艦を焼いた。壇と建は大敗し、焼死・溺死する士卒がきわめて多かった。
  • 戊申、また皖口で戦い、壇と建はかろうじて身一つで逃れた。徐綰を捕え、行密は檻車に乗せて銭鏐に送り、鏐はその心臓をえぐって周渭を祭った。
  • 頵は壇・建の敗報を聞いて自ら水軍を率いて迎え撃とうとした。神福は「賊が城を棄ててここへ来るのは天が滅ぼすものだ」と言い、江に臨んで堅く守って戦わず、行密に使者を送って歩兵を出して退路を断つよう請うた。行密は漣水制置使の臺濛に兵を率いさせて応じさせた。王茂章の潤州攻めが長く進まなかったので、行密は茂章に兵を率いて濛と合流して頵を撃たせた。
  • 田頵は臺濛の来襲を聞き、自ら歩騎を率いて迎え撃ち、将の郭行悰に精兵二万と王壇・汪建の水軍を蕪湖に留めて李神福を防がせた。偵察者が「濛の営寨は狭小で二千人しか入らぬ」と言ったので、頵は侮って外の兵を呼び戻さなかった。
  • 濛は頵の境に入ると陣を交代しながら進み、軍中はその臆病を笑ったが、濛は「頵は宿将で謀が多い。備えぬわけにいかぬ」と言った。冬十月戊辰、広徳で頵と遭遇。濛はまず楊行密の書を頵の諸将に一通ずつ配り、皆が下馬して拝受した。濛はその気勢の挫けたところに兵を放って撃ち、頵の兵は敗れた。
  • さらに黄池で戦い、交戦するや濛は偽って逃げ、頵が追ったところで伏兵に遭って大敗し、宣州へ逃げ帰って城を守った。濛は兵を率いて包囲した。頵は急ぎ蕪湖の兵を呼び戻したが入城できず、郭行悰・王壇・汪建および当塗・広徳の諸戍はいずれも衆を率いて降った。行密は臺濛がすでに頵を破ったので、王茂章にあらためて潤州を攻めさせた。
  • 十一月乙亥、田頵は決死の士数百を率いて出戦した。臺濛は退いて弱みを見せ、頵の兵が壕を越えて戦うところを急撃した。頵は勝てずに走って帰る途中、城の橋が落ちて落馬し、斬られた。その衆はなお戦っていたが、頵の首を示すと潰えた。濛はこうして宣州を落とした。
  • はじめ行密と頵は同郷で若いころ親しく、兄弟の約を結んでいた。頵の首が広陵に届くと、行密はこれを見て涙を流し、その母の殷氏を赦し、行密と子らは皆、子孫の礼で仕えた。
  • 行密は李神福を寧国節度使としたが、神福は杜洪が未平であることを理由に固辞して受けなかった。
  • 宣州長史の駱知祥(合肥の人)は財政に長け、観察牙推の沈文昌は文章が精緻で機敏、かつて頵のために行密を罵る檄を草したことがあった。行密は知祥を淮南支計官、文昌を節度牙推とした。文昌は湖州の人である。
  • はじめ頵は戦に負けるたび銭伝瓘を殺そうとしたが、その母と宣州都虞候の郭師従がいつも庇った。師従は合肥の人で、頵の義弟である。頵が敗れると伝瓘は杭州へ帰り、銭鏐は師従を鎮東都虞候とした。

天祐元年(904年)

  • 春三月、淮南行軍司馬の李神福を鄂岳招討使として、再び兵を率いて杜洪を撃たせた。朱全忠は使者を送って鄂岳を放棄して旧交を修めるよう請うたが、行密は「天子が長安に還られたら兵を止めて好誼を修めよう」と答えた。
  • 秋八月、李神福は鄂州を攻めたが落ちず、病を得て広陵へ帰り、楊行密は舒州団練使の劉存を招討使に代えた。神福はまもなく没した。宣州観察使の臺濛が没し、行密は子の渥を宣州観察使とした。

昭宣帝天祐二年(905年・楊行密の死)

  • 潤州団練使の安仁義は勇敢で決断があり士心を得ていたので、淮南の将・王茂章が攻めても一年余り落とせなかった。楊行密は人を送って「そなたの功は忘れていない。身を束ねて帰順すれば行軍副使としよう。ただし兵は掌らせぬ」と伝えたが、仁義は従わなかった。茂章が地道を掘って城に入り、ついに落とした。
  • 仁義は一族を挙げて楼に登り、衆は近づけなかった。それまで攻城の諸将は仁義を見れば罵ったが、李徳誠だけはそうしなかった。仁義は徳誠を呼んで楼に上げ、「そなたは礼を知る。今、これをそなたの功にしてやろう」と言い、愛妾を贈って弓を地に投げた。徳誠は助け降ろし、仁義はその子とともに広陵の市で斬られた。
  • 二月、朱全忠は将の曹延祚に兵を率いさせて杜洪とともに鄂州を守らせたが、庚子、淮南の将・劉存が攻め落とし、洪と延祚および汴の兵千余人を捕えて広陵へ送り、すべて誅した。行密は存を鄂岳観察使とした。
  • 冬十一月庚辰、呉の武忠王・楊行密が没した。将佐はこぞって宣諭使の李儼に請い、制を承けて楊渥を淮南節度使・東南諸道行営都統兼侍中・弘農郡王とした。