通鑑紀事本末南詔の帰属(南詔歸附)
六詔を併せた蒙歸義が雲南王に冊されてから、南詔が唐と吐蕃の間で去就を変え続けた約百年。張䖍陀の非道に憤った閤羅鳳が叛して吐蕃に臣従し、鮮于仲通・李宓の遠征は瀘南と太和城で全滅した。徳宗の代、鄭回の献策と韋皋の粘り強い招諭により異牟尋が吐蕃を裏切って唐に帰属し、南詔の号に復す。文宗の代には杜元頴の失政に乗じた嵯巔が成都を掠め、李徳裕が辺備を整え直した。唐玄宗開元二十六年(738年)から文宗大和五年(831年)までの94年間。
年表(24件)
- 唐玄宗
- 開元二十六年秋九月738年蒙歸義を雲南王に冊し、六詔が南詔のもとに一つとなる
- 天寳七載748年歸義が死んで子の閤羅鳳が嗣ぐ
- 天寳九載・南詔の叛乱750年張䖍陀の非道に憤った閤羅鳳が叛して雲南を陥れる
- 天寳十載・瀘南の大敗751年鮮于仲通が西洱河で大敗し、閤羅鳳は吐蕃に臣従する
- 天寳十一載夏六月752年楊國忠が雲南で吐蕃の救援軍を破ったと奏する
- 天寳十三載夏六月754年李宓の七万が太和城で壊滅し、前後の死者は二十万に及ぶ
- 肅宗至徳元載756年南詔が乱に乗じて越嶲・㑹同軍を陥れ清溪關を占拠する
- 代宗
- 大曆十四年・三道入寇779年吐蕃と南詔の十万が三道から蜀を侵すが李晟らに大破される
- 徳宗
- 貞元三年・鄭回の献策787年鄭回が異牟尋に唐への帰属を説き、韋皋が招諭を始める
- 貞元四年788年韋皋の離間策で雲南と吐蕃が猜疑し合い、雲南は兵を引いて帰る
- 貞元五年789年韋皋が回鶻の例を挙げて異牟尋に決断を促す書を送る
- 貞元七年791年異牟尋は吐蕃への出兵を減らし、韋皋の使者を偽って吐蕃に引き渡す
- 貞元八年792年苴夢衝を斬って雲南への路が通じ、韋皋が共同で吐蕃を撃つ策を送る
- 貞元九年793年異牟尋が生金と丹砂を添えて三道から使者を送り、唐への帰属を請う
- 貞元十年・南詔の唐への帰属794年異牟尋が吐蕃の使者を斬って神川で大破し、南詔の号に復す
- 貞元十一年795年南詔が吐蕃の昆明城を取り、韋皋に雲南安撫使が加わる
- 貞元十五年799年吐蕃五万の来襲を異牟尋と韋皋がそれぞれ防ぐ
- 憲宗
- 元和三年冬十二月808年異牟尋が死んで子の尋閤勸が立つ
- 元和四年809年尋閤勸が死んで子の勸龍晟が立つ
- 元和十一年春二月816年王嵯巔が勸龍晟を弑して弟の勸利を立てる
- 穆宗
- 長慶三年秋七月823年勸利が死に、中国を慕う豐祐が立つ
- 文宗
- 大和三年冬十一月・南詔の成都侵攻829年嵯巔が成都の外郭を陥れ、子女数万を掠めて去る
- 大和四年・李徳裕の辺備830年李徳裕が籌邊樓を作り、兵を残して堡鄣を修めて蜀を安んじる
- 大和五年夏五月831年李徳裕が南詔に掠められた百姓四千人を返させる
唐玄宗開元二十六年秋九月(738年)
- 戊午、南詔の蒙歸義を冊して雲南王とした。
- 歸義の祖先はもと哀牢夷で、姚州の西に住み、東南は交趾に接し、西北は吐蕃に接した。蠻語で王を「詔」という。もとは六詔があり、蒙舍・蒙越・越折・浪穹・様備・越澹と呼ばれ、兵力が均衡して一つにまとまらず、歴代の王朝はこれを利用して勢力を分散させてきた。蒙舍が最も南にあったので南詔と呼ばれた。
- 高宗のとき蒙舍の細奴邏がはじめて入朝した。細奴邏が邏盛を生み、邏盛が盛邏皮を生み、盛邏皮が皮邏閤を生んだ。皮邏閤は次第に強大となり五詔は微弱となった。渳河蠻を破った功があったのを機に、王昱に賄して六詔を一つに併せることを求め、王昱が奏請して朝廷が許し、歸義の名を賜った。
- そこで兵威で群蠻を脅して服させ、従わぬ者は滅ぼし、さらに吐蕃を撃ち破って大和城に移り住んだ。その後、ついに辺境の患いとなった。
天寳七載(748年)
- 雲南王歸義が死去し、子の閤羅鳳が嗣いだ。閤羅鳳はその子の鳳迦異を陽瓜州刺史とした。
天寳九載(750年)・南詔の叛乱
- 楊國忠に取り入った鮮于仲通が劔南節度使に推薦された。仲通は性が偏狭で急で蠻夷の心を失った。
- 旧例では南詔王は常に妻子とともに都督に謁見していた。雲南を通ったとき雲南太守の張䖍陀がその妻子をみな私し、さらに多くを徴求した。南詔王の閤羅鳳が応じないと、張䖍陀は人を遣って罵り辱め、なお密かにその罪を上奏した。
- 閤羅鳳は憤り怨み、この年、兵を発して叛き、雲南を攻め落として張䖍陀を殺し、夷州三十二を奪った。
天寳十載(751年)・瀘南の大敗
- 夏四月壬午、劒南節度使の鮮于仲通が南詔の蠻を討ち、瀘南で大敗した。
- 仲通は兵八万を二道に分けて戎州・嶲州から出し、曲州・靖州に至った。南詔王の閤羅鳳は使者を送って謝罪し、俘掠したものを返し雲南に城を築いて去るとし、さらに「いま吐蕃の大軍が境を圧している。我を許さぬなら吐蕃に帰命し、雲南は唐のものでなくなろう」と言った。
- 仲通は許さずその使者を囚え、軍を進めて西洱河に至り閤羅鳳と戦って大敗し、士卒六万人が死んだ。仲通はかろうじて身一つで免れた。楊國忠はその敗状を覆い隠し、なお戦功として叙した。
- 閤羅鳳は戦死体を集めて京観(築いた屍の山)とし、北面して吐蕃に臣従した。蠻語で弟を「鐘」という。吐蕃は閤羅鳳を「賛普鐘」と呼び、東帝と号して金印を与えた。
- 閤羅鳳は国門に碑を刻み、やむなく唐に叛いたと記し、さらに「我は代々唐に事えてその封賞を受けた。後世もし唐に復帰することがあれば、この碑を指して唐の使者に示し、我が叛が本心でなかったことを知らせよ」と述べた。
- 制して両京および河南・河北の兵を大募して南詔を撃たせた。人々は雲南に瘴癘が多く、戦う前に士卒の八、九割が死ぬと聞いて、誰も応募しようとしなかった。楊國忠は御史を分道させて人を捕らえ、連枷で軍所へ送った。旧制では勲功ある百姓は征役を免れたが、徴兵が多かったので國忠はまず高い勲のある者を取るよう奏した。かくて出征する者は愁い怨み、父母妻子が送るところ、いずれも哭声が野に振るった。
天寳十一載夏六月(752年)
- 甲子、楊國忠が、吐蕃の兵六十万が南詔を救援したが劒南の兵が雲南でこれを撃ち破り、故隰州など三城を克ち、六千三百を捕虜にし、道が遠いので壮健な千余人と降った酋長だけを選んで献じたと奏した。
天寳十三載夏六月(754年)
- 侍御史・劒南留後の李宓が兵七万を率いて南詔を撃った。閤羅鳳はこれを誘って深入りさせ、太和城に至ると壁を閉ざして戦わなかった。李宓は糧が尽き、士卒は瘴疫にかかり飢死する者が七、八割に及んで引き返したが、蠻が追撃して李宓は捕えられ、全軍が壊滅した。
- 楊國忠はその敗を隠して逆に勝報として奏し、さらに中国の兵を発して討たせ、前後の死者はほぼ二十万人に及んだが、あえて言う者はなかった。
- 天子はかつて高力士に「朕は今や老いた。朝事は宰相に付し、辺事は諸将に付した。何を憂えることがあるか」と言った。力士は「臣は雲南でたびたび師を喪ったと聞きます。また辺将が兵を擁して盛んに過ぎます。陛下は何をもってこれを制されますか。ひとたび禍が発すればもう救えぬのではと恐れます。どうして憂いがないと言えますか」と答えた。天子は「卿は言うな。朕がゆっくり考える」と言った。
肅宗至徳元載(756年)
- 南詔は乱に乗じて越嶲・㑹同軍を陥れ、清溪關を占拠し、尋傳・驃國もみなこれに降った。
代宗大曆十四年(779年)・三道入寇
- 秋九月、南詔王の閤羅鳳が死去した。子の鳳迦異は先に死んでいたので、孫の異牟尋が立った。
- 冬十月丁酉朔、吐蕃と南詔が兵十万を合わせ三道から入寇した。一は茂州、一は扶州・文州、一は黎州・雅州から出て、「蜀を取って東府にしたい」と言った。西川節度使の崔寧は京師にいて、留守の諸将は防げず、虜は次々に州県を陥れ、刺史は城を棄てて走り、士民は山谷に逃げ隠れた。
- 天子は憂えて崔寧を鎮に帰そうとしたが、崔寧が辞去したところで楊炎が天子に言った。蜀の地は富饒で、崔寧がこれを占拠して朝廷はその外府を失って十四年になる。崔寧は入朝しても全軍がなお守っており、その後も貢賦が入らないのは蜀がないのと同じである。しかも崔寧はもと諸将と同輩で、乱に因って位を得たので威令が行われない。いま遣わしても功なきを恐れる。もし功があれば義として奪うわけにいかず、蜀の地は敗れても失い、勝っても得られないことになる。どうか熟察を——と。
- 天子が「ではどうする」と問うと、楊炎は答えた。崔寧を留め、朱泚の率いる范陽の戍兵数千人を発して禁兵を混ぜて撃たせれば克てぬ心配はない。それによって蜀の腹中に親兵を入れられ、蜀将は必ず動けなくなる。そのうえで別の帥を授ければ千里の沃壤が再び国のものとなる。小害によって大利を収めるのである——と。天子は「よし」と言い、崔寧を留めた。
- かつて馬璘は涇原都知兵馬使の李晟の功名を忌み、宿衛に入れて右神策都将としていた。天子は禁兵四千人を発して李晟に率いさせ、邠・隴・范陽の兵五千を発して金吾大將軍である安邑の曲環に率いさせ、蜀を救わせた。
- 東川は江油から白垻に向けて出軍し、山南の兵と合わせて吐蕃・南詔を撃って破った。范陽の兵は七盤で追いついてまた破り、ついに維・茂の二州を克った。李晟は大度河の外で追撃してまた破った。吐蕃・南詔は飢寒で崖谷に落ち、死者八、九万人に及んだ。
- 吐蕃は悔いて怒り、誘って来させた者を殺した。異牟尋は懼れて延長十五里の苴咩城を築いて移り住み、吐蕃はこれを日東主に封じた。
徳宗貞元三年(787年)・鄭回の献策
- はじめ雲南王の閤羅鳳が嶲州を陥れたとき、西瀘令の鄭回を捕えた。鄭回は相州の人で経術に通じ、閤羅鳳が愛重した。その子の鳳迦異、孫の異牟尋、曽孫の尋夢湊はみな鄭回に師事し、授業のたびに鄭回は彼らを打つことができた。
- 異牟尋が王となると鄭回を清平官とした。清平官とは蠻の宰相で、六人いたが国事は鄭回が専決し、他の五人は鄭回に対して甚だ卑しく謹み、過ちがあれば鄭回に打たれた。
- 雲南は衆数十万を擁し、吐蕃が入寇するたびに常に雲南を前鋒とした。賦斂は重く頻繁で、さらにその要害の地を奪って城堡を立て、毎年兵を徴して防備を助けさせたので、雲南はこれに苦しんだ。
- 鄭回はこれに乗じて異牟尋にあらためて唐に帰属するよう説き、「中国は礼義を尚び、恵沢があって賦役がない」と言った。異牟尋はそのとおりだと思ったが、自ら通じる路がなく十余年が過ぎた。
- 西川節度使の韋皋が着任して境上の群蠻を招撫すると、異牟尋は密かに人を遣り、諸蠻を通じて内附を求めた。韋皋は、いま吐蕃が和好を棄てて鹽州・夏州で暴れているので、雲南および八国の生羌に帰化の心があるのを機に招き入れ、吐蕃の党を離してその勢いを分けるべしと奏した。天子は韋皋にまず辺将としての書を作って諭し、その意向をひそかに探らせた。
- 閏五月己未、韋皋はさらに東蠻の和義王苴那時に書を送り、様子を探らせて雲南への取り次ぎをさせた。
- 六月、韋皋は雲南がかなり文字を解すると見て、壬辰、自ら書をもって招諭し、速やかに使者を入見させるよう命じた。
貞元四年(788年)
- 夏四月、雲南王の異牟尋は内附したいが自ら使者を送るには至らず、まず配下の東蠻鬼主の驃旁・苴夢衝・苴烏星を入見させた。五月乙卯、麟德殿でこれを宴し、賜与はきわめて厚く、王に封じて印を与えて帰した。
- 冬十月、吐蕃は兵十万を発して西川を侵そうとし、雲南の兵も発した。雲南は内には唐に附いていたが外にはまだ吐蕃に叛く勇気がなく、やはり兵数万を発して瀘北に屯した。
- 韋皋は雲南の計がなお迷っていると知り、書を作って雲南王に送り、吐蕃に叛いて帰化する誠意を述べ、これを銀の函に納めて東蠻から吐蕃へ渡らせた。吐蕃は雲南を疑い始め、兵二万を㑹川に屯して雲南が蜀に向かう路を塞いだ。雲南は怒って兵を引いて帰国し、これによって雲南と吐蕃は大いに猜疑し合い、唐に帰する志はますます固くなった。吐蕃は雲南の助けを失って兵勢がようやく弱まった。
- ただ吐蕃はすでに入寇していたので、兵を分けて四万で兩林の驃旁を攻め、三万で東蠻を攻め、七千で清溪關を侵し、五千で銅山を侵した。韋皋は黎州刺史の韋晉らを遣り東蠻と連兵して防ぎ、清溪關の外で吐蕃を破った。
- 十一月、吐蕃はしばしば人を遣って雲南を誘い脅した。
貞元五年(789年)
- 春二月丁亥、韋皋が異牟尋に書を送った。回鶻がしばしば天子を助けてともに吐蕃を滅ぼしたいと請うている。王が早く計を定めねば、ある日回鶻に先を越され、王の累代の功名は虚しく棄てられる。しかも雲南は長く吐蕃に屈辱を受けてきた。今この時に乗じて大国の勢いに依って怨みを復し恥を雪がねば、後悔しても及ばぬ——と。
- 雲南は吐蕃に二心を抱いてはいたが、まだ公然と絶交する勇気はなかった。冬十二月壬辰、韋皋はあらためて書をもって招諭した。
貞元七年(791年)
- 韋皋は年ごとに書を送って雲南王の異牟尋を招いたが、ついに返報を得なかった。しかし吐蕃がしばしば雲南の兵を徴発しても、雲南が出す兵はますます少なくなった。韋皋は異牟尋の心が唐に附いていると知った。
- 討撃副使の段忠義はもと閤羅鳳の使者であった。六月丙申、韋皋は忠義を雲南に帰し、あわせて書を送って懇ろに諭した。
- 冬十二月、吐蕃は韋皋の使者が雲南にいると知って使を遣って責めた。雲南王の異牟尋は「唐の使者はもと蠻の者で、韋皋がその帰国を許したにすぎず、他意はない」と偽り、これを捕えて吐蕃に送った。吐蕃は雲南の大臣の子を多く取って質としたので、雲南はいっそう怨んだ。
- 勿鄧の酋長苴夢衝が密かに吐蕃に通じ、群蠻を煽り誘って雲南の使者を遮り絶った。韋皋は三部落總管の蘇危に兵を率いさせて琵琶川に至らせた。
貞元八年(792年)
- 春二月壬寅、苴夢衝を捕えてその罪を数え上げて斬り、雲南への路がようやく通じた。
- 冬十一月、吐蕃と雲南は日ごとに猜疑を深め、雲南の兵が境上に至るたびに吐蕃も兵を発して呼応と称しながら実は備えとしていた。
- 辛酉、韋皋はふたたび雲南王に書を送り、ともに吐蕃を襲って雲嶺の外に駆逐し、吐蕃の城堡をことごとく平らげ、雲南とだけ境上に大城を築いて戍を置いて相い保ち、永く一家となりたいと述べた。
貞元九年(793年)
- 夏五月、雲南王の異牟尋は使者を三組に分け、一つは戎州、一つは黔州、一つは安南から出させ、それぞれ生金と丹砂を携えて韋皋のもとへ行かせた。金は堅さを示し、丹砂は赤心を示すものである。韋皋から与えられた書を三分して信としたが、いずれも成都に届いた。
- 異牟尋は上表して吐蕃を棄て唐に帰することを請い、あわせて韋皋に帛書を送り、自ら「唐の故雲南王の孫、吐蕃賛普の義弟、日東王」と称した。韋皋はその使者を長安に送り、あわせて上表して祝賀した。天子は異牟尋に詔書を賜り、韋皋に使を遣って慰撫させた。
- 冬十月甲子、韋皋は節度巡官の崔佐時に詔書を持たせて雲南に赴かせ、あわせて自ら帛書を書いて答えた。
貞元十年(794年)・南詔の唐への帰属
- 春正月、崔佐時が雲南の都、羊苴咩城に至った。吐蕃の使者数百人が先にその国にいたので、異牟尋はなお吐蕃に知られたくないと思い、佐時に牂柯の服を着て入るよう命じた。佐時は「私は大唐の使者だ。どうして小夷の服を着られるか」と拒み、異牟尋はやむなく夜に迎えた。
- 佐時が大いに詔書を宣べると、異牟尋は恐懼して左右を顧み色を失ったが、すでに唐に帰する身であったので、すすり泣き涙を流して俯し伏して詔を受けた。鄭回が密かに佐時に会って教えたので、佐時は事情をすべて把握し、そこで異牟尋に吐蕃の使者を全員斬らせ、吐蕃の立てた号を捨てさせ、その金印を献じさせ、南詔の旧名に復させた。異牟尋はみな従い、なお金の契を刻んで献じた。
- 異牟尋は子の尋夢湊らを率いて佐時と㸃蒼山の神祠で盟った。
- 先に吐蕃は回鶻と北庭を争って大戦し死傷が多く、雲南に一万の兵を徴した。異牟尋は国が小さいと辞して三千人の派遣を請い、吐蕃が少ないと言ったので五千まで増やしてようやく許された。異牟尋は五千人を先行させ、自ら数万人を率いてその後に続き、昼夜兼行で吐蕃を襲撃した。神川で戦って大破し、鐵橋など十六城を取り、その五王を虜にし、その衆十余万を降した。戊戌、使を遣って勝報を献じた。
- 夏六月、雲南王の異牟尋は弟の湊羅棟を遣って地図と土貢、および吐蕃から与えられていた金印を献じ、南詔の号に復することを請うた。癸丑、祠部郎中の袁滋を冊南詔使とし、銀窠の金印を賜った。印文は「貞元冊南詔印」であった。
- 袁滋がその国に至ると、異牟尋は北面して跪いて冊と印を受け、稽首再拝した。使者と宴し、玄宗の賜った銀平脱の馬頭盤二つを出して滋に示し、また老いた笛工と歌女を指して「皇帝の賜った龜兹楽の者は、この二人だけが残っています」と言った。滋は「南詔は祖考を深く思い、子々孫々唐に忠を尽くすべきです」と言い、異牟尋は拝して「謹んで使者の命を承らぬわけがありません」と答えた。
貞元十一年(795年)
- 秋九月丁巳、韋皋に雲南安撫使を加えた。
- 南詔が吐蕃の昆明城を攻めて取り、さらに施・順の二蠻王を虜にした。
貞元十五年(799年)
- 夏四月、南詔の異牟尋が使を送って韋皋とともに吐蕃を撃つ約を結ぼうとしたが、韋皋は兵糧が未集であるとして他年を待つよう請うた。
- 冬十二月、吐蕃の衆五万が分かれて南詔と嶲州を撃った。異牟尋と韋皋はそれぞれ兵を発して防ぎ、吐蕃は功なく還った。
憲宗元和三年冬十二月(808年)
- 南詔の異牟尋が死去し、子の尋閤勸が立った。
元和四年(809年)
- 雲南王の尋閤勸が死去し、子の勸龍晟が立った。
元和十一年春二月(816年)
- 南詔の勸龍晟は淫虐無道で上下から怨まれ憎まれたので、弄棟節度の王嵯巔がこれを弑し、その弟の勸利を立てた。勸利は嵯巔に感謝して蒙氏の姓を賜り、「大容」と呼んだ。容とは蠻語で兄の意である。
穆宗長慶三年秋七月(823年)
- 南詔の勸利が死去し、国人がその弟の豐祐を立てることを請うた。豐祐は勇敢で衆をよく用い、はじめて中国を慕い、父と名を連ねなかった。
文宗大和三年冬十一月(829年)・南詔の成都侵攻
- 丙申、西川節度使の杜元頴が南詔の入寇を奏した。元頴は元宰相で文雅を自負し軍事を解さず、もっぱら蓄積に努めて士卒の衣糧を減削した。西南の辺戍の兵は衣食が足らず、みな蠻境に入って掠め盗んで自給し、蠻人は逆に衣食を与えて助けたので、蜀中の虚実動静は蠻にすべて知られていた。
- 南詔では嵯巔が大挙入寇を謀り、辺州はしばしば元頴に報じたが信じなかった。嵯巔の兵が辺城に至ると防備は一切なく、蠻は蜀の兵を郷導として嶲・戎の二州を襲って陥れた。甲辰、元頴は兵を送って卭州の南で戦わせたが蜀兵は大敗し、蠻は卭州を陥れた。
- 詔して東川・興元・荊南の兵を発して西川を救わせ、十二月丁未朔、さらに鄂岳・襄鄧・陳許などの兵を続けて発した。
- 已酉、東川節度使の郭釗を西川節度使とし、あわせて東川節度の事も権行させた。嵯巔は卭州から兵を引いて直ちに成都に至り、庚戌、その外郭を陥れた。杜元頴は衆を率いて牙城に籠って拒んだが、逃げ去ろうとしたことが四度に及んだ。壬子、元頴を邵州刺史に貶した。
- 己未、右領軍大將軍の董重質を神策諸道西川行營節度使とし、さらに太原・鳳翔の兵を西川に赴かせた。
- 南詔は東川を侵して梓州の西郭に入った。郭釗は兵が寡弱で戦えず、書をもって嵯巔を責めた。嵯巔は返書して「杜元頴が我らを侵擾したから兵を興して報いただけだ」と言い、郭釗と修好して退いた。
- 蠻は成都の西郭に十日留まった。当初は蜀人を慰撫して市も安穏であったが、去るに際して子女や百工数万人と珍貨を大掠して去った。蜀人は恐れて往々に江に身を投げ、屍が江を塞いで流れ下った。
- 嵯巔は自ら軍の殿となり、大度水に及んで蜀人に「この南は我が境だ。故郷に別れを告げて哭くのを許す」と言った。衆はみな慟哭し、水に入って死んだ者は千を数えた。これ以後、南詔の工巧は蜀中に肩を並べるようになった。
- 嵯巔は使を遣って上表し、「蠻はこのところ職貢を修めており、どうして辺を犯そうか。ただ杜元頴が軍士を恤まなかったため、怨み苦しんだ元頴の兵が競って郷導となり、我にこの行を祈って虐帥を誅させたのだ。誅して遂げねば蜀の士の心を慰めるものがない。願わくは陛下がこれを誅されよ」と称した。丁卯、元頴をさらに循州司馬に貶した。
- 詔して董重質および諸道の兵をみな引き還させた。郭釗は成都に至り、南詔と互いに侵擾しない約を立てた。詔して中使を遣り、国信を嵯巔に賜った。
大和四年(830年)・李徳裕の辺備
- 秋九月、西川節度使の郭釗が病により交代を求めた。冬十月戊申、義成節度使の李徳裕を西川節度使とした。
- 蜀は南詔の入寇以来一帯が荒れ果て、郭釗は多病で修復に手が回らなかった。徳裕は着任すると籌邊樓を作り、蜀の地形を図に描いて南は南詔に入り西は吐蕃に達するまでを示した。日々、軍旅に老いて辺事に習熟した者を召し、走卒や蠻夷でも隔てなく、山川・城邑・道路の険易・広狭・遠近を訪ねた。一月も経たぬうちに、すべて自ら歩いたかのようになった。
- 天子は徳裕に清溪關を修塞して南詔の入寇の路を断つよう命じ、土がなければ石で塁を築けと言った。徳裕は上言した。蠻に通じる細路はきわめて多く塞ぎきれない。ただ重兵を鎮守させれば無事を保てる。黎州・雅州以来の地に一万人、成都に二万人を得て精しく訓練すれば蠻は動けなくなる。ただし辺兵は多すぎてもよくなく、力で制御できる範囲でなければならない。崔旰が郭英乂を殺し、張朏が張延賞を追ったのは、いずれも鎮兵によるものだ——と。
- 当時、北方の兵はみな本道に帰り、河中と陳許の三千人だけが成都にいたが、翌年三月に帰す詔があったので蜀人は恐れた。徳裕は鄭滑の五百人、陳許の千人を残して蜀を鎮めることを乞い、あわせてこう言った。
- 蜀の兵は脆弱で、新たに蠻の侵寇に苦しめられ、みな肝を潰して征戍に堪えない。北方の兵がすべて帰れば杜元頴の時と変わらず、蜀は保てない。議者は蜀が蠻寇以来すでに増兵したと言うかもしれないが、かつて蠻寇が迫ってから元頴がはじめて市人を捕えて兵とし三千余人を得たものの、数だけで実は使えない。郭釗が募った北方の兵はわずか百余人、臣が召募して得たのが二百余人で、それ以外はみな元頴の旧兵である。
- また議者は「一夫関に当たる」の説を聞いて清溪を塞げると思うかもしれない。だが蜀中の老将に尋ねると、清溪の傍らの大路は三本あり、そのほか小径は無数で、いずれも東蠻が臨時に開通させるものだという。塞げると言うのは朝廷を欺くことになる。ぜひ大度水の北にもう一城を築き、迤邐と黎州に接して大兵で守らせて初めて可能である。
- しかも南詔は掠めた蜀人二千と金帛を吐蕃に賄したと聞く。二虜に蜀の虚実を知られ連兵して入寇されればまことに深く憂うべきである。朝臣で建言する者は、禍が自身に及ばないからそう言うのだ。願わくは各人に一状を責めて堂案に留めておかれよ。後日、事が敗れたとき臣ひとりに国憲を負わせぬためである——と。
- 朝廷はその請いをすべて聞き入れた。徳裕は士卒を練り、堡鄣を修繕し、糧を蓄えて辺を備え、蜀人はおおむね安んじた。
大和五年夏五月(831年)
- 丙辰、西川節度使の李徳裕が、使を南詔に遣って掠められた百姓の返還を求め、四千人を得て還ったと奏した。