通鑑紀事本末河朔の再叛(河朔再叛)
憲宗が平定した河朔が穆宗の代に再び朝廷の手を離れる経緯。父の劉濟を毒殺した劉總が悔恨から出家して幽州を献じたが、後任の張弘靖の驕りと韋雍らの侮辱が兵乱を招き、朱克融が擁立される。成徳では王庭湊が田弘正を殺して自立し、田布は魏博の軍に見放されて自刃、史憲誠が代わった。十五万の兵と裴度・烏重胤・李光顔をもってしても功なく、朝廷は朱克融・王庭湊に節鉞を授け、以後、李同捷の乱や幽州の相次ぐ兵乱が続く。唐憲宗元和五年(810年)から文宗太和九年(835年)までの26年間。
年表(29件)
- 唐憲宗
- 元和五年810年劉總が父の劉濟を毒殺し兄の劉緄を殺して幽州を握る
- 元和十三年夏四月818年譚忠の説得を受けて劉總が朝廷帰順を志す
- 穆宗
- 長慶元年春正月821年劉總が父兄殺しの恐怖から出家と将士への賜銭を願い出る
- 長慶元年三月〜劉總の出家821年張弘靖が盧龍節度使となり、劉總は剃髪して去り定州で死ぬ
- 三道分割案と燕人の不満821年三道分割案は容れられず、朱克融らは京師で放置されて憤る
- 張弘靖の失政821年張弘靖の驕りと韋雍らの侮辱・賜銭の削減が軍中の怨みを積む
- 長慶元年秋七月・幽州の兵乱821年幽州の軍士が乱を起こして張弘靖を幽閉し、朱克融を推す
- 幽州処置と成徳の変821年王庭湊が田弘正ら三百余人を殺して成徳留後を自称する
- 田布の起用と諸道の動員821年田布が魏博節度使に起復され、諸道が成徳の境へ兵を出す
- 長慶元年冬十月821年裴度が鎮州四面行營都招討使として自ら王庭湊を討つ
- 裴度の弾劾上表821年裴度が元稹・魏弘簡の妨害を弾劾し、二人が職を移される
- 深州救援の失敗821年杜叔良が愽野で大敗し、朝廷は朱克融を赦して平盧節度使とする
- 長慶二年春正月822年幽州の兵が計略で弓髙を陥れ、糧道が断たれる
- 補給の崩壊と田布の死822年田布の軍が潰えて史憲誠に走り、田布は自刃、史憲誠が魏博を継ぐ
- 王庭湊の承認と韓愈の宣慰822年朝廷は王庭湊を成徳節度使とし、韓愈を宣慰使として遣わす
- 長慶二年三月・韓愈の鎮州入り822年韓愈が鎮州で王庭湊を諭し、牛元翼が深州の囲みを脱する
- 裴度の去就と于方の獄822年于方の暗殺疑獄で裴度と元稹がともに罷相される
- 長慶三年823年李逢吉に排されて裴度が山南西道節度使として外に出される
- 長慶四年824年王庭湊が牛元翼の家族を皆殺しにし、韋處厚の上疏で裴度に同平章事が加わる
- 敬宗
- 寳曆二年春〜三月826年朱克融が幽州の兵乱で殺され、李載義が留後となる
- 文宗
- 太和元年827年李同捷が滄景に拠って詔を受けず、諸道に討伐が命じられる
- 太和二年828年王庭湊の官爵を削って四面から討たせ、王智興が棣州を抜く
- 太和三年春〜夏829年李同捷が降を請うたが柏耆に斬られ、滄景が平定される
- 太和三年六月〜八月・魏博の変829年魏州の兵乱で史憲誠が殺され、何進滔が魏博節度使となる
- 太和四年830年裴度が病を理由に機務を辞し、平章軍國重事となる
- 太和五年春正月〜二月831年楊志誠の乱で李載義が逐われ、朝廷は志誠を盧龍留後と認める
- 太和七年833年楊志誠が僕射を得られぬことを怒り、官告使らを留める
- 太和八年834年幽州の兵乱で楊志誠が逐われ、流されて殺される
- 太和九年835年王元逵を成徳節度使、史元忠を盧龍節度使とする
唐憲宗元和五年(810年)
- 劉濟が王承宗討伐に出た際、長子の劉緄を副大使として幽州の留守政務を任せ、自身は瀛州に軍を進めた。次子の劉總は瀛州刺史で、行營都知兵馬使として饒陽に駐屯していた。
- 劉濟が病むと、劉總は判官の張玘・孔目官の成國寳と謀り、長安から来たと称する偽の使者を次々に送りこんだ。「朝廷は相公の無功を責め、すでに副大使を節度使に任じた」「旌節はもう太原に着いた」「代州を過ぎた」と告げさせ、全軍を動揺させた。
- 激怒した劉濟は劉緄と親しい大将数十人を殺し、劉緄を行營に呼びつけ、張玘の兄の張臯に留守政務を代行させた。朝から日暮れまで食を絶ち、渇いて飲み物を求めたところへ劉總が毒を入れて差し出した。乙卯、劉濟は死去。
- 涿州まで来ていた劉緄は、父の命と偽った劉總の指示で杖殺され、劉總が軍務を掌握した。
元和十三年夏四月(818年)
- 幽州の大将譚忠が劉總を説いた。元和以来、劉闢・李錡・田季安・盧從史・吳元濟らは険阻を頼んで根を張ったつもりでいたが、瞬く間に身を滅ぼし家を潰した。これは人力ではなく天罰である。いま天子は身を苦しめ衣食を節して兵を養い、その志を片時も忘れていない。官軍は北へ進み、趙(成徳)はすでに十二城を献じた——と。
- 劉總は涙を流して拝し、心が定まったと言って、以後もっぱら朝廷帰順を志した。
穆宗長慶元年(821年)春正月
- 盧龍節度使の劉總は父兄を殺した負い目から常に自らを疑い、しばしば父兄の亡霊を見た。府舎に僧数百を養って昼夜仏事を行わせ、政務を退けばその中に身を置き、別室にいると恐れて眠れなかった。晩年ますます恐怖が強まり、また河南・河北がみな朝廷に従うのを見て、己卯、官を捨てて僧になることと、将士への褒賞用に銭百万緡を賜ることを願い出た。
長慶元年三月〜劉總の出家(821年)
- 癸丑、劉總に兼侍中・天平節度使を与え、宣武節度使の張弘靖を盧龍節度使とした。乙卯、權知京兆尹の盧士玟を瀛莫觀察使とした。丁巳、詔して劉總の兄弟・子姪すべてに官を与え、大将・僚佐も抜擢し、百姓は一年の復除、軍士には銭百万緡を賜った。
- 劉總は重ねて出家を願い、私邸を仏寺にすることを求めた。詔により本人に大覺寺の名と報恩の寺号を賜り、中使が紫の僧衣と天平の節鉞・侍中の告身をあわせて届け、好きな方を選ばせようとした。だが詔の到着前に劉總はすでに剃髪していた。
- 将士が引き留めようとすると、劉總は音頭を取った十数人を殺し、夜のうちに印と節を留後の張玘に渡して姿を消した。翌朝軍中がようやく気づき、張玘は行方不明と上奏した。癸亥、定州の境で死去。
三道分割案と燕人の不満(821年)
- もともと劉總は管内を三道に分け、幽・涿・營を張弘靖に、平・薊・媯・澶を平盧節度使の薛平に、瀛・莫を盧士玟に、と奏請していた。張弘靖は河東で寛簡さによって人心を得ており、劉總は隣境でその評判を聞き、燕人が長年荒々しいので彼を後任に挙げて安定させようとした。薛平は薛嵩の子で河朔の風俗に通じ国に誠を尽くす人物、盧士玫は劉總の妻の親族であった。
- 劉總はさらに配下の功ある勇猛で扱いにくい宿将、都知兵馬使の朱克融らを京師へ送り、抜擢を乞うて燕人に朝廷の禄位を慕う気持ちを起こさせようとし、軍馬一万五千匹を献じたうえで剃髪して去った。朱克融は朱滔の孫である。
- ときに天子は宴楽に耽って天下の政務に関心を持たず、崔植・杜元頴も遠慮なく安危の大体を知らず、ただ張弘靖を重んじようとして、瀛・莫二州だけを盧士玫に領させ、残りをすべて張弘靖の統下に置いた。
- 朱克融らは長く京師に留められ衣食を乞う有様となり、日々中書へ官を求めたが崔植・杜元頴は取り合わなかった。張弘靖が幽州に任じられると彼らを本軍に帰して使役させたため、みな憤った。
張弘靖の失政(821年)
- 従来の河北の節度使は寒暑を将士とともに耐え、労苦を分け合っていた。張弘靖は着任すると悠然と驕り、万人の中を輿で行き、燕人は驚き怪しんだ。もったいぶって自らを高くし、十日に一度出て決裁するだけで、賓客・将吏はその言葉を聞くことも稀、政務の多くを幕僚に委ねた。
- 登用された判官の韋雍らは年少軽薄で豪奢を好み、出入りの先払いが派手で、夜の帰りには街に燭火が満ちた。いずれも燕人には馴染まぬ風であった。
- 詔で将士に賜わった銭百万緡のうち、張弘靖は二十万緡を軍府の雑費に留めた。韋雍らは軍士の糧・賜与を削り、法で縛り、しばしば「反虜」と罵り、「今は天下太平だ。二石の弓を引けても、一つの丁の字を知るには及ばぬ」と言った。軍中の怨みが積もった。
長慶元年秋七月・幽州の兵乱(821年)
- 甲辰、韋雍が外出中、小将が馬を進めて先導の前を横切った。韋雍は引き下ろして街中で杖打ちにしようとしたが、河朔の軍士は杖刑に慣れず服さなかった。韋雍が張弘靖に告げ、張弘靖は軍虞候に拘禁・処断させた。
- その夕、軍士が営を連ねて騒ぎ乱を起こし、将校も抑えられなかった。府舎に乱入して張弘靖の財貨と婦女を奪い、張弘靖を薊門館に幽閉、幕僚の韋雍・張宗元・崔仲卿・鄭塤、都虞候の劉操、押牙の張抱元を殺した。
- 翌日、軍士は次々に後悔して館に詣り謝罪し、心を改めて仕えたいと三度請うたが張弘靖は答えなかった。軍士は「相公が黙るのは我らを赦さぬということだ。軍に一日も帥がなくてよいはずがない」と語り合い、旧将の朱洄を迎えて留後に奉じた。朱洄は朱克融の父で、病で退いていたため老病を理由に辞し、子の朱克融を推した。衆はこれに従った。
- 判官の張徹は長者として殺されずにいたが、「よくも叛いたな、いずれ一族滅ぼされるぞ」と罵ったため、みなで殺した。
幽州処置と成徳の変(821年)
- 甲寅、幽州監軍が兵乱を上奏。丁巳、張弘靖を賔客分司に貶し、己未さらに吉州刺史に貶した。庚申、昭義節度使の劉悟を盧龍節度使としたが、劉悟は朱克融の勢いが強いのでまず節鉞を授けて後に図るべきと奏し、劉悟は昭義に戻された。
- 田弘正は詔を受けて成徳に鎮したが、長年鎮人と戦い父兄の仇があったため、魏兵二千を連れて赴任し、護衛として留め、度支にその糧の供給を願った。度支を判した户部侍郎の崔倰は剛褊で遠慮がなく、魏と鎮それぞれに兵があると考え前例を開くのを恐れて拒んだ。田弘正は四度上表したが返答なく、やむなく魏兵を帰した。崔倰は崔沔の孫である。
- 田弘正は身内に厚く、両都にいる兄弟子姪数十人が奢侈を競い、日々二十万ほどを費やした。田弘正は魏・鎮の財貨を運んでこれを支え、輸送の車が道に連なったため、河北の将士は不平を抱いた。詔で成徳軍に銭百万緡を賜ったが度支の輸送が遅れ、軍士の不満はさらに増した。
- 都知兵馬使の王庭湊は回鶻の阿布思の一族の出で、果敢凶悍・陰険で、僭上の企てを抱いて細事をあげつらい軍を怒らせていたが、魏兵がいる間は動かなかった。魏兵が去ると壬戌、牙兵を結んで府署で騒ぎ、田弘正と僚佐・元從の将吏および家族三百余人を殺した。自ら留後と称し、監軍の宋惟澄に節鉞を求める上奏を強いた。
- 八月癸巳、宋惟澄の報が届き朝廷は震駭した。崔倰は崔植の再從兄であったため、当時その罪を口にする者はいなかった。
- 先に朝廷が魏・鎮の帥臣を入れ替えたとき、左金吾將軍の楊元卿は不都合だと上言し、宰相を訪ねて利害を詳述していた。鎮州の乱後、天子は楊元卿に白玉帯を賜り、辛未、涇原節度使とした。
- 瀛・莫の将士は家族の多くが幽州にいた。壬申、莫州都虞候の張良佐が朱克融の兵を密かに城内へ引き入れ、刺史の吳暉は行方不明となった。癸酉、王庭湊は人を遣って冀州刺史の王進岌を殺し、兵を分けてその州を占拠した。
田布の起用と諸道の動員(821年)
- 魏博節度使の李愬は田弘正の死を聞いて素服し、将士に告げた。魏が聖化に通じ今日の安寧富楽を得たのは田公の力である。いま鎮人は無道にもこれを害し、魏を人なしと侮った。諸君は田公の恩を受けた身、どう報いるかと。衆はみな慟哭した。
- 深州刺史の牛元翼は成徳の良将であった。李愬は宝剣と玉帯を贈り、「昔わが先人はこの剣で大勲を立て、私もこれで蔡州を平らげた。いま公に授ける。力を尽くして王庭湊を除け」と言った。牛元翼は剣と帯を軍中に示し、死力を尽くすと答えた。李愬は出兵しようとしたが発病して果たせなかった。牛元翼は趙州の人である。
- 乙亥、喪に服していた前涇原節度使の田布を起復して魏博節度使とし、駅を乗り継いで赴任させた。田布は固辞したが許されず、妻子・賓客に「私は還らない」と別れを告げた。旌節と導從をすべて退けて進み、魏州の三十里手前で髪を解き裸足になって号哭しつつ入城、堊室に居した。月俸千緡を一切受け取らず、旧産を売って得た十余万緡をすべて士卒に配り、老いた旧将には兄事した。
- 丙子、瀛州で兵乱が起き、觀察使の盧士玟と監軍・僚佐を捕えて幽州へ送り客館に幽閉した。王庭湊は将の王立に深州を攻めさせたが取れなかった。
- 丁丑、詔して魏博・横海・昭義・河東・義武の諸軍がそれぞれ兵を出して成徳の境に臨み、王庭湊が迷いを改めねば進討せよとした。
- 成徳の大将王儉ら五人が王庭湊暗殺を謀ったが漏れ、部下の兵三千人ともども皆殺された。
- 己卯、深州刺史の牛元翼を深冀節度使とした。丁亥、殿中侍御史の温造を起居舎人・鎮州四面諸軍宣慰使とし、澤潞・河東・魏博・横海・深冀・易定などの各道を巡って軍期を伝えさせた。温造は温大雅の五世の孫である。己丑、裴度を幽鎮兩道招撫使とした。癸巳、王庭湊は幽州の兵を率いて深州を包囲した。
- 九月壬子、朱克融が易州の淶水・遂城・滿城を焼き掠めた。
長慶元年冬十月(821年)
- 裴度を鎮州四面行營都招討使とした。左領軍大將軍の杜叔良は権勢ある側近に取り入って昇進した人物で、幽・鎮の勢いが盛んで諸道の兵が進めない中、功を急ぐ天子に宦官が推薦し、深州諸道行營節度使とした。牛元翼を成徳節度使とした。
- 丁丑、裴度が自ら兵を率い承天軍の故關を出て王庭湊を討った。
- 朱克融が蔚州を侵し、戊寅、王庭湊が貝州を侵した。己夘、易州刺史の栁公濟が白石嶺で幽州兵を破り千余人を殺した。庚辰、横海節度使の烏重胤が饒陽で成徳軍を破ったと奏した。辛巳、魏博節度使の田布が全軍三万で王庭湊を討ち、南宮の南に屯して二柵を抜いた。
裴度の弾劾上表(821年)
- 翰林學士の元稹は知樞密の魏弘簡と深く結んで宰相の座を狙い、天子の寵を得て事ごとに諮問された。元稹は裴度に恨みはなかったが、先達で重望ある裴度がさらに功を立てて大用され自分の進路を妨げるのを恐れ、裴度の奏する軍事計画を魏弘簡とともに内側から潰した。
- 裴度は極言して上表した。逆賊の乱は山東を震わせるが、姦臣の結党は国政を撓め敗る。幽・鎮を掃討したいならまず朝廷を清めるべきだ。憂患には大小があり、議事には先後がある。河朔の逆賊は山東を乱すだけだが、禁闈の姦臣は必ず天下を乱す。小さい方は臣と諸将で必ず除けるが、大きい方は陛下の覚悟と決断なくしては駆除できない。
- いま文武百官・内外万品、心ある者はみな憤り口ある者はみな嘆いているが、彼らへの奨用が深いため触れるのを避け、事が成らぬうちに禍が及ぶのを恐れて、国のためを図らず身のためを図っている。挙兵以来の上奏はいずれも要切であったが、下される詔書は食い違いが多く、委任の意は軽くないのに姦臣に抑え損なわれることが少なくない。
- 自分は佞倖に讐怨などない。ただ駅伝で参内し面と向かって軍事を陳べたいと請ったことを姦臣が最も恐れ、悪事の暴露を恐れて百計を用いて止めた。また諸軍と斉しく進んで臨機に討つと言えば、成功を恐れて阻み、日時を引き延ばし、進退を羈牽し、意見をことごとく塞いだ。ただ自分を失脚させたいだけで、天下の治乱も山東の勝敗も顧みていない。臣が君に事えてここに至るとは。
- 朝中の姦臣がことごとく去れば河朔の逆賊は討たずとも自ら平らぐ。朝中に姦臣が残れば逆賊を平らげても益はない。信じられぬなら臣の表を出して百官に集議させよ。彼らが責を受けぬなら自分が罪に伏す——と。
- 表を三度上げ、天子は不快であったが裴度が大臣であるためやむなく、癸未、魏弘簡を弓箭庫使、元稹を工部侍郎とした。元稹は翰林を解かれたが恩遇は変わらなかった。
深州救援の失敗(821年)
- 横海節度使の烏重胤が全軍を率いて深州を救援し、諸軍は烏重胤を頼んで彼一人が幽・鎮の東南に当たった。宿将の烏重胤は賊をまだ破れぬと見て、兵を按じて隙を待った。天子は怒り、丙戌、杜叔良を横海節度使、烏重胤を山南西道節度使に移した。
- 十一月辛酉、淄青節度使の薛平が突將馬廷崟の乱と誅伏を奏した。幽・鎮の兵が棣州を攻めたとき薛平は大将李叔佐に救援させたが、刺史の王稷の給糧が薄く軍士が怨んで夜に潰散し、馬廷崟を主に推した。進みながら兵を集めて七千余人となり青州に迫った。城中の兵は少なく敵し得ず、薛平は府庫と家財をすべて出して精兵二千を募り、迎え撃って大破、馬廷崟を斬り、その党数千人が死んだ。
- 横海節度使の杜叔良は諸道の兵を率いて鎮人と戦ったが、敵に遭えばすぐ逃げた。鎮人はその無勇を知って常に先に彼を攻めた。十二月庚午、監軍の謝良通が、杜叔良が愽野で大敗し七千余を失い、単身で営に戻り旌節まで喪ったと奏した。
- 丁丑、義武節度使の陳楚が望都・北平で朱克融の兵を破り一万余を斬獲したと奏した。戊寅、鳳翔節度使の李光顔を忠武節度使・兼深州行營節度使とし、杜叔良に代えた。
- 憲宗の四方征伐以来国用はすでに虚しく、天子は即位後、側近や宿衛諸軍への賞賜に節度がなかった。幽・鎮の用兵が長く無功で府蔵が空になり支えきれなくなると、執政は、王庭湊は田弘正を殺したが朱克融は張弘靖を生かしたので罪に軽重がある、朱克融を赦して王庭湊だけを討つべしと議した。天子はこれに従い、乙酉、朱克融を平盧節度使とした。戊子、義武が莫州の清源など三柵を破り千余を斬獲したと奏した。
長慶二年春正月(822年)
- 丁酉、幽州の兵が弓髙を陥れた。かつて弓髙の守備は厳しく、中使が夜に来ても守将は入れず夜明けを待たせたことがあり、中使は大いに罵り怒った。賊の間者がこれを知り、後日、人を中使に偽らせて夜に城下へ寄らせたところ、守将は急いで入れ、賊衆がこれに続いて弓髙は陥落した。さらに下博を囲んだ。
白居易の上言
- 中書舎人の白居易が上言した。幽・鎮が命に背いてから朝廷は諸道の兵十七八万を徴して四面から半年余り囲んだが、王師に功なく賊勢はなお盛んである。弓髙が陥ちて糧道が通じず、下博・深州の飢窮は日々急である。原因は節将が多すぎて心が一つでなく、誰も率先せず互いに顧望していることだ。また朝廷の賞罰が近ごろ行われず、未功の者が官を拝し、敗れた者が罪に問われない。懲勧がないから遷延に至る。改めねば望みはない。
- 具体策として、李光顔に諸道の勁兵三、四万を率いて東から速やかに進ませ、弓髙の糧路を開き下博の諸軍と合して深州の重囲を解き、牛元翼と合勢させる。裴度には太原の全軍を率いさせ招討の旧職を兼ねて西面から境を圧させ、隙を見て動かす。虚に乗ずる便があれば力を合わせて剪除し、戦勝して賊が窮すれば降伏も受け入れる。挟撃で力を分け、招諭で心を動かせば、誅滅に及ぶ前に自ら変事が生じよう。
- また李光顔に諸道の兵の精鋭を選んで留め、使えぬ者はみな本道に帰して自国の土疆を守らせよ。兵が多くて精でなければ資糧を虚費するばかりでなく、軍陣を撓乱する恐れがある。東西二帥だけを留めるなら各々に都監一人を置き、諸道の監軍は一斉に廃せ。そうすれば衆が斉い令が一つになって必ず成功する。
- また朝廷はもともと田布を用いて父の讐に報いさせたのに、いま全軍を率いて境を出、度支の供給を受けながら数か月まったく進討していない。これは田布の望みではなく理由がある。魏博の一軍は重ねて優賞を受けて兵は驕り将は富み、誰も用いられようとしない。しかもその軍の一か月の費は実銭で二十八万緡近い。さらに遷延すればどう供給するのか。これはとりわけ早く退軍させるべきである。両道あわせて六万だけを留めれば費用は少なく、支えやすく自然に足りる。
- 今は事態が日々急で、その間の変事は遠くまで見通せない。兵数を減らさず軍費を削らねば食が足らず、衆はどうして安んじよう。安んじぬ中では何が起きても不思議はない。有司は軍への供給に迫られて百方で歛率するが、許さねば用度が欠け、すべて許せば人心が絶望する。古来、安危はみなここに繋がっている。どうか聖慮をもって察していただきたい——と。上奏は顧みられなかった。
補給の崩壊と田布の死(822年)
- 己亥、度支が滄州へ送った糧車六百乗が下博に至り、すべて成徳の兵に奪われた。諸軍は物資に窮し、供軍院へ運ばれる衣糧も途中で諸軍に奪われてしばしば届かず、孤軍で深入りした部隊はみな凍え飢えて何も得られなかった。
- 田布はかつて父の田弘正に従って魏にいたとき牙將の史憲誠を厚遇し、しばしば推薦して高位に就けた。節度使となると腹心として先鋒兵馬使とし、軍中の精鋭をすべて委ねた。史憲誠の先は奚人で、代々魏の将であった。魏は幽・鎮ともともと表裏の間柄で、幽・鎮が叛くと魏人の心も揺らいだ。
- 田布が魏兵で鎮を討ち南宮に軍したところ、天子はしばしば中使を送って督戦したが、将士は驕り怠って闘志なく、加えて大雪で度支の輸送が続かなかった。田布が六州の租賦を発して軍に供すると将士は不満を言った。「先例では軍が境を出れば朝廷が支給する。いま尚書は六州の肌肉を削って軍に奉じている。尚書が己を痩せさせて国を肥やすとしても、六州の人に何の罪があるのか」。史憲誠は密かに異志を蓄え、この不満に乗じて離間し煽った。
- 詔で魏博の軍を分けて李光顔に付し深州を救わせた。庚子、田布の軍は大潰して多くが史憲誠に走り、田布は中軍八千人だけで魏に還った。壬寅、魏州に至る。癸卯、諸将を召して出兵を議したが諸将はますます傲り、「尚書が河朔の旧例に従うなら生死をともにする。再び戦わせるなら従えない」と言った。田布はどうしようもなく、「功は成らぬ」と嘆いた。
- その日、遺表を作ってこの有様を記した。要旨は「臣が衆意を見るに終には国恩に背くであろう。臣は無功であるが死を忘れるものではない。伏して願う、陛下は速やかに李光顔・牛元翼を救われよ。さもなくば義士忠臣はみな河朔に屠られる」。表を奉じて号哭し、幕僚の李石に授けた。そして父の霊前に入り、刀を抜いて「上は君父に謝し、下は三軍に示す」と言い、胸を刺して死んだ。
- 史憲誠は田布の死を聞いて衆に河北の旧例に従うと諭し、衆は喜んで史憲誠を擁して魏に還り留後に奉じた。戊申、魏州が田布の自殺を奏した。己酉、史憲誠を魏博節度使とした。史憲誠は旄鉞を得たのを喜び、外は朝廷に奉じたが、内実は幽・鎮と連なっていた。
王庭湊の承認と韓愈の宣慰(822年)
- 庚戌、徳州刺史の王日簡を横海節度使とした。王日簡は成徳の牙将である。壬子、杜叔良を歸州刺史に貶した。
- 王庭湊が深州で牛元翼を囲み、官軍は三面から救援したが、いずれも糧が乏しく進めなかった。李光顔さえ壁を閉ざして自守するのみで、軍士は自ら薪や飼草を採り、日々の支給は陳米一勺に過ぎなかった。深州の囲みはますます急となり、朝廷はやむなく二月甲子、王庭湊を成徳節度使とし、軍中の将士の官爵をすべて旧に復し、兵部侍郎の韓愈を宣慰使とした。
- 天子の即位当初、兩河はほぼ平定され、蕭俛・段文昌は天下すでに太平だから漸次兵を減らすべきだとして、兵のある軍鎮に毎年百人につき八人を逃亡・死亡として除籍させる密詔を請うた。天子は荒宴に耽って国事を顧みず、その奏を許した。除籍された軍士は多く山澤に集まって盗となり、朱克融・王庭湊が乱を起こすと一声で亡卒が集まった。
- 詔で諸道の兵を徴して討たせたが、諸道の兵は少なく、みな臨時に募った烏合の衆であった。しかも諸節度にはすでに監軍があり、その偏師を率いる者にも中使が陣を監したので、主将は号令を専らにできなかった。小勝すれば飛駅で捷を奏して自らの功とし、勝てなければ主将を脅して罪をこれに帰した。軍中の驍勇を選んで自衛にあて、羸弱を戦わせたため、戦えば多く敗れた。
- また用兵の挙動はすべて禁中から方略を授け、朝令夕改で従うところが分からず、可否を測らずただ速戦を督した。中使が道路に織るように往来し、駅馬が足りずに行人の馬を奪ったので、人は駅路を通るのを恐れた。
- こうして諸道十五万の衆、元臣宿望の裴度、当時の名将たる烏重胤・李光顔をもって、幽・鎮の一万余の衆を討ち、一年余り屯守してついに功なく、財も力も尽きた。崔植・杜元頴・王播が宰相となったが、いずれも庸才で遠謀がなかった。史憲誠が田布を逼死させても朝廷は討てず、ついに朱克融・王庭湊にも節鉞を授けた。かくして河朔を再び失い、唐の滅亡まで取り戻せなかった。
- 朱克融は旌節を得ると張弘靖と盧士玟を釈放した。丙寅、牛元翼を山南東道節度使とした。左神策行營樂夀鎮兵馬使の清河の傅良弼を沂州刺史、瀛州博野鎮遏使の李寰を忻州刺史とした。二人の守る地は幽と鎮の間にあり、朱克融・王庭湊が交互に誘い脅したが従わず、それぞれの衆で堅く壁を守り、賊はついに取れなかったので賞されたのである。
- 丙子、横海節度使の王日簡に姓名を賜って李全畧とした。癸未、李光顔に横海節度使・滄景觀察使を加え、忠武・深州行營節度は元のままとし、横海節度使の李全畧を徳棣節度使とした。李光顔が孤軍で深入りし輸送が難しいので、滄景をこれに隷属させたのである。
- 王庭湊は旌節を受けても深州の囲みを解かなかった。丙戌、知制誥の東陽の馮宿を山南東道節度副使・權知留後とし、なお中使を深州に入れて牛元翼の赴任を督させた。裴度も幽・鎮に書を送って大義を責め、朱克融はただちに囲みを解いた。王庭湊は兵を少し退けたがなお留まった。
- 元稹は裴度を怨んでその兵柄を解こうとし、王庭湊の罪を雪いで罷兵するよう天子に勧めた。丁亥、裴度を司空・東都留守とし平章事は元のままとした。諫官は、まだ罷兵していないうえ裴度は将相の全才があり閑職に置くべきでないと争って上言し、天子は裴度を入朝させてから東都に赴かせることとした。靈武節度使の李聽を河東節度使とした。
長慶二年三月・韓愈の鎮州入り(822年)
- 丙午、朱克融・王庭湊に檢校工部尚書を加えた。天子は深州の囲みが解けたと聞いて褒めたのだが、王庭湊の兵は実際なお深州城下にあった。
- 韓愈が出発すると誰もが危ぶみ、詔で境に至って情勢を見、急に入るなと命じた。韓愈は「止まるのは君の仁、死ぬのは臣の義」と言って赴いた。
- 鎮に至ると王庭湊は刃を抜き弓に弦を張って迎え、館では甲士が庭に並んだ。王庭湊は「紛紛たる事はこの者たちのしたことで、私の心ではない」と言った。韓愈は声を厲しくして「天子は尚書に将帥の材があると思って節鉞を賜ったのだ。尚書は健児と語ることさえできぬのか」と言った。
- 甲士が前に出て「先の太師は国のために朱滔を撃退し、その血染めの衣はまだここにある。この軍は朝廷に何の負い目があって賊とされるのか」と言った。韓愈は答えた。「先の太師を覚えているのはよいことだ。逆順が禍福を分けるのは遠い話か。禄山・思明から元濟・師道まで、その子孫で今なお生きて仕官している者があるか。田令公は魏博を朝廷に帰し、子孫は幼児でもみな良い官にある。王承元はこの軍を朝廷に帰し、二十歳で節度使となった。劉悟・李祐も今は節度使だ。お前たちも聞いていよう」。
- 王庭湊は衆心が動くのを恐れて手を振って退けさせ、韓愈に何をさせたいのかと問うた。韓愈は「神策六軍の将で牛元翼ほどの者は少なくないが、朝廷は大体を顧みて彼を捨てられないのだ。尚書はなぜ囲みを解かぬのか」と言い、王庭湊は「ただちに出す」と答え、韓愈を宴して帰した。
- ほどなく牛元翼は十騎で囲みを突破して出、深州の大将臧平らが城を挙げて降った。王庭湊は長く堅守したことを責め、臧平ら将吏百八十余人を殺した。
裴度の去就と于方の獄(822年)
- 戊申、裴度が長安に至り、討賊に功なきことを謝した。
- 李光顔の率いる兵は滄景に留められると聞いて大声で叫び西へ走り、李光顔は制止できず、驚懼して病んだ。己酉、上表して横海節を固辞し許州への帰任を乞い、許された。
- 壬子、裴度を淮南節度使とし他は元のままとした。言事者はみな裴度を外に出すべきでないと言い、天子自身も彼を重んじたので、戊午、制して裴度を留めて輔政させ、中書侍郎同平章事の王播に同平章事を与えて裴度に代えて淮南に鎮させ、なお諸道鹽鐵轉運使を兼ねさせた。
- 李寰がその衆三千を率いて博野を出ると王庭湊が兵を送って追い、李寰は戦って三百余を殺し、王庭湊の兵は還った。残る二千はなお博野を固守した。あらためて徳棣節度使の李全畧を横海節度使とした。
- 夏四月甲戌、傅良弼・李寰を神策都知兵馬使とした。
- 王庭湊が牛元翼を囲んでいたころ、和王傅の于方が奇策で立身しようと元稹に説き、客の王昭・于友明を送って賊党に間諜として説かせ牛元翼を出させ、あわせて兵部・吏部の令史に賄して偽の告身二十通を作り、便宜に応じて与えさせようとした。元稹はいずれも承知した。
- 李賞という者がこの謀を知り、于方が元稹のために刺客を集めて裴度を殺そうとしていると裴度に告げた。裴度は隠して表沙汰にしなかったが、李賞は左神策に訴えた。五月丁巳、詔して左僕射の韓臯らに糾問させた。
- 戊午、幽州節度使の朱克融が馬一万匹・羊十万口を進めたが、上表してまずその代価を犒賞用に請いたいと言った。
- 三司が于方の裴度暗殺の件を調べたがいずれも証拠がなかった。六月甲子、裴度と元稹をともに罷相し、裴度を右僕射、元稹を同州刺史とし、兵部尚書の李逢吉を門下侍郎同平章事とした。諫官は裴度に罪なく罷相は当たらず、元稹が于方と邪謀を為した責めが軽すぎると上言し、天子はやむなく壬申、元稹の長春宮使を削った。
長慶三年(823年)
- 夏五月丙子、晉・慈二州を保義軍とし、觀察使の李寰を節度使とした。
- 秋八月、左僕射の裴度を司空・山南西道節度使とし、平章事を兼ねさせなかった。李逢吉が裴度を憎み、右補闕の張又新らが李逢吉に附いて競って謗り傷つけ、ついに外に出したのである。
長慶四年(824年)
- かつて牛元翼は襄陽にあって王庭湊にしばしば賄して家族の返還を請うたが、王庭湊は与えなかった。牛元翼の死を聞くと、甲子、その家族を皆殺しにした。
- 夏六月、天子は王庭湊が牛元翼の家を屠ったと聞き、宰輔に才なく凶賊に暴虐を許したと嘆いた。
- 翰林學士の韋處厚が上疏した。裴度は勲功が中夏に高く声名は外夷に及ぶ。もし巖廊に置いて参決を委ねれば、河北・山東は必ず朝廷の計を奉じるだろう。管仲は「人を離して聴けば愚、合わせて聴けば聖」と言った。治乱の本は他の術ではなく、人に順えば治まり、違えば乱れる。陛下が食事の際に嘆息して蕭何・曹參なきを恨まれたと承るが、いま一人の裴度がありながら留めることもできない。これは馮唐が「漢文帝は廉頗・李牧を得ても用いられまい」と言ったのと同じである。
- 宰相を御するには委ね、信じ、親しみ、礼をもって遇すべきだ。事に効なく国に労なければ散寮に置くか遠郡に貶せばよい。そうすれば在位者は励まざるを得ず、進もうとする者も軽々しく求めなくなる。臣は李逢吉と私怨はなく、かつて裴度が無辜で貶官されたときも申した。今の陳述は上は聖明に答え、下は群議を達するためである——と。
- 天子は裴度の奏状に平章事がないのを見て韋處厚に問い、韋處厚は李逢吉の排斥の様を詳しく述べた。天子は「そこまでのことか」と言った。李程も裴度を礼遇するよう勧め、丙申、裴度に同平章事を加えた。
- 冬十二月庚寅、天平節度使の烏重胤に同平章事を加えた。
敬宗寳曆二年(826年)春〜三月
- 春正月壬辰、裴度が興元から入朝した。李逢吉の党が百方で謗ったが、天子は年少ながらその誣謗を見抜き、裴度をますます厚遇した。二月丁未、裴度を司空・同平章事とした。
- 天子は即位以来東都に行幸したいと思い、度支員外郎の盧貞に東都の宮闕修繕を検分させた。折しも朱克融・王庭湊がともに兵と工匠を出して東都修繕を助けたいと請うた。三月丁亥、東都修繕は煩わしいので中止する勅を出し、盧貞を呼び戻した。
- 先に朝廷が中使を送って朱克融に時服を賜ったところ、朱克融は粗悪だとして勅使を留め、さらに当道の今年の将士の春衣が足りないので度支から三十万端匹を賜りたいと奏し、また兵馬と丁匠五千を出して宮闕修繕を助けたいと奏した。
- 天子は困って宰相に問い、重臣を宣慰に遣わして勅使を返させたいと言った。裴度は答えた。朱克融の無礼は極まっており、ほとんど自滅寸前である。猛獣が山林の中で吠え跳ねても、久しければ自ら困り、決して巣穴を離れる気にはなるまい。宣慰を遣わすことも勅使を返せと求めることもされず、十日ほど後にゆっくり詔書を賜って、こう言えばよい——「中官がそちらで振舞いを失したと聞く。帰ったら朕が自ら処分する。時服は有司の製造が不謹慎だったので、朕はよく知りたいと思い、すでに処置を命じた。将士の春衣はもとより朝廷が徴発するものでなく、みな本道が自ら備えるものだ。朕は数十万匹の物を惜しむのではないが、もともと前例がなく范陽だけに与えることはできぬ。宮闕修繕を助けるという話はすべて虚言である」。
- 直に姦計を挫きたければ「丁匠は速やかに遣わせ。すでに所在に受け入れの手配を命じた」と言えばよい。これを受けて彼は慌てて途方に暮れるだろう。しばらく寛容を示したいなら「宮闕の修繕は有司の仕事で、遠来の丁匠は要らぬ」と言えばよい。それだけのことで聖慮を労するに足らぬ——と。天子は喜んで従った。
- 横海節度使の李全畧が死に、その子で副大使の李同㨗が擅に留後を領し、隣道に重く賄して継承を求めた。
- 夏五月、幽州で兵乱が起きて朱克融とその子の延齡を殺し、軍中は末子の延嗣を立てて軍務を主らせた。
- 秋八月、朱延嗣は幽州を得て民を虐使したため、都知兵馬使の李載義が弟の牙内兵馬使の李載寧とともに延嗣を殺し、その家三百余人を屠った。李載義は權知留後となり、九月、延嗣の罪を数え上げて奏聞した。李載義は李承乾の後裔である。
- 庚申、魏博節度使の史憲誠が、李同㨗は軍士に追われて本道に逃げ帰り身を束ねて朝に帰することを請うている、と偽って奏し、ほどなく同㨗が滄州に戻ったと奏した。
- 冬十月己亥、李載義を盧龍節度使とした。
文宗太和元年(827年)
- 春二月、李同捷が擅に滄景を占拠したが、朝廷は年を越えても問わなかった。李同㨗は代替わり後に恩貸を加えられることを期し、三月壬戌朔、掌書記の崔從長に表を奉じさせ、弟の同志・同巽とともに入見させて朝旨に従うと請わせた。
- 夏五月丙子、天平節度使の烏重胤を横海節度使、前横海節度副使の李同捷を兖海節度使とした。朝廷はなお河南・河北の節度使が李同㨗を煽って命に抗させることを慮り、魏博の史憲誠に同平章事を加え、丁丑、盧龍の李載義・平盧の康志睦・成徳の王庭湊に檢校官を加えた。
- 秋七月、李同捷は将士に留められたと託けて詔を受けなかった。乙酉、武寧節度使の王智興が本軍三万人に五か月分の糧を自弁させて同捷を討つことを請い、許された。
- 八月庚子、同捷の官爵を削り、烏重胤・王智興・康志睦・史憲誠・李載義と義成節度使の李聽・義武節度使の張播にそれぞれ本軍を率いて討たせた。同捷は子弟に珍玩や女妓を持たせて河北諸鎮に賄したが、戊午、李載義がその姪と賄物を捕えて献じた。
- 史憲誠は李全畧と姻戚で、同捷が叛くと密かに糧を助けた。裴度はそれを知らず史憲誠に二心なしと言っていた。史憲誠が親吏を中書に送って用件を請うたとき、韋處厚は言った。「晉公(裴度)は御前で一族百口をもってお前の主を保証したが、私はそうではない。ただお前たちの為すところを待つだけで、朝廷の法典がある」。史憲誠は懼れて同捷と通じることをやめた。
- 王庭湊は同捷のために節鉞を求めて得られず、そこで乱を助け、境上に兵を出して魏の軍を撓めた。また使を送って沙陀の酋長朱邪執宜に厚く賄し連兵しようとしたが、執宜は拒んで受けなかった。
- 冬十月、天平横海節度使の烏重胤が同捷を撃ってしばしば破った。十一月丙寅、烏重胤が死去。庚辰、保義節度使の李寰を横海節度使とした。王智興の請いに従ったのである。
- 十二月庚戌、王智興に同平章事を加えた。
太和二年(828年)
- 春三月己卯、王智興が棣州を攻めてその三門を焼いた。
- 閏月丙戌朔、史憲誠が、子で副大使の史唐と都知兵馬使の开志紹に兵二万五千を率いさせて徳州に向かい李同捷を討たせると奏した。史憲誠は同捷を助けたかったが、史唐が泣いて諫め、かつ出兵して討つことを請ったので違えられなかった。
- 夏六月、王庭湊が密かに兵と塩・糧で李同捷を助け、天子は討とうとした。秋七月甲辰、詔して中書に百官を集めて議させた。宰相以下は誰も逆らわなかったが、衛尉卿の殷侑ひとりが、王庭湊は凶徒に附いてはいるが事はまだ甚だしく露れていないから、しばらく含容して同捷だけを討つべしと述べた。己巳、詔して王庭湊の罪状を挙げ、隣道に厳しく守備させ、その自新を待つこととした。
- 九月丁亥、王智興が棣州を抜いたと奏した。
- 李寰は晉州から兵を率いて赴任する途上、士卒を戢めず通過地を残暴に荒らし、着任すると兵を擁して進まず、ただ座して供給を求めた。庚寅、李寰を夏綏節度使とした。
- 甲午、詔して王庭湊の官爵を削奪し、諸軍に四面から進討させた。王智興に守司徒を加え、前夏綏節度使の傅良弼を横海節度使とした。
- 冬十月、魏博が平原で横海の兵を破り、これを抜いた。
- 十一月癸未朔、易定節度使の栁公濟が李同㨗の堅固寨を攻め抜き、また寨の東でその兵を破ったと奏した。当時、河南・河北の諸軍は同捷討伐に長く功なく、小勝あるごとに首虜の数を虚偽に膨らませて厚賞を求め、朝廷は力を尽くして供給したため江淮が疲弊した。
- 傅良弼が陜で死去。乙酉、左金吾大將軍の李祐を横海節度使とした。
- 十二月丁巳、王智興が兵馬使の李君謀に河を渡らせて無棣を破ったと奏した。壬申、中書侍郎同平章事の韋處厚が死去。
- 李同捷の軍勢は日々窮し、王庭湊も救えなくなり、人を送って魏博の大将开志紹に史憲誠父子を殺して魏博を取るよう説いた。开志紹は乱を起こし、部下の兵二万人を率いて還って魏州に迫った。丁丑、諫議大夫の柏耆に魏博を宣慰させ、あわせて義成・河陽の兵を発して志紹を討たせた。
- 辛巳、史憲誠が、开志紹の兵が永濟に屯していると急を告げて援を求め、詔して義成節度使の李聴に滄州行營の諸軍を率いて志紹を討たせた。
太和三年(829年)春〜夏
- 春正月、开志紹が成徳と兵を合わせて貝州を掠めた。
- 義成の行營兵三千人はさきに齊州に屯していたが禹城に向かわせたところ中道で潰えて叛いた。横海節度使の李祐がこれを討って誅した。
- 李聽と史唐が兵を合わせて开志紹を撃ち破り、志紹はその衆五千を率いて鎮州に奔った。李載義が滄州の長蘆を攻め抜いたと奏した。甲辰、昭義が、志紹の余衆一万五千人が本道に来て降ったので洺州に置いたと奏した。
- 二月、横海節度使の李祐が諸道の行營兵を率いて李同捷を撃ち破り、進んで徳州を攻めた。史憲誠は滄景が平定に近いと聞いて懼れ、子の史唐が入朝を勧めた。丙寅、史憲誠は史唐に表を奉じさせて入朝を請い、あわせて管内を朝命に委ねると請うた。
- 夏四月戊辰、李載義が滄州を攻めてその羅城を破ったと奏した。李祐が徳州城を抜き、城中の将三千余人が鎮州に奔った。李同捷は李祐に書を送って降を請い、李祐はその書を添えて奏した。
- 諫議大夫の柏耆は詔を受けて行營を宣慰したが、声勢を大げさに張って諸将を威圧するのを好み、諸将はすでに彼を憎んでいた。李同捷が李祐に降を請うと、李祐は大将の萬洪を送って滄州を守らせた。柏耆は同捷の偽りを疑い、自ら数百騎を率いて滄州に馳せ入り、事にかけて萬洪を誅し、同捷とその家属を取って京師へ向かった。乙亥、將陵に至ったとき、王庭湊が奇兵で同捷を奪おうとしているとの説があり、同捷を斬って首を伝送した。滄景はことごとく平定された。
- 五月庚寅、李載義に同平章事を加えた。諸道の兵は三年かけてようやく李同捷を下したのに、柏耆が城に直入して自分の功としたので諸将は憎み、争って上表して論じ立てた。辛卯、柏耆を循州司户に貶した。李祐はほどなく死去。
- 壬寅、攝魏博副使の史唐が名を孝章と改めたと奏した。
太和三年六月〜八月・魏博の変(829年)
- 六月丙辰、詔して鎮州四面行營はそれぞれ本道に帰って休息し、境を保つことに努めて互いに往来せず、王庭湊が順に効うなら表章を取り次ぐが、それ以外は受けるなとした。
- 辛酉、史憲誠を兼侍中・河中節度使とし、李聽に魏博節度使を兼ねさせ、相・衛・澶の三州を分けて史孝章を節度使とした。
- 李祐は柏耆が萬洪を殺したと聞いて大いに驚き、病が重くなった。天子は「祐が死ねばそれは耆が殺したのだ」と言い、癸酉、柏耆に自尽を賜った。
- 河東節度使の李程が、王庭湊の書を得て景州を納れると請うてきたと奏し、また开志紹が自ら縊れたと奏した。
- 天子が中使を送って史憲誠に旌節を賜り、癸酉、魏州に到着した。このとき李聽は貝州から還って館陶に軍し、遷延して進まなかった。史憲誠は府庫を尽くして旅装を整えたので将士が怒り、甲戌、兵乱が起きて憲誠を殺し、牙内都知兵馬使である靈武の何進滔を留後に奉じた。李聽が魏州に進むと進滔が拒んで入れなかった。
- 秋七月、何進滔が兵を出して李聽を撃った。李聽は備えておらず大敗して潰走し、昼夜兼行で淺口に向かい、半ば以上を失って輜重・兵械をすべて棄てた。昭義の兵が救い、李聽はかろうじて免れて滑臺に帰った。
- 河北で長く用兵し輸送が続かず、朝廷も厭き苦しんでいた。八月壬子、何進滔を魏博節度使とし、相・衛・澶の三州をこれに戻した。
- 滄州は喪乱の余りを承けて骸骨が地を覆い、城は空しく野は荒れ、戸口は十のうち三、四も残らなかった。癸丑、衛尉卿の殷侑を齊徳滄景節度使とした。殷侑は着任すると士卒と甘苦をともにし、百姓を招撫して耕桑を勧め、流散した者が次々に旧業に復した。もとは本軍三万人がすべて度支に仰いでいたが、殷侑が至って一年で租税が自らその半ばを賄えるようになり、二年目には度支の給賜をすべて罷めることを請い、三年後には戸口が増え倉廩が満ちた。
- 王庭湊は隣道を通じてかすかに服従の意をのぞかせ、壬申、庭湊と将士を赦し官爵を復した。
太和四年(830年)
- 夏四月、裴度は高齢と多病を理由に懇ろに機務を辞した。六月丁未、司徒・平章軍國重事とし、病が軽くなれば三、五日に一度中書に入ることとした。
太和五年(831年)春正月〜二月
- 庚申、盧龍監軍が奏した。李載義が毬場の後院で勅使と宴していたところ、副兵馬使の楊志誠がその徒とともに呼び騒いで乱を起こし、李載義は子の正元とともに易州に奔った。志誠はまた莫州刺史の張慶を殺した。
- 天子は宰相を召して謀った。牛僧孺は言った。范陽は安史以来、国の有ではない。劉緫が一時その地を献じたが、朝廷は銭八十万緡を費やして糸毫も得なかった。今日、志誠がこれを得たのは、先日、載義が得たのと同じである。そのまま撫して北狄を防がせればよく、逆順を計るまでもない。天子はこれに従った。
- 李載義は易州から京師に赴いた。天子は載義に滄景平定の功があり朝廷に恭順であったことから、二月壬辰、載義を太保・同平章事のままとし、楊志誠を盧龍留後とした。
史論(臣光曰)
- 昔の聖人は天理に順い人情を察し、庶民が互いを治め得ないと知って師長を置いて正させ、群臣が互いを使い得ないと知って諸侯を建てて制させ、列国が互いを服させ得ないと知って天子を立てて統べさせた。天子が万国に対して善を褒め悪を退け、強を抑え弱を助け、服する者を撫し違う者を懲らし、暴を禁じ乱を誅してこそ、号令が四海に行き渡る。詩に「勉勉たる我が王、四方を綱紀す」とある。
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李載義は藩屏の大臣で国に功があり罪もないのに楊志誠が追い出した。これは天子が正すべきことである。まったく問わずにその土地と爵位を与えてしまえば、将帥の任免も生殺もみな士卒の手から出ることになる。天子が上にいて何をするのか。国家が方鎮を置くのは、その財賦を利するためだけではあるまい。牛僧孺の言は姑息偷安の術に過ぎず、宰相が天子を補けて天下を御する道ではない。
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夏四月己丑、李載義を山南西道節度使、楊志誠を幽州節度使とした。
太和七年(833年)
- 春二月癸亥、盧龍節度使で檢校工部尚書の楊志誠に檢校吏部尚書を加えた。進奏官の徐迪が宰相に、軍中は朝廷の制度を知らず、尚書から僕射に改まるのを昇進と知るだけで、工部から吏部に改まるのが美事だとは知らないので、勅使が行っても出られないだろうと言った。その口ぶりははなはだ傲慢であったが、宰相は気にしなかった。
- 三月、楊志誠は僕射を得られなかったのを怒り、官告使の魏寳義と春衣使の焦奉鸞、送奚契丹使の尹士恭を留めた。甲午、牙將の王文頴を送って恩を謝し、あわせて官を辞退させた。丙申、告身と批答をあらためて賜ったが、王文頴は受けずに去った。
- 夏六月乙巳、山南西道節度使の李載義を河東節度使とした。
- 秋八月壬寅、幽州節度使の楊志誠に檢校右僕射を加え、なお別に使を遣わして慰諭した。
史論(杜牧の諸篇)
- 杜牧は河朔三鎮の桀驁と、朝廷の議者がもっぱら姑息を事とするのに憤り、書を作って「罪言」と名づけた。その大旨は次のとおり。国家は天寳に盗が起こって以来、河北の百余城について尺寸も得ておらず、人は回鶻・吐蕃を見るようにこれを望んで窺う者もない。齊・梁・蔡もその風に染まって冦となり、五年戦わずに済んだ期間もないまま七十余年焦慮してきた。今の上策は自らを治めることに勝るものはなく、中策は魏を取ること、最下策は地勢を計らず攻守を審らかにせぬ浪戦である。
- また府兵の廃壊を傷んで「原十六衛」を作った。国家は隋制を踏襲して十六衛を開いた。今から見れば設官の意味が分からぬのは十六衛であろうが、その事跡の本源を尋ねれば、実は天下の大命であった。貞觀の中、内には十六衛で武臣を蓄養し、外には折衝果毅府五百七十四を開いて兵伍を貯えた。事あれば戎臣が兵を提げて外に居り、事なければ兵を放って内に居た。内にあるときは富貴恩澤でその身を養い、部下の兵は諸府に散らして舎らせ、上府でも千二百人を越えず、三季は耕稼し一季は武を修めた。籍は将の府に蔵し、伍は田畝に散り、力は解け勢は破れ、人々が自らを愛したので、たとえ蚩尤を帥としても乱を起こさせることはできなかった。外にあるときは、部の兵は檄を受けて初めて来て、斧鉞が前にあり爵賞が後にあり、飄暴に交わり捽み合うのだから異略を図る暇もなく、蚩尤を帥としても叛くことはできなかった。貞觀から開元まで百三十年間、戎臣・兵伍が逆簒したことがなかったのは、大聖人が軽重を柄統し内外を制章した聖算神術による。
- 開元末に至り、愚儒が「天下は文が勝った」と奏して府兵の廃止を請い、武夫が「天下の力は強い」と奏して四夷への攻撃を請うた。かくて府兵は内で削がれ、辺兵が外で作られ、戎臣・兵伍は湍のごとく矢のごとく外へ走り、内には一人もいなくなった。尾が大きく中が乾き、燕が偏重して天下が掀り、根が萌えて燼え、七聖が旰食して除こうとしても及ばなかった。これに拠れば、戎臣・兵伍は一日でも鈴鍵の外に出させてはならぬ。
- とはいえ国に兵がないわけにはいかない。外に置けば叛き、内に置けば簒う。外に叛かせず内に簒わせぬ法術で、古今もっとも長きに堪えたのが府を置き衛を立てることであろう。近代以来、その将についての弊はさらに甚だしい。おおむね市児の輩が金玉を多く携え、幽陰に倚り、券を折り貨を交わして得た地位である。父兄の礼義の教えをまったく知らず、慷慨感慨の気もなく、百城千里を一朝で得る。強くて偏屈な者は法制を撓め削って自分を縛らせず、忠良を斬り族して自分に逆らわせず、力が一つに勢いが便になれば冦とならぬ者がない。陰湿で巧狡な者も家ごとに算し口ごとに歛して邪倖に委ね、卿から公を買い、都を去っても都を得、四履の治める地を別館と見なす。一人でも不幸に長生きすれば、生ける人を切り割いてほぼ天下を巡る。だから天下の兵乱が息まず民が乾き耗るのはすべてここから出ている。ああ、文皇帝の十六衛の趣旨を、誰が本源に遡って復してくれるのか。
- また「戦論」を作った。河北が天下を見るのは珠璣のようなもの、天下が河北を見るのは四肢のようなものである。河北の気風は渾厚で戦と耕に果断、加えて土地は健馬を産して敵に馳せるに便であるから、出れば勝ち留まれば豊かで、天下の産を窺わずとも自ら封殖できる。大農の家が珠璣を待たずして富であるのと同じだ。
- 国家に河北がなければ精甲鋭卒・利刃良弓・健馬がない。これで一肢の兵が去る。河東・盟津・滑臺・大梁・彭城・東平にはすべて厚兵を宿して虜の衝を塞ぎ、他に使えない。これで二肢の兵が去る。六鎮の師はその数厖大で、頭を垂れて仰いで給を受け、手を組んで何もしないから、淮以北・河の南・東は海に尽き西は落に至るまで、赤地をすべて取ってようやく費に応じられる。これで三肢の財が去る。咸陽の西北には戎夷が大挙して屯し、吳越荊楚の富をすべて削って兵戍に食わせる。これで四肢の財が去る。天下の四肢がことごとく解け、頭と腹だけが兀然として残る。これで久しく安んじられるだろうか。
- いま真に五つの敗を治めれば一戦で定まり四肢は生きる。第一の敗——天下無事のとき殿寄の大臣が偷安して私に奉じ、戦士は離落し兵甲は鈍り敝れる。蒐練しない過ちである。第二の敗——百人が戈を担い県官に食を仰ぐのに千人分の名を挟み、大将も小禆もその余剰を操り、虜の壮なるを幸とし師の老いるを娯しみとする。だから兵を執る者は常に少なく糜食する者は常に多い。実を責め食を料らない過ちである。第三の敗——小勝すればその功を張り、走って状を献じて上賞を求める。一日に二度賜り、一月に重ねて封ぜられ、凱旋して歌もまだ書かれぬのに品はすでに崇く爵命は極まり、田宅は広く金繒は溢れ子孫は官に就く。どうして奇を捜し死を出して勤める気になろう。厚賞の過ちである。第四の敗——兵士を多く喪い大都を覆しても、身を跳ねて来て、邦を刺して去り、刀鋸を顧みても気色はいたって安らか、一年も経たぬうちにもう壇墀の上に立っている。軽罰の過ちである。第五の敗——大将は兵柄を専らにできず、恩臣・勅使が交互に来て堂々と指図し、将が陣を布き殷々と鼓を打つそのとき、一方は「必ず偃月にせよ」と言い一方は「必ず魚麗にせよ」と言う。三軍万夫が旋回し翔羊し、愕き駭える間に虜騎が乗じてわが鼓旗を取る。専任して成を責めぬ過ちである。今まことに干戈を調え垢汚を洗って万世の安を為そうとしながら、前の非を踏襲するなら、それは為し得ない。
- また「守論」を作った。今の議者はみな言う。倔強の徒には良将勁兵を銜策とし、高位美爵でその腸を充ち飽かせ、安らかにして撓めず、外に置いて拘めない。虎狼を豢い馴らしてその心に逆らわなければ忿気は芽生えない、これが大暦・貞元の邦を守った所以だ、なぜ疾く戦って民を焦がすのを快とするのか——と。
- 自分の考えでは、大暦・貞元の間はまさにこれが禍のもとであった。当時、数十城と千百の卒夫を持つ者を朝廷は特別扱いして法度を貸し与えた。そこで彼らは大きく構えて大言し、自ら一家を樹て、制を破り法を削り、尊奢を競った。天子は威を養って問わず、有司は恬として呵らず、王侯の爵を通じて越録に授け、覲聘に来なくても几杖で支え、逆息・虜嗣を皇子の嬪のように扱って装いの飾りまで備えた。だから地はいよいよ広く兵はいよいよ強く、僭擬はいよいよ甚だしく、侈心はいよいよ昌んになった。かくて土田・名器はほとんど分け尽くされたが賊の貪心はまだ岸に達さず、ついに淫らな名号を越えて帝や王を称し、盟詛して自立し、恬淡と恐れず、兵を四方に走らせてその志を飽かせた。だから趙・魏・燕・齊が卓然と大唱し、梁・蔡・吳・蜀が踵んで和し、その他も傾き騒いで倣おうとする者が至る所にあった。運よく孝武(憲宗)に遭い、宵旰に忘れず、前英後傑が夕べに思い朝に議したから、大なる者は誅鋤し小なる者は恵んで来させた。さもなくば周・秦の郊まで犯され猟られていたであろう。
- おおよそ生ける人は油然として欲が多い。欲して得られねば怒り、怒れば争い、乱がこれに随う。だから家では笞で教え、国では刑罰し、天下では征伐する。これがその欲を裁き争いを塞ぐ手立てである。大暦・貞元の間はこの道をことごとく反対にし、区々たる有り物を提げて涯なき争いを塞ごうとした。だから首尾も指も肢も互いに動かし合えぬほどになった。今それが誤りだと知らずに逆に経とするのなら、盗を為す者は河北にとどまるまいと自分は見る。ああ、大暦・貞元の守邦の術、永く戒めとせよ。
- また孫子に注してその序を作った。兵とは刑であり、刑とは政事である。夫子の徒たる者にとって、まさに仲由・冉有の事である。どの時代の誰が二道に分けて「文と武は離れて併び行く」と言い出したのか知らないが、それゆえ搢紳の士は兵を語ることを恐れ、あるいは恥じ、語る者があれば世は粗暴で異人と見て人の数に入れない。ああ、根本を亡失すること、これが最も甚だしい。礼に「四郊に壘多きは卿大夫の辱なり」とある。古来を歴観すれば、その国を樹立するのも滅亡するのも兵によらぬことはない。兵を主る者は必ず聖賢・材能・多聞博識の士でこそ功を挙げられる。廊廟の上で議し、兵の形がすでに成ってから将に付す。漢の相が「指縦するのは人、兎を獲るのは犬だ」と言ったのはこのことである。あの宰相となって「兵は吾が事でない、知るべきでない」と言う者は、君子ならば「その位に叨りに居る」と評すだけである。
太和八年(834年)
- 冬十月辛巳、幽州で兵乱が起きて節度使の楊志誠と監軍の李懐仵を追い出し、兵馬使の史元忠を推して留務を主らせた。
- 楊志誠が太原を通ったとき、李載義は自ら殴りかかって殺そうとしたが、幕僚が諫めて救い免れた。しかしその妻子と従行の将卒は殺された。朝廷は載義に功があるので問わなかった。載義の母は死んで幽州に葬られていたが、志誠がその財を掘り取っていた。載義は志誠の心臓を取って母を祭りたいと奏したが許されなかった。
- 十一月、史元忠が楊志誠の造った衮衣その他の僭上の物を献じた。丁卯、志誠を嶺南道に流し、殺した。
- 十二月癸未、史元忠を盧龍留後とした。
太和九年(835年)
- 春正月乙卯、王元逵を成徳節度使とした。
- 三月丙辰、史元忠を盧龍節度使とした。