通鑑紀事本末魏博、朝廷に帰服する(田弘正)(魏博帰朝)
魏博節度使の田季安が死に、幼い田懐諫が跡を継いで軍政が乱れると、李絳は用兵不要と説き、坐して自ら帰するのを待つよう憲宗に献じた。はたして軍士が田興を推して留後とし、朝廷は即座に節度使に除して銭百五十万緡を賜り、魏博は五十余年ぶりに戸籍と賦税を朝廷に納めた。田興は弘正の名を賜り、元和十四年(819年)に入朝して侍中を兼ねた。
年表(3件)
- 憲宗
- 元和七年――田季安の死と李絳の献策812年田季安が薨じ、推された田興が節度使に除されて魏博が帰順する
- 元和八年813年田興に弘正の名を賜る
- 元和十四年――田弘正の入朝819年田弘正が入朝し、侍中を兼ねて魏博節度使に留まる
憲宗元和七年(812年)――田季安の死と李絳の献策
- 秋八月戊戌、魏博節度使の田季安が薨じた。
- はじめ季安は洺州刺史の元誼の娘を娶り、子の懐諫を生んで節度副使としていた。牙内兵馬使の田興は田庭玠の子で、勇力があり書もかなり読み、性は謙譲であった。季安が淫虐であったので興はしばしば諫め、軍中はこれを頼りとした。季安は興が衆心を集めていると見て、臨清鎮将に出して殺そうとした。興は偽って中風を装い、全身に灸の痕をつけてようやく免れた。
- 季安は中風を病んでからは殺戮に限度がなく、軍政は荒れて乱れた。夫人の元氏が諸将を召して懐諫を副大使に立てて軍務を知らせた。時に十一歳。季安を別の寝所に移して一月余りで薨じた。田興を召して歩射都知兵馬使とした。
- 辛亥、左竜武大将軍の薛平を鄭滑節度使とした。魏博を牽制させようとしたのである。
- 帝が宰相と魏博の事を議した。李吉甫は兵を興して討つことを請い、李絳は魏博には兵を用いる必要はなく、おのずと朝廷に帰すと考えた。吉甫は兵を用いねばならぬ状況を盛んに述べ、帝も「朕の意もそのとおりだ」と言った。
- 絳は言った。「臣がひそかに観ますに、両河の藩鎮で跋扈する者はみな兵を分けて諸将に隷属させ、一人に専らにさせません。その権と任が重くなりすぎて、隙に乗じて自分を図ることを恐れるからです。諸将は勢いも力も釣り合って互いに制することができない。広く連結しようとすれば衆心が一致せず、謀は必ず漏れる。独りで変を起こそうとすれば兵は少なく力は微弱で、勢い必ず成らない。加えて懸賞は重く、刑誅も峻しい。それゆえ諸将は互いに顧み忌んで、あえて先に発しない。跋扈する者はこれを恃んで長策としております」。
- 「しかし臣がひそかに思うに、常に厳明な主帥がいて諸将の死命を制せるなら、まずまず自ら固められましょう。今、懐諫は乳臭い子供で自分で聴断できません。軍府の大権は必ずどこかへ帰する。諸将は厚薄が均しくないので怨り怒りが必ず起こり、互いに服従しなくなります。とすれば先日の兵を分ける策こそ、まさに今日の禍乱の階梯となるのです。田氏は屠り場に出されぬなら、ことごとく囚われの身となりましょう。どうして天子の兵を煩わせる必要がありましょうか」。
- 「彼らが一介の列将から起こって主帥に代わるのは、隣道の憎むところとしてこれ以上のものはありません。彼が朝廷の援けに倚って自ら存続しなければ、たちまち隣道に粉々にされます。ゆえに臣は、兵を用いずとも坐して魏博の自ら帰するのを待てると考えるのです。ただ願わくは陛下、兵を按じて威を養い、諸道に厳しく詔して士馬を選び練って後の勅を待たせ、賊中にそれを知らせてください。数か月とかからず必ず軍中で身を挺する者が出ましょう。そのときはただ朝廷が敏速に応じ、その機会に合わせ、爵禄を惜しまずその人に賞するだけでよい。両河の藩鎮がこれを聞けば、麾下が真似をして朝廷の賞を得ることを恐れ、必ずみな恐れて争って恭順を装いましょう。これがいわゆる『戦わずして人の兵を屈す』というものです」。帝は「善し」と言った。
- 後日、吉甫がまた延英殿で用兵の利を盛んに述べ、あわせて飼葉も糧も金帛もみな用意済みだと言った。帝が絳を顧みて問うと、絳はこう答えた。「兵は軽々しく動かせません。先年、恒州を討ったとき、四面から二十万近い兵を発し、さらに両神策の兵を京師から赴かせて天下は騒動し、費えは七百余万緡に上りましたが、ついに成功せず天下の笑いものとなりました。今、傷はまだ癒えず、人はみな戦を憚っております。それをまた勅命で駆り立てれば、臣は功がないどころか、別の変が生ずることを恐れます。まして魏博は兵を用いる必要がないのは事勢が明白です。どうか陛下、疑われますな」。
- 帝は身を起こして机を叩いて言った。「朕は兵を用いぬと決めた」。絳は「陛下にそのお言葉があっても、退朝ののちにまた聖聴を惑わす者があることを恐れます」と言った。帝は正色して声を厲しくして言った。「朕の志はすでに決まった。誰が惑わせようか」。絳はそこで拝して祝し、「これぞ社稷の福です」と言った。
- やがて田懐諫は幼弱で、軍政はすべて家僮の蒋士則が決し、しばしば愛憎によって諸将を入れ替えたので、衆はみな憤り怒った。朝命が久しく届かず、軍中は不安であった。
- 田興が朝、府に入ると、士卒数千人が大いに騒いで興を取り巻いて拝し、留後になってくれと請うた。興は驚いて地に倒れたが、衆は散らない。久しくして興は免れられぬと悟り、衆に言った。「お前たちはわしの言を聴くか」。みな「仰せのとおりに」と答えた。興は言った。「副大使を犯すな。朝廷の法令を守り、戸籍を差し出し、官吏の任命を請う。そうすればよい」。みな「承知」と答えた。興はそこで蒋士則ら十余人を殺し、懐諫を外へ移した。
- 冬十月乙未、魏博の監軍が状を奏聞した。帝は急ぎ宰相を召し、李絳に「卿は魏博を割符を合わせるように言い当てた」と言った。李吉甫が中使を遣わして宣慰し、その変を観るよう請うと、李絳は言った。
- 「なりません。今、田興はその土地と兵衆を奉じて坐して詔命を待っております。この機に心を推して撫で納れ、大恩をもって結ばず、勅使が着いて彼が将士の表を持ち来って節鉞を請うのを待ってから与えれば、恩は下から出て上から出たことになりません。将士が重く朝廷が軽くなり、その感戴の心も今日とは比べものにならなくなります。機会を一度失えば悔いても及びません」。
- 吉甫はもとより枢密使の梁守謙と結んでいた。守謙もそのために帝に言った。「先例ではみな中使を遣わして宣労いたします。今、この鎮だけそれがなければ、かえって理解されぬことを恐れます」。帝はついに中使の張忠順を魏博へ遣わして宣慰させ、その帰りを待って議そうとした。
- 癸卯、李絳がまた上言した。「朝廷の恩威の得失はこの一挙にあります。時機は惜しむべきもの。どうして棄てられますか。利害は甚だ明白です。どうか聖心、疑われますな。忠順の行程を計るに、ちょうど陝を過ぎたころのはず。明朝すぐに白麻を降して興を節度使に除されれば、まだ間に合います」。帝はひとまず留後に除そうとしたが、絳は言った。「興の恭順はこのとおりです。序列を越えた恩を出すのでなければ、感激させられません」。帝は従い、甲辰、興を魏博節度使とした。忠順がまだ帰らぬうちに制命が魏州に着いた。興は恩に感じて涙を流し、士衆は喜び踊らぬ者がなかった。
- 李絳はまた言った。「魏博は五十余年、皇化に浴しませんでした。それが一朝にして六州の地を挙げて帰し、河朔の腹心を抉り、叛乱の巣穴を傾けたのです。望みを越える重い賞がなければ士卒の心を慰め、四隣を勧め慕わせることはできません。どうか内庫の銭百五十万緡を出して賜ってください」。
- 左右の宦官は与える額が多すぎる、後に同じ例があればどう給するのかと言った。帝が絳に語ると、絳は言った。「田興は地を専らにする利を貪らず、四隣の患いを顧みず、聖朝に命を帰しました。陛下はどうして小さな費えを惜しんで大計を捨てられ、一道の人心を収めようとされぬのですか。銭は使い尽くしてもまた入ります。機事は一度失えば取り返せません。かりに国家が十五万の兵を発して六州を取り、一年で落としたとして、その費えがどうして百五十万緡で済みましょうか」。
- 帝は喜んで言った。「朕が衣を粗末にし食を減らして財貨を蓄えてきたのは、まさに四方を平定するためだ。さもなくば、いたずらに府庫に貯えて何になろう」。
- 十一月辛酉、知制誥の裴度を魏博へ遣わして宣慰させ、銭百五十万緡で軍士に賞し、六州の百姓には一年の課役を免じた。軍士は賜与を受けて歓声は雷のようであった。成徳・兗鄆の使者が幾人もこれを見て、顔を見合わせて色を失い、「強情を張って果たして何の益があるのか」と嘆じた。
- 度は興のために君臣上下の義を陳べ、興は一晩中聴いて倦まなかった。度をきわめて厚く礼遇し、度に管内の州県を残らず回って朝命を宣布してくれるよう請うた。あわせて節度副使を除するよう朝廷に奏請し、詔して戸部郎中で河東の胡証をこれに充てた。興はまた管内の欠員九十を有司に任命させ、朝廷の法令を行い、賦税を納めた。田承嗣以来の僭上で贅沢な屋敷はみな避けて住まなかった。
- 鄆・蔡・恒はしばしば遊説者を遣わして万方に説いたが、興はついに聴かなかった。李師道が人を宣武節度使の韓弘に遣わして言わせた。「我が家は代々田氏と互いに保ち援けることを約してきた。今、興はその一族ではなく、しかも真っ先に両河の事を変えた。これは公の憎むところでもありましょう。私は成徳と軍を合わせて討ちたい」。弘は言った。「わしは利害を知らぬ。詔を奉じて事を行うことだけを知る。もし兵が北へ黄河を渡れば、わしは兵で東の曹州を取る」。師道は恐れてあえて動かなかった。
- 田興は田季安を葬ってから田懐諫を京師に送った。辛巳、懐諫を右監門衛将軍とした。
元和八年(813年)
- 春正月辛卯、魏博節度使の田興に弘正の名を賜った。
元和十四年(819年)――田弘正の入朝
- 秋八月己未、田弘正が入朝した。帝の待遇はとりわけ厚かった。甲辰、弘正に侍中を兼ねさせ、魏博節度使はもとのままとした。弘正は三度上表して留まることを請うたが、帝は許さなかった。
- 弘正は、一朝にして自分が死ねば魏の人がなお先例に倣って継襲させることを常に恐れていた。それゆえ兄弟・子姪をみな朝廷に仕えさせ、帝はみな抜擢して顕職に置いたので、朱と紫の衣が庭に満ちた。当時の人はこれを栄誉とした。