通鑑紀事本末王伾・王叔文の専権(伾文用事)

書に巧みな王伾と碁に巧みな王叔文が東宮に出入りして太子(順宗)の信を得、韋執誼・柳宗元・劉禹錫らと結んで死友となったところから始まる。順宗が中風で口をきけぬまま即位すると、二王は李忠言・牛昭容を通じて詔を操り、度支を握り神策の兵権まで奪おうとしたが、俱文珍ら宦官と韋皋らの弾劾に遭って崩れた。永貞元年(805年)に憲宗へ譲位が行われ、伾は貶死、叔文は死を賜り、一党は司馬に落とされ、元和四年(809年)にいっそう遠い州の刺史へ移された。

年表(4件)

徳宗貞元十九年(803年)――東宮の側近

  • はじめ翰林待詔の王伾は書に巧みで、山陰の王叔文は碁に巧みで、ともに東宮に出入りして太子の慰みに侍っていた。伾は杭州の人である。
  • 叔文は詭弁を弄して計略が多く、自ら書を読んで治道を知ると称し、機を見てはしばしば太子に民間の疾苦を語った。
  • 太子がかつて諸侍読および叔文らと宮市のことを論じたとき、太子は「寡人はこれを極言しようと思う」と言った。皆が称賛するなかで叔文だけが何も言わなかった。退出のとき太子は目で叔文を留め、「先ほどお前だけが何も言わなかったのは、何か意があるのか」と問うた。叔文は言った。「叔文は太子に幸されている身。見るところがあれば申し上げぬわけにはまいりません。太子の職分は食膳を見、機嫌を伺うことにあり、外の事を口にすべきではありません。陛下は在位が長い。もし太子が人心を収めようとしていると疑われたら、何をもって身を解かれるのですか」。太子は大いに驚き、涙を流して言った。「先生でなければ寡人はこれを知らずにいた」。こうして大いに愛し寵し、王伾とともに互いに寄り合った。
  • 叔文はそこで太子に「某は宰相にできる」「某は将にできる」と語り、いずれ用いるようにと仕向けた。ひそかに翰林学士の韋執誼、および当時の朝士で名があって早い出世を求める者――陸淳・呂温・李景倹・韓曄・韓泰・陳諫・柳宗元・劉禹錫らと結んで死友となり、凌準・程异らもその党を通じて出入りした。日々ともに交わり、その動きは秘密めいて、誰もその端緒を知る者がなかった。藩鎮のなかにはひそかに資財を贈って結ぶ者もあった。
  • 淳は呉の人でかつて左司郎中を務め、温は呂渭の子で当時は左拾遺、景倹は李瑀の孫で進士に及第、曄は韓滉の一族の子、諫はかつて侍御史、宗元と禹錫は当時、監察御史であった。
  • 左補闕の張正一が上書して召見された。正一は吏部員外郎の王仲舒、主客員外郎の劉伯芻らと親しかった。叔文の一党は正一が自分たちの隠された事を告げたのではないかと疑い、韋執誼に逆に正一らを帝に讒言させ、朋党をなして遊宴に節度がないと言わせた。九月甲寅、正一らはみな罪を得て遠くへ貶された。人々はその理由を知らなかった。伯芻は劉廼の子である。
  • 十二月庚申、太常卿の高郢を中書侍郎、吏部侍郎の鄭珣瑜を門下侍郎とし、ともに同平章事とした。珣瑜は鄭余慶の従兄弟である。

貞元二十年(804年)

  • 秋九月、太子ははじめて中風にかかり、口がきけなくなった。

順宗永貞元年(805年)――二王の専権

  • 春正月辛未朔、諸王と親戚が徳宗に参賀したが、太子だけが病で来られなかった。徳宗は涙を流して悲嘆し、これによって病を得て日ごとに重くなった。二十余日にわたり内外の連絡が絶え、両宮の安否を知る者がなかった。
  • 癸巳、徳宗が崩じた。あわてて翰林学士の鄭絪・衛次公らを金鑾殿に召して遺詔を草させた。宦官のある者が「禁中で誰を立てるか議しているが、まだ定まっていない」と言った。衆は答えかねたが、次公はすぐさま言った。「太子には病があるとはいえ、その地位は嫡長。中外の心が寄せられている。どうしてもというなら、なお広陵王を立てるべきだ。さもなくば必ず大乱となる」。絪らも和して、議はようやく定まった。次公は河東の人である。
  • 太子は人情が憂え疑っているのを知り、紫衣に麻鞋という姿で病をおして九仙門に出て、諸軍使を召見した。京師はひとまず安らいだ。甲午、宣政殿で遺詔を宣し、太子は喪服で百官に会った。丙申、太極殿で皇帝の位に即いた。衛士はなお疑い、爪先立って首を伸ばして望み、「まことの太子だ」と言い、そこで喜んで泣いた。
  • 当時、順宗は声を失って事を決められず、常に深宮に居て簾と帳を垂れ、ただ宦官の李忠言と昭容の牛氏が左右に侍っていた。百官が奏事すると帷の中からその奏を可とした。
  • 徳宗の病が篤くなったとき、王伾は先に入って詔と称して王叔文を召び、翰林の中に坐らせて事を決めさせた。伾は叔文の意を受けて入って忠言に告げ、詔と称して外へ下した。外ははじめ誰も知らなかった。杜佑に冢宰を摂らせた。
  • 二月癸卯、帝ははじめて紫宸門で百官に朝した。辛亥、吏部郎中の韋執誼を尚書左丞・同平章事とした。王叔文は国政を専らにしようとして、まず執誼を引いて宰相とし、自らは禁中で事を執って相唱和した。
  • 壬戌、殿中丞の王伾を左散騎常侍とし、前どおり翰林待詔とし、蘇州司功の王叔文を起居舎人・翰林学士とした。伾は容貌が醜く呉なまりで、帝が親しく戯れる相手であった。叔文はかなり事を任され、いささか文義を知ると自負して事を論ずるのを好んだので、帝はそのため少し敬い、伾のように出入り自由とはいかなかった。
  • 叔文は翰林まで入り、伾は柿林院まで入って李忠言と牛昭容に会って事を計った。おおむね叔文は伾に依り、伾は忠言に依り、忠言は牛昭容に依るという具合に次々と結び付いていた。事あるごとにまず翰林に下して叔文に可否を決めさせ、そののち中書に宣べ、韋執誼が承けて行った。外の党は韓泰・柳宗元・劉禹錫らが外の事を聞き集め、謀議して唱和し、日夜あくせくと狂ったようであった。互いに推し合って褒め、「伊尹」「周公」「管仲」「諸葛亮」と呼び合い、傲然と自得して天下に人なしと言い、栄辱も進退も一瞬で決まり、思うままで規定にも拘らなかった。士大夫は恐れ、道では目配せするばかりであった。
  • かねて往来のあった者は次々と抜擢され、一日に数人が任じられることもあった。その一党のある者が「某は某官になれる」と言えば、一、二日で果たしてそうなった。こうして叔文とその一党十余家の門は、昼夜、車馬が市のように集まった。叔文や伾に会おうとする者は、その坊の餅屋や酒屋に泊まり込み、一人が千銭を出してようやく置いてもらえた。伾はとりわけ卑しく、もっぱら賄賂を受けることを事とし、大きな櫃を作って金帛を貯え、夫婦でその上に寝た。
  • 三月辛未、王伾を翰林学士とした。王叔文を度支塩鉄転運副使とした。これより先、叔文は一党と、国の賦税を手中にすれば要路の人と結び軍士の心を取って権を固められると謀った。だがにわかに重権を握れば人心が服さぬことを恐れ、杜佑がかねて会計に名があって位が重く、身を全うすることを事とし制しやすいことを利用して、まず佑に名目を主らせ、自ら副に任じて実権を専らにしたのである。叔文は両使を判じながら簿書を意に介さず、日夜、一党と人を退けてひそひそ語り合い、その為すところを測れる者はなかった。
  • 御史中丞の武元衡を左庶子とした。徳宗の末年、叔文の一党の多くが御史となったが、元衡はその人柄を軽んじて粗略に扱っていた。元衡が山陵儀仗使であったとき、劉禹錫が判官になりたいと求めたが許さなかった。叔文は元衡が風憲の職にあるので自分に付かせようとして、一党に権利をもって誘わせたが、元衡は従わなかった。これによって左遷されたのである。元衡は武平一の孫である。
  • 侍御史の竇群が、屯田員外郎の劉禹錫は邪を挟んで政を乱しており朝廷にあるべきでないと奏した。また叔文を訪ねて会釈して言った。「事にはまことに測りがたいことがあるものです」。叔文が「どういうことか」と問うと、群は言った。「昨年、李実は恩を恃み貴を挟んで気概が一時を覆っておりました。公はそのとき路傍でためらう江南の一吏にすぎなかった。今、公は一朝にしてその地位に拠っておられる。路傍に公のような者がいないと、どうして分かりましょう」。一党は逐おうとしたが、韋執誼が、群はもとより剛直の名があるとして止めた。
  • 帝の病は久しく癒えず、時に扶けられて殿に出るだけで、群臣は仰ぎ見るばかり、親しく奏対する者はなかった。中外は危ぶみ恐れ、早く太子を立てることを願ったが、王叔文の一党は大権を専らにしようとしてこれを聞くのを嫌った。
  • 宦官の俱文珍・劉光琦・薛盈珍らはみな先朝に任用された旧人で、叔文や忠言らが朋党を組んで専恣なのを憎み、そこで帝に啓して翰林学士の鄭絪・衛次公・李程・王涯を金鑾殿に召し、太子を立てる制を草させた。当時、牛昭容らは広陵王の淳が英邁なのを憎んでいた。絪はもう伺いを立てず、紙に「立嫡以長」の四字を書いて呈した。帝は頷いた。癸巳、淳を太子に立て、名を純と改めた。程は李神符の五世の孫である。
  • 賈耽は王叔文の一党が事を執るのを憎み、病と称して出仕せず、しばしば辞職を乞うた。
  • 丁酉、諸宰相が中書で会食した。旧例では丞相が食事をとる間は百寮の誰もあえて謁見しない。叔文は中書に来て執誼と事を計ろうとし、直省に取り次がせた。直省が旧例を告げると、叔文は怒って叱りつけた。直省は恐れて執誼に告げた。執誼はためらい恥じ入りながら、ついに立って叔文を迎え、その閤で長い間語った。
  • 杜佑・高郢・鄭珣瑜はみな箸を置いて待っていた。報せに来た者が「叔文が飯を求め、韋相公はすでに閤中でともに食べておられます」と言った。佑と郢は心中いけないと思ったが、叔文と執誼を憚ってあえて口に出せなかった。珣瑜だけが嘆じて「わしがまたこの位に居られようか」と言い、左右を顧みて馬を取らせ、そのまま帰って出仕しなくなった。二相はいずれも天下の重望であったが、相次いで引き籠もった。叔文と執誼らはいよいよ憚るところがなくなり、遠近は大いに恐れた。
  • 夏四月乙巳、帝が宣政殿に出御して太子を冊立した。百官は太子の風貌を見て、退いてみな祝し合い、感じて泣く者さえあった。中外は大いに喜んだが、叔文だけが憂色を浮かべ、口には出さず、ただ杜甫の諸葛亮の祠堂を題した詩「出師未だ捷たずして身先ず死し、長く英雄をして涙襟に満たしむ」を吟じた。聞いた者はあざ笑った。
  • これより先、太常卿の杜黄裳は裴延齢に憎まれて台閣に十年留め置かれ昇進しなかったが、その婿の韋執誼が宰相となってはじめて太常卿に遷った。黄裳が執誼に群臣を率いて太子の監国を請うよう勧めると、執誼は驚いて「丈人はやっと一官を得たばかり。どうして禁中の事を口に出して議されるのか」と言った。黄裳は勃然として言った。「黄裳は三朝の恩を受けた。どうして一官で買われようか」。そして袖を払って出て行った。
  • 戊申、給事中の陸淳を太子侍読とし、名を質と改めさせた。韋執誼は自ら権を専らにしていることから太子の不興を買うことを恐れ、質を侍読としてひそかに太子の意を探り、あわせて宥めさせようとした。ところが質が話を切り出すと、太子は怒って言った。「陛下は先生に寡人のため経義を講ぜよと命じられたのだ。なぜ他事に立ち入る」。質は恐れ入って退出した。
  • 五月辛未、右金吾大将軍の范希朝を左右神策京西諸城鎮行営節度使とした。甲戌、度支郎中の韓泰をその行軍司馬とした。王叔文は自分が内外に憎まれていることを知り、宦官の兵権を奪って自らを固めようとし、老将の希朝に名目を主らせ、実は泰にその事を専らにさせたのである。人々はその為すところを測れず、いよいよ疑い恐れた。
  • 辛卯、王叔文を戸部侍郎とし、前どおり度支塩鉄転運副使に充てた。俱文珍らはその専権を憎み、翰林の職を削り去った。叔文は制書を見て大いに驚き、人に言った。「叔文は日々ここに来ればこそ公事を相談できる。この院の職を失えば、来る名目がなくなる」。王伾がただちに疏を上げて請うたが従われず、二度目の疏でようやく三、五日に一度は翰林に入れるが学士の名は去るということになった。叔文ははじめて恐れた。
  • 六月己亥、宣歙巡官の羊士諤を汀州寧化尉に貶した。士諤は公務で長安に来て、叔文が事を執っているのに遭い、公然とその非を口にした。叔文は聞いて怒り、詔を下して斬ろうとしたが、執誼が不可としたので杖殺させようとし、執誼がまた不可としたので、ついに貶するにとどめた。これによって叔文ははじめて執誼をひどく憎むようになり、二人の門下に出入りする者はみな恐れた。
  • 先には劉闢が剣南支度副使として韋皋の意を叔文に伝え、剣南三川の都領を求めて言った。「太尉は闢を遣わして公にわずかな真心をお伝えしようとされております。もし某に三川を与えられるなら死をもってお助けしましょう。与えられぬなら、それなりのお返しがありましょう」。叔文は怒ってこれも斬ろうとしたが、執誼が固く不可とした。闢はなお長安に留まって去らずにいたが、士諤が貶されたと聞いて逃げ帰った。
  • 執誼ははじめ叔文に引き立てられて深く付き従っていたが、位を得てからはその跡を隠そうとし、あわせて世論に迫られて、ときどき異を唱えるようになった。そのたびに人を遣わして叔文に「あえて約に背くのではなく、兄の事を曲げてでも成し遂げようとしてのことです」と詫びた。叔文は罵り怒って信じず、ついに仇怨となった。
  • 癸丑、韋皋が上表した。「陛下は哀毀で病を得られ、そのうえ万機に労されておられますから、久しくして癒えぬのです。どうか権に皇太子に庶政を親監させ、皇躬が癒えるのを待って春宮にお戻しください」。あわせて太子に牋を上げた。
  • 「聖上は遠く高宗に法り、諒陰にあって言わず政を臣下に委ねられましたが、託された相手がその人ではありません。王叔文・王伾・李忠言の徒がにわかに重任に当たり、賞罰は情のままで、綱紀は乱れ、庫の蓄えを散じて権門に賄い、心腹を貴位に遍く据え、ひそかに左右と結んで、憂いは蕭牆の内にあります。ひそかに太宗の盛業を傾け殿下の家邦を危うくすることを恐れます。どうか殿下、即日奏聞して群小を斥け逐い、政が人主から出るようにしてください。そうすれば四方は安らぎましょう」。
  • 皋は重臣を自任し、遠く西蜀にあって王叔文には動かせぬと踏み、その姦を極言したのである。ほどなく荊南節度使の裴均、河東節度使の厳綬の牋表が相次いで届き、意は皋と同じであった。中外はみなこれを頼りとし、邪党は震え恐れた。均は裴光庭の曾孫である。
  • 王叔文が范希朝と韓泰に京西の神策軍を主らせても、諸宦官はまだ気づいていなかった。折しも辺境の諸将がそれぞれ書状で中尉に暇乞いし、あわせて今後は希朝に属すると言ってきたので、宦官ははじめて兵権が叔文らに奪われたことを悟った。そこで大いに怒って言った。「その謀に従えば我らは必ずあの者の手にかかって死ぬ」。ひそかに使者を帰らせて諸将に「兵を人に属けるな」と告げさせた。希朝が奉天に至っても来る将はなく、韓泰は馳せ帰って告げた。叔文は計の出しようがなく、ただ「どうする、どうする」と言うばかりであった。
  • ほどなくその母の病が重くなった。丙辰、叔文は盛んに酒饌を用意し、諸学士および李忠言・俱文珍・劉元琦らと翰林で飲んだ。叔文は言った。「叔文は母が病んでおりますが、身を国事に任せている故に自ら医薬にも当たれません。今、暇を請うて帰って侍ろうと思います。叔文はこれまで心力を尽くし危難を避けませんでした。みな朝廷の恩に報いるためです。一朝にして去り帰れば百の謗りが交々至りましょう。誰があえて察してくださるか。一言助けてくださる方はおられぬか」。文珍はその言葉に応じてそのたびに論破した。叔文は答えられず、ただ杯を満たして勧めるばかり、酒が数巡して散会した。丁巳、叔文は母の喪で位を去った。
  • 秋七月、王叔文が母の喪に服してから、韋執誼はいよいよその言を用いなくなった。叔文は怒って一党と日夜、喪中の復職を謀り、必ずまず執誼を斬り、自分に付かぬ者をことごとく誅すと言った。聞く者は恐れおののいた。
  • 叔文が邸に帰ってから、王伾は拠りどころを失い、日々宦官および杜佑のもとへ詣って、叔文を起こして宰相とし、あわせて北軍を統べさせるよう請うた。容れられぬと、今度は威遠軍使・平章事とするよう請うたが、これも通らない。その一党はみな憂え恐れて身を保てなくなった。
  • この日、伾は翰林に坐って三度疏を上げたが返答がなく、事は成らぬと知って、行きつ臥しつしているうち、夜になって突然「伾は中風になった」と叫んだ。翌日、輿で帰って出仕しなくなった。己丑、倉部郎中で判度支案の陳諫を河中少尹とした。伾と叔文の一党はここからはじめて退けられ始めた。
  • 乙未、制して、病が癒えぬので軍国の政事はしばらく皇太子の純に取り扱わせることとした。当時、内外はこぞって王叔文の党与の専恣を憎み、帝もこれを憎んでいた。俱文珍らがしばしば帝に啓して太子の監国を請い、帝ももとより万機に厭き倦んでいたのでついに許した。
  • あわせて太常卿の杜黄裳を門下侍郎、左金吾大将軍の袁滋を中書侍郎とし、ともに同平章事とした。俱文珍らがその旧臣であることから引き立てたのである。また鄭珣瑜を吏部尚書、高郢を刑部尚書としてともに政事から退けた。
  • 太子が東朝堂で百官に会うと、百官は拝賀した。太子は涙を流して答拝しなかった。
  • 八月庚子、制して太子に皇帝の位に即かせ、帝は太上皇と称し、制勅は誥と称することとした。辛丑、太上皇は興慶宮に移り、誥して永貞と改元し、良娣の王氏を太上皇后に立てた。后は憲宗の母である。
  • 壬寅、王伾を開州司馬、王叔文を渝州司戸に貶した。伾はほどなく貶所で病死し、翌年、叔文に死を賜った。
  • 乙巳、憲宗が宣政殿で即位した。
  • 九月己卯、神策行軍司馬の韓泰を撫州刺史、司封郎中の韓曄を池州刺史、礼部員外郎の柳宗元を邵州刺史、屯田員外郎の劉禹錫を連州刺史に貶した。
  • 冬十一月壬申、中書侍郎・同平章事の韋執誼を崖州司馬に貶した。執誼はかつて王叔文と異を唱えたことがあり、しかも杜黄裳の婿であったので、独り貶されるのが遅れた。しかし叔文が敗れると執誼も勢いを失い、禍が及ぶことを知って、なお宰相でありながら常に落ち着かず、息も絶え絶えで、人の足音を聞くたびに恐れおののいて顔色を失い、ついに貶されるに至った。
  • 朝議で、王叔文の一党のなかには員外郎から刺史に出た者があって貶し方が軽すぎるという声が上がった。己卯、あらためて韓泰を虔州司馬、韓曄を饒州司馬、柳宗元を永州司馬、劉禹錫を朗州司馬に貶し、さらに河中少尹の陳諫を台州司馬、和州刺史の凌準を連州司馬、岳州刺史の程异を郴州司馬に貶した。

憲宗元和四年(809年)――遠州刺史への転出

  • はじめ王叔文の一党が貶されたとき、赦に遇っても近くへ移すことは許さぬという詔があった。元和十年(815年)まで、王叔文の一党で貶謫された者はおよそ十年、近くへ移されなかった。執政のなかにその才を惜しんで次第に進めようとする者があり、ことごとく京師に召したが、諫官が争ってその不可を言い、帝と武元衡もこれを憎んだ。
  • 三月乙酉、みな遠州の刺史とした。官は進んでも地はいっそう遠くなったのである。永州司馬の柳宗元を柳州刺史、朗州司馬の劉禹錫を播州刺史とした。
  • 宗元は言った。「播州は刺史の住む所ではない。しかも夢得(禹錫)には母堂がおられる。母子ともに行く道理は万に一つもない。朝廷に請い、柳を播と替えたい」。折しも中丞の裴度もまた禹錫のために言った。「禹錫にはまことに罪があります。しかし母が老いており、その子と死に別れるのはまことに痛ましいことです」。
  • 帝は言った。「人の子たる者はなおさら自ら慎み、親に憂いを残すべきではない。とすれば禹錫はいっそう責めるべきである」。度は「陛下はまさに太后にお仕えしておられます。禹錫の境遇は憐れむべきかと存じます」と言った。帝はしばらくして言った。「朕が言ったのは人の子たる者を責めたまでのこと。しかしその親の心を傷つけたくはない」。退いて左右に言った。「裴度が朕を思う心はまことに切実だ」。翌日、禹錫は連州刺史に改められた。