通鑑紀事本末憲宗、蜀を平定する(劉闢)(憲宗平蜀)
西川節度使の韋皋が死ぬと、度支副使の劉闢が留後を自称して節鉞を求め、朝廷が拒むと兵を挙げて東川へ攻め入った。憲宗は杜黄裳の建議を容れて高崇文を派遣し、鹿頭関・徳陽・漢州の連戦で劉闢の軍を破って成都を落とす。逃れようとした劉闢は捕らえられ、長安で一族もろとも誅された。順宗永貞元年(805年)から憲宗元和元年(806年)までの2年間。
年表(2件)
- 順宗
- 永貞元年――韋皋の死と劉闢の自立805年韋皋が薨じ、劉闢が留後を自称して朝命に従わず兵を構える
- 憲宗
- 元和元年――蜀の平定806年高崇文が成都を落として劉闢を捕らえ、長安で誅される
順宗永貞元年(805年)――韋皋の死と劉闢の自立
- 秋七月癸丑、西川節度使の南康武王の韋皋が薨じた。
- 皋は蜀にあること二十一年。賦斂を重くし貢献を豊かにして主の恩を結び、賜与を厚くして士卒を撫でた。士卒の婚礼・葬儀にはみなその費用を出した。それゆえ長くその位に安んじられ、士卒も喜んで働いた。南詔を服し吐蕃を挫いた。幕僚で年久しく官が高くなった者は刺史とし、済むとまた幕府に戻して、ついに朝廷に還らせなかった。自分の為すところが漏れるのを恐れたのである。府庫が充実すると、ときどき民の負担を緩め、三年ごとに租賦を免じた。蜀の人はその智謀に服しその威を畏れ、今に至るまで画像を掲げて土地の神とし、家ごとに祀っている。
- 度支副使の劉闢が自ら留後となった。闢は諸将に上表させて節鉞を求めさせたが、朝廷は許さなかった。己未、袁滋を剣南東西川・山南西道安撫大使とした。
- 冬十月戊戌、中書侍郎・同平章事の袁滋を同平章事のまま西川節度使に充て、劉闢を召して給事中とした。
- 十一月、劉闢は召しを受けず、兵を構えて自ら守った。袁滋はその強さを畏れてあえて進まなかった。帝は怒って滋を吉州刺史に貶した。
- 十二月己酉、給事中の劉闢を西川節度副使・知節度事とした。帝は即位したばかりで討つ力がまだなかったのである。
- 右諫議大夫の韋丹が上疏した。「今、闢を放して誅されなければ、朝廷が手足のように使えるのは両京だけとなりましょう。それ以外の誰が叛かずにおりましょうか」。帝はその言を善しとした。壬子、丹を東川節度使とした。丹は韋津の五世の孫である。
憲宗元和元年(806年)――蜀の平定
- 劉闢は旌節を得ると志はいよいよ驕り、三川の兼領を求めた。帝が許さぬので、闢はついに兵を発して東川節度使の李康を梓州に囲み、同僚の盧文若を東川節度使に据えようとした。
- 推官で莆田の林蘊が力を尽くして挙兵を諫めた。闢は怒って械にかけて獄に繋ぎ、引き出して斬ろうとしたが、ひそかに刑吏に殺すなと戒め、ただ何度も刃をその首で研がせて、屈服させたうえで赦そうとした。蘊は叱って言った。「小僧、斬るべきならすぐわしの首を斬れ。どうしてお前の砥石であろうか」。闢は左右を顧みて「まことに忠烈の士だ」と言い、そこで唐昌尉に落とした。
- 帝は闢を討とうとしたが、兵を用いることを重く見ていた。公卿の議者もまた蜀は険しく堅固で取りがたいとした。杜黄裳だけがこう言った。「闢は狂って愚かな書生。取るのは芥を拾うようなものです。臣は神策軍使の高崇文が勇と略において用いるに足ると知っております。どうか陛下、もっぱら軍事を委ねて監軍を置かれますな。闢は必ず擒にできます」。帝は従った。翰林学士の李吉甫もまた帝に蜀の討伐を勧め、帝はこれによって器量を認めた。
- 戊子、左神策行営節度使の高崇文に歩騎五千を率いさせて前軍とし、神策京西行営兵馬使の李元奕に歩騎二千を率いさせて次軍とし、山南西道節度使の厳礪とともに劉闢を討たせた。当時、古参の将で名位のもとより重い者は甚だ多く、みな自分が蜀征討に選ばれると思っていた。詔で崇文が用いられると、みな大いに驚いた。
- 帝が杜黄裳と藩鎮のことを論じたとき、黄裳は言った。「徳宗は憂患を経てから姑息を旨とされ、節帥を生きているうちに罷めることはなさいませんでした。物故する者があると、まず中使を遣わして軍情を探らせ、彼らが推す者に授けられた。中使がひそかに大将の賄賂を受けて帰って褒めれば、そのまま旄鉞を降された。朝廷の意から出たことは一度もありません。陛下がどうしても綱紀を振るい起こそうとされるなら、少しずつ法度をもって藩鎮を裁制されるべきです。そうすればのちに天下は治められましょう」。帝は深くそのとおりだと思った。こうしてはじめて兵を用いて蜀を討ち、ついには威が両河にまで行われるに至った。みな黄裳が啓いたことである。
- 高崇文は長武城に駐屯し、卒五千を練って常に寇が来るかのように備えていた。卯の刻に詔を受け、辰の刻にはもう出発し、器械も糧も一つとして欠けるところがなかった。
- 甲午、崇文が斜谷を出、李元奕が駱谷を出て、ともに梓州へ向かった。崇文の軍が興元に至ったとき、軍士で旅籠で食事をして人の匙と箸を折った者がいた。崇文は斬って引き回した。
- 劉闢が梓州を陥れて李康を捕らえた。二月、厳礪が剣州を抜いてその刺史の文徳昭を斬った。
- 三月、高崇文が兵を率いて閬州から梓州へ向かうと、劉闢の将の邢泚は兵を率いて逃げ去り、崇文は入って梓州に駐屯した。闢は李康を崇文に返して自らの罪をすすごうとしたが、崇文は康が軍を敗り守りを失ったとして斬った。丙子、厳礪が梓州を落としたと奏した。丁丑、制して劉闢の官爵を削奪した。
- 東川節度使の韋丹が漢中に至って上表した。「高崇文は他所から来た軍で遠く戦い、頼りとするものがありません。梓州を与えてその士心を繋ぎ止めれば、必ず功を立てられましょう」。夏四月丁酉、崇文を東川節度副使・知節度事とした。
- 五月、劉闢が鹿頭関に城を築き、八つの柵を連ねて兵一万余を駐屯させ、高崇文を拒んだ。六月丁酉、崇文が撃ち破った。闢は関の東の万勝堆に柵を置いたが、戊戌、崇文は驍将で范陽の高霞寓を遣わして攻め奪わせた。関城を見下ろす位置で、およそ八戦してみな勝った。
- 庚子、高崇文が徳陽で劉闢を破った。癸卯、また漢州で破った。厳礪は将の厳秦に綿州の石碑谷で闢の衆一万余を破らせた。
- 秋七月癸丑、高崇文が玄武で劉闢の衆一万を破った。甲午、詔して、西川へ続く援軍はすべて崇文の処分を受けることとした。
- 九月壬寅、高崇文がまた鹿頭関で劉闢の衆を破り、厳秦が神泉で劉闢の衆を破った。
- 河東の将の阿跌光顔が兵を率いて行営で高崇文と合流する際、期日に一日遅れた。誅されることを恐れ、深く攻め入って自ら罪を贖おうとし、鹿頭の西に陣してその糧道を断った。城中は憂え恐れた。ここで闢の綿江柵の将の李文悦、鹿頭守将の仇良輔がともに城を挙げて崇文に降った。闢の婿の蘇彊を捕らえ、降った士卒は万を数えた。
- 崇文はそのまま長駆して成都を指した。向かうところ崩れ潰え、軍は行進を止めることもなかった。辛亥、成都を落とした。劉闢と盧文若は数十騎を率いて西の吐蕃へ走った。崇文は高霞寓らに追わせ、羊灌田で追いついた。闢は江に身を投げたが死なず、捕らえられた。文若は先に妻子を殺し、そのうえで石を結びつけて身を沈めた。
- 崇文は成都に入って大通りに駐屯して士卒を休ませた。市も店も驚かず、珍宝が山と積まれても秋毫も犯さなかった。劉闢を檻に入れて京師に送り、闢の大将の邢泚と館駅巡官の沈衍を斬っただけで、他は問わなかった。軍府の事は大小を問わずすべて韋南康(韋皋)の先例に従うよう命じ、ゆったりと指図して、一境はみな平らいだ。
- はじめ韋皋は西山運糧使の崔従に卭州の事を知らせていた。劉闢が反すると従は書で諫めた。闢は兵を発して攻めたが、従は城に籠もって固く守り、闢が敗れて助かった。従は崔融の曾孫である。
- 韋皋の参佐の房式・韋乾度・独孤密・符載・郗士美・段文昌らは素服に麻鞋で土を銜んで罪を請うた。崇文はみな釈して礼遇し、表を草して式らを薦め、厚く餞して送り出した。段文昌には目をやって「君は必ず将相となられる。あえて薦めますまい」と言った。載は廬山の人、式は房琯の甥、文昌は段志玄の玄孫である。
- 闢には二人の妾があっていずれも絶世の美人であった。監軍が献上を請うと、崇文は言った。「天子は我に凶悪な小者を討ち平らげよと命じられた。まず百姓を撫でることを先とすべきだ。急いで婦人を献じて媚びを求めるのが、どうして天子の意であろうか。崇文は義においてこれをせぬ」。そして妻のない将吏に配した。
- 杜黄裳の蜀征討の建議、および高崇文への方略の指授は、みな遠く離れていながら事の宜しきに合致した。崇文はもとより劉澭を憚っていたので、黄裳は人に言わせた。「もし功がなければ劉澭をお前に代えよう」。ゆえにその死力を得られたのである。蜀が平定されて宰相が入って祝したとき、帝は黄裳に目をやって「卿の功である」と言った。
- 冬十月、制して資・簡・陵・栄・昌・瀘の六州を割いて東川に隷属させた。房式らはまだ京師に着かぬうちに、みな省寺の官に除された。丙寅、高崇文を西川節度使とした。戊辰、厳礪を東川節度使とした。庚午、将作監の柳晟を山南西道節度使とした。
- 晟が漢中に至ったとき、府の兵が劉闢を討って還る途中、まだ城に着かぬうちに、詔があらためて梓州の戍りへ遣わすことになった。軍士は怨り怒って監軍を脅し、乱を起こそうと謀った。晟はこれを聞いて急ぎ駆けて入城し、慰労した。そのうえで問うた。「お前たちはどうして功を成せたのか」。「反した劉闢を誅したからです」。晟は言った。「闢が詔命を受けなかったからこそ、お前たちは功を立てられたのだ。どうしてまた他人に、お前たちを誅して功とさせてよいものか」。衆はみな拝謝し、詔書のとおり戍所へ赴くことを請うた。軍府はこれによって安らぎを得た。
- 戊子、劉闢が長安に至り、一族党与ともども誅された。