通鑑紀事本末吐蕃、盟約に叛く(吐蕃叛盟)

徳宗が俘虜を返して吐蕃と和好を開き、建中四年(783年)の清水の盟に至ったものの、尚結贊が李晟・馬燧・渾瑊の三将を除こうと離間を仕掛け、貞元三年(787年)の平涼で盟壇を襲って渾瑊を取り逃がし、崔漢衡らを捕らえた「劫盟」の顛末を中心に据える。以後、李泌の屯田策、陸贄の「備辺六失」、塩州・三城の築城で北辺を固め、西では韋皋が連勝して論莽熱を捕らえ、長慶元年(821年)にようやく会盟が成った。末尾に太和五年(831年)の維州の悉怛謀をめぐる牛僧孺と李徳裕の是非を載せる。

年表(18件)

代宗大暦十四年(779年)――俘虜の送還

  • 秋八月。代宗の世、吐蕃はしばしば使者を遣わして和を求めたが、侵略は止まなかった。代宗はその使者を前後八組ことごとく留め、老いて死ぬまで帰れぬ者もあった。捕らえた者はみな江南や嶺南に配流していた。
  • 徳宗は徳をもって懐けようとし、乙巳、随州司馬の韋倫を太常少卿として吐蕃に遣わし、俘虜五百人をことごとく集めて、それぞれに一揃いの衣を賜って帰した。

徳宗建中元年(780年)――和好の始まり

  • 吐蕃ははじめ韋倫が俘虜を返すと聞いても信じなかった。だが俘虜が国境に入り、それぞれ部落に帰って、新しい天子が宮人を出し禽獣を放ち、英邁な威と聖なる徳が中国にあまねく行き渡っていると語ると、吐蕃は大いに喜び、道を掃き清めて倫を迎えた。贊普はただちに使者を発して倫に従わせて入貢させ、あわせて弔いの品を届けた。癸卯、京師に至り、帝は礼をもって接した。
  • のちに蜀の将が「吐蕃は豺狼です。捕らえた俘虜を帰してはなりません」と上言した。帝は言った。「戎狄が塞を犯せば撃ち、服せば帰す。撃つのは威を示すため、帰すのは信を示すためだ。威と信が立たねば、どうして遠方を懐けられよう」。そしてことごとく帰させた。
  • 五月戊辰、韋倫を太常卿とした。乙酉、あらためて倫を吐蕃に遣わした。倫は帝が自ら盟約の文書を作って吐蕃と盟うよう請うたが、楊炎は対等の相手ではないとして、郭子儀らに文書を作らせて奏聞し、帝はただ裁可するだけにすべきだと請い、そのとおりとなった。
  • 吐蕃は韋倫が再び来たのを見ていよいよ喜んだ。十二月辛卯朔、倫が帰り、吐蕃はその宰相の論欽明思らを遣わして入貢させた。

建中二年(781年)――崔漢衡の使い

  • 春三月、殿中少監の崔漢衡を吐蕃に遣わした。
  • 崔漢衡が吐蕃に至ると、贊普は、詔書に「貢献」および「賜う」とあるのはまったく臣下の礼で扱うものだと言い、また雲州の西は賀蘭山を境とすべきだと言って、漢衡にあらためて請い直すよう迫った。丁未、漢衡は判官を吐蕃の使者とともに入奏させ、帝は詔書を改め、境界もみなその請いのとおりにした。

建中三年(782年)

  • 夏四月庚申、吐蕃がかつて捕らえ掠めた兵と民八百人を返した。
  • 秋九月癸卯、殿中少監の崔漢衡が吐蕃から帰り、贊普はその臣の区頰贊を漢衡に従わせて謁見させた。
  • 冬十月、都官員外郎の樊沢を吐蕃に遣わして、盟約の期日を告げた。

建中四年(783年)――清水の盟

  • 春正月丁亥、隴右節度使の張鎰が吐蕃の尚結贊と清水で盟った。
  • 二月戊申朔、鴻臚卿の崔漢衡に区頰贊を吐蕃へ送り返させた。
  • 夏四月、帝は宰相・尚書に吐蕃の区頰贊と豊邑里で盟わせようとしたが、区頰贊は清水の盟で国境がまだ定まっていないとして盟わなかった。己未、崔漢衡を吐蕃に入らせ、贊普のもとで決めさせた。
  • 六月庚午、答蕃判官の監察御史の于頔が吐蕃の使者の論刺没蔵とともに青海から来て、国境はすでに定まったと言い、区頰贊を帰国させるよう請うた。
  • 秋七月甲申、礼部尚書の李揆を入蕃会盟使とした。壬辰、詔して諸将が区頰贊と城の西で盟った。李揆には才望があり、盧杞はこれを憎んでいたので吐蕃に入らせたのである。揆は帝に言った。「臣は遠行を憚りはしませんが、道中で死んで詔命を伝えられぬことを恐れます」。帝は痛ましく思い、杞に「揆は年を取りすぎてはいないか」と言った。杞は答えた。「遠夷への使者は、朝廷の故事に通じた者でなければ務まりません。それに揆が行けば、今後、揆より若い者は遠方への使いを辞退できなくなりましょう」。

興元元年(784年)――伊西北庭の地をめぐって

  • 春正月、吐蕃の尚結贊が兵を出して唐の京城回復を助けたいと請うた。庚子、秘書監の崔漢衡を吐蕃に遣わしてその兵を発させた。
  • 夏四月、吐蕃はその将の論莽羅依に兵二万を率いさせ、曹子達に従って武川亭で韓旻を撃ち破った。
  • 五月、吐蕃は韓旻を破ったのち、大いに掠奪して去った。帝は大いに憂えて陸贄に問い、贄は吐蕃の形勢を詳しく述べた。
  • はじめ帝は吐蕃の兵を発して朱泚を討たせるにあたり、成功したら伊西・北庭の地を与えると約束していた。泚が誅されると、吐蕃は地を求めに来た。帝は両鎮節度使の郭昕・李元忠を朝廷に召し戻し、その地を与えようとした。
  • 李泌が言った。「安西・北庭の人は気性が驍悍で、西域五十七国と十姓突厥を制し、また吐蕃の勢いを分けて兵を併せて東へ侵すことができぬようにしております。それをどうして手をこまねいて与えるのですか。しかも両鎮の人は勢い孤立し地は遠く、忠を尽くし力を竭くして国家のために固く守ること二十年近く、まことに憐れむべきです。それを一朝にして棄てて戎狄に与えれば、彼らの心は必ず中国を深く怨み、後日、吐蕃に従って侵入するとき私怨を報いるがごとくになりましょう。まして先ごろ吐蕃は様子を窺って進まず、ひそかに二股をかけ、武功を大いに掠め、賄賂を受けて去った。何の功がありましょう」。衆議もそのとおりだとし、帝はついに与えなかった。

貞元二年(786年)――尚結贊の来寇と離間

  • 秋八月丙戌、吐蕃の尚結贊が大挙して涇・隴・邠寧を侵し、人畜を掠め禾稼を刈り取った。西の辺境は騒然として州県はそれぞれ城を守った。詔して渾瑊に一万人、駱元光に八千人を率いさせて咸陽に駐屯させ、備えさせた。
  • 吐蕃の遊騎が好畤に及び、乙巳、京城は戒厳された。あらためて左金吾将軍の張献甫を咸陽に駐屯させた。民間では帝がまた吐蕃を避けて都を出るという噂が流れた。斉映は帝に言った。「外では、陛下がすでに旅装を整え、糒を用意されたと申し、人情は恐れおののいております。大きな福は二度とは来ません。陛下はどうして臣らと熟議なさらぬのですか」。そして地に伏して涙を流し、帝も顔色を動かした。
  • 李晟は将の王佖に驍勇三千を率いさせて汧城に伏せさせ、こう戒めた。「虜が城下を過ぎても、その先頭を撃つな。先頭を破っても、全軍が来ればお前では敵うまい。前軍が過ぎるのを待ち、五方の旗と虎豹の衣が見えたらそれが中軍だ。不意を衝いて撃てば必ず大勝する」。佖はその言に従い、尚結贊は敗走した。軍士は尚結贊の顔を知らず、彼はかろうじて逃れた。
  • 尚結贊は配下に言った。「唐の良将は李晟・馬燧・渾瑊だけだ。計略でこれを除く」。そして鳳翔の境内に入っても何も掠奪せず、兵二万でまっすぐ城下に至って言った。「李令公がわしを召したのだ。なぜ出て労ってくれぬ」。一泊して引き揚げた。
  • 冬十月癸亥、李晟は蕃落使の野詩良輔と王佖に歩騎五千を率いさせて吐蕃の摧沙堡を襲わせた。壬申、吐蕃二万の衆に遭って戦って破り、勝ちに乗じて堡の下まで追い、攻めて抜き、その将の扈屈律悉蒙を斬り、蓄えを焼いて還った。
  • 尚結贊は兵を率いて寧・慶から北へ去り、癸酉、合水の北に陣した。邠寧節度使の韓遊瓌は将の史履程に夜襲させて数百人を殺した。吐蕃が追うと、遊瓌は平川に陣し、ひそかに人を西山で太鼓を打たせた。虜は驚いて掠奪した物を棄てて去った。
  • 十一月辛丑、吐蕃が塩州を侵し、刺史の杜彦光に「わしは城が欲しいだけだ。お前は人を率いて去るがよい」と言った。彦光は衆を挙げて鄜州へ逃れ、吐蕃が入って拠った。
  • 十二月、吐蕃はまた夏州を侵し、やはり刺史の托跋乾暉に衆を率いて去らせ、その城に拠った。また銀州を侵したが、州にはもとより城壁がなく、吏民はみな潰え、吐蕃もこれを棄てた。さらに麟州を陥れた。
  • 韓遊瓌が兵を発して塩州を攻めることを奏請し、吐蕃が救援に来たら河東に背後を襲わせようとした。丙寅、詔して駱元光および陳許兵馬使の韓全義に歩騎一万二千を率いて邠寧軍と合流し塩州へ向かわせ、また馬燧に河東軍で吐蕃を撃たせた。燧が石州に至ると、河曲の六胡州はみな降り、雲州・朔州の間に移された。
  • 工部侍郎の張彧は李晟の婿である。晟は鳳翔にあって娘を幕客の崔樞に嫁がせ、樞を彧より重んじたので、彧は怒って張延賞に付いた。給事中の鄭雲逵はかつて晟の行軍司馬であったが晟の意に添わず、これも延賞に付いた。帝もまた晟の功名を忌んでいた。折しも吐蕃の離間の言があり、延賞らは朝廷で誹謗して至らぬところがなかった。晟はこれを聞いて昼夜泣き、目が腫れるほどであった。子弟をことごとく長安に遣わし、上表して剃髪して僧になりたいと請うたが、帝は慰め諭して許さなかった。
  • 辛未、晟は入朝して帝に会い、自ら足の病を訴えて鎮を辞したいと懇願したが、帝は許さなかった。韓滉はもとより晟と親しかったので、帝は滉と劉玄佐に晟へ意を伝えさせ、延賞と怨みを解かせた。晟は詔を奉じ、滉らは延賞を晟の邸へ連れて行って謝らせ、兄弟の契りを結んで宴を張って楽しみを尽くし、また滉と玄佐の邸でも同様に宴を開いた。滉はそこで晟に延賞を宰相に薦める表を出させた。

貞元三年(787年)――平涼の劫盟

  • 春正月壬寅、左僕射の張延賞を同平章事とした。李晟は子のために延賞に縁組を請うたが、延賞は許さなかった。晟は人に言った。「武夫は気性がさっぱりしていて、杯を交わす間に怨みを解けば、もう胸に溜め込まない。文士は違って犯しがたく、外では和解しても内には恨みを蓄えたままだ。わしはどうして恐れずにおれよう」。
  • 二月壬戌、検校左庶子の崔澣を入吐蕃使に充てた。三月丁酉、左庶子の李銛を入吐蕃使に充てた。
  • はじめ吐蕃の尚結贊は塩州・夏州を得てそれぞれ千余人を残して守らせ、退いて鳴沙に駐屯した。冬から春にかけて羊馬が多く死に、糧の輸送も続かない。そのうえ李晟が摧沙を落とし、馬燧・渾瑊らがそれぞれ兵を挙げて臨んでいると聞いて大いに恐れ、しばしば使者を遣わして和を求めた。帝が許さぬので、使者を遣わして言葉を低くし礼を厚くして馬燧に和を求め、あわせて清水の盟を修めて侵した地を返したいと請い、使者は道に絶えなかった。
  • 燧はその言を信じ、石州に駐屯したまま河を渡らず、朝廷に取りなした。李晟は「戎狄に信はない。撃つに如くはない」と言い、韓遊瓌は「吐蕃は弱ければ盟を求め、強ければ侵入します。今、深く塞内に入りながら盟を求めるのは、必ず偽りです」と言った。韓滉は言った。「今、両河に憂いはありません。もし原・鄯・洮・渭の四州に城を築き、李晟・劉玄佐らに十万の衆を率いて守らせれば、河湟の二十余州は回復できます。その資糧の費用は臣が引き受けます」。
  • 帝はそこで燧の計を聴かず、進軍を促した。燧は吐蕃の使者の論頰熱とともに入朝して論じたいと請うた。折しも滉が薨じ、燧と延賞はともに晟と隙があったので、その謀を覆そうとして、争って和親が便宜だと言った。帝もまた回紇を恨んでおり、吐蕃と和して共に回紇を撃ちたいと思っていたので、二人の言が自分の考えにぴたりと合い、方針は定まった。
  • 延賞はしばしば、晟に長く兵を掌らせるべきではない、鄭雲逵に代えるよう請うた。帝は「自分で後任を選ばせよう」と言い、晟に言った。「朕は百姓のために吐蕃と和親することを決めた。大臣はすでに吐蕃と怨みがあるから、鳳翔に戻ってはならぬ。朝廷に留まって朝夕朕を輔けよ。自ら一人選んで鳳翔に代われ」。晟は都虞候の邢君牙を薦めた。君牙は楽寿の人である。丙午、君牙を鳳翔尹兼団練使とした。丁未、晟に太尉・中書令を加え、勲と封はもとのままとし、他はみな罷めた。
  • 晟は鳳翔にいたとき、僚佐に言ったことがある。「魏徴は直諫を好んだ。わしはひそかにこれを慕う」。行軍司馬の李叔度が「それは儒者のすることで、勲功と徳のある方にふさわしいことではありません」と言うと、晟は襟を正して言った。「司馬、それは失言だ。晟は将と相を兼ねる任にある。朝廷の得失を知りながら言わずして、どうして臣たりえよう」。叔度は恥じて退いた。朝廷にあっても、帝の下問には言を尽くして隠すところがなく、性は沈着で慎み深く、決して人に漏らさなかった。
  • 辛亥、馬燧が入朝した。燧が来てから諸軍はみな壁を閉ざして戦わなくなり、尚結贊はにわかに鳴沙から引き揚げたが、その衆は馬に乏しく、徒歩の者が多かった。
  • 崔澣が尚結贊に会って約束に背いたことを責めると、尚結贊は言った。「吐蕃は朱泚を破りながら賞を得られなかった。それゆえ来たのだが、諸州はそれぞれ城を守って、こちらの言い分を通す術がなかった。塩・夏を守っていた者が城を我らに授けて逃げたのであって、我らが取ったのではない。今、明公が来られて旧好を修めようとされるのは、もとより吐蕃の願うところだ。今、吐蕃の将相以下、来ている者が二十一人ある。渾侍中はかつてともに事に当たり、その忠信を知っている。霊州節度使の杜希全、涇原節度使の李観はいずれも誠実篤厚が異域にまで聞こえている。どうかこの者たちに盟を主宰させてほしい」。
  • 夏四月丙寅、澣は長安に至った。辛未、澣を鴻臚卿としてあらためて吐蕃に入らせ、尚結贊に伝えさせた。「希全は霊州を守っており国境を出られぬ。李観はすでに官を替わった。今、渾瑊を遣わして清水で盟わせる。まず塩・夏の二州を返せ」。
  • 五月甲申、渾瑊が咸陽から入朝し、清水会盟使とした。戊子、兵部尚書の崔漢衡を副使、司封員外郎の鄭叔矩を判官、特進の宋奉朝を都監とした。己丑、瑊は二万余人を率いて盟所へ赴いた。
  • 乙巳、尚結贊は属官の論泣贊を遣わして「清水は吉地ではない。原州の土梨樹で盟いたい。盟ってから塩・夏の二州を返す」と言ってきた。帝はみな許した。神策将の馬有麟が「土梨樹は険阻が多く、吐蕃が伏兵を置くのが心配です。平涼川の平坦な地に及びません」と奏した。そのとき論泣贊はすでに帰途にあったので、丁未、使者を遣わして追いかけて告げた。
  • はじめ韓滉は劉玄佐なら兵を率いて河湟を回復させられると薦めた。帝が玄佐に問うと、玄佐も賛成した。だが滉が薨じると、玄佐は「吐蕃は今まさに強く、争うべきではありません」と奏した。帝が中使を遣わして玄佐を労い問わせると、玄佐は臥したまま命を受けた。張延賞は玄佐が使えぬと知って、河湟の事を李抱真に委ねるよう奏したが、抱真も固辞した。これはみな延賞が李晟の兵権を奪ったために、武臣がみな憤って心が離れ、働こうとしなかったからである。
  • 渾瑊が長安を発つとき、李晟は深く戒めて、盟所での備えを厳重にせねばならぬと言った。張延賞は帝に言った。「晟は盟好の成ることを望まぬゆえ、瑊に厳重な備えを戒めたのです。こちらに彼を疑う様子があれば、彼もまたこちらを疑いましょう。盟がどうして成りましょうか」。帝はそこで瑊を召し、誠意をもって虜に接し、自ら猜疑して虜の心を阻むなと厳しく戒めた。
  • 瑊が吐蕃は辛未に盟うことに決したと奏すると、延賞は百官を集め、瑊の表を詔と称して示して言った。「李太尉は吐蕃との和好は必ず成らぬと言われた。これが渾侍中の表である。盟の日は定まった」。晟はこれを聞いて泣き、親しい者に言った。「わしは西の辺境で生まれ育ち、虜の実情をよく知っている。論奏したのは、ただ朝廷が犬戎に侮られるのを恥じたからだ」。
  • 帝ははじめ駱元光を潘原に、韓遊瓌を洛口に駐屯させて瑊の後詰めとした。元光は瑊に言った。「潘原は盟所から七十里もあります。公に急があっても、元光にどうして分かりましょう。ご一緒させてください」。瑊は詔の趣旨を理由に固く止めたが、元光は従わず、瑊と営を連ねて並び、盟所から三十余里のところに陣した。元光の壕と柵は深く堅固で、瑊の壕と柵はいずれも越えられるほどであった。元光は営の西に兵を伏せ、韓遊瓌も五百騎をその側に伏せて「もし変があれば、お前たちはまず柏泉へ向かってその勢いを分けよ」と言った。
  • 尚結贊は瑊と、それぞれ甲士三千人を壇の東西に並べ、常服の者四百人が従って壇下に至ることを約した。辛未、盟おうとするとき、尚結贊はさらに、それぞれ遊騎数十を出して互いに偵察し合いたいと請い、瑊はみな許した。
  • 吐蕃は精騎数万を壇の西に伏せていた。遊騎は唐軍を自由に貫いて出入りしたが、唐の騎で虜の軍に入った者はことごとく捕らえられた。瑊らはそれをまったく知らず、幕に入って礼服に着替えた。虜が太鼓を三度打ち、大声をあげて押し寄せ、宋奉朝らを幕中で殺した。瑊は幕の後ろから出て、たまたま他人の馬を得てこれに乗り、たてがみに伏せて轡を口に含ませ、十余里走ってようやく轡が馬の口に収まった。それゆえ矢は背をかすめても傷つかなかった。
  • 唐の将卒はみな東へ走り、虜は兵を放って追撃し、殺し、あるいは捕らえて、死者は数百人、捕らえられた者は千余人。崔漢衡は虜の騎に捕らえられた。渾瑊がその営に至ると、将卒はみな逃げ去って営は空だった。駱元光は伏兵を出して陣を成して待ち受け、虜の追騎は驚いて目を見張った。瑊が元光の営に入ると、追騎は邠寧軍が西へ駆けるのを見て引き返した。元光は輜重を瑊に融通し、瑊とともに散兵を収め、兵を勒し陣を整えて還った。
  • この日、帝は朝に臨んで諸相に言った。「今日、戎と和して兵を息める。社稷の福である」。馬燧が「そのとおりです」と言うと、柳渾は言った。「戎狄は豺狼です。盟誓で結べる相手ではありません。今日のこと、臣はひそかに憂えております」。李晟が「まことに渾の言うとおりです」と言うと、帝は顔色を変えて言った。「柳渾は書生ゆえ辺境の計を知らぬ。大臣までがこんなことを言うのか」。二人はみな地に伏して頓首して謝し、そのまま朝は罷んだ。
  • その夕、韓遊瓌が表を上げて、盟を劫かした虜の兵が近くの鎮に迫っていると言ってきた。帝は大いに驚き、急ぎその表を渾に示させた。翌朝、渾に言った。「卿は書生でありながら、これほど的確に敵を計れるのか」。帝は吐蕃を避けて都を出ようとしたが、大臣が諫めてやめた。
  • 李晟の大安園には竹が多かった。「晟は大安亭に兵を伏せ、混乱に乗じて変を起こそうとしている」という流言を作る者があり、晟はその竹を伐り払った。
  • 癸酉、帝は中使の王子恒に詔を持たせて尚結贊に届けさせたが、吐蕃の境に至って受け入れられずに還った。渾瑊は奉天に留まって駐屯した。
  • 甲戌、尚結贊は旧原州に至り、崔漢衡らを引見して言った。「わしは金の械を飾って瑊を械にかけて贊普に献じるつもりだった。今、瑊を取り逃がして、むだに公らを連れて来ることになった」。また馬燧の甥の弇に言った。「胡は馬を命とする。わしが河曲にいたとき、春草はまだ生えず、馬は足も上げられなかった。あのとき侍中が河を渡って襲っていたら、わしの全軍は覆っていた。和を求めたのは侍中の力を頼りにしたからだ。今、全軍が帰ることができたのに、どうしてその子孫を拘えられよう」。そして弇を宦官の倶文珍、渾瑊の将の馬寧とともに帰し、崔漢衡らは河州・廓州・鄯州に分けて囚えた。帝は尚結贊の言を聞いて、これより馬燧を憎むようになった。
  • 六月丙戌、馬燧を司徒兼侍中とし、その副元帥・節度使を罷めた。
  • はじめ吐蕃の尚結贊は李晟・馬燧・渾瑊を憎み、「この三人を除けば唐は図れる」と言っていた。そこで李晟を離間し、馬燧を通じて和を求め、渾瑊を捕らえて燧を売り、二人ともに罪を得させ、そのうえで兵を放ってまっすぐ長安を犯そうとしたのである。たまたま渾瑊を取り逃がしてやめただけであった。張延賞は恥じ恐れ、病と称して政務を執らなくなった。
  • 塩州・夏州を戍っていた吐蕃兵は輸送が続かず、多くが病んで帰りたがった。尚結贊は三千騎を遣わして迎えさせ、その家屋をことごとく焼き、城を毀ち、民を駆り立てて去った。霊塩節度使の杜希全は兵を遣わして分けて守らせた。

李泌の建言

  • 壬寅、李泌が李晟・馬燧・柳渾とともに参内した。泌は帝に言った。「李晟と馬燧は国に大功があります。これを讒言する者があると聞きますが、陛下は必ずやお聴きにはなりますまい。しかし臣は今日、二人の前でこれを申し上げます。彼らに自ら疑わせぬためです。陛下が万一この二人を害されれば、宿衛の士も方鎮の臣も憤り嘆いて落ち着かなくなり、中外の変が幾日もせずにまた起こるのを恐れます」。
  • 「今、晟と燧は富貴すでに十分です。陛下が坦然と待遇して自ら身を保たせ、憂いなくしてやれば、国家に事があれば出て征伐に従い、事がなければ入って朝廷に伺候する。これに勝る楽しみがありましょうか。それゆえ臣は、陛下が二臣の功が大きいからといって忌まれぬこと、二臣が位が高いからといって自ら疑わぬことを願います。そうなれば天下は永く無事です」。
  • 帝は言った。「朕ははじめ卿の言を聞いてぞっとし、何のことか分からなかった。卿の分析を聴いて、社稷のこの上ない計だと知った。朕は謹んで帯に書きつけよう。二人の大臣もまたともにこれを保つべきである」。晟と燧はみな立ち上がって泣いて謝した。

屯田と府兵の議

  • このころ関東の防秋の兵が大挙して集まり、国用が足りなかった。帝が李泌に府兵回復の策を問うと、こう答えた。「今年、関東の兵を徴発して京西を戍らせる者は十七万人。毎年の食糧は粟二百四万斛と計算されます。今、粟は一斗百五十銭ですから、銭にして三百六万緡。国家は近ごろ飢饉と乱に遭って経費が足りず、たとい銭があっても買う粟がありません。府兵回復を議する余裕はありません」。
  • 帝が「ではどうする。急ぎ戍卒を減らして帰らせるのはどうか」と言うと、泌は答えた。「陛下がまことに臣の言を用いられるなら、戍卒を減らさず、百姓を煩わせず、糧食はみな足り、粟麦は日ごとに安くなり、府兵も成りましょう」。「本当にそうできるなら、なぜ用いぬことがあろう」。
  • 泌は言った。「これは急ぎ行わねばなりません。十日を過ぎれば間に合いません。今、吐蕃は長く原州・蘭州の間に居り、牛で糧を運んでおります。糧が尽きれば牛は用がなくなる。左蔵の質の悪い繒を出して染めて綵纈とし、党項を通じて買い取らせてください。一頭につき二、三匹を出ぬくらいですから、十八万匹で六万余頭が手に入る計算です。また諸々の鋳造所に農具を作らせ、麦の種を買って辺境の軍鎮に分け賜り、戍卒を募って荒れ地を耕して播かせる。来年、麦が熟したら種の倍を返させ、その残りは時価に五分の一を加えて官が買い上げる。来春の禾もこれと同じにする」。
  • 「関中は土が肥えて久しく荒れておりますから、収穫は必ず厚い。戍卒は利を得、耕す者は次第に増えます。辺地は住民が甚だ少なく、軍は七月まで官の糧を食いますから、粟麦は売り先がなく、値は必ず下がる。名目は値を加えるようでも、実は今年の支出より減るところが多いのです」。帝は「よろしい」と言い、ただちに実行させた。泌はまた、辺地には官の欠員が多いので、粟を納めた者に補わせるよう募れば、今年の糧はまかなえると言い、帝もこれに従った。
  • そこで帝が「卿が府兵も成ると言ったのはどういうことか」と問うと、こう答えた。「戍卒が屯田によって富めば、その土地に安んじて帰りたいとは思わなくなります。旧制では戍卒は三年で交代しますが、任期が満ちる頃に、留まりたい者があれば開いた田をそのまま永業として与えると令を下す。家族が来たいと言えば、本籍地から長期の通行証を出し、道中の食を続けて送り出す。応募した数を本道に通知すれば、河朔の諸帥も交代の煩わしさを免れて喜ぶでしょう。数回も繰り返せば戍卒はみな土着します。そこでことごとく府兵の法で治める。これは関中の疲弊を富強に変えることです」。
  • 帝は喜んで「そうなれば天下にもう事はない」と言った。泌は「まだです。臣は中国の兵を用いずに吐蕃を自ら困らせることができます」と言った。帝が「どんな計か」と問うと、「まだ申し上げられません。麦と禾に成果が出てからのちに議すべきです」と答え、帝が強いて問うても答えなかった。
  • 泌の意図は、回紇・大食・雲南と結んでともに吐蕃を図り、吐蕃に備えるべき方面を多くさせることにあった。だが帝はもとより回紇を恨んでいたので、それを聞けば不快になって屯田の議まで行われなくなると思い、言わなかったのである。やがて戍卒で応募して屯田を耕したがった者は十のうち五、六に上った。
  • 左僕射・同平章事の張延賞が薨じた。

秋の来寇

  • 秋八月、吐蕃の尚結贊は五騎に崔漢衡を送り帰させ、あわせて表を上げて和を求めた。潘原に至ったところで李観が「受け入れるなという詔がある」と伝え、吐蕃の使者からその表だけ受け取って本人は帰した。
  • 戊申、吐蕃が羌・渾の衆を率いて隴州を侵し、営を数十里に連ねた。京城は震え恐れた。九月丁卯、神策将の石季章を武功に、決勝軍使の唐良臣を百里城に戍らせた。丁巳、吐蕃は汧陽・呉山・華亭を大いに掠め、老弱を殺し、あるいは手を切り目を抉って棄てて去り、丁壮一万余口を駆り立てて、みな安化峡の西に送り、羌・渾に分属させようとした。そこで告げて言った。「東を向いて故郷に別れを告げて泣くがよい」。衆は大いに哭し、崖や谷に身を投げて死傷した者が千余人であった。
  • ほどなく吐蕃の衆がまた来て隴州を囲んだが、刺史の韓清沔が神策副将の蘇太平とともに夜、兵を出して撃退した。
  • 吐蕃が華亭と連雲堡を侵していずれも陥れた。甲戌、二城の民数千人と邠・涇の人畜を万を数えるほど駆り立てて去り、弾箏峡の西に置いた。涇州は連雲を斥候の拠点としていたので、連雲が陥ちてからは西門が開かず、門外はみな虜の領域となり、薪や飼葉を採る路も絶えた。収穫のたびに兵を並べて守らねばならず、時期を失って空の穂を得るばかりで、これより涇州は常に食糧不足に苦しんだ。
  • 冬十月甲申、吐蕃が豊義城を侵し、前鋒は大回原に至ったが、邠寧節度使の韓遊瓌が撃退した。乙酉、また長武城を侵し、さらに旧原州に城を築いて駐屯した。
  • 吐蕃は厳寒を苦にして侵入せず、また糧の輸送が続かなかった。十一月、詔して渾瑊を河中に、李元諒を華州に帰らせ、劉昌にはその衆五千を分けて汴州に帰らせ、残りの防秋の兵は鳳翔・京兆の諸県に退いて駐屯し、食を得させた。

貞元四年(788年)――盛夏の来寇

  • 春二月、劉昌が連雲堡を築き直した。
  • 夏五月、吐蕃三万余騎が涇・邠・寧・慶・鄜などの州を侵した。これより先、吐蕃は常に秋冬に侵入し、春になると疫病が多発して退いていた。ところがこのときは唐人を捕らえてその妻子を人質とし、将に率いさせて盛夏に侵入した。諸州はみな城を守り、あえて戦う者がなく、吐蕃は人畜を万を数えるほど掠めて去った。
  • 秋九月庚申、吐蕃の尚志董星が寧州を侵したが、張献甫が撃退した。吐蕃は鄜・坊へ転じて掠めて去った。
  • 冬十月、吐蕃は兵十万を発して西川を侵し、兵を分けて四万で両林・驃旁を攻め、三万で東蠻を攻め、七千で清渓関を侵し、五千で銅山を侵した。韋皋は黎州刺史の韋晋らを遣わして東蠻と兵を連ねて防がせ、清渓関の外で吐蕃を破った。
  • 十一月、吐蕃は先日の敗北を恥じ、あらためて二万の衆で清渓関を、一万で東蠻を攻めた。韋皋は韋晋に要衝城を鎮めさせて諸軍を督して防がせ、嶲州経略使の劉朝彩らが関を出て連戦し、乙卯から癸亥まで戦って大破した。

貞元五年(789年)――台登谷の大勝

  • 冬十月、韋皋は将の王有道に兵を率いさせ、東蠻・両林蠻とともに吐蕃の青海・臘城の二節度を嶲州の台登谷で大破し、二千級を斬り、崖から落ちた者や溺死した者は数えきれなかった。その大兵馬使の乞蔵遮遮を殺した。乞蔵遮遮は虜の驍将であり、その死後、皋の攻める城や柵で落ちぬものはなく、数年で嶲州の全域を回復した。

貞元七年(791年)

  • 秋八月、吐蕃が霊州を攻めたが回鶻に敗れて夜逃げした。九月、回鶻が使者を遣わして俘虜を献じた。冬十二月甲午、また使者を遣わして捕らえた吐蕃の酋長の尚結心を献じた。

貞元八年(792年)

  • 夏四月壬子、吐蕃が霊州を侵して水口の支渠を陥れ、営田を荒らした。詔して河東・振武に救わせ、神策と六軍の二千を遣わして定遠・懐遠城を戍らせると、吐蕃は退いた。
  • 六月、吐蕃千余騎が涇州を侵し、田軍千余人を掠めて去った。
  • 秋八月、韋皋が吐蕃の維州を攻め、その大将の論贊熱を捕らえた。

貞元九年(793年)――塩州の築城と陸贄の「備辺六失」

  • はじめ塩州が陥落してから塞外に守りの拠り所がなくなり、吐蕃は常に霊武を遮断し鄜・坊を侵していた。辛酉、詔して兵三万五千を発して塩州に城を築かせ、あわせて涇原・山南・剣南にそれぞれ兵を発して吐蕃領内に深く入り、その勢いを分けさせた。城は二十日で完成し、塩州節度使の杜彦光に守らせ、朔方都虞候の楊朝晟に木波堡を守らせた。これによって霊武・銀夏・河西は安らぎを得た。
  • 夏五月、陸贄が上奏して辺備の六つの失を論じた。すなわち、措置が方を誤っていること、功過の考課が度を失っていること、兵が多すぎて財が乏しいこと、将が多すぎて力が分かれていること、不均衡から怨みが生じていること、遠隔からの統制で機会を失っていることである。

第一――措置が方を誤る

  • 「関東の戍卒は土地の風土に慣れず、身は辺境の荒れ地に苦しみ、心は戎虜を畏れております。国家がこれを養うことは驕った子のごとく、その機嫌を取ることは雇い人のごとくです。指を折って帰る日を数え、口を開けて食を待つばかり。あるいは王師の敗北を利として騒ぎに乗じて東へ潰え、あるいは城鎮を棄てて遠近の心を動揺させる。無益であるどころか、実際に害があります。そのうえ刑を犯して流された者もあり、もともと不良の輩であるうえに、故郷を思う心が加わって、乱を思い災いを喜ぶことがいっそう甚だしい。戍卒については、措置が方を誤っていると申せましょう」。

第二――考課が度を失う

  • 「近ごろ権は下に移り、柄は朝廷から失われました。将の号令すら軍に行われることがまれであり、国の常典もまた将に施すことができません。互いにかばい合い、なんとか年月を過ごすばかり。功のある一人を賞そうとすれば、功のない者が不穏になるのを慮り、罪のある一人を罰しようとすれば、同類の者が不安がるのを慮る。罪は堪え忍んで表沙汰にせず、功は嫌疑を避けて賞さない。機嫌取りの道はここまで来ております」。
  • 「そのため身を忘れて節を尽くす者が同輩に譏られ、衆を率いて先登する者が士卒に怨まれ、軍を潰し国を縮ませた者が恥じも恐れもせず、救援を緩めて期を失した者が自ら智能と思う。これこそ義士が心を痛め、勇夫が心を離すゆえんです。考課が度を失っていると申せましょう」。

第三――兵が多すぎて財が乏しい

  • 「虜が侵入するたびに、将帥は互いに責任を押しつけ合って、誰も咎める者がない。賊の勢いを誇張して報告し、上聞に達すれば『兵が少なくて敵わぬ』と言う。朝廷はそれを検証もせず、ひたすら徴発に努めます。軍を増しても防禦の功はなく、ただ供給の弊を重ねるばかり。里は日ごとに衰え、徴発は日ごとに繁くなる。戸ごとに家を傾け産を破る資と、有司の塩の専売や酒の税の利とを合わせ、その収入の総額の半ばを辺境に費やしております。兵が多すぎて財が乏しいと申せましょう」。

第四――将が多すぎて力が分かれる

  • 「吐蕃の国中の兵となりうる者は、中国の十数の大郡に当たるにすぎません。それでも動けば中国はその衆を恐れてあえて抗せず、静まれば中国はその強きを憚ってあえて侵さぬ。これはどういう理由か。まことに中国の指揮系統が多岐にわたり、蕃の統帥が専一であるからです。統帥が専一なら人心は分かれず、号令は二つにならず、進退はそろい、緩急は意のままで、機会を逃さず、気勢は自ずと壮んになる。これこそ少をもって衆となし、弱をもって強となすものです」。
  • 「開元・天宝の間、西北の両蕃を制御していたのは朔方・河西・隴右の三節度だけでした。中興以来、外を討つ余裕はなく、両蕃に当たったのも朔方・涇原・隴右・河東の四節度だけです。ところが近ごろ朔方の地を分けて、牙を建て節を擁する者が三使に及び、その他の鎮軍は四十近くもあって、みな特別の詔を承けて任され、それぞれ宦官が監臨しております。人は互いに肩を並べ、統属することがない。辺境から急を告げる書が届いてはじめて協議して兵を用いる。軍法で臨むこともなく、ただ客の礼で遇し合うだけです。そもそも兵は気と勢いを働かせるもの。気は集まれば盛んになり散れば消え、勢いは合わされば威を成し分かれれば弱まる。今の辺備は勢い弱く気は消えており、将が多すぎて力が分かれていると申せましょう」。

第五――不均衡から怨みが生ずる

  • 「戎を治める要は、優劣を評定する仕組みを練り、それを衣食の等級の制度とし、能ある者には及ぼうと励ませ、能なき者には思いを断たせることにあります。厚薄の差があっても不満の種を残さぬようにするのです」。
  • 「今、辺境の果ての地に長く鎮する兵は、みな百戦して傷ついた者の残りであり、年中の勤苦の激しさに耐えております。それでいて支給される衣糧は本人の分だけで、しかも妻子に分けねばならず、常に凍え飢えた顔色をしている。ところが関東の戍卒は敵に当たるに臆病で労役に怠慢でありながら、支給される衣糧は数等も厚い。そのうえ、もともと禁旅でもなく元来は辺軍であった将校が、へつらいの言葉を作って遠隔のまま神策軍に隷属したいと請い、旧任地を離れず名目だけを変えて、俸給の潤沢は三倍にもなっている。仕事は変わらぬのに給養に差がある。よほど無心でなければ、誰が憤らずにおられましょう。不均衡から怨みが生ずると申せましょう」。

第六――遠隔からの統制で機会を失う

  • 「およそ将帥を選任しようとするなら、必ずまずその行いと能力を考察し、可なる者を遣わし、不可なる者を退ける。疑わしい者は使わず、使う者は疑わない。ゆえに将が軍にあるときは君命にも受けざるところがあるのです」。
  • 「近ごろ辺軍の去就の裁断は多く天子の胸中から出ており、戎臣を選び置くにも、まず制しやすいことを求め、その部を多く分けて力を分け、任を軽くして心を弱める。その結果、軍情に反することでも命に従い、事の宜しきに背くことでも命に従う。戎虜の突進は疾風のごとくなのに、駅の書が上聞に達し、十日たってようやく返答が来る。土地を守る者は兵が少ないからと敵に抗せず、鎮を分かたれた者は詔がないからと兵を出そうとしない。賊が掠奪をほしいままにして退いて帰れば、そこではじめて功を陳べ勝ちを告げる。損害は百を減じて一とし、獲物は百を張って千とする。将帥は統制が上にあることを幸いとして朝廷での罪を憂えず、陛下もまた大権が自分にあるとして事の実情を究めない。機会を遠隔の統制で失っていると申せましょう」。

建議

  • 「臣は愚かながら請います。諸道の将士の防秋の制度を罷め、本道はただ衣糧を供給するにとどめ、戍卒で留まることを願う者と蕃漢の子弟を募ってこれに給する。さらに屯田を多く開き、官が買い上げる。寇が来れば人はおのれのために戦い、時が来れば家はおのれのために農に励む。ふらりと来てふらりと去る者と、どうして同列に論じられましょう」。
  • 「また文武の能臣を選んで隴右・朔方・河東の三元帥とし、辺境沿いの諸節度を分けて統べさせ、要でないものはその近さに応じて併合する。そのうえで不正と無駄な費えを減らして財を豊かにし、衣糧の等級の制度を定めて衆を和し、委任の道を広くしてその働きを発揮させ、賞罰の典を掲げてその成果を考課する。こうすれば戎狄は威に服し徳に懐き、辺境は静まりましょう」。
  • 帝はすべてを従うことはできなかったが、内心これを大いに重んじた。
  • 韋皋が大将の董勔らに兵を率いて西山に出させ、吐蕃の衆を破って堡と柵五十余を抜いた。

貞元十年〜二十年(794–804年)――韋皋の連勝

  • 貞元十年(794年)、韋皋が峨和城で吐蕃を破ったと奏した。
  • 貞元十一年(795年)冬十月、南詔が吐蕃の昆明城を攻めて取り、また施・順の二蠻の王を捕らえた。
  • 貞元十三年(797年)春正月壬寅、吐蕃が使者を遣わして和親を請うたが、帝は吐蕃がしばしば約に背いたとして許さなかった。
  • 帝は方渠・合道・木波がいずれも吐蕃の要路であるとして城を築こうとし、邠寧節度使の楊朝晟に何ほどの兵が要るかを問わせた。朝晟は「邠寧の兵で足ります。他道を煩わすには及びません」と答えた。帝がまた「先に塩州に城を築いたときは兵七万を用いてやっと事が成った。今の三城はさらに虜の境に近い。兵は倍要るはずなのに、話が逆なのはなぜか」と問わせると、こう答えた。
  • 「塩州に城を築いた衆は、虜がみな知っておりました。今、本鎮の兵を発すれば十日足らずで塞下に至り、不意を衝いて城を築けます。虜は我らの衆もまた七万を下るまいと思い、その衆が集まらぬうちは軽々には犯して来ますまい。三十日とかからず城は成り、兵を留めて守らせれば、虜が来ても何もできません。城の周りは草が尽きて長くは留まれず、虜が退けば飼葉と糧を運び込んで充実させる。これが万全の策です。もし諸道の兵を大集すれば、一月を越えてようやく到着し、虜も衆を集めて来て我らと争い、勝敗は分かりません。城を築く暇などありましょうか」。帝は従った。
  • 二月、朝晟は軍を三つに分け、それぞれ一城を築かせた。軍吏が「方渠には井戸がなく軍を駐屯できません」と言うと、判官の孟子周は「方渠は太平の時分には住民が市を成していた。井戸がなくてどうして人が集まろう」と言い、涸れ井戸を浚わせると、果たして甘泉が湧いた。三月、三城が完成した。
  • 夏四月庚申、楊朝晟の軍が還って馬嶺に至ると、吐蕃がはじめて兵を出して追い、数日対峙して去った。朝晟はそのまま馬嶺にも城を築いて還った。開いた地は三百里、すべて彼の見立てどおりであった。
  • 吐蕃の贊普の乞立贊が卒し、子の足之煎が立った。
  • 六月、韋皋が、嶲州刺史の曹高仕が台登城下で吐蕃を破ったと奏した。
  • 貞元十四年(798年)冬十月、夏州節度使の韓全義が塩州の西北で吐蕃を破ったと奏した。
  • 貞元十五年(799年)夏四月、南詔の異牟尋が使者を遣わして韋皋とともに吐蕃を撃つことを約したが、皋は兵と糧がまだ集まらぬとして他年を待つよう請うた。冬十二月、吐蕃五万の衆が分かれて南詔と嶲州を撃った。異牟尋と韋皋はそれぞれ兵を発して防ぎ、吐蕃は功なく還った。
  • 貞元十六年(800年)夏五月、霊州が烏蘭橋で吐蕃を破った。吐蕃はしばしば韋皋に敗れ、この年、その曩貢・臘城など九節度の嬰籠官の馬定徳が部落を率いて降ってきた。定徳には智略があり、吐蕃の諸将は用兵にみなその謀策を仰ぎ、常に駅を乗り継いで事を計っていた。ここに至って戦績が振るわず罪を得ることを恐れ、逃れて来たのである。
  • 貞元十七年(801年)秋七月戊寅、吐蕃が塩州を侵した。己丑、吐蕃が麟州を陥れ、刺史の郭鋒を殺して城郭を平らげ、住民および党項の部落を掠めて去った。鋒は郭曜の子である。
  • 僧の延素が虜に捕らえられた。虜の将に徐舎人という者があり、延素に言った。「わしは英公(李勣)の五代の孫だ。武后のとき、わが高祖が義兵を挙げて成らず、子孫は異域に流れた。代々禄と位を得て兵を掌ってはいるが、本を思う心は忘れない。ただ一族が大きすぎて自ら抜け出す術がないだけだ。今、お前を帰してやろう」。そして放った。
  • 帝は使者を遣わして韋皋に、兵を出して吐蕃領内に深く入り、その勢いを分けて北辺の患いを和らげよと詔した。皋は将に兵二万を率いさせ、九道に分けて出し、吐蕃の維州・保州・松州および棲鶏・老翁城を攻めた。
  • 九月、韋皋が雅州で吐蕃を大破したと奏した。皋はしばしば吐蕃を破って千里を転戦し、あわせて城七つ、軍鎮五つを抜き、堡百五十を焼き、一万余級を斬り、六千人を捕らえ、三千戸を降し、そのまま維州と昆明城を囲んだ。冬十月庚子、皋に検校司徒兼中書令を加え、南康王の爵を賜った。南詔王の異牟尋の捕獲もとりわけ多く、帝は中使を遣わして慰撫した。
  • 貞元十八年(802年)春正月、吐蕃はその大相兼東鄙五道節度使の論莽熱に兵十万を率いさせて維州の囲みを解こうとした。西川の兵は険に拠って伏兵を設けて待ち、吐蕃が来ると千人を出して挑戦した。虜が全軍でこれを追ったところで伏兵が起こり、虜衆は大敗して論莽熱は捕らえられ、士卒の死者は大半に及んだ。維州と昆明はついに落とせず、兵を率いて還った。乙亥、皋は使者を遣わして論莽熱を献じ、帝はこれを受けた。
  • 貞元十九年(803年)夏四月、涇原節度使の劉昌が原州の治所を平涼に移すよう奏請し、許された。乙亥、吐蕃がその臣の論頰熱を遣わして入貢した。六月壬辰、右竜武大将軍の薛伾を吐蕃に遣わした。
  • 貞元二十年(804年)、吐蕃の贊普が死に、その弟が跡を継いだ。

憲宗元和年間(806–820年)――辺境の対峙

  • 元和三年(808年)春正月、臨涇の鎮将の郝玭は、臨涇の地が険要で水草も美しく、吐蕃が侵入するときは必ずその地に駐屯するとして、涇原節度使の段祐に言い、奏して城を築いた。これより涇原は安らぎを得た。冬十二月庚戌、行原州を臨涇に置き、鎮将の郝玭を刺史とした。
  • 元和四年(809年)。はじめ平涼の盟のとき、副元帥判官の路泌と会盟判官の鄭叔矩がともに吐蕃に囚われた。のちに吐蕃が和を請うたとき、泌の子の随が闕下に詣って号泣し、上表してその請いを容れるよう乞うたが、徳宗は吐蕃には偽りが多いとして許さなかった。ここに至って吐蕃がまた和を請うと、随はまた五度上表し、執政のもとに詣って泣いて請うた。裴垍と李藩もまた帝に言って和を許すよう請い、帝は従った。五月、祠部郎中の徐復を吐蕃に遣わした。
  • 秋九月丙辰、振武が、吐蕃五万余騎が拂梯泉に至ったと奏した。辛未、豊州が、吐蕃一万騎が大石谷に至り、入貢して帰国する回鶻を掠めたと奏した。
  • 元和五年(810年)夏五月庚申、吐蕃がその臣の論思邪熱を遣わして謁見させ、あわせて路泌と鄭叔矩の柩を返した。
  • 元和七年(812年)、吐蕃が涇州および西門の外を侵し、人畜を駆り立てて去った。帝はこれを憂えた。李絳が上言した。「京西・京北にはみな神策の鎮兵があります。もともとこれを置いたのは吐蕃に備え、節度使と掎角の勢いをなさせるためでした。ところが今は美服美食して官の費えを空しく食むばかり。寇が来るたびに節度使が一緒に進もうと誘っても『中尉の処分を仰ぐ』と言い、返答が来る頃には虜は遠く去っている。たとい果敢な将がいて命を聞いて駆けつけても、節度使には刑戮をもって制する権がなく、対等の交わりのように見合って、左右進退、誰も命を用いようとしない。何の益がありましょう。どうかその所在の地と士馬、衣糧、器械をみな当道の節度使に割いて隷属させ、号令を一つにして腕が指を使うようにさせてください。そうすれば軍威は大いに振るい、虜はあえて侵入しなくなりましょう」。帝は「朕は旧例がそんなことになっているとは知らなかった。速やかに行うべきだ」と言った。だが神策軍は驕り高ぶって久しく、節度使に隷属することを嫌い、ついに宦官に妨げられてやめになった。
  • 元和八年(813年)。はじめ吐蕃が烏蘭橋を架けようとして、あらかじめ材木を河のほとりに貯えていたが、朔方は常にひそかに人を遣わしてそれを河に投げ込ませ、ついに完成しなかった。虜は朔方霊塩節度使の王佖が貪欲なのを知り、まず厚く賄賂を贈り、そのうえで力を合わせて橋を完成させ、さらに月城を築いて守った。これより朔方は寇を防ぐのに手一杯となった。
  • 元和十年(815年)冬十一月己丑、吐蕃が隴州の塞に至って互市を請い、許された。
  • 元和十一年(816年)春二月、西川が、吐蕃の贊普が卒し、新贊普の可黎可足が立ったと奏した。
  • 元和十三年(818年)冬十一月辛巳朔、塩州が吐蕃の河曲侵入を奏し、夏州と霊武が吐蕃の長楽州を破ってその外城を落としたと奏した。甲午、塩州が吐蕃の退去を奏した。
  • 元和十四年(819年)春正月、吐蕃が使者の論短立蔵らを遣わして好みを修めようとしたが、まだ帰らぬうちに河曲に侵入した。帝は「その国が信を失ったのだ。使者に何の罪があろう」と言い、庚寅、帰国させた。
  • 秋八月癸酉、吐蕃が慶州を侵して方渠に陣した。冬十月、吐蕃の節度の論三摩らが十五万の衆で塩州を囲み、党項もまた兵を発して助けた。刺史の李文悦は力を尽くして拒み守り、二十七日に及んで吐蕃は落とせなかった。霊武の牙将の史奉敬は朔方節度使の杜叔良に、兵三千と三十日分の糧を与えてくれれば吐蕃領内に深く入って塩州の囲みを解くと言った。叔良は二千五百人を与えた。奉敬が発って十日余り音沙汰がなく、朔方の人はみな死んだと思った。ところがまもなく奉敬は別の道から吐蕃の背後に出た。吐蕃は大いに驚いて潰え去り、奉敬は奮撃して数えきれぬほど大破した。奉敬と鳳翔の将の野詩良輔、涇原の将の郝玭はいずれも勇をもって辺境に名高く、吐蕃はこれを憚った。
  • 元和十五年(820年)春二月、吐蕃が霊武を侵した。三月、塩州を侵した。
  • 冬十月、党項が吐蕃を引き入れて涇州を侵し、営を五十里に連ねた。癸未、涇州が、吐蕃が進んで州から三十里の地に陣したと奏し、急を告げて救いを求めた。右軍中尉の梁守謙を左右神策京西北行営都監として兵四千を率いさせ、あわせて八鎮の全軍を発して救わせ、将士に装備の銭二万緡を賜った。郯王府長史の邵同を太府少卿兼御史中丞として、吐蕃の和好の請いに答える使に充てた。
  • はじめ秘書少監の田洎が弔祭使として吐蕃に入ったとき、吐蕃は長武城の下で唐と盟うことを請うた。洎は吐蕃に留められて帰れなくなることを恐れ、ただ阿諛して従っただけであった。やがて吐蕃は党項に引き入れられて侵入し、それを口実に「田洎は我らが兵を率いて盟に赴くことを許した」と言った。そこで洎を彬州司戸に貶した。
  • 渭州刺史の郝玭はしばしば兵を出して吐蕃の営を襲い、殺すこと甚だ多かった。李光顔が邠寧の兵を発して涇州を救おうとしたが、邠寧の兵は神策が厚い賞を受けたことに憤り、みな怒って言った。「一人に五十緡もらって戦いを知らぬのはどこの何者か。定額の衣資ももらえずに前へ出て白刃を冒すのはどこの何者か」。騒ぎは収まらなかった。光顔は自ら大義を説き諭し、言葉とともに涙を流したので、そこでようやく軍士は感じ入って喜んで進んだ。涇州に近づくと、吐蕃は恐れて退いた。丙戌、神策の行営を罷めた。
  • 西川が吐蕃の雅州侵入を奏した。辛卯、塩州が吐蕃の烏白池布陣を奏したが、まもなくいずれも退いた。十二月己巳朔、塩州が吐蕃千余人の烏白池包囲を奏した。庚辰、西川が南詔二万人の入境と吐蕃討伐の請いを奏した。

穆宗長慶年間(821–822年)――長慶の会盟

  • 長慶元年(821年)夏六月辛未、吐蕃が青塞堡を侵したが、塩州刺史の李文悦が撃退した。
  • 秋九月、吐蕃がその礼部尚書の論訥羅を遣わして盟を求めた。庚戌、大理卿の劉元鼎を吐蕃会盟使とした。冬十月癸酉、宰相および大臣あわせて十七人に吐蕃の論訥羅と城の西で盟わせ、劉元鼎を訥羅とともに吐蕃に入らせ、あちらでもその宰相以下と盟わせた。
  • 霊武節度使の李進誠が、大石山の下で吐蕃三千騎を破ったと奏した。
  • 長慶二年(822年)夏六月、吐蕃が霊武を侵した。壬子、吐蕃が塩州を侵した。八月、劉元鼎が帰った。

文宗太和五年(831年)――維州の悉怛謀

  • 秋九月、吐蕃の維州副使の悉怛謀が降を請い、その衆をことごとく率いて成都へ走った。李徳裕は行維州刺史の虞蔵倹に兵を率いてその城に入り拠らせ、庚申、その次第を具さに奏し、あわせて言った。「生羌三千を遣わして十三橋を焼き、西戎の腹心を衝きたい。長年の恥を洗えます。これは韋皋が身を没するまで果たせなかったことです」。
  • 事は尚書省に下されて百官が集まって議し、みな徳裕の策どおりにするよう請うた。だが牛僧孺は言った。「吐蕃の境は四面それぞれ一万里ある。維州一つを失っても、その勢いを損なうには足らぬ。近ごろ好みを修め、戍兵を罷めることを約した。中国が戎を防ぐには信を守るのが上だ。彼らがもし責めて『どうして信を失うのか』と言い、蔚茹川で馬を養い、平涼の坂に上り、一万騎で回中を牽き、怒りの気と直の言をもってすれば、三日とかからず咸陽橋に至る。そのとき西南数千里の外で維州を百得たとて、何の役に立とう。いたずらに誠信を棄てるだけで、害あって利はない。これは匹夫でもせぬことだ。まして天子ではないか」。
  • 帝はそのとおりだと思い、徳裕に詔してその城を吐蕃に返させ、悉怛謀および同行して来た者を捕らえてことごとく返させた。吐蕃は国境の上で彼らをことごとく誅し、その残酷さは極みに達した。徳裕はこれによって僧孺を怨むことがいよいよ深くなった。

武宗会昌三年(843年)――李徳裕の追論

  • 李徳裕が維州の悉怛謀の一件を追って論じた。
  • 「維州は高山の絶頂に拠り、三面が川に臨み、戎虜の平川の衝に当たっております。漢の地へ兵が入る路です。当初、河・隴がことごとく陥ちたなかで、ここだけが残っておりました。吐蕃はひそかに婦人をこの州の門番に嫁がせ、二十年後、二人の男子が成人すると、ひそかに塁の門を開いて兵を夜のうちに引き入れ、ついに陥れたのです。これを無憂城と号し、これより力を西辺に集められるようになり、南路の憂いもなくなって、都の近郊まで侵し、幾代にもわたって朝廷は食事も遅れるほど心を痛めました。貞元中、韋皋が河湟を経略しようとしたとき、この城から始める必要があり、万の軍と精鋭を尽くして数年間急攻しましたが、論莽熱を捕らえて還ったものの、城は堅くてついに落とせませんでした」。
  • 「臣がはじめて西蜀に至ったとき、外には国威を揚げ、内には辺備を整えました。その維州の熟した臣下が命を信じ、城を空にして帰順したのです。臣がその降伏を受けると、南蛮は震え上がり、山西の八国はみな内属を願いました。吐蕃の合水・棲鶏などの城は要害を失った以上、自ら引き揚げねばならず、八か所の鎮兵を減らして座して千余里の旧地を収められたのです。しかも維州が降る前年、吐蕃はなお魯州を囲んでおりました。どうして盟約を顧みているといえましょう」。
  • 「臣は降を受けた当初、天を指して誓い、面と向かって奏聞してそれぞれに賞を加えると約しました。当時、臣に与しなかった者たちが風を望んで臣を憎み、詔して臣に悉怛謀らを捕らえて送らせ、彼らに自ら殺させたのです。臣がどうして三百余人の命をもって信を棄て安を偸むに忍びましょうか。重ねて表を上げて陳べ論じ、憐れんで許されるよう乞いましたが、答えの詔は厳しく、ついに捕らえて返させました。三重の枷をつけ、竹の畚に載せて運び、いよいよ路につくとき、その冤を叫ぶ声は嗚々として、将吏は臣の前で涙を落とさぬ者がありませんでした」。
  • 「送り届けた者は、かえって蕃の帥に譏られて『すでにこちらへ降った者を、なぜわざわざ送ってくるのか』と言われました。そのうえこの降人たちを漢の境の上で殺し、残忍をほしいままにして、離反を固めるために用いた。ついには嬰児を放り上げて槍で受け止めるまでに至ったのです。忠款の路を絶ち、凶虐の情を快くする。古来、こんなことはありませんでした。時は十二年を経ましたが、運は千年に属します。どうか忠魂を追って顕彰し、それぞれに褒賞と追贈を加えてください」。詔して悉怛謀に右衛将軍を贈った。

史論(臣光曰)

  • 論ずる者の多くは維州を取るか捨てるかに迷い、牛僧孺と李徳裕の是非を決しかねている。私はこう考える。
  • 昔、荀呉が鼓を囲んだとき、鼓の人で城を挙げて叛こうとする者があったが、呉は許さずに言った。「誰かがわが城を挙げて叛くのは、わしの最も憎むところだ。人が城を挙げて来たからといって、わしだけがどうして好むことがあろう。城が欲しいばかりに姦悪な者を近づけるわけにはいかぬ」。そして鼓の人に叛いた者を殺させ、守備を修めさせた。
  • このとき唐はちょうど吐蕃と好みを修めたばかりで、その維州を受け入れた。利で言えば維州は小さく信は大きい。害で言えば維州は緩やかで関中は急である。とすれば唐のために計るなら、何を先にすべきであろうか。
  • 悉怛謀は唐にあっては教化に帰した者だが、吐蕃にあっては叛臣たるを免れない。誅されたことを、どうして憐れむことがあろう。しかも徳裕の言うところは利であり、僧孺の言うところは義である。匹夫でさえ利に走って義を忘れることを恥じる。まして天子ではないか。
  • たとえば隣人の牛が逃げて家に入ったとき、ある者は兄に返せと勧め、ある者は弟に取ってしまえと勧める。返せと勧める者は「取るのは不義だ。それに訴訟になる」と言い、取れと勧める者は「あちらもかつてわが羊を取ったではないか。何の義に拘ることがあろう。牛は大きな家畜だ。売れば家を富ませられる」と言う。これで見れば、牛・李の是非はおのずと明らかである。