通鑑紀事本末李輔国の専権(張皇后・程元振を付す)(李輔國用事)
飛龍厩の下働きから身を起こした李輔国が、張良娣(張皇后)と表裏をなして建寧王倓を讒死させ、李泌を退け、禁兵と制詔を握って朝廷を圧した経緯。李峴の諫奏で一時抑えられるも、上皇玄宗を興慶宮から西内へ強引に移し、高力士・陳玄礼を追放した。粛宗の末年に張后と決裂して后と越王係を殺し、代宗を立てて尚父と号したが、程元振に権を奪われ、刺客に殺されるまでの八年間。
年表(9件)
- 粛宗至徳元載――張良娣と建寧王756年張良娣が李輔国と結び、李泌と建寧王倓を憎むようになる
- 至徳二載――建寧王の死と李泌の去就757年輔国と良娣の讒言で建寧王倓が死を賜り、李泌は衡山へ帰る
- 乾元元年――張皇后の冊立758年張淑妃が皇后に立てられ、輔国は元帥府行軍司馬を判じて朝野を圧す
- 乾元二年――李輔國の専横と李峴の失脚759年輔国が制詔と獄を専断し、諫めた李峴が蜀州刺史に貶される
- 上元元年――上皇の西内遷居760年輔国が兵で上皇を西内へ移し、高力士・陳玄礼らを流謫させる
- 上元二年――輔國の宰相希望761年輔国が兵部尚書に加えられ宰相を望むが、裴冕に拒まれて恨む
- 宝応元年――上皇と粛宗の崩御、張后の誅762年輔国が張后と越王係を殺して代宗を立てるが、のち権を削られ盗賊に殺される
- 代宗
- 広徳元年――程元振の失脚763年元振が吐蕃の侵入を奏さず帝を都落ちさせ、柳伉の上疏で官爵を削られる
- 広徳二年764年程元振が女装して長安に潜入したのが露見し、溱州長流ののち江陵に安置される
粛宗至徳元載(756年)――張良娣と建寧王
- 張良娣は生まれつき機転が利いて帝の意を得るのがうまかった。帝に従って朔方へ向かったとき、供の兵は少なかったが、良娣は寝るときいつも帝の前に身を置いた。帝が「賊を防ぐのは婦人にできることではない」と言うと、良娣は「とっさのときは妾が身を挺して当たります。殿下はその隙に後ろから逃れてください」と答えた。霊武に至って子を産み、三日で起き上がって戦士の衣を縫った。帝が止めると「今は妾が身を養っている時ではありません」と答えた。帝はこれでいよいよ彼女を憐れんだ。
- 粛宗が霊武で即位すると、使者を遣わして潁陽から李泌を召した。謁見して大いに喜び、当時の事はすべて彼に相談した。
- 帝は建寧王の倓を天下兵馬元帥としたが、李泌は広平王の俶を用いるよう勧め、倓はそれを聞いて泌に礼を述べた。
- 上皇が張良娣に七宝の鞍を賜った。李泌が帝に言った。「今、四海は分裂しております。倹約を人に示すべきときです。良娣がこれに乗るのはよろしくありません。その珠玉を外して庫吏に預け、戦功のある者への賞にお回しください」。良娣が閤の中から「近所づきあいの古い仲なのに、そこまでなさるのか」と言うと、帝は「先生は社稷のためを思ってのことだ」と言い、ただちに取り外させた。
- 建寧王の倓は廊下で泣き、その声が帝に聞こえた。帝が驚いて呼んで問うと、こう答えた。「臣はこのところ禍乱の止まぬことを憂えておりました。今、陛下は諫めに従うこと流れるがごとくです。ほどなく陛下が上皇を迎えて長安に還られるのを見られましょう。それゆえ喜びが極まって悲しくなったのです」。良娣はこのことで李泌と倓を憎むようになった。
- 帝はまた泌に言った。「良娣の祖母は昭成太后の妹で、上皇も心にかけておられる。中宮の位に正して上皇のお心を慰めたいがどうか」。泌は答えた。「陛下が霊武で大位に即かれたのは、群臣が寸尺の功を望んだからで、私心ではありません。家のことについては上皇のお指図を待つべきです。せいぜい年月が少し延びるだけのことです」。帝は従った。
- 当時、張良娣と李輔国は表裏をなし、ともに泌を憎んでいた。建寧王の倓が泌に言った。「先生は私を帝に推挙してくださり、臣子の務めを果たさせてくださった。ご恩に報いる術がありません。どうか先生のために害を除かせてください」。泌が「何のことか」と問うと、倓は良娣のことを口にした。泌は「それは人の子の言うことではありません。王よ、しばらく差し置いて、そのことを先にはなさいますな」と言ったが、倓は従わなかった。
至徳二載(757年)――建寧王の死と李泌の去就
- 春正月、帝はくつろいだ折に李泌に言った。「広平が元帥となって一年を越えた。今、建寧に専ら征討を任せたいが、勢いが分かれるのも懸念される。広平を太子に立てるのはどうか」。泌は答えた。「臣は前にも申し上げました。戦のことは差し迫っておりますからすぐに処置すべきですが、家のことは上皇を待つべきです。さもなければ後代はどうやって陛下が霊武で即位された真意を弁別できましょう。これは誰か、臣と広平の間を裂こうとする者がいるに違いありません。臣がこのことを広平に話しましょう。広平もきっと受けはしますまい」。
- 泌は退出して広平王の俶に告げた。俶は「これは先生が私の心をよく知り、その美をなんとか全うさせてくださろうとしてのことだ」と言い、参内して固辞した。「陛下がまだ朝夕のご機嫌伺いもかなわぬのに、臣がどうして儲副の座を受けられましょう。上皇が宮に還られるのを待ちたい。それが臣の幸せです」。帝は賞めて慰めた。
- 李輔国はもと飛龍厩の下働きで、書計を少しばかり心得て東宮に仕え、帝に信任されていた。外面は恭しく口数少なかったが、内心は狡猾で険しかった。張良娣が寵愛されているのを見てひそかにこれに取り入り、互いに表裏をなした。建寧王の倓はしばしば帝の前で二人の罪悪を暴き立てた。二人は帝に讒言した。「倓は元帥になれなかったことを恨み、広平王を害しようと謀っております」。帝は怒り、倓に死を賜った。
- こうして広平王の俶と李泌はともに内心恐れた。俶が輔国と良娣を除こうと謀ると、泌は言った。「なりません。王は建寧の禍をご覧になったでしょう」。俶が「ひそかに先生のことを心配しています」と言うと、泌は「私は主上と約束があります。京師を平定すれば山へ帰る。そうすれば禍を免れましょう」と答えた。俶が「先生が去れば私はいよいよ危うくなります」と言うと、泌は言った。「王はただ人の子としての孝を尽くされればよい。良娣は婦人です。王が細やかに従順にしていれば、何ほどのことができましょう」。
- 帝がかつて泌のもとで酒を飲み、同じ寝台で眠ったことがあった。李輔国が符契と鍵を泌に渡すよう請うたが、泌は輔国に掌らせるよう請い、帝は許した。泌は言った。「臣は今や恩に報い尽くしました。また閑人に戻る。これに勝る楽しみがありましょうか」。帝は「朕は先生と何年も憂患をともにしてきた。今こそ楽しみをともにしようというときに、なぜ急に去ろうとするのか」と言った。
- 泌は答えた。「臣には留まれぬ五つの理由がございます。どうか臣を去らせて死を免れさせてください」。「どういうことか」。「臣は陛下に出会うのが早すぎました。陛下は臣を任ずること重すぎ、臣を寵すること深すぎ、臣の功は高すぎ、臣の来歴は奇異にすぎます。これが留まれぬ理由です」。帝は「まあ寝よう。いずれ議そう」と言った。泌は「陛下は今、臣の寝台に臥しておられてなおお許しくださらぬ。まして後日、香案の前ではなおさらでしょう。臣を去らせぬのは、臣を殺すのと同じです」と言った。帝は「思いもよらぬ、卿が朕をそこまで疑うとは。朕ともあろう者が卿を殺すはずがあろうか。それでは朕を句践扱いではないか」と言った。泌は答えた。「陛下が臣をお殺しにならぬからこそ、臣は帰りたいと願うのです。もし本当に殺すおつもりなら、臣がどうして口に出せましょう。それに臣を殺すのは陛下ではなく、あの五つの理由なのです。陛下は先日、臣をあのように遇してくださいましたが、それでも臣には申し上げられぬことがありました。まして天下が安らいだのちに、臣が言えましょうか」。
- 帝はしばらく黙ってから言った。「卿は朕が北伐の策に従わなかったことを気にしているのか」。「違います。申し上げられなかったのは建寧のことです」。帝は言った。「建寧は朕の愛児だ。性は英邁で果断、艱難のときに功があった。朕がそれを知らぬはずがない。ただそのために小人にそそのかされ、兄を害して跡目を狙おうとした。朕は社稷の大計のためやむを得ず除いたのだ。卿はその仔細を知らぬのか」。泌は答えた。「もしそんな心があったのなら、広平が恨むはずです。ところが広平は臣と語るたびにその無実を訴えて涙を流し咽びます。臣は今こそ陛下に暇を告げて去る身ゆえ、はじめて申し上げるのです」。帝は「あれは夜に広平の寝所を探り、害を加えようとしたのだ」と言った。泌は答えた。「それはみな讒言する者の口から出たことです。建寧の孝友聡明をもって、そんなことをするはずがありましょうか。それに陛下がかつて建寧を元帥にしようとされたとき、臣は広平を用いるよう請いました。建寧にその心があったなら、臣を深く恨むはずです。ところが臣を忠と見ていよいよ親しんだ。陛下はこれによってその心をお察しになれましょう」。
- 帝は涙を流して「先生の言うとおりだ。過ぎたことは咎めまい。もう聞きたくない」と言った。泌は言った。「臣が申し上げたのは過去を咎めるためではありません。陛下に将来を慎んでいただきたいのです。昔、則天武后には四人の子がありました。長子は太子の弘。武后がまさに称制を図ろうとしていたときで、その聡明を憎んで毒殺し、次子の雍王賢を立てました。賢は内心恐れ憂えて『黄台の瓜』の辞を作り、武后を感じ悟らせようとしましたが、武后は聞き入れず、賢はついに黔中で死にました。その辞にいわく――黄台の下に瓜を種え、瓜が熟して実は累々。一つ摘めば瓜はよくなり、二つ摘めば瓜は稀になる。三つ摘むのはまだよいとして、四つ摘めば蔓を抱えて帰るのみ。今、陛下はすでに一つ摘まれました。慎んで二つ目を摘まれますな」。帝は愕然として「そんなことがあろうか。卿はその辞を書き取ってくれ。朕は帯に書きつけよう」と言った。泌は「陛下は心に留めておかれればよい。外に形にする必要はありません」と答えた。当時、広平王には大功があり、良娣がこれを妬んでひそかに流言を仕掛けていたので、泌はこのことに言い及んだのである。泌はあらためて山に帰ることを強く請い、帝は「出発する頃になったらそれを議そう」と言った。
- 冬十月、李泌は衡山へ帰った。
乾元元年(758年)――張皇后の冊立
- 春二月癸卯朔、殿中監の李輔国に太僕卿を兼ねさせた。輔国は張淑妃に取り入り、元帥府行軍司馬を判じて、その勢いは朝野を圧した。
- 三月戊寅、張淑妃を皇后に立てた。
- 張后は興王の佋を産み、まだ数歳だったがこれを跡継ぎにしたいと思っていた。帝は迷って決しかね、くつろいだ折に考功郎中・知制誥の李揆に言った。「成王は年長でしかも功がある。朕は太子に立てたいが、卿の意見はどうか」。揆は再拝して祝して言った。「それこそ社稷の福です。臣は大慶に堪えません」。帝は喜んで「朕の心は決まった」と言い、庚寅、成王の俶を皇太子に立てた。揆は李道玄の玄孫である。
乾元二年(759年)――李輔國の専横と李峴の失脚
- 春二月壬子、皆既月食があった。これより先、百官が皇后に尊号を加えて「輔聖」とするよう請うていた。帝が中書舎人の李揆に問うと、「古来、皇后に尊号はありません。ただ韋后にだけありましたが、あれが法となりましょうか」と答えた。帝は驚いて「凡庸な者どもがもう少しで朕を誤らせるところだった」と言った。折しも月食があったので、この件は沙汰止みとなった。后は李輔国と表裏をなして禁中で横暴を極め、政事に口を出し、依頼ごとは際限がなかった。帝は不快に思ったが、どうすることもできなかった。
- 太子詹事の李輔国は、帝が霊武にあった時から元帥行軍司馬の事を判じ、帷幄に侍って詔命を伝え、四方の文書、宝印と符契、朝夕の軍号までことごとく任されていた。京師に還ってからは専ら禁兵を掌り、常に内宅に居て、制詔は必ず輔国の署名を経てはじめて施行された。宰相百司が定例外に奏事するときは、みな輔国を通して取り次いでもらった。常に銀台門で天下の事を裁決し、事の大小を問わず輔国が口頭で制詔を作らせ、書き写して外に渡して施行させ、事が終わってから奏聞した。
- さらに察事の者を数十人置いて、ひそかに民間で細かなことまで聞き回らせ、そのまま取り調べさせた。捕らえようとすれば、どの官司も拒む者はなかった。御史台や大理寺の重罪の囚人でも、審理が終わらぬうちに輔国が銀台へ呼び出して一斉に放免した。三司・府・県の獄の審理は、みなまず輔国のもとに出向いて刑の軽重を伺い、輔国の思うままに制詔と称して行われ、あえて背く者はいなかった。宦官たちはその官名を呼ぶことをはばかり、みな「五郎」と呼んだ。山東の名門出身の李揆でさえ、輔国に会えば子弟の礼を執り「五父」と呼んだ。
- 李峴が宰相となると、帝の前で叩頭して、制詔はみな中書から出るべきだと論じ、輔国が権を専らにして政を乱している有様を詳しく述べた。帝は感じ悟り、その正直さを賞した。輔国の行っていたことは多く改められ、察事の者も廃された。輔国はこれによって行軍司馬を辞し、本官に戻りたいと請うたが、帝は許さなかった。
- 壬寅、詔が下った。「近ごろ軍国の務めが多いため、口頭で詔を宣べて処分し、諸々の徴発や杖罪・流罪の処置をすることがあった。今より一切これを停める。正式の宣下でなければ執行してはならぬ。中外の諸務はそれぞれ担当官司に帰せ。英武軍の虞候および六軍の諸使・諸司などが、近ごろ争論を理由に勝手に人を捕らえることがあったが、今より一切、台府を経ねばならぬ。担当の処断が公平でないときは、状を具して奏聞することを許す。諸々の律令は、十悪・殺人・姦盗・偽造を除き、残りの煩雑なものは一切削除し、中書門下と法官に詳しく定めて奏聞させよ」。輔国はこれによって李峴を憎んだ。
- 鳳翔の馬坊の押官が強盗を働き、天興尉の謝夷甫が捕らえて殺した。その妻が冤罪を訴えた。李輔国はもと飛龍厩の出であったから、詔して監察御史の孫鎣に審理させたが、冤罪ではなかった。さらに御史中丞の崔伯陽、刑部侍郎の李曄、大理卿の権献に審理させたが、鎣と同じ結論だった。妻はなお承服しない。そこで侍御史で太平の毛若虚に審理させた。若虚は狡猾な人物で、輔国の意を迎えて夷甫に罪を帰した。
- 伯陽は怒って若虚を呼んで詰責し、弾劾して奏そうとした。若虚は先回りして帝のもとへ駆け込んだ。帝は若虚を簾の下に隠した。まもなく伯陽が来て、若虚が宦官に迎合して不正な裁きをしたと言うと、帝は怒って追い出した。伯陽は高要尉に貶され、権献は桂陽尉に、李曄と鳳翔尹の厳向はみな嶺南の尉に貶され、孫鎣は除名のうえ播州へ長流となった。吏部尚書・同平章事の李峴が伯陽らに罪はなく処罰が重すぎると奏すると、帝は朋党と見なし、五月辛巳、峴を蜀州刺史に貶した。
- 右散騎常侍の韓択木が参内すると、帝は言った。「李峴は権を専らにしようとした。今、蜀州に貶したが、朕は自分でも法の適用が寛すぎたと思う」。択木は答えた。「李峴の言は率直であり、権を専らにしたのではありません。陛下がこれを寛くお扱いになれば、聖徳を増すばかりです」。若虚はまもなく御史中丞に任じられ、その威は朝廷を震わせた。
上元元年(760年)――上皇の西内遷居
- 夏六月甲申、興王の佋が薨じた。佋は張后の長子で、次子は定王の侗である。張后はそのためにしばしば太子を危うくしようとし、太子は常に恭順につとめて機嫌を取っていた。佋が薨じ、侗はまだ幼かったので、太子の位はここに定まった。
- 上皇は興慶宮を愛し、蜀から帰ってからそこに住んだ。帝は時おり夾城を通って機嫌伺いに赴き、上皇もときに大明宮を訪れた。左龍武大将軍の陳玄礼と内侍監の高力士が長く上皇に侍衛し、帝はさらに玉真公主・如仙媛、内侍の王承恩・魏悦および梨園の弟子たちに常に側で慰めさせた。
- 上皇はよく長慶楼に出御した。通りかかった父老たちはしばしば仰ぎ拝んで万歳を唱え、上皇は楼下に酒食を用意して賜った。また将軍の郭英乂らを楼に召して宴を賜ったこともある。剣南から奏事に来た官が楼下を通って拝舞したときは、上皇は玉真公主と如仙媛にその接待をさせた。
- 李輔国はもと微賤の出であり、にわかに貴くなって権を握っても、上皇の側近たちはみな軽んじていた。輔国はこれを恨み、また奇功を立てて寵を固めようと思い、帝に言った。「上皇は興慶宮にあって日々外部の者と行き来し、陳玄礼と高力士が陛下に不利な謀をめぐらせております。今、六軍の将士はみな霊武以来の勲臣ですが、みな不安を抱いて落ち着きません。臣が諭しても解けませぬゆえ、申し上げぬわけにはまいりません」。帝は泣いて「聖皇は慈仁であられる。そんなことがあろうか」と言った。輔国は答えた。「上皇にはもとよりそんなお心はありますまい。しかし取り巻きの小人どもはどうにもなりません。陛下は天下の主として社稷の大計をなし、乱を未然に消すべきです。どうして一個人の孝に拘泥できましょう。それに興慶宮は町屋と入り交じり、垣も塀も低くて丸見えです。至尊のお住まいには不向きです。大内は奥深く厳重ですから、そちらへお迎えして住んでいただいても、あちらと何の違いがありましょう。しかも小人が聖聴を惑わすのを断ち切れます。こうすれば上皇は万歳の安らぎを享け、陛下は三朝の楽しみを得られます。何の差し障りがありましょう」。帝は聞き入れなかった。
- 興慶宮にはもと馬三百匹があったが、輔国は詔を偽ってこれを取り上げ、わずか十匹を残しただけだった。上皇は高力士に言った。「わが子は輔国に惑わされている。孝を全うすることはできまい」。
- 輔国はさらに六軍の将士に号泣して叩頭させ、上皇に西内へ移っていただきたいと請わせた。帝は泣いて応じない。輔国は恐れた。折しも帝が病んだので、秋七月丁未、輔国は帝の言葉と偽って上皇を西内の遊覧にお迎えした。睿武門に至ると、輔国は射生五百騎を率い、刃を露わにして道を遮り、奏した。「皇帝は興慶宮が低湿で狭いとして、上皇を大内にお迎えして移っていただきます」。上皇は驚いて危うく落馬しかけた。高力士が「李輔国、何と無礼な」と言い、叱りつけて下馬させた。輔国はやむなく下りた。力士はそこで上皇の詔を宣べた。「将士たちよ、それぞれ息災であれ」。将士はみな刃を納め、再拝して万歳を唱えた。力士はさらに輔国を叱って自分とともに上皇の馬の轡を執らせ、侍衛して西内へ向かい、甘露殿に落ち着かせた。輔国は衆を率いて退いた。
- 残された侍衛の兵はわずかに老弱数十人。陳玄礼・高力士および古参の宮人はみな側に留まることを許されなかった。上皇は言った。「興慶宮はわしが王であった時の地だ。わしは何度も皇帝に譲ろうとしたが、皇帝は受けなかった。今日の移転もまたわしの志だ」。
- この日、輔国は六軍の大将とともに素服で帝に会って罪を請うた。帝はまた諸将に迫られ、慰めて言った。「南宮も西内もどこが違おう。卿らは小人が惑わすのを恐れ、微を防ぎ漸を杜いで社稷を安んじたのだ。何を恐れることがあろう」。刑部尚書の顔真卿が真っ先に百寮を率いて上表し、上皇の起居を伺うよう請うたが、輔国はこれを憎み、奏して蓬州長史に貶した。
- 丙辰、高力士を巫州に、王承恩を播州に、魏悦を溱州に流し、陳玄礼には致仕を命じ、如仙媛を帰州に置き、玉真公主は玉真観に出て住んだ。帝はあらためて後宮の百余人を選んで西内に置いて掃除に当たらせ、万安・咸宜の二公主に衣服と食膳を見させ、四方から献じられた珍しい品はまず上皇に供えた。しかし上皇は日ごとに楽しまず、そのため葷を絶ち穀を断って、次第に病を得た。帝ははじめのうちこそ見舞いに赴いたが、やがて帝自身も病んで、人を遣わして起居を伺うだけになった。その後、帝はやや悔い悟って輔国を憎み、誅そうと思ったが、その兵権を恐れてついに躊躇し、決しかねた。
上元二年(761年)――輔國の宰相希望
- はじめ李輔国は張后と謀を同じくして上皇を西内へ移した。その日は端午で、山人の李唐が帝に謁見した。帝はちょうど幼い娘を抱いており、唐に「朕はこの子が可愛くてな。怪しんでくれるな」と言った。唐は答えた。「太上皇が陛下にお会いになりたいお気持ちも、ちょうど陛下が公主を思われるのと同じでございましょう」。帝はほろりと涙を流したが、張后を憚ってなお西内へは行けなかった。
- 秋八月癸丑朔、開府儀同三司の李輔国に兵部尚書を加えた。乙未、輔国が着任すると、宰相も朝臣もみな見送り、御厨が饌を用意し、太常が楽を奏した。輔国の驕慢はいよいよ甚だしくなり、宰相になりたいと求めた。帝は「卿の功をもってすれば、どんな官でも務まらぬことはあるまい。ただ朝廷の人望が許さぬのをどうする」と言った。輔国は僕射の裴冕らにほのめかして自分を推薦させようとした。帝はひそかに蕭華に「輔国が宰相になりたがっている。公卿の上表が来れば、与えぬわけにいかぬ」と言った。華が出て裴冕に問うと、冕は「そのようなことはまったくない。わが腕は断たれても、宰相の座は渡せぬ」と言った。華が参内して伝えると、帝は大いに喜んだ。輔国はこれを恨んだ。
- 建子月戊戌、冬至。己亥、帝は西内に上皇のご機嫌伺いをした。
宝応元年(762年)――上皇と粛宗の崩御、張后の誅
- 建辰月、李輔国は宰相になれなかったことで蕭華を怨んだ。庚午、戸部侍郎の元載を京兆尹としたが、載は輔国のもとへ行って固辞した。輔国はその意を察した。壬寅、司農卿の陶鋭を京兆尹とした。輔国は蕭華が権を専らにしていると言い、宰相を罷めるよう請うた。帝は許さなかったが、輔国が執拗に請うのでついに従い、元載を華の代わりに引き入れた。戊申、華は罷めて礼部尚書となり、載を同平章事として、度支転運使はもとのまま領させた。
- 建巳月甲寅、上皇が神龍殿で崩じた。年七十八。乙卯、太極殿に移した。帝は病臥中で内殿で哀を発し、群臣は太極殿で哀を発した。蕃官で顔を傷つけ耳を切って哀を示した者は四百余人。丙辰、苗晋卿に冢宰を摂させた。帝は仲春から病臥していたが、上皇の崩御を聞いて哀慕のあまり病は重くなり、太子に監国を命じた。甲子、詔して改元し、あらためて建寅の月を正月とし、月の数え方はみな旧に復して、天下に赦した。
- はじめ張后は李輔国と表裏をなして権を専らにしていたが、晩年には隙が生じていた。内射生使で三原の程元振は輔国の党であった。帝の病が篤くなると、后は太子を召して議した。「李輔国は長く禁兵を握り、制詔もみな彼のところから出る。ほしいままに聖皇を移した罪はきわめて大きい。彼が忌むのは私とあなたです。今、主上は危篤で、輔国はひそかに程元振と乱を起こそうと謀っている。誅さぬわけにはいきません」。太子は泣いて言った。「陛下のご病気は極めて危うい。二人はいずれも陛下の勲旧の臣です。一朝にして告げもせず誅すれば、必ず動揺を招き、耐えきれぬことになりましょう」。后は「では太子はひとまずお帰りなさい。私がもう少し考えます」と言った。
- 太子が退出すると、后は越王の係を召して言った。「太子は仁弱で賊臣を誅せぬ。お前にはできるか」。「できます」。係は内謁者監の段恒俊に命じて勇力のある宦官二百余人を選ばせ、長生殿で武具を授けた。
- 乙丑、后は帝の命と称して太子を召した。元振はその謀を知ってひそかに輔国に告げ、陵霄門に兵を伏せて待った。太子が来ると事変を告げた。太子は「そんなことがあるはずがない。主上のご病気が重くて私を召されたのだ。どうして死を恐れて参らずにおられよう」と言った。元振は「社稷の事は重大です。太子は決して入られてはなりません」と言い、兵をつけて太子を飛竜厩へ送り、甲兵で守らせた。
- その夜、輔国と元振は兵を勒して三殿に入り、越王の係、段恒俊、知内侍省事の朱光輝ら百余人を捕らえて繋ぎ、太子の名で后を別殿に移した。そのとき帝は長生殿にいた。使者は后を殿から追い立て、左右の数十人ともども後宮に幽閉した。宦官も宮人も驚いて逃げ散った。
- 丁卯、帝が崩じた。輔国らは后と越王の係、兗王の僩を殺した。この日、輔国ははじめて太子を素服で九仙門に導き、宰相と会わせて上皇の崩御を述べさせ、拝哭して監国の令を発した。戊辰、両儀殿で大行皇帝の喪を発し、遺詔を宣した。己巳、代宗が即位した。
- 高力士は赦に遇って還る途中、朗州で上皇の崩御を聞き、号泣して血を吐いて死んだ。
- 李輔国は功を恃んでいよいよ横暴になり、公然と帝に言った。「大家はただ禁中におられればよい。外のことは老奴が処分いたします」。帝は内心穏やかでなかったが、輔国が禁兵を握っていたので、表向きは尊んで礼遇した。乙亥、輔国を「尚父」と号して名で呼ばず、事の大小を問わずみな相談し、群臣は出入りのたびにまず輔国のもとへ挨拶に行った。輔国も平然としてそれを受けた。内飛竜厩副使の程元振を左監門衛将軍・知内侍省事とし、朱光輝と内常侍の啖庭瑶、山人の李唐ら二十余人はみな黔中へ流された。
- 夏五月、李輔国を司空兼中書令とした。壬辰、礼部尚書の蕭華を峡州司馬に貶した。元載が李輔国の意を迎え、罪を捏造して陥れたのである。
- 飛竜副使の程元振は李輔国の権を奪おうと図り、ひそかに帝に少しずつ制約を加えるよう請うた。六月己未、輔国の行軍司馬と兵部尚書を解き、他はもとのままとし、元振を代わりに元帥行軍司馬に判じさせ、輔国は宮外の邸に移らせた。ここに至って道行く人々は互いに祝った。輔国ははじめて恐れ、上表して位を退いた。辛酉、輔国の中書令兼職を罷め、爵を進めて博陸王とした。輔国は参内して謝し、憤りにむせびながら言った。「老奴は郎君にお仕えしきれませんでした。地下に帰って先帝にお仕えいたします」。帝はなお慰め諭して帰した。
- 秋九月乙未、程元振に驃騎大将軍兼内侍監を加えた。
- 帝は東宮にあったころから李輔国の専横を心中大いに不快に思っていたが、位を継いでからは、輔国に張后を殺した功があるので公然と誅すことを望まなかった。壬戌の夜、盗賊がその邸に入って輔国の首と片腕を奪い去った。詔して有司に盗賊を捕らえさせ、中使を遣わしてその家を見舞い、木で首を刻んで葬らせ、太傅を贈った。
代宗広徳元年(763年)――程元振の失脚
- 冬十月、驃騎大将軍・判元帥行軍司馬の程元振は権を専らにして思うままにふるまい、人々の恐れることは李輔国以上であった。大功のある諸将を元振はみな妬み憎んで害そうとした。吐蕃が侵入したとき、元振は時を移して奏さず、帝はあわてて都を出て避難する羽目になった。帝が詔を発して諸道の兵を徴しても、李光弼らはみな元振を憚って、駆けつける者がなかった。中外の人々はみな歯噛みしたが、あえて口に出す者はいなかった。太常博士の柳伉が上疏した。
- 帝は元振に保護の功があるとしたが、十一月辛丑、元振の官爵を削って郷里に帰らせた。
- 程元振は罪を得て三原に帰ったが、帝が宮に還ったと聞いて、婦人の服を着てひそかに長安に入り、また任用されようと図った。京兆府が捕らえて奏聞した。
広徳二年(764年)
- 春正月壬寅、詔が下った。程元振は服を変えてひそかに潜行し、不軌を図ろうとしたゆえ、溱州へ長流とする、と。帝は元振の功を思い、あらためて江陵に安置させた。