通鑑紀事本末突厥、唐に叛く(突厥叛唐)
唐に服属していた突厥が単于都護府で叛いてから、後突厥が再興し、やがて回紇に取って代わられるまでの八十年余り。調露元年に阿史徳温傅らが反すると裴行倹が黒山で破って阿史那伏念を降したが、約に反して伏念を斬ったため降伏の道が塞がれ、阿史那骨咄禄と阿史徳元珍が黒沙城に拠って国を再興した。骨咄禄の弟の黙啜は武后期に六州の降戸を得て強大となり、武延秀の婚を拒んで河北を大いに荒らしたが、張仁愿の三受降城に南下を阻まれ、開元四年に抜曳固に斬られた。後を継いだ毗伽可汗は和を保ったが毒殺され、内乱の末に天宝四載、回紇の懐仁可汗が白眉可汗を殺して北辺は静まった。
年表(31件)
- 唐高宗
- 麟徳元年664年雲中都護府を単于大都護府と改め、殷王旭輪を大都護とする
- 調露元年――阿史徳の反乱679年温傅・奉職が反して泥熟匐を可汗に立て、二十四州が呼応する
- 永隆元年――黒山の大勝680年裴行倹が偽の糧車の計で黒山に大破し、奉職を捕らえる
- 開耀元年――伏念の降伏と処刑681年降った阿史那伏念と温傅を、裴炎の讒によって都の市で斬る
- 永淳元年――骨咄禄の再興682年阿史那骨咄禄と阿史徳元珍が黒沙城に拠って反し、嵐州刺史を殺す
- 弘道元年683年骨咄禄が単于都護府を囲み蔚州を陥し、唐休璟が豊州の廃止を止める
- 垂拱元年685年突厥が代州を侵し、救援の淳于処平が忻州で敗れて五千余人を失う
- 垂拱三年687年黒歯常之が黄花堆で大破するが、爨宝璧の軍は全滅する
- 延載元年――黙啜の即位694年骨咄禄が没し、弟の黙啜が自立して可汗となる
- 天冊万歳元年695年黙啜が降を請い、左衛大将軍・帰国公を冊授される
- 万歳通天元年696年黙啜が太后の子となることと婚を請い、契丹の隙に乗じて松漠を襲う
- 神功元年――六州降戸の授与697年六州の降戸数千帳と穀種・農器を黙啜に与え、狄仁傑が辺外の用兵を諫める
- 聖暦元年――黙啜の大侵入698年黙啜が武延秀を拒んで兵を挙げ、定州・趙州を陥して河北を荒らす
- 聖暦二年699年黙啜が弟と甥を両察とし、子の匐倶を小可汗として国を分掌させる
- 長安三年703年黙啜が娘を皇太子の子に嫁がせることを請い、許される
- 長安四年704年和親が成り、突厥に留められていた淮陽王武延秀を帰す
- 神竜二年706年黙啜が鳴沙を侵し、沙吒忠義が敗れて六千余人を失う
- 景竜二年――三受降城の築造708年張仁愿が黄河の北に三受降城を築いて突厥の南寇の路を絶つ
- 睿宗
- 景雲二年711年黙啜が和を請い、宋王成器の娘を金山公主として嫁がせることを許す
- 開元二年――北庭の勝利714年郭虔瓘が北庭都護府の囲みを破り、黙啜の子の同俄を斬る
- 開元三年715年突厥十姓の降者が前後で一万余帳に及び、河南の地に置く
- 開元四年――黙啜の死716年抜曳固が黙啜を斬って献じ、闕特勒が黙棘連を毗伽可汗に立てる
- 開元八年720年毗伽が甘・涼などを侵して河西節度使の楊敬述を破る
- 開元九年721年毗伽が再び和を求め、上は書を賜って往年の咎を追わぬと諭す
- 開元十三年――封禅への扈従725年裴光庭の議により突厥の使者を封禅に扈従させ、辺を安んじる
- 開元十五年727年毗伽が吐蕃の誘いの書を献じ、西受降城での互市と歳賜を許される
- 開元二十二年734年毗伽が大臣の梅録啜に毒を盛られて没し、可汗の継承が乱れる
- 開元二十九年741年登利可汗が没して内乱となり、孫老奴に回紇らを招諭させる
- 天宝元年742年抜悉密・回紇・葛邏禄が骨咄葉護を殺し、突厥は烏蘇米施を立てて衰える
- 天宝三載744年抜悉密が烏蘇を斬り、回紇の骨力裴羅が懐仁可汗として突厥の故地に拠る
- 天宝四載745年懐仁可汗が白眉可汗を殺し、突厥は滅んで北辺の烽燧が静まる
唐高宗麟徳元年(664年)
- 春正月甲子、雲中都護府を単于大都護府と改め、殷王旭輪を単于大都護とした。
- はじめ李靖が突厥を破ったとき、三百帳を雲中城に移し、阿史徳氏をその長とした。ここに至って部落が次第に増え、阿史徳氏が闕に赴いて、胡の法に従って親王を可汗に立てて統べさせることを請うた。上は召見して「今の可汗は古の単于である。ゆえに改めて単于都護府として殷王に遥領させる」と言った。
調露元年(679年)――阿史徳の反乱
- 冬十月、単于大都護府の突厥の阿史徳温傅・奉職の二部がともに反し、阿史那泥熟匐を可汗に立てた。二十四州の酋長がみな叛いて呼応し、衆は数十万に達した。
- 鴻臚卿・単于大都護府長史の蕭嗣業、左領軍衛将軍の花大智、右千牛衛将軍の李景嘉らに兵を率いて討たせた。蕭嗣業らは初戦でしばしば勝ったが、それで備えをしなかった。折しも大雪となり、突厥が夜にその営を襲った。蕭嗣業は狼狽して営を引き払って逃げ、衆はついに大いに乱れて虜に敗れ、死者は数え切れなかった。花大智と李景嘉は歩兵を率いて戦いながら進み、単于都護府に入ることができた。蕭嗣業は死一等を減じて桂州に流され、花大智と李景嘉はともに免官された。
- 突厥が定州を侵し、刺史の霍王元軌は門を開いて旗を伏せるよう命じた。虜は伏兵を疑い、恐れて夜に逃げた。
- 州人の李嘉運が虜と通謀した事が漏れ、上は元軌にその党与を徹底追及させた。元軌は「強い寇が境にあって人心が安らかでない。多くを逮捕すれば、駆り立てて叛かせることになる」と言い、李嘉運だけを殺して他は問わず、そのうえで制に違背したことを自ら弾劾した。上は表を見て大いに喜び、使者に「朕も悔いていた。王がおられなければ定州を失っていた」と言った。これより朝廷に大事があると、上はしばしばひそかに勅して意見を問うた。
- 壬子、左金吾衛将軍の曹懐舜を井陘に、右武衛将軍の崔献を竜門に駐屯させて突厥に備えた。
- 突厥が奚と契丹を煽り誘って侵掠した。営州都督の周道務が戸曹の始平の唐休璟に兵を率いさせて撃破した。
- 十一月癸未、上が裴行倹を宴して「卿は文武を兼ね備えている。今、卿に二職を授ける」と言い、礼部尚書兼検校右衛大将軍とした。
- 甲辰、裴行倹を定襄道行軍大総管として十八万の兵を率いさせ、西軍の検校豊州都督の程務挺、東軍の幽州都督の李文暕とあわせて三十余万を総べて突厥を討たせ、みな裴行倹の節度を受けさせた。程務挺は程名振の子である。
永隆元年(680年)――黒山の大勝
- 春三月、裴行倹が黒山で突厥を大破し、その酋長の奉職を捕らえた。可汗の泥熟匐はその配下に殺され、首を持って降ってきた。
- はじめ裴行倹が朔川に至ったとき、配下に言った。用兵の道は、士を撫でるには誠を貴び、敵を制するには詐を尚ぶ。先日、蕭嗣業の糧運が突厥に掠められて士卒が凍え飢えたゆえに敗れた。今、突厥は必ず同じ謀を繰り返す。詐術を用いるべきである、と。
- そこで偽の糧車三百乗を仕立て、車ごとに壮士五人を伏せて各々陌刀と強弩を持たせ、弱兵数百でその護送とし、あわせて精兵を険要に伏せて待った。
- 虜は果たして来た。弱兵は車を棄てて散り走り、虜は車を駆って水草の所へ行き、鞍を解いて馬を放し、糧を取ろうとした。そこで壮士が車中から躍り出て撃ち、虜は驚いて逃げたが、また伏兵に遮られ、殺され捕らえられてほぼ全滅した。これより糧運の道中に虜はあえて近づかなかった。
- 軍が単于府の北に至り、日暮れに営を下ろした。塹壕を掘り終えたところで、裴行倹はにわかに高い丘に移るよう命じた。諸将はみな「士卒はすでに落ち着きました。動かすべきではありません」と言ったが、裴行倹は従わず急いで移らせた。その夜、風雨が突然至り、先に営した地は水深一丈余りとなった。諸将は驚き服してその理由を問うと、裴行倹は笑って「今後はただ私の命に従え。どうして知ったかを問う必要はない」と言った。
- 奉職が捕らえられ、残党は狼山に逃げて保った。詔で戸部尚書の崔知悌に駅を馳せて定襄に赴かせ、将士を宣慰し、あわせて残る寇を処置させた。裴行倹は軍を率いて帰った。
- 秋七月、突厥の残衆が雲州を囲み、代州都督の竇懐悊と右領軍中郎将の程務挺が兵を率いて撃破した。
開耀元年(681年)――伏念の降伏と処刑
- 春正月、突厥が原・慶などの州を侵した。乙亥、右衛将軍の李知十らに兵を率いて涇・慶の二州に駐屯させて突厥に備えた。
- 裴行倹の軍が帰ってから、突厥の阿史那伏念が再び自立して可汗となり、阿史徳温傅と兵を連ねて侵寇した。癸巳、裴行倹を定襄道大総管、右武衛将軍の曹懐舜と幽州都督の李文暕を副として兵を率いて討たせた。
- 三月、曹懐舜が副将の竇義昭とともに前軍を率いて突厥を撃った。ある者が「阿史那伏念と阿史徳温傅が累沙の北にいて、側近はわずか二十騎足らず。まっすぐ行けば取れます」と告げた。
- 曹懐舜らは信じ、老弱を瓠盧泊に留めて軽鋭を率いて道を倍して進み、黒沙に至ったが何も見えず、人馬は疲れ果てて兵を引いて帰った。
- 折しも薛延陀の部落が西に伏念のもとへ行こうとして曹懐舜の軍に遭い、降伏を請うた。曹懐舜らは兵を率いてゆっくり帰り、長城の北で温傅に遭って小競り合いしてそれぞれ引き揚げた。
- 横水で伏念に遭い、曹懐舜・竇義昭は李文暕および副将の劉敬同と四軍を合わせて方陣を組み、戦いながら進むこと一日。伏念が順風に乗じて撃ち、軍中は乱れ、曹懐舜らは軍を棄てて逃げ、軍はついに大敗して死者は数え切れなかった。
- 曹懐舜らは散兵を収め、金帛を集めて伏念に賄賂し、和を約して牛を殺して盟った。伏念が北へ去り、曹懐舜らはようやく帰れた。夏五月丙戌、曹懐舜は死を免じて嶺南に流された。
- 秋閏七月、裴行倹が代州の陘口に軍し、多く反間を放った。これによって阿史那伏念と阿史徳温傅は次第に猜疑し合った。
- 伏念は妻子と輜重を金牙山に留め、軽騎で曹懐舜を襲った。裴行倹は副将の何迦密を通漠道から、程務挺を石地道から出して不意に取らせた。
- 伏念は曹懐舜らと和を約して帰ったが、金牙山に着くと妻子と輜重を失っており、士卒の多くが疫病にかかった。そこで兵を率いて北へ走り細沙を保った。裴行倹はさらに副総管の劉敬同と程務挺らに単于府の兵を率いて追跡させた。
- 伏念は温傅を捕らえて自ら働きを示すことを請うたが、なお躊躇し、また道が遠いので唐兵は来られまいと恃んで備えをしなかった。劉敬同らの軍が到着すると、伏念は狼狽してその衆を整えられず、ついに温傅を捕らえて間道から裴行倹のもとへ降った。
- 斥候が「砂塵が空に上がって近づいてくる」と告げ、将士はみな震え恐れた。裴行倹は「これは伏念が温傅を捕らえて降りに来たのだ。他の賊ではない。しかし降を受けるのは敵を受けるようなもの。備えなしではおれぬ」と言い、厳重に備えさせ、単于府の使者を遣わして迎えて労わせた。しばらくして伏念は果たして酋長を率い、温傅を縛って軍門に至って罪を請うた。
- 裴行倹は突厥の残党をことごとく平らげ、伏念と温傅を連れて京師に帰った。
- 冬十月壬戌、裴行倹らが定襄の俘を献じた。乙丑、改元。丙寅、阿史那伏念・阿史徳温傅ら五十四人を都の市で斬った。
- はじめ裴行倹は伏念に死なぬことを約したので降ったのである。裴炎は裴行倹の功を妬み、「伏念は副将の張虔勗と程務挺に迫られ、また回紇らが磧北から南に向かって迫ったので、窮まって降っただけです」と奏し、ついに誅した。裴行倹は「渾と濬が功を争ったのは古今の恥である。ただ降った者を殺せば、二度と来る者がなくなることを恐れる」と嘆じ、病と称して出仕しなくなった。
永淳元年(682年)――骨咄禄の再興
- 突厥の残党の阿史那骨咄禄と阿史徳元珍らが逃散した者を招き集め、黒沙城に拠って反し、并州および単于府の北境を侵し、嵐州刺史の王徳茂を殺した。
- 右領軍衛将軍・検校代州都督の薛仁貴が兵を率いて雲州で元珍を撃った。虜が「唐の大将は誰か」と問い、「薛仁貴だ」と答えると、虜は「私は仁貴が象州に流されて死んで久しいと聞く。どうして我らを欺くのか」と言った。仁貴が兜を脱いで顔を見せると、虜は顔を見合わせて色を失い、馬を下りて並んで拝し、次第に引き揚げた。仁貴はそこで奮撃して大破し、一万余級を斬り、二万余人を捕虜とした。
弘道元年(683年)
- 春二月庚午、突厥が定州を侵し、刺史の霍王元軌が撃退した。乙亥、また媯州を侵した。
- 三月庚寅、阿史那骨咄禄と阿史徳元珍が単于都護府を囲み、司馬の張行師を捕らえて殺した。勝州都督の王本立と夏州都督の李崇義に兵を率いて道を分けて救わせた。
- 夏五月乙巳、突厥の阿史那骨咄禄らが蔚州を侵して刺史の李思倹を殺した。豊州都督の崔智辯が兵を率いて朝那山の北で迎え撃ったが、兵は敗れて虜に捕らえられた。
- 朝議は豊州を廃してその百姓を霊州・夏州に移そうとした。豊州司馬の唐休璟が上言して論じた。豊州は黄河を要害とし、賊の要衝に位置しております。秦漢以来、郡県に列し、土地は耕牧に適しています。隋末の喪乱で百姓を寧州・慶州に移したため、胡虜が深く侵し、霊州・夏州が辺境となりました。貞観の末に人を募って充実させ、西北がようやく安らいだのです。今これを廃せば、河沿いの地は再び賊のものとなり、霊州・夏州などの州の人は生業に安んじられません。国家の利ではありません、と。そこで止めた。
- 六月、突厥の別部が嵐州を侵掠し、副将の楊玄基が撃退した。
- 冬十一月戊戌、右武衛将軍の程務挺を単于道安撫大使として阿史那骨咄禄らを招討させた。
則天皇后光宅元年(684年)
- 秋七月、突厥の阿史那骨咄禄らが朔州を侵した。
- 九月、左武衛大将軍の程務挺を単于道安撫大使として突厥に備えた。
垂拱元年(685年)
- 春二月、突厥の阿史那骨咄禄らがしばしば辺境を侵した。左玉鈐衛中郎将の淳于処平を陽曲道行軍総管として撃たせた。
- 夏四月癸未、突厥が代州を侵し、淳于処平が兵を率いて救おうとしたが、忻州で突厥に敗れ、死者は五千余人。
垂拱二年(686年)
- 秋九月、突厥が侵入した。左鷹揚衛大将軍の黒歯常之が防ぎ、両井で突厥三千余人に遭遇した。彼らは唐兵を見てみな馬を下りて甲を着けたが、常之が二百余騎で突撃すると、みな甲を棄てて逃げた。
- 日暮れに突厥が大挙して至った。常之は営中に火を焚かせ、東南にも火が上がった。虜は兵が呼応していると疑い、ついに夜に逃げた。
垂拱三年(687年)
- 春二月丙辰、突厥の骨咄禄らが昌平を侵し、左鷹揚大将軍の黒歯常之に諸軍を率いて討たせた。
- 秋七月、突厥の骨咄禄と元珍が朔州を侵し、燕然道大総管の黒歯常之に撃たせ、右鷹揚大将軍の李多祚を副とした。黄花堆で突厥を大破し、四十余里追撃し、突厥はみな磧北へ散り走った。李多祚は代々靺鞨の酋長で、軍功によって宿衛に入った。
- 黒歯常之は賞賜を得るたびみな将士に分けた。良馬が軍士に傷つけられたとき、属官が鞭打つよう請うと、常之は「どうして私馬のために官兵を鞭打てようか」と言い、ついに問わなかった。
- 冬十月庚子、右監門衛中郎将の爨宝璧が突厥の骨咄禄・元珍と戦って全軍が全滅し、宝璧は軽騎で逃げ帰った。
- 宝璧は黒歯常之に功があるのを見て、残る寇を徹底追撃することを表請した。詔で常之と協議して遥かに声援せよとされたが、宝璧はその功を専らにしようとして常之を待たず、精兵一万三千を率いて先に塞を出、二千余里進んでその部落を急襲しようとした。着いてからも先に人をやって告げたので、相手は厳重に備えることができ、戦って敗れた。太后は宝璧を誅し、骨咄禄を「不卒禄」と改名させた。
永昌元年(689年)
- 夏五月己巳、僧の懐義を新平軍大総管として北に突厥を討たせた。紫河まで行っても虜を見ず、単于台に石を刻んで功を記して帰った。
- 秋九月壬子、僧の懐義を新平道行軍大総管として二十万の兵を率いて突厥の骨咄禄を討たせた。
延載元年(694年)――黙啜の即位
- 春正月、突厥の可汗の骨咄禄が没した。その子は幼く、弟の黙啜が自立して可汗となった。臘月甲戌、黙啜が霊州を侵した。
- 二月庚午、僧の懐義を代北道行軍大総管として黙啜を討たせた。
- 三月甲申、鳳閣舎人の蘇味道を鳳閣侍郎・同平章事、李昭徳を検校内史とし、改めて僧の懐義を朔方道行軍大総管、李昭徳を長史、蘇味道を司馬として、契苾明・曹仁師・沙吒忠義ら十八将軍を率いて黙啜を討たせたが、出発せぬうちに虜が退いて止めた。李昭徳がかつて懐義と議事して意に逆らい、懐義に打たれた。李昭徳は恐れて罪を請うた。
天冊万歳元年(695年)
- 正月丙午、王孝傑を朔方道行軍総管として突厥を撃たせた。
- 冬十月、突厥の黙啜が使者を送って降を請うた。太后は喜んで左衛大将軍・帰国公を冊授した。
万歳通天元年(696年)
- 秋九月丁巳、突厥が涼州を侵して都督の許欽明を捕らえた。許欽明は許紹の曽孫である。ちょうど巡察に出ていたところ、突厥数万が突然城下に至り、許欽明は防戦して捕らえられた。
- 突厥の黙啜が太后の子となることを請い、あわせてその娘のために婚を求め、河西の降戸をすべて返し、部衆を率いて国のために契丹を討つと申し出た。太后は豹韜衛大将軍の閻知微と左衛郎将・摂司賓卿の田帰道を遣わして黙啜に左衛大将軍・遷善可汗を冊授させた。閻知微は閻立徳の孫、田帰道は田仁会の子である。
- 冬十月辛卯、契丹の李尽忠が没し、孫万栄が代わってその衆を率いた。突厥の黙啜が隙に乗じて松漠を襲い、李尽忠と孫万栄の妻子を捕らえて去った。太后は黙啜を頡跌利施大単于・立功報国可汗に進拝した。
神功元年(697年)――六州降戸の授与
- 春正月、突厥の黙啜が霊州を侵し、許欽明を伴った。許欽明は城下で大声を上げて美酒の醤・粱米・墨を求めた。城中が良将を選んで精兵を引き、夜に虜の営を襲うことを望んだ意だったが、城中にその意を解する者はなかった。
- 癸亥、突厥の黙啜が勝州を侵し、平狄軍副使の安道買が撃破した。
- 三月、閻知微と田帰道がともに突厥に使いして黙啜を可汗に冊した。閻知微は道中で黙啜の使者に遭い、勝手に緋の袍と銀の帯を与え、あわせて「虜の使者が都に至れば、盛大に接待すべきです」と上言した。
- 田帰道は「突厥は背き偽ること積年、今ようやく悔い改めております。聖恩の寛宥をお待ちすべきです。今、閻知微は擅に袍と帯を与えました。朝廷が加えるものがなくなります。もとの服に戻させて朝恩を待たせるべきです。また小さな虜の使臣のために盛大に接待するには及びません」と上言し、太后はそのとおりと思った。
- 閻知微は黙啜に会って舞踏し、その靴の先を吸った。田帰道は長揖して拝さなかった。黙啜は田帰道を囚えて殺そうとしたが、田帰道は言葉も顔色も屈せず、その飽くなき欲を責めて禍福を説いた。阿波達干の元珍が「大国の使者は殺せません」と言い、黙啜の怒りはやや解けたが、拘留して帰さなかった。
- はじめ咸亨年間、突厥に降った者はみな豊・勝・霊・夏・朔・代の六州に置いた。ここに至って黙啜は六州の降戸および単于都護府の地、あわせて穀種・繒帛・農器・鉄を求めた。太后が許さなかったので黙啜は怒り、言辞は悖慢になった。
- 姚璹と楊再思は契丹がまだ平らがぬことから、黙啜の求めどおり与えることを請うた。麟台少監・知鳳閣侍郎の賛皇の李嶠は「戎狄は貪欲で信がありません。これこそ『寇に兵を借し盗に糧を資く』というものです。兵を治めて備えるに如くはありません」と言ったが、姚璹と楊再思が固く請うたので与えることとした。
- そこで六州の降戸数千帳をことごとく駆り出して黙啜に与え、あわせて穀種四万斛・雑綵五万段・農器三千事・鉄数万斤を給し、その婚も許した。黙啜はこれによっていっそう強くなった。
- 田帰道はようやく帰り、閻知微と太后の前で争論した。田帰道は黙啜が必ず約を破るので和親を頼めず、備えをすべきだと言い、閻知微は和親は必ず保てると言った。
- 冬閏十月甲寅、幽州都督の狄仁傑を鸞台侍郎・同平章事とした。
- 狄仁傑が上疏して論じた。天は四夷を生じたが、みな先王の封略の外にあります。ゆえに東は滄海に拒まれ、西は流沙に阻まれ、北は大漠が横たわり、南は五嶺に阻まれる。これは天が夷狄を限って中外を隔てたものです。典籍に記されて以来、声教の及ぶところ、三代でも至らなかったものを、国家はすべて併せております。詩人は太原での軽い征伐を誇り、化が江漢に行われたことを美しとしました。とすれば三代の遠い辺境はみな国家の領域内です。
- ところが荒外に武を用い絶域に功を求め、府庫の実を尽くして不毛の地を争っております。その人を得ても賦を増やすに足りず、その土を獲ても耕織できません。いたずらに遠夷が冠帯を着けたという称を求め、本を固め人を安んじる術を務めない。これは秦の始皇・漢の武帝の行いであって、五帝三王の事業ではありません。
- 始皇は兵を窮め武を極めて土地を広げようと務め、死者は麻のごとく、天下の潰叛を招きました。漢の武帝は四夷を征伐して百姓は困窮し盗賊が蜂起しましたが、末年に悔悟して征伐を息め役を罷めたゆえに天に祐けられたのです。
- 近ごろ国家は連年出師し、費えはますます広く、西は四鎮を守り東は安東を守り、徴発は日々加わり百姓は疲弊しております。今、関東は飢饉、蜀漢は逃亡、江淮以南は徴求がやまず、人は生業に復せず、相率いて盗となっている。本根がひとたび揺らげば憂患は浅くありません。そうなるのはみな蛮貊の不毛の地を争い、蒼生を子として養う道に背いているからです。
- 昔、漢の元帝は賈捐之の謀を納れて珠崖郡を罷め、宣帝は魏相の策を用いて車師の田を棄てました。どうして虚名を慕わなかったでしょうか。人力を労するのを憚ったからです。近くは貞観年中、九姓を克平して李思摩を可汗に立てて諸部を統べさせました。夷狄が叛けば伐ち、降れば撫でて、亡ぶ者を推し存する者を固める義を得、遠く守って人を労する役はありませんでした。これが近日の令典であり辺境経営の故事です。
- 私かに思いますに、阿史那斛瑟羅を可汗に立てて四鎮を委ね、高氏の絶えた国を継がせて安東を守らせ、軍費を遠方に省き、甲兵を塞上に併せ、夷狄に侵し侮る患いをなくさせればよろしい。どうしてその巣窟を窮め、螻蟻と長短を較べる必要がありましょう。ただ辺兵に勅して謹んで守備し、斥候を遠くまで出し、資糧を集め、彼が自ら至るのを待ってから撃つべきです。逸をもって労を待てば戦士の力は倍し、主をもって客を禦げば我に利があり、壁を堅くし野を清くすれば寇は得るものがない。自然に、賊は深入りすれば躓く憂いがあり、浅く入れば必ず虜獲の益がありません。こうして数年すれば、二虜は撃たずして服させられましょう、と。事は行われなかったが、識者はこれを是とした。
聖暦元年(698年)――黙啜の大侵入
- 夏六月甲午、淮陽王武延秀を突厥に入らせ、黙啜の娘を妃に納れることとし、豹韜衛大将軍の閻知微に摂春官尚書を、右武衛郎将の楊斉荘に摂司賓卿を兼ねさせ、金帛巨億を携えて送らせた。武延秀は武承嗣の子である。
- 鳳閣舎人の襄陽の張柬之が「古来、中国の親王が夷狄の女を娶ったことはありません」と諫めたが、これで旨に逆らって合州刺史に出された。
- 秋八月戊子、武延秀が黒沙の南庭に至った。突厥の黙啜は閻知微らに「私は娘を李氏に嫁がせたいのだ。武氏の小僧など何の用があろう。これが天子の子か。我が突厥は代々李氏の恩を受けた。李氏はことごとく滅び、ただ二人の子だけが残っていると聞く。私は今、兵を率いて輔けて立てる」と言い、武延秀を別の所に拘留し、閻知微を南面可汗とした。唐の民を主宰させようという意である。
- そこで兵を出して静難・平狄・清夷などの軍を襲った。静難軍使の慕容玄崱が五千の兵で降り、虜の勢いは大いに振るい、進んで媯・檀などの州を侵した。
- 先に閻知微に従って突厥に入った者に、黙啜はみな五品・三品の服を賜ったが、太后はことごとく奪った。
- 黙啜が書を送って朝廷を数え上げた。我らに蒸した穀を与えたので、蒔いても生えぬのが一。金銀の器はみな粗悪で本物でないのが二。我と使者に与えた緋と紫をみな奪ったのが三。繒帛はみな粗悪なのが四。我が可汗の娘は天子の子に嫁ぐべきなのに、武氏は小姓で門戸が釣り合わず、偽って婚を結んだのが五。私はこのために起兵し、河北を取ろうとするだけである、と。
- 監察御史の裴懐古が閻知微に従って突厥に入っていた。黙啜が官に就けようとしたが受けず、囚えて殺そうとした。裴懐古は逃げ帰って晋陽に着いたが、姿は痩せ衰えていた。突撃騎兵が騒ぎ集まって間諜と思い、その首を取って功を求めようとした。ある果毅がかつて冤罪を受けたとき裴懐古が調べて正したことがあり、大声で「裴御史だ」と叫んで救い、全うできた。都に至って引見され、祠部員外郎に遷った。
- 当時、諸州は突厥の侵入を聞き、秋なのに競って民を動員して城を修めた。衛州刺史の太平の敬暉は僚属に「私は『金湯の固めも粟がなければ守れぬ』と聞く。どうして収穫を捨てて城郭を事とするのか」と言い、すべて罷めて田に帰らせた。百姓は大いに喜んだ。
- 司属卿の武重規を天兵中道大総管、右武衛将軍の沙吒忠義を天兵西道総管、幽州都督の下邽の張仁愿を天兵東道総管とし、三十万の兵で突厥の黙啜を討たせた。また左羽林衛大将軍の閻敬容を天兵西道後軍総管として十五万の兵で後援とした。
- 癸丑、黙啜が飛狐を侵した。乙卯、定州を陥して刺史の孫彦高および吏民数千人を殺した。
- 九月、突厥の黙啜を「斬啜」と改称した。黙啜が閻知微に趙州を招諭させた。閻知微は虜と手を組んで城下で「万歳楽」を踏み歌った。将軍の陳令英が城上から「尚書は位も任も軽くない。それが虜のために踏み歌って、恥はないのか」と言うと、閻知微は小声で「やむを得ぬのだ」と吟じた。
- 戊辰、黙啜が趙州を囲み、長史の唐般若が城を翻して応じた。刺史の高叡は妻の秦氏と薬を仰いで死んだふりをした。虜は輿に乗せて黙啜のもとへ運んだ。黙啜が金の獅子の帯と紫の袍を示して「降れば官を拝す、降らねば死だ」と言った。高叡が妻を顧みると、妻は「国恩に報いるのはまさに今日です」と言い、二人とも目を閉じて口をきかなかった。二晩を経て、虜は屈しないと知って殺した。
- 虜が退いてから唐般若は族誅された。高叡に冬官尚書を追贈し、節と諡した。高叡は高熲の孫である。
- 甲戌、太子を河北道元帥として突厥を討たせることとした。これに先立って募兵しても一月余りで千人に満たなかったが、太子が帥となると聞いて応募者は雲のように集まり、まもなく五万に達した。
- 戊寅、狄仁傑を河北道行軍副元帥、右丞の宋玄爽を長史、右台中丞の崔献を司馬、左台中丞の吉頊を監軍使とした。当時、太子は出発しなかったので、狄仁傑に元帥の事を知らせ、太后が自ら送った。
- 癸未、突厥の黙啜が掠めた趙州・定州などの男女一万余人をことごとく殺し、五回道から去った。通過地の殺掠は数え切れなかった。沙吒忠義らはただ兵を率いて跡を追うだけで迫れず、狄仁傑が一万の兵で追ったが及ばなかった。
- 黙啜は漠北に帰って四十万の兵を擁し、地は万里に及び、西北の諸夷はみな付き、中国を軽んずる心が大いにあった。
- 冬十月癸卯、狄仁傑を河北道安撫大使とした。当時、河北の人で突厥に駆り立てられた者は、虜が退いてから誅を恐れてしばしば逃げ隠れた。
- 狄仁傑が上疏して論じた。朝廷で議する者はみな契丹・突厥に脅されて従った人を罪とし、その跡は同じでなくとも心は変わらぬと言います。しかし山東は近ごろ軍機の調発によって傷が重く、家は破れ尽くし、逃亡に至る者もある。加えて官吏の搾取が事に乗じて起こり、枷と杖の下で肌膚に痛みが切り、事が迫って情が危うくなれば礼義に従えません。愁苦の地でその生を楽しめず、利があれば帰し、しばらく死を延ばそうと図る。これは君子の恥辱であり、小人の常の行いです。
- また諸城が偽(賊)に入ったのは天の軍を待っていたものもありますが、将士が功を求めてみな「攻め取った」と言います。臣は濫りな賞を憂え、また無実の者を罪することも恐れます。賊と一緒だったからというだけで悪しき地とされ、妻子を汚辱され貨財を掠奪されることさえある。兵士が不仁なのはもとより知れたことですが、冠を着けた者すら免れない。これでは賊が平らいだ後のほうが悪がいっそう深いことになります。しかも賊は帰服を招くことに努めて秋毫も犯さなかった。今、正に帰った者がすなわち平人なのに、かえって破られ傷つけられる。悲痛ではありませんか。
- そもそも人は水のようなもの。塞き止めれば泉となり、疏ければ川となる。通塞は流れに随い、どうして常の性がありましょう。今、罪を負った輩は必ず家におらず、露宿し草を行き、山沢に潜んでおります。赦せば出て、赦さねば狂う。山東の群盗はこれによって集結するのです。臣は、辺境の塵がしばらく起こるのは憂うるに足りず、中土が安からぬことこそ大事と考えます。罪すれば衆情は恐れ、恕せば反側の者も自ら安んじます。どうか河北の諸州を特に赦し、一切問わぬようにしてください、と。制で従った。
- 狄仁傑はそこで百姓を慰撫し、突厥に駆り掠められた者を得るとみな順次、本籍に返し、糧運を散じて貧乏を賑わせ、駅を修めて凱旋の師を助けた。諸将や使者が妄りに接待を求めることを恐れ、自ら粗末な食を摂り、配下に百姓を侵し騒がすことを禁じ、犯す者は必ず斬った。河北はついに安らいだ。
- 突厥の黙啜は趙州を離れるとき閻知微を放って帰らせた。太后は天津橋の南で磔にし、百官に共に射させ、そのうえで肉を切り骨を砕き、三族を滅ぼした。遠縁で先に面識もなかったのに同じく死んだ者もあった。
- 褒公の段瓚は段志玄の子で、先に突厥に取られていた。突厥が趙州にいたとき、段瓚は楊斉荘を誘ってともに逃げようとしたが、楊斉荘は怯えて動けなかった。段瓚は先に帰り、太后は賞した。楊斉荘がまもなく至り、勅で河内王の武懿宗が取り調べた。武懿宗は楊斉荘の意が躊躇していたとして、閻知微とともに誅した。射られて蝟のようになってもなお息があって死なず、腹を裂いて心臓を割いて地に投げると、なお跳ね回ってやまなかった。
- 田帰道を夏官侍郎に抜擢し、はなはだ親任した。
聖暦二年(699年)
- 臘月、河南・河北に武騎団を置いて突厥に備えた。
- 春二月壬辰、魏元忠を検校并州長史・充天兵軍大総管として突厥に備えた。
- この年、突厥の黙啜は弟の咄悉匐を左廂察、骨咄禄の子の黙矩を右廂察とし、各々二万余人の兵を主宰させ、その子の匐倶を小可汗として位を両察の上に置き、処木昆など十姓の兵四万余人を主宰させ、また拓西可汗と号した。
久視元年(700年)
- 冬十月辛亥、魏元忠を蕭関道大総管として突厥に備えた。
- 十二月甲寅、突厥が隴右の諸監の馬一万余匹を掠めて去った。
長安元年(701年)
- 夏五月、魏元忠を霊武道行軍大総管として突厥に備えた。
- 秋八月、突厥の黙啜が辺境を侵した。安北大都護の相王を天兵道元帥として諸軍を統べて撃たせようとしたが、出発せぬうちに虜が退いた。
長安二年(702年)
- 春正月、突厥が塩・夏の二州を侵した。三月庚寅、突厥が石嶺を破って并州を侵した。雍州長史の薛季昶に右台大夫を摂させて山東防禦軍大使に充て、滄・瀛・幽・易・恒・定などの州の諸軍はみな薛季昶の節度を受けさせた。
- 夏四月、幽州刺史の張仁愿に専ら幽・平・媯・檀の防禦を知らせ、なお薛季昶と連絡して突厥を拒ませた。
- 秋七月甲午、突厥が代州を侵した。九月壬申、忻州を侵した。
長安三年(703年)
- 夏六月辛酉、突厥の黙啜が臣の莫賀干を遣わし、娘を皇太子の子に嫁がせることを請うた。
- 冬十一月己丑、突厥が使者を送って婚を許されたことを謝した。丙申、宿羽台で宴し、太子も列席した。
長安四年(704年)
- 突厥の黙啜がすでに和親したので、秋八月戊寅、初めて淮陽王武延秀を帰した。
中宗神竜元年(705年)
- 夏六月壬子、左驍衛大将軍の裴思諒を霊武軍大総管に充てて突厥に備えた。
神竜二年(706年)
- 冬十二月己卯、突厥の黙啜が鳴沙を侵し、霊武軍大総管の沙吒忠義が戦って敗れ、死者は六千余人。丁巳、突厥が進んで原・会などの州を侵し、隴右の牧馬一万余匹を掠めて去った。沙吒忠義を免官した。
景竜元年(707年)
- 春正月庚戌、制して、突厥の黙啜が辺境を侵しているので内外の官に各々突厥を平らげる策を進めさせた。
- 右補闕の盧俌が上疏して論じた。郤縠は礼楽を悦び詩書を敦くして晋の元帥となり、杜預は矢が札を貫かぬほどでありながら呉を平らげる勲を建てました。これで、中枢の制謀は一夫の勇を取らぬことが分かります。沙吒忠義のごときは驍将の材で、もとより大任に当たるに足りません。また鳴沙の役では主将が先に逃げました。国法を正すべきです。賞罰が明らかであれば敵は服さぬものがありません。
- また辺州の刺史は精選し、卒と乗を集め資糧を蓄えさせ、来れば防ぎ去れば備えさせるべきです。昨年は四方に旱害があり、軽々しく師を興すべきではありません。内を治めてから外に及び、近きを綏んじてから遠きを来させ、倉廩が実り士卒が練れるのを待ってから大挙して討つべきです、と。上は善しとした。
- 夏五月戊戌、右屯衛大将軍の張仁愿を朔方道大総管として突厥に備えた。
- 冬十月丁丑、左屯衛将軍の張仁愿を朔方道大総管に充てて突厥を撃たせた。着いたときには虜はすでに退いていたが、追撃して大破した。
景竜二年(708年)――三受降城の築造
- 春三月丙辰、朔方道大総管の張仁愿が黄河のほとりに三受降城を築いた。
- はじめ朔方軍と突厥は黄河を境としており、黄河の北に拂雲祠があった。突厥は侵入しようとするたび、必ずまず祠に赴いて祈禱し、馬を放ち兵を整えてから渡河した。
- 当時、黙啜は全軍で西に突騎施を撃っていた。張仁愿はその虚に乗じて漠南の地を奪い、黄河の北に三受降城を築いて首尾呼応させ、その南寇の路を絶つことを請うた。
- 太子少師の唐休璟は「両漢以来、みな北は大河を要害としてきました。今、寇の境に城を築けば、人を労し功を費やして、結局は虜のものとなることを恐れます」と言った。張仁愿が固く請いやまず、上はついに従った。
- 張仁愿は上表して、任期の満ちた鎮兵を留めてその工事を助けることを請うた。咸陽の兵二百余人が逃げ帰り、張仁愿はことごとく捕らえて城下で斬った。軍中は震え上がり、六十日で完成した。
- 拂雲祠を中城とし、東西の両城までそれぞれ四百余里、みな渡し場の要衝に拠り、領域を三百余里拓いた。牛頭朝那山の北に烽火台千八百か所を置き、左玉鈐衛将軍の論弓仁を朔方軍前鋒遊奕使として諾真水を守らせ巡邏させた。
- これより突厥は山を越えて狩猟や放牧をあえてせず、朔方に二度と寇掠はなく、鎮兵数万人を減らせた。
- 張仁愿は三城を建てるとき、甕城の門も守備の具も置かなかった。ある者が問うと、張仁愿は「兵は進取を貴び、退いて守るのは利ではない。寇が至れば力を合わせて出戦すべきである。首を回して城を望む者は斬るべきだ。守備を用いて退く心を生じさせて何になろう」と言った。その後、常元楷が朔方軍総管となって初めて甕城の門を築いた。人はこれによって張仁愿を重んじ常元楷を軽んじた。
睿宗景雲二年(711年)
- 春正月癸丑、突厥の可汗の黙啜が使者を送って和を請い、許した。
- 三月、宋王成器の娘を金山公主として突厥の黙啜に嫁がせることを許した。
- 御史中丞の和逢堯に摂鴻臚卿として突厥に使いさせた。和逢堯は黙啜に「処密と堅昆は可汗が唐と婚を結んだと聞けばみな帰附しましょう。可汗はなぜ唐の冠帯を襲って諸胡に知らせぬのですか。美しいことではありませんか」と説いた。黙啜は承諾し、翌日、幞頭に紫の衫を着け、南面して再拝して臣と称し、子の楊我支と国相を和逢堯に随行させて入朝させた。十一月戊寅、京師に至った。和逢堯は使命を果たした功で水部侍郎に遷った。
玄宗先天元年(712年)
- 春正月乙未、上が安福門に出御して突厥の楊我支を宴し、金山公主を見せたが、まもなく上が位を伝えて婚はついに成らなかった。
開元元年(713年)
- 秋八月丙辰、突厥の可汗の黙啜が子の楊我支を遣わして婚を求めた。丁巳、蜀王の娘の南和県主を嫁がせることを許した。
開元二年(714年)――北庭の勝利
- 春二月乙未、突厥の可汗の黙啜が子の同俄特勒および妹婿の火抜頡利発石阿失畢に兵を率いさせて北庭都護府を囲んだ。都護の郭虔瓘が撃破した。同俄が単騎で城下に迫り、郭虔瓘は壮士を道の傍らに伏せ、突然起こして斬った。突厥は軍中の資糧をすべて出して同俄を贖おうとしたが、すでに死んだと聞いて慟哭して去った。
- 閏月、突厥の石阿失畢は同俄を失って帰れず、癸未、妻とともに逃げてきた。右衛大将軍として燕北郡王に封じ、その妻を金山公主と称させた。
- 夏四月辛巳、突厥の可汗の黙啜がまた使者を送って婚を求め、「乾和永清太駙馬・天上得果報天男・突厥聖天骨咄禄可汗」と自称した。
- 突厥の可汗の黙啜は衰老してますます昏虐になった。壬子、葛邏禄などの部落が涼州に来て降った。
- 冬十月己巳、突厥の可汗の黙啜がまた使者を送って婚を求め、上は来年に公主を迎えることを許した。
- 突厥十姓の胡禄屋など諸部が北庭に来て降を請い、都護の郭虔瓘に撫存させた。
- 十一月丙申、左散騎常侍の解琬を北庭に遣わして突厥の降者を宣慰し、便宜に従って処置させた。
開元三年(715年)
- 春正月、突厥十姓の降者は前後で一万余帳。高麗の莫離支の文簡は十姓の婿である。二月、跌の都督の思泰らも突厥から衆を率いて降った。制でみな河南の地に置いた。
- 三月、胡禄屋の酋長の支匐忌らが入朝した。上は十姓の降者が次第に多くなったので、夏四月庚申、右羽林大将軍の薛訥を涼州鎮大総管として赤水などの軍をみな節度させて涼州に居らせ、左衛大将軍の郭虔瓘を朔川鎮大総管として和戎などの軍をみな節度させて并州に居らせ、兵を整えて黙啜に備えた。
- 黙啜が兵を出して葛邏禄・胡禄屋・鼠尼施らを撃ってしばしば破ったので、北庭都護の湯嘉恵と左散騎常侍の解琬らに兵を出して救うよう勅した。五月壬辰、湯嘉恵らに葛邏禄・胡禄屋・鼠尼施および定辺道大総管の阿史那献と互いに応援し合うよう勅した。
- 秋七月壬戌、涼州大総管の薛訥を朔方道行軍大総管、太僕卿の呂延祚と霊州刺史の杜賓客を副として突厥を討たせた。
開元四年(716年)――黙啜の死
- 夏六月癸酉、抜曳固が突厥の可汗の黙啜の首を斬って献じた。
- 当時、黙啜は北に抜曳固を撃って独楽水で大破し、勝ちを恃んで軽々しく帰り、二度と備えをしなかった。抜曳固の敗残兵の頡質略が柳林から突然出て斬った。折しも大武軍の子将の郝霊荃が使いで突厥にいたので、頡質略はその首を渡し、ともに闕に赴いた。その首を広い街路に懸けた。
- 抜曳固・回紇・同羅・霫・僕固の五部がみな降り、大武軍の北に置いた。
- 黙啜の子の小可汗が立ったが、骨咄禄の子の闕特勒が撃ち殺し、黙啜の諸子と親信もほぼ尽きた。その兄の左賢王の黙棘連を立て、これが毗伽可汗で、国人は「小殺」と呼んだ。毗伽は国を固く闕特勒に譲ろうとしたが、闕特勒は受けず、そこで左賢王として専ら兵馬を典らせた。
- 秋八月、突厥の黙啜が死ぬと、奚・契丹・抜曳固など諸部がみな内附し、突騎施の蘇禄も再び自立して可汗となり、突厥の部落の多くが離散した。毗伽可汗はこれを患い、黙啜時代の牙官の暾欲谷を召して謀主とした。暾欲谷は七十余歳、智略に富み、国人は信服した。
- 突厥の降戸で河曲にいた者は、毗伽が立ったと聞いて多くは再び叛いて帰った。
- 并州長史の王晙が上言して論じた。この輩はただその国が喪乱したゆえに連れ立って降っただけです。彼の地が安寧になれば必ず叛き去ります。今これを河曲に置いておりますが、この輩は狡猾で実に制御しがたく、しばしば軍州の約束を受けず、兵を興して剽掠しております。逃げた者はすでに多く、虜と音信を往来して詳細を伝えているとも聞きます。これはこの輩を養って間諜とさせるようなもの。日月が久しくなるほど姦詐は深まり、辺境の隙をうかがってやがて大患となりましょう。虜騎が南に牧すれば必ず内応し、軍州に迫れば表裏から敵を受け、韓信・彭越がいても勝てません。
- どうか秋冬の交に大々的に兵衆を集め、利害を諭して資糧を給し、内地に移されますよう。二十年もすれば次第に旧俗を変え、みな精強な兵となりましょう。一時はしばらく労しても永く安静となります。
- 近ごろ辺を守る将吏および境を出る使人の多くは諂いの辞を述べ、みな事実ではありません。「北虜は破滅した」と言い、「降戸は安定した」と言うのは、みな自分の功を誇りたいだけで、忠を尽くして国に殉ずるものではありません。どうかこの口達者を察し、遠慮を忘れられませぬよう。
- 議する者は必ず「国家は先に降戸を河曲に置いてみな安寧を得た。今、何を疑うのか」と言うでしょう。しかしこれは事は同じでも時が異なります。察せずにはおれません。以前は頡利がすでに亡んで、降った者に異心はなく、ゆえに久しく安んじて変がありませんでした。今は北虜がなお存し、この輩はその威を畏れ、あるいはその恵を懐き、あるいは親属がおります。どうして南に来ることを楽しみましょう。あの時と比べるべくもありません。
- 臣の愚慮では、内地に移すのが上策、士馬を多く屯して大いに備え、華夷が交ざり合うのは、人が労して費えが広く次策、今日のままが下策です。どうかこの三策を審らかにして利を択んで行われますよう。たとえ移すことで逃亡する者が出ても、得た者はみな唐のものとなります。もし黄河が凍る時期まで留めれば、必ず変があることを恐れます、と。
- 上疏の返答がまだ来ぬうちに、降戸の跌思泰・阿悉爛らが果たして叛いた。冬十月甲辰、朔方大総管の薛訥に兵を出して追討させた。王晙は并州の兵を率いて西に黄河を渡り、昼夜兼行して叛いた者を追撃して破り、三千級を斬り捕らえた。
- これに先立ち、単于副都護の張知運が降戸の兵仗をすべて収めて黄河を渡って南に住まわせ、降戸は怨み怒った。御史中丞の姜晦が巡辺使となったとき、降戸が弓矢がなくて狩猟できぬと訴え、姜晦がすべて返した。降戸はそれを得てついに叛いた。
- 張知運は備えをせず、青剛嶺で戦って虜に捕らえられ、突厥に送られようとしたが、綏州の境に至ったところで将軍の郭知運が朔方の兵で迎え撃ち、黒山の呼延谷でその衆を大破した。虜は張知運を放って去った。上は張知運が師を失ったとして斬ってさらした。
- 毗伽可汗は思泰らを得て南に侵入しようとしたが、暾欲谷は「唐主は英武で民は和し年は豊かで、まだ隙がありません。動くべきではありません。我が衆は集まったばかりで力はなお疲れております。しばらく数年養い息ませ、そのうえで変を観て挙げるべきです」と言った。
- 毗伽はまた城を築き、あわせて寺と道観を立てようとした。暾欲谷は「なりません。突厥は人の数が少なく、唐家の百分の一にも及びません。それでも敵たり得るのは、まさに水草を追って居所を定めず、狩猟を業として人がみな武を習い、強ければ兵を進めて掠め、弱ければ山林に隠れられるからです。唐兵が多くとも用いようがない。もし城を築いて住み、旧俗を変えれば、一朝、利を失えば必ず滅ぼされます。釈迦と老子の法は人に仁弱を教えるもので、武を用い勝ちを取る術ではありません。崇めてはなりません」と言い、毗伽はそこで止めた。
開元六年(718年)
- 春正月辛丑、突厥の毗伽可汗が来て和を請い、許した。
開元八年(720年)
- 夏六月、突厥の降戸の僕固都督の勺磨および跌の部落が受降城の側に散り住んでいた。朔方大使の王晙は、彼らがひそかに突厥を引き入れて軍城を陥そうと謀っていると言い、ひそかに誅殺を奏請した。勺磨らを受降城の宴に誘い、伏兵でことごとく殺し、河曲の降戸はほぼ絶えた。
- 抜曳固・同羅の諸部で大同・横野軍の側にいた者はこれを聞いてみな恐れ騒いだ。秋、并州長史・天兵節度大使の張説が二十騎を率いて節を持ってその部落に赴いて慰撫し、そのままその帳の下に宿った。副使の李憲は虜の情は信じがたいとして書を馳せて止めようとしたが、張説は返書して「私の肉は黄羊ではない。食われることは畏れぬ。血は野馬ではない。刺されることは畏れぬ。士は危うきを見て命を致すもの。これこそ私が死を効す秋である」と述べた。抜曳固と同羅はこれによってついに安んじた。
- 冬十一月辛未、突厥が甘・涼などの州を侵し、河西節度使の楊敬述を破り、契苾の部落を掠めて去った。
- これに先立ち、朔方大総管の王晙が、西は抜悉密を発し東は奚・契丹を発して、その秋に毗伽の牙帳を稽落水のほとりで急襲することを奏請していた。毗伽は聞いて大いに恐れた。
- 暾欲谷は言った。畏れるに足りません。抜悉密は北庭にあって奚・契丹とは遠く隔たり、勢いとして及び合えません。朔方の兵も計算では来られません。もし本当に来られるようなら、着きかけるのを待って牙帳を北に三日移せば、唐兵は食が尽きて自ら去ります。しかも抜悉密は軽率で利を好み、王晙の約を得れば必ず喜んで先に来ます。王晙は張嘉貞と仲が悪く、奏請しても多くは応じられません。必ず兵を出せません。王晙の兵が出ず抜悉密だけが来たら、撃って取るのは甚だ容易です、と。
- やがて抜悉密は果たして兵を発して突厥の牙帳に迫ったが、朔方および奚・契丹の兵は来なかった。抜悉密は恐れて引き揚げた。毗伽が撃とうとすると、暾欲谷は「この輩は家を千里離れており、死戦する覚悟です。撃つべきではありません。兵で跡を追うに如くはありません」と言った。
- 北庭まで二百里の所で暾欲谷は兵を分けて間道から先に北庭を囲み、そのうえで兵を放って抜悉密を撃って大破した。抜悉密の衆は潰えて北庭へ走ったが入れず、ことごとく突厥の虜となった。
- 暾欲谷は兵を率いて帰り、赤亭を出て涼州の羊馬を掠めた。楊敬述が副将の盧公利と判官の元澄に兵を率いて迎え撃たせた。暾欲谷はその衆に「私は勝ちに乗じて来た。敬述が兵を出せば必ず破れる」と言った。盧公利らが删丹に至って暾欲谷と遭遇し、唐兵は大敗して盧公利と元澄は身一つで逃げた。毗伽はこれによって大いに振るい、黙啜の衆をすべて領有した。
開元九年(721年)
- 春二月丙戌、突厥の毗伽が再び使者を送って和を求めた。上は書を賜って諭した。
- 昔、国家と突厥が和親して、華も夷も安逸で甲兵は休みました。国家は突厥の羊馬を買い、突厥は国家の繒帛を受け、彼此ともに豊かでした。ところが数十年来、もとのようではなくなった。まさに黙啜が信なく、口では和しながら心は叛き、しばしば盗兵を出して辺境を寇抄したからです。人は怨み神は怒って、身を陨とし元を喪った。吉凶の験は、みな可汗の見たところです。
- 今また前の跡を踏んで甘・涼を掩襲し、そのうえで使人を遣わして改めて好を求める。国家は天のように覆い海のように容れる。ただ来た情を取って往いた咎は追わぬ。可汗に果たして誠心があれば、ともに遐福を保とう。そうでなければ使者を煩わすには及ばぬ。いたずらに往来するだけである。もし辺を侵すなら、それに応ずる備えもある。可汗はよく図られよ、と。
開元十二年(724年)
- 秋七月、突厥の可汗が臣の哥解頡利発を遣わして婚を求めた。
- 八月丙申、突厥の哥解頡利発をその国に帰した。その使者が礼数を軽んじて備えていなかったので、まだ婚を許さなかった。
開元十三年(725年)――封禅への扈従
- 張説は大駕の東巡に突厥が隙に乗じて侵入することを恐れ、兵を加えて辺を守ることを議した。
- 夏四月、兵部郎中の裴光庭を召して謀った。裴光庭は「封禅とは成功を告げるものです。今、中天に昇ろうとして戎狄を懼れるのは、盛徳を昭らかにする道ではありません」と言った。
- 張説が「では、どうすればよいか」と問うと、裴光庭は「四夷の中で突厥が最大です。しばしば和親を求めながら、朝廷は羈縻してまだ許すと決めていません。今、一使を遣わしてその大臣を徴して泰山の封禅に従わせれば、彼は必ず喜んで命を承けましょう。突厥が来れば戎狄の君長でみな来ぬ者はありません。旗を伏せ鼓を寝かせて高枕でおられます」と答えた。張説は「善し。私の及ばぬところだ」と言い、ただちに奏して実行した。裴光庭は裴行倹の子である。
- 上は中書直省の袁振に摂鴻臚卿として突厥に旨を諭させた。小殺(毗伽)は闕特勒・暾欲谷と輪になって帳中に座り、酒を置いて袁振に言った。「吐蕃は犬の種であり、奚と契丹はもと突厥の奴である。それがみな公主を娶っている。突厥は前後に婚を求めながら独り許されぬのはなぜか。しかも私は入蕃の公主がみな天子の娘でないことも知っている。今、真偽を問うのではない。ただしばしば請うても得られず、諸蕃に会うのが恥ずかしいだけだ」と。袁振は奏請することを約した。小殺はそこで大臣の阿史徳頡利発を入貢させ、そのまま東巡に扈従させた。
- 冬十二月、突厥の頡利発が帰るのを辞し、上は厚く賜って帰らせたが、ついに婚は許さなかった。
開元十四年(726年)
- 夏四月辛丑、定・恒・莫・易・滄の五州に軍を置いて突厥に備えた。
開元十五年(727年)
- 秋九月丙戌、突厥の毗伽可汗が大臣の梅録啜を入貢させた。
- 吐蕃が瓜州を侵したとき、毗伽に書を送ってともに侵入しようと誘ったが、毗伽はその書もあわせて献じた。上は嘉して西受降城での互市を許し、毎年、縑帛数十万匹を携えて戎馬を買って軍旅を助けさせた。あわせて監牧の種ともした。これによって国の馬はいっそう壮健になった。
開元十九年(731年)
- 春三月、突厥の左賢王の闕特勒が没し、書を賜って弔した。
開元二十二年(734年)
- 冬十二月、突厥の毗伽可汗が大臣の梅録啜に毒を盛られた。まだ死なぬうちに梅録啜およびその族党を討って誅した。没して子の伊然可汗が立ったが、まもなく没し、弟の登利可汗が立った。庚戌、喪を告げてきた。
開元二十九年(741年)
- 秋七月丙寅、突厥が使者を送って登利可汗の喪を告げた。
- はじめ登利の従叔二人が兵馬を分掌して左殺・右殺と号した。登利は両殺の専権を患い、母と謀って右殺を誘って斬り、自らその衆を率いた。左殺の判闕特勒が兵を整えて登利を攻めて殺し、毗伽可汗の子を可汗に立てた。まもなく骨咄葉護に殺され、改めてその弟を立てたが、これもまもなく殺され、骨咄葉護が自立して可汗となった。
- 上は突厥の内乱に乗じ、癸酉、左羽林将軍の孫老奴に回紇・葛邏禄・抜悉密などの部落を招諭させた。
天宝元年(742年)
- 秋八月、突厥の抜悉密・回紇・葛邏禄の三部が共に骨咄葉護を攻めて殺し、抜悉密の酋長を推して頡跌伊施可汗とし、回紇と葛邏禄は自ら左右の葉護となった。
- 突厥の残衆は共に判闕特勒の子を立てて烏蘇米施可汗とし、その子の葛臘哆を西殺とした。
- 上は使者を遣わして烏蘇に内附を諭したが、烏蘇は従わなかった。朔方節度使の王忠嗣が兵を磧口に盛んに集めて威した。烏蘇は恐れて降を請いながら引き延ばして来ない。王忠嗣はその詐りを知り、使者を送って抜悉密・回紇・葛邏禄を説いて攻めさせた。烏蘇は逃げ去り、王忠嗣はそこで兵を出して撃ち、その右廂を取って帰った。
- 丁亥、突厥の西葉護の阿布思および西殺の葛臘哆、黙啜の孫の勃徳支、伊然の小妻で毗伽登利の娘が部衆千余帳を率いて相次いで降り、突厥はついに衰微した。九月辛亥、上が花萼楼に出御して突厥の降者を宴し、賞賜はきわめて厚かった。
天宝三載(744年)
- 秋八月、抜悉密が突厥の烏蘇可汗を攻めて斬り、首を京師に送った。国人はその弟の鶻隴匐白眉特勒を立て、これが白眉可汗である。
- そこで突厥は大乱となった。朔方節度使の王忠嗣に兵を出して乗ずるよう勅した。薩河内山に至ってその左廂の阿波・連干ら十一部を破ったが、右廂はまだ下らなかった。
- 折しも回紇と葛邏禄が共に抜悉密の頡跌伊施可汗を攻めて殺し、回紇の骨力裴羅が自立して骨咄禄毗伽闕可汗となり、使者を送って状を言上した。上は裴羅を懐仁可汗に冊拝した。
- そこで懐仁は南に突厥の故地に拠り、烏徳犍山に牙帳を立てた。もと薬邏葛など九姓を統べていたが、その後さらに抜悉密・葛邏禄を併せて合わせて十一部となり、各々都督を置き、戦うたび二つの客部を先陣とした。
天宝四載(745年)
- 春正月、回紇の懐仁可汗が突厥の白眉可汗を撃って殺し、首を京師に送った。突厥の毗伽可敦が衆を率いて降った。こうして北辺は静まり、烽燧に警報はなくなった。