通鑑紀事本末唐、遼東を平定する(唐平遼東)

唐が高句麗(高麗)を服属させ、ついに滅ぼすまでの六十年。高祖・太宗の初期は冊封と入貢による安定が続いたが、泉蓋蘇文が王建武を弑して国政を専らにしたことで関係が崩れ、太宗は貞観十九年に自ら親征する。遼東の諸城を抜き駐蹕山で高延寿の大軍を降したものの、安市城を落とせず撤退し、太宗は悔いを残して没した。高宗は蘇定方らを用いてまず百済を滅ぼし、白江で倭兵を破って復興勢力を平らげ、蓋蘇文の死後に起きた泉男生と男建の兄弟争いに乗じて総章元年に平壌を陥れ、高麗を安東都護府の下に置いた。その後は高麗遺民の叛乱と新羅の伸張への対処が続く。

年表(28件)

唐高祖武徳四年(621年)

  • 秋七月乙丑、高句麗王の建武が使者を入貢させた。建武は高元の弟である。

武徳五年(622年)

  • 上は隋末の戦士の多くが高麗に取られていたので、この年、高麗王建武に書を賜ってことごとく送り返させ、また州県に中国にいる高麗人を探して国に帰らせた。建武は詔を奉じ、前後で万を数える中国の民を返した。

武徳七年(624年)

  • 春二月丁未、高麗王建武が使者を送って暦の頒布を請うた。使者を遣わして建武を遼東郡王に冊し、百済王の扶余璋を帯方郡王、新羅王の金真平を楽浪郡王とした。

武徳九年(626年)

  • 新羅・百済・高麗の三国は積年の仇があって代わる代わる攻め合った。上は国子助教の朱子奢を遣わして趣旨を諭させ、三国はみな上表して謝罪した。

太宗貞観五年(631年)

  • 新羅王の真平が没して嗣がなく、国人はその娘の善徳を王に立てた。

貞観十五年(641年)

  • 秋七月、上が職方郎中の陳大徳を高麗に遣わした。八月己亥、高麗から帰った。
  • 陳大徳は入国の当初、山川と風俗を知ろうとして、行く先々の城邑でその守り手に綾綺を贈り「私は山水を好む。ここに景勝地があれば見たい」と言った。守り手は喜んで案内し、至らぬ所がなかった。
  • しばしば中国人に出会った。「家は某郡にあり、隋末に従軍して高麗に取られた。高麗は遊女を妻に与えた」と言い、高麗人と入り交じって住む者はほぼ半ばに及んでいた。親戚の生死を問われて、陳大徳は「みな無事だ」と偽った。みな涙を流して伝え合い、数日後には隋の人で彼を望み見て哭する者が郊野に満ちた。
  • 陳大徳は上に「その国は高昌が亡んだと聞いて大いに恐れ、宿舎や接待の丁重さは通常より厚くなっております」と言った。
  • 上は「高麗はもと四郡の地にすぎぬ。私が数万の兵を出して遼東を攻めれば、彼は必ず国を傾けて救う。別に舟師を東萊から出し海路で平壌に向かわせ、水陸で勢いを合わせれば取るのは難しくない。ただ山東の州県が疲弊してまだ回復していない。労したくないだけだ」と言った。

貞観十六年(642年)

  • 冬十一月丁巳、営州都督の張倹が、高麗の東部大人の泉蓋蘇文がその王の武(建武)を弑したと奏した。
  • 蓋蘇文は凶暴で不法が多く、王と大臣が誅そうと議した。蓋蘇文はひそかに知り、部下の兵をすべて集めて閲兵のように装い、あわせて城南に酒饌を盛大に並べて諸大臣を招いて臨検させ、兵を整えてことごとく殺した。死者は百余人。そのまま宮に駆け込んで手ずから王を弑し、数段に斬って溝に捨てた。王の弟の子の蔵を王に立て、自ら莫離支となった。その官は中国の吏部尚書兼兵部尚書に当たる。こうして遠近に号令して国事を専制した。
  • 蓋蘇文は容貌が雄偉で意気は豪放、身に五本の刀を佩び、左右は仰ぎ見ることもできなかった。馬に上り下りするたび常に貴人や武将を地に伏せさせてそれを踏み台にした。外出には必ず隊伍を整え、先導が長く声を上げると人はみな逃げ散り、坑や谷も避けず、路上に人影が絶えた。国人はひどく苦しんだ。
  • 亳州刺史の裴思荘が高麗討伐を奏請した。上は「高麗王の武は職貢を絶やさなかったのに賊臣に弑された。朕は深く哀しみ、まことに忘れぬ。しかし喪に乗じ乱に乗じて取っても、得たところで貴くない。しかも山東は疲弊している。私はまだ用兵を口にするに忍びぬ」と言った。

貞観十七年(643年)

  • 夏六月丁亥、太常丞の鄧素が高麗から帰り、懐遠鎮に守備兵を増やして高麗に迫ることを請うた。上は「遠人が服さなければ文徳を修めて来させるもの。一、二百の守備兵が絶域を威せたという話は聞かぬ」と言った。
  • 上が「蓋蘇文はその君を弑して国政を専らにしている。まことに忍びがたい。今日の兵力で取るのは難しくないが、百姓を労したくない。ひとまず契丹と靺鞨に騒がせようと思うが、どうか」と言った。長孫無忌は「蓋蘇文は自ら罪の大きさを知り、大国の討伐を畏れて必ず厳重に守備を設けます。陛下はしばらく隠忍されれば、彼は自ら安んじて必ずいっそう驕り怠り、その悪を恣にします。その後で討たれても遅くありません」と言い、上は「善し」と言った。
  • 戊辰、詔して高麗王蔵を上柱国・遼東郡王・高麗王とし、使者に節を持たせて冊命した。
  • 秋九月庚辰、新羅が使者を送って、百済が四十余城を攻め取り、さらに高麗と兵を連ねて新羅の入朝の路を絶とうと謀っていると訴え、救援の兵を乞うた。上は司農丞の相里玄奨に璽書を持たせて高麗に賜り、「新羅は国家に身を委ね朝貢を欠かさぬ。お前と百済はそれぞれ兵を収めるべきである。さらに攻めれば、明年、兵を出してお前の国を撃つ」と述べた。

貞観十八年(644年)

  • 春正月、相里玄奨が平壌に至った。莫離支はすでに兵を率いて新羅を撃ってその二城を破っていた。高麗王が召させたので帰った。
  • 相里玄奨が新羅を攻めぬよう諭すと、莫離支は「昔、隋人が侵入したとき、新羅は隙に乗じて我が地五百里を侵した。侵した地を返さぬ限り、兵はやめられまい」と言った。相里玄奨は「過ぎたことをどうして追論できよう。遼東の諸城はもとみな中国の郡県だが、中国はそれすら言わぬ。高麗がどうして故地を必ず求められようか」と言ったが、莫離支はついに従わなかった。
  • 二月乙巳朔、相里玄奨が帰ってその状況を詳しく述べた。上は「蓋蘇文はその君を弑し大臣を賊し、その民を残虐にした。今また我が詔命に違い隣国を侵し暴れている。討たぬわけにいかぬ」と言った。
  • 諫議大夫の褚遂良が「陛下が指図すれば中原は清く安らぎ、目を向ければ四夷は畏れ服します。威望は大です。ところが今、海を渡って遠く小夷を征し、期日どおりに勝てればともかく、万一躓けば威を傷つけ望を損ない、さらに憤りの兵を興せば安危は測りがたくなります」と言った。
  • 李世勣が「先ごろ薛延陀が侵入し、陛下は兵を出して徹底討伐しようとされたのに、魏徴が諫めて止め、今なお患いとなっております。もし陛下の策を用いていれば北の辺境は安らいでいたでしょう」と言った。上は「そのとおりだ。それはまことに魏徴の失であった。朕はまもなく悔いたが、言おうとしなかった。良謀を塞ぐことを恐れたからだ」と言った。
  • 上が自ら高麗を征そうとし、褚遂良が上疏して論じた。天下はたとえば一身、両京は心腹、州県は四肢、四夷は身外の物です。高麗の罪は大きく、まことに討つべきですが、二、三の猛将に四、五万の衆を率いさせ、陛下の威霊を仗みとすれば、取るのは手のひらを返すようなもの。今、太子は立ったばかりで年もなお幼く、その他の藩屏は陛下のご存じのとおり。一朝、金湯の全きを棄てて遼海の険を越え、天下の君として軽々しく遠征なさるのは、みな愚臣の甚だ憂うるところです、と。上は聞かなかった。
  • 当時、群臣で高麗征討を諫める者が多かった。上は「八人の堯、九人の舜がいても冬に種を蒔けぬ。野夫や童子でも春に蒔けば生える。時を得るからだ。そもそも天にはその時があり、人にはその功がある。蓋蘇文は上を凌ぎ下を虐げ、民は首を伸ばして救いを待っている。これこそまさに高麗が亡ぶべき時である。議する者は紛々と言うが、ただこれを見ていないだけだ」と言った。
  • 秋七月辛卯、勅して将作大匠の閻立徳らを洪・饒・江の三州に赴かせ、船四百艘を造らせて軍糧を載せることとした。
  • 甲午、詔して営州都督の張倹らに幽州・営州の二都督の兵および契丹・奚・靺鞨を率いてまず遼東を撃ち、その勢いを見させた。太常卿の韋挺を饋運使、民部侍郎の崔仁師を副とし、河北の諸州はみな韋挺の節度を受け、便宜に従うことを許した。また太僕少卿の蕭鋭に河南の諸州の糧を海に運び入れさせた。蕭鋭は蕭瑀の子である。
  • 九月乙未、鴻臚が高麗の莫離支が白金を貢いだと奏した。褚遂良が「莫離支はその君を弑した。九夷も容れぬところです。今これを討とうとしながらその金を納れるのは、郜の鼎の類(不義の器を受けること)です。臣は受けるべきでないと考えます」と言い、上は従った。
  • 上は高麗の使者に「お前たちはみな高武に仕えて官爵を得ていた。莫離支が弑逆したのに、お前たちは仇を復せず、今また彼のために遊説して大国を欺いている。これより大きな罪があろうか」と言い、ことごとく大理に付した。
  • 冬十月甲寅、車駕が洛陽に行幸した。十一月壬申、洛陽に至った。
  • 前宜州刺史の鄭元璹はすでに致仕していたが、上はかつて隋の煬帝に従って高麗を伐ったので行在所に召して問うた。鄭元璹は「遼東は道が遠く糧運が困難です。東夷は城を守るのが上手く、攻めても急には落とせません」と答えた。上は「今日は隋の比ではない。公はまあ聞いていよ」と言った。
  • 張倹らは遼水の増水に遭って久しく渡れなかった。上は臆病と考えて張倹を洛陽に召した。張倹は山川の険易、水草の美悪を詳しく述べ、上は喜んだ。
  • 上は洺州刺史の程名振が用兵に長けていると聞いて召して方略を問い、その才敏を嘉して即日、右驍衛将軍を拝した。
  • 甲午、刑部尚書の張亮を平壌道行軍大総管として江淮・嶺・硤の兵四万および長安・洛陽の募兵三千・戦艦五百艘を率いて莱州から海を渡り平壌へ向かわせ、また太子詹事・左衛率の李世勣を遼東道行軍大総管として歩騎六万および蘭・河二州の降胡を率いて遼東へ向かわせ、両軍が勢いを合わせて並び進むこととした。
  • 庚子、諸軍が幽州に大集した。行軍総管の姜行本と少府少監の丘行淹を先に遣わして工人を督し、安蘿山で梯と衝車を造らせた。当時、遠近の勇士で応募する者や攻城器械を献ずる者は数え切れず、上はみな自ら手を加えてその便利なものを取った。
  • また手ずから詔を書いて天下に諭した。高麗の蓋蘇文は主を弑し民を虐げている。情としてどうして忍べようか。今、幽州・薊州に巡幸して遼碣に罪を問おうとする。通過地の宿営は労費をなさぬように、と。あわせて言う。昔、隋の煬帝は下に残暴で、高麗王は民を仁愛した。乱を思う軍で安和の衆を撃った。ゆえに功を成せなかった。今、必勝の道を略言すれば五つある。一に大をもって小を撃つ、二に順をもって逆を討つ、三に治をもって乱に乗ずる、四に逸をもって労に敵する、五に悦をもって怨に当たる。克てぬことを何を憂えようか。元元(万民)に布告する。疑い恐れるな、と。そこで宿営と供応の費用の具は半分以上減らされた。
  • 十一月辛丑、武陽懿公の李大亮が長安で没した。遺表で高麗の師を罷めることを請うた。
  • 甲寅、詔して諸軍および新羅・百済・奚・契丹に道を分けて高麗を撃たせた。

貞観十九年(645年)――太宗の親征

  • 春二月庚戌、上が自ら諸軍を率いて洛陽を発し、特進の蕭瑀を洛陽宮の留守とした。乙卯、詔して「朕が定州を発した後は皇太子に監国させよ」とした。
  • 開府儀同三司で致仕した尉遅敬徳が上言して「陛下が親征され太子が定州におられれば、長安と洛陽は心腹が空になります。楊玄感のような変が起きることを恐れます。しかも辺隅の小夷は万乗を煩わすに足りません。どうか偏師を遣わして征されれば、期日どおりに殄滅できましょう」と言った。上は従わず、尉遅敬徳を左一馬軍総管として従軍させた。
  • 癸亥、上が鄴に至り、自ら文を作って魏の太祖を祭って「危うきに臨んで変を制し、敵を料って奇を設けることでは、一将の智としては余りあるが、万乗の才としては足りぬ」と述べた。
  • この月、李世勣の軍が幽州に至った。三月丁丑、車駕が定州に至った。
  • 丁亥、上が侍臣に「遼東はもと中国の地である。隋氏は四度出師して得られなかった。朕が今、東征するのは、中国のために子弟の讎を報い、高麗のために君父の恥を雪ごうとするだけだ。しかも四方はほぼ定まり、ただここだけが平らがぬ。ゆえに朕がまだ老いぬうちに士大夫の余力を用いて取るのだ。朕は洛陽を発して以来、ただ肉飯だけを食い、春の野菜さえ進めさせぬ。煩わしを恐れるからだ」と言った。
  • 上は病んだ兵を見ると御榻の前に召して慰め、州県に付して療養させた。士卒で感じ喜ばぬ者はなく、征名に入っていないのに自ら私費の装備で従軍を願う者が千を数え、みな「官の勲賞は求めません。ただ遼東で死力を尽くしたいだけです」と言ったが、上は許さなかった。
  • 上が出発しようとすると太子は数日悲泣した。上は「今、汝を留めて鎮守させ、俊賢に輔けさせるのは、天下に汝の風采を知らせたいからだ。そもそも国を治める要は賢を進め不肖を退け、善を賞し悪を罰し、至公無私であることにある。汝は努めてこれを行え。悲泣して何になる」と言った。
  • 開府儀同三司の高士廉に太子太傅を摂させ、劉洎・馬周・少詹事の張行成・右庶子の高季輔とともに機務を掌って太子を輔けさせた。長孫無忌・岑文本と吏部尚書の楊師道は従軍した。
  • 壬辰、車駕が定州を発した。上は自ら弓矢を佩び、手ずから雨衣を鞍の後ろに結んだ。長孫無忌に侍中を、楊師道に中書令を摂させた。
  • 李世勣の軍は柳城を発し、大いに形勢を張って懐遠鎮から出るように見せかけ、ひそかに北の甬道へ向かい、高麗の不意を突いた。
  • 夏四月戊戌朔、李世勣が通定から遼水を渡って玄菟に至った。高麗は大いに驚き、城邑はみな門を閉じて自守した。
  • 壬寅、遼東道副大総管の江夏王道宗が数千の兵で新城に至った。折衝都尉の曹三良が十余騎で城門にまっすぐ迫り、城中は驚き乱れて出る者もなかった。
  • 営州都督の張倹が胡兵を率いて前鋒となり、進んで遼水を渡って建安城に向かい、高麗の兵を破って数千級を斬った。
  • 丁未、車駕が幽州を発した。上は軍中の資糧・器械・簿書をすべて岑文本に委ねた。岑文本は夙夜に励み、自ら配分を計り、筆を手から離さず、精神を消耗し、言辞や挙措が平日とかなり異なった。上は見て憂え、左右に「文本は私と同行したが、私と一緒には帰れぬかもしれぬ」と言った。この日、急病に遭って薨じた。その夕、上は厳重な太鼓の音を聞いて「文本が没した。聞くに忍びぬ」と言い、撤せしめた。
  • 当時、右庶子の許敬宗は定州で高士廉らとともに機要に与っていた。岑文本が薨じ、上は許敬宗を召して本官のまま検校中書侍郎とした。
  • 壬子、李世勣と江夏王道宗が高麗の蓋牟城を攻めた。丁巳、車駕が北平に至った。癸亥、李世勣らが蓋牟城を抜き、二万余口と糧十余万石を得た。
  • 張亮が舟師を率いて東萊から海を渡り卑沙城を襲った。その城は四面が絶壁で、ただ西門だけが登れた。程名振が兵を率いて夜に至り、副総管の王大度が先登した。五月己巳、これを抜いて男女八千口を得た。総管の丘孝忠らを分遣して鴨緑水で兵を輝かせた。
  • 李世勣が進んで遼東城の下に至った。庚午、車駕が遼沢に至った。泥濘が二百余里で人馬が通れず、将作大匠の閻立徳が土を敷いて橋を作り、軍は止まらずに進んだ。壬申、沢の東を渡った。
  • 乙亥、高麗の歩騎四万が遼東を救いに来た。江夏王道宗が四千騎で迎え撃とうとすると、軍中はみな衆寡が懸絶しているので、溝を深く塁を高くして車駕の到着を待つべきだと言った。
  • 道宗は「賊は衆を恃んで我を軽んずる心がある。遠来して疲れている。撃てば必ず敗れる。しかも我らは前軍である。道を清めて乗輿を待つべきなのに、かえって賊を君父に遺せようか」と言い、李世勣も同意した。果毅都尉の馬文挙が「強敵に遇わずして、どうして壮士を顕せようか」と言って馬を駆って敵に向かい、向かうところみななびいたので、衆心はやや安らいだ。
  • 交戦すると行軍総管の張君乂が退いて逃げ、唐兵は不利となった。道宗は散兵を収めて高所に登って望み、高麗の陣が乱れているのを見て驍騎数十とともに突撃し、左右に出入りした。李世勣が兵を率いて助け、高麗は大敗して千余級を斬られた。
  • 丁丑、車駕が遼水を渡り、橋を撤して士卒の心を固め、馬首山に軍した。江夏王道宗を労って賜い、馬文挙を中郎将に超進させ、張君乂を斬った。
  • 上が自ら数百騎で遼東城の下に至り、士卒が土を負って塹を埋めるのを見て、そのとりわけ重いものを分けて馬上で持った。従官は争って土を負って城下まで運んだ。
  • 李世勣が遼東城を攻め、昼夜休まず十二日。上が精兵を率いて合流し、その城を数百重に囲み、鼓譟の声は天地を震わせた。甲申、南風が強かったので、上は鋭卒を衝竿の先端に登らせてその西南の楼を焼かせた。火は城中に延焼し、そこで将士に登城を指揮した。高麗は力戦したが敵せず、ついに落とした。殺した者は一万余、精兵一万余人と男女四万口を得、その城を遼州とした。
  • 乙未、白巌城に進軍した。丙申、右衛大将軍の李思摩が弩の矢に当たり、上は自らその血を吸った。将士は聞いて感動せぬ者がなかった。
  • 烏骨城が一万余の兵を送って白巌の後援としたので、将軍の契苾何力が精騎八百で撃った。何力は身を挺して陣に陥り、槊が腰に当たった。尚輦奉御の薛万備が単騎で救いに行き、万衆の中から何力を救い出して戻った。何力はいっそう憤り、傷を縛って戦い、従う騎兵も奮撃してついに高麗の兵を破り、数十里追撃して千余級を斬った。日暮れに終わった。薛万備は薛万徹の弟である。
  • 六月丁酉、李世勣が白巌城の西南を攻め、上は西北に臨んだ。城主の孫代音がひそかに腹心を送って降を請い、城に臨んで刀と鉞を投げて信とし、あわせて「奴は降りたいが、城中に従わぬ者がおります」と言った。上は唐の幟をその使者に与えて「必ず降るなら城上に立てよ」と言い、代音が立てると城中の人は唐兵がすでに登城したと思ってみな従った。
  • 上が遼東を落としたとき、白巌城は降を請いながら、まもなく翻意した。上はその反覆に怒り、軍中に「城を得たら人も物もすべて戦士に賞する」と令していた。李世勣は上が降を受けようとするのを見て、甲士数十人を率いて請うた。「士卒が争って矢石を冒し死を顧みぬのは、捕獲を貪るからです。今、城が落ちようとしているのに、なぜ改めてその降を受けて戦士の心を無にされるのですか」と。
  • 上は馬を下りて謝し、「将軍の言はもっともだ。しかし兵を放って人を殺しその妻子を捕虜とするのは、朕の忍びぬところ。将軍の麾下で功ある者には、朕が庫の物で賞する。どうか将軍によってこの一城を贖わせてくれ」と言った。李世勣はそこで退いた。
  • 城中の男女一万余口を得た。上は水辺に幄を設けてその降を受け、あわせて食を賜い、八十以上には差をつけて帛を賜った。他城の兵で白巌にいた者はすべて慰諭し、糧と武器を給して行きたい所へ行かせた。
  • これに先立ち、遼東城の長史が部下に殺され、その省事が妻子を奉じて白巌に逃げていた。上はその義を憐れんで帛五匹を賜り、長史のために霊輿を造って平壌に帰らせた。白巌城を巌州とし、孫代音を刺史とした。
  • 契苾何力の傷が重く、上は自ら薬を塗ってやった。何力を刺した高突勃を捜し出して何力に渡し、自ら殺させようとした。何力は「彼はその主のために白刃を冒して臣を刺したのです。忠勇の士です。もともと面識もなく怨みもありません」と奏し、ついに放免した。
  • はじめ莫離支が加尸城の七百人を送って蓋牟城を守らせていたが、李世勣がことごとく捕らえた。その人々が従軍して働きたいと請うと、上は「汝らの家はみな加尸にある。汝らが私のために戦えば、莫離支は必ず汝らの妻子を殺す。一人の力を得て一家を滅ぼすのは、私の忍びぬところだ」と言い、戊戌、みな食糧を給して帰した。
  • 己亥、蓋牟城を蓋州とした。
  • 丁未、車駕が遼東を発し、丙辰、安市城に至って進んで攻めた。
  • 丁巳、高麗の北部耨薩の延寿と恵真が高麗・靺鞨の兵十五万を率いて安市を救いに来た。
  • 上が侍臣に言った。今、延寿の策には三つある。兵を率いてまっすぐ進み、安市城と連ねて塁とし、高山の険に拠って城中の粟を食い、靺鞨を放って我が牛馬を掠めさせる。攻めても急には落とせず、帰ろうにも泥濘に阻まれ、坐して我が軍を困らせる。これが上策。城中の衆を抜いてともに夜逃げする。これが中策。智能を測らず来て我と戦う。これが下策。卿らが見ていよ。彼は必ず下策に出る。擒となるのは我が目の中にある、と。
  • 高麗に対盧という老練の者がおり、延寿に「秦王は内に群雄を刈り、外は戎狄を服させて独り立って帝となった。命世の材である。今、海内の衆を挙げて来た。敵し得ぬ。我らの計としては、兵を止めて戦わず、日を重ねて長引かせ、奇兵を分遣してその輸送路を断つに如くはない。糧食が尽きれば、戦おうにも戦えず帰ろうにも路がない。そうすれば勝てる」と言った。
  • 延寿は従わず、軍を率いてまっすぐ進み、安市城から四十里の所まで来た。上はなお躊躇して来ないことを恐れ、左衛大将軍の阿史那社爾に突厥千騎を率いて誘わせた。兵が交わるやいなや偽って逃げると、高麗は「与しやすい」と言い合って競って進み、安市城の東南八里に至って山に拠って陣した。
  • 上は諸将を召して計を問うた。長孫無忌は「臣は、敵に臨んで戦おうとするとき、まず士卒の情を見るべきと聞きます。臣がいま諸営を回ってみたところ、士卒は高麗が来たと聞いてみな刀を抜き旆を結び、喜びが顔に出ておりました。これは必勝の兵です。陛下は元服前から自ら陣に臨まれ、およそ奇を出して勝を制するのはみな聖謀に稟け、諸将は成算を奉じただけです。今日の事も、どうか陛下の指図を」と答えた。上は笑って「諸公がこう譲るなら、朕が諸公のために計ろう」と言った。
  • そこで無忌らと数百騎で高所に登って眺め、山川の形勢を観て伏兵を置ける所と出入りの所を見た。高麗と靺鞨は兵を合わせて陣し、長さ四十里に及んだ。
  • 江夏王道宗が「高麗は国を傾けて王師に当たっております。平壌の守りは必ず弱い。どうか臣に精卒五千をお貸しください。その本根を覆せば、数十万の衆は戦わずして降ります」と言ったが、上は応じなかった。
  • 使者を遣わして延寿を欺き「私はお前の国の強臣がその主を弑したゆえに罪を問いに来た。交戦するのは我が本心ではない。お前の境に入って秣も粟も得られぬので、お前の数城を取ったにすぎぬ。お前の国が臣礼を修めれば、失ったものは必ず返す」と言わせた。延寿は信じて備えをしなくなった。
  • 上は夜に文武を召して事を計った。李世勣に歩騎一万五千を率いさせて西の嶺に陣させ、長孫無忌に精兵一万一千を率いさせて奇兵とし、山の北から狭い谷を出てその背後を突かせ、上自ら歩騎四千を率い、鼓と角を携えて旗幟を伏せて北山に登り、諸軍に鼓角を聞けば一斉に出て奮撃するよう勅した。あわせて有司に朝堂の側に受降の幕を張らせた。
  • 戊午、延寿らは李世勣が陣を布いているのだけを見て、兵を整えて戦おうとした。上は無忌の軍の砂塵が上がるのを望み見て、鼓角を鳴らし旗幟を挙げさせ、諸軍が鼓譟して並び進んだ。延寿らは大いに恐れ、兵を分けて防ごうとしたが、その陣はすでに乱れていた。
  • 折しも雷電があった。竜門の人の薛仁貴が奇抜な服を着け、大声を上げて陣に陥り、向かうところ敵なし。高麗兵はなびき、大軍が乗じて高麗兵は大潰し、二万余級を斬った。上は望み見て仁貴を召し、游撃将軍を拝した。薛仁貴は薛安都の六世の孫で、名は礼、字で通っていた。
  • 延寿らは残る衆を率いて山に拠って自ら固めた。上は諸軍に囲ませ、長孫無忌に橋梁をすべて撤して帰路を断たせた。
  • 己未、延寿と恵真が衆三万六千八百人を率いて降を請い、軍門に入って膝行して前に進み、拝伏して命を請うた。上は「東夷の若造どもが海曲で跳梁したが、堅を摧き勝を決することでは老人に及ばぬのが当然だ。今後も敢えて天子と戦うか」と語り、みな地に伏して答えられなかった。
  • 上は耨薩以下の酋長三千五百人を選んで武官の位を授け内地に移し、その他はみな放って平壌に帰らせた。みな両手を挙げて額を地につけ、歓呼の声は数十里の外まで聞こえた。靺鞨三千三百人を収めてことごとく穴埋めにした。馬五万匹、牛五万頭、鉄甲一万領を得、他の器械もこれに応じた。
  • 高麗は国を挙げて大いに驚き、後黄城と銀城はみな自ら引き払って逃げ、数百里にわたって人煙が絶えた。
  • 上は駅書で太子に報じ、あわせて高士廉らに書を送って「朕が将たること、かくのごとし。どうか」と述べた。行幸した山を「駐蹕山」と名づけた。
  • 秋七月辛未、上が営を安市城の東嶺に移した。己卯、詔して戦死者の屍に標識を付け、軍の帰還を待ってともに帰らせることとした。戊子、高延寿を鴻臚卿、高恵真を司農卿とした。
  • 張亮の軍が建安城の下を通ったとき、壁塁が固まらぬうちに士卒の多くが薪取りや放牧に出ていた。高麗の兵が突然至り、軍中は驚き騒いだ。張亮はもともと臆病で、胡床に踞して見つめたまま何も言わなかった。将士はこれを見てかえって勇と思い、総管の張金樹らが鼓を鳴らし兵を整えて高麗を撃って破った。
  • 八月甲辰、斥候が莫離支の間諜の高竹離を捕らえ、後ろ手に縛って軍門に連れて来た。上は召見して縄を解き、「なぜそんなに痩せているのか」と問うた。「間道をひそかに行き、数日食べておりません」と答えた。上は食を賜って「お前は間諜だから速やかに復命せよ。私のために莫離支に伝えてくれ。軍中の消息を知りたければ、人をまっすぐ私の所へ遣わせばよい。なぜ間道を行く苦労をするのか、と」と言った。竹離が裸足だったので、上は履を賜って帰らせた。
  • 丙午、営を安市城の南に移した。上は遼外にあって営を置くたび、ただ斥候を明らかにするだけで塹や塁を築かなかった。その城に迫っても高麗はついに出て寇掠できず、軍士は単独で行き野宿することが中国と同じだった。
  • 上が白巌を落としたとき、李世勣に語った。私は安市城は険しく兵は精鋭で、その城主は才勇があり、莫離支の乱のときも城を守って服さず、莫離支が攻めても落とせず、そのまま与えたと聞く。建安は兵が弱く糧も少ない。不意を突いて攻めれば必ず勝てる。公はまず建安を攻めよ。建安が落ちれば安市は我が腹中にある。これが兵法にいう「城に攻めざる所あり」だ、と。
  • 李世勣は「建安は南、安市は北です。我が軍糧はみな遼東にあります。今、安市を越えて建安を攻め、もし賊が我が輸送路を断ったらどうしますか。まず安市を攻め、安市が落ちれば鼓を鳴らして建安を取るに如くはありません」と答えた。上は「公を将とした以上、公の策を用いぬわけにいかぬ。私の事を誤らせるな」と言った。
  • 李世勣はそこで安市を攻めた。安市の人は上の旗と蓋を望み見るたび城に登って鼓譟した。上は怒り、李世勣は城を落とした日に男子をみな穴埋めにすると請うた。安市の人は聞いていっそう堅く守り、久しく攻めても落ちなかった。
  • 高延寿と高恵真が上に請うた。奴らはすでに大国に身を委ねました。誠を献ぜぬわけにいきません。天子が早く大功を成され、奴らが妻子と会えるようにしたいのです。安市の人は家を惜しみ、人が自ら戦います。急には落とせません。今、奴らは高麗の十余万を率いながら旗を望んで潰えました。国人は胆をつぶしております。烏骨城の耨薩は老いぼれて堅守できません。兵を移して臨めば、朝に至って夕には落とせます。その他、道中の小城は必ず風を望んで潰えましょう。その後でその資糧を収め、鼓を鳴らして前進すれば、平壌は必ず守りきれません、と。
  • 群臣も「張亮の兵が沙城にあり、召せば二晩で来られます。高麗が恐れているのに乗じて力を合わせて烏骨城を抜き、鴨緑水を渡ってまっすぐ平壌を取るのは、この一挙にあります」と言った。上も従おうとした。
  • ただ長孫無忌だけが「天子の親征は諸将とは異なります。危うきに乗じて僥倖を求めるべきではありません。今、建安・新城の虜の衆はなお十万。もし烏骨に向かえば、みな我が後を追います。まず安市を破り建安を取ってから長駆して進むに如くはありません。これが万全の策です」と言い、上はそこで止めた。
  • 諸軍が急いで安市を攻めた。上は城中の鶏や豚の声を聞いて李世勣に「城を囲んで久しく、城中の炊煙は日々乏しい。今、鶏や豚がひどく騒がしい。これは必ず士を饗して夜に出て我を襲うつもりだ。厳重に兵を備えよ」と言った。その夜、高麗の数百人が城から綱で降りた。上は聞いて自ら城下に至り、兵を召して急撃させ、数十級を斬り、高麗は退いた。
  • 江夏王道宗が衆を督して城の東南の隅に土山を築き、次第にその城に迫った。城中もまた城を高くして拒んだ。士卒は交代で戦い、日に六、七合。衝車と礮石がその楼と城壁を壊すと、城中はその都度、木柵を立てて欠けを塞いだ。
  • 道宗は足を傷めた。上は自ら針を施した。山を築くのは昼夜やまず、六十日で延べ五十万人を用いた。山頂は城まで数丈、下は城中を見下ろした。道宗が果毅の傅伏愛に兵を率いて山頂に駐屯させ敵に備えさせた。
  • ところが山が崩れて城を圧し、城が崩れた。折しも伏愛は私かに部署を離れており、高麗の数百人が城の欠けから出て戦い、ついに土山を奪って拠り、塹を掘って守った。上は怒って伏愛を斬ってさらし、諸将に攻めさせたが三日たっても落とせなかった。道宗が裸足で旗の下に来て罪を請うと、上は「汝の罪は死に当たる。ただ朕は、漢の武帝が王恢を殺したのは、秦の穆公が孟明を用いたのに及ばぬと思う。しかも蓋牟・遼東を破った功がある。ゆえに特に汝を赦す」と言った。
  • 上は遼左が早く寒くなり草は枯れ水は凍って士馬が長く留まりがたく、しかも糧食が尽きかけていたので、癸未、勅して凱旋することとした。まず遼州・蓋州の戸口を抜いて遼水を渡らせ、そのうえで安市城の下で兵を輝かせて引き揚げた。城中はみな姿を隠して出ず、城主が城に登って拝辞した。上はその固守を嘉し、縑百匹を賜って君に仕える道を励ました。
  • 李世勣と江夏王道宗に歩騎四万を率いさせて殿とした。乙酉、遼東に至り、丙戌、遼水を渡った。遼沢は泥濘で車馬が通れず、長孫無忌に一万人を率いさせて草を刈って道を埋め、水の深い所は車を橋とした。上は自ら薪を馬の鞘に結んで役を助けた。
  • 冬十月丙申朔、上が蒲溝に至り、馬を止めて道の埋め立てを督した。諸軍が渤錯水を渡ったとき暴風雪となり、士卒は濡れて死ぬ者が多かった。勅して道に火を焚かせて待った。
  • 高麗征討で抜いたのは玄菟・横山・蓋牟・磨米・遼東・白巌・卑沙・麦谷・銀山・後黄の十城、遼州・蓋州・巌州の三州の戸口で中国に移した者は七万人。新城・建安・駐蹕の三大戦で四万余級を斬り、戦士の死者はほぼ二千人、戦馬の死んだ者は十中七、八。
  • 上は功を成せなかったことを深く悔い、「魏徴がいたら、私にこの行をさせなかっただろう」と嘆じた。駅を馳せて少牢で魏徴を祀らせ、自ら作った碑を立て直し、その妻子を行在所に召して労い賜った。
  • 丙午、営州に至った。詔して遼東の戦没した士卒の骸骨を柳城の東南に集め、有司に太牢を設けさせ、上は自ら文を作って祭り、臨んで哭して哀を尽くした。その父母はこれを聞いて「我が子は死んで天子に哭していただいた。死んで何の恨みがあろう」と言った。
  • 上は薛仁貴に「朕の諸将はみな老いた。新進の驍勇な者を得て将としたいと思っていたが、卿に及ぶ者がない。朕は遼東を得たことよりも卿を得たことを喜ぶ」と言った。
  • 丙辰、上は太子が奉迎に来ようとしていると聞き、飛騎三千を従えて臨渝関に馳せ入り、道で太子に会った。
  • 上は定州を発するとき、着ていた褐色の袍を指して太子に「汝に会うまで、この袍は替えぬ」と言った。遼左では盛暑に汗を流しても替えず、秋になって破れ、左右が替えるよう請うと「軍士の衣は多く破れている。私だけ新しい衣を着てよいものか」と言った。ここに至って太子が新しい衣を進めたので、ようやく替えた。
  • 諸軍が捕らえた高麗の民一万四千口が先に幽州に集められ、軍士に賞そうとしていた。上はその父子夫婦の離散を憐れみ、有司にその値を評定させ、すべて銭と布で贖って民とした。歓呼の声は三日やまなかった。
  • 十一月辛未、車駕が幽州に至った。高麗の民は城の東に迎え、拝舞して号呼し、地に転げ回って砂塵が見渡す限りに立った。
  • 丙戌、車駕が定州に至った。壬辰、定州を発した。戊申、并州に至った。

貞観二十年(646年)

  • 春二月乙未、上が并州を発した。三月己巳、車駕が京師に帰った。
  • 上が李靖に「私は天下の衆をもって小夷に苦しめられた。なぜか」と問うた。李靖は「それは道宗が解しております」と答えた。上が江夏王道宗を顧みて問うと、駐蹕のとき虚に乗じて平壌を取るべきだと言ったことを詳しく述べた。上は残念そうに「当時は慌ただしく、私は覚えていなかった」と言った。
  • 閏月戊戌、遼州都督府および巌州を廃した。
  • 夏五月甲寅、高麗王蔵および莫離支の蓋金が使者を送って謝罪し、あわせて二人の美女を献じたが、上は返した。蓋金は蘇文である。
  • 上が高麗から帰ってから、蓋蘇文はますます驕り恣になった。使者を送って上表しても、その言はおおむね詭誕であり、また唐の使者への待遇は倨慢で、常に辺境の隙をうかがった。しばしば勅して新羅を攻めるなと命じても侵略はやまなかった。壬申、詔してその朝貢を受けず、改めて討伐を議した。
  • 丙戌、車駕が京師に至った。

貞観二十一年(647年)

  • 上が再び高麗を伐とうとした。朝議は、高麗は山に依って城とし、攻めても急には落とせぬ、先に大駕が親征されたので国人は耕作できず、落とした城ではその穀をすべて収め、続いて旱害があって民の大半は食に乏しい、今、しばしば偏師を遣わして代わる代わるその領域を騒がせ、彼を奔命に疲れさせ、鋤を捨てて砦に入らせれば、数年の間に千里は蕭条となり、人心は自ずと離れ、鴨緑以北は戦わずして取れる、と論じ、上は従った。
  • 三月、左武衛大将軍の牛進達を青丘道行軍大総管、右武侯将軍の李海岸を副とし、一万余人を出して楼船で莱州から海を渡らせた。また太子詹事の李世勣を遼東道行軍大総管、右武衛将軍の孫貳朗らを副とし、三千の兵を率いて営州都督府の兵とともに新城道から入らせた。両軍にはみな水に習い戦に善い者を選んで配した。
  • 李世勣の軍は遼水を渡ってから南蘇など数城を経た。高麗の多くは城を背にして防戦したが、李世勣はその兵を破り、その外郭を焼いて帰った。
  • 秋七月、牛進達と李海岸が高麗の境に入り、百余戦してすべて勝った。石城を攻めて抜き、進んで積利城の下に至った。高麗の兵一万余人が出て戦い、李海岸が撃破して二千級を斬った。
  • 八月戊戌、宋州刺史の王波利らに勅して江南十二州の工人を出して大船数百艘を造らせ、高麗征討に用いようとした。
  • 冬十二月、高麗王が子の莫離支任武を遣わして謝罪させ、上は許した。

貞観二十二年(648年)

  • 春正月、新羅王の金善徳が没した。善徳の妹の真徳を柱国とし楽浪郡王に封じ、使者を遣わして冊命した。
  • 丙午、詔して右武衛大将軍の薛万徹を青丘道行軍大総管、右衛将軍の裴行方を副とし、三万余人の兵と楼船・戦艦を率いて莱州から海を渡って高麗を撃たせた。
  • 三月、充容の長城の徐恵が、上が東に高麗を征し西に亀茲を討つのを見て上疏して諫めた。その要旨は、限りある農功をもって窮まりない巨浪を埋め、まだ得ぬ他の衆を図って、すでに成った我が軍を失っている、昔、秦の始皇は六国を併呑してかえって危亡の基を速め、晋の武帝は三方を領有してかえって覆敗の業をなした、功を誇り大を恃み、徳を棄てて邦を軽んじ、利を図って危を忘れ、情を恣にし欲を縦にした結果ではないか、これで、地が広いことは常安の術ではなく、人が労するのは乱の易く生じる源であることが分かる、というものである。上はその言を善しとした。
  • 夏四月甲子、烏胡鎮将の古神感が兵を率いて海を渡って高麗を撃ち、高麗の歩騎五千に易山で遭遇して破った。その夜、高麗一万余人が古神感の船を襲ったが、伏兵を設けてまた破って帰った。
  • 六月、上は高麗が困窮疲弊しているとして、明年に三十万の衆を出して一挙に滅ぼすことを議した。ある者が、大軍が東征するには一年分の糧を備えねばならず、駄獣で載せられるものではない、舟艦をそろえて水運とすべきである、隋末に剣南だけは寇盗がなく、先ごろの遼東の役でも剣南は加わらなかった、その百姓は富裕だから舟艦を造らせるべきだ、と言い、上は従った。
  • 秋七月、右領左右府長史の強偉を剣南道に遣わして木を伐って舟艦を造らせた。大きいものは長さ百尺、幅はその半分。別に使者を遣わして水路を行かせ、巫峡から江・揚を経て莱州に向かわせた。
  • 司空・梁文昭公の房玄齢が病篤く、諸子に「私は主上の厚恩を受けた。今、天下に事はないが、ただ東征だけが止まぬ。群臣はあえて諫めぬ。私が知りながら言わなければ、死んでも責めが余る」と言い、上表して諫めた。
  • その表に言う。老子は「足るを知れば辱められず、止まるを知れば殆うからず」と言いました。陛下の威名と功徳も足るというべきです。地を拓き疆を開くのも止まるべきです。しかも陛下は重罪の囚人を決するたび、必ず三覆五奏を令し、素膳を進めさせ音楽を止められる。人命を重んじられるからです。今、罪なき士卒を駆り立てて鋒刃の下に委ね、肝脳を地に塗らせるのは、憐れむに足りませんか。
  • 仮に高麗が臣節を失っているなら誅してもよい、百姓を侵し騒がせているなら滅ぼしてもよい、いつか中国の患いとなるなら除いてもよい。今、この三つがないのに、いたずらに中国を煩わせ、内は前代のために恥を雪ぎ、外は新羅のために讎を報いる。存するところが小さく損なうところが大きいのではありませんか。
  • どうか陛下、高麗の自新を許し、波を凌ぐ船を焼き、応募の衆を罷められれば、自然に華夷は慶び頼み、遠きは粛まり近きは安らぎましょう。臣は旦夕に地に入る身。もしこの哀鳴をお録しくだされば、死んでも朽ちません、と。
  • 房玄齢の子の遺愛は上の娘の高陽公主を娶っていた。上は公主に「あれほど病が重くても、なお我が国家を憂えてくれる」と言った。上は自ら見舞い、手を握って訣別し、悲しみに堪えなかった。癸卯、薨じた。
  • 八月丁丑、越州都督府および婺・洪などの州に海船および双舫千百艘を造らせた。
  • 九月己丑、新羅が百済に攻められて十三城を破られたと奏した。
  • 冬十二月癸未、新羅の相の金春秋とその子の文王が入見した。春秋は真徳の弟である。上は春秋を特進、文王を左武衛将軍とした。春秋が章服を中国式に改めることを請い、宮中から冬服を出して賜った。

貞観二十三年(649年)

  • 夏五月己巳、上が崩じた。壬申、遺詔で太子が即位し、遼東の役を罷めた。

高宗永徽二年(651年)

  • 百済が使者を入貢させた。上は戒めて新羅・高麗と攻め合わぬよう、さもなくば兵を出して討つと告げた。

永徽三年(652年)

  • 春正月己未朔、吐谷渾・新羅・高麗・百済がそろって使者を入貢させた。

永徽五年(654年)

  • 夏閏四月壬辰、新羅の女王の金真徳が没し、詔してその弟の春秋を新羅王に立てた。

永徽六年(655年)

  • 高麗が百済・靺鞨と兵を連ねて新羅の北境を侵し、三十三城を取った。新羅王の春秋が使者を送って援けを求めた。
  • 二月乙丑、営州都督の程名振と左衛中郎将の蘇定方に兵を出して高麗を撃たせた。
  • 夏五月壬午、程名振らが遼水を渡った。高麗はその兵の少なさを見て門を開き、貴端水を渡って迎え撃ったが、程名振らが奮撃して大破し、千余人を殺し捕らえ、その外郭と村落を焼いて帰った。

顕慶三年(658年)

  • 夏六月、営州都督兼東夷都護の程名振と右領軍中郎将の薛仁貴が兵を率いて高麗の赤烽鎮を攻めて抜き、四百余級を斬り、百余人を捕虜とした。高麗は大将の豆方婁に三万の衆を率いさせて防いだが、程名振が契丹をもって迎え撃って大破し、二千五百級を斬った。

顕慶四年(659年)

  • 冬十一月、右領軍中郎将の薛仁貴らが高麗の将の温沙門と横山で戦って破った。

顕慶五年(660年)――百済の平定

  • 百済が高麗の援けを恃んでしばしば新羅を侵し、新羅王の春秋が上表して救いを求めた。辛亥、左武衛大将軍の蘇定方を神丘道行軍大総管とし、左驍衛将軍の劉伯英らを率いて水陸十万で百済を伐たせ、春秋を嵎夷道行軍総管として新羅の衆を率いて合勢させた。
  • 秋八月、蘇定方が軍を率いて成山から海を渡った。百済は熊津江口に拠って防いだが、蘇定方が進撃して破り、百済の死者は数千人、残りはみな潰走した。
  • 蘇定方は水陸から並び進んでまっすぐその都城に向かった。二十余里手前で百済が国を傾けて戦いに来たが、大破して一万余人を殺し、追撃してその外郭に入った。百済王の義慈と太子の隆は北境に逃げた。
  • 蘇定方が進んでその城を囲むと、義慈の次子の泰が自立して王となり、衆を率いて固守した。隆の子の文思が「王も太子もおられるのに、叔父がにわかに兵を擁して自ら王となった。仮に唐兵を退けられても、我ら父子は必ず全うできまい」と言い、側近を率いて城を越えて降り、百姓もみな従った。泰は止められなかった。
  • 蘇定方が軍士に登城して幟を立てさせると、泰は窮して門を開いて命を請うた。こうして義慈・隆および諸城主はみな降った。
  • 百済にはもと五部があり、三十七郡・二百城・七十六万戸を分統していた。詔してその地に熊津など五都督府を置き、その酋長を都督・刺史とした。
  • 冬十一月戊戌朔、上が則天門の楼に出御して百済の俘を受け、その王の義慈以下をみな釈放した。
  • 十二月壬午、左驍衛大将軍の契苾何力を浿江道行軍大総管、左武衛大将軍の蘇定方を遼東道行軍大総管、左驍衛将軍の劉伯英を平壌道行軍大総管、蒲州刺史の程名振を鏤方道総管とし、兵を率いて道を分けて高麗を撃たせた。青州刺史の劉仁軌は海運を督して船を覆した罪に連坐し、白衣で従軍して功を立てて償うこととなった。

龍朔元年(661年)

  • 春正月乙卯、河南・河北・淮南の六十七州で兵を募って四万四千余人を得、平壌・鏤方の行営に赴かせた。戊午、鴻臚卿の蕭嗣業を扶余道行軍総管として回紇など諸部の兵を率いて平壌に赴かせた。
  • 三月丙申朔、上が群臣および外夷と洛城門で宴し、屯営が新たに教えた舞を観て「一戎大定楽」と称した。当時、上は自ら高麗を征そうとしており、用武の勢いを象ったものである。
  • はじめ蘇定方は百済を平定してから郎将の劉仁願を残して百済の府城を鎮守させ、また左衛中郎将の王文度を熊津都督としてその残る衆を撫でさせた。王文度は海を渡って没した。
  • 百済の僧の道琛と旧将の福信が衆を集めて周留城に拠り、旧王子の豊を倭国から迎えて立て、兵を率いて府城の劉仁願を囲んだ。詔で劉仁軌を起用して検校帯方州刺史とし、王文度の衆を率いさせ、途中で新羅の兵を発して劉仁願を救わせた。
  • 劉仁軌は喜んで「天がこの老人を富貴にしようとしている」と言い、州の役所に唐の暦と廟諱を請うて出発し、「私は東夷を掃き平らげ、大唐の正朔を海表に頒布したい」と言った。劉仁軌は軍を厳正に御し、転戦して威を示し、向かうところみな平らげた。
  • 百済が熊津江口に二つの柵を立てたが、劉仁軌は新羅の兵と合わせて撃ち破り、殺され溺れ死んだ者は一万余人。道琛らはそこで府城の囲みを解いて任存城に退いて保った。新羅は糧が尽きて引き揚げた。
  • 道琛は領軍将軍と自称し、福信は霜岑将軍と自称して徒衆を招集し、その勢いはますます張った。劉仁軌は衆が少なく、劉仁願と合軍して士卒を休ませ、上表した。詔で新羅に出兵させ、新羅王の春秋は詔を奉じて将の金欽に兵を率いて劉仁軌らを救わせたが、古泗に至って福信に迎え撃たれて敗れ、金欽は葛嶺道から逃げ帰り、新羅はもう出ようとしなかった。福信はまもなく道琛を殺して国の兵を専ら統べた。
  • 夏四月庚辰、任雅相を浿江道行軍総管、契苾何力を遼東道行軍総管、蘇定方を平壌道行軍総管とし、蕭嗣業および諸胡の兵と合わせて三十五軍、水陸から道を分けて並び進ませた。上は自ら大軍を率いて続こうとしたが、癸巳、皇后が抗表して親征を諫め、詔で従った。
  • 秋七月甲戌、蘇定方が浿江で高麗を破り、しばしば戦ってみな勝ち、ついに平壌城を囲んだ。
  • 九月癸巳朔、特進・新羅王の春秋が没し、その子の法敏を楽浪郡王・新羅王とした。
  • 高麗の蓋蘇文が子の男生に精兵数万で鴨緑水を守らせ、諸軍は渡れなかった。契苾何力が着いたとき、水が凍り合っていた。何力は衆を率いて氷に乗って水を渡り、鼓譟して進み、高麗は大潰した。数十里追撃して三万級を斬り、残る衆はみな降った。男生はかろうじて身一つで逃れた。折しも凱旋の詔があり、そこで帰った。

龍朔二年(662年)

  • 春二月甲戌、浿江道大総管の任雅相が軍中で薨じた。
  • 戊寅、左驍衛将軍・白州刺史・沃沮道総管の龐孝泰が蛇水のほとりで高麗と戦って軍が敗れ、その子十二人とともにみな戦死した。
  • 蘇定方は平壌を囲んで久しく落とせず、大雪に遭って囲みを解いて帰った。
  • 秋七月丁巳、熊津都督の劉仁願と帯方州刺史の劉仁軌が熊津の東で百済を大破し、真峴城を抜いた。
  • はじめ劉仁願・劉仁軌らが熊津城に駐屯していたとき、上は勅書を賜って「平壌の軍が引き揚げた以上、一城だけでは固守できまい。抜いて新羅に就くべきである。もし金法敏が卿らの留鎮を頼むならしばらくそこに留まれ。必要としないなら、海を渡って帰るがよい」と述べた。将士はみな西に帰ろうとした。
  • 劉仁軌は言った。人臣は公家の利に殉じ、死あって二心なし。どうしてまず私を念じられよう。主上は高麗を滅ぼそうとしてまず百済を誅し、兵を留めて守らせその心腹を制しておられる。残る寇が満ちていても守備はきわめて厳重である。兵を励まし馬に飼葉を与えてその不意を撃てば、勝てぬ理はない。勝った後は士卒の心が安らぐ。そのうえで兵を分けて険に拠り形勢を張り、飛表で奏聞して増兵を求めれば、朝廷は成功を知って必ず将に命じて出師させる。声援が接すれば凶徒は自ら殲滅する。ただ成功を棄てぬだけでなく、実に海表を永く清められる。
  • 今、平壌の軍がすでに帰り、熊津まで抜けば、百済の残り火は日を経ずして再燃する。高麗の逃れた寇はいつ滅ぼせるのか。しかも今、一城の地をもって敵の中央にいる。もし足を動かせばたちまち擒となる。たとえ新羅に入っても寄留の客である。思わぬ事態になれば悔いても追いつかぬ。まして福信は凶悖残虐で君臣は猜疑して離れ、互いに屠戮し合っている。まさに堅く守って変を観、便に乗じて取るべきで、動いてはならぬ、と。衆は従った。
  • 当時、百済王の豊と福信らは、劉仁願らが孤城で援けなしと見て、使者を送って「大使らはいつ西に帰られるか。お送りしよう」と言わせた。劉仁願と劉仁軌はその無防備を知り、突然出撃してその支羅城および尹城・大山・沙井などの柵を抜き、殺し捕らえた者はきわめて多く、兵を分けて守らせた。
  • 福信らは真峴城が険要なので兵を増やして守らせた。劉仁軌はその緩みをうかがい、新羅の兵を率いて夜に城下に至り、草に攀じて登り、夜明けにはその城を占拠した。こうして新羅の運糧の路が通じた。
  • 劉仁願がそこで増兵を奏請し、詔で淄・青・莱・海の兵七千人を発して熊津に赴かせた。
  • 福信は権を専らにし、百済王の豊と次第に猜疑し合った。福信は病と称して洞窟の室に臥し、豊が見舞いに来るのを待って殺そうとした。豊は知って親信を率いて福信を襲って殺し、使者を高麗と倭国に送って兵を乞い唐兵を防ごうとした。

龍朔三年(663年)――白江の戦い

  • 秋八月戊申、上は海東で数年にわたり用兵して百姓が徴発に苦しみ、士卒の戦死・溺死がきわめて多いことから、詔して三十六州の造船を罷め、司元太常伯の竇徳玄らを十道に分遣して人々の疾苦を問い、官吏を黜陟させた。竇徳玄は竇毅の曽孫である。
  • 九月戊午、熊津道行軍総管・右威衛将軍の孫仁師らが百済の残衆および倭兵を白江で破り、その周留城を抜いた。
  • はじめ劉仁願と劉仁軌が真峴城を落としてから、詔で孫仁師に兵を率いて海を渡って助けさせた。百済王の豊は南に倭人を引き入れて唐兵を防いだ。孫仁師が劉仁願・劉仁軌と合軍して勢いは大いに振るった。
  • 諸将は加林城が水陸の要衝なので先に攻めようとしたが、劉仁軌は「加林は険固で、急攻すれば士卒を傷つけ、緩めれば日を重ねて長引く。周留城は虜の巣穴で凶徒の集まるところ。悪を除くには本を務めるべきで、先に攻めるべきである。周留に克てば諸城は自ずと下る」と言った。
  • そこで孫仁師・劉仁願と新羅王の法敏が陸軍を率いて進み、劉仁軌は別将の杜爽・扶余隆とともに水軍と糧船を率いて熊津から白江に入り、陸軍と合流して周留城に向かった。白江口で倭兵に遭遇し、四度戦ってみな勝ち、その舟四百艘を焼いた。煙と炎は天を焦がし、海水はみな赤くなった。
  • 百済王の豊は身一つで高麗に逃げ、王子の忠勝・忠志らが衆を率いて降り、百済はことごとく平らいだ。ただ別帥の遅受信が任存城に拠って降らなかった。
  • はじめ百済の西部の人の黒歯常之は身の丈七尺余、驍勇で謀略があり、百済に仕えて達率兼郡将となった。中国の刺史に当たる。蘇定方が百済に克ったとき、常之は部下を率いて衆に従って降った。蘇定方がその王と太子を繋ぎ、兵を放って掠奪させ、壮者の多くが死んだ。常之は恐れて側近十余人と旧部に逃げ帰り、逃散した者を集めて任存山を保ち、柵を結んで自ら固めた。十日ほどで帰附する者は三万余人。
  • 蘇定方が兵を送って攻めたが、常之が防戦して唐兵は不利だった。常之はさらに二百余城を取り返し、蘇定方は落とせずに帰った。常之は別部の将の沙吒相如とそれぞれ険に拠って福信に応じていたが、百済が敗れるとみなその衆を率いて降った。
  • 劉仁軌は常之と相如に自らその衆を率いて任存城を取らせ、あわせて糧と武器を助けた。孫仁師が「この輩は獣心です。どうして信じられましょう」と言うと、劉仁軌は「私が見るに二人はみな忠勇で謀があり、信を敦くし義を重んずる。ただ以前は託した相手が人を得なかっただけだ。今こそまさに感激して功を立てる時である。疑うには及ばぬ」と言い、糧と武器を給し、兵を分けて随わせて任存城を攻め抜いた。遅受信は妻子を捨てて高麗に逃げた。
  • 詔して劉仁軌を留めて兵を率いて百済を鎮めさせ、孫仁師と劉仁願を召し返した。
  • 百済は兵火の後で家並みは荒れ果て、屍が野に満ちていた。劉仁軌は初めて骸骨を埋めさせ、戸口を登録し、村落を治め、官長を置き、道路を通し、橋梁を立て、堤堰を補い、溜池を復し、耕作と養蚕を課し、貧乏を賑わせ、孤老を養い、唐の社稷を立て、正朔と廟諱を頒布した。百済は大いに喜び、領内はそれぞれ生業に安んじた。そのうえで屯田を修め糒糧を貯え、士卒を訓練して高麗を図った。
  • 劉仁願が京師に至ると、上は「卿は海東にあって前後の奏事がみな機宜にかない、しかも文理が整っていた。卿はもと武人なのに、どうしてそうできたのか」と問うた。劉仁願は「これはみな劉仁軌のなしたことで、臣の及ぶところではありません」と答えた。上は喜んで劉仁軌に六階を加え、正式に帯方州刺史とし、長安に邸を築き、その妻子に厚く賜り、使者に璽書を持たせて労い励ました。
  • 上官儀は「仁軌は黜削に遭いながら忠を尽くし、仁願は節制を秉りながら賢を推した。みな君子というべきである」と言った。

麟徳元年(664年)

  • 冬十月庚辰、検校熊津都督の劉仁軌が上言した。臣が見るに、駐屯している守備兵は疲れ痩せた者が多く勇健な者は少なく、衣服は貧しく破れ、ただ西へ帰ることばかり思って働く気がありません。臣が「以前、海西にいたころは百姓が人ごとに応募して争って従軍しようとし、自ら衣糧を用意する者さえあって『義征』と呼ばれた。なぜ今日の士卒はこうなのか」と問うたところ、みな「今日の官府は昔と違い、人心もまた異なる」と申します。
  • 昔、東西の征役では、王事に身を没した者にはみな敕使が弔祭し官爵を追贈し、あるいは死者の官爵を子弟に授け、およそ遼海を渡った者にはみな勲一転を賜りました。ところが顕慶五年以来、征人はしばしば海を渡っても官は記録せず、その死者についても誰も問いません。州県が百姓を徴発して兵とするたび、壮健で富める者は銭を出して工作し、みな逃げ隠れて免れ、貧しい者は身は老弱でも徴発されれば行きます。
  • 先ごろ百済を破り平壌で苦戦したとき、将帥の号令では勲賞を約束して至らぬところがありませんでした。ところが西岸に達すると、聞こえてくるのは枷と鎖と取り調べと拘禁ばかり。賜物は奪われ勲は破られ、州県の追及に自ら生きる術もありません。公私の困弊は言い尽くせません。ゆえに先ごろ海西を発つ日にすでに逃亡や自傷する者がありました。海外に来てからのことではありません。
  • また、もともと征役によって勲級を授けるのは栄誉とするためですが、近年の出征ではみな勲官に車を挽かせ、その労苦は白丁と変わりません。百姓が従軍を願わぬのは、おおむねこれによります。
  • 臣がまた「以前の士卒は五年留鎮しても持ちこたえられた。今、お前たちは一年経ったばかりでなぜこうも窮しているのか」と問うたところ、みな「家を出る日、一年分の資装だけを備えよと命じられた。今すでに二年、帰る期もない」と申します。臣が軍士の残った衣を検分したところ、今冬はかろうじて足りますが、来秋以降は全く準備がありません。
  • 陛下が兵を海外に留められるのは高麗と百済を殄滅するためです。高麗は旧来の盟友であり、倭人は遠いとはいえ、これも呼応します。もし鎮兵がなければ、また一つの国に戻りましょう。今すでに戍守を資け、屯田も置いております。頼るところは士卒の同心同徳ですが、衆にこの議論がある。どうして成功を望めましょう。
  • 何か改革を加え、厚く慰労し、賞を明らかにし罰を重くして士心を起こすのでなければ、今日以前の処置のままでは、師衆は疲れ老いて効を立てる日はありますまい。耳に逆らう事は、あるいは誰も陛下に言い尽くさぬかもしれません。ゆえに臣は肝胆を披瀝し、死を冒して奏陳いたします、と。
  • 上は深くその言を納れ、右威衛将軍の劉仁願に兵を率いて海を渡らせ旧鎮の兵と交代させ、あわせて劉仁軌にともに帰るよう勅した。
  • 劉仁軌は劉仁願に「国家が軍を海外に懸けているのは高麗を経略するためで、その事は容易ではありません。今、収穫が終わらぬうちに軍吏と士卒が一時に交代して去り、軍将もまた帰れば、夷人は新たに服したばかりで衆心が安らかでなく、必ず変が生じましょう。しばらく旧兵を留めて次第に収穫させ、資糧を整え、順次帰らせるべきで、軍将はしばらく留まって鎮撫すべきです。まだ帰るべきではありません」と言った。
  • 劉仁願は「私は以前、海西に帰ったとき大いに讒謗に遭い、多く兵衆を留めて海東に拠ろうと謀っていると言われ、危うく禍を免れませんでした。今日はただ勅に準ずることしか知りません。どうして擅に事をなせましょう」と言った。劉仁軌は「人臣は国に利あることなら知る限りをなすもの。どうして私を顧みましょう」と言い、上表して便宜を陳べ、自ら海東に留鎮することを請い、上は従った。あわせて扶余隆を熊津都尉としてその残る衆を招き集めさせた。

麟徳二年(665年)

  • 秋七月、上が熊津都尉の扶余隆と新羅王の法敏に旧怨を捨てるよう命じた。八月壬子、熊津城で同盟した。
  • 劉仁軌は新羅・百済・耽羅・倭国の使者を伴って海を渡って西に帰り、泰山の祠に会した。高麗もまた太子の福男を送って祠に侍らせた。

乾封元年(666年)――泉男生の内附

  • 夏五月、高麗王の蓋蘇文が没し、長子の男生が代わって莫離支となった。初めて国政を執り、諸城を巡って弟の男建・男産に後事を任せた。
  • ある者が二弟に「男生は二弟が迫ることを憎み、除こうとしている。先手を打つに如くはない」と言い、二弟は初め信じなかった。また男生に「二弟は兄が帰ってその権を奪うことを恐れ、兄を拒んで入れまいとしている」と告げる者があった。
  • 男生がひそかに親しい者を平壌に送ってうかがわせたところ、二弟が捕らえ、そこで王命と称して男生を召した。男生は恐れて帰ろうとしなかった。男建が自ら莫離支となって兵を出して討ち、男生は逃げて別城を保ち、子の献誠を闕に遣わして救いを求めた。
  • 六月壬寅、左驍衛大将軍の契苾何力を遼東道安撫大使として兵を率いて救わせ、献誠を右武衛将軍として嚮導とし、また左金吾衛将軍の龐同善と営州都督の高侃を行軍総管としてともに高麗を討たせた。
  • 秋九月、龐同善が高麗の兵を大破し、泉男生が衆を率いて龐同善と合流した。詔で男生を特進・遼東大都督兼平壌道安撫大使とし、玄菟郡公に封じた。
  • 冬十二月己酉、李勣を遼東道行軍大総管兼安撫大使とし、司列少常伯の安陸の郝処俊を副として高麗を撃たせた。龐同善と契苾何力はともに遼東道行軍副大総管兼安撫大使のままとし、水陸の諸軍総管および運糧使の竇義積・独孤卿雲・郭待封らはみな李勣の処分を受けさせ、河北の諸州の租賦はすべて遼東に送って軍用に給した。

乾封二年(667年)

  • 秋九月辛未、李勣が高麗の新城を抜き、契苾何力に守らせた。
  • 李勣は遼水を渡った当初、諸将に「新城は高麗西辺の要害である。まずこれを得なければ他の城は容易に取れぬ」と言い、そこで攻めた。城の人の師夫仇らが城主を縛って門を開いて降った。李勣は兵を進めて十六城を攻め、みな下した。
  • 龐同善と高侃はなお新城にあり、泉男建が兵を送ってその営を襲ったが、左武衛将軍の薛仁貴が撃破した。高侃が進んで金山に至って高麗と戦って不利となり、高麗が勝ちに乗じて追ったところを、薛仁貴が兵を率いて横から撃って高麗を大破し、五万余級を斬り、南蘇・木底・蒼巌の三城を抜いて泉男生の軍と合流した。
  • 郭待封が水軍で別道から平壌に向かった。李勣が別将の馮師本に糧と武器を載せて助けさせたが、馮師本の船が壊れて期日に遅れ、郭待封の軍中は飢えて窮した。李勣に書を送ろうとしたが、虜に奪われて虚実を知られることを恐れ、離合詩を作って送った。李勣は怒って「軍事はまさに急である。何で詩なのか。必ず斬る」と言った。行軍管記・通事舎人の河南の元万頃がその意を解いて、李勣はそこで改めて糧と武器を送った。
  • 元万頃が高麗への檄文を作り、「鴨緑の険を守ることを知らぬ」と書いた。泉男建は「謹んで命を聞いた」と答え、ただちに兵を移して鴨緑津に拠り、唐兵は渡れなくなった。上は聞いて元万頃を嶺南に流した。
  • 郝処俊が高麗の城下でまだ列を成さぬうちに高麗が突然至り、軍中は大いに驚いた。郝処俊は胡床に拠ってちょうど干飯を食べているところだったが、ひそかに精鋭を選んで撃破した。将士はその胆略に服した。

総章元年(668年)――高麗の平定

  • 春二月壬午、李勣らが高麗の扶余城を抜いた。
  • 薛仁貴は金山で高麗を破ってから、勝ちに乗じて三千人を率いて扶余城を攻めようとした。諸将はその兵の少なさから止めたが、薛仁貴は「兵は多いに越したことはないが、要は用い方である」と言い、前鋒となって進み、高麗と戦って大破し、一万余人を殺し捕らえ、ついに扶余城を抜いた。扶余川一帯の四十余城はみな風を望んで服従を請うた。
  • 侍御史の洛陽の賈言忠が使いで遼東から帰り、上が軍事を問うた。賈言忠は「高麗は必ず平らぎます」と答えた。
  • 上が「卿はどうしてそれが分かるのか」と問うと、賈言忠は答えた。隋の煬帝が東征して克てなかったのは人心が離れ怨んだからです。先帝が東征して克てなかったのは、高麗にまだ隙がなかったからです。今、高蔵は微弱で権臣が命を専らにし、蓋蘇文が死んで男建兄弟が内で攻め奪い合い、男生は心を傾けて内附して我が嚮導となり、彼の情も偽もみな知られております。陛下の明聖と国家の富強、将士が力を尽くして高麗の乱に乗ずれば、その勢いは必ず克ちます。再挙を要しません。しかも高麗は連年の飢饉で妖異がしばしば降り、人心は危え驚いております。その滅亡は足を上げて待てるほどです、と。
  • 上がまた遼東の諸将で誰が賢かと問うと、賈言忠は「薛仁貴は勇が三軍に冠たり、龐同善は戦いは巧みでないが軍を厳正に持し、高侃は勤倹に身を処し忠果で謀があり、契苾何力は沈毅で決断できます。かなり嫉妬深いものの統御の才があります。しかし夙夜に小心で身を忘れて国を憂えることでは、みな李勣に及びません」と答えた。上は深くその言をもっともと思った。
  • 泉男建がさらに五万人を送って扶余城を救おうとし、李勣らと薛賀水で遭遇して合戦し、大破して三万余人を斬り捕らえ、進んで大行城を攻めて抜いた。
  • 秋九月癸巳、李勣が平壌を抜いた。
  • 李勣は大行城に克ってから、他の道に出ていた諸軍もみな李勣と合流し、進んで鴨緑柵に至った。高麗が兵を出して防戦したが、李勣らが奮撃して大破し、二百余里追撃して辱夷城を抜いた。諸城で逃げる者と降る者が相次いだ。
  • 契苾何力がまず兵を率いて平壌城下に至り、李勣の軍が続いた。平壌を囲むこと一月余り、高麗王の蔵が泉男産に首領九十八人を率いさせ、白い幡を持って李勣のもとへ降らせた。李勣は礼をもって迎えた。
  • 泉男建はなお門を閉じて拒み守り、しきりに兵を出して戦ったがみな敗れた。男建は軍事を僧の信誠に委ねたが、信誠はひそかに人を李勣のもとに遣わして内応を請うた。五日後、信誠が門を開き、李勣は兵を放って登城させ、鼓譟して城の四方を焼いた。男建は自ら刺したが死ねず、そのまま捕らえられ、高麗はことごとく平定された。
  • 冬十月、李勣が到着しようとしたとき、上はまず高蔵らを昭陵に献じさせ、軍容を整え凱歌を奏して京師に入り太廟に献じさせた。
  • 十二月丁巳、上が含元殿で俘を受けた。高蔵は政が己から出たものでないとして赦し、司平太常伯・員外同正とし、泉男産を司宰少卿、僧の信誠を銀青光禄大夫、泉男生を右衛大将軍とし、李勣以下に差をつけて封賞した。泉男建は黔州に流し、扶余豊は嶺南に流した。
  • 高麗の五部・百七十六城・六十九万余戸を分けて九都督府・四十二州・百県とし、安東都護府を平壌に置いて統べさせた。その酋帥で功ある者を都督・刺史・県令に抜擢し、華人と交ぜて治めさせ、右威衛大将軍の薛仁貴を検校安東都護として二万人の兵を総べて鎮撫させた。
  • 丁卯、上が南郊を祀って高麗平定を告げ、李勣を亜献とした。己巳、太廟に謁した。

総章二年(669年)

  • 高麗の民に離叛する者が多く、勅して高麗の三万八千二百戸を江淮の南および山南・京西の諸州の空き地に移し、その貧弱な者を残して安東を守らせた。

咸亨元年(670年)

  • 夏四月、高麗の酋長の剣牟岑が反し、高蔵の外孫の安舜を主に立てた。左監門大将軍の高侃を東州道行軍総管として兵を出して討たせた。安舜は剣牟岑を殺して新羅に逃げた。

咸亨二年(671年)

  • 秋七月乙未朔、高侃が安市城で高麗の残衆を破った。

咸亨三年(672年)

  • 冬十二月、高侃が高麗の残衆と白水山で戦って破った。新羅が兵を送って高麗を救い、高侃が撃破した。

咸亨四年(673年)

  • 夏閏五月、燕山道総管・右領軍大将軍の李謹行が高麗の叛いた者を瓠蘆河の西で大破し、数千人を捕獲した。残る衆はみな新羅に逃げた。
  • 当時、李謹行の妻の劉氏が伐奴城に留まっていた。高麗が靺鞨を引き入れて攻めると、劉氏は甲を着て衆を率いて城を守り、久しくして虜は退いた。上はその功を嘉して燕国夫人に封じた。李謹行は靺鞨の人の突地稽の子で、武力が人並みを越え、諸夷に憚られた。

上元元年(674年)

  • 春正月壬午、左庶子・同中書門下三品の劉仁軌を鶏林道大総管、衛尉卿の李弼と右領軍大将軍の李謹行を副として兵を出して新羅を討たせた。
  • 当時、新羅王の法敏は高麗の叛衆を受け入れ、また百済の故地に拠って人を置いて守らせていた。上は激怒し、詔して法敏の官爵を削り、その弟の右驍衛員外大将軍・臨海郡公の仁問が京師にいたので新羅王に立てて帰国させた。

上元二年(675年)

  • 春二月、劉仁軌が七重城で新羅の衆を大破し、また靺鞨に海を渡らせて新羅の南境を掠め、斬り捕らえた者はきわめて多かった。劉仁軌が兵を率いて帰り、詔で李謹行を安東鎮撫大使として新羅の買肖城に駐屯させて経略させ、三度戦ってみな勝った。新羅はそこで使者を入貢させ、あわせて謝罪した。上は赦して新羅王法敏の官爵を復し、金仁問は途中から帰って臨海郡公に改封した。

儀鳳元年(676年)

  • 春二月甲戌、安東都護府を遼東の故城に移した。先に華人で安東の官を務めていた者をすべて罷めた。熊津都督府を建安の故城に移し、百済の戸口で先に徐・兗などの州に移していた者をみな建安に置いた。

儀鳳二年(677年)

  • はじめ劉仁軌が兵を率いて熊津から帰り、扶余隆は新羅の圧迫を畏れて留まれず、まもなくやはり朝廷に帰った。
  • 二月丁巳、工部尚書の高蔵を遼東州都督として朝鮮王に封じ、遼東に帰らせて高麗の残衆を安集させた。高麗人で先に諸州にいた者はみな高蔵とともに帰らせた。また司農卿の扶余隆を熊津都督として帯方王に封じ、これも帰らせて百済の残衆を安集させ、あわせて安東都護府を新城に移して統べさせた。当時、百済は荒れ果てており、扶余隆は高麗の境に寓居させた。
  • 高蔵は遼東に至って謀反し、ひそかに靺鞨と通じたので、召し返して卭州に移して死んだ。その人々を河南・隴右の諸州に散らして移し、貧しい者は安東城の傍らに留めた。高麗の旧城は新羅に取られ、残る衆は散って靺鞨および突厥に入った。扶余隆もついに故地に帰れず、高氏と扶余氏はついに亡んだ。

開耀元年(681年)

  • 冬十月丁亥、新羅王の法敏が没し、使者を遣わしてその子の政明を立てた。