通鑑紀事本末唐、江淮を平定する(沈法興・李子通・杜伏威・輔公祏)(唐平江淮)
杜伏威と輔公祏が章丘・臨済に亡命して群盗となったところから始まり、江淮を争った杜伏威・李子通・沈法興の三者の消長と、その後の輔公祏の反乱までを扱う。杜伏威は歴陽に拠って総管を称し、上募の決死隊で勢いを得て唐に降り、呉王・李姓を賜る。李子通は江都を奪って呉の皇帝を称し沈法興を滅ぼすが、王雄誕に破られて降った。杜伏威の入朝後、輔公祏が王雄誕を殺して丹楊に帝を称すると、趙郡王孝恭と李靖が博望・青林を破って丹楊を落とし、輔公祏は捕らえられて江南は平定された。
年表(10件)
- 隋煬帝
- 大業九年613年杜伏威が輔公祏と群盗となり、苗海潮らを併せて淮南を掠める
- 大業十一年615年李子通が杜伏威に合流するも襲って離反し、海陵で将軍を自称する
- 恭帝
- 義寧元年春正月617年杜伏威が陳稜を破って歴陽に拠り、総管を自称する
- 唐高祖
- 武徳元年618年沈法興が挙兵して江南十余郡に拠り、江南道大総管を自称する
- 武徳二年619年李子通が江都を取って呉の皇帝を称し、杜伏威は唐に降を請う
- 武徳三年620年李子通が沈法興を滅ぼすが、王雄誕に破られて江都を捨てる
- 武徳四年冬十一月621年王雄誕が李子通を降し、汪華・聞人遂安も従って江東が定まる
- 武徳五年622年杜伏威が入朝して太子太保となり、逃亡した李子通が誅される
- 武徳六年――輔公祏の反乱623年輔公祏が王雄誕を殺して丹楊に帝を称し、国号を宋とする
- 武徳七年624年孝恭と李靖が博望・青林を破って丹楊を落とし、輔公祏を斬る
隋煬帝大業九年(613年)
- 章丘の杜伏威と臨済の輔公祏は刎頸の交わりを結び、ともに亡命して群盗となった。杜伏威は十六歳で、出撃のときは先頭に、退くときは殿を務めたので、その徒は帥に推した。
- 下邳の苗海潮も衆を集めて盗となった。杜伏威は輔公祏に「今、私も君も同じく隋の政に苦しんで各々大義を挙げているが、力が分かれて勢いが弱く、常に擒にされることを恐れている。一つに合すれば隋に敵し得る。君が主となれるなら私は敬って従おう。自ら堪えぬと思うなら命を聴きに来られよ。さもなくば一戦して雌雄を決しよう」と伝えさせた。苗海潮は恐れてただちに衆を率いて降った。
- 杜伏威は淮南を転々と掠め、将軍と自称した。江都留守が校尉の宋顥を送って討たせた。杜伏威は戦って偽って敗れ、宋顥の衆を葦の中に誘い込み、風上から火を放って宋顥の衆をみな焼き殺した。
- 海陵の賊帥の趙破陳は杜伏威の兵の少なさを侮り、呼んで力を合わせようとした。杜伏威は輔公祏に兵を整えて外に置かせ、自らは側近十人と牛と酒を持って謁見し、座で趙破陳を殺してその衆を併せた。
大業十一年(615年)
- 東海の李子通は勇力があり、はじめ長白山の賊帥の左才相に身を寄せた。群盗はみな残忍だったが李子通だけは寛仁だったので、多くの人が帰した。半年たたぬうちに衆は一万人となり、左才相が忌んだので李子通は去り、淮水を渡って杜伏威と合流した。
- 杜伏威は軍中の壮士を選んで養子とし、計三十余人。済陰の王雄誕と臨済の闞稜がその筆頭だった。
- まもなく李子通が杜伏威を殺そうと謀って兵を送って襲い、杜伏威は重傷を負って落馬した。王雄誕が背負って葦の中に逃げ、散兵を収めて再び勢いを取り戻した。
- 隋の将軍の来整が杜伏威を撃って破った。その将の西門君儀の妻の王氏は勇で力が強く、杜伏威を背負って逃げ、王雄誕が壮士十余人を率いて護衛して隋兵と力戦し、それで免れた。来整はまた李子通を撃って破り、李子通は残衆を率いて海陵に逃げ、また兵を集めて二万人を得、将軍と自称した。
恭帝義寧元年(617年)春正月
- 右禦衛将軍の陳稜が杜伏威を討ち、杜伏威が衆を率いて防いだ。陳稜が壁を閉じて戦わないので、杜伏威は婦人の服を贈って「陳婆さん」と呼んだ。陳稜は怒って出戦し、杜伏威が奮撃して大破し、陳稜はかろうじて身一つで逃れた。
- 杜伏威は勝ちに乗じて高郵を破り、兵を率いて歴陽に拠って総管と自称し、輔公祏を長史とし、諸将を分遣して属県を従えた。行く先々で降り、江淮の小盗は競って身を寄せた。
- 杜伏威は常に決死の士五千人を選んで「上募」と呼び、寵遇はきわめて厚かった。攻戦のたび上募に先に撃たせ、戦い終わって検分し、背中に傷のある者はただちに殺した。退いて撃たれた証拠だからである。得た財物はすべて軍士に賞し、戦死者があれば妻妾を殉葬した。そのため各自が力戦し、向かうところ敵なしだった。
唐高祖武徳元年(618年)
- 武康の沈法興は代々郡の名族で、宗族は数千家。呉興太守だったが、宇文化及の弑逆を聞いて化及討伐を名目に挙兵した。烏程に至るまでに精卒六万を得、余杭・毗陵・丹楊を攻めてみな落とし、江南十余郡に拠って江南道大総管と自称し、制を承けて百官を置いた。
- 宇文化及が江都を発したとき、杜伏威を歴陽太守としたが、杜伏威は受けず、隋の皇泰主に上表した。皇泰主は杜伏威を東道大総管として楚王に封じた。沈法興も皇泰主に上表し、大司馬・録尚書事・天門公と自称した。
武徳二年(619年)
- 沈法興は毗陵を落として江淮の南は指図するだけで定まると考え、梁王と自称して毗陵に都し、延康と改元して百官を置いた。性は残忍で威刑ばかりを尚び、将士が少しでも過ちを犯せばただちに斬った。そのため配下は離れ怨んだ。
- 当時、杜伏威は歴陽に、陳稜は江都に、李子通は海陵に拠り、ともに江南をうかがう心があった。沈法興の軍はしばしば敗れた。
- 李子通が江都に陳稜を囲むと、陳稜は人質を送って沈法興と杜伏威に救いを求めた。沈法興は子の沈綸に数万を率いさせ、杜伏威とともに救わせた。杜伏威は清流に、沈綸は揚子に軍し、数十里隔たっていた。
- 李子通の納言の毛文深が策を献じ、江南の人を募って沈綸の兵と偽らせ、夜に杜伏威の営を襲わせた。杜伏威は怒って兵を送って沈綸を襲い、二人は互いに疑って先に進もうとしなかった。李子通は精鋭を尽くして江都を攻めて落とし、陳稜は杜伏威のもとへ逃げた。李子通は江都に入り、そのまま沈綸を撃って大破し、杜伏威も引き揚げた。
- 李子通が皇帝の位に即き、国号を呉、明政と改元した。丹楊の賊帥の楽伯通が一万余の衆で降り、左僕射とされた。
- 杜伏威が降を請い、丁丑、杜伏威を淮南安撫大使・和州総管とした。
武徳三年(620年)
- 夏六月壬辰、詔して和州総管・東南道行台尚書令の楚王杜伏威を使持節総管江淮以南諸軍事・揚州刺史・東南道行台尚書令・淮南安撫使とし、呉王に封じて李姓を賜り、輔公祏を行台左僕射・舒国公とした。
- 李子通が長江を渡って沈法興を攻め、京口を取った。沈法興が僕射の蔣元超に防がせたが、庱亭で戦って蔣元超は敗死した。沈法興は毗陵を捨てて呉郡に逃げ、丹楊・毗陵などの郡はみな李子通に降った。李子通は沈法興の府掾の李伯薬を内史侍郎・国子祭酒とした。
- 杜伏威が行台左僕射の輔公祏に数千の兵で李子通を攻めさせ、将軍の闞稜と王雄誕を副とした。輔公祏は長江を渡って丹陽を攻め落とし、進んで溧水に駐屯した。
- 李子通が数万で防いだ。輔公祏は精鋭千人を選んで長刀を執らせて前鋒とし、また千人をその後ろに続かせて「退く者は斬る」と命じ、自ら残る衆を率いてさらに後ろにいた。李子通が方陣で進むと、輔公祏の前鋒千人が死力を尽くして戦い、輔公祏がさらに左右の翼を張って撃ち、李子通は敗走した。輔公祏が追ったところ、かえって敗れ、戻って壁を閉じて出なかった。
- 王雄誕が「李子通には壁塁がなく、また初戦の勝ちに慣れています。備えのないところに乗じて撃てば破れます」と言ったが、輔公祏は従わなかった。王雄誕は私属の数百人で夜に出撃し、風に乗じて火を放って李子通を大敗させ、その卒数千人を降した。李子通は食が尽き、江都を捨てて京口に拠り、長江以西の地はすべて杜伏威に帰した。杜伏威は丹楊に移り住んだ。
- 李子通はさらに東の太湖へ走り、散兵を集めて二万人を得、呉郡の沈法興を襲って大破した。沈法興は側近数百人と城を捨てて逃げた。呉郡の賊帥の聞人遂安が将の葉孝辯を送って迎えたが、沈法興は途中で悔いて葉孝辯を殺して会稽へ向かおうとした。葉孝辯が気づき、沈法興は窮して川に身を投げて溺死した。
- 李子通の軍勢は再び振るい、群臣を率いて余杭に都を移し、沈法興の地をすべて収めた。北は太湖から南は嶺、東は会稽を包み、西は宣城に至る地をすべて領有した。
武徳四年(621年)冬十一月
- 杜伏威が将の王雄誕に李子通を撃たせた。李子通は精兵で独松嶺を守った。王雄誕は副将の陳当に千余人を率いさせ、高所の険に拠って迫らせ、旗を多く立て、夜は松明を樹に縛って山と沢に満たした。李子通は恐れて営を焼いて杭州に退いて守った。王雄誕が追撃してまた城下で破った。
- 庚寅、李子通は窮して降を請うた。杜伏威は李子通とその左僕射の楽伯通を捕らえて長安に送り、上は釈放した。
- これに先立ち、汪華が黟・歙に拠って王と称して十余年になっていた。王雄誕は軍を返して撃った。汪華は新安の洞口で防ぎ、甲兵はきわめて鋭かった。王雄誕は精兵を山谷に伏せ、弱兵数千を率いてその陣を犯し、戦いが始まるや偽って敗れて営に逃げ帰った。汪華が進んで攻めたが落とせず、日暮れに引き返すと、伏兵がすでにその洞口を押さえていた。汪華は入れず窮して降を請うた。
- 聞人遂安は崑山に拠っていずれにも属していなかった。杜伏威が王雄誕に撃たせたが、王雄誕は崑山が険しく狭くて力攻めしがたいと見て、単騎でその城下に赴き、国威を述べて禍福を示した。聞人遂安は感じ入って喜び、諸将を率いて出て降った。
- こうして杜伏威は淮南と江東の地をすべて領有し、南は嶺に至り東は海に至った。王雄誕は功により歙州総管に任じられ、宜春郡公の爵を賜った。
武徳五年(622年)
- 秋七月、秦王世民が徐円朗を撃って十余城を落とし、声威は淮・泗を震わせた。杜伏威は恐れて入朝を請うた。
- 丁亥、杜伏威が入朝し、御榻に上げられ、太子太保を拝し、なお行台尚書令を兼ねて長安に留められ、位は斉王元吉の上に置かれて格別の寵遇を示された。闞稜を左領軍将軍とした。
- 李子通が楽伯通に「杜伏威が来た以上、江東はまだ定まっていない。私が行って旧兵を収めれば大功を立てられる」と言い、ともに逃亡したが、藍田関で吏に捕らえられ、ともに誅された。
武徳六年(623年)――輔公祏の反乱
- 春正月庚子、呉王杜伏威を太保とした。
- 秋八月壬子、淮南道行台僕射の輔公祏が反した。
- もと杜伏威と輔公祏は親しく、輔公祏が年長だったので杜伏威は兄として仕え、軍中では「伯父」と呼んで杜伏威と同じく畏敬した。杜伏威は次第にこれを忌み、養子の闞稜を左将軍、王雄誕を右将軍としてひそかにその兵権を奪った。輔公祏は知って不平を抱き、旧友の左遊仙とともに道を学び穀を断つふりをして身を晦ました。
- 杜伏威が入朝するとき、輔公祏を残して丹楊を守らせ、王雄誕に兵を典らせて副とし、ひそかに王雄誕に「私が長安に至って職を失わずにいるうちは、輔公祏に変を起こさせるな」と言った。
- 杜伏威が発つと、左遊仙が輔公祏に謀反を説いたが、王雄誕が兵を握っていたので発せなかった。そこで杜伏威の書を得たと偽り、王雄誕に二心があると疑わせた。王雄誕は聞いて不快になり、病と称して政務を見なくなった。輔公祏はその兵を奪い、一党の西門君儀に反逆の計を諭させた。
- 王雄誕はようやく悟って悔い、「今、天下はまさに平定され、呉王も京師におられる。大唐の兵威は向かうところ敵なし。どうして理由もなく自ら滅族を求めるのか。私は死あるのみ、承れぬ。今、公に従って逆をなしても、百日ばかり命を延ばすにすぎぬ。大丈夫がどうしてわずかな死を惜しんで自ら不義に陥れようか」と言った。輔公祏は屈しないと知って縊り殺した。
- 王雄誕は士卒をよく撫でて死力を得、規律も厳正で、城邑を落とすたび秋毫も犯さなかった。その死の日、江南の軍中も民間もみな涙を流した。
- 輔公祏はさらに杜伏威が江南に帰れずにいて書を寄せて挙兵を命じたと偽り、大々的に武具を修め糧を運んで蓄えた。まもなく丹楊で帝を称し、国号を宋とし、陳の旧宮室を修めて住み、百官を置き、左遊仙を兵部尚書・東南道大使・越州総管とした。張善安と兵を連ね、張善安を西南道大行台とした。
- 乙丑、詔して襄州道行台僕射の趙郡王孝恭に舟師で江州へ、嶺南道大使の李靖に交・広・泉・桂の衆で宣州へ、懐州総管の黄君漢に譙・亳から、斉州総管の李世勣に淮・泗から出て輔公祏を討たせた。
- 孝恭が出発しようとして諸将と宴し、水を取らせたところ突然血に変わり、居合わせた者はみな色を失った。孝恭は平然として「これこそ公祏が首を差し出す徴だ」と言い、飲み干した。衆はみな悦服した。
- 九月戊子、輔公祏が将の徐紹宗に海州を、陳政通に寿陽を侵させた。
- 冬十一月、黄州総管の周法明が兵を率いて輔公祏を撃った。張善安が夏口に拠って防ぎ、周法明は荆口鎮に駐屯した。壬午、周法明が戦艦に登って酒を飲んでいたところ、張善安が刺客数人を偽って漁船に乗せて送り込み、見た者も警戒しなかったので、周法明を殺して去った。
- 甲申、舒州総管の張鎮周らが輔公祏の将の陳当世を猷州の黄沙で撃って大破した。
- 十二月癸卯、安撫使の李大亮が張善安を誘って捕らえた。李大亮は洪州で張善安を撃ち、水を隔てて陣して遠くから語り合い、禍福を諭した。張善安は「私にはもともと叛く心はなく、まさに将士に誤られたのです。降りたいが免れぬのを恐れております」と言った。李大亮は「張総管に降る心がおありなら、我らは一家である」と言い、単騎で水を渡ってその陣に入り、張善安と手を執って語り、疑い隔てのないことを示した。張善安は大いに喜んで降伏を承諾した。
- まもなく張善安が数十騎で李大亮の営に来た。李大亮はその騎を門外に止め、張善安を引き入れて長く語り、張善安が辞去しようとすると武士に捕らえさせた。従騎はみな逃げた。
- 張善安の営中はこれを聞いて激怒し、全軍で来て李大亮を攻めようとした。李大亮は人を遣って「私が総管を留めているのではない。総管は赤心で国に帰し、私に『営に帰れば将士に異論があってその手に制せられるかもしれぬ』と言われ、自ら留まって去られぬのだ。卿らはなぜ私に怒るのか」と諭させた。その一党は今度は「張総管は我らを売って人に媚びた」と大いに罵り、みな潰え去った。李大亮は追撃して多くを捕らえた。
- 張善安を長安に送ると、張善安は輔公祏と通じていないと自称し、上はその罪を赦して厚遇した。しかし輔公祏が敗れて往復の書が見つかり、殺された。
武徳七年(624年)
- 春正月壬午、趙郡王孝恭が輔公祏の別将を摐楊で撃って破った。
- 二月辛丑、輔公祏が兵を送って猷州を囲み、刺史の左難当が城に籠って自守した。安撫使の李大亮が兵を率いて撃って破った。趙郡王孝恭が輔公祏の鵲頭鎮を攻めて抜いた。
- 壬子、行軍副総管の権文誕が輔公祏の一党を猷州で破り、枚洄など四鎮を抜いた。
- 太保・呉王の杜伏威が薨じた。輔公祏の反乱のとき杜伏威の命と偽ってその衆を欺いたが、輔公祏平定後、趙郡王孝恭はそれが偽りと知らずそのまま報告した。詔で杜伏威の名籍を削り、妻子を没収した。太宗が即位して冤罪と知り、赦して官爵を復した。
- 三月丙戌、趙郡王孝恭が蕪湖で輔公祏を破り、梁山など三鎮を抜いた。辛卯、安撫使の任瓌が揚子城を抜き、広陵の城主の竜龕が降った。
- 戊戌、趙郡王孝恭が丹楊を落とした。
- これに先立ち、輔公祏は将の馮慧亮と陳当世に舟師三万で博望山に、陳正通と徐紹宗に歩騎二万で青林山に駐屯させ、梁山に鉄鎖を連ねて長江の路を断ち、十余里に亘る却月城を築き、また長江の西に塁を構えて官軍を防いだ。
- 孝恭は李靖とともに舟師を率いて舒州に宿し、李世勣は歩卒一万を率いて淮水を渡って寿陽を抜き、硤石に宿した。馮慧亮らは壁を固めて戦わなかった。孝恭が奇兵を出してその糧道を絶つと、馮慧亮らの軍は食に乏しくなり、夜に兵を送って孝恭の営に迫ったが、孝恭は安らかに臥して動かなかった。
- 孝恭が諸将を集めて軍事を議すると、みな「馮慧亮らは強兵を擁して水陸の険に拠っており、攻めても急には抜けません。まっすぐ丹楊を指してその巣窟を突くに如くはありません。丹楊が潰えれば馮慧亮らは自ら降りましょう」と言った。
- 孝恭が従おうとすると、李靖が言った。輔公祏の精兵はこの水陸二軍にあるとはいえ、自ら率いる兵も少なくありません。今、博望の諸柵すら抜けぬのに、輔公祏が石頭に拠っているのをどうして容易に取れましょう。進んで丹楊を攻めて旬月落とせず、馮慧亮らが背後に迫れば腹背に敵を受けます。これは危険な道です。馮慧亮も陳正通も百戦の古つわもの。その心が戦いを欲していないのではなく、輔公祏が計を立てて持重させ、我が軍を老いさせようとしているだけです。今、その城を攻めて挑発すれば、一挙に破れます、と。孝恭も同意した。
- 弱兵にまず賊の塁を攻めさせ、精兵を整え陣を組んで待った。塁を攻めた者が勝てずに逃げ、賊が兵を出して追い、数里行って大軍に遇って戦い、大破した。闞稜が兜を脱いで賊衆に「お前たちは私を知らぬのか。よくも私と戦いに来られたな」と言うと、賊衆の多くは闞稜の旧部曲で、みな戦意を失い、拝する者さえあった。これで敗れた。
- 孝恭と李靖は勝ちに乗じて追撃し、百余里転戦して博望・青林の二戍はともに潰え、馮慧亮と陳正通らは逃げ帰った。殺傷と溺死は一万余人。
- 李靖の兵が先に丹楊に至り、輔公祏は大いに恐れ、数万の兵を擁して城を捨てて東へ走り、会稽の左遊仙のもとへ行こうとした。李世勣が追った。輔公祏が句容に至ると、従う兵はわずか五百人。夜、常州に宿したところ、その将の呉騒らが捕らえようと謀った。輔公祏は気づいて妻子を捨て、腹心数十人だけを連れて関を斬り開いて逃げ、武康に至って土民に襲われ、西門君儀は戦死し、輔公祏は捕らえられて丹楊に送られ梟首された。残党を分けて捕らえてことごとく誅し、江南はすべて平定された。
- 己亥、孝恭を東南道行台右僕射、李靖を兵部尚書とした。まもなく行台を廃して孝恭を揚州大都督、李靖を府長史とした。上は深く李靖の功を称え「李靖は蕭銑と輔公祏にとって膏肓の病だった」と言った。
- 闞稜は功が多く、かなり自ら誇っていた。輔公祏が闞稜も自分と共謀していたと誣告した。折しも趙郡王孝恭が賊党の田宅を没収したとき、闞稜および杜伏威・王雄誕の賊地にあった田宅も併せて没収した。闞稜が自ら訴えて争って孝恭に逆らい、孝恭は怒って謀反として誅した。