通鑑紀事本末唐、江陵を平定する(蕭銑)(唐平江陵)
巴陵の董景珍らに推された梁室の後裔の蕭銑が、羅川に挙兵して梁公・のち梁王と称し、江陵に都して東は九江から南は交趾に及ぶ地と兵四十余万を擁するまでと、その滅亡を扱う。蕭銑は諸将の権を削ろうとして董景珍・張繡を失い、功臣の心が離れて兵勢が衰える。唐は趙郡王孝恭と李靖に巴蜀の水軍を率いさせ、増水に乗じて不意を突き、清江・夷陵に勝って江陵を囲んだ。蕭銑は百姓を思って降り、長安の市で斬られた。
年表(5件)
- 隋恭帝
- 義寧元年617年蕭銑が羅川に挙兵して巴陵に迎えられ、梁王と称して鳴鳳と改元する
- 唐高祖
- 武徳元年618年蕭銑が皇帝の位に即いて江陵に都し、嶺南・交趾までを領有する
- 武徳二年秋八月619年峡州刺史の許紹が楊道生と陳普環を破り、蜀への進出を阻む
- 武徳三年620年董景珍が長沙ごと唐に降って殺され、張繡も誅されて功臣の心が離れる
- 武徳四年621年孝恭と李靖が増水に乗じて東下し、江陵を囲んで蕭銑を降す
隋恭帝義寧元年(617年)
- 巴陵校尉の鄱陽の董景珍・雷世猛、旅帥の鄭文秀・許玄徹・万瓚・徐徳基・郭華、沔陽の張繡らが郡に拠って隋に叛くことを謀り、董景珍を主に推した。
- 董景珍は「私はもともと寒賤で衆に服されぬ。羅川令の蕭銑は梁室の後裔で寛仁大度である。これを奉じて衆望に従いたい」と言い、使者を送って蕭銑に知らせた。蕭銑は喜んで応じ、賊を討つと言い立てて募兵し、数千人を得た。蕭銑は蕭巌の孫である。
- 折しも潁川の賊帥の沈柳生が羅川を侵し、蕭銑は戦って不利となった。そこでその衆に「今、天下はみな隋に叛き政令は行われない。巴陵の豪傑が兵を起こして私を主に奉じようとしている。その請いに従って江南に号令すれば、梁の祚を中興できる。これで沈柳生を呼べば彼も私に従うだろう」と言い、衆はみな喜んで命を聴いた。
- そこで梁公と自称し、隋の服色を改め、旗幟はすべて梁の旧に倣った。沈柳生はただちに衆を率いて帰し、車騎大将軍とされた。挙兵五日で遠近から帰服する者は数万に達し、衆を率いて巴陵に向かった。
- 董景珍が徐徳基に郡中の豪傑数百人を率いて出迎えさせた。蕭銑に会う前に、沈柳生が一党と謀って「私が先に梁公を奉じて勲功は第一だ。今、巴陵の諸将はみな位が高く兵も多い。私が入城すればかえってその下になる。徐徳基を殺してその首領を人質とし、私一人が梁公を擁して郡城を取れば、私の上に出る者はいなくなる」と言い、徐徳基を殺して入って蕭銑に告げた。
- 蕭銑は大いに驚いて「今、乱を撥めて正に返そうというのに、いきなり同士討ちをするとは。私はお前の主にはなれぬ」と言い、歩いて軍門を出た。沈柳生は大いに恐れて地に伏して罪を請い、蕭銑は責めて赦した。
- 兵を並べて入城すると、董景珍は蕭銑に「徐徳基は義を建てた功臣なのに、沈柳生が理由もなく擅殺した。これを誅さずしてどうやって政を行われますか。しかも沈柳生は久しく盗をしており、今は義に従っても凶悖の性は改まりません。同じ城にいれば必ず変を起こします。今、除かねば後悔しても及びません」と言い、蕭銑もまた従った。董景珍が沈柳生を捕らえて斬り、その徒はみな潰え去った。
- 丙申、蕭銑は壇を築いて燔燎の祭を行い、梁王と自称して鳴鳳と改元した。
唐高祖武徳元年(618年)
- 夏四月、蕭銑が皇帝の位に即き、百官を置いたが梁室の故事に準じた。従父の蕭琮に孝靖皇帝、祖の蕭巌に河間忠烈王、父の蕭璿に文憲王と諡した。董景珍ら功臣七人をみな王に封じた。
- 宋王の楊道生に南郡を撃たせて落とし、江陵に都を移して園と廟を修復した。岑文本を中書侍郎として文書を掌らせ機密を委ねた。
- また魯王の張繡に嶺南を従えさせた。隋の将の張鎮周・王仁寿らが防いだが、まもなく煬帝の弑逆を聞いてみな蕭銑に降った。欽州刺史の寧長真も鬱林・始安の地ごと蕭銑に付いた。漢陽太守の馮盎は蒼梧・高涼・珠崖・番禺の地ごと林士弘に付いた。
- 蕭銑と林士弘はそれぞれ人を遣って交趾太守の丘和を招いたが、丘和は従わなかった。蕭銑は寧長真に嶺南の兵を率いて海路から丘和を攻めさせた。丘和は出迎えようとしたが、司法書佐の高士廉が「長真の兵は数こそ多いが、孤軍で遠来しており長続きしません。城中の兵で当たれます。どうして風を望んで人に制せられるのですか」と説き、丘和は従った。高士廉を軍司馬として水陸の諸軍を率いて迎え撃って破り、寧長真はかろうじて身一つで逃れ、その衆はすべて捕虜となった。
- まもなく驍果が江都から至って煬帝の凶報が伝わり、丘和も郡ごと蕭銑に付いた。高士廉は高勱の子である。
- 始安郡丞の李襲志は李遷哲の孫で、隋末に家財を散じて士を募って二千人を得、郡城を保った。蕭銑・林士弘・曹武徹が代わる代わる攻めたがいずれも落とせなかった。煬帝の弑逆を聞いて吏民を率いて三日哭した。
- ある者が李襲志に「公は中州の貴族で、久しくこの郡に臨み、華夷ともに悦服しております。今、隋室に主なく海内は沸き立っています。公の威と恵で嶺表に号令すれば、尉佗の業は座して成せましょう」と説いた。李襲志は怒って「私の家は代々忠貞を継いできた。今、江都が覆っても宗社はなお存する。尉佗の狂僭など慕うに足りぬ」と言い、説いた者を斬ろうとしたので、衆はもう口に出さなくなった。
- 二年堅守したが外に援けはなく、城が陥ちて蕭銑に捕らえられた。蕭銑は工部尚書・検校桂州総管とした。
- こうして東は九江から西は三峡、南は交趾に至り、北は漢川に及ぶ地をすべて蕭銑が領有し、兵は四十余万に達した。
武徳二年(619年)秋八月
- 蕭銑が将の楊道生に峡州を侵させたが、刺史の許紹が撃破した。
- 蕭銑はまた将の陳普環に舟師を率いて峡を上らせ巴蜀を取ろうとした。許紹は子の智仁と録事参軍の李弘節らを送って西陵まで追わせて大破し、陳普環を捕らえた。蕭銑は兵を送って安蜀城と荆門城を守らせた。
- これに先立ち、上は開府の李靖を夔州に遣わして蕭銑を経略させた。李靖は峡州に至って蕭銑の兵に阻まれ、久しく進めなかった。上はその遅滞に怒り、ひそかに許紹に斬るよう勅したが、許紹はその才を惜しんで奏請し、免れさせた。
武徳三年(620年)
- 蕭銑は狭量で猜疑が多く、諸将は功を恃んで横暴で、擅に誅殺することを好んだ。蕭銑はこれを患い、兵を罷めて農を営むと宣言して諸将の権を奪おうとした。
- 大司馬の董景珍の弟が将軍で、怨望して乱を謀ったが露見して誅された。董景珍はこのとき長沙を鎮めており、蕭銑は詔で赦して江陵に召し返したが、董景珍は恐れて、冬十一月甲子、長沙ごと降った。詔で峡州刺史の許紹に兵を出して応じさせた。
- 十二月癸卯、峡州刺史の許紹が蕭銑の荆門鎮を攻めて抜いた。
- 蕭銑が斉王の張繡に長沙を攻めさせた。董景珍は張繡に「先年は彭越を醢にし、往年は韓信を殺した。卿はそれを見ていないのか。なぜ攻め合うのか」と言ったが、張繡は答えず進んで囲んだ。董景珍は囲みを破って逃げようとしたが麾下に殺された。
- 蕭銑は張繡を尚書令としたが、張繡は功を恃んで驕り横暴になり、蕭銑はこれも殺した。これによって功臣諸将はみな離反の心を抱き、兵勢はいっそう弱まった。
武徳四年(621年)
- 春正月丙戌、黔州刺史の田世康が蕭銑の五州四鎮を攻めてみな落とした。
- 李靖が趙郡王孝恭に蕭銑を取る十の策を説き、孝恭が上奏した。二月辛卯、信州を夔州と改めて孝恭を総管とし、大々的に舟艦を造らせ水戦を習わせた。孝恭は軍旅の経験がなかったので、李靖を行軍総管兼孝恭の長史として軍事を委ねた。李靖は孝恭に説いて、巴蜀の酋長の子弟をすべて召し、才を量って任じて側に置かせた。表向きは抜擢だが実は人質である。
- 夏六月、黄州総管の周法明が蕭銑の安州を攻めて抜き、その総管の馬貴遷を捕らえた。
- 秋七月辛巳、褒州道安撫使の郭行方が蕭銑の鄀州を攻めて抜いた。
- 九月、詔して巴蜀の兵を発し、趙郡王孝恭を荆湘道行軍総管、李靖を摂行軍長史として十二総管を統べさせ、夔州から流れに沿って東下させた。廬江王瑗を荆郢道行軍元帥として襄州道から、黔州刺史の田世康を辰州道から、黄州総管の周法明を夏口道から出して蕭銑を撃たせた。
- この月、孝恭が夔州を発した。当時、峡江はちょうど増水しており、諸将は水が引いてから進軍するよう請うた。李靖は「兵は神速を貴びます。今、我が兵は集まったばかりで蕭銑はまだ知らぬ。増水に乗じてたちまち城下に迫り不意を突けば、必ず擒にできます。逃してはなりません」と言い、孝恭は従った。
- 冬十月辛卯、蕭銑の鄂州刺史の雷長穎が魯山ごと降った。
- 趙郡王孝恭が戦艦二千余艘を率いて東下した。蕭銑は増水中なので全く備えをしていなかった。孝恭らは荆門・宜都の二鎮を抜き、進んで夷陵に至った。蕭銑の将の文士弘が精兵数万で清江に駐屯していたが、癸巳、孝恭が撃退して戦艦三百余艘を獲、殺された者と溺死した者は万を数えた。百里洲まで追撃し、文士弘は兵を収めて再戦したが、また破って北江に進入した。蕭銑の江州総管の蓋彦挙が五州ごと降った。
- 蕭銑は兵を罷めて農を営ませたとき、宿衛数千人しか残していなかった。唐兵の到来と文士弘の敗北を聞いて大いに恐れ、急に徴兵しようとしても兵はみな江嶺の外にあり、道は遠くて集まらなかった。そこで手元の兵をすべて出して防戦させた。
- 孝恭が撃とうとすると李靖が止めて「あれは敗北を救う軍で、策も日ごろ立てたものではなく、勢いは長続きしません。ひとまず南岸で緩めれば、一日で必ず兵を分け、あるいは残って我らを防ぎ、あるいは帰って自守します。兵が分かれて勢いが弱まったところで、その緩みに乗じて撃てば勝てぬはずがありません。今、急に迫れば力を合わせて死戦します。楚の兵は飄鋭で当たりやすくありません」と言った。
- 孝恭は従わず、李靖を残して営を守らせ、自ら鋭兵を率いて出戦し、果たして敗れて南岸へ走った。蕭銑の衆は舟を捨てて軍資を奪い、みな重い荷を負った。李靖はその乱れを見て兵を放って奮撃し大破した。勝ちに乗じてまっすぐ江陵に迫り、その外郭に入り、また水城を攻めて抜き、多くの舟艦を得た。
- 李靖は孝恭にそれをすべて長江に流させた。諸将はみな「敵を破って得たものは我らの用に供すべきです。なぜ捨てて敵を利するのですか」と言った。李靖は「蕭銑の地は南は嶺表に出、東は洞庭に至る。我らは孤軍で深入りしており、城を攻めて落とせぬうちに援兵が四方から集まれば、内外に敵を受けて進退できなくなる。舟があっても何の用があろう。今、舟艦を捨てて川を塞いで流せば、援兵はこれを見て必ず江陵はすでに破れたと思い、軽々しく進めなくなる。行き来して様子をうかがううちに旬月が過ぎる。我らが取るのは必至だ」と言った。蕭銑の援兵は舟艦を見て果たして疑って進まなかった。
- 蕭銑の交州総管の丘和、長史の高士廉、司馬の杜之松らが江陵に朝しようとしていたが、蕭銑の敗を聞いてみな孝恭のもとへ来て降った。
- 孝恭が兵を整えて江陵を囲み、蕭銑は内外を絶たれて中書侍郎の岑文本に策を問うた。岑文本は降伏を勧め、蕭銑は群下に「天は梁に幸いしない。もう支えきれぬ。力尽きるまで待てば百姓が禍を蒙る。どうして私一人のために百姓を塗炭に陥れられよう」と言った。
- 乙巳、蕭銑は太牢をもって太廟に告げ、門を開いて出て降るよう令した。城を守る者はみな哭した。蕭銑は群臣を率い、緦の喪服に布の頭巾で軍門に至り、「死すべきは私一人だけ。百姓に罪はない。どうか殺し掠めないでいただきたい」と言った。
- 孝恭が入城して拠り、諸将が大いに掠奪しようとした。岑文本が孝恭に説いた。江南の民は隋末以来、虐政に苦しみ、加えて群雄が虎のように争いました。今、生き残った者はみな刃と矢の余りで、爪先立ち首を伸ばして真の主を待っています。だからこそ蕭氏の君臣と江陵の父老は帰順を決意し、肩の荷を下ろそうとしたのです。今、兵を放って捕らえ掠めて士民を失望させれば、これより南に帰服の心はなくなりましょう、と。孝恭は善しとしてただちに禁じた。
- 諸将がまた「梁の将帥で官軍と戦って死んだ者は罪が深い。その家を没収して将士に賞したい」と言った。李靖は「王者の師は義の声を先に立てるべきである。彼らは主のために戦って死んだ忠臣だ。どうして叛逆の科と同じに扱ってその家を没収できようか」と言った。こうして城中は落ち着き、秋毫も犯さなかった。南方の州県はこれを聞いてみな風を望んで帰服した。
- 蕭銑が降って数日後、援兵十余万が到着したが、江陵が守れなかったと聞いてみな甲を解いて降った。
- 孝恭は蕭銑を長安に送った。上が罪を数えると、蕭銑は「隋がその鹿を失い天下が競って逐った。銑に天命がなかったからここに至ったまで。それを罪とされるなら、死を逃れようもありません」と言った。ついに都の市で斬られた。