通鑑紀事本末唐、河東を平定する(劉武周)(唐平河東)

馬邑の劉武周が太守の王仁恭を斬って挙兵し、突厥に付いて定楊可汗の号を受け、皇帝を称して雁門・樓煩を併せるところから始まる。宋金剛を迎えて南下すると、姜宝誼・裴寂・永安王孝基が相次いで敗れ、斉王元吉は并州を捨てて逃げ、河東は一時ほぼ失われた。唐の関中放棄論を退けた秦王世民が柏壁に拠って持久し、糧の尽きた宋金剛を雀鼠谷・介休に破って尉遅敬徳を降し、劉武周と宋金剛は突厥に走ってともに殺された。義寧元年(617年)から武徳三年(620年)まで。

年表(3件)
  • 隋恭帝
  • 義寧元年617年劉武周が王仁恭を斬って挙兵し、突厥に付いて皇帝を称し雁門を陥す
  • 唐高祖
  • 武徳二年619年宋金剛を得た劉武周が并州を取り、裴寂も孝基も敗れて河東が崩れる
  • 武徳三年620年世民が雀鼠谷と介休で宋金剛を破り、劉武周は突厥に走って河東が回復する

隋恭帝義寧元年(617年)

  • 馬邑太守の王仁恭は賄賂を多く受けながら施しをしなかった。郡人の劉武周は驍勇で任侠を好み、鷹揚府校尉となっていた。王仁恭は土地の豪族であることからきわめて親しく遇し、親兵を率いて閤下に駐屯させた。
  • 劉武周は王仁恭の侍女と密通し、事の露見を恐れて乱を謀り、まず「今、百姓は飢饉で屍が道に満ちているのに、王府君は倉を閉じて賑恤しない。民の父母たる者の心か」と言い触らし、衆はみな憤った。
  • 劉武周は病と称して家に臥し、豪傑が見舞いに来ると牛を屠り酒をふるまい、「壮士たる者、座して溝壑に落ちるのを待てようか。今、倉の粟は腐るほど積まれている。誰か私とともに取らぬか」と大言した。豪傑はみな承諾した。
  • 春二月己丑、王仁恭が役所で政務を執っていたところへ劉武周が謁見に上り、一党の張万歳らが続いて入って階を上り、王仁恭を斬ってその首を持って出て郡中に示した。誰も動く者はなかった。
  • そこで倉を開いて飢民を賑わせ、領内に檄を飛ばして属城をすべて降し、兵を集めて一万余を得た。劉武周は太守と自称し、使者を送って突厥に付いた。
  • 雁門郡丞の河東の陳孝意が虎賁郎将の王智辯とともに劉武周を討ち、桑乾鎮を囲んだ。壬寅、劉武周は突厥と兵を合わせて王智辯を撃って殺し、陳孝意は雁門に逃げ帰った。
  • 三月丁卯、劉武周が樓煩郡を襲って破り、進んで汾陽宮を取り、隋の宮人を得て突厥の始畢可汗に贈った。始畢は馬で報い、兵勢はいっそう振るった。また定襄を陥した。突厥は劉武周を定楊可汗として狼頭の纛を贈った。
  • 劉武周は皇帝の位に即き、妻の沮氏を皇后に立て、天興と改元し、衛士の楊伏念を尚書左僕射、妹の婿で同県の苑君璋を内史令とした。
  • 劉武周が兵を率いて雁門を囲むと、陳孝意は力を尽くして拒み守り、隙を見て出撃してしばしば破った。しかし外に救援がなく、忍びの使者を江都に送っても返答がなかった。陳孝意は必死を誓い、朝夕に詔勅の庫に向かって伏して涙を流し、その悲しみは左右を動かした。城が囲まれて百余日、食が尽き、校尉の張倫が陳孝意を殺して降った。

唐高祖武徳二年(619年)

  • 春三月辛卯、劉武周が并州を侵した。
  • 夏四月、劉武周が突厥の衆を率いて黄蛇嶺に軍し、兵鋒はきわめて盛んだった。斉王元吉が車騎将軍の張達に歩卒百人で賊を試させようとし、張達は兵が少なすぎて行けぬと辞退したが、元吉は強いて行かせた。着くとともに全滅し、張達は憤り恨んで、庚子、劉武周を導いて楡次を襲って陥した。
  • 丙辰、劉武周が并州を囲み、斉王元吉が撃退した。戊午、詔で太常卿の李仲文に兵を率いて并州を救わせた。
  • 五月丙戌、劉武周が平遥を陥した。
  • はじめ易州の賊帥の宋金剛は一万余の衆を擁して魏刀児と結んでいた。魏刀児が竇建徳に滅ぼされると宋金剛は救ったが戦って敗れ、四千の衆を率いて西の劉武周のもとへ走った。劉武周はその用兵の巧みさを聞いて得たことを大いに喜び、宋王と号して軍事を委ね、家産を半分に分けて与えた。宋金剛も深く結びつこうとして先妻を離縁し、劉武周の妹を娶った。そのうえで劉武周に晋陽を図り南に向かって天下を争うよう説いた。
  • 劉武周は宋金剛を西南道大行台として二万の兵を率いて并州を侵させた。丁未、劉武周が進んで介州に迫ると、沙門の道澄が仏の幡で綱を作って城内に引き入れ、介州は陥った。
  • 詔で左武衛大将軍の姜宝誼と行軍総管の李仲文に撃たせた。劉武周の将の黄子英は雀鼠谷を往来し、しばしば軽兵で挑戦しては、兵が交わるや偽って敗れて逃げた。これを再三繰り返したので、姜宝誼と李仲文は全軍で追い、伏兵が起こって唐兵は大敗し、二人とも捕らえられた。まもなく二人とも逃げ帰り、上は再び二人に兵を率いて劉武周を撃たせた。
  • 上は劉武周の侵入を憂え、右僕射の裴寂が自ら行くことを請うた。癸亥、裴寂を晋州道行軍総管として劉武周を討たせ、便宜の処置を許した。
  • 秋七月辛卯、宋金剛が浩州を侵し、十日ほどで退いた。
  • 九月、裴寂が介休に至り、宋金剛が城に拠って防いだ。裴寂は度索原に軍したが、営中は谷川の水を飲んでおり、宋金剛が断ったので士卒は渇き苦しんだ。裴寂が営を水辺に移そうとすると、宋金剛が兵を放って撃ち、裴寂の軍は潰えてほぼ全滅した。裴寂は一日一夜駆けて晋州に至った。
  • これに先立ち、劉武周がしばしば兵を出して西河を攻め、浩州刺史の劉贍が防ぎ、李仲文が兵を率いて合流してともに西河を守っていた。裴寂が敗れて晋州以北の城鎮はすべて陥ちたが、西河だけが残った。
  • 姜宝誼はまた宋金剛に捕らえられ、逃げ帰ろうと謀ったので宋金剛に殺された。裴寂は上表して謝罪し、上は慰め諭して再び河東の鎮撫に当たらせた。
  • 劉武周が進んで并州に迫った。斉王元吉は司馬の劉徳威を欺いて「卿は老弱で城を守れ。私は強兵で出戦する」と言い、辛巳、元吉は夜に兵を出して妻妾を連れ、州を捨てて長安に逃げ帰った。元吉が去るや劉武周の兵は城下に至り、晋陽の土豪の薛深が城ごと劉武周を迎え入れた。
  • 上は聞いて激怒し、礼部尚書の李綱に「元吉は幼く弱くて時務に習熟していないので竇誕と宇文歆を輔けにやったのだ。晋陽は強兵数万、食糧は十年分ある。興王の基を一朝にして捨てた。宇文歆が真っ先にこの策を建てたと聞く。私は斬るべきだ」と言った。
  • 李綱は「王は年少で驕り気ままなのに、竇誕は少しも諫めず、かえって覆い隠し、士民を憤り怨ませました。今日の敗は竇誕の罪です。宇文歆は王を諫めても改まらなかったので、いずれも奏聞しております。忠臣です。どうして殺せましょう」と言った。
  • 翌日、上は李綱を召して御座に上らせ、「私は公を得て濫刑をせずに済んだ。元吉が自ら不善をなしたのであって、二人に禁じられるものではなかった」と言い、竇誕ともども赦した。
  • 衛尉少卿の劉政会は太原にあって劉武周に捕らえられたが、ひそかに人を遣って劉武周の形勢を論じた上表を届けた。
  • 劉武周は太原に拠り、宋金剛に晋州を攻めさせて抜き、右驍衛大将軍の劉弘基を捕らえた。劉弘基は逃げ帰った。宋金剛は進んで絳州に迫り竜門を陥した。
  • 冬十月、劉武周の将の宋金剛が澮州を攻めて陥し、軍勢はきわめて鋭かった。裴寂は臆病で将帥の略がなく、ただ使者を次々に虞州・泰州へ送って民を城堡に収容し、その蓄えを焼かせた。民は驚き騒いで愁え怨み、みな盗になろうと思った。
  • 夏県の民の呂崇茂が衆を集めて魏王と自称し劉武周に呼応した。裴寂が討って敗れた。詔で永安王孝基・工部尚書の独孤懐恩・陝州総管の于筠・内史侍郎の唐倹に兵を率いて討たせた。
  • 当時、王行本はなお蒲坂に拠って落ちず、これも劉武周と呼応しており、関中は震え驚いた。上は手ずから勅を出して「賊の勢いはこうだ。鋒を争いがたい。大河の東を捨て、慎んで関西を守るべきである」と述べた。
  • 秦王世民が上表して「太原は王業の基づく所、国の根本です。河東は豊かで京邑の頼るところ。これを挙げて捨てては、私は憤りに堪えません。どうか精兵三万をお貸しください。必ず武周を平げ、汾・晋を回復してみせます」と言った。上はそこで関中の兵をことごとく発して世民の統率に加え、劉武周を撃たせた。乙卯、華陰に行幸し長春宮に至って送った。
  • 十一月己卯、劉武周が浩州を侵した。
  • 秦王世民が兵を率いて竜門から氷の堅いのに乗じて黄河を渡り、柏壁に駐屯して宋金剛と対峙した。
  • 当時、河東の州県は掠奪の後で倉の蓄えがなく、人心は動揺して城堡に集まり、徴発しても得るものがなく、軍中は食に乏しかった。世民が布告して民を諭すと、民は世民が帥として来たと聞いてみな帰服し、近くから遠くまで日に日に来る者が増え、次第に糧を収めて軍食を満たすことができた。
  • そこで兵を休め馬に飼葉を与え、ただ副将に隙を見て掠めさせるだけで、大軍は壁を固めて戦わなかった。これによって賊の勢いは日に衰えた。
  • 世民はあるとき自ら軽騎を率いて敵情をうかがったが、騎はみな四散し、世民ひとりが甲士一人と丘に登って眠った。まもなく賊兵が四方から包囲したが気づかなかった。折しも蛇が鼠を追って甲士の顔に触れ、甲士が驚いて目覚めて世民に告げ、ともに馬に乗って百余歩駆けたところで賊に追いつかれた。世民は大羽の箭でその驍将を射殺し、賊騎は退いた。
  • 十二月、于筠が永安王孝基に呂崇茂を急攻するよう説いたが、独孤懐恩はまず攻城具を作ってから進むよう請い、孝基は従った。呂崇茂が宋金剛に救いを求め、宋金剛は将の吾陽の尉遅敬徳と尋相に兵を率いさせて突然夏県に至らせた。孝基は内外から敵を受けて大敗し、孝基・独孤懐恩・于筠・唐倹および行軍総管の劉世譲がみな捕らえられた。尉遅敬徳は名を恭といい字で通っていた。
  • 上は裴寂を召して入朝させ、敗軍を責めて吏に下したが、まもなく釈放し、寵遇はますます厚くなった。
  • 尉遅敬徳と尋相が澮州に戻ろうとしたので、秦王世民は兵部尚書の殷開山と総管の秦叔宝らに美良川で迎え撃たせ、大破して二千余級を斬った。
  • まもなく尉遅敬徳と尋相がひそかに精騎を率いて蒲坂の王行本を援けようとした。世民は自ら歩騎二千を率いて間道から夜に安邑へ向かい、迎え撃って大破した。尉遅敬徳と尋相はかろうじて身一つで逃れ、その衆はすべて捕虜となった。世民は柏壁に戻った。
  • 諸将がこぞって宋金剛との交戦を請うと、世民は言った。宋金剛は孤軍で深入りし、精兵猛将がここに集まっている。劉武周は太原に拠り宋金剛を防壁と頼んでいる。宋金剛の軍は蓄えがなく掠奪を資としており、速戦が利である。我らは営を閉じて鋭気を養ってその鋒を挫き、兵を汾・隰に分けてその心腹を突けば、糧が尽き策が窮まって自ら逃げ去る。この機を待つべきで、速戦は宜しくない、と。
  • 孝基が逃げ帰ることを謀り、劉武周に殺された。

武徳三年(620年)

  • 春正月、将軍の秦武通が蒲坂の王行本を攻めた。王行本は出戦して敗れ、門を開いて降った。辛巳、王行本を斬った。
  • 宋金剛が絳州を囲んだ。
  • 二月、劉武周が兵を送って潞州を侵し、長子・壺関を陥した。潞州刺史の郭子武が防ぎきれず、上は将軍の河東の王行敏に助けさせた。王行敏は郭子武と折り合いが悪く、郭子武が叛こうとしていると言う者があったので、王行敏は郭子武を斬ってさらした。乙巳、劉武周が再び兵を送って潞州を侵したが、王行敏が撃破した。
  • 三月乙丑、劉武周が将の張万歳に浩州を侵させたが、李仲文が撃退して数千人を捕らえ斬った。甲申、行軍副総管の張綸が浩州で劉武周を破り、千余人を捕らえ斬った。
  • 劉武周はしばしば浩州を攻めて李仲文に敗れ、宋金剛の軍中は食が尽きた。夏四月丁未、宋金剛が北へ走り、秦王世民が追った。
  • 秦王世民は呂州で尋相に追いついて大破し、勝ちに乗じて追撃し、一昼夜で二百余里を行き、数十合戦って高壁嶺に至った。総管の劉弘基が轡を執って諫め「大王は賊を破って敗走を追ってここまで来られました。功はもう十分です。深入りをやめられぬのは、身を惜しまれぬのですか。しかも士卒は飢え疲れています。ここに塁を構えて留まり、兵と糧がそろってから再び進んでも遅くはありません」と言った。
  • 世民は「宋金剛は策が尽きて逃げ、衆心は離れ沮んでいる。功は成し難く敗れやすく、機は得難く失いやすい。必ずこの勢いに乗じて取る。さらに滞って彼に計を立て備えを整えさせれば、二度と攻められぬ。私は忠を尽くして国に殉ずるのだ。どうして身を顧みよう」と言い、馬に鞭打って進んだ。将士はもう飢えを口にできなかった。
  • 雀鼠谷で宋金剛に追いつき、一日に八度戦ってすべて破り、数万人を捕らえ斬った。夜は雀鼠谷の西原に宿した。世民は二日食べず、三日甲を解いていなかった。軍中に羊が一頭あるだけで、世民は将士と分けて食べた。
  • 丙辰、陝州総管の于筠が宋金剛のもとから逃げてきた。世民は兵を率いて介休に向かった。宋金剛にはなお二万の衆があり、戊午、西門を出て城を背に南北七里に陣した。世民が総管の李世勣らを出して戦わせると少し退いて賊に乗じられたが、世民が精騎を率いて撃ち、その陣の後ろに出た。宋金剛は大敗し、三千級を斬った。
  • 宋金剛は軽騎で逃げ、世民は数十里追って張難堡に至った。浩州行軍総管の樊伯通と張徳政が堡に拠って自守していた。世民が兜を脱いで見せると、堡中は喜んで騒ぎ、また泣いた。左右が王が食事をしていないと告げると、濁酒と挽き割り飯を献じた。
  • 尉遅敬徳が残衆を収めて介休を守っていたので、世民は任城王道宗と宇文士及を送って諭させた。尉遅敬徳は尋相とともに介休および永安を挙げて降った。世民は尉遅敬徳を得て大いに喜び、右一府統軍としてその旧衆八千を率いさせ、諸営と交ぜて配した。屈突通が変を憂えてしきりに諫めたが、世民は聞かなかった。
  • 劉武周は宋金剛の敗を聞いて大いに恐れ、并州を捨てて突厥に走った。宋金剛は残衆を収めて再戦しようとしたが、従う者がなく、これも百余騎で突厥に走った。
  • 世民が晋陽に至ると、劉武周の任じた僕射の楊伏念が城ごと降った。唐倹は府庫を封じて世民を待った。劉武周が得ていた州県はみな唐に入った。
  • まもなく宋金剛は上谷へ逃げようと謀ったが、突厥が追捕して腰斬にした。
  • 嵐州総管の劉六児は宋金剛に従って介休にいたが、秦王世民が捕らえて斬った。その兄の劉季真は石州を捨てて劉武周の将の馬邑の高満政のもとへ走り、高満政が殺した。
  • 劉武周が南侵したとき、内史令の苑君璋が諫めた。唐主は一州の衆を挙げてまっすぐ長安を取り、向かうところ敵なし。これは天授であって人力ではありません。晋陽以南は道が険しく狭く、孤軍で深入りしても後続がありません。もし進んで戦って不利になれば、どうして帰れましょう。北は突厥と連ね南は唐朝と結び、南面して孤と称するのが長策です、と。
  • 劉武周は聞かず、苑君璋を残して朔州を守らせた。敗れてから泣いて苑君璋に「君の言を用いなかったからここに至った」と言った。久しくして劉武周は馬邑に逃げ帰ることを謀ったが、露見して突厥に殺された。
  • 上は并州平定を聞いて大いに喜び、壬戌、群臣に宴して繒帛を賜り、自ら御府に入って力の限り取らせた。唐倹の官爵を復し、なお并州道安撫大使とし、没収した独孤懐恩の田宅と資財をすべて与えた。
  • 世民は李仲文を残して并州を鎮めさせた。劉武周がしばしば兵を送って侵入したが、李仲文はそのたび撃破し、城堡百余か所を落とした。詔で李仲文を検校并州総管とした。