通鑑紀事本末突厥、隋に朝貢する(突厥朝隋)
柔然の鍛冶奴であった阿史那氏が土門・木杆の代に塞外を制して大国となり、北周・北斉の争いに乗じて厚い賄賂を得たのち、隋の建国を機に敵対し、長孫晟の遠交近攻・離間の策によって沙鉢略・阿波・達頭・都藍が分裂抗争し、ついに啓民可汗が隋に臣属して煬帝の北巡を迎えるに至るまでの67年間。
年表(27件)
- 梁武帝
- 大同十一年春二月545年西魏の宇文泰が安諾槃陀を送り、初めて突厥と通交する
- 簡文帝
- 大宝二年夏六月551年土門が柔然に婚を拒まれて断交し、西魏の長楽公主を娶る
- 元帝
- 承聖元年春正月552年土門が伊利可汗と自称し、可賀敦・特勒・設の号を定める
- 承聖二年553年伊利が没し、弟の俟斤が立って木杆可汗となる
- 敬帝
- 紹泰元年冬十二月555年木杆が嚈噠・契丹・契骨を破り、東西一万里を威服させる
- 陳文帝
- 天嘉四年563年木杆が三可汗十万騎で北周軍と晋陽で合流する
- 天嘉五年564年塞を出て晋陽から七百里を掠め、さらに北斉の幽州を侵す
- 天嘉六年565年北周が陳公純らを牙帳に送って娘を迎え、突厥は北斉とも通交する
- 臨海王
- 光大二年568年雷雨を天譴と恐れた木杆が娘を北周に送り、周主が親迎する
- 宣帝
- 太建四年572年木杆が没して佗鉢が立ち、北周・北斉の厚賂に驕る
- 太建十一年579年佗鉢が北周に和を請い、趙王招の娘を千金公主として娶る
- 太建十三年冬十二月581年摂図が沙鉢略可汗となり、隋を恨んで侵寇し、長孫晟が離間策を献ずる
- 太建十四年582年五可汗四十万が長城に入り、達奚長儒が二千で十四度戦う
- 長城公至徳元年583年白道で沙鉢略が大敗し、長孫晟の説得で阿波が離反して国が割れる
- 至徳二年584年沙鉢略が和親を請い、千金公主が大義公主と改封され、臣と称する
- 至徳三年585年沙鉢略が漠を渡って白道川に寄居し、上表して永く藩屏となる
- 禎明元年夏四月587年沙鉢略が没し、莫何が立って阿波を生け捕るが、隋は殺さず存続させる
- 禎明二年冬十二月588年莫何が流れ矢に当たって没し、雍虞閭が都藍可汗となる
- 隋文帝
- 開皇十三年593年楊欽の偽言と大義公主の私通が露見し、突利の讒言で公主が殺される
- 開皇十七年秋597年突利が安義公主を娶って南に移り、都藍が怒って朝貢を絶つ
- 開皇十九年599年突利が都藍と達頭に大敗して入朝し、啓民可汗として大利城に居る
- 開皇二十年600年長孫晟が水に毒を投じ、史万歳が大斤山で達頭を大破する
- 仁寿二年春三月602年楊素が思力俟斤を追撃して人畜を奪い返し、漠南の侵寇が絶える
- 仁寿三年秋九月603年鉄勒ら十余部が叛いて歩迦の衆が潰え、啓民がこれを併せる
- 煬帝
- 大業三年607年啓民が入朝して衣冠を請い、煬帝の北巡に御道を開いて迎える
- 大業五年609年啓民が没し、子の咄吉が立って始畢可汗となる
- 大業八年春二月612年段文振が突厥を塞外に出すべしと上表し、まもなく没する
梁武帝大同十一年(545年)春二月
- 西魏の丞相宇文泰が酒泉の胡人の安諾槃陀を派遣し、初めて突厥と通交した。突厥はもと西方の小国で、姓は阿史那氏、代々金山の南に住み、柔然の鍛冶奴であった。酋長の土門の代に強大となり、しきりに西魏の西辺を侵した。安諾槃陀が至ると、突厥の人々は「大国の使者が我が国に来た。我が国は興るだろう」と喜んだ。
簡文帝大宝二年(551年)夏六月
- 土門は強盛を恃んで柔然に婚を求めた。柔然の頭兵可汗は激怒し、使者に「お前は我が鍛冶奴だ。よくもそんなことが言えたものだ」と罵らせた。土門も怒って使者を殺し、柔然と断交して西魏に婚を求めた。丞相宇文泰は長楽公主を娶らせた。
元帝承聖元年(552年)春正月
- 突厥の土門が伊利可汗と自称し、妻を可賀敦、子弟を特勒、別に兵を率いる者を設と称した。
承聖二年(553年)
- 春二月、伊利可汗が没し、子の科羅が立って乙息記可汗と号した。三月、使者を送って馬五万頭を西魏に献じた。乙息記が没すると、自分の子の摂図を措いて弟の俟斤を立てた。これが木杆可汗である。木杆は容貌が奇異で、剛勇かつ知略に富み用兵に巧みだったので、隣国から畏れられた。
- 冬十一月癸亥、北斉主が晋陽から自ら突厥を朔州に追撃した。突厥が降伏を請うたので許して帰り、以後、貢献が続いた。
敬帝紹泰元年(555年)冬十二月
- 木杆は西に嚈噠を破り、東に契丹を追い払い、北は契骨を併せて塞外諸国を威服させた。その領域は東は遼海から西は西海まで一万里、南は沙漠から北へ五、六千里に及んだ。
太平元年(556年)
- 突厥の木杆可汗が吐谷渾を襲撃した。西魏の太師宇文泰は涼州刺史の史寧に騎兵を率いて同行させた。吐谷渾は南山に逃げ、史寧は木杆に樹敦・賀真の二城を攻めて根本を抜くよう説き、木杆は従った。木杆は賀真を破って吐谷渾の可汗夸呂を捕らえ、史寧は樹敦を破ってその征南王を捕らえ、帰路、青海で木杆と合流した。
陳文帝天嘉四年(563年)
- 当初、北周は突厥の木杆と連合して北斉を伐つことにし、木杆の娘を后に迎えると約して御伯大夫の楊荐らを送って結んだ。北斉も使者を送って婚を求めたので、木杆は楊荐らを捕らえて北斉に送ろうとした。楊荐がこれを知って責めると、木杆は共に東の敵を平定してから娘を送ると約した。
- 冬十二月、突厥の木杆・地頭・歩離の三可汗が十万騎で北周軍と晋陽で合流した。
天嘉五年(564年)
- 春正月、突厥が兵を率いて塞を出、大掠奪を働き、晋陽から七百里にわたって人畜を残さなかった。
- 秋九月、突厥が北斉の幽州を侵し、十余万の兵で長城に入って大いに掠奪して帰った。突厥は幽州から戻って塞北に留まり、閏月にまた北斉の幽州を侵した。
天嘉六年(565年)
- 春二月辛丑、北周が陳公純・許公貴・神武公竇毅・南陽公楊荐らを派遣し、皇后の儀衛と行殿および六宮百二十人を備えて突厥の可汗の牙帳に赴き、娘を迎えさせた。
- 夏五月、突厥が使者を北斉に送り、初めて北斉と通交した。
臨海王光大二年(568年)
- 春二月、突厥の木杆可汗は北周に二心を抱き、改めて北斉に婚を許し、陳公純らを数年にわたって帰さなかった。折しも大雷雨と風があってその穹廬を壊し、十日たっても止まなかった。木杆は天譴と恐れ、礼を整えて娘を北周に送った。
- 三月癸卯、長安に至り、北周主が親迎の礼を行った。
宣帝太建四年(572年)
- 突厥の木杆可汗が没した。またも自分の子の大邏便を措いて弟を立て、これが佗鉢可汗である。佗鉢は摂図を爾伏可汗として東面を統べさせ、弟の褥但可汗の子を歩離可汗として西面に置いた。
- 北周は佗鉢と和親し、毎年、絹布や錦綵十万段を贈った。長安にいる突厥人で錦を着て肉を食う者は常に千を数えた。北斉もその侵寇を恐れて競って厚く賄賂した。佗鉢はますます驕り、部下に「南に二人の子がいて常に孝行してくれる。貧しさを憂える必要はない」と言った。
太建五年(573年)
- 突厥が北斉に婚を求めた。
太建九年(577年)
- 北周軍が晋陽を陥したとき、北斉は開府儀同三司の紇奚永安を突厥に救援要請に送ったが、到着したときには北斉はすでに滅んでいた。
太建十年(578年)
- 夏四月庚申、突厥が北周の幽州を侵し、官民を殺掠した。五月己丑、北周の高祖(武帝)が諸軍を率いて突厥を伐とうとし、柱国の原公姫願、東平公神挙らに五道から進入させたが、帝が発病して諸軍を停止する詔を下し、六月に崩じた。
- 冬十一月、突厥が北周の辺境を侵し、酒泉を囲んで官民を殺掠した。
太建十一年(579年)
- 春二月、突厥の佗鉢可汗が北周に和を請い、北周主は趙王招の娘を千金公主として娶らせた。
- 突厥が北周の并州を侵した。六月、北周は山東の民を動員して長城を修築した。
太建十二年(580年)
- 春二月戊午、突厥が北周に入貢し、あわせて千金公主を迎えた。
- 夏六月、北周は汝南公神慶と司衛上士の長孫晟に千金公主を突厥に送らせた。
太建十三年(581年)冬十二月
- 突厥の佗鉢可汗が病んで死に臨み、子の菴邏に「わが兄は自分の子を立てず私に位を委ねた。私が死んだらお前は大邏便に譲れ」と言った。
- 没すると国人は大邏便を立てようとしたが、その母が卑賤だったので衆は服さなかった。菴邏は母方が貴く、突厥は日ごろこれを重んじていた。摂図は最後に到着し、国人に「菴邏を立てるなら私は兄弟を率いて仕えるが、大邏便を立てるなら国境を守って利刃と長矛で待ち受ける」と言った。摂図は年長で雄勇だったので国人は逆らえず、ついに菴邏が嗣となった。
- 大邏便は立てなかったので菴邏に服さず、しばしば人を遣って罵らせた。菴邏は抑えきれず、国を摂図に譲った。国中で協議し「四可汗の子の中で摂図が最も賢い」として迎えて立て、沙鉢略可汗と号し、都斤山に居した。菴邏は身を退いて独洛水に居して第二可汗と称した。
- 大邏便は沙鉢略に「私も君もともに可汗の子で、それぞれ父の後を継いだ。君は今きわめて尊い地位にあるのに、私だけ位がないのはなぜか」と言った。沙鉢略は困って阿波可汗として旧部を統べさせた。また沙鉢略の従父の玷厥は西面にあって達頭可汗と号した。諸可汗はそれぞれ部衆を率いて四面に分居した。沙鉢略は勇で人望があり、北方はみな畏れて従った。
- 隋主(文帝)が即位すると突厥への待遇が薄くなり、突厥は大いに恨んだ。千金公主は北周の宗祀が滅んだことを痛み、日夜、沙鉢略に周室の仇を報じるよう訴えた。沙鉢略は臣下に「私は周の親戚である。今、隋公が自ら立ったのを制止できずして、どの面下げて可賀敦に会えようか」と言い、旧北斉の営州刺史の高宝寧と兵を合わせて侵寇した。
- 隋主は憂え、沿辺に砦を修めて長城を高くするよう勅し、上柱国の武威の陰寿を幽州に、京兆尹の虞慶則を并州に鎮させ、数万の兵を屯して備えた。
- 先に奉車都尉の長孫晟が千金公主を突厥に送ったとき、可汗はその弓の巧みさを愛して留め置き、丸一年、諸子弟や貴人に交わらせて射法を学ばせようとした。沙鉢略の弟の処羅侯は突利設と号し、とくに人望を得ていたので沙鉢略に忌まれ、心腹をひそかに託して長孫晟と盟を結んだ。長孫晟は彼らと遊猟しながら山川の形勢と部衆の強弱をことごとく把握した。
- 突厥が侵入すると、長孫晟は上書して説いた。今、中国は安定したが戎虜はなお梗塞している。兵を起こして討つのはまだ時ではないが、放置すればまた侵し合う。ひそかに策を運らし、徐々に排除すべきである。玷厥は摂図に対して兵は強いが位は下、外は従属の名目でも内心の隙はすでに明らかで、その感情を煽れば必ず自ら争う。処羅侯は摂図の弟で、姦計が多く勢力は弱いが人心を巧みに取り、国人に愛されるため摂図に忌まれ、心中はきわめて不安で、表向きは繕っていても実は疑い恐れている。また阿波は日和見で両者の間にあり、摂図を恐れて牽引され、ただ強い方に付くだけで定まった心がない。今は遠交近攻、強を離して弱を合わせるべきで、玷厥に使者を通じて阿波と結ばせれば、摂図は兵を返して西方を自衛する。処羅侯を引き込み奚・霫と連ねさせれば、摂図は兵を分けて東方を守る。首尾で猜疑し合い、腹心が離れ合えば、十数年後に隙に乗じて討ち、一挙にその国を空にできる、と。
- 帝は上表を読んで大いに喜び、召して語らせた。長孫晟はさらに口頭で形勢を述べ、手で山川を描いて虚実を示し、すべて手のひらを指すようであった。帝は深く感嘆し、その策をすべて採用した。
- 太僕の元暉を伊吾道から達頭のもとに遣わし、狼頭の纛(軍旗)を賜った。達頭の使者が来ると沙鉢略の使者より上席に置いた。長孫晟を車騎将軍として黄竜道から出し、幣を持たせて奚・霫・契丹に賜い、嚮導とさせて処羅侯のもとに至らせ、深く心腹を通じて隋への内附を誘った。こうして反間の計が行われ、はたして互いに疑い合うようになった。
太建十四年(582年)
- 夏四月庚寅、隋の大将軍韓僧寿が鶏頭山で突厥を破り、上柱国の李充が河北山で突厥を破った。
- 五月己未、高宝寧が突厥を引き入れて隋の平州を侵した。突厥は五可汗の弓兵四十万をことごとく動員して長城に入った。
- 六月乙酉、隋の上柱国の李光が馬邑で突厥を破った。突厥はまた蘭州を侵し、涼州総管の賀婁子幹が可洛峐で破った。
- 冬十月癸酉、隋の太子勇が咸陽に駐屯して突厥に備えた。
- 十二月乙酉、隋が沁源公の虞慶則を弘化に駐屯させて備えた。行軍総管の達奚長儒が二千の兵で沙鉢略可汗と周槃で遭遇した。沙鉢略の軍は十余万で、隋軍中は大いに恐れた。達奚長儒は昂然として、戦いながら進み、敵に突き崩されては再び集まり、四方を防いで三日にわたり昼夜十四度戦った。五種の武器はすべて尽き、士卒は拳で殴りかかって手の骨が露出した。殺傷は万を数え、敵の気勢がやや衰えたところで敵は退いた。達奚長儒は五か所の傷を負い、うち二つは貫通していた。戦士の死傷は十中八、九に及んだ。詔で達奚長儒を上柱国とし、余った勲功は子の一人に授けた。
- 当時、柱国の馮昱は乙弗泊に、蘭州総管の叱列長乂は臨洮を、上柱国の李崇は幽州に駐屯していたが、みな突厥に敗れた。突厥は兵を放って木硤・石門の二道から侵入し、武威・天水・安定・金城・上郡・弘化の家畜はことごとく奪われた。
- 沙鉢略はさらに南下しようとしたが、達頭が従わず兵を引いて去った。長孫晟はまた沙鉢略の子の染干を説き、「鉄勒らが叛いて牙帳を襲おうとしている」と偽って告げさせた。沙鉢略は恐れて兵を返し、塞外に出た。
長城公至徳元年(583年)
- 春二月、突厥が隋の北辺を侵した。
- 夏四月、突厥がしばしば隋を侵したので、隋主が詔を下した。かつて北周と北斉が対抗して中国を分割していたころ、突厥は両国と通交した。北周は東を憂えて北斉との関係が深まるのを恐れ、北斉は西を憂えて北周との交わりが厚いのを恐れ、突厥の意向の傾きが国の安危を決めると考えた。これは強大な敵を抱えて一方の防備を減らそうとしたためである。朕は思うに、民から重く取り立てて豺狼に恵んでも、恩を感じることはなく、資を与えて賊とするだけである。礼をもって節すれば無駄な出費にはならず、徭役を省き賦税を薄くすれば国用に余りが出る。賊から得た物を将士に加賜し、道路の民を休ませて耕織に努めさせる。辺境を清め勝ちを制する策はすでに心中にある。凶悪愚昧な連中はその深意を知らず、天下統一の日を戦国の時になぞらえ、昔の驕りに乗じて今の恨みを結び、近ごろは巣窟を挙げて北辺を犯した。これは上天が怒って斧鉞のもとへ駆り立てたのである。諸将は今回、義とともに包容の心を持て。降る者は受け入れ、逆らう者は死なせ、二度と南を望ませず永く威刑に服させよ。人質の子を朝廷に出させたり渭橋で拝させたりする(漢代の)故事を用いる必要はない、と。
- そこで衛王爽らを行軍元帥として八道に分けて塞を出て撃たせた。爽は総管の李充ら四将を率いて朔州道から出、己卯、白道で沙鉢略可汗と遭遇した。李充は爽に「突厥は連勝に慣れて必ず我を軽んじて備えがない。精兵で襲えば破れる」と言った。諸将の多くは疑ったが、長史の李徹だけが賛成した。そこで李充と精騎五千で急襲し、突厥を大破した。沙鉢略は金の甲を捨てて草に隠れて逃げた。その軍中には食糧がなく、骨を粉にして食糧とし、加えて疫病で死者が多かった。
- 甲午、突厥が使者を送って隋に入見した。
- 五月癸卯、隋の行軍総管の李晃が摩那度口で突厥を破った。
- 隋の秦州総管の竇栄定が九総管・歩騎三万を率いて涼州から出、突厥の阿波可汗と高越原で対峙した。阿波はしばしば敗れた。竇栄定は竇熾の兄の子である。前上大将軍の京兆の史万歳は罪に連坐して敦煌の守備兵に落とされていたが、竇栄定の軍門に来て働きを願い出た。竇栄定は日ごろその名を聞いていたので大いに喜んだ。
- 壬戌、戦おうとするとき竇栄定は突厥に「士卒に何の罪があって殺し合うのか。互いに勇士を一人ずつ出して勝負を決めよう」と伝えた。突厥は承諾して一騎を出して挑ませ、竇栄定は史万歳を出した。史万歳は馬を駆って敵の首を斬って戻り、突厥は大いに驚いて再び戦おうとせず、盟を請うて兵を引いた。
- 長孫晟はこのとき竇栄定の軍中で偏将を務め、阿波に使者を送って説いた。摂図は戦うたび大勝するのに、阿波は入るなり敗走した。これは突厥の恥である。しかも摂図と阿波の兵勢はもともと互角なのに、今、摂図は連勝して衆に崇められ、阿波は不利で国に恥をもたらした。摂図は必ず罪を阿波に帰し、かねての計画どおり北牙を滅ぼすだろう。自ら量ってみて、これを防げるか、と。
- 阿波の使者が来ると、長孫晟はさらに「今、達頭は隋と和を結び、摂図は制止できない。可汗はなぜ天子に依り、達頭と連合して強くならないのか。これこそ万全の策である。兵を失い罪を負って摂図のもとに戻り、辱めを受けるのとどちらがましか」と説いた。阿波は納得し、使者を長孫晟に随行させて入朝させた。
- 沙鉢略は日ごろから阿波の驍悍を忌んでおり、白道で敗れて帰った上に阿波が隋に通じたと聞き、先手を打って北牙を襲撃して大破し、阿波の母を殺した。阿波は帰る所を失い、西の達頭のもとへ走った。達頭は激怒して阿波に兵を率いて東進させた。阿波に帰属する部落は十万騎近くになり、沙鉢略と攻め合ってしばしば破り、旧地を回復して兵勢はますます強くなった。
- 貪汗可汗は日ごろ阿波と親しかったので、沙鉢略はその衆を奪って廃した。貪汗は達頭のもとへ逃れた。沙鉢略の従弟の地勤察は別に部落を統べていたが、沙鉢略と隙があり、衆を率いて叛いて阿波に帰した。連戦がやまず、双方とも使者を長安に送って和を請い援助を求めたが、隋主はいずれも許さなかった。
- 六月、突厥が幽州を侵した。隋の幽州総管の広宗壮公の李崇が歩騎三千で防ぎ、十余日転戦したが兵の死者が多く、砂城に拠った。突厥が包囲したが、城は荒れ果てて守れず、朝夕に力戦しても食糧がなかった。毎夜出撃して敵陣を襲い家畜を奪って軍糧としたので、突厥は恐れて厳重に備え、毎夜、陣を組んで待ち構えた。李崇の軍は飢えに苦しみ、出撃すれば敵に遭ってほぼ全滅し、明け方に城へ戻れた者は百人ほど、しかも重傷者が多く再戦に堪えなかった。
- 突厥は降伏させようとして「降れば特勒に封じる」と伝えた。李崇は免れぬと悟り、士卒に「私は軍を失い罪は万死に値する。今日、命を捧げて国家に謝する。私が死んだらお前たちは賊に降り、そのうえで散って逃げ、努めて故郷に帰れ。至尊に会うことがあれば、私のこの意を伝えてくれ」と言い、刃を抜いて敵陣に突入して二人を殺し、突厥の乱射を受けて死んだ。
- 秋七月辛丑、豫州刺史の代の人の周揺を幽州総管とし、李崇の子の李敏に爵を継がせた。
- 秋八月壬午、隋は尚書左僕射の高熲を寧州道から、内史監の虞慶則を原州道から出して突厥を撃たせた。
至徳二年(584年)
- 春二月、突厥の蘇尼部の男女一万余口が隋に降った。突厥の達頭可汗が隋に降伏を請うた。
- 秋九月、突厥の沙鉢略可汗はしばしば隋に敗れたので和親を請い、千金公主は自ら姓を楊氏に改めて隋主の娘となることを願い出た。隋主は開府儀同三司の徐平和を沙鉢略に遣わし、千金公主を改めて大義公主に封じた。晋王広は隙に乗じるよう請うたが、隋主は許さなかった。
- 沙鉢略が使者を送って書を届けた。天より生まれた大突厥の天下賢聖天子・伊利倶盧設莫何沙鉢略可汗が大隋皇帝に書を致す。皇帝は妻の父であり、すなわち翁である。これに対し私は娘の夫であり、すなわち子の列にある。両国の領域は異なっても情義は一つである。今より子々孫々、万世に至るまで親好を絶やさない。上天を証とし、決して違背しない。この国の羊馬はみな皇帝の家畜であり、そちらの絹綵はみなこの国の物である、と。
- 隋主の返書。大隋天子が大突厥沙鉢略可汗に書を贈る。書を得て大いなる善意を知った。すでに沙鉢略の妻の父である以上、今日より沙鉢略を実の子と変わらぬものと見る。折を見て大臣を遣わし、娘を見舞い、あわせて沙鉢略を見舞わせよう、と。
- そこで尚書右僕射の虞慶則を使者とし、車騎将軍の長孫晟を副えて派遣した。沙鉢略は兵を並べて珍宝を陳列し、座ったまま虞慶則に会い、病と称して立たず、「私は叔父の代から人に拝したことがない」と言った。虞慶則が責めて諭すと、千金公主はひそかに虞慶則に「可汗は豺狼の性です。度を越して争えば噛みつきますよ」と言った。
- 長孫晟は沙鉢略に「突厥と隋はともに大国です。天子は可汗が立たなくても、どうしてその意に逆らえましょう。しかし可賀敦が帝の娘である以上、可汗は大隋の娘婿です。なぜ妻の父を敬わないのですか」と言った。沙鉢略は笑って重臣に「妻の父には拝さねばならぬそうだ」と言い、立って拝し頭を地につけ、跪いて璽書を受け頭上に戴いた。だがその後ひどく恥じ、群下と集まって慟哭した。
- 虞慶則がさらに臣と称するよう求めると、沙鉢略は左右に「臣とは何だ」と問うた。左右は「隋で臣というのは、こちらでいう奴のことです」と答えた。沙鉢略は「大隋天子の奴になれるのは虞僕射のおかげだ」と言い、虞慶則に馬千匹を贈り、従妹を娶らせた。
至徳三年(585年)
- はじめ突厥の阿波可汗は沙鉢略と隙が生じて分裂し、阿波は次第に強大となった。東は都斤に及び西は金山を越え、亀茲・鉄勒・伊吾および西域の諸胡がみな従い、西突厥と号した。隋主も上大将軍の元契を阿波に遣わして慰撫した。
- 秋七月、沙鉢略は達頭に苦しめられ、さらに契丹を恐れて隋に急を告げ、部落を率いて漠を渡り、白道川に寄居することを請うた。隋主は許し、晋王広に兵で援護させ、衣食を給し、車服・鼓吹を賜った。
- 沙鉢略は西に阿波を撃って破ったが、阿抜国が隙に乗じてその妻子を奪った。隋の官軍が阿抜を撃って破り、獲得したものをすべて沙鉢略に与えた。沙鉢略は大いに喜び、砂漠を境とする約を立てた。
- そして上表した。天に二日なく地に二王なし。大隋皇帝こそ真の皇帝である。どうして兵に阻まれ険に頼り、みだりに称号を盗めようか。今、淳厚な風に感じ慕い、有道の君に心を寄せ、膝を屈し頭を地につけて永く藩屏となる、と。子の庫合真を入朝させた。
- 八月丙戌、庫合真が長安に着いた。隋主は詔して「沙鉢略は以前も和していたが、まだ二国だった。今は君臣となり一体である」と述べ、郊廟に厳かに告げ、遠近に布告した。沙鉢略への詔には名を記さぬこととし、庫合真を内殿で宴し皇后に引見させ、賞賜はきわめて厚かった。沙鉢略は大いに喜び、以後、年ごとの貢献が絶えなかった。
至徳四年(586年)春正月
- 庚午、隋が突厥に暦を頒布した。
禎明元年(587年)夏四月
- 突厥の沙鉢略可汗が子を送って隋に入貢し、あわせて恒州・代州の間で狩猟したいと請うた。隋主は許し、人を遣って酒食を賜った。沙鉢略は部落を率いて再拝して受けた。
- まもなく沙鉢略が没した。隋は三日間朝を廃し、太常を遣わして弔祭した。
- 沙鉢略は子の雍虞閭が懦弱なので、弟の葉護処羅侯を立てよと遺言した。雍虞閭が使者を送って処羅侯を迎え立てようとすると、処羅侯は「わが突厥は木杆可汗以来、弟が兄に代わり庶子が嫡子を奪うことが多く、先祖の法を失って互いに敬い畏れなくなった。お前が位を継げ。私はお前に拝することを憚らぬ」と言った。雍虞閭は「叔父上は私の父と根を同じくする体、私は枝葉です。どうして根本が枝葉に従い、叔父が年少者に屈することができましょう。まして亡父の命をどうして廃せましょう。どうかご懸念なく」と答え、五、六度も譲り合った末、処羅侯が立って莫何可汗となり、雍虞閭を葉護とした。使者を送って上表し事情を伝えると、隋は車騎将軍の長孫晟に節を持たせて拝させ、鼓吹と幡旗を賜った。
- 莫何は勇にして謀があり、隋から賜った旗鼓を掲げて西に阿波を撃った。阿波の衆は隋の兵が助けていると思って多くが風を望んで降り、ついに阿波を生け捕った。莫何は上書してその生殺を仰いだ。
- 隋主が議に付すと、楽安公の元諧は現地で梟首すべきと言い、武陽公の李充は生きたまま入朝させ公開処刑して百姓に示すべきと言った。隋主が長孫晟に意見を問うと、「突厥が背いたのであれば刑をもって正すべきですが、今は兄弟が自ら滅ぼし合ったのであり、阿波の悪は国家に背いたものではありません。その困窮に乗じて誅すのは遠人を招く道ではないでしょう。両者を存続させるに越したことはありません」と答えた。左僕射の高熲も「骨肉の相殺は教化の害である。生かして寛大を示すべきです」と言い、隋主は従った。
禎明二年(588年)冬十二月
- 突厥の莫何可汗が西の隣国を攻めて流れ矢に当たって没した。国人は雍虞閭を立て、頡伽施多那都藍可汗と号した。
隋文帝開皇十三年(593年)
- 帝が陳を滅ぼしたとき、陳叔宝の屏風を突厥の大義公主に賜った。公主は宗国滅亡に心が平らかでなく、屏風に詩を書いて陳の滅亡を叙し、自らの思いを託した。帝はこれを聞いて憎み、礼遇と賜与は次第に薄くなった。
- 彭公の劉昶はもと北周の公主を娶っていたが、流人の楊欽が突厥に逃げ込み、「劉昶がその妻とともに乱を起こして隋を攻めようとしており、私を遣わして大義公主にひそかに告げ、兵を出して辺境を騒がせるよう請わせた」と偽って言った。都藍可汗はこれを信じ、朝貢を怠って辺境の患いとなった。
- 帝は車騎将軍の長孫晟を突厥に遣わしてひそかに観察させた。公主は長孫晟に会って言葉が不遜で、また私通する胡人の安遂迦を楊欽と謀議させ、都藍を煽動していた。長孫晟は帰京して事情をすべて報告した。
- 帝は長孫晟を遣わして楊欽の引き渡しを求めたが、都藍は「調べたが、客人にそのような者はいない」と拒んだ。長孫晟はその重臣に賄賂して楊欽の居所を知り、夜襲して捕らえ、都藍に示し、あわせて公主の私通の件を暴いた。国人は大いに恥とし、都藍は安遂迦らを捕らえてともに長孫晟に引き渡した。帝は大いに喜んで開府儀同三司を加授し、なお突厥に赴かせて公主を廃させた。
- 内史侍郎の裴矩は、都藍を説いて公主を殺させるよう請うた。当時、処羅侯の子の染干は突利可汗と号して北方にあり、使者を送って婚を求めていた。帝は裴矩に「大義公主を殺せば婚を許す」と伝えさせた。突利がさらに都藍に讒言し、都藍は怒って公主を殺し、改めて上表して婚を請うた。
- 朝議は許そうとしたが、長孫晟が言った。雍虞閭は反覆して信がなく、ただ玷厥と隙があるゆえに国家に頼ろうとしているだけです。婚を結んでも結局は叛き去ります。今、公主を娶って我が威霊を借りれば、玷厥や染干は必ずその徴発を受けることになり、強くなってまた叛けば、後に図りがたくなります。染干は処羅侯の子で、二代にわたり誠意を示してきました。以前から婚を請うており、許して南に移らせるに越したことはありません。兵が少なく力が弱いので馴致しやすく、雍虞閭に対抗させて辺境の守りとできます、と。帝は「よし」と言い、再び長孫晟を遣わして染干を慰諭し、公主を娶ることを許した。
開皇十七年(597年)秋
- 戊戌、突厥の突利可汗が娘を迎えに来た。帝は太常に住まわせて六礼を教習させ、宗女の安義公主を娶らせた。帝は都藍を離間する意図から特に礼を厚くし、太常卿の牛弘、納言の蘇威、民部尚書の斛律孝卿を相次いで使者とした。
- 突利はもと北方にいたが、公主を娶ってから長孫晟が説いて衆を率いて南に移らせ、度斤の旧鎮に居させた。賜与も優厚だった。都藍は怒って「私は大可汗なのに、かえって染干に及ばぬのか」と言い、朝貢を絶ち、しきりに辺境を掠奪した。突利は動静を探知して逐一奏聞したので、辺境は常に事前に備えることができた。
開皇十九年(599年)
- 春二月、突厥の突利可汗が長孫晟を通じて、都藍可汗が攻城具を作って大同城を攻めようとしていると奏した。詔で漢王諒を元帥とし、尚書左僕射の高熲は朔州道、右僕射の楊素は霊州道、上柱国の燕栄は幽州道から出て都藍を撃たせ、みな漢王の節度を受けさせた。ただし漢王は結局、戦地に臨まなかった。
- 都藍はこれを聞いて達頭可汗と盟を結び、兵を合わせて突利を急襲した。長城の下で大戦となり突利は大敗、都藍はその兄弟子姪をことごとく殺し、河を渡って蔚州に入った。
- 突利の部落は散り散りになり、夜に長孫晟とともに五騎で南に走った。夜明けまでに百余里を行き、数百騎を収めた。突利は部下と謀って「今、敗兵として入朝しても一介の降人にすぎぬ。大隋の天子が私を礼遇するだろうか。玷厥は攻めてきたとはいえもともと恨みはない。身を寄せれば必ず助けてくれよう」と言った。
- 長孫晟はこれを知り、ひそかに使者を伏遠鎮に送って急ぎ烽火を挙げさせた。突利が四つの烽火が上がったのを見て問うと、長孫晟は偽って「城は高く地は遠く見渡せるので、賊の来襲は遠くから見えるのです。我が国の法では、賊が少なければ烽火二つ、多ければ三つ、非常に迫れば四つを挙げます。賊が多く、しかも近いということです」と答えた。突利は大いに恐れ、部下に「追兵が迫っている。ひとまず城に入ろう」と言った。鎮に入ると長孫晟はその重臣の執室に衆を統べさせ、自ら突利を伴って駅伝で入朝した。
- 夏四月丁酉、突利が長安に着いた。帝は大いに喜び、長孫晟を左勲衛驃騎将軍・持節護突厥とした。帝は突利と都藍の使者の因頭特勒を対決させ、突利の言い分が正しかったので厚遇した。
- 都藍の弟の都速六が妻子を捨てて突利とともに帰順し、帝は嘉して突利に珍宝を多く贈らせてその心を慰めさせた。
- 高熲は上柱国の趙仲卿に三千の兵で先鋒を務めさせ、族蠡山で突厥と遭遇して七日間交戦し大破した。乞伏泊まで追撃してまた破り、千余口と家畜万を捕獲した。突厥が再び大挙して来ると、趙仲卿は方陣を組んで四面から防戦すること五日、高熲の大軍が到着して挟撃し、突厥は敗走した。白道を越えて追い、秦山を越えて七百余里で帰還した。
- 楊素の軍は達頭と遭遇した。これに先立ち、諸将は突厥と戦うとき騎兵の突撃を警戒し、戦車と歩騎を交えて鹿角を設けた方陣を組み、騎兵はその内に置いていた。楊素は「これは自衛の法であって、勝ちを取るには足りぬ」と言い、旧法をすべて廃して諸軍に騎兵の陣を組ませた。達頭はこれを聞いて大いに喜び、「天の賜物だ」と馬を下りて天を仰いで拝し、騎兵十余万を率いてまっすぐ迫った。上儀同三司の周羅睺が「賊の陣はまだ整っていません。撃つべきです」と言って精騎を率いて迎え撃ち、楊素が大軍で続いた。突厥は大敗し、達頭は重傷を負って逃げ、殺傷は数え切れなかった。その衆は号哭しながら去った。
- 冬十月甲午、突厥の突利可汗を意利珍豆啓民可汗とした。「意智健」の意である。突厥から啓民に帰した者は男女一万余口。帝は長孫晟に五万人を率いさせ、朔州に大利城を築いてそこに住まわせた。安義公主はすでに没していたので、再び長孫晟に節を持たせ、宗女の義成公主を送って娶らせた。
- 長孫晟は、染干の部落に帰する者がますます増えたが、長城の内にいても雍虞閭に掠奪されて安住できないと奏し、五原に移して黄河を要害とし、夏・勝二州の間、東西は黄河まで、南北四百里にわたって横堀を掘り、その内に住まわせて自由に牧畜させるよう請うた。帝は従った。
- また上柱国の趙仲卿に二万の兵を駐屯させて啓民のために達頭に備えさせ、代州総管の韓洪らに歩騎一万で恒安を鎮させた。達頭が十万騎で侵入して韓洪の軍は大敗したが、趙仲卿が楽寧鎮から迎撃して首級と捕虜千余を得た。
- 帝は越公の楊素を霊州から、行軍総管の韓僧寿を慶州から、太平公の史万歳を燕州から、大将軍の武威の姚辯を河州から出して都藍を撃たせた。軍が塞を出ぬうちの十二月乙未、都藍が部下に殺され、達頭が自立して歩迦可汗となり、その国は大いに乱れた。
- 長孫晟は「今、官軍が国境に臨んで戦えばしばしば功があり、敵は内部で離反して主が殺されました。この機に招撫すればことごとく降せます。染干の部下を分けて各道から招慰させてください」と奏し、帝は従った。降る者はきわめて多かった。
開皇二十年(600年)
- 夏四月壬戌、突厥の達頭可汗が塞を犯した。詔して晋王広と楊素を霊武道から、漢王諒と史万歳を馬邑道から出して撃たせた。長孫晟は降人を率いて秦州行軍総管となり晋王の節度を受けた。
- 長孫晟は、突厥が泉の水を飲むので毒を入れやすいと考え、諸薬を取って上流の水に毒を投じた。突厥の人畜は飲んで多く死に、大いに驚いて「天が悪い水を降らせた。我らは滅びるのか」と言い、夜に逃げた。長孫晟が追撃して首級千余を挙げた。
- 史万歳は塞を出て大斤山に至り、敵と遭遇した。達頭が使者を送って隋の将は誰かと問うと、斥候が「史万歳だ」と答えた。突厥がさらに「敦煌の守備兵だった者ではないか」と問い、「そうだ」と答えると、達頭は恐れて兵を引いた。史万歳は百余里追撃して大破し、数千を斬り、砂漠に数百里入って追い、敵が遠く逃げたので帰還した。
- 詔で長孫晟を再び大利城に戻して新附の者を安撫させた。達頭がまた弟の子の俟利伐を砂漠の東から啓民を攻めさせたので、帝は兵を出して啓民に要路を守らせ、俟利伐は退いて砂漠に入った。
- 啓民が上表して謝した。大隋の聖人可汗は百姓を憐れみ養うこと、覆わぬところなき天、載せぬところなき地のごとくです。染干は枯木がまた葉をつけ、枯骨がまた肉をつけたようなもの。千世万世にわたり大隋の羊馬の飼育係となりましょう、と。帝はまた趙仲卿に啓民のため金河・定襄の二城を築かせた。
仁寿元年(601年)
- 春正月、突厥の歩迦可汗が塞を犯し、代州総管の韓洪を恒安で破った。
- 夏五月、突厥の男女九万口が降った。
- 冬十一月、詔して楊素を雲州行軍元帥、長孫晟を受降使者とし、啓民可汗を助けて北に歩迦を撃たせた。
仁寿二年(602年)春三月
- 突厥の思力俟斤らが南に黄河を渡り、啓民の男女六千口と家畜二十余万を奪って去った。楊素が諸軍を率いて追撃し、六十余里転戦して大破した。突厥が北へ逃げると楊素はさらに追い、夜に追いついた。逃げられるのを恐れ、騎兵をやや後ろに下げ、自ら二騎と降伏した突厥の二人を連れて敵と並んで進み、敵は気づかなかった。宿営が定まらぬところを見計らって後方の騎兵に急襲させて大破し、人畜をすべて取り戻して啓民に返した。これ以後、突厥は遠く逃れ、砂漠の南に侵寇はなくなった。
仁寿三年(603年)秋九月
- 突厥の歩迦可汗の部が大いに乱れ、鉄勒・僕骨など十余部がみな叛いて歩迦から啓民に降った。歩迦の衆は潰えて西の吐谷渾に走った。長孫晟は啓民を送って磧口に置き、啓民は歩迦の衆をすべて手に入れた。
煬帝大業三年(607年)
- 春正月朔旦、盛大に文物を陳列した。突厥の啓民可汗が入朝してこれを見て慕い、隋の冠と帯を用いることを請うたが、帝は許さなかった。翌日、部下を率いて上表して固く請うたので、帝は大いに喜び、牛弘らに「衣冠の制が整い、単于に辮髪を解かせるに至ったのは卿らの功だ」と言い、それぞれ厚く帛を賜った。
- 夏四月丙寅、車駕が北巡し、己亥、赤岸沢に宿営。
- 五月丁巳、啓民可汗が子の拓特勒を朝見に送った。戊午、河北十余郡の丁男を動員し太行山を掘って并州に達する馳道を通した。丙寅、啓民が兄の子の毗黎伽特勒を朝見に送った。辛未、啓民が自ら塞に入って車駕を奉迎したいと請うたが、帝は許さなかった。
- 六月戊子、車駕が楡林郡に宿営。帝は塞を出て兵威を誇示し、突厥の中を通って涿郡に向かおうとしたが、啓民が驚き恐れるのを懸念し、先に武衛将軍の長孫晟を遣わして趣旨を伝えさせた。啓民は詔を奉じ、配下の諸国、奚・霫・室韋などの酋長数十人を召集した。
- 長孫晟は牙帳の中に雑草が生えているのを見て、啓民に自ら除かせて諸部落に威重を示そうと考え、帳前の草を指して「この根はとてもよい香りがする」と言った。啓民が急いで嗅いで「別に香りません」と言うと、長孫晟は「天子の行幸される所では、諸侯が自ら掃き清め、御路を耕して整え、至敬の心を表すものです。今、牙帳の内が荒れているので、これは香草を残しているのかと思ったのです」と言った。
- 啓民は悟って「私の罪です。私の骨肉はみな天子の賜物、力を尽くすのにどうして辞退しましょう。ただ辺境の者は法を知らぬのです。将軍に教えていただけたのは将軍の恵み、私の幸いです」と言い、佩刀を抜いて自ら庭の草を刈った。貴人や諸部も争って倣った。
- こうして楡林の北境から啓民の牙帳まで、東は薊に達する長さ三千里・幅百歩の道が全国民の力役で開かれ、御道となった。帝は長孫晟の策を聞いていっそう嘉した。
- 丁酉、啓民と義成公主が行宮に来朝。己亥、吐谷渾と高昌がともに使者を送って入貢。甲辰、帝が北楼に出て黄河の漁を観ながら百官と宴した。
- 定襄太守の周法尚が行宮に朝した。太府卿の元寿が帝に「漢の武帝は関を出るとき旌旗が千里に連なりました。今、御営の外を二十四軍に分け、日ごとに一軍ずつ発し、三十里の間隔をとれば、旗幟は互いに望め、鉦鼓は互いに聞こえ、首尾が連なって千里絶えません。これも出師の壮観です」と言った。
- 周法尚は「そうではありません。兵が千里に亘れば動くたび山川に隔てられ、急に不測の事があれば四分五裂し、中枢に事があっても首尾はそれを知らず、道が長すぎて救援できません。故事があるとはいえ、これは敗北の道です」と言った。帝は不快な顔で「卿の考えは」と問うた。
- 周法尚は「方陣を組んで四面外に備え、六宮と百官の家族はその内に置きます。変事があれば当たった面に防がせ、内から奇兵を出して外に打って出る。車を壁塁とし、鈎陳を重ねて設ける。これは城に拠るのと理は変わりません。勝てば騎兵を放って追撃し、万一勝てなければ営に籠って自守する。これが万全の策と考えます」と答えた。帝は「よし」と言い、周法尚を左武衛将軍に任じた。
- 啓民可汗がまた上表した。先帝可汗は臣を憐れんで安義公主を賜り、あらゆる物を欠かさず与えてくださいました。臣の兄弟は嫉妬して臣を殺そうとし、そのとき臣は行き場を失い、仰いでは天、伏しては地を見るばかりで、身を委ねて先帝に帰依しました。先帝は死に瀕した臣を憐れんで養い生かし、大可汗として突厥の民を撫でさせてくださいました。至尊は今、天下を治め、先帝と同じく臣と突厥の民を養い、何一つ欠かさせません。聖恩に対する感謝は言葉に尽くせません。臣は今や昔日の突厥可汗ではなく、至尊の臣民です。部落を率いて衣服を改め、すべて華夏のとおりにしたく存じます、と。
- 帝はこれを不可とし、秋七月辛亥、啓民に璽書を賜って、砂漠の北はまだ静まらず征戦が必要であるから、心が恭順であればよく、服を変える必要はないと諭した。
- 帝は突厥に誇示しようと、宇文愷に大帳を作らせた。数千人が座れるものである。甲寅、帝は城の東で大帳に出御し、儀衛を整えて啓民とその部落を宴し、散楽を演じた。諸胡は驚き喜び、争って牛羊駱駝馬を数千万頭献じた。帝は啓民に帛二十万段、その部下にも差をつけて賜った。また啓民に路車・乗馬・鼓吹・幡旗を賜り、拝礼のとき名を呼ばぬこととし、位を諸侯王の上に置いた。
- また詔して丁男百余万を動員して長城を築かせ、西は楡林から東は紫河に至らせた。尚書左僕射の蘇威が諫めたが帝は聞かず、二十日で完成した。
- 八月壬午、車駕が楡林を発し、雲中を経て金河をさかのぼった。当時、天下は太平で物資が豊かで、甲士五十余万、馬十万匹、旌旗と輜重が千里に絶えなかった。宇文愷らに観風行殿を造らせた。上に侍衛数百人を容れ、離合自在で、下に車輪と軸を付けてたちまち移動できた。また周囲二千歩の行城を作り、板を骨組みとし布で覆い丹青で飾って楼櫓まで備えた。胡人は驚いて神業と思い、御営を十里の外から望むだけで膝を屈して頭を地につけ、馬に乗ろうとしなかった。
- 啓民は廬帳を捧げて車駕を待った。乙酉、帝がその帳に行幸すると、啓民は觴を捧げて寿を祝し、跪き伏してきわめて恭しかった。王侯以下は帳前で肌脱ぎになって肉を切り分け、誰も仰ぎ見ようとしなかった。帝は大いに喜び、「呼韓は頓首して至り、屠耆は踵を接して来る。漢の天子がむなしく単于台に登ったのとは大違いだ」と詩を賦した。
- 皇后も義成公主の帳に行幸した。帝は啓民と公主に金の甕を各一つ、あわせて衣服・被褥・錦綵を賜り、特勒以下にも差をつけて賜った。帝が帰るとき啓民は従って塞に入り、己丑、国に帰らせた。
大業四年(608年)夏四月
- 乙卯、突厥の啓民可汗が朝廷の教化を遵奉し戎俗を改めようとしているとして、万寿戍に城を置いて家屋を造り、帷帳・寝台・褥に至るまで優厚にするよう詔した。
大業五年(609年)
- 春正月、突厥の啓民可汗が来朝し、礼遇と賜与はいっそう厚くなった。
- 冬十一月、啓民可汗が没した。帝は三日間朝を廃し、その子の咄吉を立てた。これが始畢可汗である。上表して公主を娶りたいと請い、詔でその俗に従うことを許した。
大業八年(612年)春二月
- 北平襄侯の段文振が兵部尚書となり、上表して論じた。帝は突厥への寵遇が厚すぎ、塞内に住まわせて兵糧を与えている。戎狄の性は親しみを持たず貪欲で、いつか必ず国の患いとなる。今のうちに諭して塞外に出し、そのうえで烽火台を明らかに設け、沿辺の鎮防を厳重にすべきである。これが万世の長策である、と。
- 三月辛卯、段文振が没し、帝は深く惜しんだ。