通鑑紀事本末隋、陳を滅ぼす(隋滅陳)
隋の文帝が受禅の直後から賀若弼・韓擒虎を南辺に配して江南併呑を図り、高熲の疲弊策と崔仲方らの献策を経て五十一万の大軍で陳を伐ち、張貴妃と孔範・施文慶ら佞臣に溺れて備えを怠った後主叔宝を建康で擒えるまで。その後の上江・三呉・嶺南の平定と、長安に送られた陳の君臣の処遇、叔宝の死までを含む24年間。
年表(8件)
- 陳宣帝
- 太建十三年春三月581年隋主が賀若弼を広陵、韓擒虎を廬江に鎮させて南伐に備える
- 長城公至徳二年584年後主が臨春・結綺・望仙の三閣を建て、狎客と張貴妃に政を委ねる
- 至徳三年585年傅縡が獄中から極諫し、後主の怒りを買って死を賜る
- 禎明元年587年高熲の疲弊策と崔仲方の献策を用い、隋が大々的に戦船を造る
- 禎明二年588年隋が二十の悪を数える詔を下し、晋王広ら五十一万を発して長江に臨む
- 隋文帝
- 開皇九年春正月589年賀若弼と韓擒虎が渡江して建康を陥れ、後主が井戸で擒えられて陳が滅ぶ
- 開皇十四年冬閏十月594年陳叔宝が封禅を請う詩を奉り、隋主がその亡国ぶりを評する
- 仁寿四年冬十一月604年陳叔宝が没し、煬の諡を贈られる
陳宣帝太建十三年(581年)春三月
- 隋主(楊堅)が北周から禅譲を受けたのち、戊子、上開府儀同三司の賀若弼を呉州総管として広陵に、和州刺史の河南の韓擒虎を廬州総管として廬江に鎮させた。
- 隋主は江南併呑の志を抱き、高熲に将帥を尋ねた。高熲がこの二人を推挙したので、南辺に配置してひそかに攻略の準備をさせた。
長城公至徳二年(584年)
- 後主が光昭殿の前に臨春・結綺・望仙の三閣を建てた。高さ数十丈、数十間に連なり、窓・壁帯・欄干に至るまで沈香や白檀を用い、金玉で飾り真珠と翡翠をちりばめた。外に真珠の簾を掛け、内には宝の寝台と帳を置き、調度の華麗さは近来例のないもので、微風が吹くだけで香りが数里に届いた。下には石を積んで山を作り、水を引いて池とし、珍しい花を植えた。
- 後主自身は臨春閣に、張貴妃は結綺閣に、龔・孔の二貴嬪は望仙閣に住み、渡り廊下で行き来した。王・李の二美人、張・薛の二淑媛、袁昭儀、何婕妤、江脩容もみな寵を受け、代わる代わる閣に遊んだ。文才ある宮人の袁大捨らを女学士とした。
- 僕射の江総は宰相でありながら政務を執らず、都官尚書の孔範、散騎常侍の王瑳ら文人十数人と日々後庭の宴に侍り、尊卑の別もなくなり「狎客」と呼ばれた。後主は酒宴のたび妃嬪や女学士と狎客に詩を詠み交わさせ、とりわけ艶麗なものを選んで新曲を付け、宮女千余人に歌わせて部を分けて演奏させた。「玉樹後庭花」「臨春楽」などがそれで、内容はおおむね妃嬪の容色を讃えるものだった。君臣は夕方から明け方まで歌い明かすのを常とした。
- 張貴妃は名を麗華といい、もと兵家の娘で龔貴嬪の侍女だったが、後主に見初められて寵を得、太子深を生んだ。髪は七尺で鏡のように光り、聡明で神采があり、立ち居振る舞いは優雅、その視線は光を放って周囲を照らすほどだったという。人主の顔色を読むのに長け、宮女を推薦したので後宮はみなその徳に感じて競って彼女を褒めた。
- 貴妃は厭魅の術を用い、宮中に淫祀を設けて女巫を集め舞い踊らせた。後主が政務を怠り、諸官の上奏はすべて宦官の蔡脱児・李善度を通すようになると、後主は隠し囊にもたれ張貴妃を膝に乗せて一緒に裁決した。李・蔡が覚えていない事項も貴妃はもれなく箇条書きにして示し、外部の事情も探って民間の一言一事まで先に知って告げたので、寵愛は後宮随一となった。
- 宦官・側近が内外で結託して一族縁者を引き入れ、法を無視して官職と裁判を売り、賄賂が公然と行われた。賞罰の命は外朝から出ず、大臣が従わなければ讒言された。こうして孔範と張貴妃の権勢が四方を焼き、執政の大臣もみな風になびいて追従した。
- 孔範は孔貴嬪と義兄妹の約を結んだ。後主は過失を聞くのを嫌ったので、悪事があるたび孔範が言葉を飾って賛美し、そのため厚遇されて意見はすべて聞き入れられ、諫言する臣は罪に問われて退けられた。
- 中書舎人の施文慶は書史に通じ、東宮時代から後主に仕えた。聡明で記憶力に優れ実務に明るく、暗算と口頭の裁定が的確だったので大いに寵愛された。同郷の呉興の沈客卿、陽恵朗、徐哲、暨慧景らを吏才ありと推薦し、後主はみな抜擢した。
- 沈客卿は中書舎人となり、弁舌が立ち朝廷の故事に通じ、金帛局も兼掌した。旧制では軍人・士人には関市の税がなかったが、後主が宮室造営に財を蕩尽して国庫が空になったため、客卿は士庶の別なく関市の税を課し、しかも旧来より税率を重くするよう奏請した。
- 陽恵朗を大市令、暨慧景を尚書金倉都令史とした。二人はもと小吏の出で帳簿の照合は寸分違わなかったが、大局を解さず苛烈瑣末な取り立てを行い、際限なく収奪したので士民は嘆き恨んだ。客卿が全体を統括し、毎年の収入は通常の数十倍に達した。後主は大いに喜び、施文慶の人物眼を評価してますます重用し、大小の事をすべて任せた。互いに引き立て合って高官(貂蟬を帯びる者)は五十人に上った。
- 孔範は自ら文武の才は朝廷随一と称し、「外の諸将は行伍上がりの匹夫の勇にすぎず、深謀遠慮など解しません」と後主に言った。後主が施文慶に問うと、文慶は孔範を恐れて同意し、司馬申も賛同した。以後、将帥はわずかな過失でも兵を取り上げられて文吏に分配され、任忠の部曲も孔範や蔡徴に回された。こうして文武の結束は崩れ、滅亡に至る。
至徳三年(585年)
- 北地の傅縡はもと東宮の庶子として後主に仕え、即位後は秘書監・右衛将軍兼中書通事舎人となった。才を恃んで気を張ったため恨む者が多く、施文慶と沈客卿が「高麗の使者から金を受け取った」と讒言し、獄に下された。
- 傅縡は獄中から上書し、君主は上帝に仕え民を愛し、嗜欲を省き佞人を遠ざけ、夜明け前から政務に励むべきなのに、陛下は近ごろ酒色に溺れ郊廟を敬わず淫祀の鬼に媚び、小人が側にあり宦官が権を弄び、忠直を仇のように憎み民を草芥のように見ている、後宮は絹をひきずり厩の馬は穀物を余らせる一方で百姓は流離し屍が野を覆い、賄賂が横行して国庫は損耗し、神は怒り民は怨み、衆は叛き親は離れた、東南の王気はここに尽きるであろう、と論じた。
- 後主は激怒したが、しばらくして怒りが解け、使者をやって「赦してやりたいが過ちを改められるか」と問うた。傅縡は「臣の心は顔と同じ。顔が改まるなら心も改まりましょう」と答えたので、後主はさらに怒り、宦官の李善慶に徹底追及させ、獄中で死を賜った。後主は郊祀のたび病と称して出なかったので、傅縡はその点にも言及したのである。
禎明元年(587年)
- 隋主は受禅以来、陳とはきわめて友好的で、陳の間諜を捕らえても衣服と馬を与えて礼をもって送り返した。しかし陳の宣帝(高宗)は侵掠をやめさせなかったので、太建の末に隋軍が侵入した。ちょうど高宗が没したので隋主はただちに撤兵させ、弔問の使者を送り、書簡には姓名と「頓首」を記した。後主の返書はかえって驕慢で、末尾に「そちらの領内も無事のことと思う、こちらは天下泰平である」とあった。隋主は不快に思い朝臣に見せ、上柱国の楊素は「主が辱められれば臣は死ぬべきもの」と再拝して罪を請うた。
- 隋主が高熲に陳攻略の策を問うと、高熲は次のように答えた。江北は寒く収穫が遅いが江南の水田は早く実る。その収穫期を狙って少数の兵を動かし襲撃すると触れ回れば、相手は兵を集めて守り、農時を失う。相手が兵を集めたらこちらは兵を解く。これを繰り返せば向こうは常態と思い込み、後に本当に兵を集めても信じなくなる。その迷いの隙に渡河して上陸戦を挑めば士気は倍加する。また江南は土が薄く家屋は茅と竹造りで、備蓄も地下貯蔵ではないから、ひそかに人を送り風に乗じて火を放ち、建て直すたびにまた焼けば、数年で財力は尽きる、と。隋主はこの策を用い、陳は困窮し始めた。
- そこで楊素・賀若弼、光州刺史の高勱、虢州刺史の崔仲方らが競って江南平定策を献じた。崔仲方は上書して、武昌以下の蘄・和・滁・方・呉・海などの州に精兵を増派してひそかに渡河計画を練り、益・信・襄・荆・基・郢などの州では急いで船を造って威勢を張り水戦の備えをせよと説いた。蜀漢の二江は上流の要衝で必争の地であり、敵は流頭・荆門・延洲・公安・巴陵・隠磯・夏首・蘄口・湓城に船を置いても、結局は漢口・峡口に集めて水戦で決を求めるだろう。敵が上流に兵ありとして精兵を援軍に送れば、下流の諸将は好機を捉えて横断すればよい。もし兵を抱えて自衛するなら、上江の水軍が堂々と進めばよい。九江五湖の険に頼っても徳がなければ固守できず、三呉百越の兵を擁しても恩がなければ自立できない、と。隋主は崔仲方を基州刺史とした。
- 蕭巖らの降伏を受け入れると隋主はいっそう憤り、高熲に「私は民の父母である。一衣帯水に隔てられているからといって、彼らを救わずにおけようか」と言い、大々的に戦船を造らせた。人が秘密にするよう請うと、隋主は「私は天誅を公然と行うのだ、何を隠す必要がある」と言い、造船で出た木屑を長江に流させ、「彼らが恐れて改めるなら、それ以上何も求めない」と述べた。
- 楊素は永安で大船を造り「五牙」と名づけた。五層の楼を起こし高さ百余尺、前後左右に高さ五十尺の拍竿六本を備え、戦士八百人を収容できた。次が「黄竜」で兵百人。ほかに平乗・舴艋など等級ごとの船があった。
- 晋州刺史の皇甫績が赴任にあたり、陳を滅ぼすべき三つの理由を述べた。大が小を呑むこと、有道が無道を伐つこと、叛臣蕭巖を受け入れたので大義名分があること。隋主はねぎらって送り出した。
- このころ江南には怪異が多く、久しく塞がっていた臨平湖の草がにわかに開いた。後主はこれを忌み、自ら仏寺に身を売って奴となり厄払いをした。また建康に大皇寺を建て七層の塔を起こしたが、完成前に内部から出火して焼けた。
- 呉興の章華は学を好み文章に巧みだったが、朝臣は家柄がないと軽んじて排斥し、大市令に任じられた。不遇を嘆いた章華は上書して極諫した。高祖は南に百越を平らげ北に逆虜を誅し、世祖は東に呉会を定め西に王琳を破り、高宗は淮南を回復して千里の地を開いた、三祖の功業はこれほどのものである。しかるに陛下は即位五年、先帝の苦労も天命の畏るべきことも思わず、寵姫に溺れ酒色に惑い、七廟の祭りには出ずに三妃のためには軒に臨み、老臣宿将を草莽に捨てて佞人讒臣を朝廷に登らせている。今や領土は日々縮まり隋軍は国境に迫る。方針を改めなければ、姑蘇の地に麋鹿が遊ぶ日を見ることになろう、と。後主は激怒し、その日のうちに斬った。
禎明二年(588年)
- 春正月、散騎常侍の袁雅らを隋に派遣。また散騎常侍の九江の周羅睺に兵を率いて峡口に駐屯させ、隋の峡州を侵させた。
- 三月甲戌、隋が兼散騎常侍の程尚賢らを派遣してきた。戊寅、隋が詔を下し、陳叔宝は手のひらほどの土地に拠り険阻を頼んで奢りきり、民家の財産を奪い尽くし、内外を駆り立てて労役をやめず、贅を極めて昼を夜に変え、直言の士を斬り無罪の家を滅ぼし、天を欺いて悪をなし鬼を祀って恩を求め、化粧をしたまま武器を執り、絹をまとって警蹕を呼ばせている、古来の昏乱もこれには及ばない、君子は逃げ隠れ小人が得意になり、天災地異と怪異が続き、人々は口を閉ざして目で語る、加えて背徳の言辞で国境を揺さぶり、昼は伏し夜に動く鼠窃狗盗のふるまいをしている、天の覆う所はみな朕の臣であり、これを聞くたび心が痛む、軍を出し時機に応じて誅滅し、この一挙で永く呉越を清めよ、と宣した。あわせて璽書を送って後主の二十の悪を挙げ、詔書三十万枚を写して江南一帯に配った。
- 冬十月己未、隋が淮南行省を寿春に置き、晋王広を尚書令とした。後主は兼散騎常侍の王琬と兼通直散騎常侍の許善心を隋に派遣したが、隋は客館に留めて帰さなかった。
- 甲子、隋は出師にあたり太廟に告げ、晋王広・秦王俊・清河公楊素をいずれも行軍元帥に任命した。広は六合、俊は襄陽、素は永安、荆州刺史の劉仁恩は江陵、蘄州刺史の王世積は蘄春、廬州総管の韓擒虎は廬州、呉州総管の賀若弼は広陵、青州総管の弘農の燕栄は東海から出撃。総管九十、兵五十一万八千がすべて晋王の節度を受け、東は滄海から西は巴蜀まで、旌旗と舟が数千里に連なった。左僕射の高熲を晋王の元帥長史、右僕射の王韶を司馬とし、軍中の事はすべてこの二人が決裁し、処理は滞りなかった。
- 十一月丁卯、隋主が自ら将士を送り、乙亥、定城に至って軍を整え誓いを立てた。
- 十二月、隋軍が長江に臨む。高熲が行台吏部郎中の薛道衡に「今回の大挙は必ず勝てるか」と問うと、薛道衡は四つの理由を挙げた。郭璞が「江東は三百年分立ののち中国と合す」と言った、その年数がまさに一巡すること。主上は恭倹勤勉で叔宝は荒淫驕奢であること。国の安危は人の任用にかかるが、陳は江総を宰相として詩酒にふけらせ、小人の施文慶に政事を委ね、蕭摩訶・任蛮奴を大将としても匹夫の勇にすぎないこと。こちらは有道で大、あちらは無徳で小であり、甲士は十万に満たぬのに西の巫峡から東の滄海まで分散すれば勢いは薄れ、集めればどこかが空くこと。席巻の勢いは疑いない、と。高熲は喜んで「君の言で成敗の理が明らかになった。才学の人と思っていたが、これほどの戦略眼とは」と言った。
- 秦王俊は諸軍を督して漢口に駐屯し上流を統轄。陳は詔で散騎常侍の周羅睺を巴峡沿江諸軍事の都督としてこれに当たらせた。
- 楊素は舟師を率いて三峡を下り、流頭灘に至った。陳の将軍戚昕が青龍船百余艘・兵数千で狼尾灘を守り、地勢は険しく隋軍は手を焼いた。楊素は「勝敗の大計はこの一挙にある。昼に船を下せば我が虚実を見られ、急流では制御も利かず不利だ。夜襲に如くはない」と言い、自ら黄竜船数千艘を率いて枚を銜んで下らせ、開府儀同三司の王長襲に歩兵で南岸から戚昕の別柵を撃たせ、大将軍劉仁恩に騎兵で北岸から白沙へ向かわせた。夜明けに到着して攻撃し、戚昕は敗走。捕虜は全員ねぎらって釈放した。
- 楊素が水軍を率いて東下すると、船は川を覆い旗と甲が日に輝いた。楊素は平乗の大船に座し容貌は堂々として、陳の人々は望み見て恐れ「清河公はまさしく江の神だ」と言った。
- 長江沿岸の鎮戍から隋軍来襲の報告が次々に届いたが、施文慶と沈客卿はこれを握りつぶして奏上しなかった。
- もともと後主は、梁の宗室である蕭巖・蕭瓛が衆を率いて亡命してきたのを内心警戒し、その部衆を分散させるため蕭巖を東揚州刺史、蕭瓛を呉州刺史とし、領軍の任忠に呉興郡を守らせて二州を挟ませた。南平王嶷を江州に、永嘉王彦を南徐州に鎮させたが、まもなく翌年の元会に二王を召し、沿江諸防の船艦をすべて二王に従わせて都に戻し、梁からの亡命者に威勢を示そうとした。そのため長江には一隻の戦船もなくなり、上流諸州の兵は楊素軍に阻まれて到着できなかった。
- 湘州刺史の晋熙王叔文は在職が長く人望を得ていた。後主は上流を押さえられているのを内心忌み、また自分が群臣に恩薄で頼れる者がいないと考え、施文慶を都督湘州刺史に抜擢して精兵二千を付け西上させ、叔文を召還しようとした。文慶は喜んだが、外に出た後に留守の者に短所を告げ口されるのを恐れ、腹心の沈客卿を自分の後任に推した。出発前の間、二人がともに機密を握った。
- 護軍将軍の樊毅が僕射の袁憲に「京口と采石はともに要地で、それぞれ精兵五千と金翅船二百を配し、沿江を往復して備えるべきだ」と述べた。袁憲と驃騎将軍蕭摩訶も同意し、文武百官と協議して樊毅の策の採用を請うた。
- 施文慶は兵が自分に付かなくなり赴任が取りやめになるのを恐れ、沈客卿は文慶の赴任で自分が権を専らにできる利を思い、ともに「議論があるなら面陳は不要、文書で上奏すればこちらが取り次ぐ」と朝廷で述べた。袁憲らが同意して文書を託すと、二人は後主に「これは常のこと、辺城の将帥で十分対応できます。人と船を出せばかえって動揺を招きます」と説いた。
- 隋軍が江に臨み間諜の報が相次いでも、袁憲らが再三奏請すると、文慶は「元会が迫り南郊の日には太子の供奉も多い。今兵を出せば行事が欠ける」と言った。後主が「まず兵を出し、北辺に事がなければ水軍を郊祀に従わせればよい」と言うと、文慶は「それでは隣国に聞こえて国が弱いと思われます」と言った。さらに賄賂で江総を動かし、江総が内から取りなしたので、後主はその意を無視できず、しかし群官の請いにも迫られて、外朝で詳議させるよう命じた。江総がまた袁憲らを抑えたので、議論は長く決しなかった。
- 後主は側近に「王気はここにある。斉の兵が三度、周の師が二度来たがことごとく敗れた。彼らに何ができよう」と語った。都官尚書の孔範は「長江は天の堀で古来南北を隔ててきました。今日、敵軍が飛んで渡れましょうか。辺将は手柄を立てたくて急を装っているのです。私はいつも官位の低いのが不満ですが、敵が渡ってくれば太尉公になれましょう」と言った。ある者が北軍の馬が死んだと報じると、孔範は「それは我らの馬になるものだ、なぜ死ぬのか」と言った。後主は笑って納得し、備えを固めず、伎楽と酒宴、作詩をやめなかった。
隋文帝開皇九年(589年)春正月
- 乙丑朔、陳主の朝会の日、大霧が四方を塞ぎ、鼻に入ると辛く酸っぱかった。陳主は昏睡して夕方まで目覚めなかった。
- この日、賀若弼が広陵から渡江した。以前より賀若弼は老いた馬を多く用意して陳の船を買い集めて隠し、代わりに老朽船五、六十艘を水路に置いておいた。陳側は偵察して隋には船がないと判断した。また沿江の防人交代のたび広陵に集合させ、旗を並べ幕舎を野に張ったので、陳側は隋の大軍来襲と見て急ぎ兵を出したが、交代と分かって解散した。これが繰り返されて備えなくなった。さらに兵に沿江での狩猟をさせ人馬の喧騒を常態としたので、賀若弼の渡江に陳側は気づかなかった。
- 韓擒虎は五百人を率いて横江から夜に渡り、采石を守る兵はみな酔っていたので、これを陥した。晋王広は大軍を率いて六合の桃葉山に駐屯した。
- 丙寅、采石戍主の徐子建が急報。丁卯、公卿を召して軍議。戊辰、陳主が詔を下し「犬羊が横行して郊畿を侵している。蜂や蠍にも毒はある、速やかに掃討すべし。朕は自ら六師を率いて八方を清める」と宣し、内外に戒厳を布いた。驃騎将軍蕭摩訶・護軍将軍樊毅・中領軍魯広達を都督、司空司馬消難と湘州刺史施文慶を大監軍とし、南豫州刺史樊猛に舟師を率いて白下に出させ、散騎常侍の皋文奏に南豫州を鎮させた。賞格を引き上げ、僧尼道士まで悉く使役に就かせた。
- 庚午、賀若弼が京口を攻略し、南徐州刺史の黄恪を捕らえた。賀若弼の軍は規律厳正で、民から酒を買った兵をその場で斬った。捕虜六千余人はすべて釈放し、糧を与えて労い、勅書を持たせて各地に宣諭させたので、行く先々で靡いた。
- 樊猛が建康にいたため、子の樊巡が南豫州事を代行していた。辛未、韓擒虎が姑孰を攻めて半日で陥し、樊巡と家族を捕らえた。皋文奏は敗走した。江南の父老は日ごろから韓擒虎の威信を聞いていたので、昼夜絶えず軍門に挨拶に来た。
- 魯広達の子の魯世真は新蔡で弟の世雄および部下とともに韓擒虎に降り、使者を送って父に降伏を勧める書を届けた。建康に駐屯していた魯広達は自ら廷尉に出頭して罪を請うたが、陳主は慰労して黄金を与え陣に帰した。
- 樊猛と左衛将軍の蔣元遜が青龍船八十艘で白下を遊弋し六合の隋軍に備えていたが、陳主は樊猛の妻子が隋にあることから異心を疑い、鎮東大将軍任忠に交代させようとして蕭摩訶にそれとなく諭させた。樊猛が不快を示したので、陳主はその心を傷つけるのを憚って取りやめた。
- 賀若弼は北道から、韓擒虎は南道から進み、沿江の諸戍は風を望んで逃げ散った。賀若弼は兵を分けて曲阿の要路を断って進入した。
- 陳主は司徒豫章王叔英を朝堂、蕭摩訶を楽遊苑、樊毅を耆闍寺、魯広達を白土岡、忠武将軍孔範を宝田寺に配置した。己卯、任忠が呉興から駆けつけ朱雀門に駐屯。辛未、賀若弼が鍾山を占め、白土岡の東に陣した。晋王広は総管の杜彦を韓擒虎と合流させ、歩騎二万で新林に駐屯させた。蘄州総管の王世積は舟師で九江に出て、蘄口で陳の将紀瑱を破った。陳の人々は大いに恐れ、降る者が相次いだ。晋王広の報告に隋主は大いに喜び、群臣に宴を賜った。
- このとき建康の甲士はなお十余万いたが、陳主は臆病で軍事に暗く、ただ昼夜泣くばかりで、宮中の指揮はすべて施文慶に委ねた。文慶は諸将が自分を憎むのを知り、彼らに手柄を立てられるのを恐れて「この者たちは日ごろ不平を抱き服していません。この危機に専ら信任するのは危険です」と奏したので、諸将の請願はことごとく通らなかった。
- 賀若弼が京口を攻めたとき蕭摩訶は迎撃を請うたが許されず、賀若弼が鍾山に至ると「敵は孤軍で深入りし塁も塹壕もまだ固まっていない。出撃して襲えば必ず勝てる」と言ったが、これも許されなかった。
- 陳主が内殿で蕭摩訶・任忠らと軍議したとき、任忠は次のように説いた。兵法では客は速戦を貴び主は持重を貴ぶ。今、国には食糧も兵もある。台城を固守し、淮に沿って柵を立て、北軍が来ても交戦せず、兵を分けて長江の水路を断って敵の連絡を絶つ。自分に精兵一万と金翅船三百を与えられれば長江を下って六合を急襲する。敵の大軍は渡江した将士がすでに捕虜になったと思い込み士気を失う。淮南の土着の者は自分と旧知だから、自分が行けば必ず靡く。さらに徐州へ向かうと声を上げれば敵の帰路を脅かせるので、諸軍は攻めずとも退く。春に水が増せば上流の周羅睺らの軍が流れに沿って救援に来る。これが良策です、と。陳主は従わなかった。
- 翌日、陳主は突然「戦が長引いて気が滅入る。蕭郎を呼んで一戦させよ」と言った。任忠は叩頭して戦うなと請うたが、孔範が「一戦して決すべきです。陛下のために燕然の石に功を刻んでみせましょう」と奏したので、陳主は従い、蕭摩訶に「私のために一戦してくれ」と言った。摩訶は「これまでの戦は国のため身のためでしたが、今日は妻子のためでもあります」と答えた。
- 陳主は金帛を諸軍に配って賞に充てた。甲申、魯広達が白土岡に陣して諸軍の南端、次に任忠、樊毅、孔範と並び、蕭摩訶軍が最北。諸軍は南北二十里に連なり、首尾で進退が伝わらなかった。
- 賀若弼は軽騎で山に登って全軍を見渡し、駆け下りて配下の七総管、楊牙・員明らの甲士計八千を整え陣を布いて待った。
- 陳主が蕭摩訶の妻と通じていたため、摩訶ははじめから戦意がなかった。ただ魯広達だけが手勢で力戦し賀若弼と互角に渡り合い、隋軍は四度も退いた。賀若弼の麾下の戦死は二百七十三人。賀若弼は煙を放って身を隠し、窮したところで態勢を立て直した。陳兵は敵の首を取ると陳主に献じて賞をねだりに走った。賀若弼はその驕りと弛みを見て取り、兵を孔範に向けた。孔範の兵は交戦するや逃げ、これを見た陳の諸軍は騎兵も歩兵も総崩れとなり止められず、戦死五千人。員明が蕭摩訶を捕らえて賀若弼に送り、賀若弼が斬れと命じても摩訶は顔色を変えなかったので、赦して礼遇した。
- 任忠は宮中に駆け込み敗戦を告げ「陛下、どうかご無事で。私にはもう力の尽くしようがありません」と言った。陳主が金を二袋与えて兵を募って戦えと言うと、任忠は「陛下は舟を用意して上流の諸軍のもとへお向かいください。私は死をもってお守りします」と答えた。陳主はこれを信じ、任忠に手配を命じ、宮人に旅装させて待ったが、いつまでも来ない。
- そのころ韓擒虎が新林から進軍しており、任忠はすでに数騎で石子岡に出て降っていた。領軍の蔡徴が朱雀航を守っていたが、韓擒虎来襲と聞いて兵は恐れて潰えた。任忠が韓擒虎の軍を朱雀門から直接引き入れ、陳兵が戦おうとすると任忠は手を振って「老夫すら降ったのだ、諸君は何をする」と言い、みな逃げ散った。
- こうして城内の文武百官はみな逃げ出し、殿中に残ったのは尚書僕射の袁憲のみ、尚書令江総ら数人が省中にいるだけとなった。陳主は袁憲に「私は日ごろ卿を他の者ほど遇してこなかった。今日はただ恥じ入るばかりだ。朕に徳がないだけでなく、江東の衣冠の道も尽きたのだ」と言った。
- 陳主が慌てて身を隠そうとすると、袁憲は色を正して「北兵が入っても乱暴はしますまい。事ここに至って陛下はどこへ行かれるのですか。どうか衣冠を正して正殿に出御し、梁の武帝が侯景に会った先例に倣ってください」と諫めた。陳主は聞かず、榻を下りて駆け去りながら「刃の下に身をさらすわけにはいかぬ。私には考えがある」と言い、宮人十余人を連れて後堂の景陽殿に出て井戸に身を投げようとした。袁憲が苦諫しても聞かず、後閤舎人の夏侯公韻が身をもって井戸を塞いだが、陳主は争ってついに中に入った。
- やがて隋兵が井戸を覗いて呼びかけても答えないので石を落とそうとすると、叫び声が聞こえた。縄で引き上げると異様に重く、出てみると張貴妃・孔貴嬪と三人一緒に括られて上がってきた。沈皇后は平常どおりに起居していた。太子の深は十五歳で、閤を閉じて座り、舎人の孔伯魚が側に侍していた。兵が扉を叩いて入ると、深は落ち着いて座ったまま「遠征の途上、さぞお疲れでしょう」とねぎらったので、兵はみな敬意を表した。
- 建康にいた陳の宗室王侯百余人は、陳主が変を恐れてみな召して朝堂に置き、豫章王叔英に統轄させ、ひそかに備えもしていたが、台城が陥ちると連れ立って降伏した。
- 賀若弼は勝ちに乗じて楽遊苑に至った。魯広達はなお残兵を督して苦戦をやめず、数百人を殺傷したが、日暮れに甲を解き、宮城に向かって再拝して慟哭し、「わが身は国を救えなかった。罪は深い」と言って捕らえられた。士卒はみな涙にむせんだ。
- 諸門の衛兵は逃げ、賀若弼は夜に北掖門を焼いて入った。韓擒虎がすでに陳叔宝を捕らえたと聞いて呼んで見ると、叔宝は恐怖に汗を流し脚を震わせて再拝した。賀若弼は「小国の君が大国の卿に拝するのは礼にかなう。入朝すれば帰命侯くらいにはなれる。恐れることはない」と言った。
- 賀若弼は手柄が韓擒虎の後になったのを恥じ、韓擒虎と言い争って刃を抜いて出た。蔡徴に叔宝の降伏文書を書かせ、騾車に乗せて自分の功にしようとしたが果たせなかった。賀若弼は叔宝を徳教殿に置いて兵に守らせた。
- 高熲が先に建康に入っていた。高熲の子の徳弘は晋王広の記室で、広は徳弘を高熲のもとに走らせ張麗華を残しておくよう命じさせた。高熲は「昔、太公望は顔を覆って妲己を斬った。今どうして麗華を生かしておけよう」と言い、青溪で斬った。徳弘が復命すると広は顔色を変え「『徳あれば必ず報いる』というが、私は必ず高公に報いてやる」と言い、以後、高熲を恨んだ。
- 丙戌、晋王広が建康に入城。施文慶は委任を受けながら不忠で追従して耳目を塞いだ、沈客卿は重税を課して主に媚びたとして、大市令の陽慧朗、刑法監の徐析、尚書都令史の暨慧とともに民の害であるとして石闕の下で斬り、三呉の民に謝した。
- 高熲と元帥府記室の裴矩に図籍を接収させ、府庫を封じて財物は一切取らせなかったので、天下は晋王広を賢と称した。裴矩は裴譲之の弟の子である。
- 晋王広は賀若弼が期日前に決戦して軍令に違反したとして吏に引き渡したが、隋主は駅馬で召し、広に詔して「江表平定は賀若弼と韓擒虎の力である」と述べ、物一万段を賜った。また両名に詔を賜ってその功を称えた。
- 開府儀同三司の王頒は王僧弁の子で、夜に陳の高祖の陵を暴いて骨を焼き、灰を水に混ぜて飲んだうえ、自ら縛って晋王広に罪を請うた。広が報告すると隋主は赦免を命じ、陳の高祖・世祖・高宗の陵にはそれぞれ五戸を給して守らせるよう詔した。
- 隋主が使者を送って陳の滅亡を許善心に告げると、許善心は喪服で西の階の下に号哭し、草を敷いて東を向いて三日座した。詔で弔問し、翌日、館に出向いて通直散騎常侍を拝命させ衣一襲を賜った。許善心は哀しみを尽くして哭し、部屋で着替えて出て北面して立ち、涙を流して再拝して詔を受けた。翌日の朝見では殿下に伏して泣き、悲しみのあまり起てなかった。隋主は左右を顧みて「陳を平らげて得たのはこの人物だけだ。旧主を懐かしめる者は、すなわち朕の誠実な臣だ」と言い、本官のまま門下省に直せしめた。
- 陳の水軍都督の周羅睺は郢州刺史の荀法尚とともに江夏を守り、秦王俊は三十六総管・水陸十余万を督して漢口に駐屯したが進めず、対峙は一月を越えた。
- 陳の荆州刺史の陳慧紀は南康内史の呂忠肅を岐亭に駐屯させ、巫峡の北岸に拠って岩を穿ち鉄鎖三条を渡して上流を遮り隋船を阻んだ。呂忠肅は私財を投じて軍用に充てた。楊素と劉仁恩が奮戦して四十余度戦い、呂忠肅は険に拠って力戦し、隋兵の戦死は五千余。陳側はその鼻をことごとく取って功を求めた。やがて隋軍が連勝し、捕らえた陳兵を三度釈放すると、呂忠肅は柵を捨てて逃げ、楊素はゆっくりと鎖を除いた。
- 呂忠肅は荆門の延洲に拠り直したが、楊素は巴蜑の兵千人を五牙船四艘に乗せ、拍竿でその十余艦を砕いて大破し、甲士二千余を捕らえた。忠肅はかろうじて身一つで逃れた。
- 陳の信州刺史の顧覚は安蜀城に駐屯していたが城を捨てて逃げ、陳慧紀は公安に駐屯していたが備蓄をすべて焼いて東へ下った。こうして巴陵以東に守る城はなくなった。
- 陳慧紀は将士三万・楼船千余艘で長江を下り建康を救援しようとしたが、秦王俊軍に阻まれて進めなかった。このとき陳の晋熙王叔文は湘漢の任を解かれて巴州に至っており、陳慧紀は叔文を盟主に推そうとしたが、叔文はすでに巴州刺史の畢宝らとともに秦王俊に降伏を請う書を送っていた。俊は使者を送って迎え労った。
- 建康平定に会い、晋王広は陳叔宝に自筆で上江の諸将を招くよう命じ、樊毅を周羅睺に、陳慧紀の子の正業を慧紀のもとに遣わして趣旨を伝えさせた。諸城はみな武装を解いた。周羅睺は諸将とともに三日間大いに哭し、兵を解散させてから俊に降った。陳慧紀も降り、上江はすべて平定された。楊素は漢口まで下って俊と合流した。
- 王世積は蘄口で陳の滅亡を聞き、江南諸郡に告諭の書を回した。江州司馬の黄偲は城を捨てて逃げ、豫章など諸郡の太守はみな王世積に降った。癸巳、使者を派遣して陳の州郡を巡撫させた。二月乙未、淮南行台省を廃止。
- 陳の呉州刺史の蕭瓛は人望を得ており、陳が滅ぶと呉の人々は蕭瓛を主に推した。右衛大将軍の武川の宇文述が行軍総管の元契・張黙言らを率いて討ち、落叢公の燕栄も舟師で東海から到り宇文述の節度を受けた。陳の永新侯の陳君範が晋陵から蕭瓛のもとへ走り、合流して宇文述を防いだ。
- 宇文述の軍が迫ると、蕭瓛は晋陵城の東に柵を立てて兵を残して防がせ、将の王褒に呉州を守らせ、自らは義興から太湖に入って宇文述の背後を突こうとした。宇文述は柵を破って兵を返して蕭瓛を大破し、また別道から呉州を襲うと、王褒は道士の服を着て城を捨てて逃げた。蕭瓛は残兵で包山に拠ったが燕栄に破られ、側近数人と民家に隠れていたところを捕らえられた。
- 宇文述が奉公埭に進むと、陳の東揚州刺史の蕭巖が会稽ごと降った。蕭巖・蕭瓛はともに長安に送られて斬られた。
- 楊素が荆門を下ったとき、別将の龐暉に兵を率いて南進させ湘州に至らせた。城中の将士に固守の意志はなく、日を決めて降伏を申し出た。刺史の岳陽王叔慎は十八歳、酒宴を開いて文武の僚吏を集め、酔いが回ると「君臣の義もこれで終わりか」と嘆いた。長史の謝基は伏して涙を流し、湘州助防の遂興侯正理が立って「主が辱められれば臣は死ぬもの。諸君は陳国の臣ではないのか。今こそ命を捧げる秋である。成らずとも臣節は示せる。青門の外に死あるのみ。今日の機を逸してはならぬ。後から応じる者は斬る」と言った。一同は承諾し、犠牲を屠って盟を結んだ。
- 偽って龐暉に降伏文書を送ると龐暉は信じ、期日を定めて入城した。叔慎は伏兵を置いて待ち受け、龐暉を捕らえて引き回し、その部下ともども斬った。叔慎は射堂に座って兵を集め、数日で五千人を得た。衡陽太守の樊通、武州刺史の鄔居業もともに兵を挙げて助けようとした。
- そこへ隋が任命した湘州刺史の薛冑が兵を率いて到着し、行軍総管の劉仁恩とともに攻撃した。叔慎は将の陳正理と樊通に迎撃させたが敗れ、薛冑は勝ちに乗じて入城して叔慎を捕らえた。劉仁恩は鄔居業を横橋で破って捕らえ、いずれも秦王俊に送られて漢口で斬られた。
- 嶺南はまだ帰属先が定まらず、数郡が共同で高涼郡太夫人の洗氏を主に奉じて「聖母」と号し、領域を保って拒み守っていた。詔で柱国の韋洸らを嶺外の安撫に派遣したが、陳の豫章太守の徐璒が南康に拠って阻んだので進めなかった。
- 晋王広が陳叔宝に手紙を書かせ、国の滅亡を告げて帰順を諭させると、夫人は首領数千人を集めて終日慟哭し、孫の馮魂に兵を率いて韋洸を迎えさせた。韋洸は徐璒を撃って斬り、広州に入って嶺南諸州を説諭し、みな平定された。馮魂を儀同三司に、洗氏を宋康郡夫人に冊した。韋洸は韋夐の子である。
- 衡州司馬の任瓌は都督の王勇に嶺南に拠って陳氏の子孫を立てて帝とするよう勧めたが、王勇は用いず部下を率いて降った。任瓌は官を捨てて去った。任瓌は任忠の弟の子である。
- こうして陳国はすべて平定され、州三十・郡百・県四百を得た。詔で建康の城邑・宮室をことごとく取り壊して耕地とし、代わりに石頭城に蔣州を置いた。晋王広は凱旋し、王韶を石頭に留めて後事を委ねた。
- 三月己巳、陳叔宝は王公百官とともに建康を発って長安に向かい、老若が路上五百里にわたって連なった。隋主は長安の士民の宅を一時割いて彼らを受け入れさせ、内外を整えて使者を送って迎え労ったので、陳の人々は帰るがごとくに至った。
- 夏四月辛亥、隋主が驪山に行幸して凱旋軍を自ら労った。乙巳、諸軍が凱旋入城し、太廟に俘を献じた。陳叔宝と王侯将相、乗輿・服御・天文図籍などが順に列し、鉄騎に囲まれて晋王広・秦王俊に従って廟庭に並んだ。広を太尉とし、輅車・乗馬・袞冕の服・玄圭白璧を賜った。
- 丙午、隋主は広陽門の楼に座して陳叔宝を前に引き出し、太子・諸王二十八人、司空司馬消難以下尚書郎まで二百余人を並べた。納言に詔を宣して労わせ、次いで内史令に詔を宣して君臣が互いに補い合えず滅亡に至ったことを責めた。叔宝と群臣は恥じ恐れて地に伏し、息を殺して答えられなかったが、やがて赦された。
- 武元帝(楊忠)はかつて司馬消難を迎えて義兄弟の契りを結び、きわめて親しかったので、隋主は消難だけを叔父の礼で遇していた。陳平定後に至った消難は特に死を免れて楽戸に配されたが、二十日で赦され、旧恩によって引見され、まもなく家で没した。
- 魯広達は本朝滅亡を悼み、病を得ても治療せず、憤慨のうちに没した。
- 庚戌、隋主が広陽門に出て将士に宴を賜り、門外から南郭まで道の両側に布帛を積んで功に応じて分け与えた。使った布帛は三百余万段。旧陳の領域には十年の課役免除、そのほかの州は当年の租賦を免じた。
- 楽安公の元諧が進み出て「陛下の威徳は遠くまで及びました。以前、突厥の可汗を候正、陳叔宝を令史にせよと申し上げましたが、今こそ用いるべきです」と言った。隋主は「朕が陳を平らげたのは逆を除くためで、誇るためではない。突厥は山川を知らぬのにどう斥候が務まる。叔宝は昏酔してばかりで使いものにならぬ」と言い、元諧は黙って退いた。
- 辛酉、楊素を越公に進爵し、子の玄感を儀同三司、玄奨を清河郡公とし、物一万段・粟一万石を賜った。賀若弼には御座に登ることを許して物八千段を賜い、上柱国に加え宋公に進爵。それぞれに金宝と、陳叔宝の妹を妾として賜った。
- 賀若弼と韓擒虎が隋主の前で功を争った。賀若弼は「私は蔣山で死戦して精鋭を破り猛将を捕らえ、威武を震わせて陳国を平らげた。韓擒虎はほとんど交戦もしていない、比べものにならぬ」と言い、韓擒虎は「勅命では私と賀若弼が同時に力を合わせて偽都を取るはずだった。賀若弼が期日前に敵と遭遇して戦い、将士を多く死傷させた。私は軽騎五百で血も流さず金陵を取り、任蛮奴を降し陳叔宝を捕らえ、府庫を押さえて巣窟を覆した。賀若弼は夕方になって北掖門を叩き、私が開けて入れてやったのだ。罪を免れるだけで精一杯の者と比べられようか」と言った。隋主は「二将ともに最上の勲功だ」と述べ、韓擒虎も上柱国に進めて物八千段を賜った。ただし有司が韓擒虎について士卒の放縦と陳の宮女への乱暴を弾劾したため、爵邑は加えられなかった。
- 高熲を上柱国に加え斉公に進爵し、物九千段を賜った。隋主は「公が陳を伐った後、公が謀反すると言う者がいたので、朕はすでに斬った。君臣の道が合っていれば、青蠅の讒言に隔てられはしない」と労った。
- 隋主が高熲と賀若弼に平陳のことを論じさせると、高熲は「賀若弼は先に十策を献じ、後に蔣山で苦戦して敵を破りました。私はしょせん文吏、大将と功を論じる資格はありません」と言った。隋主は大いに笑い、その謙譲を嘉した。
- 隋主は陳征討にあたり高熲を通じて上儀同三司の李徳林に方略を問い、それを晋王広に授けていた。そこでその功を賞して柱国・郡公とし、物三千段を賜る勅がすでに宣せられていた。ところがある者が高熲に「今これを李徳林の功とすれば諸将は憤慨するでしょうし、後世から見れば公が無為だったように見えます」と説いたので、高熲が申し立てて取りやめになった。
- 秦王俊を揚州総管・四十四州諸軍事として広陵に鎮させ、晋王広は并州に戻った。
- 晋王広が陳の五佞を誅したとき、都官尚書の孔範、散騎常侍の王瑳・王儀、御史中丞の沈瓘の罪は知られておらず免れていた。長安に至って事が露見し、乙未、隋主はその悪行を暴いて辺地に流し、呉越の人々に謝した。王瑳は刻薄貪欲で才能ある者を妬み害し、王儀は巧みに媚びて二人の娘を献じて取り入り、沈瓘は陰険苛酷で邪佞な言を吐いたので、同じく罪に問われた。
- 隋主は陳叔宝を厚遇し、しばしば引見して三品と同列に扱った。宴のたび心を傷めぬよう呉の音楽を奏させなかった。のちに監視役が「叔宝が、位がないので朝集のたび官号を一つ欲しいと言っています」と奏すると、隋主は「叔宝には全く心肝がない」と言った。監視役がまた「叔宝は常に酔って醒めていることが稀です」と言うので、酒量を問うと「子弟と日に一石」と答えた。隋主は驚いて酒を節するよう命じたが、やがて「性に任せよ。そうでなければどうやって日を過ごせよう」と言った。
- 隋主は陳氏の子弟が多く、都で問題を起こすのを恐れ、辺州に分散させて田地を与えて生計を立てさせ、季節ごとに衣服を賜って安んじた。
- 詔で陳の尚書令江総を上開府儀同三司、僕射袁憲・驃騎蕭摩訶・領軍任忠をいずれも開府儀同三司、吏部尚書の呉興の姚察を秘書丞とした。隋主は袁憲の高潔な操を嘉して「江表の第一人者」と詔し、昌州刺史に任じた。陳の散騎常侍の袁元友が陳叔宝にしばしば直言したと聞いて主爵侍郎に抜擢し、群臣に「陳平定の当初、私は任蛮奴を殺さなかったのを悔いた。人の栄禄を受け重任を担いながら、国のために屍をさらすこともできず、力の尽くしようがないなどと言う。弘演が主君の肝を身に納めた故事とは、なんと隔たっていることか」と語った。
- 隋主は周羅睺を慰め富貴を約束したが、周羅睺は涙を流して「私は陳氏の厚遇を受けながら本朝が滅び、記すべき節義もありません。死を免れたのは陛下の賜物、富貴など望みません」と答えた。賀若弼が「公が郢漢に兵を率いていると聞いて、揚州が取れる、我が軍は渡れると分かった。果たしてその通りだった」と言うと、周羅睺は「公と直接相まみえていたら、勝負は分からなかったでしょう」と応じた。まもなく上儀同三司を拝した。
- 先に陳の裨将の羊翔が降り、陳征討で嚮導を務めて上開府儀同三司に至り、席次は周羅睺の上だった。韓擒虎が朝堂で「機を見るに敏でないから羊翔の下に立つことになる。恥ずかしくないか」とからかうと、周羅睺は「江南にいたころから久しくご高名を伺い、天下の節義の士と思っておりました。今日のお言葉はまったく心外です」と答え、韓擒虎は恥じた。
- 隋主が陳の君臣を責めたとき、陳叔文だけは得意げな様子で、後に上表して「以前、巴州にいたときすでに帰順を申し出ました。この事情をお汲みいただき、他とは別扱いを願います」と述べた。隋主はその不忠を嫌ったが、江表を懐柔しようとして開府儀同三司を授け宜州刺史に任じた。
- かつて陳の散騎常侍の韋鼎が北周に使いした際、隋主に会って非凡と見て「公はきっと大貴となる。貴くなれば天下は一家となる。あと一巡(十二年)ののち、老夫は公に身を委ねましょう」と言った。至徳の初め、韋鼎は太府卿となると田宅をすべて売り払った。大匠卿の毛彪が理由を問うと「江東の王気はここで尽きる。私も君も長安に葬られることになろう」と答えた。陳平定後、隋主は韋鼎を召して上儀同三司とした。韋鼎は韋叡の孫である。
- 壬戌、詔を下した。今や全土が一つになり、生けるものが本性を遂げるようになった。太平の法を行うべき時である。臣民はみな身を清め徳を修めよ。兵は威を立てるためのもので、収めておかねばならぬ。刑は教化を助けるもので、それだけに頼ってはならぬ。宮中の警衛と四方の鎮守以外の軍旅・武器はすべて停廃する。世は平らかで事もない。武人の子もみな経書を学べ。民間の武具はすべて破棄せよ、と天下に布告した。
- 賀若弼が自分の献策をまとめて「御授平陳七策」と称して上呈したが、隋主は目も通さず「公は私の名を挙げたいのだろうが、私は名を求めぬ。公が自分の家伝に載せるがよい」と言った。賀若弼の地位と声望は高く、兄弟そろって郡公に封ぜられ刺史・将軍となり、家の珍宝は数え切れず、綾羅をまとう婢妾は数百人、時人はこれを栄とした。
- のちに突厥が来朝したとき、隋主が「江南に陳国の天子がいたのを聞いたか」と問うと「聞いております」と答えた。隋主は左右に命じて突厥の使者を韓擒虎の前に案内させ「これが陳国の天子を捕らえた者だ」と言った。韓擒虎が鋭い目つきで睨むと、突厥の使者は怖れて顔を上げられなかった。
- 右衛将軍の龐晃らが高熲を悪く言ったが、隋主は怒ってみな退け、高熲への礼遇はいっそう厚くなった。隋主は高熲に「独孤公はまるで鏡のようだ。磨くたびにいっそう明るく澄む」と言った。もと高熲の父の高賓が独孤信の僚佐で独孤の姓を賜っていたので、隋主は常に「独孤」と呼び名を呼ばなかった。
開皇十四年(594年)冬閏十月
- 甲寅、斉・梁・陳の宗廟の祭祀が絶えたことから、高仁英・蕭琮・陳叔宝に時に応じて祭祀を修めさせ、必要な器物は有司に給させるよう詔した。
- 陳叔宝は隋主に従って邙山に登り、宴に侍って「日月は天徳を輝かせ、山河は帝居を壮んにする。太平に報いる術もなく、願わくは封禅の書を奉らん」と詩を詠み、あわせて上表して封禅を請うた。隋主は丁重な詔で答えた。
- 別の日にも宴に侍り、退出した後で隋主は目で追いながら「この者の敗亡は酒のせいではないか。詩を作る労力を、時務を安んずることに向けていたらどうだったか。賀若弼が京口を渡ったとき、現地から密奏で急を告げたのに、叔宝は酒を飲んでいて目を通しもしなかった。高熲が着いた日にもその上奏は寝台の下に封も切らずに置かれていた。まったく笑うべきことで、天が滅ぼしたのだ。昔、苻氏は征伐して得た国の主をみな栄貴にしたが、いたずらに名を求めて天命に背くことを知らなかった。彼らに官を与えるのは天に背くことだ」と語った。
仁寿四年(604年)冬十一月
- 壬子、陳叔宝が没した。大将軍・長城県公を追贈され、諡を煬とした。