通鑑紀事本末始興王の謀反(始興王謀逆)

陳の始興王叔陵が新安王伯固と結んで謀反を企て、宣帝の崩御に際して薬切り刀で兄の皇太子叔宝を斬りつけ、長沙王叔堅と蕭摩訶に討たれて敗死するまでと、その後の余波を述べる。乱を鎮めた叔堅がやがて後主に忌まれ、孔範・施文慶の讒言で免官されるまでの3年間。

年表(3件)

陳宣帝太建十三年(581年)冬十二月

  • 始興王叔陵は皇太子叔宝のすぐ下の弟で、母は彭貴人。太子とは異母である。江州刺史となったが、性格は苛酷・狡猾で険しかった。
  • 新安王伯固は冗談上手で宣帝に寵愛され、そのため太子と叔陵から憎まれ、二人はひそかにその落度を探して法で陥れようとしていた。
  • 叔陵は中央に入って揚州刺史となり、政務の多くに関与した。役人たちは叔陵の意向を汲んで人事を進言し、少しでも逆らえば重罪、時には死罪に問われた。
  • 伯固はこれを恐れて叔陵に取り入り、叔陵が古墳を暴くのを好み、伯固が雉狩りを好んだことから郊外でしばしば行動を共にし、きわめて親密になって、ひそかに謀反を企てるに至った。伯固は侍中の職にあり、機密の話を耳にするたび叔陵に通報した。

太建十四年(582年)春正月

  • 己酉、宣帝が病に倒れる。太子と始興王叔陵、長沙王叔堅がそろって看病に入った。叔陵は野心を抱き、薬係の吏に「薬を切る刀が鈍い、研いでおけ」と命じた。
  • 甲寅、宣帝が崩御。混乱のさなか叔陵は側近に剣を取りに行かせたが、意図を解さぬ側近は朝服用の木剣を持参し、叔陵は激怒した。そばにいた叔堅がこれを聞きとがめ、異変を疑って動きを見張った。
  • 乙卯、小斂の儀で太子が伏して哭しているところを、叔陵が薬切り刀を抜いて斬りつけ、首筋に当たった。太子は昏倒し、母の柳皇后が助けに走り寄ると皇后も数度斬られた。乳母の呉氏が背後から叔陵の肘を引き止め、太子はようやく起き上がった。叔陵が太子の衣をつかんだが、太子は振り切って逃れた。
  • 叔堅は叔陵の首を締めて刀を奪い、柱に引き寄せて袖の布で縛りつけた。呉媼が太子を助けて避難させたため、叔堅が処分の指示を仰ごうと太子を探しに離れた隙に、叔陵は怪力で袖を引きちぎって脱出。雲龍門を突破して車で東府に戻った。
  • 叔陵は側近に青溪の道を断たせ、東城の囚人を赦して兵に充て、金帛をばらまいて褒賞とし、新林に人を送って自分の部隊を呼び戻した。自ら甲を着け白布の帽をかぶって城の西門に登り、民衆を募兵した。
  • 諸王・将帥を召したが誰も来ず、ただ新安王伯固だけが単騎で駆けつけて指揮を助けた。叔陵の兵は千人ほどで、城に拠って守ろうとした。
  • 当時、諸軍は長江沿いの防衛に出払い、宮城内はほぼ空だった。叔堅は柳皇后に申し出て、太子舎人の河内の司馬申を通じ太子の名で右衛将軍蕭摩訶を召した。摩訶は勅を受けて騎歩数百を率い、東府に向かい城の西門に布陣した。
  • 叔陵は狼狽し、記室の韋諒に鼓吹を届けさせ「成功すれば必ず公を宰相に据える」と誘った。摩訶は「王の腹心の将が自ら来られれば従いましょう」と偽って答え、叔陵が送ってきた腹心の戴温・譚騏驎を捕らえて朝廷に送り、その首を東城でさらした。
  • 万事休すと悟った叔陵は、妃の張氏と寵妾七人を井戸に沈め、歩騎数百を率いて小航から渡り、新林経由で舟に乗って隋へ亡命しようとした。白楊路で官軍に阻まれ、伯固は兵を見て路地に逃げ込み、叔陵が刀を抜いて馬で追うと伯固は戻った。叔陵の部下は甲を捨てて散り、摩訶の馬容陳智深が叔陵を刺し倒し、陳仲華がその首を斬った。伯固も乱兵に殺された。寅の刻から巳の刻までで鎮定した。
  • 叔陵の子はみな死を賜り、伯固の子は許されて庶人とされた。韋諒、前衡陽内史の彭暠、諮議参軍兼記室の鄭信、典籤の俞公喜が処刑された。彭暠は叔陵の舅、鄭信と韋諒は叔陵の寵臣で常に謀議に参加していた。韋諒は韋粲の子である。
  • 丁巳、太子が即位(後主叔宝)し、大赦。癸亥、長沙王叔堅を驃騎将軍・開府儀同三司・揚州刺史とし、蕭摩訶を車騎将軍・南徐州刺史・綏遠公に封じ、叔陵家の巨万の金帛をすべて摩訶に与えた。司馬申を中書通事舎人とした。
  • 乙丑、皇后を皇太后に尊んだ。後主は傷のため承香殿に臥して政務を執れず、太后が柏梁殿にあって百官の政務をすべて裁いた。傷が癒えてから政権は後主に戻された。
  • 丁卯、弟の叔重を始興王に封じ、昭烈王の祭祀を継がせた。秋九月丙午、長沙王叔堅を司空とし、将軍・刺史は元のままとした。

長城公至徳元年(583年)

  • 後主が傷で政務を見られない間、政治は大小を問わず長沙王叔堅が決裁し、その権勢は朝廷を圧した。叔堅はやや驕り高ぶり、後主は次第にこれを忌むようになった。
  • 都官尚書の山陰の孔範と中書舎人の施文慶はともに叔堅を憎み後主に寵愛されており、日夜その短所を探して讒言した。後主は叔堅の驃騎将軍の号はそのままに三司の儀を用いて江州刺史として外に出し、祠部尚書の江総を吏部尚書とした。
  • 秋八月、叔堅はまだ江州に赴かないうちに、再び司空として都に留められた。実質は権限の剥奪であった。
  • 冬十二月丙辰、司空長沙王叔堅を免官。叔堅は寵を失って不安になり、まじないをして日月を祀り福を求めた。これを告発する上書があり、後主は叔堅を西省に幽閉して殺そうとし、近侍に勅を宣して罪を数え上げさせた。
  • 叔堅は「他意はなく、ただ寵愛を得たかっただけです。国法を犯した以上は万死に値しますが、死ねば必ず叔陵に会いましょう。どうか九泉の下であれを責める詔をお出しください」と答えた。後主はこれを赦し、免官にとどめた。