通鑑紀事本末楊堅、周を簒奪する(楊堅篡周)
北周の武帝の代に楊堅が太子贇の舅として重んじられ、反相を疑われながら難を免れ、宣帝の暴政と早世に乗じて劉昉・鄭訳の矯詔で政を執り、尉遅迥・司馬消難・王謙の三方の挙兵を韋孝寛・高熲・李徳林らの力で平らげ、周室の諸王を次々に誅して禅譲を受け隋を建てるまでの14年間。
年表(9件)
- 陳臨海王
- 光大二年568年楊忠が卒し、子の楊堅が随公の爵を襲ぐ
- 陳宣帝
- 太建四年572年周が皇子の魯公贇を太子に立てる
- 五年573年太子贇が楊堅の娘を妃に納れ、宇文孝伯らが太子の徳を憂える
- 七年575年斉王憲が楊堅の非常の相貌を説いて除くよう請うが、来和が詭って庇う
- 八年576年王軌が太子の不才と楊堅の反相を諫めるが、周主は廃立に踏み切らない
- 十年578年武帝が殂し、宣帝が即位して斉王憲を誅し、楊堅を大司馬とする
- 十一年579年宣帝が位を太子闡に伝えて天元皇帝と称し、王軌・宇文孝伯らを殺す
- 十二年580年天元が殂し、楊堅が矯詔で政を執って尉遅迥・司馬消難・王謙の乱を平らげる
- 十三年581年楊堅が禅を受けて隋を建て、周の静帝と諸王をことごとく殺す
陳臨海王光大二年(568年)
- 秋七月壬寅、周の随桓公楊忠が卒し、子の楊堅が爵を襲いだ。堅は開府儀同三司となった。
陳宣帝太建四年(572年)
- 夏四月癸巳、周が皇子の魯公宇文贇を太子に立て、大赦した。
五年(573年)
- 秋九月壬午、周の太子贇が妃の楊氏を納れた。妃は大将軍随公堅の娘である。
- 太子は小人を昵しみ近づけるのを好んだ。左宮正宇文孝伯が周主に言った。「皇太子は四海の属するところなのに徳の声がまだ聞こえません。臣は宮官を忝くしており、実にその責に当たります。しかも春秋はまだ少なく、志も業も成っておりません。正しい人を妙に選んでその師友とし、聖質を調え護られることをお請いします。それでもなお日に就き月に将むを望むばかり。もしそうされねば、悔いても及びません」。帝は容を斂めて言った。「卿の家は世々鯁直を載せ、誠を竭くして事える。卿のこの言を観るに、家風がある」。孝伯は拝謝して「言うのが難しいのではなく、受けるのが難しいのです」と言った。帝は「正しい人が、また卿に過ぎようか」と言った。こうして尉遅運を右宮正とした。運は尉遅迥の弟の子である。
- 帝がかつて万年県丞である南陽の楽運に「卿は太子をどんな人と言うか」と問うた。「中人です」と答えた。帝は斉公憲を顧みて「百官は私に佞びてみな太子を聡明睿智と称する。ただ運の言うところのみ忠直である」と言い、そのついでに運に中人の状を問うた。答えた。「斉の桓公のごときがそれです。管仲が相となれば覇となり、豎貂が輔ければ乱れる。ともに善を為すこともでき、ともに悪を為すこともできます」。帝は「私は知った」と言い、そこで宮官を妙に選んで輔けさせ、そのうえ運を擢いて京兆丞とした。太子は聞いて意に甚だ悦ばなかった。
七年(575年)
- 大将軍楊堅は姿と相が奇偉であった。畿伯下大夫である長安の来和がかつて堅に「公の眼は曙の星のごとく、照らさぬところがありません。まさに王として天下を有たれましょう。願わくは誅殺を忍ばれよ」と言った。
- 周主は堅をもとより厚く待遇していた。斉王憲が帝に言った。「普六茹堅の相貌は非常です。臣は見るたび覚えず自ら失います。人の下たる者ではないのを恐れます。早く除かれることをお請いします」。帝もまた疑い、来和に問うた。和は詭って答えた。「随公はただ節を守る人です。一方を鎮めさせられます。もし将領とされれば、破れぬ陣はありません」。
八年(576年)
- 秋八月、周の太子が吐谷渾を伐ち、伏俟城に至って還った。宮尹鄭訳・王端らはみな太子に寵されていた。太子は軍中にあって失徳が多く、訳らはみなこれに与った。軍が還って王軌らが周主に言った。周主は怒って太子および訳らを杖打ち、そのうえで訳らを除名した。宮臣で親しみ幸された者はみな譴めを被った。
- 太子はまた訳を召して初めのように戯れ狎れた。訳はそのついでに「殿下はいつ天下に拠られましょうか」と言った。太子は悦んでいよいよ昵しんだ。訳は鄭儼の兄の孫である。
- 周主の太子への遇し方は甚だ厳しく、朝見のたび進止は群臣と異ならず、隆寒盛暑でも休息を得られなかった。その酒を嗜むゆえに酒を禁じ、東宮に至らせず、過ちがあればすぐ捶撻を加えた。かつて言った。「古来、太子で廃された者は幾人あるか。他の児がどうして立つに堪えぬものか」。そこで東宮の官属に敕して太子の言語と動作を録し、毎月奏聞させた。太子は帝の威厳を畏れ、情を矯めて脩め飾り、これで過ちと悪は上聞されなかった。
- 王軌がかつて小内史賀若弼に「太子は必ず負荷に克えぬ」と言い、弼は深くもっともとし、軌に陳べるよう勧めた。軌はのち侍坐のついでに帝に言った。「皇太子は仁孝が聞こえません。陛下の家事を了えられぬのを恐れます。愚臣は短く暗く、信ずるに足りませんが、陛下は恒に賀若弼に文武の奇才があるとされております。彼もまた常にこれを憂えとしております」。帝が弼に問うと、答えた。「皇太子は徳を春宮に養われ、過ちがあるとは聞きません」。
- 退いてから軌が弼を譲めた。「平生の言論では道わぬことがなかったのに、今日、対して揚げるにあたって、どうしてかくも反覆するのか」。弼は言った。「これは公の過ちです。太子は国の儲副。どうして軽々しく言を発せましょう。事に蹉跌があればすぐ滅族に至ります。もともと公はひそかに臧否を陳べられるものと思っておりました。どうして昌言に至られたのか」。軌は黙すること久しく、そこで「私は国家に心を専らにし、そのまま私の計を存しなかった。先ほど衆に対したのは、まことに宜しくなかった」と言った。
- のち軌は内宴で寿を上るついでに帝の鬚を捋って「愛すべき好い老公だ。ただ後嗣の弱いのが恨みです」と言った。
- これより先、帝は右宮伯宇文孝伯に「わが児は近ごろどうか」と問うた。「太子は近ごろ天威を懼れ、さらに過失はありません」と答えた。酒が罷んで帝は孝伯を責めた。「公は常に私に太子に過ちなしと語った。今、軌にこの言がある。公は誑ったのだ」。孝伯は再拝して言った。「臣の聞くところ、父子の際は人の言いがたいところ。臣は陛下が慈を割き愛を忍べぬのを知って、そのまま舌を結んだのです」。帝はその意を知り、黙すること久しく、そこで「朕はすでに公に委ねた。公はそれを勉めよ」と言った。
- 王軌はにわかに帝に言った。「皇太子は社稷の主ではありません。普六茹堅は貌に反相があります」。帝は悦ばず「必ず天命に在るところがあるなら、どうしようもない」と言った。楊堅は聞いて甚だ懼れ、深く自ら晦まし匿した。
- 帝は深く軌らの言をもっともとしたが、ただ漢王宇文賛が次に年長で、これも才がなく、他の子はみな幼かったので、廃さずに済んだ。
十年(578年)
- 夏五月癸巳、帝が不予となった。
- 六月丁酉朔、帝の疾が甚だしくなり、長安に還った。この夕、殂した。年三十六。戊戌、太子が即位し、皇后阿史那氏を皇太后と尊んだ。
- 宣帝は立つや奢欲を逞しくした。大行がまだ殯にあるのに少しも戚しむ容色なく、その杖の痕を撫でて大いに罵った。「死ぬのが遅かった」。高祖の宮人を閲し視て逼って淫欲を為した。吏部下大夫鄭訳を越えて開府儀同大将軍・内史中大夫に拝し、朝政を委ねた。
- 己未、武皇帝を孝陵に葬り、廟号を高祖とした。葬ってのち詔して内外の公除とした。帝および六宮はみな即吉を議した。京兆郡丞楽運が疏を上って「葬期はすでに促っているのに、事が訖わるやすぐ除くのは、あまりに汲々としております」と言った。帝は従わなかった。
- 帝は斉の煬王憲が属も尊く望も重いので忌み、宇文孝伯に「公は朕のために斉王を図れるか。その官を授けよう」と言った。孝伯は叩頭して言った。「先帝の遺詔は骨肉を濫りに誅すことを許されませんでした。斉王は陛下の叔父、功は高く徳は茂く、社稷の重臣です。陛下がもし故なく害され、臣もまた旨に順って曲げ従えば、臣は不忠の臣、陛下は不孝の子となりましょう」。帝は懌ばず、これで疎んじた。
- そこで開府儀同大将軍于智・鄭訳らとひそかに謀り、智を宅に就かせて憲を候わせ、そのついでに憲に異謀があると告げさせた。甲子、帝は宇文孝伯を遣わして憲に語らせ、憲を太師にしようとした。憲は辞し譲った。また孝伯に憲を召して「晩に諸王とともに入られよ」と言わせた。着いて殿門に至ると、憲だけが引き進められた。帝は先に壮士を別室に伏せており、至るとすぐ捕らえた。
- 憲は自ら弁じ理を述べた。帝は于智に憲を証させた。憲の目の光は炬のようで、智と相い質した。ある者が憲に「王の今日の事勢では、多くを言うに用はありますまい」と言った。憲は「死生に命あり。どうしてまた存えることを図ろう。ただ老母が堂に在るのが、この恨みを留めるのを恐れるのみ」と言い、そのついでに笏を地に擲った。そのまま縊った。
- 帝は憲の僚属を召して憲の罪を証成させようとした。参軍である勃海の李綱は死を誓って終に橈む辞はなかった。有司が露車に憲の屍を載せて出したとき、故吏はみな散じ、ただ李綱だけが棺を撫して号慟し、躬ら瘞め、哭し拝して去った。
- また上大将軍王興・上開府儀同大将軍独孤熊・開府儀同大将軍豆盧紹を殺した。みなもとより憲と親しく善かった者である。帝は憲を誅しても名がなかったので、そこで「興らと謀反した」と言った。時人はこれを「伴死」と言った。于智を柱国として斉公に封じ、これに賞した。
- 閏月乙亥、周主が妃の楊氏を皇后に立てた。
- 秋七月壬戌、亳州総管楊堅を上柱国・大司馬とした。
十一年(579年)
- 春正月癸巳、周主が露門で朝を受け、初めて群臣と漢魏の衣冠を服した。大赦して大成と改元し、四輔の官を置いた。大冢宰越王盛を大前疑、相州総管蜀公尉遅迥を大右弼、申公李穆を大左輔、大司馬随公楊堅を大後承とした。
- 周主は初め立ったとき、高祖の刑書要制を重すぎるとして除き、またしばしば赦宥を行った。京兆郡丞楽運が疏を上って言った。「虞書に称する『眚災は肆赦す』とは、過誤で害を為したものを緩めて赦すという意です。呂刑に『五刑の疑わしきは赦あり』とあるのは、刑の疑わしきは罰に従い、罰の疑わしきは免に従うということ。謹んで経典を尋ねるに、罪に軽重なく溥天に大赦するという文はありません。大尊はどうしてしばしば非常の恵みを施して姦究の悪を肆にさせてよいものでしょう」。帝は納れなかった。
- まもなく民は法を犯すのを軽んじた。また自ら奢り淫れて過失が多く、人の規め諫めるのを悪み、威虐を為して群下を懾え服させようとし、そこで改めて刑経聖制を作った。法を用いることいよいよ深く、正武殿で大いに醮して天に告げて行った。ひそかに左右に群臣を伺察させ、小さな過失があってもすぐ誅譴を行った。
- また喪に居ってわずか年を踰えるや声楽を恣にし、魚竜百戯を常に殿前に陳ね、日を累ね夜に継いで休息を知らなかった。多く美女を聚めて後宮に実たし、位号を増し置くこと詳らかには録せなかった。遊宴に沈み湎れ、あるいは旬日出ず、群臣で事を請う者はみな宦者を通じて奏した。
- こうして楽運は棺を輿して朝堂に詣で、帝の八失を陳べた。――その一、大尊は近ごろ事の多くを独断され、宰輔に参らず衆と共にされぬ。その二、美女を捜して後宮に実たし、儀同以上の娘はみだりに嫁ぐことを許されず、貴賤ともに怨む。その三、大尊はひとたび後宮に入れば数日出られず、要することを聞き奏するのは多く宦官に附く。その四、詔を下して刑を寛くされたのに、半年も経たぬうちに前の制よりさらに厳しくされた。その五、高祖は雕を斵って朴と為されたのに、崩じて年も踰えぬうちに、にわかに奢麗を窮められた。その六、下民に徭と賦を課して俳優と角抵に奉じておられる。その七、上書に字の誤りがある者をすぐその罪に治め、書を献ずる路を杜がれた。その八、玄象が誡めを垂れているのに、善き道を諮り諏り徳政を脩め布くことができない。――「もしこの八事を革められねば、臣は周の廟が血食せぬのを見ましょう」。
- 帝は大いに怒って殺そうとした。朝臣は恐懼して救う者がなかった。内史中大夫である洛陽の元巌が歎じた。「臧洪と同じく死ぬことすら人はなお願った。まして比干においてをや。もし楽運が免れぬなら、私は共に斃れよう」。そこで閤に詣でて見えることを請うて言った。「楽運はその死を顧みず、それで名を求めようとしております。陛下は労って遣わし、聖度を広くされるに越したことはありません」。帝はかなり感じ悟った。翌日、運を召して「朕は昨夜、卿の奏したところを思った。まことに忠臣である」と言い、御食を賜わって罷めさせた。
- 癸卯、周が皇子の宇文闡を魯王に立てた。戊午、周主が洛陽に至り、魯王闡を皇太子に立てた。
- 二月、周の徐州総管王軌は鄭訳が事を用いていると聞き、自ら禍の及ぶのを知り、親しい者に言った。「私は昔、先朝にあって実に社稷の至計を申べた。今日の事は断じて知れる。この州は淮南を控え帯び、強冦に隣り接している。身のために計るのは掌を返すごとく易しい。しかし忠義の節は虧け違えられぬ。まして先帝の厚恩を荷うている。どうして嗣主に罪を獲たからといって、にわかにこれを忘れられよう。ただここで死を待つのみ。千載ののちにわが心を知られることを兾う」。
- 周主が従容として訳に「私の脚の杖の痕は誰の為したものか」と問うた。「事は烏丸軌(王軌)と宇文孝伯によります」と答え、そのついでに軌が鬚を捋った事を言った。帝は内史杜慶信を州に就かせて軌を殺させた。元巌は詔に署することを肯んぜず、御正中大夫顔之儀が切に諫めたが帝は聴かなかった。巌が進んで継ぎ、巾を脱いで頓顙し、三たび拝して三たび進んだ。帝は「汝は烏丸軌に党しようというのか」と言った。巌は「臣は軌に党するのではありません。まさに濫りに誅して天下の望みを失われるのを恐れるのです」と言った。帝は怒って閹豎にその面を搏たせた。軌はそのまま死に、巌もまた家に廃された。遠近は知ると知らざるとを問わず、みな軌のために涙を流した。之儀は顔之推の弟である。
- 周主が太子であったとき、上柱国尉遅運が宮正でしばしば諫めたが用いられなかった。また王軌・宇文孝伯・宇文神挙とともに高祖に親しみ待たれた。太子は彼らが同じく自分を毀っていると疑った。軌が死ぬに及んで、運は懼れ、ひそかに孝伯に「われらの徒は必ず禍を免れぬ。どうしたらよいか」と言った。孝伯は言った。「今、堂の上に老母があり、地の下に武帝がある。臣として子として、どこへ行こうというのか。しかも質を委ねて人に仕えるのは、もとより名義に徇うため。諫めて入れられねば、死をどうして逃れられよう。足下がもし身のために計るなら、しばらく遠ざかられるがよい」。こうして運は出て秦州総管となることを求めた。
- 他日、帝は斉王憲の事に託して孝伯を譲めた。「公は斉王の謀反を知りながら、なぜ言わなかったのか」。答えた。「臣は斉王が社稷に忠でありながら群小に譖られたのを知っておりました。言っても必ず用いられぬので、それゆえ言わなかったのです。しかも先帝が微臣に付嘱されたのは、ただ陛下を輔け導けということのみ。今、諫めて従われぬのは、実に顧託に負くこと。これを罪とされるなら、それは甘んじるところです」。帝は大いに慙じ、俯いて語らず、連れ出して家で死を賜わるよう命じた。
- 当時、宇文神挙は并州刺史であった。帝は使いを州に就かせて毒殺した。尉遅運は秦州に至り、これも憂えて死んだ。
- 辛巳、周の宣帝が位を太子闡に伝え、大赦して大象と改元し、自ら天元皇帝と称した。居る所を天台と称し、冕は二十四旒、車服・旂鼓はみな前王の数の倍とした。皇帝は正陽宮と称し、納言・御正・諸衛などの官を置き、みな天台に準えた。皇太后を天元皇太后と尊んだ。
- 天元は位を伝えてから驕り侈ることいよいよ甚だしく、自ら尊大にするのを務め、顧み憚るところがなかった。国の儀典は情に率って変え更め、臣下に対するたび自ら「天」と称した。樽・彝・珪・瓚を用いて飲食し、天台に朝する群臣には斎すること三日、身を清めること一日とさせた。すでに自ら上帝に比べ、群臣が己と同じであるのを望まず、常に自ら綬を帯び、通天冠を冠って金の附蟬を加えた。侍臣の弁の上に金の蟬があり、王公に綬のある者があるのを顧み見て、みな去らせた。人に「天・高・上・大」の称があるのを聴さず、官名に犯すものがあればみな改めさせた。姓を高と改めた者は姜とし、九族で高祖と称するものは長祖とさせた。また天下の車をみな渾木の輪とさせ、天下の婦人に粉黛を施すのを禁じ、宮人でなければみな眉を黄にし墨で粧わせた。
- 侍臣を召して論議するたび、ただ興し造り変え革めることのみを欲し、かつて政事に言い及ばなかった。遊戯に常なく、出入りに節なく、羽儀と仗衛は朝に出て夜に還り、陪り侍る官はみな命に堪えなかった。公卿以下、常に楚撻を被り、人を捶つたびみな百二十を度とし、これを天杖と言った。その後さらに二百四十にまで加えた。宮人と内職もまた同様で、后妃嬪御は寵幸されていてもまた多く背を杖打たれた。こうして内外は恐怖し、人は自ら安んじられず、みな苟くも免れることを求め、固き志のある者はなく、足を重ね息を累ねて、終わりに逮んだ。
- 夏五月辛亥、襄国郡を趙国、済南郡を陳国、武当・安富の二郡を越国、上党郡を代国、新野郡を滕国とし、邑は各々万戸、趙王招・陳王純・越王盛・代王達・滕王逌をみな国に之かせた。
- 随公楊堅がひそかに大将軍汝南公楊慶に言った。「天元は実に積徳がない。その相貌を視るに、寿もまた長くあるまい。しかも諸藩は微弱で、それぞれ国に就かせて、少しも根を深くし本を固くする計がない。羽翮をすでに翦って、どうして遠くに及べようか」。
- 秋七月庚寅、周が楊堅を大前疑とした。
- 己酉、周が天元帝の太后李氏を天皇太后と尊んだ。壬子、天元皇后朱氏を天皇后と改め、妃の元氏を天右皇后、陳氏を天左皇后に立てた。あわせて四后である。
十二年(580年)
- 春二月乙丑、周の天元が制を天制、敕を天敕と改めた。壬午、天元皇太后を天元上皇太后、天皇太后を天元聖皇太后と尊んだ。癸未、詔して楊后と三后をみな太皇后と称し、司馬后は直に皇后と称させた。
- 行軍総管杞公宇文亮は天元の従祖の兄である。その子の西陽公宇文温の妻の尉遅氏は蜀公迥の孫で美色があった。宗の婦として入朝したところ、天元は酒を飲ませ、逼って淫した。亮は聞いて懼れた。三月、軍が還って豫州に至り、ひそかに韋孝寛を襲ってその衆を併せ、諸父を推して主とし、鼓を鳴らして西へ行く謀を巡らせた。亮の国官茹寛がその謀を知って先に孝寛に告げた。孝寛はひそかに備えを設けた。亮は夜に数百騎を将いて孝寛の営を襲ったが克てずに走った。戊子、孝寛が追って斬った。温もまた連座して誅された。天元はすぐその妻を宮に召し入れて長貴妃に拝した。
- 当時、周師が淮南を冦し、韋孝寛が行軍元帥であった。
- 周の天元が同州へ行くとき、候正・前駆・式道を三百六十重に増し、応門から赤岸沢まで数十里の間、幡旗が相い蔽い、音楽がともに作った。また虎賁に鈒を持たせ、馬上で警蹕を称えさせた。乙未、同州宮を成天宮と改めた。庚子、長安に還った。詔して天台の侍衛の官にはみな五色および紅・紫・緑の衣を著け、雑色を縁とさせ、品色衣と名づけ、大事のあるときは公服と間ぜて服させた。壬寅、詔して内外の命婦にみな笏を執らせ、宗廟および天台を拝すときはみな俛し伏すこと男子のごとくさせた。
- 天元は五人の皇后を立てようとし、小宗伯である狄道の辛彦之に問うた。答えて「皇后は天子と体を敵にします。五人あるべきではありません」と言った。太学博士である西城の何妥は「昔、帝嚳には四妃、虞舜には二妃がありました。先代の数に何の常がありましょう」と言った。帝は大いに悦び、彦之を免官した。
- 甲辰、詔した。「坤儀は徳を比べ、土の数はただ五。四太皇后のほかに天中太皇后一人を増し置いてよい」。こうして陳氏を天中大皇后、尉遅妃を天左太皇后とした。また下帳を五つ造り、五后に各々その一つに居らせ、宗廟の祭器をその前に実たし、自ら祝版を読んで祭った。また五輅に婦人を載せ、自ら左右を率いて歩いて従った。また鶏を倒に懸け瓦を車の上で砕き、その号び呼ぶのを観て楽しみとするのを好んだ。
- 夏五月、周の楊后は性が柔やかで婉やかで妬み忌まず、四皇后および嬪御らはみな愛して仰いだ。天元の昏暴はますます甚だしく、喜怒は度を乖いた。かつて后を譴めて罪を加えようとした。后の進止は詳らかで閑やかで、辞も色も撓まなかった。天元は大いに怒り、そのまま后に死を賜わり、逼って引訣させようとした。后の母の独孤氏が閤に詣でて陳謝し、叩頭して血を流し、そののちようやく免れ得た。
- 后の父である前大疑楊堅は位も望も隆重で、天元は忌んだ。かつて忿りに因って后に「必ずお前の家を族滅する」と言い、そのついでに堅を召して左右に「色が動いたらすぐ殺せ」と言った。堅は至って神明自若、そこでやめた。
- 内史上大夫鄭訳は堅と若い頃、同学で、堅の相表を奇として心を傾けて相い結んでいた。堅は帝に忌まれて情が自ら安んじられず、かつて永巷でひそかに訳に言った。「久しく藩に出ることを願っているのは公のよく知るところ。少しく意を留められたい」。訳は「公の徳望をもって天下は心を帰しております。多福を求めようとするのに、どうして忘れられましょう。謹んですぐ言いましょう」と言った。
- 天元が訳を遣わして冦させようとした。訳は元帥を請うた。天元は「卿の意はどうか」と言った。答えた。「もし江東を定めるなら、懿戚の重臣でなければ鎮め撫するに足りません。随公を行かせられ、しばらく寿陽総管として軍事を督させられるがよい」。天元は従い、己丑、堅を揚州総管とし、訳に兵を発して寿陽で会させた。行こうとしたところ、ちょうど堅が急に足の疾を得て、行くことを果たさなかった。
- 甲午の夜、天元が法駕を備えて天興宮に幸した。乙未、不予となって還った。
- 小御正である博陵の劉昉はもとより狡らで諂うことで天元に幸され、御正中大夫顔之儀とともに親しみ信じられていた。天元は昉と之儀を臥内に召して後事を属そうとしたが、天元は瘖んで二度と言えなかった。
- 昉は静帝が幼く冲いのを見、楊堅が后の父で重き名があるので、そのまま領内史鄭訳・御飾大夫柳裘・内史大夫である杜陵の韋謩・御正下士である朝那の皇甫績と謀って堅を引いて政を輔けさせようとした。堅は固辞して当たろうとしなかった。昉は「公がもし為されるなら速やかに為されよ。為されぬなら昉が自ら為す」と言った。堅はそこで従い、詔を受けたと称して中に居って疾に侍った。裘は柳惔の孫である。
- この日、帝が殂した。秘して喪を発せず、昉と訳が詔を矯めて堅に中外の兵馬の事を総べ知らせた。顔之儀は帝の旨でないと知って拒んで従わなかった。昉らは詔を草して署し終え、之儀に逼って連署させようとした。之儀は声を厲しくして言った。「主上は升遐され、嗣子は冲く幼い。阿衡の任は宗英に在るべきです。今、趙王が最も長で、親をもってしても徳をもってしても、重寄を膺けるに合います。公らはあまねく朝恩を受けた。まさに忠を尽くして国に報いることを思うべきなのに、どうして一旦にして神器を人に仮そうとされるのか。之儀には死あるのみ。先帝を誣い罔することはできぬ」。昉らは屈しがたいと知り、そこで之儀に代わって署して行った。
- 諸衛はすでに敕を受けており、みな堅の節度を受けた。堅は諸王が外にあって変を生ずるのを恐れ、千金公主がまさに突厥に嫁ごうとしているのを口実として、趙・陳・越・代・滕の五王を徴して入朝させた。
- 堅が符と璽を索めた。顔之儀は色を正して言った。「これは天子の物。自ら主る者がある。宰相が何ゆえ索められるのか」。堅は大いに怒って引き出して殺すよう命じたが、民望があるので出して西辺の郡守とした。
- 丁未、喪を発した。静帝が入って天台に居り、正陽宮を罷め、大赦し、洛陽宮の造営を停めた。庚戌、阿史那太后を太皇太后、李太后を太帝太后、楊后を皇太后、朱后を帝太后と尊び、その陳后・元后・尉遅后はみな尼とした。漢王賛を上柱国・右大丞相としたが、尊いのは虚名で実は綜べ理るところはなかった。楊堅を仮黄鉞・左大丞相、秦王宇文贄を上柱国とし、百官は己を総べて左丞相に聴くこととした。
- 堅は初め顧命を受けたとき、邗国公楊恵に御正下大夫李徳林へこう言わせた。「朝廷から文武の事を総べる令を賜わった。国を経る任は重い。今、公と共に事を為したい。必ず辞せられるな」。徳林は「願わくは死をもって公に奉ります」と言った。堅は大いに喜んだ。
- はじめ劉昉と鄭訳は堅を大冢宰とし、訳が自ら大司馬を摂し、昉がまた小冢宰を求める議をした。堅がひそかに徳林に「何をもって処せられると思うか」と問うた。徳林は「大丞相・仮黄鉞・都督中外諸軍事とされるべきです。そうでなければ衆心を圧えられません」と言った。喪を発するに及んでこれに依って行い、正陽宮を丞相府とした。
- 当時、衆情はまだ一つでなかった。堅は司武上士盧賁を引いて左右に置き、東宮に行こうとした。百官はみな従うところを知らなかった。堅はひそかに賁に部伍と仗衛を整えさせ、そのついでに公卿を召して「富貴を求めたい者は相い随って往け」と言った。あちこちで偶語し、去就しようとする者があった。賁が兵を厳にして至ると、衆はあえて動かなかった。崇陽門を出て東宮門に至り、門番が拒んで納れなかった。賁が諭しても去らなかったので、目を瞋らせて叱すると門番はそのまま却いた。堅が入り、賁はそのまま丞相府の宿衛を典った。賁は盧辯の弟の子である。
- 鄭訳を丞相府長史、劉昉を司馬、李徳林を府属とした。二人はこれで徳林を怨んだ。
- 内史下大夫である勃海の高熲は明敏で器局があり、兵事に習い計略が多かった。堅は引いて府に入れようとし、楊恵を遣わして意を諭させた。熲は旨を承けて欣然として言った。「願わくは駆馳を受けます。たとえ公の事が成らずとも、熲もまた滅族を辞しません」。そこで相府司録とした。
- 当時、漢王賛は禁中に居り、いつも静帝と帳を同じくして坐った。劉昉が美妓を飾って賛に進め、賛は甚だ悦んだ。昉はそのついでに賛に説いた。「大王は先帝の弟、時望の帰するところ。孺子は幼く冲い。どうして大事に堪えましょう。今、先帝が崩じたばかりで群情はなお擾れております。王はしばらく第に帰り、事が寧まってのち入って天子となられよ。これぞ万全の計です」。賛は年少で性識が庸下、本当だと思ってそのまま従った。
- 堅は宣帝の苛酷の政を革め、改めて寛大とし、旧律を刪り略して刑書要制を作り、奏して行った。躬ら節倹を履み、中外は悦んだ。
- 堅は夜に太史中大夫庾季才を召して問うた。「私は庸虚をもってこの顧命を受けた。天の時と人の事、卿はどう思うか」。季才は言った。「天道は精微で意で察しがたい。ひそかに人事をもって卜するに、符兆はすでに定まっております。季才がたとえ不可と言っても、公はまた箕山・潁水の事(隠遁)を為し得られましょうか」。堅は黙すること久しく「まことに君の言のとおりだ」と言った。独孤夫人もまた堅に「大事はすでにこうなりました。虎に騎る勢い、必ず下りられません。勉められよ」と言った。
- 堅は相州総管尉遅迥の位も望ももとより重いので異図があるのを恐れ、迥の子の魏安公尉遅惇に詔書を奉じさせて召し、葬に会させようとした。壬子、上柱国韋孝寛を相州総管とし、また小司徒叱列長乂を相州刺史として先に鄴へ赴くよう命じ、孝寛は続いて進んだ。
- 陳王純は当時、斉州を鎮していた。堅は門正上士崔彭を遣わして徴させた。彭は二騎で往って伝舎に止まり、人を遣わして純を召した。純が至ると、彭は左右を屏けてひそかに述べることがあると請い、そのまま捕らえて鎖し、そのついでに大言した。「陳王に罪あり。詔して徴して入朝させる。左右はみだりに動くな」。その従者は愕然として去った。彭は崔楷の孫である。
- 六月、五王がみな長安に至った。
- 周の尉遅迥は丞相堅がまさに帝室に不利であろうと知り、兵を挙げて討つ謀を巡らせた。韋孝寛が朝歌に至った。迥はその大都督賀蘭貴に書を齎させて韋孝寛を候わせた。孝寛は貴を留めて語り、審らかにし、変があるのを疑い、そのまま疾と称して徐ろに行った。また人を相州に至らせて医薬を求め、ひそかにこれで伺った。
- 孝寛の兄の子の韋艺は魏郡守であった。迥は艺を遣わして孝寛を迎えさせた。孝寛が迥の為すところを問うと、艺は迥に党して実をもって答えなかった。孝寛は怒って斬ろうとした。艺は懼れ、ことごとく迥の謀を孝寛に語った。孝寛は艺を携えて西へ走り、亭や駅に至るたび伝馬をことごとく駆り去り、駅司に「蜀公がまさに至られる。速やかに酒食を具えよ」と言った。迥はまもなく儀同大将軍梁子康に数百騎を将いさせて孝寛を追わせた。追う者は駅に至るたび盛んな饌に逢い、また馬がなく、そのまま遅れ留まって進まなかった。孝寛と艺はこれで免れ得た。
- 堅はまた候正破六韓裒を迥のもとに詣でさせて旨を諭させ、ひそかに総管府長史晉昶らに書を与えて備えさせた。迥は聞いて昶および裒を殺し、文武・士民を集めて城の北楼に登って令した。「楊堅は后の父の勢いに藉り、幼主を挟んで威福を作している。不臣の迹は行路に暴かれている。私は国と舅甥、任は将相を兼ねる。先帝が私をここに処されたのは、もとより安危を寄せようとされたからだ。今、卿らと義勇を糾合して国を匡し民を庇いたい。どうか」。衆はみな命に従った。迥はそこで大総管を自称し、制を承けて官司を置いた。
- 当時、趙王招は入朝して少子を国に留めていた。迥はこれを奉じて号令した。
- 甲子、堅が関中の兵を発し、韋孝寛を行軍元帥とし、郕公梁士彦・楽安公元諧・化政公宇文忻・濮陽公である武川の宇文述・武郷公崔弘度・清河公楊素・隴西公李詢らをみな行軍総管として迥を討たせた。弘度は崔楷の孫、詢は李穆の兄の子である。
- はじめ宣帝が計部中大夫楊尚希に山東を撫慰させ、相州に至ったところで宣帝の殂を聞き、尉遅迥と喪を発した。尚希は出て左右に「蜀公の哭は哀しまず、視るところは安んじていない。他の計があるのだろう。私は去らねば難に及ぶのを恐れる」と言い、そのまま夜に捷径から遁れた。夜が明けて迥は覚って追ったが及ばず、そのまま長安に帰った。堅は尚希を遣わして宗兵三千人を督させて潼関を鎮させた。
- 雍州牧畢刺王宇文賢が五王と堅を殺す謀を巡らせた。事が漏れ、堅は賢およびその三子を殺したが、五王の謀は掩って問わなかった。秦王贄を大冢宰、杞公宇文椿を大司徒とした。庚子、柱国梁睿を益州総管とした。
- 周の青州総管尉遅勤は迥の弟の子である。はじめ迥の書を得て表して送ったが、まもなくこれも迥に従った。迥の統べる相・衛・黎・洛・貝・趙・冀・瀛・滄、勤の統べる青・斉・膠・光・莒などの州はみな従い、衆は数十万。栄州刺史邵公宇文胄・申州刺史李恵・東楚州刺史費也利進・潼州刺史曹孝遠が各々本州に拠り、徐州総管司録席毗羅が兖州に拠り、前東平郡守畢義緒が蘭陵に拠って、みな迥に応じた。懐県の永橋鎮将紇豆陵恵が城をもって迥に降った。
- 迥はその署した大将軍石遜に建州を攻めさせ、建州刺史宇文弁が州をもって降った。また西道行台韓長業を遣わして潞州を攻め抜かせ、刺史趙威を捕らえ、城の人郭子勝を署して刺史とした。紇豆陵恵が鉅鹿を襲い陥れ、そのまま恒州を囲んだ。上大将軍宇文威が汴州を攻め、莒州刺史烏丸尼らが青・斉の衆を率いて沂州を囲み、大将軍檀譲が曹・亳の二州を攻め抜いて梁郡に屯兵し、席毗羅の衆は号して八万、蕃城に軍して昌慮・下邑を攻め陥れ、李恵は申州から永州を攻めて抜いた。
- 迥が使いを遣わして大左輔・并州刺史李穆を招いた。穆はその使いを鎖し、その書を封じて上った。穆の子の李士栄は穆の居るところが天下の精兵の処なのでひそかに穆に迥に従うよう勧めた。穆は深く拒んだ。堅は内史大夫柳裘を穆のもとに詣でさせて利害を陳べさせ、また穆の子の左侍上士李渾を往かせて腹心を布かせた。穆は渾に尉斗(熨斗)を堅に奉じさせて「願わくは威柄を執って天下を尉め安んじられよ」と言い、また十三鐶の金帯を堅に遺った。十三鐶の金帯とは天子の服である。堅は大いに悦び、渾を韋孝寛のもとに詣でさせて穆の意を述べさせた。
- 穆の兄の子の李崇は懐州刺史で、初め迥に応じようとしたが、のち穆が堅に附いたと知って慨然と太息した。「一家で富貴な者は数十人。国に難があるのに、ついに傾くを扶け絶えたるを継ぐことができぬ。またどんな面目あって天地の間に処ろうか」。やむを得ず、これも堅に附いた。
- 迥の子の尉遅誼は朔州刺史であった。穆は捕らえて長安に送り、また兵を遣わして郭子勝を討って擒えた。
- 迥が徐州総管源雄・東郡守于仲文を招いたが、みな従わなかった。雄は源賀の曾孫、仲文は于謹の孫である。迥は宇文胄を石済から、宇文威を白馬から河を済らせ、二道から仲文を攻めさせた。仲文は郡を棄てて走り長安に還った。迥はその妻子を殺した。
- 迥が檀譲を遣わして河南の地を徇えさせた。丞相堅は仲文を河南道行軍総管として洛陽に詣でさせ、兵を発して譲を討たせ、楊素に宇文胄を討つよう命じた。
- 丁未、周が丞相堅を都督中外諸軍事とした。鄖州総管司馬消難もまた兵を挙げて迥に応じた。己酉、周が柱国王誼を行軍元帥として消難を討たせた。
- 広州刺史于顗は仲文の兄である。総管趙文表と協わず、詐って心の疾を得たとして文表を誘い、手ずから殺し、そのついでに文表が尉遅迥と通謀していたと昌言した。堅は迥がまだ平らがぬので、そのついでに労い勉め、すぐ呉州総管に拝した。
- 趙僭王招が堅を殺す謀を巡らせ、堅を邀えてその邸に過らせた。堅は酒と殽を齎して就いた。招は寝室に引き入れた。招の子の宇文貟・宇文貫および妃の弟の魯封らがみな左右におり、刀を佩いて立ち、また刃を帷と席の間に蔵し、壮士を室の後ろに伏せていた。堅の左右はみな従うのを得ず、ただ従祖の弟である開府儀同大将軍宇文弘(楊弘)と大将軍元胄が戸の側に坐した。胄は元順の孫である。弘と胄はみな勇力があり、堅の腹心であった。
- 酒が酣になり、招は佩刀で瓜を刺し、続けざまに堅に噉らわせ、それに因って刺そうとした。元胄が進み出て「相府に事があります。久しく留まってはなりません」と言った。招は呵って「私は丞相と語っている。汝は何者か」と言い、叱して却かせた。胄は目を瞋らせ気を憤らせ、刀を扣いて入って衛った。招は酒を賜わって「私にどうして不善の意があろう。卿はなぜかくも猜み警めるのか」と言った。招は偽って吐こうとして後閤に入ろうとした。胄はその変を為すのを恐れ、扶けて上坐させた。かくすること再三。招は喉が乾いたと称して胄に厨で飲み物を取ってくるよう命じた。胄は動かなかった。
- ちょうど滕王逌が後から至り、堅が階を降りて迎えた。胄が耳語した。「事勢は大いに異なります。速やかに去られよ」。堅は「彼には兵馬がない。何ができよう」と言った。胄は「兵馬はみな彼の物。彼がもし先に発すれば大事は去ります。胄は死を辞しませんが、死んでも益なきを恐れます」と言った。堅はまた入って坐った。胄は室の後ろに甲を被る音を聞き、にわかに請うた。「相府の事は殷んです。公がどうしてこうしておられましょう」。そのついでに堅を扶けて牀を下りさせ、趨って去った。招が追おうとしたが、胄は身で戸を蔽い、招は出られなかった。堅が門に及んで、胄は後から至った。招は時に発しなかったのを恨み、弾指して血を出した。
- 壬子、堅は招が越野王盛と謀反したと誣い、みなその諸子ともども殺した。元胄への賞賜は数えきれなかった。周室の諸王はしばしば隙を伺って堅を殺そうとしたが、都督である臨涇の李円通が常に保護し、これで免れ得た。
- 周の韋孝寛の軍が永橋城に至った。諸将はまず攻めることを請うた。孝寛は「城は小さいが固い。もし攻めて抜けねば、わが兵威を損なう。今、その大軍を破れば、この城に何ができようか」と言った。こうして軍を引いて武陟に壁した。
- 尉遅迥はその子の魏安公惇に衆十万を率いさせて武徳に入らせ、沁の東に軍した。ちょうど沁水が漲り、孝寛は迥と水を隔てて相い持して進まなかった。
- 孝寛の長史李詢がひそかに丞相堅に啓した。「梁士彦・宇文忻・崔弘度はみな尉遅迥の饟金を受け、軍中は慅々として人情は大いに異なっております」。堅は深く憂えとし、内史上大夫鄭訳とこの三人を代える謀を巡らせた。
- 李徳林が言った。「公と諸将はみな国家の貴臣。まだ相い服し従っておりません。今はまさに令を挟む威をもって控え馭しておられるのみ。先に遣わした者はその乖き異なるのを疑われる。後に遣わした者が腹心を尽くせるとどうして知れましょう。しかも金を取った事は虚実が明らかにしがたい。今、一旦にして代えれば、あるいは罪を懼れて逃げ逸れましょう。もし縻ぎ縶けば、鄖公(孝寛)以下、驚き疑わぬ者はありません。しかも敵に臨んで将を易えるのは、燕・趙の敗れた所以です。愚見では、ただ公の一腹心で智略に明るく、もとより諸将に信じ服される者を、速やかに軍所に至らせ、その情偽を観させられるがよい。たとえ異意があっても必ずあえて動きますまい。動いてもまた制せられましょう」。堅は大いに悟って「公がこの言を発せねば、あやうく大事を敗るところだった」と言った。
- そこで少内史崔仲方に往って諸軍を監して節度させるよう命じた。仲方は崔猷の子である。父が山東にあると辞した。また劉昉・鄭訳に命じた。昉はまだ将となったことがないと辞し、訳は母が老いていると辞した。堅は悦ばなかった。府司録高熲が行くことを請い、堅は喜んで遣わした。熲は命を受けてただちに発ち、人を遣わして母に辞するのみであった。
- これより堅の軍事の措置はみな李徳林と謀った。当時、軍書は日に百を数えた。徳林は数人に口授し、文意は百端に及び、治め点ずることを加えなかった。
- 司馬消難が鄖・随・温・応・土・順・沔・儇・岳の九州および魯山など八鎮をもって来降し、その子の司馬永を人質として援けを求めた。八月己未、詔して消難を大都督・総督九州八鎮諸軍事・司空とし、随公の爵を賜わった。庚申、詔して鎮西将軍樊毅に沔漢諸軍事を督することを進め、南豫州刺史任忠に衆を率いて歴陽へ趨らせ、超武将軍陳慧紀を前軍都督として南兖州へ趨らせた。
- 周の益州総管王謙もまた丞相堅に附かず、巴蜀の兵を起こして始州を攻めた。梁睿は漢川に至って進めなかった。堅はすぐ睿を行軍元帥として謙を討たせた。
- 梁の世宗が中書舎人柳荘に書を奉じて周に入らせた。丞相堅は荘の手を執って言った。「孤は昔、開府として江陵の役に従い、深く梁主の殊なる眷顧を蒙った。今、主は幼く時は艱く、猥りに顧託を蒙っている。梁主は葉を弈ねて誠を朝廷に委ねられた。まさに相い与に歳寒を共に保つべきである」。
- 当時、諸将は競って梁主に兵を挙げて尉遅迥と連謀するよう勧め、「進んでは周氏に節を尽くせ、退いては山南を席巻できます」と言った。梁主は疑って決しなかった。ちょうど荘が至り、具に堅の語を道い、そのうえで言った。「昔、袁紹・劉表・王凌・諸葛誕はみな一時の雄傑で、要地に拠り強兵を擁しました。しかし功業が成らず禍が踵を旋らさぬうちに至ったのは、まことに魏・晉が天子を挟み京都を保ち、大順に仗って名としたからです。今、尉遅迥は旧将と言われますが昏耄がすでに甚だしく、司馬消難と王謙は常人の下たる者で匡合の才はありません。周朝の将相の多くは身のために計り、競って楊氏に節を効しております。臣の料るところ、迥らは終には覆り滅び、随公は必ず周の祚を移しましょう。境を保ち民を息ませてその変を観られるに越したことはありません」。梁主は深くもっともとし、衆議はそのまま止んだ。
- 高熲が軍に至り、沁水に橋を為した。尉遅惇が上流から火の栰を縦った。熲はあらかじめ土狗(土の堤)を為して禦いだ。惇は陣を布くこと二十余里、兵を麾いて少し却き、孝寛の軍が半ば渡るのを待って撃とうとした。孝寛はその却くのに因って鼓を鳴らして斉しく進んだ。軍が渡り終えると、熲は橋を焚いて士卒が反り顧みる心を絶つよう命じた。惇の兵は大敗し、単騎で走った。孝寛は勝ちに乗じて進み追い、鄴に至った。
- 庚午、迥は惇および惇の弟の西都公尉遅祐とともに、その卒十三万を悉く将いて城南に陣した。迥は別に一万人を統べ、みな緑の巾に錦の襖で、黄竜兵と号した。迥の弟の勤が衆五万を率いて青州から迥に赴き、三千騎で先に至った。
- 迥はもとより軍旅に習い、老いてもなお甲を被って陣に臨んだ。その麾下の兵はみな関中の人で、これがために力戦した。孝寛らの軍は利あらずして却いた。鄴中の士民で戦を観る者は数万人であった。行軍総管宇文忻が言った。「事は急だ。私は詭道をもって破ろう」。そこでまず観る者を射た。観る者はみな走り、転じて相い騰り藉んで、声は雷霆のようであった。忻はそこで伝え呼ばわった。「賊が敗れたぞ」。衆はまた振るい、その擾れに因って乗じた。迥の軍は大敗し、走って鄴城を保った。孝寛は兵を縦して囲んだ。李詢および思安伯である代の人賀婁子幹が先に登った。
- 崔弘度の妹は先に迥の子に嫁いで妻となっていた。鄴城が破れ、迥は窘り迫って楼に升った。弘度は真っ直ぐ竜尾を上って追った。迥は弓を彎いて弘度を射ようとした。弘度は兜鍪を脱いで迥に言った。「かなり相い識っておられるか。今日は各々国事を図るもの。私を顧みてはならぬ。親戚の情で謹んで乱兵を遏め、侵し辱めるのを許さなかった。事勢はこのとおり。早く身のために計られよ。何を待たれるのか」。迥は弓を地に擲ち、左丞相を口を極めて罵って自殺した。弘度は弟の崔弘升を顧みて「汝、迥の頭を取れ」と言い、弘升は斬った。
- 軍士で小城の中にいた者を孝寛はことごとく阬にした。勤・惇・祐は東のかた青州へ走ったが、着かぬうちに開府儀同大将軍郭衍が追って獲た。丞相堅は勤に初め誠款があったとして特に罪しなかった。李恵は先に自ら縛って罪に帰し、堅はその官爵を復した。
- 迥は末年に衰え耄い、兵を起こすに及んで小御正崔達拏を長史とした。達拏は崔暹の子で、文士で籌略がなく、挙措に失が多かった。およそ六十八日にして敗れた。
- 于仲文の軍が蓼隄に至った。梁郡を去ること七里。檀譲は衆数万を擁していた。仲文は羸れた師で挑戦して偽り北げた。譲は備えを設けなかった。仲文は還り撃って大いに破り、五千余人を生獲し、七百級を斬首した。進んで梁郡を攻めると、迥の守将劉子寛は城を棄てて走った。仲文は進んで曹州を撃ち、迥の署した刺史李仲康を獲た。檀譲は余衆で成武に屯した。仲文は襲い撃って破り、そのまま成武を抜いた。
- 迥の将である席毗羅は衆十万で沛県に屯し、徐州を攻めようとしていた。その妻子は金郷にあった。仲文は人に毗羅の使者と詐らせ、金郷の城主徐善浄に「檀譲が明日の午の時に金郷に至り、蜀公の令を宣べて将士に賞賜する」と言わせた。金郷の人はみな喜んだ。仲文は精兵を選び、偽って迥の旗幟を建て、倍道して進んだ。善浄は望み見て檀譲と思って出迎え謁した。仲文は捕らえ、そのまま金郷を取った。
- 諸将の多くはその城を屠ることを勧めた。仲文は言った。「この城は毗羅の起兵した所。その妻子を寛くすべきだ。その兵は自ら帰る。もしすぐ屠れば、彼らの望みは絶える」。衆はみな善しと称した。こうして毗羅は衆を恃んで官軍に薄った。仲文は伏を設けて撃ち、毗羅の軍は大いに潰え、争って洙水に投じて死に、水はそのために流れなかった。檀譲を獲て檻で京師に送り、毗羅を斬って首を伝えた。
- 韋孝寛は兵を分けて関東の叛く者を討ち、ことごとく平らげた。堅は相州を安陽に徙し、鄴城および邑居を毀ち、相州を分けて毛州・魏州を置いた。
- 梁主は迥の敗を聞いて柳荘に「もし衆人の言に従っていたら、社稷はすでに守れなかった」と言った。
- 丞相堅が初め政を得たとき、黄公劉昉・沛公鄭訳を甚だ厚く待遇し、賞賜は数えきれず、心膂を委ね、言えば従わぬことがなかった。朝野は傾き属し、「黄・沛」と称した。二人はみな功を恃んで驕り恣にし、財利に溺れて職務に親しまなかった。監軍を辞するに及んで、堅は初めて疎んじ、恩礼は次第に薄くなった。高熲が軍所から還ると寵遇は日に隆くなった。
- 当時、王謙と司馬消難はまだ平らいでおらず、堅は憂えて寝食を忘れた。ところが昉は逸び遊び酒を縦にして相府の事は多く遺れ落ちた。堅はそこで高熲を昉に代えて司馬とした。訳を廃するに忍びず、ひそかに官属に敕して訳に事を白さぬようにした。訳はなお聴事に坐って関り預るところがなく、惶れ懼れて頓首し職を解くことを求めた。堅はなお恩礼をもって慰め勉めた。
- 周の王誼が四総管を率いて鄖州に至った。司馬消難はその衆を擁して魯山・甑山の二鎮をもって奔り来た。
- 九月庚戌、随の世子楊勇を洛州総管・東京小冢宰として旧斉の地を総統させた。壬子、左丞相堅を大丞相とし、左右丞相の官を罷めた。
- 冬十月、周の丞相堅が陳惑王純およびその子を殺した。
- 周の梁睿が歩騎二十万を将いて王謙を討った。謙は諸将に分け命じて険に拠って守らせた。睿は奮い撃ってしばしば破り、蜀人は大いに駭いた。謙はその将の達奚惎・高阿那肱・乙弗虔らに衆十万を率いさせて利州を攻め、江水を堰いて灌がせた。城中の戦士は二千に過ぎなかったが、総管である昌黎の豆盧勣が昼夜に拒み守ること四旬、時に奇兵を出して惎らを撃ち破った。ちょうど梁睿が至り、惎らは遁れ去った。
- 睿は剣閣から入り、進んで成都に逼った。謙は達奚惎・乙弗虔に城を守らせ、親ら精兵五万を率いて城を背にして陣を結んだ。睿が撃ち、謙は戦い敗れて城に入ろうとしたが、惎と虔が城をもって降った。謙は麾下三十騎を将いて新都へ走ったが、新都令王宝が捕らえた。戊寅、睿が謙および高阿那肱を斬り、剣南は平らいだ。
- 十二月甲子、周が大丞相堅を相国・総百揆とし、都督中外・大冢宰の号を去り、爵を進めて王とし、安陸など二十郡を随国とし、賛拝に名を称せず、九錫の礼を備えた。堅は王爵と十郡を受けただけであった。
十三年(581年)
- 春二月甲寅、隋王が初めて相国・百揆・九錫の命を受け、台を建て官を置いた。丙辰、詔して王妃の独孤氏を王后、世子勇を太子に進めた。
- 開府儀同大将軍庾季才が隋王に今月の甲子をもって天に応じて命を受けられるよう勧め、太傅李穆・開府儀同大将軍盧賁もまた勧めた。こうして周主が詔を下して別宮に遜り居った。甲子、兼太傅杞公椿に冊を奉じさせ、大宗伯趙煚に皇帝の璽紱を奉じさせて隋に禅位した。
- 隋王は遠遊冠を冠って冊と璽を受け、服を紗帽・黄袍に改めて入って臨光殿に御し、衮冕を服すること元会の儀のごとくした。大赦して開皇と改元し、有司に冊を奉じて南郊に祀るよう命じた。少冢宰元孝矩を遣わして太子勇に代えて洛陽を鎮させた。孝矩は名を矩といい字で通った。元天賜の孫で、娘は太子妃である。
- 少内史崔仲方が隋主に周の六官を除いて漢魏の旧に依ることを勧め、従った。三師・三公および尚書・門下・内史・秘書・内侍の五省、御史・都水の二台、太常など十一寺、左右衛など十二府を置いて司を分け職を統べさせた。また上柱国から都督まで十一等の勲官を置いて勤労に酬い、特進から朝散大夫まで七等の散官を置いて文武の官で徳の声ある者に加えた。侍中を納言と改めた。
- 相国司馬高熲を尚書左僕射兼納言、相国司録である京兆の虞慶則を内史監兼吏部尚書、相国内郎李徳林を内史令とした。
- 乙丑、皇考を武元皇帝と追尊して廟号を太祖、皇妣呂氏を元明皇后とした。丙寅、廟と社を脩め、王后独孤氏を皇后、王太子勇を皇太子に立てた。丁卯、大将軍趙煚を尚書右僕射とした。
- 己巳、周の静帝を介公に封じ、周氏の諸王はみな爵を降して公とした。
- はじめ劉昉・鄭訳が詔を矯めて隋主に政を輔けさせたとき、楊后は謀に預らなかったとはいえ、嗣主が幼く冲いので権が他族にあるのを恐れており、聞いて甚だ喜んだ。のちその父に異図があると知って意はかなり平らかでなく、言と色に表した。禅位するに及んで憤り惋むことはいよいよ甚だしくなった。隋主は内心甚だ愧じ、改めて楽平公主に封じた。久しくしてその志を奪おうとしたが、公主は誓って許さず、そこでやめた。
- 隋主は周の載下大夫である北平の栄建緒と旧交があった。隋主が禅を受けようとしていたとき、建緒は息州刺史となって官に之こうとしていた。隋主は「しばらく躊躇せよ。ともに富貴を取ろう」と言った。建緒は色を正して「明公のこの旨は、僕の聞くところではありません」と言った。即位して朝に来たとき、帝は「卿もまた悔いておらぬか」と言った。建緒は稽首して「臣の位は徐広ではありませんが、情は楊彪の類です」と言った。帝は笑って「朕は書を暁らぬとはいえ、卿のこの言が不遜であることも知っている」と言った。
- 上柱国竇毅の娘は隋が禅を受けたと聞いて堂の下に身を投じ、膺を撫して太息した。「恨むらくは私が男子でなく、舅氏の患いを救えぬことだ」。毅および襄陽公主はその口を掩って「汝、みだりに言うな。わが族を滅ぼす」と言った。毅はこれで奇とした。長じて唐公李淵に嫁いだ。淵は李昞の子である。
- 虞慶則が隋主に宇文氏をことごとく滅ぼすよう勧め、高熲・楊恵もまた依違して従った。李徳林は固く争って不可とした。隋主は色をなして「君は書生。ともにこれを議するに足りぬ」と言った。こうして周の太祖の孫である譙公宇文乾惲・冀公宇文絢、閔帝の子である紀公宇文湜、明帝の子である鄷公宇文貞・宋公宇文実、高祖の子である漢公宇文賛・秦公宇文贄・曹公宇文允・道公宇文充・蔡公宇文兊・荊公宇文元、宣帝の子である莱公宇文衍・郢公宇文述がみな死んだ。徳林はこれで品位が進まなかった。
- 五月、隋主がひそかに周の静帝を害し、恭陵に葬り、その族人の宇文洛を嗣とした。