通鑑紀事本末北周、北斉を滅ぼす(周滅齊)

北斉が和士開・祖珽・陸令萱・穆提婆・韓長鸞ら嬖幸の専横で内から崩れ、名将斛律光を讒言で殺し、琅邪王儼や河間王孝琬ら宗室を自ら誅したすえ、北周の武帝の親征を受けて晉州・晉陽・鄴を相次いで失い滅びるまでの19年間。韋孝寛の三策と伐斉の決断、平陽の攻防、安徳王延宗の奮戦、後主高緯の青州での擒縛、范陽王紹義の亡命までを述べる。

年表(18件)
  • 陳文帝
  • 天嘉三年562年長広王が即位し、和士開が黄門侍郎に取り立てられる
  • 四年563年和士開の惑わしで斉主が政を大臣に委ね、河南王孝瑜を毒殺する
  • 六年565年祖珽の献策で斉主が位を太子緯に伝え、自ら太上皇帝となる
  • 天康元年566年河間王孝琬が讒せられ、上皇に脛を折られて死ぬ
  • 臨海王
  • 光大元年567年祖珽が上皇を怒らせて地牢に下され、燻されて失明する
  • 二年568年上皇が殂し、和士開が喪を秘したのち馮子琮の説で発喪する
  • 陳宣帝
  • 太建元年569年和士開が復帰し、趙郡王叡が拉ぎ殺され婁定遠も外に出される
  • 二年570年和士開が尚書令となり、威権が日ごとに盛んになる
  • 三年571年琅邪王儼が和士開を斬るが、のち誘い出されて殺される
  • 四年572年韋孝寛の謡と祖珽の讒により斛律光とその一族が誅される
  • 五年573年三貴が政を専らにし、崔季舒・張雕ら諫めた文官が殿庭で斬られる
  • 六年574年斉主が鄴と晉陽の間を往還する
  • 七年575年周主が伐斉を決し、河陰を攻めたが疾を発して兵を引き還す
  • 八年576年周主が再び出て晉州を抜き、平陽の決戦に勝って晉陽を陥れる
  • 九年577年鄴が落ち、高緯は青州で擒えられて斉が滅び、のち温公に封ぜられる
  • 十年578年周の高祖が殂し、范陽王紹義の范陽挙兵も敗れて突厥へ還る
  • 十一年579年突厥の佗鉢可汗が周に和を請うが、紹義の引き渡しには従わない
  • 十二年580年賀若誼が佗鉢を賂して紹義を捕らえ、蜀に徙して病死させる

陳文帝天嘉三年(562年)

  • 斉主(高湛)が長広王であったとき、清都の和士開が握槊(すごろく)と琵琶を善くするので寵され、辟して開府行参軍とした。即位すると、しばしば遷って給事黄門侍郎となった。

四年(563年)

  • 斉の侍中・開府儀同三司の和士開が斉主に寵された。斉主は外朝で事を視、あるいは内で宴賞するにも、須臾の間も士開と会わずにいられなかった。あるいは数日帰らず、一日に数度入り、あるいは放ち還したあと、たちまち追い、まだ着かぬうちに騎を連ねて督し促した。姦らで諂うこと百端、寵愛は日に隆く、前後の賞賜は数えきれなかった。左右に侍るたび言辞も容止も鄙猥卑褻を極め、夜をもって昼に継ぎ、もはや君臣の礼はなかった。
  • 常に帝に言った。「古来、帝王はことごとく灰と土になりました。堯・舜も桀・紂も、結局どこが違いましょう。陛下は少壮のうちに意を極めて楽しみをなされ、縦横に行われるがよい。一日の快を取れば千年に敵します。国事はすべて大臣に付されて、何を弁ぜぬと慮られましょう。自ら勤め約するには及びません」。帝は大いに悦び、こうして趙彦深に官爵を掌らせ、元文遥に財用を掌らせ、唐邕に外の騎兵を掌らせ、信都の馮子琮と胡長粲に東宮を掌らせた。帝は三、四日に一度朝を視、数字を書くだけでほとんど物を言わず、たちまち罷めて入った。長粲は胡僧敬の子である。
  • 帝は士開に胡后と握槊させた。河南康献王高孝瑜が諫めた。「皇后は天下の母。どうして臣下と手を接せられましょう」。孝瑜はまた趙郡王高叡について、その父が非命に死んだので親近すべきでないと言った。これで叡と士開はともに譖った。士開は孝瑜が奢り僭すると言い、叡は「山東ではただ河南王のことのみ聞き、陛下がおられるとは聞きません」と言った。帝はこれで忌んだ。
  • 孝瑜がひそかに爾朱御女と語ったのを帝が聞いて大いに怒った。夏六月庚申、孝瑜に酒三十七杯を一気に飲ませた。孝瑜は体が肥え大きく、腰帯は十囲。帝は左右の婁子彦に載せて出させ、車中で毒を盛った。西華門に至って煩り躁いで水に投じて絶えた。太尉・録尚書事を贈った。宮中にいた諸侯であえて声を挙げる者はなく、ただ河間王高孝琬だけが大いに哭して出た。

六年(565年)

  • 斉の著作郎祖珽は文学があり技芸が多かったが、粗略で行いがなかった。かつて高祖の中外府功曹となったとき、宴で金の叵羅を失い、珽の髻の上から出てきた。また官の粟三千石を詐り盗んだ罪で鞭二百、甲坊に配された。
  • 顕祖の時、珽は秘書丞となり、華林遍略を盗み、他にも贓があって絞に当たったが、除名されて民となった。顕祖はしばしば法を犯すのを憎みながらその才伎を愛し、中書省に直させた。
  • 世祖が長広王であったとき、珽は胡桃油を作って献じ、そのついでに「殿下には非常の骨法があります。孝徴(珽の字)は殿下が竜に乗って天に上る夢を見ました」と言った。王は「もしそうなら兄を大いに富貴にしよう」と言った。即位して抜いて中書侍郎に拝し、散騎常侍に遷し、和士開とともに姦らな諂いを為した。
  • 珽はひそかに士開に説いた。「君の寵幸は古来比べるものがない。宮車が一日にして晩駕されたら、何をもって終わりを全うされるおつもりか」。士開はそのついでに計を問うた。珽は言った。「主上に『文襄・文宣・孝昭の子はみな立てなかった。今は皇太子に早く大位を践ませて君臣の分を定めるべきです』と説かれるべきです。もし事が成れば、中宮も少主も必ずみな君に徳とする。これぞ万全の計です。君はそれとなく主上に説いて粗々解らせられよ。珽が外から表を上って論じましょう」。士開は許諾した。
  • ちょうど彗星が見えた。太史は「彗は旧を除き新を布く象。主を易える事があるはず」と奏した。珽はそこで上書して「陛下は天子とはいえ、まだ極貴ではありません。位を東宮に伝え、そのうえで天道に応じられるべきです」と言い、あわせて魏の顕祖が子に禅った故事を上った。斉主は従った。
  • 丙子、太宰段韶に節を持たせて皇帝の璽綬を奉じさせ、位を太子緯に伝えた。太子は晉陽宮で皇帝の位に即き、大赦して天統と改元した。また詔して太子妃の斛律氏を皇后とした。こうして群公は世祖に尊号を上って太上皇帝とし、軍国の大事はみな奏聞させた。黄門侍郎馮子琮・尚書左丞胡長粲に少主を輔け導かせ、禁中を出入りして専ら敷奏を典らせた。子琮は胡后の妹の夫である。祖珽は秘書監に拝され、儀同三司を加えられ、大いに親しみ寵され、二宮に重んじられた。
  • 斉の世祖が長広王であったとき、しばしば顕祖に捶たれ、心に常に銜んでいた。顕祖は祖珽を見るたび常に「賊」と呼んだので、珽もまた怨み、あわせて世祖に媚を求めようとして、世祖に説いた。「文宣は狂暴でした。どうして『文』と称せましょう。すでに創業でもないのに、どうして『祖』と称せましょう。もし文宣を祖とすれば、陛下の万歳ののちは何と称すべきでしょう」。帝は従った。
  • 己丑、太祖献武皇帝の謚を改めて神武皇帝とし、廟号を高祖、献明皇后を武明皇后とし、有司に文宣の諡号を改めて議させた。
  • 十二月庚午、斉が文宣皇帝の謚を改めて景烈皇帝とし、廟号を威宗とした。

天康元年(566年)

  • 冬十二月、斉の河間王孝琬が執政を怨んで草人を作って射た。和士開と祖珽が上皇に譖った。「草人は聖躬に擬えたのです」。また「先に突厥が并州に至ったとき、孝琬は兜鍪を脱いで地に抵ち『私がどうして老婆で、こんな物を着ける必要があろう』と言いました。この言は大家(陛下)を指しています」。また「魏の世の謡に『河南に穀を種え、河北に白楊を生ず。樹端の金鶏鳴く』とある。河南・河北とは河間のこと。孝琬は金鶏を建てて大赦しようとしているのです」。上皇はかなり惑った。
  • ちょうど孝琬が仏牙を得て邸内に置いたところ夜に光があった。上皇は聞いて捜させ、庫に填める矟と幡数百を得た。上皇は反の具と見なして収めて訊べた。諸姫の中に陳氏という寵のない者があり、孝琬を誣いて「孝琬はいつも陛下の像を画いて哭しておりました」と言った。その実は世宗の像であった。
  • 上皇は怒って武衛赫連輔玄に鞭を倒さまにして撾たせた。孝琬が「叔父上」と呼んだ。上皇は「どうしてあえて私を叔父と呼ぶ」と言った。孝琬は「臣は神武皇帝の嫡孫、また文襄皇帝の嫡子、魏の孝静皇帝の甥です。どうして叔父と呼べぬことがありましょう」と言った。上皇はいよいよ怒り、その両脛を折って死なせた。
  • 安徳王高延宗が哭して涙が赤くなった。また草人を作って鞭打ち訊べ「なぜわが兄を殺した」と言った。奴が告げ、上皇は延宗を地に覆して馬の鞭で二百打ち、ほとんど死にかけた。

臨海王光大元年(567年)

  • 斉の秘書監祖珽は黄門侍郎劉逖と親しかった。珽は宰相を求めようとして趙彦深・元文遥・和士開の罪状を疏し、逖に奏させようとした。逖はあえて通さなかった。彦深らは聞いて先に上皇に詣でて自ら陳べた。上皇は大いに怒って珽を捕らえて詰った。
  • 珽はそこで士開・文遥・彦深らが朋党を組んで権を弄び、官を売り獄を鬻いだ事を陳べた。上皇は「お前は私を誹謗するのか」と言った。珽は「臣はあえて誹謗しません。陛下は人の娘を取られました」と言った。上皇は「私はその飢饉ゆえに収め養ったまでだ」と言った。珽は「なぜ倉を開いて振り給されぬのですか。かえって買って後宮に入れられるとは」と言った。上皇はいよいよ怒り、刀の鐶でその口を築き、鞭と杖を乱れ下ろして撲ち殺そうとした。珽は呼ばわった。「陛下、臣を殺されますな。臣は陛下のために金丹を合わせます」。そこでやや寛められた。珽は「陛下には一人の范増がありながら用いられぬ」と言った。上皇はまた怒って「お前は自ら范増に比べ、私を項羽とするのか」と言った。珽は「項羽は布衣で烏合の衆を率い、五年で覇業を成しました。陛下は父兄の資に藉ってやっとここに至られた。臣は項羽を軽んじやすくはないと思います」と言った。上皇はいよいよ怒って土でその口を塞がせた。珽は吐きつつ言った。そこで鞭二百、甲坊に配し、まもなく光州に徙し、敕して牢く掌らせた。別駕張奉福は「牢とは地牢のことだ」と言い、そこで地牢の中に置き、桎梏を身から離さなかった。夜は蕪菁の子を燭とし、眼はこれに熏され、これで失明した。

二年(568年)

  • 斉の尚書左僕射徐之才は医を善くした。上皇に疾があり、之才が療して癒えた。中書監和士開は次の遷を得ようとして之才を出して兖州刺史とした。
  • 夏五月癸卯、尚書右僕射胡長仁を左僕射、和士開を右僕射とした。長仁は太上皇后の兄である。
  • 冬十月辛巳、斉が士開を左僕射・中書監、唐邕を右僕射とした。
  • 十一月、斉の上皇が病んだ。駅で徐之才を追ったが、まだ至らなかった。辛未、疾が亟しくなり、後事を和士開に属し、その手を握って「私に負くな」と言い、そのまま士開の手の中で殂した。翌日、之才が至ったが、また州に還らせた。
  • 士開は喪を秘して三日発せなかった。黄門侍郎馮子琮がその故を問うた。士開は言った。「神武・文襄の喪はみな秘して発しなかった。今、至尊は年少で、王公に貳心ある者があるのを恐れる。意はことごとく涼風堂に追い集めて、しかるのち公と議したい」。士開はもとより太尉・録尚書事の趙郡王叡および領軍婁定遠を忌んでいた。子琮は遺詔を矯めて叡を外に出し定遠の禁兵を奪うのを恐れ、そこで説いた。「大行はすでに位を今上に伝えられました。群臣で富貴な者はみな至尊の父子の恩によるもの。ただ内にある貴臣を一切改め易えぬようにされれば、王公には必ず異志はありません。世は異なり事は殊なる。どうして覇朝と比べられましょう。しかも公が宮門を出られぬこと数日、升遐の事は行路の者もみな伝えております。久しく挙げねば他の変があるのを恐れます」。士開はそこで喪を発した。
  • 丙子、大赦した。戊寅、太上皇后を皇太后と尊んだ。侍中・尚書左僕射の元文遥は、馮子琮が胡太后の妹の夫であり、太后を賛けて朝政に干預するのを恐れ、趙郡王叡・和士開と謀って子琮を出して鄭州刺史とした。

陳宣帝太建元年(569年)

  • 春二月、斉が司空徐顕秀を太尉、并省尚書令婁定遠を司空とした。
  • はじめ侍中・尚書右僕射の和士開は世祖に親しみ狎れられ、臥内を出入りしてもう限度がなく、そのまま胡后に幸された。世祖が殂すと、斉主は士開が顧託を受けたとして深く委任し、威権はいよいよ盛んになった。婁定遠および録尚書事趙彦深・侍中尚書左僕射元文遥・開府儀同三司唐邕・領軍綦連猛・高阿那肱・度支尚書胡長粲とともに事を用い、時に八貴と号した。
  • 太尉趙郡王叡・大司馬馮翊王高潤・安徳王延宗は、婁定遠・元文遥とともに斉主に言い、士開を外任に出すことを請うた。ちょうど胡太后が朝の貴顕に前殿で觴した。叡は面と士開の罪と失を陳べた。「士開は先帝の弄臣、城狐社鼠です。貨賂を受け納れ、宮掖を穢し乱しました。臣らは義として口を杜ざせません。死を冒して陳べます」。太后は「先帝が在らせられた時、王らはなぜ言わなかったのか。今日、孤と寡を欺こうというのか。まあ飲んで多くを言うな」と言った。叡らの詞も色もいよいよ厲しくなった。儀同三司安吐根が「臣はもと商いの胡人で諸貴の行末に在るを得ました。厚恩を受けた以上、どうして死を惜しみましょう。士開を出されねば朝野は定まりません」と言った。太后は「別の日に論じよう。王らはしばらく散じよ」と言った。叡らはあるいは冠を地に投じ、あるいは衣を払って起った。
  • 翌日、叡らはまた雲竜門に詣で、文遥に入って奏させること三度に及んだが、太后は聴かなかった。左丞相段韶が胡長粲に太后の言を伝えさせた。「梓宮はまだ殯にある。事はあまりに怱々だ。王らは改めて思ってほしい」。叡らはそのまでみな拝謝した。長粲が復命すると、太后は「妹の母子の家を成すのは兄の力だ」と言い、厚く叡らに賜わって罷めさせた。
  • 太后と斉主が士開を召して問うた。士開は答えた。「先帝は群臣の中で臣を最も厚く待たれました。陛下の諒陰は始まったばかりで、大臣はみな覬覦の心を抱いております。今もし臣を出されるのは、まさに陛下の羽翼を翦ること。叡らに『文遥と臣はともに先帝の任用を受けた。どうして一人を去らせ一人を留められよう。ともに州に用いてよい。しかも出納は旧のまま、山陵を過ぎるのを待ってから遣わそう』と言われるべきです。叡らは臣が真に出ると思って心に必ず喜びましょう」。帝と太后はもっともとし、叡らにそのとおり告げ、そこで士開を兖州刺史、文遥を西兖州刺史とした。
  • 葬が畢わり、叡らは士開に路に就くよう促した。太后は士開を留めて百日を過ごさせようとしたが、叡は許さなかった。数日のうちに太后がしばしばこれを言った。太后の密旨を知る中人があって叡に言った。「太后の意がこのようである以上、殿下はどうして苦く違われるのか」。叡は「私が委ねられたものは軽くない。今、嗣主は幼く冲い。どうして邪臣を側に在らせられよう。死をもって守らねば、何の面目があって天を戴けようか」と言い、そのまま改めて太后に見えて苦く言った。太后は酒を酌んで叡に賜わるよう令した。叡は色を正して「今は国家の大事を論ずるのであって、巵酒のためではありません」と言い、言い終わってにわかに出た。
  • 士開は美女と珠簾を載せて婁定遠に詣で、謝して言った。「諸貴は士開を殺そうとしましたが、王のお力を蒙って特に命を全うされ、方伯に用いられました。今まさに別れをお告げします。謹んで女子二人と珠簾一つを差し上げます」。定遠は喜んで士開に「還って入りたいか」と言った。士開は「内に久しくおって自ら安んじられませんでした。今、出るを得たのはまことに本志を遂げたもの。二度と入ることは願いません。ただ王のご保護を乞い、長く大州の刺史であれば足ります」と言った。定遠は信じて門まで送った。士開は「今、遠くに出ます。願わくは一度、二宮に辞し覲えたい」と言い、定遠は許した。士開はこれで太后と帝に見えることができ、進み出て説いた。「先帝が一朝にして登遐され、臣は自ら死ねぬのを愧じております。朝貴の意勢を観るに、陛下を乾明(廃された済南王)のようにしようとしております。臣が出たのちには必ず大変があります。臣は何の面目あって地下で先帝にまみえましょう」。そのついでに慟哭した。帝も太后もみな泣いて、計はどこから出るかを問うた。士開は「臣はすでに入れました。何を慮ることがありましょう。ただ数行の詔書を要するのみ」と言った。
  • こうして詔して定遠を出して青州刺史とし、趙郡王叡を不臣の罪で責めた。翌朝、叡がまた入って諫めようとした。妻子はみな止めた。叡は「社稷の事は重い。私はむしろ死んで先皇に事えよう。朝廷の顛沛を見るに忍びぬ」と言った。殿門に至ってまた人が「殿下、入られますな。変があるのを恐れます」と言った。叡は「私は上、天に負かぬ。死んでも恨みはない」と言った。入って太后に見えると、太后はまたこれを言った。叡が執ることいよいよ固かった。出て永巷に至ったところで兵に遇って捕らえられ、華林園の雀離仏院に送られ、劉桃枝に拉ぎ殺された。叡は久しく朝政を典り、清く正しく自ら守った。朝野は冤とし惜しんだ。
  • また士開を侍中・尚書左僕射とした。定遠は士開に贈られたものを返し、そのうえで他の珍宝を加えて賂した。
  • 斉主は年少で嬖寵が多かった。武衛将軍高阿那肱はもとより諂い佞びるので世祖と和士開に厚遇された。世祖は多く東宮に在らせて斉主に侍らせ、これで寵され、しばしば遷って并省尚書令となり、淮陰王に封じられた。
  • 世祖は都督二十人を選んで東宮を侍衛させた。昌黎の韓長鸞がこれに預った。斉主は独り長鸞を親しみ愛した。長鸞は名を鳳といい字で通った。しばしば遷って侍中・領軍となり、内省の機密を総べ知った。
  • 宮婢の陸令萱は、その夫の漢陽の駱超が謀叛の罪で誅され、令萱は掖庭に配され、子の駱提婆もまた没して奴となった。斉主が襁褓にあったとき令萱が保ち養った。令萱は巧みで黠く、媚を取るのが上手で、胡太后に寵され、宮掖の中で独り威福を擅にし、封じられて郡君となった。和士開と高阿那肱はみなその養子となった。斉主は令萱を女侍中とした。令萱は提婆を引いて侍らせ、斉主は朝夕に戯れ狎れ、しばしば遷って開府儀同三司・武衛大将軍に至った。
  • 宮人の穆舎利は斛律后の従婢で斉主に寵された。令萱は附こうとしてその養母となり、薦めて弘徳夫人とし、そのついでに提婆に姓を穆氏と冒させた。
  • しかし和士開が事を用いること最も久しく、諸々の幸臣はみな依り附いてその寵を固めた。
  • 斉主は祖珽を思い、流囚の中から海州刺史に除した。珽はそこで陸媪(令萱)の弟である儀同三司陸悉達に書を遺した。「趙彦深は心腹が陰り沈み、伊尹・霍光の事を行おうとしている。儀同の姉弟がどうして平安を得られよう。なぜ早く智士を用いぬのか」。和士開もまた珽に胆略があるので引いて謀主としようとし、旧怨を棄てて虚心に待った。陸媪とともに帝に言った。「襄・宣・昭の三帝の子はみな立てなかった。今、至尊が独り帝位におられるのは祖孝徴の力です。人に功があれば報いぬわけにいきません。孝徴は心と行いは薄いとはいえ、奇略は人に出ており、緩急に使えます。しかもその人はすでに盲。必ず反く心はありません。呼び取って籌策を問われることをお請いします」。斉主は従い、召し入れて秘書監とし、開府儀同三司を加えた。
  • 士開が尚書令隴東王胡長仁の驕り恣なのを譖り、出して斉州刺史とした。長仁は怨み憤って刺客を遣わして士開を殺す謀を巡らせた。事が覚れ、士開は珽と謀った。珽は漢の文帝が薄昭を誅した故事を引き、そのまま使いを遣わして州で死を賜わった。

二年(570年)

  • 秋七月甲寅、斉が中領軍和士開を尚書令とし、淮陽王の爵を賜わった。士開の威権は日に盛んで、朝士で廉恥を知らぬ者はあるいはその仮子となり、富商大賈と伯仲の列に同じくあった。

三年(571年)

  • 春二月壬寅、斉が蘭陵王長恭を太尉、趙彦深を司空、和士開を録尚書事、徐之才を尚書令、唐邕を左僕射、吏部尚書馮子琮を右僕射としてそのまま選を摂させた。子琮はもとより士開に諂い附いていたが、ここに至って自ら太后の親属であり、かつ選を典ることから、かなり擅に人を引き用い、二度と啓し稟けなくなった。これで士開と隙を生じた。
  • 夏四月壬午、斉が琅邪王高儼を太保とした。琅邪王儼は和士開・穆提婆らの専横で奢り縦なのを、意に甚だ平らかでなかった。二人は相い謂って言った。「琅邪王の眼光は奕々として数歩先の人を射る。先ほど暫く対しただけで、覚えず汗が出た。われらは天子に見えて事を奏しても、そこまでではない」。これで忌み、儼を出して北宮に居らせ、五日に一度朝させ、時ならず太后に見えることができぬようにした。
  • 儼が太保に除せられたとき、他の官はことごとく解かれたが、なお中丞と京畿を帯びていた。士開らは北城に武庫があるので、儼を外に移してのちその兵権を奪おうとした。治書侍御史王子宜と、儼の親しむ開府儀同三司高舎洛・中常侍劉辟彊が儼に説いた。「殿下が疎まれるのは、まさに士開の間構によります。どうして北宮を出て民間に入られてよいものか」。
  • 儼は侍中馮子琮に「士開の罪は重い。児は殺したいと思うが、どうか」と言った。子琮は心に帝を廃して儼を立てようとしていたので、そのついでに勧め成した。儼は子宜に表して士開の罪を弾し、禁じて推すことを請わせた。子琮は他の文書に雑ぜて奏した。斉主は審らかに省みずに可とした。
  • 儼は領軍庫狄伏連を誑して「敕を奉じて領軍に士開を収めさせよとのことだ」と言った。伏連は子琮に告げ、あわせて覆奏することを請うた。子琮は「琅邪が敕を受けたのに、なぜ改めて奏す必要があろう」と言った。伏連は信じ、京畿の軍士を発して神虎門の外に伏せ、あわせて門番を戒めて士開を入れさせぬようにした。
  • 秋七月庚午の朝、士開が常のとおり早く参った。伏連が前に出て士開の手を執って「今、一つの大好事があります」と言い、王子宜が一函を授けて「敕があり、王に台へ向かうよう」と言い、そのついでに軍士を遣わして護送した。儼は都督馮永洛を台に就かせて斬った。
  • 儼の本意はただ士開を殺すのみだったが、その党は儼に逼って「事がこうなった以上、中止はできません」と言った。儼はそのまま京畿の軍士三千余人を率いて千秋門に屯した。
  • 帝は劉桃枝に禁兵八十人を将いさせて儼を召させた。桃枝が遥かに拝すると、儼は後ろ手に縛って斬れと命じ、禁兵は散り走った。帝はまた馮子琮に儼を召させた。儼は辞して言った。「士開は昔から実に万死に合します。至尊を廃し家家(太后)の髪を剃って尼とする謀を巡らせました。臣はこのために詔を矯めて誅したのです。尊兄がもし臣を殺そうとされるなら、あえて罪を逃れません。もし臣を赦されるなら、姉姉を遣わして迎えに来させていただきたい。すぐ入って見えます」。姉姉とは陸令萱のこと。儼は誘い出して殺そうとしたのである。令萱は刀を執って帝の後ろにおり、聞いて戦慄した。
  • 帝はまた韓長鸞に儼を召させた。儼が入ろうとすると、劉辟彊が衣を牽いて諫めた。「もし穆提婆母子を斬らねば、殿下は入られる由がありません」。広寧王高孝珩・安徳王延宗が西から来て「なぜ入らぬのか」と言った。辟彊は「兵が少ない」と言った。延宗は衆を顧みて言った。「孝昭帝が楊遵彦を殺したときはただ八十人。今は数千ある。何を少ないと言うか」。
  • 帝は泣いて太后に啓した。「縁があればまた家家にお会いします。縁がなければ永の別れです」。そこで急ぎ斛律光を召した。儼もまたこれを召した。光は儼が士開を殺したと聞いて掌を撫って大笑した。「竜の子の為すこと、もとより凡人には似ぬ」。入って永巷で帝に見えた。帝は宿衛の歩騎四百を率い甲を授けて出て戦おうとした。光は言った。「小児輩が兵を弄んでおります。手を交えれば乱れます。鄙諺に『奴は大家を見れば心が死ぬ』とあります。至尊は自ら千秋門に至られるべきです。琅邪は必ずあえて動きますまい」。帝は従った。
  • 光は歩いて道を行き、人を走らせて出て「大家が来られる」と言わせた。儼の徒は駭き散じた。帝は馬を橋の上に駐めて遥かに呼んだ。儼はなお立って進まなかった。光は就いて言った。「天子の弟が一夫を殺したまで。何を苦しまれるか」。その手を執って強いて引いて前に出、帝に請うた。「琅邪王は年少で腸は肥え脳は満ち、軽々しく挙措を為します。少し長ずれば自らそうでなくなりましょう。願わくはその罪を寛くされよ」。帝は儼の帯びた刀を抜き、鐶で辮の頭を乱れ築き、良久しくして釈した。
  • 庫狄伏連・高舎洛・王子宜・劉辟彊・都督翟顕貴を収めて後園で支解し、都の街に暴した。帝は儼の府の文武の職吏をことごとく殺そうとした。光は「これらはみな勲貴の子弟です。誅されれば人心が安んじられぬのを恐れます」と言い、趙彦深も「春秋は帥を責めます」と言った。こうしてそれぞれ差をつけて罪した。
  • 太后が儼を責め問うた。儼は「馮子琮が児に教えました」と言った。太后は怒って使いを内省に遣わし、弓の弦で子琮を絞め殺し、内参に庫車で屍を載せてその家に帰らせた。これより太后は常に儼を宮中に置き、食事のたび必ず自ら嘗めた。
  • 九月、斉の祖珽が陸令萱に説いて趙彦深を出して兖州刺史とした。斉主は珽を侍中とした。
  • 陸令萱が帝に説いた。「人は琅邪王を聡明雄勇、当今に敵なしと称しております。その相表を観るに、ほとんど人臣ではありません。自ら専らに殺して以来、常に恐懼を懐いております。早く計を為されるべきです」。幸臣の何洪珍らもまた殺すことを請うた。帝は決しかね、食の轝でひそかに珽を迎えて問うた。珽は周公が管叔を誅し、季友が慶父に毒を盛った故事を称した。
  • 帝はそこで儼を晉陽に携え、右衛大将軍趙元侃に儼を誘って捕らえさせようとした。元侃は「臣は昔、先帝に仕え、先帝が王を愛されるのを見ました。今、むしろ死に就いてもこれを行うに忍びません」と言った。帝は元侃を出して豫州刺史とした。
  • 庚午、帝が太后に啓した。「明朝、仁威(儼)と早く出て猟をしたい」。夜の四鼓、帝が儼を召した。儼は疑ったが、陸令萱が「兄が呼ばれるのに、なぜ行かぬのか」と言った。儼が出て永巷に至ると、劉桃枝がその手を後ろ手に縛った。儼は「家家と尊兄にお会いしたい」と呼んだ。桃枝は袖でその口を塞ぎ、袍を反して頭を蒙い、負って出た。大明宮に至って鼻血が面に満ち、拉ぎ殺した。時に年十四。席で裹んで室内に埋めた。帝は太后に啓させた。太后は臨んで十余声哭したが、すぐ抱えられて殿に入った。遺腹の四男はみな幽して死なせた。
  • 冬十月、京畿府を罷めて領軍に入れた。
  • 斉の胡太后は出入りに節がなく、沙門統の曇献と通じた。諸僧の中には戯れに曇献を太上皇と呼ぶ者さえあった。斉主は太后が謹しまぬと聞いていたがまだ信じなかった。のち太后に朝したとき、二人の尼を見て悦んで召したところ男子であった。こうして曇献の事も発覚し、みな誅に伏した。
  • 己亥、帝が晉陽から太后を奉じて鄴に還った。紫陌に至って大風に遇った。舎人魏僧伽は風角を習っており、「即時に暴逆の事があるはず」と奏した。帝は詐って「鄴中に変がある」と言い、弓を彎き弰を纏いて馳せて南城に入り、宦者鄧長顒を遣わして太后を北宮に幽し、そのうえで内外の諸親にみな胡太后と相い見えることを禁ずるよう敕した。太后があるいは帝のために食を設けても、帝はあえて嘗めなかった。

四年(572年)

  • 春二月庚寅、斉が侍中祖珽を左僕射とした。はじめ胡太后が北宮に幽されると、珽は陸令萱を太后にしようとし、令萱のために魏の保太后の故事を言い、そのうえ人に「陸は婦人とはいえ実に雄傑だ。女媧以来、これほどの者はいない」と言った。令萱もまた珽を国師・国宝と言った。これで僕射を得た。
  • 斉の尚書左僕射祖珽の勢いは朝野を傾けた。左丞相咸陽王斛律光はこれを悪み、遥かに見るたび罵って「多事な乞索の小人め、何の計を行おうというのか」と言った。またかつて諸将に言った。「辺境の消息や兵馬の処分は、趙令(彦深)は恒にわれらと参り論じたものだ。盲人が機密を掌ってこのかた、まったくわれらに語らぬ。まさに国家の事を誤るのを恐れる」。
  • 光がかつて朝堂で簾を垂れて坐っていた。珽は知らず馬に乗ってその前を過ぎた。光は怒って「小人め、よくもそんなことを」と言った。のち珽が内省で言声が高く慢りであったとき、光がちょうど過ぎて聞き、また怒った。珽は覚り、ひそかに光の従奴に賂して問うた。奴は言った。「公が事を用いられて以来、相王は夜ごと膝を抱いて『盲人が国に入った。必ず破れよう』と歎じておられます」。
  • 穆提婆が光の庶出の娘を娶ることを求めたが許されなかった。斉主が提婆に晉陽の田を賜わった。光は朝で言った。「この田は神武帝以来、常に禾を種えて馬数千匹を飼い、冦敵に擬えてきたもの。今、提婆に賜わるのは軍務を欠くことにならぬか」。これで祖と穆はみな怨んだ。
  • 斛律后は寵がなく、珽はそれに因って間を為した。光の弟の斛律羨は都督・幽州刺史・行台尚書令で、これも兵を治めるのを善くし、士馬は精強、鄣と候は厳整で、突厥は畏れて南可汗と言った。光の長子の斛律武都は開府儀同三司・梁兖二州刺史であった。
  • 光は貴きこと人臣を極めたが、性は節倹で声色を好まず、賓客に接することは稀で、饋餉を杜絶し、権勢を貪らなかった。朝廷の会議のたび常に独り後に言い、言えばすぐ理に合った。表疏があれば人に筆を執らせて口ずから述べ、務めて省き実に従った。兵を行るには父の斛律金の法に倣い、営舎が定まらぬうちは終に幕に入らず、あるいは終日坐らず、身に介冑を脱がず、常に士卒に先んじた。士卒に罪があればただ大杖で背を撾ち、みだりに殺したことはなかった。衆はみな争ってそのために死んだ。結髪して従軍して以来、かつて敗北したことがなく、深く隣敵に憚られた。
  • 周の勲州刺史韋孝寛がひそかに謡を作った。「百升、天に飛び上り、明月、長安を照らす」。また「高山は推さずして自ら崩れ、槲木は扶けずして自ら挙がる」。諜者に鄴に伝えさせ、鄴中の小児が路で歌った。珽はそのついでに続けて言った。「盲の老公は大斧を背に受け、饒舌の老母は語るを得ず」。その妻の兄の鄭道蓋に奏させた。
  • 帝が珽に問うた。珽と陸令萱はみな「実にあると聞きます」と言った。珽はそのついでに解いた。「百升とは斛のこと。盲の老公とは臣のこと。国と憂いを同じくします。饒舌の老母とは女侍中の陸氏を指すようです。しかも斛律氏は累世の大将、明月(光の字)の声は関西を震わせ、豊楽(羨の字)の威は突厥に行われ、娘は皇后、男は公主を娶っております。謡言は甚だ畏るべきです」。帝が韓長鸞に問うと、長鸞は不可とし、事はそのまま寝んだ。
  • 珽はまた帝に見えて間を請うた。ただ何洪珍だけが側にいた。帝は「先に公の啓を得てすぐ施行しようとしたが、長鸞がこの理はないと言った」と言った。珽がまだ答えぬうちに洪珍が進み出て言った。「もともとその意がないのならよろしい。すでにこの意がありながら決して行われず、万一漏れ露れたらいかがなさいます」。帝は「洪珍の言が是だ」と言ったが、なお決しなかった。
  • ちょうど丞相府佐の封士譲がひそかに啓した。「光は先の西討から還ったとき、敕で兵を散じさせたのに、光は兵を引いて帝城に逼り、不軌を行おうとしました。事は果たさず止みましたが、家には弩と甲を蔵し、奴僮は千を数え、いつも使いを豊楽・武都のところへ遣わして陰謀の往来をしております。もし早く図られねば、事は測るべからざるものとなるのを恐れます」。帝はそのまま信じ、何洪珍に「人の心とはまことに霊なものだ。私は先にその反そうとするのを疑ったが、果たしてそうだった」と言った。
  • 帝は性が怯えで、すぐ変があるのを恐れ、洪珍を馳せさせて祖珽を召し、告げて、光を召しても従わぬのを恐れると言った。珽は請うた。「使いを遣わして駿馬を賜わり、『明日、東山に遊ぼうと思う。王はこれに乗って同行せよ』と語られよ。光は必ず入って謝します。そのついでに捕らえられよ」。帝はそのとおりにした。
  • 六月戊辰、光が入って涼風堂に至った。劉桃枝が後ろから撲ったが仆れなかった。顧みて「桃枝はいつもこんな事をする。私は国家に負いておらぬ」と言った。桃枝は三人の力士と弓の弦をその頸に罥け、拉いで殺した。血が地に流れ、剗っても跡はついに滅えなかった。
  • こうして詔を下してその謀反を称し、あわせてその子の開府儀同三司斛律世雄・儀同三司斛律恒伽を殺した。祖珽は二千石郎の刑祖信に光の家を簿録させた。珽が都省で得た物を問うと、祖信は「弓十五、宴射の箭百、刀七、賜わった矟二を得ました」と言った。珽は声を厲しくして「他に何を得た」と言った。「棗の杖二十束を得ました。奴僕で人と鬪う者があれば曲直を問わずすぐ一百杖打つためのものです」。珽は大いに慙じ、声を落として言った。「朝廷はすでに重刑を加えた。郎中がどうして雪ぐべきであろう」。出てから人がその抗直を咎めた。祖信は慨然として「賢き宰相ですら死んだ。私が何の余生を惜しもう」と言った。
  • 斉主は使いを州に就かせて斛律武都を斬り、また中領軍賀抜伏恩を駅に乗せて斛律羨を捕らえさせ、そのうえで洛州行台僕射である中山の独孤永業を羨に代え、大将軍鮮于桃枝と定州の騎卒を発して続いて進ませた。伏恩らが幽州に至った。門番が「使人は甲を衷にし、馬に汗があります。城門を閉ざされるべきです」と白した。羨は「敕使をどうして疑い拒めよう」と言い、出て会った。伏恩は捕らえて殺した。
  • はじめ羨は常に盛満を懼れとし、表して職を解くことを求めたが許されなかった。刑に臨んで歎じた。「富貴がこれほど。娘は皇后、公主は家に満ち、常に三百の兵を使う。どうして敗れずにおられよう」。その五子の斛律伏護・世達・世遷・世辨・世酋もみな死んだ。
  • 周主は光の死を聞いてこれがために大赦した。
  • 祖珽は侍中高元海とともに斉の政を執った。元海の妻は陸令萱の甥である。元海はしばしば令萱の密語を珽に告げた。珽が領軍となることを求め、斉主は許した。元海はひそかに帝に「孝徴は漢人で両目も盲。どうして領軍にできましょう」と言い、そのついでに珽が広寧王孝珩と交わり結んでいると言った。これで中止となった。
  • 珽は見えて自ら弁ずることを求め、そのうえで「臣と元海は素より嫌があります。必ず元海が臣を譖ったのです」と言った。帝は顔が弱く諱めず、実をもって告げた。珽はそのついでに元海が司農卿尹子華らと結んで朋党を為していると言い、また元海が泄らした密語を令萱に告げた。令萱は怒って元海を出して鄭州刺史とし、子華らはみな黜けられた。
  • 珽はこれより専ら機衡を主り、騎兵・外兵の事を総べ知り、内外の親戚がみな顕位を得た。帝は常に側近の要人に扶け侍らせて出入りさせ、真っ直ぐ永巷に至らせ、いつも御榻を同じくして政事を論じ決した。委任の重きこと群臣に比べるものがなかった。
  • 秋八月庚午、斉が皇后斛律氏を廃して庶人とした。
  • はじめ斉の胡太后は自ら徳を失ったのを愧じ、斉主に悦ばれることを求め、そこで兄の長仁の娘を飾って宮中に置き、帝に見えさせた。帝は果たして悦んで納れ昭儀とした。
  • 斛律后が廃されると、陸令萱は穆夫人を立てようとし、太后は胡昭儀を立てようとしたが、力が及ばず、そこで辞を卑くし礼を厚くして令萱に求め、姉妹の契りを結んだ。令萱もまた胡昭儀の寵幸がまさに隆んなのでやむを得ず、祖珽と帝に白して立てた。戊子、皇后胡氏を立てた。
  • 冬十月、斉の陸令萱は穆昭儀を皇后に立てようとし、いつもひそかに斉主に「どうして男が皇太子でありながら身が婢妾である者がありましょう」と言った。胡后は帝に寵されて離間できなかった。令萱はそこで人に厭蠱の術を行わせた。旬朔の間に胡后は精神が恍惚となり、言も笑いも恒がなくなった。帝は次第に畏れて悪んだ。
  • 令萱はある朝、突然、皇后の服御を穆昭儀に着せ、また別に宝の帳を造り、枕席・器玩に至るまで珍奇でないものはなく、昭儀を帳の中に坐らせて帝に言った。「一人の聖女がおります。大家に見せてさしあげましょう」。昭儀を見るに及んで令萱は「このような人が皇后とならねば、何物が皇后になるのですか」と言った。帝はその言を納れ、甲午、穆氏を右皇后に立て、胡氏を左皇后とした。
  • 十二月、斉の胡后の立ったのは陸令萱の意ではなかった。令萱はある朝、太后の前で色をなして言った。「何たる親姪、このような語を為されるとは」。太后がその故を問うと、令萱は「申せません」と言った。固く問うと、そこで言った。「大家に『太后の行いは非法が多く、訓えとはできぬ』と語られたとか」。太后は大いに怒り、后を呼び出してその場でその髪を剃り、家に送り還した。辛丑、胡后を廃して庶人とした。それでも斉主はなお思い、いつも物を致して意を通じた。
  • これより令萱とその子である侍中穆提婆の勢いは内外を傾け、官を売り獄を鬻ぎ、聚め斂めて厭くことがなかった。一度の賜与のたび、動もすれば府蔵を傾けた。令萱には太后以下みなその指揮を受け、提婆には唐邕の徒もみな迹を重ね気を屏め、殺生も与奪もただ意の欲するままであった。

五年(573年)

  • 春正月戊寅、斉が并省尚書令高阿那肱を録尚書事として外兵および内省の機密を総べ知らせた。侍中城陽王穆提婆・領軍大将軍昌黎王韓長鸞と共に衡軸に処り、三貴と号した。国を蠧み民を害すること日に月に滋々甚だしくなった。
  • 長鸞の弟の韓万歳、子の韓宝行・宝信はともに開府儀同三司。万歳はそのうえ侍中を兼ね、宝行・宝信はみな公主を娶った。群臣が朝に参るたび、帝は常にまず長鸞を引いて顧み訪ね、出てからようやく奏事の官を引いた。もし事を視ぬときは、内省に急事があってもみな長鸞に附して奏聞した。軍国の要と密で手を経ぬものはなかった。とりわけ士人を疾み、朝夕の宴も私の場も、ただ譖り訴えることのみを事とした。常に刀を帯びて馬を走らせ、かつて安らかに行くことがなく、目を瞋らせ拳を張り、人を噉らう勢いがあった。朝士は事を咨るにもあえて仰ぎ視ず、動もすれば呵り叱られた。いつも罵って「漢の狗どもは大いに耐えがたい。ただ殺すべきのみ」と言った。
  • 斉は和士開が事を用いて以来、政体が隳れ紊れた。祖珽が政を執るに及んでかなり才望のある者を収め挙げ、内外は美と称した。珽はさらに政務を増減し、人物を沙汰し、官号と服章をみな故事に依らせようとし、また諸々の閹豎および群小の輩を黜けて治を致す方とした。陸令萱と穆提婆は議にかなり同異があった。
  • 珽はそこで御史中丞麗伯律にそれとなく主書の王子沖が賂を納れたことを弾劾させた。その事が提婆に連なるのを知り、贓罪を相い及ぼさせ、これに因って令萱まで並び坐させることを望んだ。それでもなお斉主が近習に溺れるのを恐れ、后の党を引いて援けとしようとし、そこで胡后の兄の胡君瑜を侍中・中領軍とすることを請い、また君瑜の兄である梁州刺史胡君璧を徴して御史中丞にしようとした。
  • 令萱は聞いて怒りを懐き、百方に排し毀った。君瑜を出して金紫光禄大夫とし中領軍を解き、君璧は梁州に鎮に還らせた。胡后の廃されたのも、かなりこれによる。王子沖を釈して問わなかった。
  • 珽は日に日に疎まれ、諸々の宦者がさらに共に譖った。帝が陸令萱に問うた。令萱は憫えて黙して答えず、三度問われてようやく牀を下りて拝して言った。「老婢は死ぬべきです。老婢は初め和士開が『孝徴は多才博学』と言うのを聞き、善人だと思って挙げました。近ごろこれを観るに、まことに大いなる姦臣。人は実に知りがたいもの。老婢は死ぬべきです」。
  • 帝は韓長鸞に検案させた。長鸞はもとより珽を悪んでおり、その敕を詐り出して賜わりを受けた等の十余事を得た。帝はかつてこれと重き誓いを交わしたので殺さず、珽の侍中・僕射を解いて出して北徐州刺史とした。珽は帝に見えることを求めたが、長鸞は許さず、人を遣わして柏閤の外へ推し出させた。珽は坐って行こうとしなかった。長鸞は牽き曳いて出させた。
  • 癸巳、斉が領軍穆提婆を尚書左僕射、侍中・中書監段孝言を右僕射とした。孝言は段韶の弟である。はじめ祖珽が政を執ったとき孝言を引いて助けとし、吏部尚書に除した。孝言のおよそ進め擢く者は賄でなければ旧知であった。仕を求める者は、あるいは広い会の場で膝行し跪き伏して公然と自ら陳べ請うた。孝言は気色揚々として己の任と思い、事に随って酬い許した。将作丞崔成が突然、衆中で抗言した。「尚書は天下の尚書。どうして段家の尚書のみでありましょうか」。孝言は応える辞なく、ただ色を厲しくして下がらせるのみであった。まもなく韓長鸞らと共に祖珽を構え、逐って代わった。
  • 冬十月、斉の国子祭酒張雕が経を斉主に授けて侍読となり、帝は甚だ重んじた。雕は寵された胡人の何洪珍と結び、穆提婆・韓長鸞らはこれを悪んだ。洪珍が雕を薦めて侍中とし、開府儀同三司を加え、度支の事を奏させた。大いに帝に委ね信じられ、常に「博士」と呼ばれた。
  • 雕は自ら微賤から出て大臣の位に致ったので、効を立てて恩に報いようとし、論議は抑揚があってはばかるところがなく、宮掖の急がぬ費えを省き、左右の驕り縦な臣を禁じ約し、しばしば寵要の者を譏り切り、帷幄で献替した。帝もまた深く倚り仗んだ。雕はそのまま澄清を己の任とし、意気は甚だ高かった。貴幸の者はみな側目し、ひそかに陥れる謀を巡らせた。
  • 尚書左丞封孝琰は封隆之の弟の子で、侍中崔季舒とともに祖珽に厚遇されていた。孝琰はかつて珽に「公は衣冠の宰相。他の人とは異なります」と言った。近習は聞いて大いに恨みとした。
  • ちょうど斉主が晉陽へ行こうとした。季舒と張雕が議した。「寿陽が囲まれ、大軍が出て拒んでおり、信使の往還には節度を稟けねばならぬ。しかも路の小人があるいは相い驚き恐れ、大駕が并州へ向かうのは南の冦を畏れ避けるためだと思うだろう。もし啓し諫めねば、人情が駭き動くのを恐れる」。そのまま従駕の文官と名を連ねて進み諫めた。
  • 当時の貴臣趙彦深・唐邕・段孝言らの意には異同があった。季舒が争って未だ決せぬうちに、長鸞がにわかに帝に言った。「諸々の漢の官が名を連ねて総べ署し、声は并州への幸を諫めると言いながら、その実は必ずしも反せぬとは限りません。誅戮を加えられるべきです」。
  • 辛丑、斉主はすでに署名した者をことごとく召して含章殿に集め、季舒・雕・孝琰および散騎常侍劉逖・黄門侍郎裴沢・郭遵を殿庭で斬った。家属はみな北辺に徙し、婦女は奚官に配し、幼男は蚕室に下し、資産を没入した。癸卯、そのまま晉陽へ行った。

六年(574年)

  • 春正月、斉主が鄴に還った。
  • 秋八月、斉主が晉陽へ行った。

七年(575年)

  • 春正月、斉主が鄴に還った。
  • 二月、斉主は言語が澁く訥り、朝士に見えるのを喜ばず、寵され私され昵しみ狎れた者でなければ、かつて語を交えなかった。性は懦く人に視られるに堪えず、三公・令・録が事を奏しても仰ぎ視ることを得ず、みなおおよその大指を陳べて驚き走り出た。
  • 世祖の奢泰の余を承け、帝王とはそうあるべきものと思い、後宮はみな宝の衣に玉の食、一つの裙の費えは万匹にも直り、競って新奇巧妙を為し、朝の衣は夕に弊れた。盛んに宮苑を修めて壮麗を窮め極め、好むところは一定せずしばしば毀してはまた造り、百工の土木は休み息む時なく、夜は火を然して照らして作らせ、寒ければ湯を泥とした。晉陽の西山を鑿って大像を作り、一夜に油万盆を然し、光は宮中を照らした。災異や冦盗があるたび自ら貶め損ずることなく、ただ多く斎を設けて修徳とした。自ら琵琶を弾じて「無愁の曲」を為すのを好み、近侍でこれに和する者は百を数えた。民間はこれを「無愁天子」と言った。
  • 華林園に貧児村を立て、帝は自ら藍縷の服を着てその間で行き乞い、楽しみとした。また西の鄙の諸城を写し築き、人に黒衣を着せて攻めさせ、帝は自ら内参を率いて拒み鬪った。
  • 陸令萱・穆提婆・高阿那肱・韓長鸞らを寵し任じて朝政を宰し制し、宦官の鄧長顒・陳徳信・胡児の何洪珍らがみな機権に参預し、各々親党を引いて越えて顕位に居った。官は財によって進み、獄は賄によって成り、競って姦らに諂い、政を蠧み民を害した。旧い蒼頭の劉桃枝らはみな開府に封王され、その他の宦官・胡児・歌舞人・見鬼人・官の奴婢などで濫りに富貴を得た者はほとんど万を数え、庶姓で封王された者は百を数え、開府は千余人、儀同は無数、領軍は一時に二十人に至り、侍中・中常侍は数十人、ついには狗・馬および鷹にまで儀同・郡君の号があり、鬪鶏で開府と号するものもあり、みなその幹禄を食んだ。
  • 諸々の嬖幸は朝夕に左右で娯しみ侍り、一度の戯れの賞が動もすれば巨万を踰えた。まもなく府蔵は空竭し、そこで二、三郡あるいは六、七県を賜わって官を売って直を取らせた。これで守や令となる者はおおむねみな富商大賈で、競って貪り縦にし、賦は繁く役は重く、民は生を聊しとしなかった。
  • 周の高祖は斉を伐つ謀を巡らせ、辺鎮に儲え備えを益し戍卒を加えるよう命じた。斉人は聞いて、これも守禦を増し修めた。柱国于翼が諫めた。「疆場は相い侵し、互いに勝負があります。いたずらに兵と儲えを損なうだけで大計に益はありません。厳を解いて好みを継ぎ、彼を懈らせて備えなからしめ、しかるのち間に乗じてその不意に出れば、一挙に取れましょう」。周主は従った。
  • 韋孝寛が疏を上って三策を陳べた。――その一。「臣は辺に在ること年を積み、かなり間隙を見てまいりました。際会に因らねば功を成しがたい。それゆえ先年の出軍はいたずらに労費のみで功績が立たなかったのは、機会を失ったからです。なぜなら、長淮の南はもと沃土でした。陳氏は破亡の余燼をもって、なお一挙にこれを平らげました。斉人は年を歴て救いに赴きながら喪い敗れて返り、内は離れ外は叛き、計は尽き力は窮まっております。讎敵に釁があるのを失ってはなりません。今、大軍がもし軹関を出て軌を並べて進み、あわせて陳氏と掎角を為し、そのうえ広州の義旅を三鵶から出させ、また山南の驍鋭を募って河に沿って下らせ、さらに北山の稽胡を遣わしてその并・晉の路を絶ち、これら諸軍にそれぞれ関河の外の勁勇の士を募らせ、その爵賞を厚くして前駆とさせれば、岳は動き川は移り、雷のごとく駭き電のごとく激しく、百道からともに進んでともに虜庭に趨れば、必ず旗を望んで奔り潰え、向かうところ摧き殄ぼされましょう。一戎して大いに定まるのは、実にこの機にあります」。――その二。「もし国家がさらに後図を為し、すぐには大挙されぬなら、陳人と兵勢を分かたれるべきです。三鵶以北、万春以南で大いに屯田を事とし、あらかじめ貯え積み、その驍悍な者を募って部伍を立てる。彼は東南に敵があって戎馬が相い持つ。我は奇兵を出してその疆場を破る。彼がもし師を興して援けに赴けば、我は壁を堅くし野を清め、その去るのが遠くなるのを待ってまた師を出す。常に辺外の軍をもってその腹心の衆を引く。我に宿舂の費えなく、彼には奔命の労がある。一、二年のうちに必ず自ら離れ叛きましょう。しかも斉氏は昏く暴く、政は多門から出、獄を鬻ぎ官を売り、ただ利のみを視、酒色に荒れ淫れ、忠良を忌み害し、闔境は嗷然としてその弊に勝えません。これを観れば覆亡は待つべし。しかるのち間に乗じて電のごとく掃えば、事は枯れたるを摧くに等しい」。――その三。「昔、勾践が呉を亡ぼすにも十載を期し、武王が紂を取るにも二度の挙を煩わしました。今もし更に遵養を存し、しばらく時を相られるなら、臣は隣好を還り崇め、その盟約を申べ、民を安んじ衆を和し、商を通じ工を恵み、鋭を蓄え威を養い、釁を観て動かれるべきだと思います。これぞ長策で遠く馭し、坐して自ら兼併するものです」。――
  • 書が奏されると、周主は開府儀同三司伊婁謙を内殿に引き、従容として「朕は兵を用いたい。何を先とすべきか」と言った。答えた。「斉氏は倡優に沈み溺れ、麴蘖(酒)に耽り昏み、その折衝の将である斛律明月はすでに讒口に斃れました。上下は心を離し、道路は目をもってす。これは取りやすいものです」。帝は大笑した。
  • 二月丙辰、謙と小司寇元衛を斉に聘せさせ、釁を観させた。
  • これより先、周主は独り斉王憲および内史王誼と斉を伐つ謀を巡らせ、また納言盧韞を駅馬に乗せて三度、安州総管于翼に詣でさせて策を問うた。他の人はみな知らなかった。
  • 秋七月丙子、初めて大将軍以上を大徳殿に召して告げた。丁丑、詔を下して斉を伐つとし、柱国陳王宇文純・滎陽公司馬消難・鄭公達奚震を前三軍総管、越王宇文盛・周昌公侯莫陳崇・趙王宇文招を後三軍総管とし、斉王憲に衆二万を率いて黎陽へ趨らせ、随公楊堅・広寧公薛廻に舟師三万を将いさせて渭から河に入らせ、梁公侯莫陳芮に衆二万を率いて太行道を守らせ、申公李穆に衆三万を率いて河陽道を守らせ、常山公于翼に衆二万を率いて陳・汝に出させた。誼は王盟の兄の孫、震は達奚武の子である。
  • 周主が河陽に出ようとした。内史上士宇文㢸が言った。「斉氏の建国は今に累世。無道とはいえ藩鎮の位にはなお人がおります。今の出師は要は地を択ぶことです。河陽は衝要で精兵の聚まるところ。力を尽くして攻め囲んでも志を得がたいのを恐れます。臣の見るところ、汾曲に出れば戍は小さく山は平らかで、攻めて抜きやすい。武を用いる地としてここに過ぎるものはありません」。民部中大夫である天水の趙煚は「河南の洛陽は四面に敵を受けます。たとえ得ても守れません。河北から直ちに太原を指し、その巣穴を傾ければ、一挙に定められましょう」と言った。遂伯下大夫鮑宏は「我は強く斉は弱く、我は治まり斉は乱れております。何を克てぬと憂えましょう。ただ先帝は往日しばしば洛陽に出られ、彼はすでに備えがあって、いつも捷ちませんでした。臣の計るところでは、兵を汾・潞に進め、直ちに晉陽を掩い、その不虞に出るのが上策のようです」と言った。周主はみな従わなかった。宏は鮑泉の弟である。
  • 壬午、周主が衆六万を率いて直ちに河陰を指した。楊素がその父の麾下を率いて先駆することを請い、周主は許した。
  • 八月、周師が斉の境に入った。樹を伐り稼を践むのを禁じ、犯す者はみな斬った。丁未、周主が河陰の大城を攻めて抜いた。斉王憲は武済を抜き、進んで洛口を囲み、東西の二城を抜き、火船を縦って浮橋を焼き、橋は絶えた。斉の永橋大都督である太安の傅伏は永橋から夜に中潬城に入った。
  • 周人は南城を克ってから中潬を囲んだが、二旬しても下らなかった。洛州刺史独孤永業が金墉を守り、周主が自ら攻めたが克てなかった。永業は夜を通じて馬槽二千を弁えた。周人は聞いて大軍が至ろうとしていると思って憚った。
  • 九月、斉の右丞相高阿那肱が晉陽から兵を将いて周師を拒み、河陽に至った。ちょうど周主に疾があり、辛酉の夜、兵を引いて還った。水軍はその舟艦を焼いた。傅伏が行台乞伏貴和に「周師は疲れ弊れております。精騎二千を得て追撃すれば破れましょう」と言ったが、貴和は許さなかった。
  • 斉王憲・于翼・李穆は向かうところ克ち捷ち、降し抜いた城は三十余に及んだが、みな棄てて守らず、ただ王薬城が要害なので儀同三司韓正に守らせた。正はまもなく城をもって斉に降った。戊寅、周主が長安に還った。

八年(576年)

  • 秋九月、周主が群臣に言った。「朕は去年たまたま疾疹があり、そのまま逋れた冦を克ち平らげられなかった。先に斉の境に入って具にその情を見た。彼の師を行るは、ほとんど児戯に同じ。まして朝廷は昏乱し、政は群小から出、百姓は嗷然として朝に夕を謀らず。天が与えるを取らねば後悔を貽すのを恐れる。先に河外に出たのは、まさに背を拊っただけで、その喉を扼していない。晉州はもと高歓の起こった地で、鎮め摂えることが要かつ重い。今、往って攻めれば彼は必ず救いに来る。わが軍を厳にして待ち、撃てば必ず克てる。しかるのち破竹の勢いに乗じ、鼓を鳴らして東へ行けば、その巣穴を窮め、文と軌を混同するに足る」。諸将の多くは行くことを願わなかった。帝は「機は失うべからず。わが軍を沮む者があれば軍法をもって裁く」と言った。
  • 冬十月己酉、周主が自ら将いて斉を伐った。越王盛・杞公宇文亮・随公楊堅を右三軍、譙王宇文倹・大将軍竇泰・広化公丘崇を左三軍、斉王憲・陳王純を前軍とした。亮は宇文導の子である。
  • 丙辰、斉主が祁連池で猟した。癸亥、晉陽に還った。
  • これより先、晉州行台左丞張廷儁は公直で勤敏、儲え備えがあり、百姓は業に安んじ、疆場に虞れがなかった。諸々の嬖倖は悪んでこれに代わり、これで公私は煩わされ擾された。
  • 周主は晉州に至って汾曲に軍し、斉王憲に精騎二万を将いさせて雀鼠谷を守らせ、陳王純に歩騎二万で千里径を守らせ、鄭公達奚震に歩騎一万で統軍川を守らせ、大将軍韓明に歩騎五千で斉子嶺を守らせ、焉氏公尹升に歩騎五千で鼓鍾鎮を守らせ、涼城公辛韶に歩騎五千で蒲津関を守らせ、趙王招に歩騎一万で華谷から斉の汾州の諸城を攻めさせ、柱国宇文盛に歩騎一万で汾水関を守らせ、内史王誼を遣わして諸軍を監して平陽城を攻めさせた。斉の行台僕射海昌王尉相貴が城に籠って拒み守った。相貴は尉相願の兄である。
  • 甲子、斉が兵を晉祠に集めた。庚午、斉主が晉陽から諸軍を率いて晉州へ趨った。
  • 周主は日々自ら汾曲から城下に至って督戦した。城中は窘まり急った。庚午、行台左丞侯子欽が出て周に降った。壬申、晉州刺史崔景嵩が北城を守っていたが、夜に使いを遣わして周の王軌に降を請うた。軌が衆を率いて応じた。まだ明けぬうちに周の将である北海の段文振が槊に杖いて数十人と先に登り、景嵩とともに尉相貴のもとに至り、佩刀を抜いて劫かした。城上は鼓譟し、斉兵は大いに潰えた。そのまま晉州を克ち、相貴および甲士八千人を虜にした。
  • 斉主はちょうど馮淑妃と天池で猟していた。晉州の急を告げる者が朝から午まで駅馬で三度至った。右丞相高阿那肱は「大家はまさに楽しんでおられる。辺鄙の小さな交兵は常のこと。何を急いで奏聞するか」と言った。暮れに至って使いがまた来て「平陽はすでに陥ちた」と言い、そこで奏した。斉主は還ろうとしたが、淑妃が「もう一囲い狩りを」と請い、斉主は従った。
  • 周の斉王憲が洪洞・永安の二城を攻め抜き、さらに進取を図った。斉人は橋を焼き険を守り、軍は進めなかった。そこで永安に屯し、永昌公宇文椿に雞栖原に屯させ、柏を伐って菴として営を立てさせた。椿は宇文広の弟である。
  • 癸酉、斉王(斉主)が軍を分けて一万を千里径へ向かわせ、また軍を分けて汾水関に出し、自ら大軍を率いて雞栖原に上った。宇文盛が人を遣わして急を告げ、斉王憲が自ら救った。斉師は退き、盛は追撃して破った。まもなく椿が斉師が次第に逼ると告げ、憲はまた還って救い、斉と陣を対したが夜に至って戦わなかった。ちょうど周主が憲を召し還したので、憲は兵を引いて夜に去った。斉人は柏の菴が在るのを見て気づかず、翌日になって初めて知った。
  • 斉主は高阿那肱に前軍を将いてまず進ませ、そのうえで諸軍を節度させた。甲戌、周は上開府儀同大将軍である安定の梁士彦を晉州刺史とし、精兵一万を留めて鎮させた。
  • 十一月己卯、斉主が平陽に至った。周主は斉兵が新たに集まって声勢が甚だ盛んなので、しばらく西に還ってその鋒を避けようとした。開府儀同大将軍宇文忻が諫めた。「陛下の聖武をもって敵人の荒れ縦なるに乗ぜられる。何を克てぬと患えましょう。もし斉に令主があって君臣が力を協えていれば、湯・武の勢いをもってしても平らげやすくはありません。今、主は暗く臣は愚かで、士に鬪志なく、百万の衆があっても実は陛下に奉るためのもの」。軍正である京兆の王韶は「斉が紀綱を失って累世。天が周室を奨けて一戦でその喉を扼した。乱を取り亡ぶを侮るのは、まさに今日にあります。これを釈いて去られるのは臣の諭らぬところです」と言った。周主はその言を善しとしながら、ついに軍を引いて還った。忻は宇文貴の子である。
  • 周主は斉王憲を留めて後拒とした。斉師が追い、憲は宇文忻とそれぞれ百騎を将いて戦い、その驍将賀蘭豹子らを斬った。斉師はそこで退いた。憲は軍を引いて汾を渡り、玉壁で周主に追いついた。
  • 斉師はそのまま平陽を囲み、昼夜に攻めた。城中は危急となり、楼も堞もみな尽き、残る城は尋仞ばかり。あるいは短兵が相い接し、あるいは馬を交えて出入りし、外援は至らず、衆はみな震え懼れた。梁士彦は忼慨として自若とし、将士に「死は今日にある。私がお前たちの先となる」と言った。こうして勇烈は斉しく奮い、呼び声は地を動かし、一をもって百に当たらぬ者はなかった。斉師はやや却き、そこで妻妾・軍民の婦女に昼夜城を修めさせ、三日で成った。
  • 周主は斉王憲に兵六万を将いさせて涑川に屯させ、遥かに平陽の声援とした。
  • 斉人が地道を作って平陽城を攻め、十余歩にわたって陥ちた。将士は勢いに乗じて入ろうとしたが、斉主は敕してしばらく止めさせ、馮淑妃を召して観させた。淑妃は化粧して時に至らず、周人は木で拒み塞ぎ、城はついに下らなかった。
  • 旧俗に伝えて、晉州城の西の石の上に聖人の跡があるという。淑妃は往って観ようとした。斉主は弩矢が橋に及ぶのを恐れ、そこで攻城の木を抜いて遠くの橋を造った。斉主と淑妃が橋を渡ると橋は壊れ、夜になってようやく還った。
  • 癸巳、周主が長安に還った。甲午、また詔を下し、斉人が晉州を囲んだとして、改めて諸軍を率いて撃つとした。丙申、斉の降人を縦して還らせた。丁酉、周主が長安を発った。壬寅、河を済って諸軍と合した。
  • 十二月丁未、周主が高顕に至り、斉王憲を遣わして部下を率いてまず平陽へ向かわせた。戊申、周主が平陽に至った。庚戌、諸軍が総べ集まった。およそ八万人。少しずつ進んで城に逼り、陣を置くこと東西二十余里。
  • これより先、斉人は周師が急に至るのを恐れ、城の南に塹を穿ち、喬山から汾水まで続けていた。斉主は大いに兵を出して塹の北に陣した。周主は斉王憲に馳せ往って観させた。憲は復命して「与しやすい。破ってから食することをお請いします」と言った。周主は悦んで「汝の言のとおりなら、私に憂いはない」と言った。
  • 周主は常の御馬に乗り、数人を従えて陣を巡り、至るところ主帥の姓名を呼んで慰め勉めた。将士は知られたのを喜び、みな自ら奮うことを思った。戦おうとして有司が馬を換えることを請うた。周主は「朕が独り良馬に乗ってどこへ行こうというのか」と言った。
  • 周主は斉師に薄ろうとしたが塹に礙げられて止まり、朝から申まで相い持して決しなかった。斉主が高阿那肱に「戦うのが是か、戦わぬのが是か」と言った。阿那肱は言った。「わが兵は多いとはいえ、戦うに堪える者は十万を過ぎません。疾み傷つく者および城を繞って樵り炊ぐ者がまた三分の一を占めます。昔、玉壁を攻めたとき援軍が来ればすぐ退きました。今日の将士がどうして神武の時に勝りましょう。戦わずに却いて高梁橋を守るに越したことはありません」。安吐根は「一撮ばかりの賊。馬上から刺し取って汾水の中に擲げ入れるまで」と言った。斉主の意はまだ決しなかった。諸々の内参が「彼も天子、我も天子。彼がなお遠く来られるのに、我はなぜ塹を守って弱きを示すのか」と言った。斉主は「この言が是だ」と言った。
  • こうして塹を填めて南へ引いた。周主は大いに喜び、諸軍を勒して撃った。兵がやっと合ったところで、斉主は馮淑妃と騎を並べて戦を観ていた。東の偏りが少し却いた。淑妃が怖れて「軍が敗れます」と言った。録尚書事城陽王穆提婆が「大家、去られよ、大家、去られよ」と言った。斉主はすぐ淑妃とともに高梁橋へ奔った。
  • 開府儀同三司奚長が諫めた。「半ば進み半ば退くのは戦の常の体。今、兵衆は全く整い、まだ虧け傷ついておりません。陛下がこれを捨ててどこへ行かれるのか。馬の足がひとたび動けば人情は駭き乱れ、二度と振るえません。願わくは速やかに還って安慰されよ」。武衛張常山が後から至って、これも言った。「軍はまもなく収め終えました。甚だ完整です。囲城の兵もまた動いておりません。至尊は回られるべきです。臣の言を信じられぬなら、内参を遣わして往き視させられよ」。斉主は従おうとした。穆提婆が斉主の肘を引いて「この言は信じがたい」と言った。斉主はそのまま淑妃とともに北へ走った。
  • 斉師は大いに潰え、死者は一万余人。軍資と器械は数百里の間に委ね棄てられて山と積まれた。安徳王延宗だけが軍を全うして還った。
  • 斉主が洪洞に至ると、淑妃はちょうど粉と鏡で自ら玩んでいた。後ろで声が乱れて「賊が来た」と唱え、こうしてまた走った。これより先、斉主は淑妃に功勲があるとして左皇后に立てようとし、内参を晉陽に詣でさせて皇后の服御の褘翟などを取らせていた。ここに至って途中で遇った。斉主は轡を按じ、淑妃に着けるよう命じ、しかるのち去った。
  • 辛亥、周主が平陽に入った。梁士彦が周主に見え、周主の鬚を持って泣き「臣はあやうく陛下にお目にかかれぬところでした」と言った。周主もまたこれがために涙を流した。
  • 周主は将士が疲れ倦んでいるので引き還そうとした。士彦が馬に叩いて諫めた。「今、斉師は遁れ散じ、衆の心はみな動いております。その懼れに因って攻めれば、その勢いは必ず挙がりましょう」。周主は従い、その手を執って言った。「余は晉州を得て平斉の基とした。もし固く守らねば大事は成らぬ。朕に前の憂いはない。ただ後の変を慮る。汝、善く私のために守れ」。そのまま諸将を率いて斉師を追った。諸将は固く西に還ることを請うた。周主は「敵を縦せば患いが生ずる。卿らがもし疑うなら、朕は独りで往こう」と言い、諸将はそこであえて言わなかった。
  • 癸丑、汾水関に至った。斉主は晉陽に入って憂え懼れ、行くところを知らなかった。甲寅、斉が大赦した。斉主が朝臣に計を問うと、みな「賦を省き役を息めて民心を尉め、遺れた兵を収めて城を背にして死戦し、社稷を安んじられるべきです」と言った。斉主は安徳王延宗・広寧王孝珩を留めて晉陽を守らせ、自ら北朔州へ向かい、もし晉陽が守れねば突厥へ奔ろうとした。群臣はみな不可としたが、帝は従わなかった。開府儀同三司賀抜伏恩ら宿衛の近臣三十余人が西のかた周軍に奔り、周主はそれぞれ差をつけて封賞した。
  • 高阿那肱の部下の兵はなお一万で高壁を守り、余衆は洛女砦を保った。周主が軍を引いて高壁へ向かうと、阿那肱は風を望んで退き走り、斉王憲が洛女砦を攻めて抜いた。軍士に「阿那肱が臣を遣わして西軍を招き引かせようとしている」と告げる者があった。斉主は侍中斛律孝卿に検校させたが、孝卿は妄言とした。晉陽に還り着くと、阿那肱の腹心がまた阿那肱の謀反を告げた。これもまた妄とされ、斬られた。
  • 乙卯、斉王(斉主)が詔して安徳王延宗・広寧王孝珩に兵を募らせた。延宗が入って見え、斉主は北朔州へ向かおうとしていると告げた。延宗は泣いて諫めたが従わず、ひそかに左右を遣わして先に皇太后と太子を北朔州に送らせた。
  • 丙辰、周主が斉王憲と介休で会した。斉の開府儀同三司韓建業が城を挙げて降り、上柱国として郇公に封じた。この夜、斉主は遁れ去ろうとしたが、諸将は従わなかった。
  • 丁巳、周師が晉陽に至った。斉主はまた大赦して隆化と改元し、安徳王延宗を相国・并州刺史として山西の兵を総べさせ、「并州は兄が自ら取れ。児は今、去る」と言った。延宗は「陛下は社稷のためです。動かれますな。臣は陛下のために死力を出して戦い、必ず破りましょう」と言った。穆提婆は「至尊の計はすでに成りました。王はみだりに沮まれますな」と言った。
  • 斉主はそこで夜に五竜門を斬って出、突厥へ奔ろうとした。従う官は多く散じた。領軍梅勝郎が馬に叩いて諫め、そこで回って鄴へ向かった。当時ただ高阿那肱ら十余騎が従い、広寧王孝珩・襄城王元彦道が続いて至り、数十人を得て共にした。穆提婆は西のかた周軍に奔り、陸令萱は自殺し、家属はみな誅され没された。周主は提婆を柱国・宜州刺史とした。
  • 詔を下して斉の群臣に諭した。「もし人謀を妙く尽くし天命に深く達すれば、官栄と爵賞はそれぞれ加隆がある。あるいは我が将卒で彼の朝に逃逸した者も、貴賤を問わずみな蕩滌に従う」。これより斉の臣で降る者は相次いだ。
  • はじめ斉の高祖が魏の丞相であったとき、唐邕に外兵曹を典らせ、太原の白建に騎兵曹を典らせた。みな書計を善くし簿帳を工くするので委任されたのである。斉が禅を受けて諸司はみな尚書に帰したが、ただ二曹だけは廃されず、名を改めて二省とした。邕は官は録尚書事に至り、建は官は中書令に至り、世に「唐白」と称された。
  • 邕は度支を兼ね領していたが高阿那肱と隙があり、阿那肱が譖った。斉主は侍中斛律孝卿に騎兵と度支を総べ知るよう敕した。孝卿は事の多くを専ら決し、二度と邕に諮り稟けなかった。邕は自ら宿旧で事に習っているのに孝卿に軽んじられ、意は甚だ鬱々とした。斉主が鄴に還ると、邕はそのまま晉陽に留まった。
  • 并州の将帥が安徳王延宗に請うた。「王が天子とならねば、諸人は実に王のために死力を出せません」。延宗はやむを得ず、戊午、皇帝の位に即き、詔を下した。「武平(斉主)は孱く弱く、政は官豎から出、関を斬って夜に遁れ、行くところを知らぬ。王公卿士に猥りに推し逼られ、今、宝位を祇み承ける」。大赦して徳昌と改元し、晉昌王唐邕を宰相とし、斉昌王莫多婁敬顕・沐陽王和阿干子・右衛大将軍段暢・開府儀同三司韓骨胡らを将帥とした。敬顕は莫多婁貸文の子である。
  • 衆は聞いて召さぬのに至る者が前後相い属いた。延宗は府蔵および後宮の美女を出して将士に賜わり、内参十余家を籍没した。斉主は聞いて近臣に「私はむしろ周に并州を得させたい。安徳に得させたくない」と言った。左右は「理はそのとおりです」と言った。
  • 延宗は士卒を見るとみな親しく手を執って名を称し、涙を流して嗚咽した。衆は争って死のうとし、童児も女子も屋に乗って袂をまくり、甎や石を投げて敵を禦いだ。
  • 己未、周主が晉陽に至った。庚申、斉主が鄴に入った。周軍は晉陽を囲んで四方が合わさり、黒雲のようであった。安徳王延宗は莫多婁敬顕・韓骨胡に城南を拒ませ、和阿干子・段暢に城東を拒ませ、自ら衆を率いて城北で斉王憲を拒いだ。
  • 延宗はもとより肥え、前は偃したよう後は伏したようで、人はいつも笑った。ここに至って大矟を奮って往来し督戦し、勁く捷きこと飛ぶがごとく、向かうところ前に敵なし。和阿干子と段暢は千騎で周軍に奔った。
  • 周主が東門を攻め、昏れ際にそのまま入り、進んで仏寺を焼いた。延宗と敬顕が門から入って挟み撃った。周師は大いに乱れ、門を争って相い填め圧し、路を塞いで進めなかった。斉人が後ろから斫り刺し、死者は二千余人。周主の左右はほぼ尽き、自ら抜け出る路がなかった。承御上士張寿が馬の首を牽き、賀抜伏恩が鞭でその後ろを払い、崎嶇として出ることができた。斉人が奮い撃ってあやうく中るところだった。城の東の道は狭く曲がっており、伏恩および降人の皮子信が導いて、かろうじて免れ得た。
  • 時はすでに四更。延宗は周主が乱兵に殺されたと思い、積み屍の中から長い鬛の者を求めさせたが得られなかった。当時、斉人はすでに捷って坊に入って酒を飲み、酔い尽くして臥した。延宗は二度と整えられなかった。
  • 周主は城を出て甚だ飢え、遁れ去ろうとした。諸将もまた多く還るよう勧めた。宇文忻が勃然として進み出て言った。「陛下は晉州を克って以来、勝ちに乗じてここに至られました。今、偽主は奔り波り、関東は響き振るいます。古来、兵を行るに、これほど盛んなことはありません。昨日、城を破ろうとして将士が敵を軽んじ、少し利あらずとはいえ、何を懐うに足りましょう。丈夫は死中に生を求め、敗中に勝を取るべきです。今、破竹の勢いはすでに成っております。どうしてこれを棄てて去られるのか」。斉王憲・柱国王誼もまた去れば必ず免れぬとし、段暢らもまた城内の空虚を盛んに言った。周主はそこで馬を駐めて角を鳴らして兵を収め、たちまち再び振るった。
  • 辛酉の朝、還って東門を攻めて克った。延宗は戦って力屈し、走って城北に至り、周人が擒えた。周主は馬を下りてその手を執った。延宗は辞して「死人の手が、どうしてあえて至尊に迫れましょう」と言った。周主は「両国の天子、怨み悪むところはない。ただ百姓のために来たまで。終に相い害しはせぬ。怖れるな」と言い、衣と帽を復させて礼した。
  • 唐邕らはみな周に降り、独り莫多婁敬顕が鄴へ奔った。斉主は司徒とした。
  • 延宗が初め尊号を称したとき、使いを遣わして瀛州刺史任城王高湝に啓を修めた。「至尊は出奔され、宗廟の事は重い。群公に勧め迫られて権りに号令を主る。事が寧まれば終には叔父に帰す」。湝は「私は人臣。どうしてこれを受けられよう」と言い、使者を捕らえて鄴に送った。
  • 壬戌、周主が大赦し、斉の制を削り除き、文武の士を収め礼した。
  • はじめ伊婁謙が斉に聘したとき、その参軍高遵が情を斉に輸した。斉人は晉陽で徇えた。周主は晉陽を克って謙を召して労い、遵を捕らえて謙に付し、その報復に任せた。謙は頓首して赦すことを請うた。周主は「卿は衆を聚めて面に唾し、彼に愧を知らせるがよい」と言った。謙は「遵の罪では、また唾面で責められるものではありません」と言った。帝はその言を善しとして止め、謙は遵を初めのように待った。

史論(臣光曰)

  • 功ある者を賞し罪ある者を誅すのは人君の任である。高遵は使いを異国に奉じながら大謀を漏泄した。これは叛臣である。周の高祖は自ら戮を行わず、かえって謙に賜わってその怨みに報いさせた。政と刑を失ったものである。孔子は「徳をもって怨みに報いるなら、何をもって徳に報いるのか」と言った。謙たる者は、辞して受けず、有司に帰して典刑を正すべきであった。それを請うて赦し、その私名を成したのは、美は美だが、これも公義ではない。

(承前)

  • 斉主が重賞を立てて戦士を募るよう命じたが、ついに物を出さなかった。広寧王孝珩が請うた。「任城王湝に幽州道の兵を将いて土門に入らせ、声を并州へ趨ると揚げさせ、独孤永業に洛州道の兵を将いて潼関に入らせ、声を長安へ趨ると揚げさせ、臣は京畿の兵を将いて滏口に出、鼓を鳴らして逆え戦うことをお請いします。敵は南北に兵があると聞けば自然に逃げ潰えましょう」。また宮人と珍宝を出して将士に賞することを請うた。斉主は悦ばなかった。
  • 斛律孝卿が斉主に親ら将士を労うことを請い、そのために辞を撰み、そのうえで「忼慨して涙を流し人心を感激させられるべきです」と言った。斉主は出て衆に臨み令しようとして、受けた言葉を覚えておらず、そのまま大笑した。左右もまた笑った。将士は怒って「身すらこのようだ。われらが何を急ごう」と言い、みな戦心がなくなった。
  • こうして大丞相以下、太宰・三師・大司馬・大将軍・三公などの官はみな員を増して授け、あるいは三、あるいは四、数えきれなかった。
  • 朔州行台僕射高勱が兵を将いて太后と太子を侍衛し、土門道から鄴に還った。当時、宦官の儀同三司苟子溢はなお寵を恃んで暴を縦にし、民間の鶏や豕を鷹と犬を縦して搏み噬ませて取った。勱は捕らえて徇え、斬ろうとした。太后が救って免れ得た。ある者が勱に「子溢の徒は言えば禍福を成す。独り後患を慮られぬのか」と言った。勱は袂をまくって言った。「今、西冦はすでに并州に拠り、達官はおおむねみな委ね叛いた。まさにこの輩が朝廷を濁し乱したからだ。もし今日これを斬れれば、明日誅を受けても恨みはない」。勱は高岳の子である。
  • 甲子、斉の太后が鄴に至った。
  • 丙寅、周主が斉の宮中の珍宝・服玩および宮女二千人を出して将士に班ち賜わり、功を立てた者にそれぞれ差をつけて官爵を加えた。
  • 周主が高延宗に鄴を取る策を問うた。辞して「これは亡国の臣の及ぶところではありません」と言い、強いて問われて言った。「もし任城王が鄴に拠れば臣は知り得ません。もし今の王が自ら守れば、陛下は兵に刃を血ぬらずして済みます」。
  • 癸酉、周師が鄴へ趨り、斉王憲に先駆するよう命じ、上柱国陳王純を并州総管とした。
  • 斉主が諸々の貴臣を朱雀門に引き入れ、酒食を賜わって周を禦ぐ策を問うた。人ごとに議は異なり、斉主は従うところを知らなかった。この時、人情は忷え懼れ、鬪う心のある者はなく、朝士が出て降ること昼夜相い属いた。
  • 高勱が言った。「今の叛く者の多くは貴人です。卒伍に至ってはなお心を離しておりません。五品以上の家属を追って三台に置き、そのついでに戦いを脅されよ。もし捷たねば台を焼く。この者どもは妻子を顧み惜しんで必ず死戦しましょう。しかも王師はしばしば北げ、賊徒は我を軽んじております。今、城を背にして一決すれば、理として必ず破れましょう」。斉主は用いられなかった。
  • 望気者が「革め易える事があるはず」と言った。斉主は尚書令高元海らを引いて議し、天統の故事に依って位を皇太子に禅った。

九年(577年)

  • 春正月乙亥朔、斉の太子高恒が皇帝の位に即いた。生まれて八年である。承光と改元して大赦し、斉主を太上皇帝、皇太后を太皇太后、皇后を太上皇后と尊び、広寧王孝珩を太宰とした。
  • 司徒莫多婁敬顕・領軍大将軍尉相願が千秋門に兵を伏せて高阿那肱を斬り広寧王孝珩を立てる謀を巡らせた。ちょうど阿那肱が他の路から入朝したので果たさなかった。
  • 孝珩が周師を拒ぐことを求め、阿那肱らに言った。「朝廷が遣わして賊を撃たせられぬのは、孝珩が反するのを畏れられぬからでしょうか。孝珩がもし宇文邕を破って長安まで至ったなら、反したとて国家に何の関わりがありましょう。今日の急にあってなお、かくも猜み忌まれるのか」。高(阿那肱)と韓(長鸞)はその変を為すのを恐れ、孝珩を出して滄州刺史とした。相願は佩刀を抜いて柱を斫り、歎じて「大事は去った。この上また何を言おう」と言った。
  • 斉主が長楽王尉世辨に千余騎を率いさせて周師を覘わせた。滏口を出て高い阜に登って西を望むと、遥かに群れの烏が飛び起こるのが見えた。西軍の旗幟だと思い、すぐ馳せ還り、紫陌橋に至るまであえて振り返らなかった。
  • こうして黄門侍郎顔之推・中書侍郎薛道衡・侍中陳徳信らが上皇に河外へ行って兵を募り、改めて経略し、もし済らねば南のかた陳国に投ずることを勧めた。従った。
  • 丁丑、太皇太后・太上皇后が鄴から先に済州へ趨った。癸未、幼主もまた鄴から東へ行った。己丑、周師が紫陌橋に至った。
  • 壬辰、周師が鄴城の下に至り、癸巳、囲んで城の西門を焼いた。斉人が出て戦い、周師は奮い撃って大いに破った。斉の上皇は百騎を従えて東へ走り、武衛大将軍慕容三蔵に鄴宮を守らせた。周師が鄴に入り、斉の王公以下はみな降ったが、三蔵はなお拒み戦った。周主は引見して礼し、儀同大将軍に拝した。三蔵は慕容紹宗の子である。
  • 領軍大将軍である漁陽の鮮于世栄は斉の高祖の旧将であった。周主は先に馬脳の酒鍾を遺ったが、世栄は得るとすぐ砕いた。周師が鄴に入ったとき、世栄は三台の前で鼓を鳴らして輟めなかった。周人が捕らえたが、世栄は屈せず、そこで殺した。
  • 周主が莫多婁敬顕を捕らえて数えた。「お前には死罪が三つある。先に晉陽から鄴へ走ったとき妾を携えて母を棄てた。不孝である。外は偽朝のために力を勠しながら内は実に朕に啓を通じた。不忠である。款を送ってのちなお両端を持した。不信である。心を用いることかくのごとし。死なずして何を待とう」。そのまま斬った。将軍尉遅勤に斉主を追わせた。
  • 甲午、周主が鄴に入った。斉の国子博士張楽・熊安生は五経に博く通じていた。周主が鄴に入ったと聞いてにわかに門を掃かせた。家人が怪しんで問うと、安生は「周帝は道を重んじ儒を尊ぶ。必ず私に会おうとされよう」と言った。まもなく周主がその家に幸し、拝を聴さず、親らその手を執って引いて同じく坐り、賞賜は甚だ厚く、安車と駟馬を給して自ら随わせた。
  • また小司馬唐道和を中書侍郎李徳林の宅に就かせて旨を宣べ慰め諭させた。「斉を平らげた利は、ただ爾にある」。宮に引き入れ、内史宇文昂に斉朝の風俗・政教・人物の善悪を訪ね問わせ、そのまま内省に留めること三宿、そののち帰らせた。
  • 乙未、斉の上皇が河を渡って済州に入った。この日、幼主は位を大丞相任城王湝に禅り、また湝のために詔を為して上皇を無上皇、幼主を宋国天王と尊び、侍中斛律孝卿に禅文と璽紱を瀛州に送らせた。孝卿はそのまま鄴に詣でた。
  • 周主が詔して、去年の大赦の及ばなかった処もみな赦の例に従わせた。
  • 斉の洛州刺史独孤永業には甲士三万があった。晉州の敗を聞いて兵を出して周を撃つことを請うたが、奏は寝んで報ぜられなかった。永業は憤り慨いた。また并州の陥落を聞いて、そこで子の独孤須達を遣わして周に降を請うた。周は永業を上柱国として応公に封じた。
  • 丙申、周が越王盛を相州総管とした。
  • 斉の上皇は胡太后を済州に留め、高阿那肱に済州関を守らせて周師を覘い候わせ、自ら穆后・馮淑妃・幼主・韓長鸞・鄧長顒ら数十人と青州へ奔った。内参の田鵬鸞を西へ出して動静を参り伺わせた。周師が獲て、斉主のありかを問うた。紿いて「すでに去られた。計るに境を出られたはず」と言った。周人はその信ならぬのを疑って捶った。一支を折るごとに辞色はいよいよ厲しく、ついに四支を折られて死んだ。
  • 上皇は青州に至ってすぐ陳に入ろうとしたが、高阿那肱がひそかに周師を召して斉主を生きたまま致すことを約し、しきりに「周師はまだ遠うございます。すでに橋と路を焼き断たせました」と啓した。上皇はこれで淹留して自ら寛んだ。周師が関に至ると、阿那肱はすぐ降った。周師はにわかに青州に至った。
  • 上皇は金を嚢に入れて鞍の後ろに繋ぎ、后妃・幼主ら十余騎と南へ走った。己亥、南鄧村に至り、尉遅勤が追いついてことごとく擒え、胡太后とともに鄴に送った。
  • 庚子、周主が詔した。故斛律光・崔季舒らには追って贈と謚を加え、あわせて改葬し、子孫はそれぞれ蔭に随って叙し録し、家口・田宅で官に没されたものはみな還す、と。周主は斛律光の名を指して「この人が在ったら、朕はどうして鄴まで至れたか」と言った。
  • 辛丑、詔して斉の東山・南園・三台はみな毀ち撤してよいとし、瓦木ならびに物で用いられるものはことごとく民に賜わり、山園の田はそれぞれ主に還した。
  • 二月丙午、周主が斉の太極殿で従官と将士に宴し、差をつけて賞を頒った。丁未、高緯(斉主)が鄴に至り、周主は階を降りて賓の礼で会った。
  • 斉の広寧王孝珩が滄州に至り、五千人で任城王湝と信都で会し、共に匡復を謀り、募って四万余人を得た。周主は斉王憲・柱国楊堅に撃たせ、高緯に手書を為して湝を招かせた。湝は従わなかった。
  • 憲の軍が趙州に至った。湝が二人の諜者を遣わして覘わせた。候騎が捕らえて憲に白した。憲は斉の旧将を集めて遍く示し、諜者に言った。「私の争うところは大きい。お前たちにはない。今、お前たちを縦して還す。そのうえ私の使いとなれ」。そこで湝に書を与えた。「足下の諜者が候騎に拘えられ、軍中の情実は具に執事に伝わった。戦うのは上計でない。卜って疑うには及ばぬ。守るのは下策。あるいはまだ相い許されぬかもしれぬ。すでに諸軍を勒して道を分けて並び進ませた。相い望むこと遠からず、軾に馮る期はある。終日を俟たぬ。望むところは機を知ることである」。
  • 憲が信都に至り、湝は城南に陣して拒いだ。湝の署した領軍尉相願が詐って出て陣を略し、そのまま衆をもって降った。相願は湝の心腹であった。衆はみな駭き懼れた。湝は相願の妻子を殺した。翌日また戦い、憲は撃ち破って三万人を俘え斬り、湝および広寧王孝珩を捕らえた。
  • 憲が湝に「任城王はなぜ苦しんでここまで至られたか」と言った。湝は「下官は神武皇帝の子。兄弟十五人、幸いにして独り存え、宗社の顛覆に逢いました。今日、死を得ても墳陵に愧じるところはありません」と言った。憲は壮として、その妻子を帰すよう命じた。また親ら孝珩の瘡を洗い薬を傅け、礼遇は甚だ厚かった。孝珩は歎じた。「神武皇帝以外、わが諸父兄弟に一人として四十に至った者はない。命である。嗣君に独見の明なく、宰相は柱石の寄にあらず。ただ兵符を握り斧鉞を受けてわが心力を展べられなかったのが恨みだ」。
  • 斉王憲は兵を用いるのを善くし、謀略が多く、将士の心を得た。斉人はその威声を憚り、みな風を望んで沮み潰えた。芻り牧するのを擾さず、軍に私するところはなかった。
  • 周主は斉の降将である封輔相を北朔州総管とした。北朔州は斉の重鎮で士卒は驍勇であった。前長史趙穆らが輔相を捕らえて任城王湝を瀛州から迎える謀を巡らせたが果たさず、そこで定州刺史范陽王高紹義を迎えた。
  • 紹義が馬邑に至り、肆州以北の二百八十余城がみな応じた。紹義は霊州刺史袁洪猛と兵を引いて南へ出、并州を取ろうとした。新興に至ったところで肆州はすでに周に守られており、前隊の二儀同が部下をもって周に降った。周兵が顕州を撃って刺史陸瓊を捕らえ、また諸城を攻め抜いた。紹義は還って北朔州を保った。周の東平公宇文神挙が兵を将いて馬邑に逼った。紹義は戦い敗れて北のかた突厥へ奔った。なお衆三千人があり、紹義は「還りたい者はその意に従え」と令した。こうして辞し去る者が大半であった。
  • 突厥の佗鉢可汗はいつも斉の顕祖を英雄の天子と言い、紹義の踝が重なっているのがこれに似ているので、甚だ愛重した。およそ斉人で北にある者はことごとく隷させた。
  • こうして斉の行台・州・鎮のうち、ただ東雍州行台傅伏・営州刺史高宝寧だけが下らず、その他はみな周に入った。およそ州五十、郡百六十二、県三百八十、戸三百三万二千五百を得た。高宝寧は斉の疎属で勇略があり、久しく和竜を鎮して大いに夷夏の心を得ていた。
  • 周主は河陽・幽・青・南兖・豫・徐・北朔・定に総管府を置き、相・并の二州にそれぞれ宮および六府の官を置いた。乙卯、周主が鄴から西へ還った。
  • 周主が尉相貴を擒えたとき、斉の東雍州刺史傅伏を招いたが、伏は従わなかった。斉人は伏を行台右僕射とした。周主は并州を克ってから、また韋孝寛を遣わして招き、その子に上大将軍・武郷公の告身および金・馬脳の酒鍾二つを賜わって伏に信とさせた。伏は受けず、孝寛に言った。「君に事えるに死あって貳なし。この児は臣として忠を竭くせず、子として孝を尽くせぬ。人の讎み疾むところ。願わくは速やかに斬って天下に令せられよ」。
  • 周主は鄴から還って晉州に至り、高阿那肱ら百余人を汾水に臨ませて伏を召した。伏は軍を出し、水を隔てて会い、「至尊は今どこにおられるか」と問うた。阿那肱は「すでに擒えられた」と言った。伏は天を仰いで大いに哭し、衆を率いて城に入り、聴事の前で北面して哀号すること良久しく、しかるのち降った。
  • 周主は会って「なぜ早く下らなかった」と言った。伏は涙を流して答えた。「臣は三世、斉の臣となり斉の禄を食みました。自ら死ねぬのは天地に見えるのが羞ずかしい」。周主はその手を執って「臣たる者はこうあるべきだ」と言い、そのまま食べていた羊の肋骨を伏に賜わって「骨は親しく肉は疎い。ゆえに相い付す」と言い、そのまま引いて宿衛させ、上儀同大将軍を授け、敕して言った。「もし急に公に高官を与えれば、帰り附いた者の心が動くのを恐れる。努めて朕に事えよ。富貴を憂えるな」。
  • 他日また「先に河陰を救って何の賞を得たか」と問うた。答えて「一転を蒙って特進・永昌郡公を授けられました」と言った。周主は高緯に言った。「朕は三年、戦いを教えて必ず河陰を取ろうとしたが、まさに傅伏が善く城を守って動かせなかったので、軍を斂めて退いた。公は当時、功を賞するのになんと薄かったことか」。
  • 夏四月乙巳、周主が長安に至った。高緯を前列に置き、その王公らを後ろに列ね、車輿・旗幟・器物を次々に陳ね、大駕を備え六軍を布き、凱楽を奏し、俘を太廟に献じた。観る者はみな万歳を称した。戊申、高緯を温公に封じ、斉の諸王三十余人はみな封爵を受けた。
  • 周主が斉の君臣と飲酒し、温公に起って舞うよう令した。高延宗は悲しみに自ら持えず、しばしば薬を仰ごうとしたが、その傅の婢が禁じ止めた。
  • 周主は李徳林を内史上士とした。これより詔誥の格式および山東の人物の用い方はみなこれに委ねた。帝は従容として群臣に言った。「私は常日ごろ、ただ李徳林の名を聞くのみだった。またその斉朝のために作った詔書や移檄を見て、まさに天上の人と思っていた。どうして今日その駆使を得るとは言えたろう」。神武公紇豆陵毅が答えた。「臣の聞くところ、麒麟と鳳凰は王者の瑞、徳をもって感ぜられるもので力で致せません。麒麟と鳳凰は得ても用がない。どうして徳林が瑞であってしかも用があるのに如きましょう」。帝は大笑して「まことに公の言のとおりだ」と言った。
  • 五月己丑、周主が方丘に祭った。詔して言った。「路寝・会義・崇信・含仁・雲和・思斉の諸殿はみな晉公護が政を専らにした時に作ったもので、事は壮麗を窮め清廟にも踰える。ことごとく毀ち撤してよい。彫り斵った物はみな貧民に賜わり、繕い造る宜しきは務めて卑しく朴なるに従え」。戊戌、また詔して并州・鄴の諸堂で壮麗なものはこれに準じさせた。

史論(臣光曰)

  • 周の高祖は善く勝ちに処ったと言うべきである。他の人は勝てばますます奢るが、高祖は勝ってますます倹であった。

(承前)

  • 十月、周人が温公高緯と宜州刺史穆提婆の謀反を誣い、その宗族ともどもみな死を賜わった。衆人の多くは自ら無実を陳べたが、高延宗だけは袂をまくって泣いて物を言わず、椒で口を塞いで死んだ。ただ緯の弟の高仁英は清狂により、高仁雅は瘖疾により免れ、蜀に徙された。その他の親属で殺されなかった者は西土に散り配され、みな辺裔で死んだ。
  • 周主は高湝の妻の盧氏をその将の斛斯徴に賜わった。盧氏は蓬のごとき首、垢だらけの面で、長く斎して言わず笑わず、徴は放って尼となった。斉の后妃で貧しい者は燭を売るのを業とするに至った。
  • 十二月、高宝寧が黄竜から表を上って高紹義に勧進した。紹義はそのまま皇帝を称して武平と改元し、宝寧を丞相とした。突厥の佗鉢可汗が兵を挙げて助けた。

十年(578年)

  • 夏六月、周の高祖が殂した。
  • 閏月、斉の范陽王紹義は周の高祖の殂を聞いて天の助けと思った。幽州の人盧昌期が兵を起こして范陽に拠り、紹義を迎えた。紹義は突厥の兵を引いて赴いた。周は柱国東平公神挙を遣わして兵を将いて昌期を討たせた。紹義は幽州総管が兵を出して外にあると聞いて、虚に乗じて薊を襲おうとした。神挙が大将軍宇文恩に四千人を将いさせて救わせたが、半ばは紹義に殺された。ちょうど神挙が范陽を克って昌期を擒えた。紹義は聞いて素衣で哀を挙げ、還って突厥に入った。
  • 高宝寧が夷夏数万騎を率いて范陽を救おうとし、潞水に至って昌期の死を聞き、還って和竜に拠った。

十一年(579年)

  • 春二月、突厥の佗鉢可汗が周に和を請うた。周主は趙王招の娘を千金公主として妻あわせ、あわせて高紹義を捕らえて送るよう命じたが、佗鉢は従わなかった。

十二年(580年)

  • 夏六月、周が建威侯賀若誼を遣わして佗鉢可汗に賂し、そのうえで説いて高紹義を求めさせた。佗鉢は偽って紹義と南の境で猟し、誼に捕らえさせた。誼は賀若敦の弟である。
  • 秋七月甲申、紹義が長安に至り、蜀に徙された。久しくして蜀で病死した。