通鑑紀事本末周・陳の叛乱(周陳之叛)
侯景の乱の混乱に乗じて地方に割拠した周迪・留異・陳宝応らが、陳の統一を拒んで叛いてから討ち平らげられるまでの11年間。臨川の周迪は同郡の周敷と結んでのち仇となり、東陽の留異と晉安の陳宝応は姻戚として結んで朝廷に両端を懐いた。侯安都・章昭達・程霊洗らの追討で留異と陳宝応は擒えられ、山中に潜んだ周迪も臨川で斬られて終わる。
梁敬帝紹泰元年(555年)
- はじめ晉安の民である陳羽は代々閩中の豪姓であった。その子の陳宝応は権詐が多く、郡中は畏れ服した。侯景の乱に、晉安太守賓化侯蕭雲が郡を羽に譲った。羽は老いていて郡事を治めるのみで、宝応に兵を典らせた。
- 当時、東の境は荒れ飢えていたが、晉安だけは豊かに衍かだった。宝応はしばしば自ら海道から出て臨安・永嘉・会稽を寇し抄い、あるいは米粟を載せて彼らと貿易した。これで富強を致すことができた。
- 侯景が平らぐと、世祖はそこで羽を晉安太守とした。陳霸先が政を輔けるに及び、羽は郡を宝応に伝えることを求め、霸先は許した。
太平元年(556年)
- はじめ侯景の乱に、臨川の民である周続が郡中で兵を起こし、始興王蕭毅は郡を譲って去った。続の部将はみな郡中の豪族で驕り横な者が多く、続が裁し制すると、諸将はみな怨んで相い与に殺した。
- 続の宗人である周迪は勇が軍中に冠たるもので、衆に推されて主となった。迪はもとより寒微で、郡人が服さぬのを恐れ、同郡の周敷が族望が高く顕らかなので、節を折って交わった。敷もまた迪に仕えて甚だ謹んだ。迪は上塘に拠り、敷は故郡に拠った。朝廷は迪を衡州刺史・領臨州内史とした。
- 当時、民は侯景の乱に遭ってみな農業を棄て、群れ聚まって盗となったが、ただ迪の部下だけは農桑に務め、各々余りの儲えがあった。政教は厳明で、徴斂は必ず届き、他郡の乏しく絶えた者はみな仰いで給を取った。迪は性が質朴で威儀を事とせず、居るときはいつも徒跣で、外に兵衛を列ねながら内には女伎があり、縄を挼み篾を破いて傍らに人なきがごとくであった。言語には訥かったが襟懐は信実で、臨川の人はみな附いた。
陳武帝永定元年(557年)
- 詔して給事黄門侍郎蕭乾に閩中を招き諭させた。当時、熊曇朗は豫章に、周迪は臨川に、留異は東陽に、陳宝応は晉安にあって共に連なり結び、閩中の豪師は往々に砦を立てて自ら供していた。上は患えとし、乾に禍福を諭させた。豪師はみな衆を率いて降を請い、そこで乾を建安太守とした。乾は蕭範の子である。
陳文帝天嘉二年(561年)
- はじめ高祖は帝の娘の豊安公主を留異の子の留貞臣に妻あわせ、異を南徐州刺史に徴した。異は延び延びにして就かなかった。帝が即位して、また異を縉州刺史・領東陽太守とした。異はしばしばその属吏の王澌を入朝させたが、澌はいつも「朝廷は虚弱です」と言い、異は信じた。外は臣節を示しながら恒に両端を懐き、王琳と鄱陽・信安の嶺からひそかに使いを通じて往来した。
- 琳が敗れ、上は左衛将軍沈恪を遣わして異に代えたが、実は兵をもって襲うためであった。異は軍を下淮に出して恪を拒み、恪は戦って敗れ、銭塘に退き還った。異はまた上表して遜り謝した。当時、衆軍はまさに湘・郢に事を構えていたので、そこで詔書を降して慰め諭し、そのうえで羈縻した。
- 異は朝廷が終には自らを討つと知り、そこで兵で下淮および建徳を戍らせて江路に備えた。十二月丙午、詔して司空・南徐州刺史侯安都に討たせた。
三年(562年)
- 春二月、帝が江州刺史周迪を徴して湓城に出鎮させ、またその子を入朝させようとした。迪は趑趄して顧み望み、ともに至らなかった。その他の南江の酋帥で私に令長を署した者も多くは召に応じなかった。朝廷は討ちに致す暇がなく、ただ羈縻した。
- 豫章太守周敷だけが先に入朝し、安西将軍の号に進み、鼓吹一部を給され、女妓と金帛を賜わって豫章に還るよう令された。迪は敷がもとより自分の下から出た者なので深く平らかでなく、そこでひそかに留異と結び、その弟の周方興に兵を将いさせて敷を襲わせた。敷は戦って破った。
- また兄の子を遣わして船中に甲を伏せ、賈人と詐って湓城を襲おうとしたが、発つ前に事が覚れた。尋陽太守・監江州事である晉陵の華皎が兵を遣わして迎え撃ち、その船と武具をことごとく獲た。
- 上は閩州刺史陳宝応の父を光禄大夫とし、子女はみな封爵を受け、宗正に命じて属籍に編入させた。だが宝応は留異の娘を妻とし、ひそかに異と合した。
- 虞荔の弟の虞寄は閩中に流寓しており、荔は思って病を成した。上は荔のために徴したが、宝応は留めて遣わさなかった。寄はいつも従容として逆順を諷したが、宝応はすぐ他の話を引いて乱した。宝応がかつて人に漢書を読ませ、臥して聴いていた。蒯通が韓信に説いて「君の背を相るに、貴は言うべからず」と言うところに至って、蹶然と起き坐り「智士と言うべきだ」と言った。寄は「通は一度説いて三士を殺しました。どうして智と称するに足りましょう。班彪の王命論が帰するところを識ったのに如きましょうか」と言った。
- 寄は宝応を諫められぬと知り、禍が己に及ぶのを恐れ、そこで居士の服を着て東山寺に居り、偽って足の疾と称した。宝応が人にその屋を焼かせても、寄は安らかに臥して動かなかった。親近の者が扶けて出そうとすると、寄は「わが命には懸かるところがある。避けてどこへ往こう」と言った。火を放った者が自ら救った。
- 三月丁丑、安右将軍呉明徹を江州刺史とし、高州刺史黄法氍・豫章太守周敷を督させて共に周迪を討たせた。
- 留異ははじめ台軍は必ず銭塘から上ると思っていた。ところが侯安都は歩いて諸暨から永康へ出た。異は大いに驚いて桃枝嶺へ奔り、巌口に柵を竪てて拒んだ。安都は流矢に中り、血が踝まで流れたが、輿に乗って指揮し、容止は変わらなかった。その山の勢いに因って迮って堰を為した。ちょうど潦水が漲り満ち、安都は船を引いて堰に入れ、楼艦を異の城と等しく超させ、拍を発してその楼と堞を砕いた。異とその子の忠臣は身一つで晉安へ奔り陳宝応に依った。安都はその妻および残りの子を虜にし、鎧と武具をことごとく収めて還った。
- 異の党の向文政が新安に拠った。上は貞毅将軍程文季を新安太守として精甲三百を率いさせ、直ちに往って攻めさせた。文政は戦い敗れて降った。文季は程霊洗の子である。
- 秋九月、呉明徹が臨川に至って周迪を攻めたが克てなかった。丁亥、詔して安成王頊に代えさせた。
四年(563年)
- 春正月甲申、周迪の衆が潰え、迪は身一つで嶺を踰えて晉安へ奔り陳宝応に依った。官軍は臨川を克ち、迪の妻子を獲た。宝応は兵を迪と留異に資し、また子の忠臣を随わせた。
- 虞寄が宝応に書を送り、十事をもって諫めた。その大意――(一)天が梁の徳を厭うて以来、英雄が互いに起こり、人々自ら得たと思ったが、凶を夷らげ乱を翦って四海が楽しんで推したのは陳氏である。暦数が在るところ、天の授けたものではないか。(二)王琳の強さ、侯瑱の力は、進んでは中原を揺蕩させ天下に衡を争うに足り、退いては江外に屈強し偏隅に雄張するに足りた。だが一旅の師を命じ、あるいは一士の説に資るだけで、琳は瓦解し氷のごとく泮けて異域に身を投じ、瑱は角を厥し顙を稽めて闕廷に命を委ねた。これも天が威を仮してその患いを除いたのだ。(三)今、将軍は藩戚の重きと東南の衆をもって忠を尽くして上に奉り、力を戮せて勤王すれば、勲は竇融より高く寵は呉芮に過ぎ、珪を析き野を判ち、南面して孤と称せられよう。(四)聖朝は瑕を棄て過ちを忘れ、寛厚で人を得ている。余孝頃・潘純陀・李孝欽・欧陽頠らに至るまで、ことごとく心腹を委ね爪牙に任じ、胸中は豁然として少しの纖芥もない。まして将軍の釁は張繡にあらず、罪は畢諶と異なる。何を危亡に慮り、何の富貴を失おうか。(五)今、周と斉は隣として睦み、境外に虞れはない。兵を併せて一方に向かうのは、朝でなければ夕。劉・項が競い逐う機でも、楚・趙が連なり従う勢いでもない。どうして雍容と高く拱いて坐して西伯を論じられよう。(六)しかも留将軍は一隅に狼のごとく顧み、しばしば摧かれ衂ぎ、声も実も虧け喪い、胆気は衰え沮んでいる。その将帥は首鼠両端、ただ利を視るのみ。誰が堅を被り鋭を執り、長駆して深く入り、馬を繋ぎ輪を埋め、奮って命を顧みず士卒に先んじられようか。(七)将軍の強さは侯景と比べてどうか。将軍の衆は王琳と比べてどうか。武皇は侯景を前に滅ぼし、今上は王琳を後に摧いた。これは天の時であって人の力ではない。しかも兵革ののち、民はみな乱を厭うている。誰が墳墓を棄て妻子を捐て、万死を顧みぬ計に出て、白刃の間で将軍に従おうか。(八)前古を歴観するに、公孫述と隗囂は傾覆が相尋ぎ、余善と右渠は危亡が継いで及んだ。天命は畏るべく、山川は恃みがたい。まして将軍は数郡の地で天下の兵に当たり、諸侯の資で天子の命を拒もうとされる。強弱と逆順は等しくできようか。(九)しかも我が族類でなければその心は必ず異なり、その親を愛さぬ者がどうして物に及ぼせよう。留将軍は身を国の爵に縻され子は王姫を娶りながら、なお天属を棄てて顧みず、明君に背いて孤立した。危急の日に、どうして憂いを同じくし患いを共にして将軍に背かずにいられよう。師が老い力が屈するに至れば、誅を懼れ賞を利として、必ず韓・智の晉陽の謀、張耳・陳余の井陘の勢いが起ころう。(十)北軍は万里の遠くに鬪い、その鋒は当たるべからず。将軍は自らの地で戦い、人は多く後ろを顧みる。衆寡は敵さず、将帥は等しからず、師は名なくして出、事は機なくして動く。これで兵を称えても、その利は知れぬ。――将軍のために計るなら、留氏との親を絶ち、子を遣わして質に入れ、甲を釈き兵を偃せ、ひたすら詔旨に遵うに越したことはない。今、藩維はまだ少なく皇子は幼冲。およそ宗枝に預る者はみな寵樹を蒙っている。まして将軍の地位、将軍の才、将軍の名、将軍の勢いをもって、よく藩服を修め北面して臣と称されれば、劉沢と同年に語れる功業であろうか。――寄は恩に感じ徳を懐き、覚えず狂言した。斧鉞の誅も、その甘きこと薺のごとし。
- 宝応は書を覧て大いに怒った。ある者が「虞公は病勢が次第に篤く、言に錯謬が多いのです」と言い、宝応の意はやや釈けた。また寄が民望のある者なので優遇して容れた。
- 秋九月、周迪がまた東興嶺を越えて冦した。辛未、詔して護軍章昭達に兵を将いさせて討たせた。
- 冬十一月辛酉、章昭達が周迪を大いに破った。迪は身一つで山谷にひそかに竄れた。民は相い与にこれを匿し、誅戮を加えてもあえて言う者はなかった。
- 十二月、章昭達が軍を進めて嶺を渡り、建安へ趨って陳宝応を討った。詔して益州刺史余孝頃に会稽・東陽・臨海・永嘉の諸軍を督させ、東道から会させた。
五年(564年)
- 冬十月、周迪がまた東興に出た。宣城太守銭粛が東興を鎮していたが、城をもって迪に降った。呉州刺史陳詳が兵を将いて撃ったが、詳の兵は大敗し、迪の衆はまた振るった。
- 南豫州刺史西豊脱侯周敷が部下を率いて撃ち、定川に至って迪と塁を対した。迪は敷を紿いて言った。「私は昔、弟と力を戮せ心を同じくした。どうして相い害することを規ろうか。今、罪に伏して朝に還ることを願う。弟を通じて心腑を披こう。まず身を挺して共に盟いたい」。敷は許した。壇に登ろうとしたところで迪に殺された。
- 陳宝応は建安・晉安の二郡に拠り、水陸に柵を為して章昭達を拒んだ。昭達は戦って利あらず、そこで上流に拠り、軍士に木を伐らせて筏を為し、その上に拍を施した。ちょうど大雨で江が漲り、昭達は筏を放って宝応の水柵を衝き、ことごとく壊した。また兵を出してその歩軍を攻めた。まさに合戦しようとするところへ、上が遣わした将軍余孝頃が海道からちょうど至り、力を併せて乗じた。
- 十一月己丑、宝応は大敗して莆口へ逃げ、その子に「早く虞公の計に従っていれば、今日には至らなかった」と言った。昭達は追って擒え、あわせて留異およびその族党を擒えて建康に送り、斬った。異の子の貞臣は主を娶っていたので免れた。宝応の賓客はみな死んだ。
- 上は虞寄がかつて宝応を諫めたと聞き、昭達に礼して建康に詣でさせるよう命じた。会って労って「管寧よ、無恙であったか」と言い、衡陽王の掌書記とした。
六年(565年)
- 秋七月、上が都督程霊洗を遣わして鄱陽から別道で周迪を撃たせ、破った。迪は麾下十余人と山穴の中に竄れた。日月が浸く久しくなると、従う者も次第に苦しんだ。のち人をひそかに出して臨川で魚と鮭を市わせたところ、臨川太守駱牙が捕らえ、迪を取って自ら効すよう令した。そのついでに腹心の勇士を随わせて山に入らせた。その人は迪を誘って猟に出させ、勇士は道の傍らに伏せて出て斬った。丙戌、首を伝えて建康に至った。