通鑑紀事本末安成王陳頊の簒立(安成王篡立(頊))
陳の高祖の子の衡陽王昌が周から還る途中で江に沈められ、代わって長安から帰った弟の安成王陳頊が権を握るまでの経緯。文帝が没して臨海王伯宗が立つと、輔政の劉師知・到仲挙・韓子高らは頊を外に出そうとして逆に誅され、国政は頊に帰した。湘州刺史華皎が周と後梁を引いて叛いたが沌口で敗れ、568年に頊は太皇太后の令を仮って帝を廃し、翌年に即位して宣帝となった。560年から569年までの十年間。
陳文帝天嘉元年(560年)
- 江陵が陥ちたとき、長城世子の陳昌および中書侍郎の陳頊はみな長安に没した。高祖は即位してしばしば周に請うたが、周人は許しながら遣わさなかった。高祖が殂して周人はようやく昌を還らせた。王琳の難のため安陸に居た。
- 琳が敗れ、昌は安陸を発って江を渡ろうとし、上に書を致した。その辞は甚だ不遜であった。上は懌ばず、侯安都を召して従容として言った。「太子が至ろうとしている。別に一藩を求めて老いを帰する地としなければならぬ」。安都は「古来、代えられた天子があったでしょうか。臣は愚かながらあえて詔を奉じません」と言い、そのついでに自ら昌を迎えることを請うた。
- こうして群臣が表を上って昌に爵命を加えることを請うた。春二月庚戌、昌を驃騎将軍・湘州牧として衡陽王に封じた。
- 三月甲戌、衡陽献王昌が境に入った。詔して主書舎人に道に沿って迎え候わせた。丙子、江を渡り、中流で隕ちた。溺れたと告げさせた。侯安都は功によって爵を清遠公に進めた。
- はじめ高祖は滎陽の毛喜を安成王頊に従わせて江陵に詣でさせた。梁の世祖は喜を侍郎とした。長安に没し、昌とともに還り、そのついでに和親の策を進めた。上はそこで侍中周弘正を遣わして周と好みを通じさせた。
二年(561年)
- 夏六月乙酉、周主が御正殷不害を聘に来させた。
- 冬十一月、周人が安成王頊を帰すことを許し、司会上士である京兆の杜杲を聘に来させた。上は悦んですぐ使いを遣わして報い、黔中の地および魯山郡を贈った。
三年(562年)
- 春正月丁未、周が安成王頊を柱国大将軍とし、杜杲を遣わして南へ帰らせた。
- 三月丙子、安成王頊が建康に至り、詔して中書監・中衛将軍とした。上が杜杲に「家弟が今、礼をもって遣わされたのは、まことに周朝の恵み。しかし魯山を返さなければ、これにも及ばなかったろう」と言った。杲は答えた。「安成は長安では一介の布衣にすぎませんが、陳においては介弟です。その価がどうして一城に止まりましょう。本朝は九族を敦く睦ませ、己を恕して物に及ぼし、上は太祖の遺旨に遵い、下は好みを継ぐ義を思い、それゆえ南へ帰らせたのです。今、尋常の土地で骨肉の親を易えたと言われるのは、使臣のあえて聞くところではありません」。上は甚だ慙じて「先の言は戯れたまで」と言い、杲を待つ礼はさらに加わった。
- 頊の妃の柳氏および子の陳叔宝はなお穰城にあった。上はまた毛喜を周に遣わして請い、周人はみな帰した。
天康元年(566年)
- 夏四月、上が不予となり、台閣の衆事はともに尚書僕射到仲挙・五兵尚書孔奐に共に決めさせた。奐は孔琇之の曾孫である。
- 疾が篤くなり、奐・仲挙と司空・尚書令・揚州刺史の安成王頊、吏部尚書袁枢、中書舎人劉師知が入って医薬に侍った。枢は袁君正の子である。
- 太子伯宗は柔弱で、上は位を守れぬことを憂え、頊に「私は太伯の事に遵おうと思う」と言った。頊は拝伏して涕泣し固辞した。上はまた仲挙・奐らに言った。「今、三方は鼎のごとく峙ち、四海の事は重い。長君を要するべきだ。朕は近くは晉の成、遠くは殷の法に隆いたいと思う。卿らはこの意に遵え」。孔奐は涙を流して答えた。「陛下の御膳は和を違えられましたが、痊復は久しからずでしょう。皇太子は春秋鼎盛、聖徳は日に躋ります。安成王は介弟の尊きにあり、周旦(周公)となるに足ります。もし廃立の心がおありでも、臣らは愚かながら誠に、あえて詔を聞けません」。上は「古の遺直をまた卿に見た」と言い、そこで奐を太子詹事とした。
史論(臣光曰)
- そもそも臣が君に事えるには、その美を将け順わせ、その悪を正し救うべきである。孔奐は陳にあって腹心の重きに処り、社稷の大計を決する任にあった。かりに世祖の言を誠でないと思うなら、竇嬰が面と弁じ爰盎が廷で争ったように、微を防ぎ漸を杜いで顗覦の心を絶つべきであった。誠であると思うなら、明らかに詔書を下して中外に宣告することを請い、世祖に宋の宣公の美をあらしめ、高宗(頊)に楚の霊王の悪なからしめるべきであった。そうでなく、太子は嫡嗣で動揺させられぬ、保ち輔けて安全にしたいと思うのなら、忠を尽くし節を竭くし、死をもって継ぐべきであった。晉の荀息、趙の肥義のように。それをなぜ、君の存命中はその情を逆に探って合わせようとし、既に没するや、権臣が国を移しても救えず、嗣主が位を失っても死ねなかったのか。これこそ姦諛の尤たるものである。しかるに世祖はこれを遺直と呼んで六尺の孤を託した。なんと悖ったことか。
(承前)
- 癸酉、上が殂し、太子が即位して大赦した。五月庚寅、安成王頊を驃騎大将軍・司徒・録尚書・都督中外諸軍事とした。
臨海王光大元年(567年)
- はじめ高祖が梁州であったとき劉師知を中書舎人に用いた。師知は学を渉り文を工くし、儀体を練習していた。世祖の朝を歴て、位や官は遷らなかったが委任は甚だ重く、揚州刺史安成王頊・尚書僕射到仲挙とともに遺詔を受けて政を輔けた。師知と仲挙は恒に禁中に居って衆事を参決し、頊は左右三百人と入って尚書省に居た。
- 師知は頊の地望と権勢が朝野の心を属めているのを見て忌み、尚書左丞王暹らと頊を外に出す謀を巡らせた。衆は猶予してあえて先に発たなかったが、東宮通事舎人殷不佞はもとより名節を自ら任とし、また東宮に委ねられていたので、そこで相府に馳せ詣で、敕を矯めて頊に言った。「今、四方に事はありません。王は東府に還って州務を経理されるがよい」。
- 頊が出ようとしたとき、中記室毛喜が馳せ入って頊に見えて言った。「陳が天下を有ってから日は浅く、国の禍は相次ぎ、中外は危ぶみ懼れております。太后は深く至計を惟って王を省に入れ共に庶績を康んじさせられました。今日の言は必ず太后の意ではありません。宗社は重い。願わくは王、三思し、改めて奏聞を待ち、姦人にその謀を肆にさせられますな。今、外に出れば人に制せられます。譬えば曹爽が富家翁になりたいと願っても、それが得られましょうか」。
- 頊は喜を遣わして領軍将軍呉明徹と籌らせた。明徹は「嗣君は諒陰にあり、万機は多く欠けております。殿下は親しくは実に周公・召公。まさに社稷を輔け安んずべきです。願わくは中に留まり疑われますな」と言った。
- 頊はそこで疾と称して劉師知を召して留め、語り合わせ、毛喜を先に入らせて太后に言わせた。太后は「今、伯宗は幼弱で、政事はともに二郎(頊)に委ねている。これは私の意ではない」と言った。喜はまた帝に言った。帝は「これは師知らの為したこと。朕は知らぬ」と言った。喜は出て頊に報じた。
- 頊はそこで師知を囚え、自ら入って太后および帝に見え、師知の罪を陳べ、そのうえで自ら敕を草して画(裁可)を請い、師知を廷尉に付した。その夜、獄中で死を賜わった。到仲挙を金紫光禄大夫とし、王暹・殷不佞をともに治に付した。不佞は殷不害の弟で、若くして孝行があり、頊はつねづね重んじていたので、独り死を免れ、免官だけで済んだ。王暹は誅に伏した。これより国政はことごとく頊に帰した。
- 右衛将軍である会稽の韓子高は領軍府を鎮し建康にあり、諸将のうち士馬が最も盛んで、仲挙と通謀していたが、事はまだ発たなかった。毛喜が士馬を選んで子高に配し、あわせて鉄と炭を賜わって器と甲を修めさせることを請うた。頊は驚いて「子高は謀反しており、今まさに収え執えようとしているのに、なぜさらにそんなことをするのか」と言った。喜は言った。「山陵が終わったばかりで辺冦はなお多く、子高は前朝に委ねられ、名は順に杖ると言えます。もし収えれば、時に首を授けず、あるいは人の患いとなるのを恐れます。心を推して安んじ誘い、自ら疑わせぬようにし、間を伺って図られるべきです。一壮士の力で足ります」。頊は深くもっともとした。
- 仲挙は廃されて私第に帰り、心に自ら安んじられなかった。子の到郁は世祖の妹の信義長公主を娶り、南康内史に除せられていたがまだ着任していなかった。子高もまた自ら危ぶみ、出て衡州・広州の諸鎮となることを求めた。郁はいつも小輿に乗って婦人の衣を蒙り、子高と謀った。ちょうど前上虞令陸昉および子高の軍主がその謀反を告げた。
- 頊は尚書省にあり、それに因って在位の文武を召して皇太子を立てることを議した。夜明けに仲挙と子高が省に入ると、みな捕らえ、あわせて郁を廷尉に送り、詔を下して獄で死を賜わった。余党は一切問わなかった。
- 癸丑、東揚州刺史始興王陳伯茂を中衛大将軍・開府儀同三司とした。伯茂は帝の同母弟である。劉師知・韓子高の謀に伯茂はみな与っていた。司徒頊は中外を扇き動かすのを恐れ、ゆえに中衛として専ら禁中に居らせ、帝と遊び処らせた。
- 夏四月、湘州刺史華皎が韓子高の死を聞いて内心自ら安んじられず、甲を繕い徒を聚め、部下を撫し循え、広州を求めることを啓して朝廷の意を卜した。司徒頊は偽って許したが詔書はまだ出なかった。皎は使いを遣わしてひそかに周の兵を引き、また自ら梁(後梁)に帰し、その子の華玄響を人質とした。
- 五月癸巳、頊は丹陽尹呉明徹を湘州刺史とした。
- 司徒頊は呉明徹に舟師三万を率いさせて郢州へ趨らせ、丙申、征南大将軍淳于量に舟師五万を率いさせて継がせ、また冠武将軍楊文通に安成から歩道で茶陵へ出させ、巴山太守黄法慧に宜陽から澧陵へ出させ、共に華皎を襲わせ、あわせて江州刺史章昭達・郢州刺史程霊洗と謀を合わせて進み討たせた。
- 六月壬寅、司空徐度を車騎将軍として建康の諸軍を総督させ、歩道で湘州へ趨らせた。
- 華皎の使者が長安に至り、梁王(後梁の蕭巋)もまた上書して状を言い、そのうえで師を乞うた。周人は師を出して応ずることを議した。司会崔猷が言った。「先年の東征では死傷が半ばを過ぎました。近ごろ撫し循えたとはいえ、瘡痍はまだ復しておりません。今、陳氏は境を保ち民を息ませ、共に隣好を敦くしております。どうしてその土地を利とし、その叛臣を納れ、盟約の信に違えて無名の師を興せましょう」。晉公護は従わず、閏六月戊寅、襄州総管衛公宇文直を遣わして柱国陸通・大将軍田弘・権景宣・元定らを督させ兵を将いて助けさせた。
- 秋八月、華皎が使いを遣わして章昭達を誘った。昭達は捕らえて建康に送った。また程霊洗を誘い、霊洗は斬った。皎は武州がその心腹に居るので、使いを遣わして都督陸子隆を誘ったが、子隆は従わなかった。兵を遣わして攻めたが克てなかった。巴州刺史戴僧朔らはみな皎に隷し、長沙太守曹慶らはもと皎の下に隷していたのでそのまま用いられた。司徒頊は上流の守宰がみな附くのを恐れ、そこで湘・巴二州を曲赦した。
- 九月乙巳、皎の家属をことごとく誅した。梁は皎を司空とし、その柱国王操に兵二万を将いさせて会させた。周は権景宣が水軍を、元定が陸軍を将い、衛公直がこれを総べ、皎とともに下った。淳于量は夏口に、直は魯山に軍し、元定に歩騎数千で郢州を囲ませた。皎は白螺に軍して呉明徹らと相い持した。
- 徐度と楊文通が嶺路から湘州を襲い、その留めた軍士の家属をことごとく獲た。
- 皎は巴陵から周・梁の水軍とともに流れに順い風に乗じて下り、軍勢は甚だ盛んで、沌口で戦った。量と明徹は軍中の小艦を募って多く金銀を賞し、先に出て西軍の大艦に当たらせ、その拍(投石機)を受けさせた。西軍の諸艦が拍を発して尽きたところで、量らは大艦で拍った。西軍の艦はみな砕けて中流に没した。西軍はまた艦に薪を載せ、風に因って火を縦ったが、たちまち風が転じて自ら焼けた。西軍は大敗した。
- 皎は戴僧朔と単舸で走り、巴陵を過ぎてもあえて岸に登らず、直ちに江陵へ奔った。衛公直もまた江陵へ奔った。元定は孤軍で進退の路なく、竹を斫って径を開き、戦いつつ引いて巴陵へ趨ろうとしたが、巴陵はすでに徐度らに拠られていた。度らは使いを遣わして偽って盟を結び、縦して国に還すと許した。定は信じて仗を解いて度のもとへ就いた。度は捕らえてその衆をことごとく俘とし、あわせて梁の大将軍李広を擒えた。定は憤り恚えて卒した。
- 皎の党の曹慶ら四十余人はみな誅に伏した。ただ岳陽太守章昭裕(昭達の弟)・杜陽太守曹宣(高祖の旧臣)・衡陽内史である汝陰の任忠(かつて密啓のあった者)はみな宥した。
- 呉明徹は勝ちに乗じて梁の河東を攻めて抜いた。周の衛公直は罪を梁の柱国殷亮に帰した。梁王はその罪でないと知りながらあえて違えず、そのまま誅した。
- 周と陳が交わりを悪くすると、周の沔州刺史裴寛が襄州総管に白して戍兵を益すことを請い、あわせて城を羊蹄山に遷して水を避けようとした。総管の兵がまだ至らぬうちに、程霊洗の舟師がにわかに城下に至った。ちょうど大雨で水が暴かに漲り、霊洗は大艦を引いて城に臨み、拍を発して楼と堞を撃ち、みな砕いた。矢石で昼夜攻めること三十余日。陳人が城に登っても、寛はなお衆を率いて短兵を執って拒み戦った。さらに二日してようやく擒えた。
二年(568年)
- 春正月己亥、安成王頊が位を太傅に進め、司徒を領し、殊礼を加えた。
- 冬十一月、始興王伯茂は安成王頊の専政に意が甚だ平らかでなく、しばしば悪言を肆にした。甲寅、太皇太后の令をもって帝を誣い、「劉師知・華皎らと通謀した」とし、そのうえで「文皇(世祖)の子を知る鑒は事として帝堯に等しく、弟に伝える懐いはまた太伯に符う。今、昔の志を還し申べ、賢君を崇め立ててよい」と言い、そのまま帝を廃して臨海王とし、安成王を入れて纂がせた。また令を下して伯茂を黜けて温麻侯とし、別館に置いた。安成王は盗に道で邀えさせ、車の中で殺した。
宣帝太建元年(569年)
- 春正月甲午、安成王が皇帝の位に即き、改元して大赦した。太皇太后をもとに戻して皇太后とし、皇太后を文皇后とし、妃の柳氏を皇后、世子の叔宝を太子に立て、皇子の陳叔陵を始興王に封じて昭烈王の祀を奉じさせた。
- 乙未、上が太廟に謁した。丁酉、尚書僕射沈欽を左僕射、度支尚書王勱を右僕射とした。勱は王份の孫である。