通鑑紀事本末梁の乱亡(陳霸先の梁簒奪)(梁氏亂亡(陳霸先簒梁))

昭明太子の死後に蕭綱を立てたことが諸子の不和の種となり、侯景の乱を機に湘東王蕭繹が河東王誉・岳陽王詧・邵陵王綸ら骨肉を次々に討って江陵で帝位に即くまで。詧が西魏に附いたため于謹の大軍が江陵を陥として元帝は殺され、詧が後梁の主として残される。建康では王僧弁が北斉の立てた蕭淵明を迎えたのを陳霸先が襲って僧弁父子を殺し、斉軍を大破して敬帝の禅を受け陳を建てた。後梁は587年に隋に廃されて梁の血統は絶える。531年から587年までの五十七年間。

年表(19件)
  • 梁武帝
  • 中大通三年531年昭明太子が卒し、弟の晉安王蕭綱が皇太子に立てられる
  • 中大同元年546年岳陽王詧が雍州刺史となって襄陽で士を養い勢力を蓄える
  • 太清三年549年湘東王繹が河東王誉を攻め、岳陽王詧は西魏に援けを求める
  • 簡文帝
  • 大宝元年550年王僧弁が長沙を克って河東王誉を斬り、詧は魏に梁王とされる
  • 二年551年西魏の楊忠が汝南を落として邵陵王綸を捕らえ殺す
  • 元帝
  • 承聖元年552年湘東王繹が江陵で皇帝の位に即く
  • 二年553年還都の議が起こるが、元帝は江陵に留まることを決める
  • 三年554年西魏の于謹が江陵を陥として元帝を殺し、蕭詧を梁主に立てる
  • 敬帝
  • 紹泰元年555年陳霸先が石頭で王僧弁父子を殺し、晉安王方智を敬帝に立てる
  • 太平元年556年霸先が鍾山・幕府山で斉の大軍を破り、丞相・義興公となる
  • 陳高祖
  • 永定元年557年敬帝が陳霸先に禅位し、霸先が皇帝の位に即く
  • 二年558年王琳が斉の援けで永嘉王荘を立て、陳主は敬帝を害す
  • 陳文帝
  • 天嘉元年560年王琳が敗れて斉へ奔り、梁の元帝が江寧に葬られる
  • 三年562年後梁主蕭詧が志を得ぬまま殂し、太子巋が位を嗣ぐ
  • 陳宣帝
  • 太建二年570年永嘉王荘が鄴で卒する
  • 十年578年梁主が弟の蕭巌を隋に遣わして賀させる
  • 陳長城公至徳元年583年梁の太子蕭琮が隋に入朝する
  • 三年585年梁主蕭巋が殂し、太子琮が位を嗣ぐ
  • 禎明元年587年隋が梁主を徴して入朝させ、梁国を廃する

梁武帝中大通三年(531年)

  • 夏四月乙巳、昭明太子蕭統が卒した。
  • 五月丙申、太子の同母弟である晉安王蕭綱を皇太子に立てた。朝野の多くはこれを順ならずとした。司議侍郎周弘正はかつて晉安王の主簿だったので、記を奏った。「謙譲の道が廃れて年久しくなりました。伏して惟みるに明大王殿下は天挺の将聖、四海が仁に帰しております。それゆえ皇上は徳音を発して大王を儲副とされました。ひそかに願うのは、殿下が目夷の上仁の義を掲げ、子臧の大賢の節を執り、玉輿を逃れて乗らず、万乗を棄てること履を脱ぐごとくなさることです。そうすれば澆薄競争の俗を改め、呉国の風を大いにできましょう。古にその人があり、今その語を聞きますが、これを行える者は殿下でなくて誰でしょう。無為の化を遂古に再び生じさせ、譲王の道を来葉に墜とさぬのは、なんと盛んなことではありませんか」。王は従えなかった。
  • 六月癸丑、華容公蕭歓を豫章王、その弟の枝江公蕭誉を河東王、曲阿公蕭詧を岳陽王に立てた。上は人の言が止まぬので、歓の兄弟を大郡に封じてその心を慰めたのである。

中大同元年(546年)

  • 上は年高く、諸子は心に相い下らず、互いに猜み忌んだ。邵陵王綸は丹陽尹、湘東王繹は江州、武陵王紀は益州にあり、みな権は人主に等しかった。太子綱はこれを悪み、かつて精兵を選んで東宮を衛らせた。
  • 八月、綸を南徐州刺史とした。
  • 冬十月乙亥、前東揚州刺史岳陽王詧を雍州刺史とした。上は詧の兄弟を措いて太子綱を立てたので、内心常に愧じ、寵は諸子に次ぐものがあった。会稽は人物が殷んで富んでいたので、詧の兄弟を代わる代わる東揚州とさせてその心を慰めた。詧の兄弟もまた内に不平を懐いた。詧は上が衰老し朝に秕政が多いので、貨財を蓄え聚め、節を折って士に下り、勇敢の士を招き募って左右は数千人に至った。襄陽は形勝の地で梁業の基づいたところ、乱に遇えば大功を図れると考え、そこで己を克めて政を為し、士民を撫し循え、しばしば恩恵を施し、規諫を延き納れ、部内は治まったと称された。

太清三年(549年)

  • はじめ上は河東王誉を湘州刺史とし、湘州刺史張纉を雍州刺史に移して岳陽王詧に代えた。纉はその才望を恃んで誉が少年なのを軽んじ、迎え候うのに欠けるところがあった。誉は着任すると州府を検括して事務を引き渡させ、纉を留めて遣わさなかった。侯景の乱を聞いてかなり纉を陵ぎ蹙めたので、纉は害されるのを恐れ、軽舟で夜に遁れた。雍州へ行こうとしたが、詧が拒むのを慮った。纉は湘東王繹と旧交があり、これに因って誉の兄弟を殺そうと思い、そこで江陵へ行った。
  • 台城が陥ちて諸王が各々州鎮に還ると、誉は湖口から湘州に帰った。桂陽王蕭慥は荊州の督府として軍を江陵に留め、繹が至るのを待って拝謁してから信州に還ろうとしていた。纉は繹に「河東(誉)は檣を戴いて水を上り江陵を襲おうとしている。岳陽(詧)は雍にあって共に不逞を謀っている」と書き送った。江陵の遊軍主朱栄もまた使いを遣わして繹に「桂陽がここに留まっているのは誉と詧に応じようとするためだ」と告げた。繹は懼れ、船を鑿って米を沈め纜を斬り、蛮中から歩道を馳せて江陵へ帰り、慥を囚えて殺した。
  • 湘東王繹が入援したとき、督下の諸州にみな兵を発するよう令した。雍州刺史岳陽王詧は府司馬劉方貴に兵を将いさせて漢口へ出させた。繹が詧を召して自ら行かせようとしたが、詧は従わなかった。方貴はひそかに繹と通じ、襄陽を襲う謀を巡らせていた。まだ発たぬうちに、たまたま詧が他の事で方貴を召した。方貴は謀が漏れたと思い、そのまま樊城に拠って命を拒んだ。詧が軍を遣わして攻めた。
  • 繹は厚く資して張纉を遣わし鎮に赴かせた。纉が大堤に至ったとき、詧はすでに樊城を抜いて方貴を斬っていた。纉が襄陽に至ると、詧は引き延ばして去らず、ただ城西の白馬寺に置くだけで、なお軍府の政を総べた。台城の陥落を聞くと、ついに交代を受けなかった。助防杜岸が纉を紿いた。「岳陽の勢いを観るに使君を容れますまい。しばらく西山へ行って禍を避けられるに越したことはない」。岸は襄陽の豪族で、兄弟九人はみな驍勇で名を著していた。纉はそこで岸と盟を結び、婦人の衣を着て青布の輿に乗り、西山へ逃げ入った。詧は岸に兵を将いさせて追わせ擒えた。纉は沙門となることを乞い、名を法纉と改め、詧は許した。
  • 夏五月丙辰、上が殂した。辛巳、太子が皇帝の位に即いた。
  • 六月、上甲侯蕭韶が建康から江陵へ奔り出、高祖の密詔を受けて兵を徴すると称し、湘東王繹を侍中・仮黄鉞・大都督中外諸軍事・司徒として制を承けさせ、その他の藩鎮にもみな位号を加えた。
  • 湘州刺史河東王誉は驍勇で士心を得ていた。湘東王繹が侯景を討とうとして使いを遣わしてその糧と衆を督したところ、誉は「各々自らの軍府だ。どうして急に人に隷そうか」と言った。使者は三度往復したが、誉は与えなかった。湘東王世子方等が討つことを請い、繹はそこで少子の安南侯蕭方矩を湘州刺史とし、方等に精卒二万を将いさせて送らせた。方等は発つにあたり親しい者に言った。「この行では私は必ず死ぬだろう。死んでその所を得るなら、また何を恨もう」。
  • 湘東世子方等の軍が麻渓に至った。河東王誉が七千人を率いて撃ち、方等の軍は敗れ、方等は溺死した。安南侯方矩は余衆を収めて江陵に還った。湘東王繹に憂え悲しむ容色はなかった。
  • 西江督護陳霸先が兵を起こして侯景を討った。
  • 湘東王繹が竟陵太守王僧弁・信州刺史である東海の鮑泉を遣わして湘州を撃たせた。兵糧を分け給し、日を刻んで路に就かせた。僧弁は竟陵の部下がまだ全て至っておらず、衆の集まるのを待ってから行こうとして、泉とともに入って繹に白し、期日を延べることを求めた。繹は僧弁が観望していると疑い、剣を按じて声を厲しくして言った。「卿は行くのを憚り命を拒む。賊に同ずるつもりか。今はただ死あるのみ」。そこで僧弁を斫ってその左の髀に中てた。僧弁は悶絶し、久しくしてようやく蘇り、すぐ獄に送られた。泉は震え怖れてあえて物を言わなかった。僧弁の母が徒歩で涙を流して入って謝し、自ら訓えのなかったことを陳べた。繹の意は解け、良薬を賜わったので死なずに済んだ。
  • 丁卯、鮑泉が独り兵を将いて湘州を伐った。
  • 秋八月己亥、鮑泉が石槨寺に軍した。河東王誉は迎え戦って敗れた。辛丑、また橘洲で敗れ、戦死と溺死は一万余人。誉は退いて長沙を保ち、泉は軍を引いて囲んだ。
  • 九月、河東王誉が岳陽王詧に急を告げた。詧は諮議参軍である済陽の蔡大宝を留めて襄陽を守らせ、衆二万・騎二千を率いて江陵を伐ち、湘州を救おうとした。湘東王繹は大いに懼れ、左右を獄中に遣わして王僧弁に計を問わせた。僧弁は具に方略を陳べ、繹はそこで赦して城中都督とした。
  • 乙卯、詧が江陵に至り、十三の営を作って攻めた。ちょうど大雨で平地の水が深さ四尺となり、詧の軍の気は沮んだ。繹は新興太守杜崱と旧交があり、ひそかに邀えた。乙丑、崱は兄の杜岌・杜岸、弟の杜幼安、兄の子の杜龕とそれぞれ部下を率いて繹に降った。岸は五百騎で襄陽を襲うことを請い、昼夜兼行して襄陽を去ること三十里まで来た。城中は気づき、蔡大宝が詧の母の龔保林を奉じて城に登り拒み戦った。詧は聞いて夜に遁れ、糧食・金帛・鎧仗を湕水に棄てたものは数えきれなかった。張纉は足を病んでいて詧が載せて軍に随わせていたが、敗走のとき、守る者が追兵に及ばれるのを恐れて殺し、屍を棄てて去った。詧は襄陽に至り、岸は広平へ奔ってその兄の南陽太守杜巚に依った。
  • 湘東王繹は鮑泉が長沙を囲んで久しく克てぬのを怒り、平南将軍王僧弁を代わりの都督とし、泉の十罪を数えて舎人羅重歓に僧弁と同行するよう命じた。泉は僧弁が来ると聞いて愕然として「王竟陵が来て助けてくれるなら、賊は平らげるに足りぬ」と言い、席を払って待った。僧弁は入ると泉に背を向けて坐して言った。「鮑郎、卿には罪がある。令旨で私に卿を鎖せと。卿は昔の気持ちで期待するな」。重歓に令を宣べさせ、牀の側で鎖した。泉は啓を作って自ら申べ、あわせて遅緩の罪を謝した。繹の怒りは解け、そのまま釈された。
  • 冬十一月、岳陽王詧が将軍薛暉に広平を攻めさせて抜き、杜岸を獲て襄陽に送った。詧はその舌を抜き、その面を鞭打ち、支解して烹た。またその祖父の墓を発いてその骸を焼いて揚げ、その頭を漆の椀にした。
  • 詧は湘東王繹と敵となり、自ら存えられぬのを恐れて、使いを遣わして魏に援けを求め、附庸となることを請うた。丞相宇文泰は東閤祭酒栄権を襄陽に使いさせた。繹が司州刺史柳仲礼に竟陵を鎮させて詧を図らせると、詧は懼れてその妃の王氏および世子蕭嶚を魏に人質とした。
  • 丞相泰は江漢を経略しようとして、開府儀同三司楊忠を都督三荊等十五州諸軍事として穰城に鎮させた。仲礼は安陸に至り、安陸太守沈勰が城をもって降った。仲礼は長史馬岫とその弟の柳子礼を留めて守らせ、衆一万を率いて襄陽へ趨った。泰は楊忠および行台僕射長孫倹に兵を将いさせて仲礼を撃ち、詧を救わせた。
  • 魏の楊忠が至ろうとすると、義陽太守馬伯符が下溠城をもって降った。忠は伯符を郷導とした。伯符は岫の子である。
  • 十二月、魏の楊忠が随郡を抜き、太守桓和を捕らえた。

簡文帝大宝元年(550年)

  • 春正月、陳霸先が軍を南康に進めた。湘東王繹は制を承けて霸先に明威将軍・交州刺史を授けた。
  • 魏の楊忠が安陸を囲んだ。柳仲礼は馳せ帰って救おうとした。諸将は仲礼が至れば安陸は下しにくくなると恐れ、急いで攻めることを請うた。忠は言った。「攻守の勢いは殊なる。にわかには抜けまい。もし日を引いて師を労すれば、表裏から敵を受ける。よい計ではない。南人は多く水軍を習い野戦に慣れていない。仲礼の師は近い路にある。私はその不意に出て奇兵で襲う。彼は怠り我は奮う。一挙に克てる。仲礼を克てば安陸は攻めずとも自ら抜け、諸城は檄を伝えて定められよう」。そこで騎二千を選び、枚を銜んで夜に進み、漴頭で仲礼を破り、仲礼およびその弟の子礼を獲て、その衆をことごとく俘にした。馬岫は安陸をもって、別将王叔孫は竟陵をもって、みな忠に降った。こうして漢東の地はことごとく魏に入った。
  • 二月、魏の楊忠は勝ちに乗じて石城に至り、進んで江陵に逼ろうとした。湘東王繹が舎人庾恪を遣わして忠に説かせた。「詧が叔父を伐つのを魏が助けては、何をもって天下の心を帰せしめられましょう」。忠はそこで湕水の北に停まった。繹は舎人王孝祀らを遣わして子の蕭方略を人質に送り和を求め、魏人は許した。繹は忠と盟った。「魏は石城を封とし、梁は安陸を界とする。同じく附庸となり、あわせて質子を送り、有無を貿遷し、永く隣睦を敦くする」。忠はそこで還った。
  • 邵陵王綸は河東王誉を救おうとしたが兵と糧が足りず、湘東王繹に書を致した。「天の時と地の利は人の和に及びません。まして手足肱支の間柄、どうして相い害せましょう。今、社稷は危うく恥ずかしめられ、創は巨きく痛みは深い。ただ心を剖き胆を嘗め、血を泣き戈を枕にすべきです。その他の小さな忿りは容し貰すべきでしょう。もし外の難がまだ除かれぬのに家の禍を重ねて構えれば、今を料り古を訪ねても、亡びなかった例はありません。そもそも征戦の理はただ克ち勝つことを求めるもの。骨肉の戦いに至っては、勝てば勝つほど酷い。捷てば功ではなく、敗れれば喪があります。兵を労し義を損ない、虧け失うものが多い。侯景の軍がまだ江外を窺わぬのは、まことに藩屏が盤り固まり宗鎮が強く密であるからです。弟がもし洞庭を陥れて兵刃を戢めねば、雍川(詧)は疑い迫られ、何をもって自ら安んじましょう。必ず魏軍を引き進めて形援を求めます。弟がもし安んじねば、家も国も去りましょう。ぜひ湘川の囲みを解き社稷の計を存されますよう」。繹は返書して誉の過悪は赦せぬことを陳べ、そのうえで言った。「詧が楊忠を引いて侵し逼りましたが、かなり談笑に遵って秦軍を却けました。曲直は所在があります。もう自ら陳べません。臨湘が朝に平らげば、暮れにはすぐ路に就きます」。綸は書を得て案に投じ、慷慨して涙を流し「天下の事、ここに至ったか。湘州がもし敗れれば、私の亡ぶのは日を経ぬ」と言った。
  • 夏四月、邵陵王綸は郢州にあって聴事を正陽殿とし、内外の斎閤にことごとく題署を加えた。その部下は軍府を陵ぎ暴れ、郢州の将佐で怨まぬ者はなかった。諮議参軍江仲挙は南平王恪の謀主で、恪に綸を図るよう説いた。恪は驚いて言った。「もし私が邵陵を殺して一鎮を寧静にすれば、荊・益の兄弟は必ずみな内心喜ぼう。だが海内がもし平らげば、大義をもって私を責めよう。しかも巨逆はまだ梟されぬのに骨肉が相い残うのは、自ら亡ぶ道だ。卿はしばらく息めよ」。仲挙は従わず、諸将を部分して日を刻んで発とうとした。謀が漏れ、綸は圧し殺した。恪は狼狽して謝しに行った。綸は「群小の作したこと。兄によるものではない。凶党はすでに斃れた。兄は深く憂えられるな」と言った。
  • 王僧弁が急に長沙を攻め、辛巳、克って河東王誉を捕らえ斬り、首を江陵に伝えた。湘東王繹はその首を返して葬った。繹は僧弁を左衛将軍とし、侍中・鎮西長史を加えた。
  • 六月、魏人が岳陽王詧に喪を発して位を嗣がせようとしたが、詧は辞して受けなかった。丞相泰は栄権に冊命させて詧を梁王とし、初めて台を建てて百官を置いた。
  • 秋七月辛酉、梁王詧が魏に入朝した。
  • 邵陵王綸が大いに鎧と武器を修めて侯景を討とうとした。湘東王繹はこれを悪み、八月甲午、左衛将軍王僧弁・信州刺史鮑泉らに舟師一万を率いさせて東のかた江・郢へ趨らせ、任約を拒むと声言し、あわせて「邵陵王を迎えて江陵に還し湘州を授ける」と言った。
  • 九月、王僧弁の軍が鸚鵡洲に至った。郢州司馬劉竜虎らがひそかに僧弁に人質を送った。邵陵王綸は聞いてその子の威正侯蕭礩に兵を将いさせて撃たせた。竜虎は敗れて僧弁のもとへ奔った。綸は書で僧弁を責めた。「将軍は前年に人の姪を殺し、今年は人の兄を伐つ。これで栄を求められても、天下は許すまい」。僧弁は書を湘東王繹に送り、繹は軍を進めるよう命じた。
  • 辛酉、綸は麾下を西園に集めて涙を流して言った。「私にはもともと他意はなく、志は賊を滅ぼすにあった。湘東はいつも私が帝位を争っていると言って、こうして伐たれる。今日、守ろうとすれば糧の貯えを断たれ、戦おうとすれば千載に笑いを取る。事もなく縛を受けるわけにはいかぬ。下流でこれを避けよう」。麾下の壮士は争って出戦を請うたが、綸は従わず、礩と倉門から舟に登って北へ出た。僧弁が入って郢州に拠った。繹は南平王恪を尚書令・開府儀同三司、世子方諸を郢州刺史、王僧弁を領軍将軍とした。
  • 綸は道で鎮東将軍裴之高に遇った。之高の子の裴畿がその軍器を掠めた。綸は左右と軽舟で武昌の澗飲寺へ奔り、僧の法馨が綸を巌穴の下に匿した。綸の長史韋質・司馬姜律らは綸がなお存えていると聞いて馳せ行って迎え、七柵の流民に説いて糧と武器を求めた。綸は出て巴水に営し、流民八、九千人が附き、少しずつ散卒を収めて斉昌に屯した。使いを遣わして斉に降ることを請い、斉は綸を梁王とした。
  • 岳陽王詧が襄陽に還った。
  • 冬十一月甲子、南平王恪が文武を率いて牋を拝し、湘東王繹を相国・総百揆に推した。繹は許さなかった。
  • 十二月、邵陵王綸は汝南にあって城池を修め士卒を集め、安陸を図ろうとした。魏の安州刺史馬祐が丞相泰に告げ、泰は楊忠に一万人を将いさせて安陸を救わせた。

二年(551年)

  • 春正月、魏の楊忠が汝南を囲み、李素が戦死した。二月乙亥、城が陥ち、邵陵携王綸を捕らえて殺し、屍を江岸に投じた。岳陽王詧が取って葬った。
  • 斉が散騎常侍曹文皎を江陵に使いさせ、湘東王繹は兼散騎常侍王子敏を報聘に遣わした。
  • 三月己未、斉が湘東王繹を梁の相国とし、梁台を建てて百揆を総べさせ制を承けさせた。
  • 岳陽王詧は侯景が郢州を克ったと聞き、蔡大宝に兵一万を将いさせて進んで武寧に拠らせ、使いを江陵に至らせて援けに赴くと詐り称した。衆議は「侯景はすでに破られた」と答えて退軍させようとした。湘東王繹は「今、退軍せよと語るのは、これを促して進ませることだ」と言い、そこで大宝に言わせた。「岳陽はしきりに啓して連和し侵犯せぬと言っている。卿はなぜにわかに武寧に拠るのか。今、天門太守胡僧祐に精甲二万・鉄馬五千を遣わして湕水に頓させ、時を待って軍を進めさせよう」。詧は聞いてその軍を召し還した。僧祐は南陽の人である。
  • 秋八月、侯景が帝を廃して晉安王とし、詔を下して豫章王棟を迎えた。壬戌、棟が帝位に即いた。
  • 九月己亥、湘東王繹が尚書令王僧弁を江州刺史、江州刺史陳霸先を東揚州刺史とした。
  • 冬十月壬寅、侯景が太宗を弑した。王僧弁らは太宗の殂を聞き、丙辰、湘東王繹に啓して尊号を上ることを請うたが、繹は許さなかった。
  • 十一月乙亥、王僧弁がまた表を上って勧進したが、湘東王繹は許さなかった。
  • 己丑、豫章王棟が侯景に禅位し、景は棟を淮陰王に封じた。

元帝承聖元年(552年)

  • 春三月己丑、王僧弁らが表を上って勧進し、あわせて建業に都することを迎え請うたが、許さなかった。辛卯、宣猛将軍朱買臣が豫章王棟を水に沈めた。
  • 夏四月、王僧弁が陳霸先に京口を鎮させることを啓した。
  • 五月庚午、司空南平王恪らがまた勧進したが、湘東王はなお受けなかった。庚辰、南平王恪を揚州刺史とした。甲申、王僧弁を司徒・鎮衛将軍として長寧公に封じ、陳霸先を征虜将軍・開府儀同三司として長城県侯に封じた。
  • 斉主がその散騎常侍曹文皎らを聘に来させ、湘東王は散騎常侍柳暉らを報聘に遣わした。
  • 斉主が潘楽・郭元建に兵を将いさせて秦郡を囲ませた。行台尚書辛術が諫めた。「朝廷と湘東王とは信使が絶えておりません。陽平は侯景の土地ですから取るのは構いませんが、今、王僧弁はすでに厳超達を遣わして秦郡を守らせております。義においてどうしてまたこれを争えましょう。しかも水潦がまさに降ります。師を班すに越したことはありません」。従わなかった。
  • 陳霸先が別将徐度に兵を引いて秦郡を助け固く守らせた。斉の衆七万が甚だ急に攻めた。王僧弁が左衛将軍杜崱を遣わして救い、霸先もまた欧陽から来て会し、士林で元建と大戦して大いに破り、一万余級を斬り、千余人を生け捕った。元建は余衆を収めて北へ遁れたが、なお通好のゆえに窮追しなかった。
  • 六月、安南侯方矩を王太子に立てた。
  • 斉は政が煩わしく賦が重く、江北の民は斉に属するのを楽しまなかった。その豪傑はしばしば王僧弁に兵を請うたが、僧弁は斉と通好しているのでみな許さなかった。
  • 秋七月、広陵の僑人朱盛らがひそかに党数千人を聚め、斉の刺史温仲邕を襲い殺す謀を巡らせ、使いを遣わして陳霸先に援けを求め、すでに外城を克ったと言った。霸先が僧弁に告げさせると、僧弁は「人の情偽は測りやすくない。もし審らかに外城を克ったのなら急ぎ応援を要するが、そうでなければ軍を進める煩いはない」と言った。使いがまだ報せぬうちに霸先はすでに江を済っていた。僧弁はそこで武州刺史杜崱らに助けるよう命じた。ちょうど盛らの謀が漏れ、霸先はそのまま軍を進めて広陵を囲んだ。
  • 九月甲戌、司空南平王恪が卒した。甲申、王僧弁を揚州刺史とした。
  • 斉主が王僧弁・陳霸先に告げさせた。「広陵の囲みを釈かれよ。必ず広陵と歴陽の両城を返そう」。霸先は兵を引いて京口に還った。江北の民で霸先に従って江を済った者は一万余口。湘東王は霸先を征北大将軍・開府儀同三司・南徐州刺史とし、霸先の世子陳昌および兄の子の陳頊を徴して江陵に詣でさせ、昌を員外散騎常侍、頊を領直とした。
  • 公卿と藩鎮がしばしば湘東王に勧進した。十一月丙子、世祖(元帝)が江陵で皇帝の位に即き、改元して大赦した。この日、帝は正殿に升らず、公卿は陪列するのみであった。
  • 己卯、王太子方矩を皇太子として名を元良と改め、皇子の方智を晉安王、方略を始安王、方等の子の蕭荘を永嘉王とした。
  • 侯景の乱で州郡の大半は魏に入り、巴陵以下建康までは長江をもって限りとし、荊州の界は北は武寧に尽き西は硤口を拒み、嶺南はまた蕭勃に拠られていた。詔令の行われるのは千里に近いばかりで、民戸で籍に著く者は三万にも満たなかった。

二年(553年)

  • 春正月、王僧弁が建康を発ち、制を承けて陳霸先に代わって揚州に鎮させた。
  • 秋八月、詔を下して建康に還ろうとした。領軍将軍胡僧祐・太府卿黄羅漢・吏部尚書宗懍・御史中丞劉瑴が諫めた。「建業の王気はすでに尽き、虜とはまさに一江を隔てるのみ。もし不虞のことがあれば悔いても及びません。しかも古老が伝えて言うには、荊州の洲の数が百に満ちれば天子が出る、と。今、枝江に洲が生じて百数はすでに満ちました。陛下の竜飛はその応です」。
  • 上が朝臣に議させた。黄門侍郎周弘正・尚書右僕射王褒は「今、百姓は輿駕が建康に入るのを見ておらず、列国の諸王だと思っております。願わくは陛下、四海の望みに従われますよう」と言った。当時、群臣には荊州の人が多く、みな「弘正らは東の人。志は東下を願っており、良計ではありますまい」と言った。弘正は面と向かって折して言った。「東の人が東を勧めるのは良計でないと言うなら、君らは西の人で西にいたい。どうして長策となろう」。上は笑った。
  • また後堂で議した。会する者は五百人。上が「私は建康に還ろうと思う。諸卿はどう思うか」と問うた。衆はあえて先に答えなかった。上が「私に去るよう勧める者は左袒せよ」と言うと、左袒する者が半ばを過ぎた。武昌太守朱買臣が上に言った。「建康は旧都で山陵のあるところ。荊は辺疆を鎮するところで、王者の宅ではありません。願わくは陛下、疑って後悔を致されますな。臣の家は荊州にあります。どうして陛下がここに居られることを願わぬでしょう。ただ、これは臣の富貴であって陛下の富貴ではないのを恐れるのです」。
  • 上が術士杜景豪に卜させると不吉だった。上には「行かれませぬ」と答え、退いてから「この兆は鬼賊に留められるということだ」と言った。上は建康が彫れ残び江陵が全盛なので、意もまたそこに安んじ、ついに僧祐らの議に従った。
  • 九月庚午、詔して王僧弁を建康に還り鎮させ、陳霸先をまた京口に還らせた。
  • 斉主が郭元建に合肥で水軍二万余人を治めさせ、建康を襲って湘潭侯蕭退を納れようとし、また将軍邢景遠・歩大汗薩に衆を率いさせて継がせた。陳霸先は建康にあってこれを聞き、上に白した。上は王僧弁に姑孰を鎮して禦ぐよう詔した。
  • 冬十月己酉、王僧弁が姑孰に至り、婺州刺史侯瑱・呉郡太守張彪・呉興太守裴之横を遣わして東関に塁を築かせ斉師を待たせた。
  • 閏月丁丑、南豫州刺史侯瑱が郭元建と東関で戦い、斉師は大敗し、溺死する者は万を数えた。湘潭侯退はまた鄴に帰り、王僧弁は建康に還った。
  • 十一月丙寅、上が侍中王琛を魏に使いさせた。太師泰はひそかに江陵を図る志があり、梁王詧はこれを聞いていよいよその貢献を重くした。

三年(554年)

  • 春正月、陳霸先が丹徒から江を済って斉の広陵を囲み、秦州刺史厳超逵が斉郡から進んで涇州を囲み、南豫州刺史侯瑱・呉郡太守張彪はみな石梁に出て声援とした。
  • 三月己酉、魏の侍中宇文仁恕が聘に来た。ちょうど斉の使者も江陵に至った。帝の仁恕への接し方は斉の使いに及ばなかった。仁恕は帰って太師泰に告げた。帝はまた旧図に拠って疆境を定めることを請い、辞はかなり不遜であった。泰は「古人の言に『天の棄てるところ、誰が能く興せよう』とある。蕭繹のことを言うのか」と言った。荊州刺史長孫倹はしばしば攻め取る策を陳べていた。泰は倹を徴して入朝させ経略を問い、また鎮に還るよう命じてひそかに備えさせた。馬伯符がひそかに帝に告げたが、帝は信じなかった。
  • 夏四月丙寅、上が散騎常侍庾信らを魏に聘せさせた。癸酉、陳霸先を司空とした。
  • 五月、散騎郎である新野の庾季才が上に言った。「去年八月丙申、月が心の中星を犯し、今月丙戌、赤気が北斗を干しました。心は天王、丙は楚の分を主ります。臣は建子の月(十一月)に大兵が江陵に入るのを恐れます。陛下は重臣を留めて江陵を鎮させ、斾を整えて都に還り、その患いを避けられるべきです。仮に魏虜が侵し蹙めても、失うのは荊・湘のみに止まり、社稷においてはなお慮りなきを得ましょう」。上もまた天文を暁り、楚に災いがあるのを知っていたが、歎じて「禍福は天にある。避けて何の益があろう」と言った。
  • 六月壬午、斉の歩大汗薩が兵四万を将いて涇州へ趨った。王僧弁が侯瑱・張彪に石梁から兵を引いて厳超達を助け拒ませたが、瑱と彪は遅れ留まって進まなかった。将軍尹令思が一万余人を将いて盱眙を襲う謀を巡らせた。
  • 斉の冀州刺史段韶が兵を将いて東方白額を宿預に討っていた。広陵・涇州からともに急を告げ、諸将は患えた。韶は言った。「梁氏は喪乱し、国に定まった主がなく、人は去就を懐き、強い者に従う。霸先らは外は同徳に託しながら内には離心がある。諸君は憂えるに足りぬ。私は熟く揣った」。そこで儀同三司敬顕携らを留めて宿預を囲ませ、自ら兵を引いて倍道して涇州へ趨り、途は盱眙に出た。令思は斉兵が急に至るとは思わず、風を望んで退き走った。韶は進んで超達を撃ち破り、回って広陵へ趨った。陳霸先は囲みを解いて走り、杜僧明は丹徒に還り、侯瑱と張彪は秦郡に還った。
  • 秋九月乙巳、魏が柱国常山公于謹・中山公宇文護・大将軍楊忠を遣わし、兵五万を将いて入冦させた。冬十月壬戌、長安を発った。長孫倹が謹に「蕭繹の計としてはどうするだろうか」と問うた。謹は言った。「兵を漢沔に耀かし、席巻して江を渡り、直ちに丹陽に拠るのが上策。郭内の居民を移して子城に退き保ち、その陴堞を峻しくして援軍を待つのが中策。移動を難として羅郭を拠り守るのが下策だ」。倹が「繹はきっとどの策に出るか」と問うと、謹は「下策」と答えた。「なぜか」。「蕭氏は江南に保ち拠って数紀を綿々と歴てきた。中原に多故で外を略す暇がなく、また我に斉氏の患いがあるので、必ず力を分けられぬと思うだろう。しかも繹は懦弱で謀がなく、疑い多く決断が少ない。愚民とは始めを慮りがたく、みな邑居を恋う。だから下策を用いると知れるのだ」。
  • 癸亥、武寧太守宗均が魏兵の至ろうとしていることを告げた。帝が公卿を召して議した。領軍胡僧祐・太府卿黄羅漢は「二国は通好して嫌隙はありません。必ずそんなことはありますまい」と言った。侍中王琛は「臣が宇文の容色を揣るに、必ずこの理はありません」と言った。そこでまた琛を魏に使いさせた。
  • 丙寅、于謹が樊・鄧に至り、梁王詧が衆を率いて会した。丁卯、内外に戒厳した。王琛は石梵に至ったがまだ魏軍を見ず、書を馳せて黄羅漢に報じた。「私は石梵に至ったが境上は静穏だ。前の言はみな児戯にすぎぬ」。帝は聞いて疑った。
  • 辛未、帝が主書李膺を建康に至らせて王僧弁を大都督・荊州刺史に徴し、陳霸先に揚州へ鎮を移すよう命じた。僧弁は豫州刺史侯瑱に程霊洗らを帥いさせて前軍とし、兖州刺史杜僧明に呉明徹らを帥いさせて後軍とした。
  • 甲戌、帝は夜に鳳凰閣に登り、徙り倚って歎息して「客星が翼・軫に入った。今度は必ず敗れる」と言った。嬪御はみな泣いた。
  • 陸法和は魏師が至ると聞き、郢州から漢口に入って江陵へ赴こうとした。帝は迎えて「これは自ら賊を破れる。ただ郢州を鎮せよ。動く必要はない」と言わせた。法和は州に還り、その城門を白土で塗り、喪服を着て葦の席に坐して終日過ごし、それから脱いだ。
  • 十一月、帝が津陽門の外で大閲した。北風と暴雨に遭い、軽輦で宮に還った。
  • 癸未、魏軍が漢を済った。于謹は宇文護・楊忠に精騎を率いてまず江津に拠り東の路を断たせた。甲申、護が武寧を克って宗均を捕らえた。この日、帝は馬に乗って城を出て柵を巡った。木を挿して作り、周囲六十余里。領軍将軍胡僧祐を都督城東諸軍事とし尚書右僕射張綰をその副とし、左僕射王褒を都督城西諸軍事とし四廂領直元景亮をその副とし、王公以下それぞれ守るところがあった。
  • 丙戌、太子に城楼を巡行するよう命じ、居民に木石の運搬を助けさせた。夜、魏軍が黄華に至った。江陵を去ること四十里。丁亥、柵の下に至った。
  • 戊子、嶲州刺史裴畿・畿の弟の新興太守裴機・武昌太守朱買臣・衡陽太守謝答仁が枇杷門を開いて出戦した。裴機が魏の儀同三司胡文伐を殺した。畿は裴之高の子である。
  • 帝が広州刺史王琳を湘州刺史に徴し、兵を引いて入援させた。
  • 丁酉、柵内に火が出て数千家および城楼二十五を焼いた。帝は焼けた楼に臨んで魏軍が江を済るのを望み、四顧して歎息した。この夜、宮外に止まって民家に宿った。己亥、祗洹寺に移り居した。于謹が長囲を築かせ、中外の音信は初めて絶えた。
  • 庚子、信州刺史徐世譜・晉安王司馬任約らが馬頭に塁を築き、遥かに声援とした。この夜、帝は城を巡り、なお口ずさんで詩を作り、群臣にも和す者があった。帝は帛を裂いて書き、王僧弁を促した。「私は死を忍んで公を待つ。もう来てもよかろう」。
  • 壬寅、宮に還った。癸卯、長沙寺に出た。戊申、王褒・胡僧祐・朱買臣・謝答仁らが門を開いて出戦したが、みな敗れ還った。己酉、帝は天居寺に移り居した。癸丑、長沙寺に移り居した。朱買臣が剣を按じて進み「ただ宗懍と黄羅漢を斬れば天下に謝せます」と言った。帝は「先の議は実は私の意だ。宗と黄に何の罪があろう」と言った。二人は退いて衆中に入った。
  • 王琳の軍が長沙に至り、鎮南府長史裴政が間道からまず江陵に報せることを請うた。百里洲に至って魏人に獲られた。梁王詧が政に言った。「私は武皇帝の孫だ。お前の君となれぬだろうか。もし私の計に従えば貴は子孫にまで及ぶ。そうでなければ腰と領は分かれよう」。政は偽って「仰せのままに」と言った。詧は鎖して城下に至らせ、「王僧弁は台城が囲まれたと聞いてすでに自ら帝となった。王琳は孤り弱く、もう来られぬ」と言わせようとした。政は城中に告げた。「援兵は大いに至る。各々自ら勉めよ。私は間使として禽われた。身を砕いて国に報いよう」。監者がその口を撃った。詧は怒って速やかに殺すよう命じた。西中郎参軍蔡大業が諫めた。「これは民望のある者。殺せば荊州は下せなくなります」。そこで釈した。政は裴之礼の子、大業は蔡大宝の弟である。
  • 当時、四方に兵を徴したがみな至らなかった。甲寅、魏人が百道から城を攻めた。城中は戸板を負い楯を蒙り、胡僧祐は親ら矢石に当たり、昼夜に督戦して将士を奨め励まし、賞罰を明らかに行い、衆はみな死を致し、向かうところ摧き殄ぼしたので、魏は前へ進めなかった。ところがまもなく僧祐が流矢に中って死に、内外は大いに駭いた。
  • 魏は衆を悉くして柵を攻め、反いた者が西門を開いて魏師を納れた。帝は太子・王褒・謝答仁・朱買臣と退いて金城を保ち、汝南王蕭大封・晉熈王蕭大円を于謹に人質として和を請わせた。
  • 魏軍が初め至ったとき、衆は王僧弁の子の侍中王顗を都督にできると考えたが、帝は用いず、かえってその兵を奪って左右十人と殿中に入って守らせていた。胡僧祐が死ぬに及んで、ようやく都督城中諸軍事として用いた。
  • 裴畿・裴機・歴陽侯蕭峻はみな出て降った。于謹は機が手ずから胡文伐を殺したので、畿ともども殺した。峻は蕭淵猷の子である。
  • 当時、城南は破れたが城北の諸将はなお苦戦していた。日が暮れ、城の陥ちたのを聞いて散じた。
  • 帝は東閤の竹殿に入り、舎人高善宝に古今の図書十四万巻を焚かせ、自ら火に赴こうとした。宮人と左右が共に止めた。また宝剣で柱を撃って折らせ、歎じて「文武の道、今夜尽きた」と言った。そこで御史中丞王孝祀に降伏の文を作らせた。
  • 謝答仁と朱買臣が諫めた。「城中の兵衆はなお強い。闇に乗じて囲みを突いて出れば、賊は必ず驚く。それに乗じて薄れば、江を渡って任約のもとへ就けます」。帝はもとより馬を走らせるのが苦手で、「事は必ず成らぬ。ただ辱めを増すだけだ」と言った。答仁が自ら扶けることを求めた。帝が王褒に問うと、褒は「答仁は侯景の党。どうして信じるに足りましょう。彼の勲を成させるより、降るに越したことはありません」と言った。答仁はまた子城を守ることを請い、兵を収めれば五千人は得られると言った。帝はもっともとして、すぐ城中大都督を授け公主を配した。ところがまもなく王褒を召して謀り、不可とした。答仁は入ろうと請うても得られず、血を吐いて去った。
  • 于謹が太子を人質に徴した。帝は王褒に送らせた。謹の子は褒が書に巧みなので紙筆を与えた。褒はそこで「柱国常山公の家奴、王褒」と書いた。しばらくして黄門郎裴政が門を犯して出た。
  • 帝はついに羽儀と文物を去り、白馬に素衣で東門を出、剣を抜いて閤を撃って「蕭世誠(帝の字)、ここに至ったか」と言った。魏の軍士が塹を渡ってその轡を牽き、白馬寺の北に至って乗っていた駿馬を奪い駑馬に代え、長く壮んな胡人にその背を手で扼させて歩かせた。于謹に逢うと、胡人は帝を牽いて拝ませた。梁王詧は鉄騎に帝を擁して営に入らせ、烏の幔の下に囚え、詧に甚だ詰り辱められた。
  • 帝は性が残忍で、しかも高祖の寛縦の弊に懲りていたので、政を為すのに厳しさを尚んだ。魏師が城を囲んだとき、獄中の死囚は数千人にも及んだ。有司が釈して戦士に充てることを請うたが、帝は許さず、ことごとく棓で殺すよう命じた。事がまだ成らぬうちに城が陥ちた。
  • 十二月丙辰、徐世譜・任約が退いて巴陵に戍った。于謹が帝に逼って書を作らせ王僧弁を召させようとした。帝は肯んじなかった。使者が「王は今、どうして自由になれましょう」と言った。帝は「私が自由でない以上、僧弁もまた私に由らぬ」と言った。また長孫倹に宮人の王氏・苟氏および幼子の犀首を求め、倹はみな還した。ある者が「なぜ書を焚いたのか」と問うた。帝は「万巻を読んでもなお今日がある。ゆえに焚いたのだ」と言った。
  • 辛未、帝は魏人に殺された。梁王詧が尚書傅準を遣わして監刑させ、土嚢で隕とした。詧は布の帊で屍を纏わせ、蒲の席で斂め、白茅で束ね、津陽門の外に葬った。あわせて愍懐太子元良・始安王才略・桂陽王大成らを殺した。
  • 世祖は性として書を好み、常に左右に書を読ませ、昼夜絶えなかった。熟睡していても巻を釈かず、あるいは差誤があったり欺いたりすると、帝はすぐ驚き寤めた。文章を作れば筆を援って立ちどころに成った。常に「私は文士に韜れ、武夫に愧じる」と言い、論者は言い得ていると評した。
  • 魏は梁王詧を立てて梁主とし、荊州の地、延袤三百里を資し、そのうえでその雍州の地を取った。詧は江陵の東城に居り、魏は防主を置いて兵を将いて西城に居らせ、名づけて助防と言った。外は詧を助けて禦ぎに備えると示しながら、内実はこれを防いだのである。前儀同三司王悦を留めて江陵に鎮させた。
  • 于謹は府庫の珍宝および宋の渾天儀・梁の銅の晷表・径四尺の大玉および諸々の法物を収め、王公以下をことごとく俘とし、あわせて百姓の男女数万口を選んで奴婢とし、三軍に分け賞して長安へ駆り帰らせ、小さく弱い者はみな殺した。免れ得た者は三百余家。人馬に踏まれ凍え死ぬ者は十のうち二、三であった。
  • 魏師が江陵にあったとき、梁王詧の将の尹徳毅が詧に説いた。「魏虜は貪り惏り、その残忍を肆にして士民を殺し掠めること数えきれません。江東の人の塗炭はここに至り、みな殿下のせいだと言っております。殿下はすでに人の父兄を殺し人の子弟を孤にされました。人はみな讎です。誰と国を為されますか。今、魏の精鋭はことごとくここに萃まっています。もし殿下が享宴を設けて于謹らを招いて歓を為し、あらかじめ武士を伏せてこれを斃し、諸将に分け命じてその営塁を掩わせ、群醜を大いに殱して遺類なからしめ、江陵の百姓を収めて撫し安んじ、文武の群僚を材に随って銓授されれば、魏人は懾え息んであえて死を送りますまい。王僧弁の徒は折簡で致せます。しかるのち朝服して江を済り、皇極に入り践まれれば、晷刻の間に大功が立ちます。古人は『天の与えるを取らねば、かえってその咎を受ける』と言います。願わくは殿下、遠略を恢弘にし、匹夫の行いを懐かれますな」。詧は言った。「卿のこの策は善くないわけではない。しかし魏人の私への待遇は厚い。まだ徳に背けぬ。もしにわかに卿の計を為せば、人は私の余りを食うまい」。ところがまもなく城を挙げて長幼が虜となり、また襄陽を失った。詧はそこで歎じて「尹徳毅の言を用いなかったのが恨みだ」と言った。
  • 王僧弁と陳霸先は共に江州刺史晉安王方智を奉じて太宰として制を承けさせた。
  • 王褒・王克・劉瑴・宗懍・殷不害および尚書右丞である呉興の沈炯が長安に至った。太師泰はみな厚く礼遇した。

敬帝紹泰元年(555年)

  • 春正月壬午朔、邵陵太守劉棻が兵を将いて江陵を援けようとしたが、三百里灘に至って部曲の宋文徹に殺され、文徹はその衆を率いて還り邵陵に拠った。
  • 梁王詧が江陵で皇帝の位に即き、大定と改元した。昭明太子を昭明皇帝と追尊して廟号を高宗、妃の蔡氏を昭徳皇后とし、その母の龔氏を皇太后と尊び、妻の王氏を皇后、子の蕭巋を皇太子に立てた。賞刑と制度はみな王者と同じで、ただ魏に上疏するときは臣と称してその正朔を奉じた。官爵はその下もまた梁氏の旧に依り、勲級は柱国などの名を兼ね用いた。諮議参軍蔡大宝を侍中・尚書令として選事を参掌させ、外兵参軍である太原の王操を五兵尚書とした。大宝は厳整で智謀があり、政事に雅く達し、文辞は贍かで速く、後梁主は心を推して任じ、謀主として諸葛孔明に比した。操もまたこれに次いだ。邵陵王綸に太宰を追贈して壮武と諡し、河東王誉に丞相を追贈して武桓と諡した。
  • 斉主が清河王高岳に兵を将いさせて魏の安州を攻め江陵を救わせた。岳が義陽に至ったとき江陵は陥ちた。そこで軍を進めて江に臨んだ。郢州刺史陸法和および儀同三司宋蒞が州を挙げて降った。長史・江夏太守王岷が従わず、殺された。甲午、斉は岳を召し還し、儀同三司である清都の慕容儼に郢州を戍らせた。王僧弁が江州刺史侯瑱を遣わして郢州を攻めさせ、任約・徐世譜・宜豊侯蕭循もみな兵を引いて会した。
  • 辛丑、斉が貞陽侯蕭淵明を立てて梁主とし、その上党王高渙に兵を将いさせて送らせた。徐陵・湛海珍らはみな淵明に従って帰ることを聴された。
  • 二月癸丑、晉安王が尋陽から至り、入って朝堂に居し、梁王の位に即いた。時に年十三。太尉王僧弁を中書監・録尚書・驃騎大将軍・都督中外諸軍事とし、陳霸先に征西大将軍を加えた。
  • 斉主は先に殿中尚書邢子才を伝馬で建康に詣でさせ、王僧弁に書を与えていた。「嗣主は冲く藐かで負荷に堪えぬ。かの貞陽侯は梁武の猶子、長沙(王懿)の胤である。年からも望からも金陵を保つに堪える。ゆえに梁王として置き、彼の国に納れる。卿は舟艫を部分して迎接し、今の主とともに心を一つにし力を一つにして、善く良図を建てよ」。乙卯、貞陽侯淵明もまた僧弁に書を与えて迎えを求めた。僧弁は返書した。「嗣主の体は宸極から出、文祖から受けたもの。明公がもし入朝して同じく王室を奨けられるなら、伊尹・呂尚の任は、みな仰ぎ帰すと申しましょう。意が主盟にあるのなら、命を聞くにあえて忍びません」。
  • 甲子、斉が陸法和を都督荊雍等十州諸軍事・太尉・大都督西南道大行台とし、また宋蒞を郢州刺史、蒞の弟の宋簉を湘州刺史とした。
  • 甲戌、上党王渙が譙郡を克った。己卯、淵明がまた僧弁に書を与えたが、僧弁は従わなかった。
  • 故劉棻の主帥趙朗が宋文徹を殺し、邵陵をもって王琳に帰した。
  • 三月、貞陽侯淵明が東関に至った。散騎常侍裴之横が禦いだ。丙戌、斉が東関を克って裴之横を斬り、数千人を俘とした。王僧弁は大いに懼れ、出て姑孰に屯し、淵明を納れる謀を巡らせた。
  • 夏五月、王琳が永嘉王蕭荘を迎えて建康に送った。
  • 王僧弁が使いを遣わして貞陽侯淵明に啓を奉り君臣の礼を定め、また別に使いを遣わして斉に表を奉り、子の王顕および顕の母の劉氏、弟の子の王世珍を淵明に人質とした。左民尚書周弘正を歴陽に遣わして奉迎し、そのついでに晉安王を皇太子とすることを求め、淵明は許した。淵明が衛士三千を渡すことを求めたが、僧弁は変を為すのを慮り、散卒千人だけを受けた。
  • 庚子、竜舟と法駕を遣わして迎えた。淵明は斉の上党王渙と江北で盟った。辛丑、采石から江を済った。こうして梁の輿は南へ渡り、斉師は北へ返った。僧弁は疑って檝を中流に擁し、あえて西岸に就かなかった。斉の侍中裴英起が淵明を衛り送り、僧弁と江寧で会した。癸卯、淵明が建康に入り、朱雀門を望んで哭した。道で迎えた者は哭をもって対した。
  • 丙午、淵明が皇帝の位に即き、天成と改元し、晉安王を皇太子、王僧弁を大司馬、陳霸先を侍中とした。
  • 六月、斉の慕容儼が郢州に入ったばかりのところへ、侯瑱らがにわかに城下に至った。儼は方に随って備え禦ぎ、瑱らは克てなかった。間に乗じて出撃し、瑱らの軍を大いに破った。城中は食が尽き、草木の根と葉および靴の皮・帯の角を煮て食い、士卒と甘苦を分かち共にして半年堅守し、人に異志はなかった。貞陽侯淵明が立って、ようやく瑱らに囲みを解くよう命じ、瑱は豫章に鎮に還った。斉人は城が江外にあって守りにくいので、割いて梁に還した。儼は帰って斉主に望み、悲しみに自ら勝えなかった。斉主は前に呼んでその手を執り、帽を脱がせて髪を看、歎息すること久しかった。
  • 呉興太守杜龕は王僧弁の婿である。僧弁は呉興を震州として龕を刺史とし、またその弟の侍中王僧愔を豫章太守とした。
  • 壬子、斉主は梁国が藩と称したので、およそ梁の民はことごとく南へ還すよう詔した。
  • はじめ王僧弁と陳霸先は共に侯景を滅ぼし、情好は甚だ篤かった。僧弁は子の王頠のために霸先の娘を娶らせたが、ちょうど僧弁に母の喪があってまだ婚を成していなかった。僧弁は石頭城に居り、霸先は京口にあり、僧弁は心を推して待遇した。頠の兄の顗がしばしば諫めたが聴かなかった。
  • 僧弁が貞陽侯淵明を納れると、霸先は使いを遣わして苦く争い、往返すること四度に及んだが、僧弁は従わなかった。霸先はひそかに歎じて親しい者に言った。「武帝の子孫は甚だ多いが、ただ孝元だけが讎に復い恥を雪いだ。その子に何の罪があって、にわかに廃するのか。私と王公は共に託孤の地に処りながら、王公は一旦にして図を改め、外は戎狄に依り、次でない者を援け立てた。その志は何を為そうというのか」。そこでひそかに袍数千領および錦綵・金銀を賞賜の具として備えた。
  • ちょうど「斉師が大挙して寿春に至り、入冦しようとしている」と告げる者があった。僧弁は記室江旴を遣わして霸先に告げ、備えさせようとした。霸先はこれに因って旴を京口に留め、兵を挙げて僧弁を襲った。
  • 九月壬寅、部将侯安都・周文育および安陸の徐度・銭塘の杜稜を召して謀った。稜は難しいとした。霸先はその謀が漏れるのを懼れ、手巾で稜を絞めて地に悶絶させ、そのまま別室に閉じ込めた。将士を部分し、金帛を分け賜わり、弟の子の著作郎陳曇朗に京口を鎮させて留府の事を知らせ、徐度・侯安都に水軍を率いて石頭へ趨らせ、霸先は馬歩を率いて江乗の羅落から会した。この夜みな発ち、杜稜を召して同行させた。その謀を知る者は安都ら四将だけで、外の人はみな「江旴が兵を徴して斉を禦ぐのだ」と思い、怪しまなかった。
  • 甲辰、安都が舟艦を引いて石頭へ趨ろうとした。霸先は馬を控えてまだ進まなかった。安都は大いに懼れ、霸先を追って罵った。「今日、賊事を作すのに事勢はすでに成った。生死は決さねばならぬ。後ろにいて何を望まれるのか。もし敗れればともに死ぬ。遅れれば斬首を免れられるとでも」。霸先は「安都が私を嗔る」と言い、そこで進んだ。
  • 安都は石頭城の北に至って舟を棄てて岸に登った。石頭城の北は岡や阜に接して甚だしく危峻ではない。安都は甲を被て長刀を帯び、軍人が捧げて女垣の内に投げ入れ、衆が随って入った。進んで僧弁の臥室に及んだ。霸先の兵もまた南門から入った。僧弁はちょうど政務を執っていた。外から「兵がある」と白され、まもなく兵が内から出た。僧弁はにわかに走り、子の頠に遇って共に閤を出、左右数十人を率いて聴事の前で苦戦したが、力が敵わず、走って南門の楼に登り、拝して哀れみを請うた。霸先は火を放って焼こうとし、僧弁は頠とともに下って捕らえられた。霸先は「私に何の罪があって、公は斉師とともに討たれようとしたのか」と言い、そのうえで「なぜ全く備えがなかったのか」と言った。僧弁は「公に北門を委ねていた。何をもって備えなしと言うか」と言った。この夜、霸先は僧弁父子を縊り殺した。ところが結局、斉兵は来ず、霸先の譎りでもなかった。
  • 前青州刺史である新安の程霊洗が部下を率いて僧弁を救い、石頭の西門で力戦した。軍が敗れ、霸先が使いを遣わして招き諭し、久しくしてようやく降った。霸先は深く義として蘭陵太守とし、京口の防を助けさせた。
  • 乙巳、霸先は檄を作って中外に布告し、僧弁の罪状を列ね、そのうえで「資斧の指すところは、ただ王僧弁の父子兄弟のみ。その他の親党は一切問わぬ」と言った。
  • 丙午、貞陽侯淵明が位を遜って邸に出た。百僚が晉安王に表を上って勧進した。
  • 冬十月己酉、晉安王が皇帝の位に即き、大赦し改元し、中外の文武に位一等を賜わった。貞陽侯淵明を司徒とし建安公に封じた。斉には「僧弁がひそかに簒逆を図ったので誅した」と告げ、そのうえで斉に臣と称して永く藩国となることを請うた。斉は行台司馬恭を遣わして梁人と歴陽で盟わせた。
  • 壬子、陳霸先に尚書令・都督中外諸軍事・車騎将軍・揚南徐二州刺史を加えた。
  • 杜龕は王僧弁の勢いを恃み、もとより陳霸先に礼を尽くさず、呉興にあってはいつも霸先の宗族を法で縄した。霸先は深く怨んだ。僧弁を図ろうとしたとき、ひそかに兄の子の陳蒨を長城に還らせて柵を立て龕に備えさせた。僧弁が死ぬと、龕は呉興に拠って霸先を拒んだ。義興太守韋載が郡をもって応じた。呉郡太守王僧智は僧弁の弟で、これも城に拠って守り拒んだ。
  • 陳蒨が長城に至ったとき、兵を収めてもわずか数百人だった。杜龕がその将の杜泰に精兵五千を将いさせてにわかに至らせた。将士は相い視て色を失った。蒨は言笑自若として部署はいよいよ明らかで、衆心はそこで定まった。泰は日夜苦しく攻めたが数旬にして克てず退いた。
  • 霸先が周文育に義興を攻めさせた。義興の属県の卒はみな霸先の旧兵で弩をよく用いた。韋載が数十人を得て長い鎖で繋ぎ、親しい者に監させて文育の軍を射させ、「十発して二つ中らぬ者は死」と約した。ゆえに一発ごとに一人を斃した。文育の軍は次第に却き、載はそこで城外の水に拠って柵を立て、対峙すること数旬。杜龕がその従弟の杜北叟に兵を将いさせて拒み戦わせたが、北叟は敗れて義興へ帰った。
  • 霸先は文育の軍が利あらずと聞き、辛未、自ら表して東討し、高州刺史侯安都・石州刺史杜稜を留めて台省を宿衛させた。甲戌、軍は義興に至り、丙子、その水柵を抜いた。
  • 譙・秦二州刺史徐嗣徽の従弟の徐嗣先は僧弁の甥だった。僧弁が死ぬと嗣先は嗣徽のもとへ亡げ、嗣徽は州をもって斉に入った。陳霸先が東のかた義興を討つと、嗣徽はひそかに南豫州刺史任約と結び、精兵五千を将いて虚に乗じて建康を襲った。この日、入って石頭に拠り、遊騎は闕下に至った。侯安都は門を閉じ旗幟を蔵して弱いさまを示し、城中に「城壁に登って賊を窺う者は斬る」と令した。夕に及んで嗣徽らは兵を収めて石頭に還った。安都は夜に戦の備えをした。明け方近く嗣徽らがまた至った。安都は甲士三百を率いて東西の掖門を開いて出戦し、大いに破った。嗣徽らは石頭へ奔り還り、あえて再び台城に逼らなかった。
  • 陳霸先が韋載の族弟の韋翽に書を齎させて戦いを諭させた。丁丑、載と杜北叟がみな降った。霸先は厚く撫し、翽に義興郡を監させ、載を引いて左右に置いて謀議した。霸先は甲を巻いて建康に還り、周文育に杜龕を討たせ長城を救わせた。
  • 将軍黄他が王僧智を呉郡に攻めたが克てなかった。霸先が寧遠将軍裴忌に助けさせた。忌は部下の精兵を選び、軽く行き倍道して銭塘から直ちに呉郡へ趨り、夜に城下に至って鼓譟して薄った。僧智は大軍が至ったと思い、軽舟で呉興へ奔った。忌は入って呉郡に拠り、そこで忌を太守とした。
  • 十一月己卯、斉が兵五千を遣わして江を渡らせ姑孰に拠らせ、徐嗣徽・任約に応じさせた。陳霸先は合州刺史徐度に冶城で柵を立てさせた。
  • 庚寅、斉がまた安州刺史翟子崇・楚州刺史劉士栄・淮州刺史柳達摩に兵一万を将いさせ、胡墅で米三万石・馬千匹を渡して石頭に入れた。霸先が韋載に計を問うた。載は言った。「斉師がもし兵を分けてまず三呉の路に拠り東境の地を略せば、時事は去りましょう。今は急ぎ淮南で侯景の故塁に因って城を築き、東道の転輸を通じ、兵を分けて彼の糧運を絶ち、進んでも資するところなからしめれば、斉将の首は旬日で致せます」。霸先は従った。
  • 癸未、侯安都に夜に胡墅を襲わせ、斉の船千余艘を焼いた。仁威将軍周鉄虎が斉の運輸を断ち、その北徐州刺史張領州を擒えた。そのうえで韋載に大航で侯景の故塁を築かせ、杜稜に守らせた。斉人は倉門の水の南に二つの柵を立てて梁兵と拒み合った。壬辰、斉の大都督蕭軌が兵を将いて江北に屯した。
  • 甲辰、徐嗣徽らが冶城の柵を攻めた。陳霸先が精甲を率いて西明門から出て撃ち、嗣徽らは大敗した。柳達摩らを留めて城を守らせ、自ら采石へ行って斉の援けを迎えた。
  • 十二月癸丑、侯安都が秦郡を襲って徐嗣徽の柵を破り、数百人を俘とし、その家を収めて琵琶と鷹を得た。使いを遣わして送り「昨日、弟のところに至ってこれを得た。今、返す」と言わせた。嗣徽は大いに懼れた。
  • 丙辰、陳霸先が冶城に対して航(浮橋)を立て、衆軍をことごとく渡してその水南の二柵を攻めた。柳達摩らは淮を渡って陣を置いた。霸先は兵を督して疾く戦い、火を放って柵を焼いた。斉兵は大敗し、舟を争って相い擠し合い、溺死する者は千を数え、叫び声は天地を震わせた。その船艦をことごとく収めた。
  • この日、嗣徽は任約と斉兵の水歩一万余人を引いて還り石頭に拠った。霸先は兵を江寧に遣わして要険に拠らせ、嗣徽らは水歩ともにあえて進めず、江寧の浦口に頓した。霸先が侯安都に水軍を将いさせて襲い破らせた。嗣徽らは単舸で脱れ走り、その軍資と器械をことごとく収めた。
  • 己未、霸先が四面から石頭を攻めた。城中は水がなく、一升の水が絹一匹に相当した。庚申、達摩が使いを遣わして霸先に和を請い、あわせて質子を求めた。当時、建康は虚弱で糧運が続かず、朝臣はみな斉と和そうとし、霸先の従子の曇朗を質とすることを請うた。霸先は言った。「今、在位の諸賢は斉に肩を息めようとしている。もし衆議に違えば、孤が曇朗を愛して国家を恤まぬと言われよう。今、決して曇朗を遣わし、冦の庭に棄てる。斉人には信がない。我を微弱と思って必ず盟に背こう。斉冦がもし来たら、諸君は孤のために力闘してもらわねばならぬ」。そこで曇朗および永嘉王荘・丹陽尹王冲の子の王珉を質とし、斉人と城外で盟い、将士はその南北を恣にさせた。
  • 辛酉、霸先は石頭の南門に兵を陳ねて斉人を北へ帰らせた。徐嗣徽と任約はみな斉へ奔った。斉の馬・武具・船・米を収めたものは数えきれなかった。斉主は柳達摩を誅した。
  • 壬戌、斉の和州長史烏丸遠が南州から歴陽へ奔り還った。江寧令陳嗣・黄門侍郎曹朗が姑孰に拠って反した。霸先は侯安都らに命じて討ち平らげさせた。霸先は陳曇朗が亡げ竄れるのを恐れ、自ら歩騎を率いて京口に至って迎えた。

太平元年(556年)

  • 春正月癸未、陳霸先が従事中郎江旴を遣わして徐嗣徽に南へ帰るよう説かせた。嗣徽は旴を捕らえて斉に送った。
  • 陳蒨と周文育が軍を合わせて杜龕を呉興に攻めた。龕は勇だが謀がなく、酒を嗜んで常に酔っていた。その将の杜泰はひそかに蒨らと通じた。龕は蒨らと戦って敗れ、泰はそれに乗じて龕に降るよう説き、龕はもっともとした。その妻の王氏が「霸先との讐隙はこのとおり。どうして和を求められよう」と言い、そこで私財を出して賞を懸けて募り、また蒨らを撃って大いに破った。ところがまもなく杜泰が蒨に降った。龕はまだ酔って覚めていなかった。蒨は人を遣わして負い出させ、項王寺の前で斬った。王僧智はその弟の豫章太守僧愔とともに斉へ奔った。
  • 東揚州刺史張彪はもとより王僧弁に厚遇され、霸先に附かなかった。二月庚戌、陳蒨と周文育が軽兵で会稽を襲い、彪の兵は敗れて若邪山の中へ走り入った。蒨はその将である呉興の章昭達を遣わして追い斬らせた。東陽太守留異が蒨に糧食を饋り、霸先は異を縉州刺史とした。
  • 江州刺史侯瑱はもと王僧弁に事えており、これも兵を擁して豫章および江州に拠って霸先に附かなかった。霸先は周文育を南豫州刺史として兵を将いさせ湓城を撃たせた。庚申、また侯安都・周鉄虎に舟師を将いさせて梁山に柵を立てさせ、江州に備えた。
  • 癸亥、徐嗣徽と任約が采石を襲い、戍主の明州刺史張懐鈞を捕らえて斉に送った。
  • 三月戊戌、斉が儀同三司蕭軌・庫狄伏連・尭難宗・東方老らを遣わし、任約・徐嗣徽と兵を合わせて十万で入冦させ、柵口を出て梁山へ向かわせた。陳霸先の帳内盟主黄叢が迎え撃って破り、斉師は退いて蕪湖を保った。霸先は定州刺史沈泰らを遣わして侯安都のもとへ就かせ、共に梁山に拠って禦がせた。周文育は湓城を攻めてまだ克てなかったが、召して還らせた。
  • 夏四月丁巳、霸先が梁山へ行き諸軍を巡撫した。
  • 侯安都が軽兵で斉の行台司馬恭を歴陽に襲い、大いに破って俘獲は万を数えた。
  • 五月、斉人が建安公淵明を召し、詐って師を退けると許した。陳霸先は舟を具えて送った。癸未、淵明は背に疽を発して卒した。
  • 甲申、斉兵が蕪湖を発ち、庚寅、丹陽県に入り、丙申、秣陵の故治に至った。陳霸先は周文育を方山に屯させ、徐度を馬牧に、杜稜を大航の南に頓させて禦がせた。
  • 辛丑、斉人が淮に跨って橋と柵を立てて兵を渡し、夜に方山に至った。徐嗣徽らが青墩から七磯まで艦を列ねて周文育の帰路を断った。文育は鼓譟して発ち、嗣徽らは制せられなかった。朝になって反って嗣徽を攻めた。嗣徽の驍将鮑砰が独り小艦で殿軍した。文育は単舴艋に乗って戦い、艦の中へ跳び入って砰を斬り、そのままその艦を牽いて還った。嗣徽の衆は大いに駭き、そこで船を蕪湖に留めて丹陽から歩いて上った。陳霸先は侯安都・徐度を追って還らせた。
  • 癸卯、斉兵が方山から進んで倪塘に及び、遊騎が台に至った。建康は震え駭いた。帝は禁兵を総べて出て長楽寺に頓し、内外は厳戒を纂ねた。
  • 霸先が嗣徽らを白城で拒んだ。ちょうど周文育と会し、戦おうとしたところ風が急だった。霸先は「兵は風に逆らわぬ」と言った。文育は「事は急です。何を古法など用いましょう」と言い、槊を抽いて馬に上って先に進んだ。衆軍が従い、風もまもなく転じ、殺傷は数百人。
  • 侯安都が嗣徽らと耕壇の南で戦い、安都は十二騎を率いてその陣を突き破り、斉の儀同三司乞伏無労を生け捕った。
  • 霸先はひそかに精卒三千を撤して沈泰に配し、江を渡らせて斉の行台趙彦深を瓜歩に襲わせ、艦百余艘・粟一万斛を獲た。
  • 六月甲辰、斉兵がひそかに鍾山に至った。侯安都が斉将王敬宝と竜尾で戦い、軍主張纂が戦死した。
  • 丁未、斉師が幕府山に至った。霸先が別将銭明に水軍を将いさせて江乗に出させ、斉人の糧運を邀え撃たせ、その船と米をことごとく獲た。斉軍は食に乏しく、馬と驢を殺して食った。
  • 庚戌、斉軍が鍾山を踰えた。霸先は衆軍と分かれて楽遊苑の東および覆舟山の北に頓し、その衝要を断った。
  • 壬子、斉軍が玄武湖の西北に至り、北郊壇に拠ろうとした。衆軍は覆舟から東へ移って壇の北に頓し、斉人と相い対した。ちょうど連日の大雨で平地の水が一丈余り。斉軍は昼夜、泥の中に坐し立ち、足の指はみな爛れ、鬲を懸けて炊いだ。だが台中および潮溝の北の路は乾いており、梁軍はいつも交代できた。
  • 当時、四方は塞がり隔たり、糧運は至らず、建康の戸口は流散し、徴し求めるところがなかった。甲寅、少し霽れた。霸先は戦おうとして市の人から調えて麦飯を得、軍士に分け給した。士はみな飢え疲れていた。ちょうど陳蒨が米三千斛と鴨千頭を饋った。霸先は米を炊き鴨を煮るよう命じ、人ごとに荷の葉で飯を包み、鴨肉数切れを添えた。
  • 乙卯の未明、蓐で食い、暁になって霸先は麾下を率いて莫府山に出た。侯安都はその部将蕭摩訶に「卿は驍勇で名がある。千聞は一見に如かず」と言った。摩訶は「今日、公に御覧に入れましょう」と答えた。戦いに及んで安都が馬から墜ち、斉人が囲んだ。摩訶は単騎で大呼して真っ直ぐ斉軍を衝き、斉軍は披き靡いて安都は免れた。
  • 霸先は呉明徹・沈泰らと衆軍が首尾ともに挙がり、兵を縦して大戦した。安都が白下から兵を引いて横ざまにその後ろへ出、斉師は大いに潰えた。斬獲は数千人。相い蹂み藉んで死ぬ者は数えきれなかった。徐嗣徽および弟の嗣宗を生け捕って斬り徇えた。敗走を追って臨沂に至った。その江乗・摂山・鍾山などの諸軍も相次いで克ち捷ち、蕭軌・東方老・王敬宝ら将帥四十六人を虜にした。その軍士で江まで竄れ得た者は荻を縛って筏として済ったが、江の中ほどで溺れ、流れる屍が京口に至って水を翳い岸に満ちた。ただ任約と王僧愔だけが免れた。
  • 丁巳、衆軍が南州に出て斉の舟艦を焼いた。戊午、大赦した。己未、戒厳を解いた。軍士は賞に得た俘を酒に貿え、一人がやっと一度酔えるほどだった。庚申、斉将蕭軌らを斬った。斉人は聞いて陳曇朗を殺した。霸先は南徐州を解くことを啓して侯安都に授けた。
  • 秋七月丙子、陳霸先を中書監・司徒・揚州刺史とし、爵を長城公に進め、その他は元のままとした。
  • 九月、陳霸先を丞相・録尚書事・鎮衛大将軍・揚州牧・義興公とした。

陳高祖永定元年(557年)

  • 夏五月、王琳が陳霸先を攻めようとした。霸先は侯安都・周文育に舟師を率いさせ武昌で会して撃たせた。
  • 秋八月甲午、丞相霸先の位を太傅に進め、黄鉞と殊礼を加え、賛拝に名を称さぬこととした。
  • 九月辛丑、丞相を相国・総百揆に進め、陳公に封じ、九錫を備え、陳国に百司を置いた。
  • 冬十月戊辰、陳公の爵を王に進めた。辛未、梁の敬帝が陳に禅位した。
  • 陳王が中書舎人劉師知に宣猛将軍沈恪を引いて兵を勒して宮に入らせ、梁主を衛り送って別宮へ移させようとした。恪は扉を排して王に見え、叩頭して謝して言った。「恪の身は経て蕭氏に仕えました。今日これを見るに忍びません。死を受けるのみ。決して命を奉じません」。王はその意を嘉し、二度と逼らず、改めて盪主王僧志に代えさせた。
  • 乙亥、王が南郊で皇帝の位に即き、宮に還って大赦し改元した。梁の敬帝を奉じて江陰王とし、梁の太后を大妃、皇后を妃とした。

二年(558年)

  • 春正月、王琳が斉に援けを求め、あわせて梁の永嘉王蕭荘を納れて梁の祀を主らせることを請うた。
  • 三月、斉が兵を発して永嘉王荘を江南に援け送り、王琳を冊拝して梁王の相とした。琳は荘を奉じて皇帝の位に即かせた。
  • 乙丑、上が人を遣わして梁の敬帝を害し、梁の武林侯蕭諮の子の蕭季卿を立てて江陰王とした。

陳文帝天嘉元年(560年)

  • 王琳の兵が敗れて斉へ奔り、御史中丞劉仲威が永嘉王荘を奉じて斉へ奔った。
  • 六月、詔して梁の元帝を江寧に葬った。車旗と礼章はことごとく梁の典を用いた。

三年(562年)

  • 閏二月、後梁主(蕭詧)は封疆が狭く邑居が残り毀たれ、干戈が日々用いられるので、鬱々として志を得られず、背に疽を発して殂した。平陵に葬り、宣皇帝と諡して廟号を中宗とした。太子巋が皇帝の位に即き、天保と改元した。

陳宣帝太建二年(570年)

  • 冬十月、永嘉王荘が鄴で卒した。

十年(578年)

  • 梁主がその弟の太宰蕭巌を隋に入って賀させた。

陳長城公至徳元年(583年)

  • 夏五月乙巳、梁の太子蕭琮が隋に入朝した。

三年(585年)

  • 梁主が殂した。孝明皇帝と諡し、廟号を世宗とした。太子琮が位を嗣いだ。

禎明元年(587年)

  • 秋八月、隋が梁主を徴して入朝させた。梁主はその群臣二百余人を率いて江陵を発ち、庚申、長安に至った。
  • 九月、隋主が梁国を廃し、尚書左僕射高熲を遣わして遺民を安集させた。梁の中宗・世宗にそれぞれ守冢十戸を給し、梁主琮を柱国に拝して莒公の爵を賜わった。