通鑑紀事本末宇文氏、西魏を簒奪する(北周)(宇文簒西魏(後周))
西魏の丞相宇文泰が孝武帝と隙を生じて毒殺し、文帝(元宝炬)・廃帝・恭帝を次々に擁立廃立して実権を握り、六官を建て姓を鮮卑の旧に復して国制を整えるまで。泰の死後、遺託を受けた甥の宇文護が于謹の助けで群公を抑え、幼い世子宇文覚を周公に立てて恭帝から禅譲を受けさせ、北周が成立する。護はさらに覚を廃殺して宇文毓を立て、毓は559年に皇帝を称して武成と改元した。534年から559年までの二十六年間。
年表(10件)
- 梁武帝
- 中大通六年534年孝武帝が毒に遇って殂し、宇文泰が南陽王元宝炬を立てる
- 大同八年542年宇文泰の妻の馮翊公主が宇文覚を生む
- 太清二年548年西魏が丞相の宇文泰を太師とする
- 元帝
- 承聖二年553年尚書元烈が宇文泰誅殺を謀って漏れ、殺される
- 三年554年宇文泰が廃帝を廃して毒殺し、斉王元廓を立て、姓を旧に復す
- 敬帝
- 紹泰元年555年宗室の諸王がみな爵を降されて公とされる
- 太平元年556年六官を建てるが泰が病没し、宇文護が実権を握って覚を周公に立てる
- 陳高祖
- 永定元年557年周公覚が天王に即位し、護は覚を廃殺して寧都公毓を立てる
- 二年558年元羅を韓国公に封じて魏の後を紹がせる
- 三年559年崔猷の建議で周王が皇帝を称し、武成と改元する
梁武帝中大通六年(534年)
- 魏の孝武帝は閨門に礼がなく、従妹で嫁がぬ者三人をみな公主に封じていた。平原公主明月は南陽王元宝炬の同母妹で、帝に従って関中に入っていた。丞相宇文泰は元氏の諸王に明月を殺させた。帝は不快で、あるときは弓を彎き、あるときは案を椎ち、これでまた泰と隙を生じた。
- 冬閏十二月癸巳、帝は酒を飲んで毒に遇い殂した。
- 泰が群臣と立てる者を議し、多くは広平王元賛を挙げた。賛は孝武帝の兄の子である。侍中濮陽王元順が別室で涙を垂れて泰に言った。「高歓は先帝を逼り逐い、幼主を立てて権を専らにしました。明公はその為すところと反対になさるべきです。広平は幼すぎます。長君を立てて奉ずるに越したことはありません」。泰はそこで太宰南陽王宝炬を奉じて立てた。順は元素の曾孫である。
- 孝武帝を草堂の仏寺に殯した。諫議大夫宋球は慟哭して血を吐き、数日にわたって水も飯も口に入れなかった。泰はその名儒であることを理由に罪しなかった。
大同八年(542年)
- 魏の丞相泰の妻の馮翊公主が子の宇文覚を生んだ。
太清二年(548年)
- 夏五月、魏が丞相泰を太師とした。
元帝承聖二年(553年)
- 春二月、魏の太師泰が丞相・大行台を去り、都督中外諸軍事となった。
- 冬十一月、魏の尚書元烈が宇文泰を殺す謀を巡らせたが、事が漏れて泰に殺された。
三年(554年)
- 魏主は元烈の死以来、怨みの言葉を漏らし、ひそかに太師泰を誅する謀を巡らせた。臨淮王元育と広平王元賛が涙を垂れて切に諫めたが聴かなかった。
- 泰の諸子はみな幼く、兄の子の章武公宇文導と中山公宇文護はともに外に出て鎮していたので、ただ諸々の婿を腹心としていた。大都督清河公李基・義城公李暉・常山公于翼はともに武衛将軍となって禁兵を分掌した。基は李遠の子、暉は李弼の子、翼は于謹の子である。これで魏主の謀は漏れた。
- 泰は魏主を廃して雍州に置き、その弟の斉王元廓を立て、年号を去って元年と称し、姓を拓跋氏に復した。九十九姓のうち単姓に改めていたものはみな旧に復した。魏の初め、国を統べること三十六、大姓は九十九であったが、のち多くが滅び絶えた。泰はそこで諸将のうち功の高い者を三十六国とし、次の者を九十九姓とし、その率いる士卒もまたその姓に従うよう改めさせた。
- 夏四月庚戌、魏の太師泰が廃帝を毒殺した。
敬帝紹泰元年(555年)
- 魏の宇文泰は淮安王元育にそれとなく上表させ、古制のように爵を降して公とすることを請わせた。こうして宗室の諸王はみな公に降された。
太平元年(556年)
- 春正月丁丑、魏が初めて六官を建て、宇文泰を太師・大冢宰とした。
- 夏四月、魏の太師泰は孝武帝の妹の馮翊公主を娶って略陽公宇文覚を生み、姚夫人が寧都公宇文毓を生んだ。毓は諸子のうち最も年長で、大司馬独孤信の女を娶っていた。泰が嗣を立てようとして公卿に言った。「私は子を立てるのに嫡をもってしたいが、大司馬に疑いを抱かせるのを恐れる。どうか」。衆は黙って物を言う者がなかった。尚書左僕射李遠が「そもそも子を立てるのは嫡によるので長によるのではありません。略陽公を世子とされるのに、公は何を疑われましょう。もし独孤信を嫌われるなら、先に斬らせていただきたい」と言い、刀を抜いて起った。泰もまた起って「なぜそこまでするのか」と言った。信もまた自ら陳べて解こうとし、遠はそこで止めた。こうして群公はみな遠の議に従った。遠は外に出て信に拝謝して「大事に臨んではああせざるを得ませんでした」と言った。信もまた遠に謝して「今日は公のおかげでこの大議が決した」と言った。そこで覚を世子に立てた。
- 太師泰が北を巡り、秋八月、泰は北へ黄河を渡った。
- 冬十月、魏の安定文公宇文泰が還って牽屯山に至って病んだ。駅を馳せて中山公護を召し、護は涇州に至って泰に会った。泰は護に言った。「わが諸子はみな幼く、外寇はまさに強い。天下の事をお前に属す。努めてわが志を成せ」。乙亥、雲陽で卒した。護は長安に還って喪を発した。
- 泰は英豪を駕御してその力を用いることができ、性は質素を好んで虚飾を尚ばず、政事に明達し、儒を崇んで古を好み、およそ施し設けるところはみな三代に倣った。
- 丙子、世子覚が位を嗣いで太師・柱国・大冢宰となり、出て同州に鎮した。時に年十五。
- 中山公護は名も位ももとより卑しく、泰に託されたとはいえ群公はそれぞれ執政を図って服従しようとしなかった。護が大司寇于謹に計を問うた。謹は「私は早くに先公の並々ならぬ知遇を蒙り、恩は骨肉より深い。今日の事は必ず死をもって争おう。もし衆に対して策を定めれば、公は必ず譲れなくなる」と言った。
- 翌日、群公が会議した。謹は「昔、帝室が傾き危うかったのは安定公なくして今日はなかった。今、公が一朝にして世を去られ、嗣子は幼いとはいえ、中山公はその兄の子であり、あわせて顧命を受けている。軍国の事は道理として彼に帰さねばならぬ」と言った。辞も色も激しく厲しく、衆はみな慄いた。護は「これは家の事です。護は愚昧とはいえ、どうして辞を言えましょう」と言った。謹はもとより泰と対等の身分で、護は常に拝していたが、ここに至って謹は起って「公がもし軍国を統理されるなら、謹らはみな依るところがあります」と言い、そのまま再拝した。群公は謹に迫られてまた再拝し、こうして衆議は初めて定まった。護は内外の綱紀を正し、文武を撫し循え、人心はついに安んじた。
- 十二月、魏が世子覚を周公に封じた。
- 魏の宇文護は周公が幼弱なので、早く正位させて人心を定めようとした。庚子、魏の恭帝の詔をもって周に禅位させ、大宗伯趙貴に節を持たせて冊を奉じさせ、済北公元迪に皇帝の璽綬を届けさせた。恭帝は出て大司馬の府に居した。
陳高祖永定元年(557年)
- 春正月辛丑、周公が天王の位に即き、柴を燎いて天に告げ、露門で百官と朝した。王考の文公を文王、妣を文后と追尊し、大赦した。魏の恭帝を宋公に封じた。木徳をもって魏の水行を承け、夏の時(暦)を用い、服色は黒を尚んだ。李弼を太師、趙貴を太傅、独孤信を太保、中山公護を大司馬とした。
- 二月、周の人が魏の恭帝を殺した。
- 秋八月、晉公護が周王を廃して略陽公とし、岐州刺史寧都公毓を迎えて立てた。ひと月余りののち、護は略陽公を弑した。
二年(558年)
- 秋九月甲申、周が少師元羅を韓国公に封じ、魏の後を紹がせた。
三年(559年)
- 秋八月、周の御正中大夫崔猷が建議した。「聖人は沿革して時により宜しきを制するものです。今、天子が王と称するのでは天下に威を示すに足りません。秦漢の旧制に遵って皇帝と称し、年号を建てられますよう」。
- 己亥、周王が初めて皇帝と称し、文王を文皇帝と追尊し、武成と改元した。