通鑑紀事本末高肇・于忠の専権(肇忠用事)

北魏の宣武帝の外戚である高肇と、その死後に朝政を握った于忠の専権を記す。高肇は文昭皇后の兄として抜擢され、北海王元詳・彭城王元勰を讒言して殺し、京兆王元愉の反乱を招くなど宗室を剪り尽くして怨みを買った。宣武帝が崩ずると于忠らが高肇を絞め殺したが、于忠もまた裴植・郭祚を誅して権を専らにし、胡太后の親政で冀州へ出され、天監十七年に没した。永元元年から二十年間の外戚政治。

年表(12件)
  • 斉東昏侯永元元年499年魏が文昭皇后を追尊し、その兄の高肇を平原公に封じる
  • 和帝
  • 中興元年501年十六歳の魏主が左右に委ね、茹皓や高肇が事を用い始める
  • 梁武帝
  • 天監元年502年高肇が陳留公主の婚を拒まれ、張彝を讒言して廃させる
  • 二年503年魏主が高肇の姪を納れて貴嬪とする
  • 三年504年高肇の讒言で茹皓らが誅され、北海王元詳が庶人に落とされて急死
  • 五年506年魏主は高肇に委任し、宗室を疎んじて仏法を好み政事に親しまない
  • 六年507年高皇后が急病で没し、人はみな咎を高氏に帰す
  • 七年508年高貴嬪が皇后に立ち、京兆王元愉が反して敗死、彭城王元勰も毒殺される
  • 十一年512年高肇が司徒となり、清河王元懌が王莽に擬えて乱の階梯と警告する
  • 十四年515年宣武帝が崩じ、于忠らが高肇を絞殺、于忠が裴植・郭祚を誅して専権
  • 十五年516年元匡が于忠を弾劾するが、胡太后は勲を追想して霊寿県公に封じる
  • 十七年518年于忠が没する

斉東昏侯永元元年(499年)

  • 夏六月戊辰、魏が皇妣高氏を文昭皇后と追尊し、高祖に配享した。旧の墓を修めて終寧陵と号し、后の父の高颺に勃海公の爵を追賜して敬と諡し、その嫡孫の高猛に爵を継がせた。后の兄の高肇を平原公、肇の弟の高顕を澄城公に封じ、三人が同日に封を受けた。
  • 魏主は日ごろ諸々の舅を知らず、初めて衣と幘を賜って引見したが、みな恐れて取り乱した。数日のうちに富貴は輝かしいものとなった。

和帝中興元年(501年)

  • 魏主は時に十六歳で、自ら庶務を決せられず、左右に委ねた。こうして寵臣の茹皓、趙郡の王仲興、上谷の寇猛、趙郡の趙脩、南陽の趙邕および外戚の高肇らが事を用い始め、魏の政は次第に衰えた。

梁武帝天監元年(502年)

  • 冬十二月、魏の陳留公主が寡婦で暮らしており、僕射高肇と秦州刺史張彝がいずれも娶ろうとした。公主は彝を許して肇を許さなかった。肇は怒って彝を魏主に讒言し、彝は罪を得て何年も沈滞し廃された。

二年(503年)

  • 冬十一月、魏主が高肇の兄の高偃の娘を納れて貴嬪とした。

三年(504年)

  • 魏の冠軍将軍茹皓は巧妙な工夫の才で帝に寵せられ、常に側にあって門下の奏事の可否を伝え、権を弄び賄賂を受け、朝野が憚った。北海王元詳もこれに付いた。皓は尚書令高肇の従妹を娶っており、皓の妻の姉は詳の従父の安定王元燮の妃だった。詳は燮の妃と通じており、これで皓といよいよ馴れ親しんだ。
  • 直閤将軍劉冑はもと詳が引き薦めた者、殿中将軍常季賢は馬の飼育に巧みで、陳掃静は髪梳きを掌り、みな帝に寵せられ、皓と表裏をなして権勢を売った。
  • 高肇はもと高麗の出で、当時の名望家は軽んじていた。帝が六輔を退け咸陽王元禧を誅してからは、もっぱら肇に事を委ねた。肇は朝廷に親族が甚だ少ないので、徒党を求めて結び、付く者は旬月のうちに飛び越えて抜擢し、付かぬ者は大罪に陥れた。ことに諸王を忌み、詳が自分より上位にあるので除いて独り朝政を執ろうとし、帝に「詳が皓・冑・季賢・掃静と逆乱を謀っております」と讒言した。
  • 夏四月、帝は夜に中尉崔亮を禁中に召し、詳の貪淫奢縦および皓ら四人の権を恃んだ貪欲横暴を弾劾させ、皓らを捕らえて南台に繋ぎ、虎賁百人を遣わして詳の邸を囲み守らせた。また詳が驚き恐れて逃げるのを慮り、側近の郭翼に金墉門を開けさせて馳せ出し、旨を諭して中尉の弾劾状を示させた。詳は「まことに中尉の糾すとおりなら、何を憂えよう。ただ、もっと大きな罪が横から降りかかるのを恐れる。人が私に物をくれ、私は実際に受け取った」と言った。
  • 翌朝、有司が皓らの罪の処断を奏し、みな死を賜った。帝は高陽王元雍ら五人の王を引いて詳の罪を議させた。詳は車一台で護衛付きで華林園に送られ、母と妻が随って入り、小さな奴と弱い婢を数人与えられ、囲み守りは甚だ厳しく内外は通じなかった。
  • 五月丁未朔、詔で詳の死を宥し、免じて庶人とした。ほどなく詳を太府寺に移し、囲みと禁はいよいよ厳しく、母と妻はみな南の邸に帰されて五日に一度会いに来た。詳は急死した。詔で有司に礼をもって殯葬させた。
  • これに先立ち、典事の史元顕が翼が四つ足が四つの雛を献じた。詔で侍中崔光に問うた。光が上表した。 「漢の元帝の初元年間、丞相府の史の家の雌鶏が子を伏せているうち次第に雄に変じ、鶏冠と蹴爪ができて鳴こうとしました。永光年間には角の生えた雄鶏を献じた者があり、劉向は『鶏は小さな家畜で、時と起居を司る。人でいえば小臣で事を執る者、政の象である』としました。竟寧元年に石顕が誅に伏したのがその験です。 霊帝の光和元年、南宮寺の雌鶏が雄に変じようとして、ただ頭の冠だけが変わりませんでした。詔で議郎蔡邕に問うたところ、『頭は元首、人君の象です。今、鶏は一身がすでに変わって頭に至っておらず、しかも上がそれを知られた。これは事が起ころうとしてまだ成就せぬ象です。もし応対が精密でなく政に改めるところがなければ、頭の冠までできて患いはさらに大きくなりましょう』と答えました。その後、黄巾が四方を破壊し、天下はついに大いに乱れました。 今の鶏の状は漢のときと同じではありませんが、その応はかなり似ており、まことに畏るべきです。臣が劉向と蔡邕の言で推すに、翼と足が多いのは群下が互いに扇ぎ助け合う象でしょう。雛でまだ大きくなく、足と羽がやや小さいのは、その勢いがまだ微かで制御しやすいということでしょう。 臣が聞くに、災異が現れるのはみな吉凶を示すためです。明君はこれを見て懼れ、それゆえ福を致し、暗主は見て慢り、それゆえ禍を致します。あるいは今も賤しい身から貴くなって政事に関わる、前世の石顕のような者があるのでしょうか。願わくは陛下、賢を進め佞を退けられよ。そうすれば妖は消え慶が集まりましょう」。 数日後、皓らが誅され、帝はいよいよ光を重んじた。
  • 高肇は帝を説いて宿衛の隊主に羽林・虎賁を率いて諸王の邸を守らせた。ほとんど幽禁と同じだった。彭城王元勰が切に諫めたが聴かれなかった。

五年(506年)

  • 魏主は高肇に委任し、宗室を疎んじ薄んじ、桑門(仏教)の法を好んで政事に親しまなかった。

六年(507年)

  • 高貴嬪は寵せられて嫉妬深く、高肇の勢いは中外を圧した。后が急病で没し、人はみな咎を高氏に帰した。宮禁の事は秘されて詳しく知る者はなかった。

七年(508年)

  • 春三月戊子、魏の皇子元昌が没した。侍御師王顕が治療を誤ったのだが、当時の人はみな高肇の意を承けたのだと思った。
  • 秋七月甲午、魏が高貴嬪を皇后に立てた。尚書令高肇はいよいよ貴く重んじられて事を用いた。肇は先朝の旧制を多く改め変え、封と秩を減らし削り、勲功ある者を抑え退けた。これで怨みの声が路に満ちた。群臣も宗室もみな肇にへりくだったが、ただ度支尚書元匡だけが肇と張り合った。
  • 匡はあらかじめ自ら棺を造って聴事に置き、棺を輿に載せて闕に赴いて肇の罪悪を論じ、自殺して切に諫めようとした。肇はこれを聞いて憎んだ。折しも匡が太常劉芳と権量(度量衡)の事を議した際、肇が芳の議を支持したので、匡はついに肇と言い争い、肇が「鹿を指して馬とする」と上表した。御史中尉王顕が匡が宰相を誣毀したと弾劾し、有司は匡を死刑に処すとした。詔で死を恕し、光禄大夫に降した。
  • はじめ魏主は京兆王元愉のために于后の妹を納れて妃としたが、愉は愛さず、愛妾の李氏を愛して子の宝月を生ませた。于后は李氏を宮に召して笞打った。
  • 愉は驕奢貪縦で、行うところの多くが法に外れた。帝は愉を禁中に召して事を調べ、五十杖打って冀州刺史として出した。愉は自ら年長でありながら勢いも位も二人の弟に及ばぬのをひそかに恥じ恨み、また自分と妾がたびたび辱めを受け、高肇がしばしば愉の兄弟を讒言したので、憤りに堪えなかった。
  • 癸亥、長史羊霊引と司馬李遵を殺し、「清河王元懌の密書を得た。高肇が弑逆した」と偽り、そのまま信都の南に壇を作って皇帝に即位し、大赦して建平と改元し、李氏を皇后に立てた。法曹参軍崔伯驥が従わず、愉が殺した。
  • 北の州や鎮ではみな魏の朝廷に変があったのかと疑った。定州刺史安楽王元詮が詳しい事情を告げ、州鎮はようやく安んじた。
  • 乙丑、魏は尚書李平を都督北討諸軍・行冀州事として愉を討たせた。平は李崇の従父の弟である。
  • 魏の高后が立てられたとき、彭城武宣王元勰は固く諫め、魏主は聴かなかった。高肇はこれで怨み、たびたび勰を魏主に讒言したが、魏主は信じなかった。
  • 勰はその舅の潘僧固を長楽太守に薦めていた。京兆王愉が反したとき、僧固を脅して同心させた。肇はそれに乗じて「勰は北は愉と通じ、南は蛮賊を招いている」と誣告した。彭城郎中令魏偃と前防閤高祖珍が肇の引き立てを望んでその事を作り上げた。
  • 肇は侍中元暉に奏上させようとしたが、暉は従わなかった。また左衛元珍に言わせた。帝が暉に問うと、暉は勰がそうでないことを明らかにした。また肇に問うと、肇は魏偃と高祖珍を証人に引いた。帝はそこで信じた。
  • 戊戌、勰および高陽王雍・広陽王元嘉・清河王懌・広平王元懐・高肇をそろって召して宴を張った。勰の妃の李氏はちょうど産気づいており、勰は固辞して赴かなかったが、中使が相次いで召したのでやむを得ず、妃に別れを告げて車に乗った。東掖門に入り小橋を渡ろうとしたとき、牛が進もうとせず、打ってもしばらく動かなかった。さらに使者が来て勰の遅参を責めたので、牛引きが挽いて進んだ。
  • 禁中で宴し、夜になってみな酔い、それぞれ別の場所で休んだ。ほどなく元珍が武士を引き連れ毒酒を携えて来た。勰は「私に罪はない。一度、至尊にお目にかかりたい。そうすれば死んでも恨みはない」と言った。元珍は「至尊にどうしてまたお目にかかれよう」と言った。勰は「至尊は聖明であられる。事もなく私を殺されるはずがない。告発者と一度、曲直を対決させてほしい」と言った。武士が刀の環で突いた。勰は大声で「冤罪だ。皇天よ、忠にして殺される」と言った。武士がまた突き、勰はそこで毒酒を飲んだ。武士が近づいて殺した。
  • 明け方近く、褥で屍を包んで邸に運び帰り、「王は酔って薨じた」と言った。李妃は号哭して大声で「高肇が理を枉げて人を殺した。天道に霊あらば、お前はどうして良い死に方ができようか」と言った。
  • 魏主は東堂で哀を挙げ、贈官と葬礼はみな手厚く等を加えた。朝廷では貴賤を問わず気を落とさぬ者はなく、道行く士女もみな涙を流して「高令公が枉げて賢王を殺した」と言った。これで中外の憎しみはいよいよ甚だしくなった。
  • 京兆王愉は信都を守りきれず、癸卯、門を焼いて李氏と四人の子を連れ、百余騎を従えて突破し逃げた。李平が信都に入り、愉が置いた冀州牧韋超らを斬り、統軍叔孫頭を遣わして追わせ、愉を捕らえて信都に置いて奏聞した。群臣は愉の誅を請うたが魏主は許さず、鎖で洛陽に送って家人の訓を申し渡すよう命じた。野王まで来たところで高肇がひそかに人を遣わして殺した。諸子が洛に至ると、魏主はみな赦した。
  • 魏主が李氏を屠ろうとした。中書令崔光が諫めて「李氏は妊娠しております。刑して胎を刳るのは桀・紂の為すところ。酷くて法ではありません。産み終えるのを待って刑を行われますよう」と言い、従われた。
  • 李平が愉の残党千余人を捕らえてみな殺そうとした。録事参軍高顥が「これはみな脅されて従った者です。先に赦免を許しております。表を出して陳べるべきです」と言い、平は従って、みな死を免れた。顥は高祐の孫である。
  • 済州刺史高植が州軍を率いて愉を撃って功があり、封ぜられるはずだったが、植は受けず「家は重恩を蒙り、国のために効を致すのはその常の節分です。どうして賞を求められましょう」と言った。植は肇の子である。
  • 李平に散騎常侍を加えた。高肇と中尉王顕は日ごろ平を憎んでおり、顕は平が冀州で官の奴婢を隠匿し横領したと弾劾し、肇は奏して平の名を除いた。

十一年(512年)

  • 春正月丙辰、魏は車騎大将軍・尚書令高肇を司徒、清河王懌を司空とし、広平王懐に驃騎大将軍の号を進めて儀同三司を加えた。肇は三司に登ったものの、要職を離れたのをなお不満とし、それが言葉と顔色に表れた。見る者は嗤った。
  • 尚書右丞高綽と国子博士封軌は日ごろ方正剛直を旨としていた。肇が司徒となると、綽は送迎に往来したが、軌はついに肇のもとを訪ねなかった。綽は振り返って軌の姿がないのを見て、急いで帰り、嘆じて「私は平生、規矩を失わぬと自負していたが、今日の挙措は封生に遠く及ばぬ」と言った。綽は高允の孫、軌は封懿の族孫である。
  • 清河王懌は才学と名望があった。彭城(元勰)の禍に懲り、宴に侍った折に肇に言った。「天子の兄弟がいったい何人おありか。それをほとんど剪り尽くされた。昔、王莽は頭が禿げていたが、渭陽(外戚)の資に藉ってついに漢室を簒奪した。今、君の身は曲がっている。やはりついに乱の階梯となるのを恐れる」。
  • 折しも大旱魃があり、肇は勝手に囚徒を調べ直して人心を収めようとした。懌が魏主に言った。「昔、季氏が泰山に旅の祭りをして孔子が憎みました。まことに君臣の分は微を防ぎ漸を杜ぐべきで、瀆すことはできません。膳を減らし囚を録するのは陛下の事です。今、司徒がそれを行うのは、人臣の義でありましょうか。明君が上でこれを失い、姦臣が下でこれを窃む。禍乱の基はここにあります」。帝は笑って答えなかった。

十四年(515年)

  • 春正月、魏の世宗が崩じ、太子元詡が即位した。
  • これに先立ち、高肇は権を専らにし、ことに宗室で当時の名望ある者を忌んだ。太子太保任城王元澄はたびたび肇に讒言され、身を全うできぬのを恐れて終日酒に耽り、狂ったように振る舞い、朝廷の機要に一切与らなかった。
  • 世宗が崩ずると、肇は外で兵を擁しており、朝野は不安になった。領軍将軍于忠が門下と議し、粛宗(孝明帝)が幼くて親政できぬので、太保高陽王雍を西柏堂に入居させて庶政を省決させ、任城王澄を尚書令として百揆を総摂させることとし、皇后に奏してただちに敕授を請うた。
  • 王顕は日ごろ世宗に寵せられ、勢いを恃んで威を振るい、世に憎まれていた。澄らに容れられぬのを恐れ、中常侍孫伏連らとひそかに謀って門下の奏を握り潰し、皇后の令を偽って高肇を録尚書事とし、顕と勃海公高猛をともに侍中とした。于忠らはこれを聞き、医療に侍って効なかったことに託けて顕を禁中で捕らえ、詔を下して爵と任を削った。顕は捕らえられて冤を叫んだが、直閤が刀の環でその脇の下を突き、右衛府に送って一晩で死んだ。
  • 庚申、詔を下して門下の奏のとおりとし、百官はすべて二王の指示に従うこととした。中外は喜び服した。
  • 二月庚辰、皇后を皇太后と尊んだ。魏王は名を称した書で高肇に哀を告げ、あわせて召し還した。肇は変事を承けて憂え恐れ、朝夕に哭泣して痩せ衰えた。瀍澗まで帰り、家人が迎えたが会わなかった。辛巳、闕下に至り、衰服で号哭して太極殿に登り、哀を尽くした。
  • 高陽王雍が于忠とひそかに謀り、直寝の邢豹ら十余人を舎人省の下に伏せさせた。肇が哭を終えて西の廡に引き入れられるとき、清河王ら諸王がみなひそひそ語って目配せした。肇が省に入ると豹らが絞め殺した。詔を下してその罪悪を暴き、「肇は自尽した」と称した。その他の親党は一切問わず、職と爵を削除し、士の礼で葬った。日暮れになって厠の門から屍を出してその家に帰した。
  • 魏の于忠は門下に居るうえに宿衛を総べ、ついに朝政を専らにし、権は一時を圧した。
  • 魏の尚書裴植は自ら家柄が王粛に劣らぬと思っており、朝廷の遇し方が高くないので常に不満だった。上表して官を解いて嵩山に隠れたいと請い、世宗は許さず、深く怪しんだ。尚書となってからは志気が驕り満ち、いつも人に「私が尚書を必要とするのではない。尚書も私を必要とするのだ」と言った。参議に入るたび、面と向かって群官を譏り毀るのを好んだ。また征南将軍田益宗について「華と夷は類を異にする。百世の衣冠の上に置くべきではない」と上表した。于忠と元昭はこれを見て歯噛みした。
  • 尚書左僕射郭祚は昇進を求めて止まず、自ら東宮の師傅であったとして尚書を辞す旨を列べ、侯・儀同への封を望んだ。詔で祚を都督雍岐華三州諸軍事・征西将軍・雍州刺史とした。祚と植はともに于忠の専横を憎み、ひそかに高陽王雍に忠を外へ出すよう勧めた。忠はこれを聞いて激怒し、有司に罪を誣告して奏させた。
  • 尚書が奏した。「羊祉が告げるに、植の姑の子の皇甫仲達は『植の旨を受けて詔を受けたと偽り、部曲を糾合して于忠を図ろうとした』と申します。臣らが徹底追及しても供述は認めませんが、多くの証言が明白で、律に準ずれば死に当たります。多くの証言は植に会ったとは言いませんが、みな仲達が植に使われたと申します。植は仲達を召して責め問いながら告発しませんでした。情状を推し論ずるに、同じでない理も明らかにできず、常の獄と同じにはできません。その分を減じ、仲達と同じく植を死刑に処すべきでしょう。ただ植は自ら城の衆を率いて王化に附いた者です。律に依り上議(減刑審議)を賜りたく存じます」。
  • 忠は詔を偽って「凶謀がそうである以上、罪は恕すに当たらぬ。帰化の誠があっても上議を容れず、また秋分を待つにも及ばぬ」と言わせた。八月乙亥、植と郭祚および都水使者である杜陵の韋雋にみな死を賜った。雋は祚の姻家である。
  • 忠はさらに高陽王雍を殺そうとしたが、崔光が固く執って従わなかったので、雍を免官して王のまま邸に帰した。朝野は憤り、歯噛みせぬ者はなかった。
  • 庚寅、魏は車騎大将軍于忠を尚書令・特進とし、儀同三司を加えた。
  • 郭祚らが死んでから、詔令も生殺もみな于忠から出た。王公は畏れて足を重ね息を潜めた。太后が親政するに及んで、忠の侍中・領軍・崇訓衛尉を解き、儀同三司・尚書令だけとした。
  • 十日余り後、太后が門下の侍官を崇訓宮に引いて「忠が端右(尚書令)にあって声望はどうか」と問うた。みな「その任に称いません」と答えた。そこで忠を都督冀定瀛三州諸軍事・征北大将軍・冀州刺史として出した。
  • はじめ于忠が事を用いていたとき、世宗が優遇の昇進を許したと自ら言い、太傅雍らはみなあえて違えず、忠に車騎大将軍を加えた。忠はまた、新旧交代の際に社稷を定めた功があると自称し、それとなく百僚に自分への賞を加えさせた。雍らは議して忠を常山郡公に封じた。忠はまた独りで受けるのを憚り、それとなく朝廷に働きかけて、同じく門下にいた者にみな封邑を加えさせた。雍らはやむなく崔光を博平県公に復封した。
  • ところが尚書元昭らが訴えて止まなかった。太后は公卿に再議するよう敕した。太傅懌らが上言した。「先帝が崩御され、乗輿を奉迎し省闥を守衛したのは、臣子の常の職です。これを功とすることはできません。臣らが先に忠に茅土を授ける議をしたのは、まさにその威権を畏れ、いい加減に暴戻を免れようとしたためです。功と過を相殺すれば、いずれも賞すべきではありません。すべて追奪されますよう」。崔光もまた章綬と茅土を返上し、表を十余回上った。太后は従った。
  • 高陽王雍が上表して自ら弾劾した。「臣が初めて柏堂に入ったとき、詔旨の発行が一切門下から出ているのを見ました。臣から出て君が行うのは深く不可と知りながら禁じられませんでした。于忠が権を専らにし生殺を恣にしても、臣は違えられませんでした。忠が臣を殺そうとしたのは、事に当たる者が拒んでくれたおかげで免れました。臣は忠を外へ出そうと思いながら心に留めて行えず、かえって忠に廃されました。官を辱め禄を尸り、恩私に孤り背きました。私門に返って伏して司敗(司法)の裁きを待ちたく存じます」。太后は忠に保護の功があるとして罪を問わなかった。

十五年(516年)

  • 春二月、魏の中尉元匡が于忠を弾劾する奏をした。「国の大災(帝の崩御)を幸いとして朝命を専擅し、裴植と郭祚に冤罪を負わせ、宰輔を退け辱めました。また自ら旨を偽って儀同三司・尚書令・領崇訓衛尉となりました。その意を原ねれば、上なき者として自ら処そうとしたのです。事が恩赦の後にある以上、顕らかな戮を加えるべきです。御史一人を遣わして州に赴いて処決させたく存じます。また昨年、世宗が晏駕されて以後、皇太后が親覧される以前に、階級によらず、あるいは門下から詔書を発し、あるいは中書から敕を宣べて、勝手に官を授けた者は、すでに恩宥を経ておりますからまさに罪を免れますが、いずれも追奪すべきです」。太后は「忠はすでに特に赦された。追って罪すべきではない。その他は奏のとおり」と令した。
  • 夏四月、魏の胡太后が于忠の功を追想して「一つの過ちでその他の勲を棄ててよいものか」と言い、改めて忠を霊寿県公に封じた。

十七年(518年)

  • 春三月辛未、魏の霊寿武敬公于忠が没した。