通鑑紀事本末南北朝の交戦(南北交兵)

斉末から梁初にかけての南北抗争を、魏の元英・任城王元澄・邢巒と、梁の韋叡・馬僊琕・曹景宗・昌義之らの攻防として描く。魏は斉の内乱に乗じて南下し、義陽を落として郢州を置いたが、梁が大挙北伐すると臨川王蕭宏の懦弱で洛口の大敗を招いた。しかし翌年、韋叡と曹景宗が鍾離で元英の数十万を火攻めで壊滅させ、中興元年から天監八年までの九年、両朝の攻守は逆転しつつ和議の打診に至る。

年表(9件)
  • 斉和帝
  • 中興元年501年元英・源懐らが斉の内乱に乗じた南征を献策する
  • 梁武帝
  • 天監元年502年斉の鄱陽王蕭宝寅が寿陽へ逃れ、任城王元澄が客礼で遇する
  • 二年503年魏が蕭宝寅・陳伯之を用いて六州の兵を発し、元英が義陽攻めに向かう
  • 三年504年蔡道恭の死後に義陽が落ち、元英は中山王に復封される
  • 四年505年梁が大挙北伐し、臨川王蕭宏を都督として洛口に陣する
  • 五年506年韋叡が合肥を落とすが、洛口で蕭宏が逃げ去り梁軍が崩壊する
  • 六年507年韋叡・曹景宗が鍾離で元英の軍を火攻めで大破し、十余万が溺死する
  • 七年508年白早生が懸瓠で叛くも邢巒・元英に討たれ、義陽だけが魏に残る
  • 八年509年元英が三関を奪回し、梁の武帝が董紹を還して和好を打診する

斉和帝中興元年(501年)

  • 魏の鎮南将軍元英が上書した。「蕭宝巻の驕縦は日ごとに募り、罪なき者を虐げ害しております。その雍州刺史蕭衍が東して秣陵を伐ち、土地を挙げて兵を興し、流れに順って下っております。建業には孤城があるだけで重い守りはありません。これぞ皇天がわれに授けた日、久しく待って一度めぐり合う秋です。これに乗じずして何を待ちましょう。臣は自ら歩騎三万を率いてまっすぐ沔陰を指し、襄陽の城に拠って黒水の路を断ちたく存じます。昏虐の君臣が互いに食い合っている間に、われらが上流に居て威を遠近に震わせ、長駆して南に出、進んで江陵を落とせば、三楚の地は一朝にして収められ、岷・蜀の道は自ずと断たれます。さらに揚州・徐州の二州に命じて共に挙がると言い触らせば、建業は窮まって釜の中で泳ぐ魚も同然。文と軌を斉しくして大いに同じくし、天地を混じて一つにできましょう。伏して願わくは陛下、独り聖心をもって決し、疑いの議を取られませぬよう。この機を逸すれば併呑の日はありません」。事は握り潰されて答がなかった。
  • 車騎大将軍源懐が上言した。「蕭衍が内から侮り、宝巻は孤り危うく、広陵・淮陰などの戍はみな得失を観望しております。これぞ実に天が啓いた期、併呑の会です。東西から一斉に挙げて席巻の勢いを成すべきです。もし蕭衍が事を成し遂げ、上下が心を同じくすれば、後で図る難しさだけでなく、揚州が危うく迫られるのも恐れます。なぜか。寿春から建康まではわずか七百里、山川も水陸もみな彼らの熟知するところ。彼らが内外に憂いなく君臣の分が定まれば、舟に乗り水に藉ってたちまち至ります。当たるのは容易ではありません。今、宝巻の都邑には土崩の憂いがあり、辺城には後続の援けの望みがない。江表を廓清するのは、まさに今日にあります」。
  • 魏主はそこで任城王元澄を都督淮南諸軍事・鎮南大将軍・開府儀同三司・揚州刺史として経略させたが、やがて実行されなかった。懐は源賀の子である。
  • 東豫州刺史田益宗が上表した。「蕭氏が常を乱し、君臣が争っております。江外の州鎮は中と外に二分され、東西が抗し合ってすでに歳月を重ね、民庶は輸送に窮し、甲兵は戦闘に疲れております。事は目前を救うだけ、力は麾下に尽き、外に手を回す暇はありません。州鎮の綱紀と諸方の藩城は碁石のように並んで孤り存するばかり。この機に乗じて電のごとく掃い、彼の蛮の強さを取り払わねば、後の経略はこれほど易くはありますまい。 それに寿春は平らいでも三面はなお塞がっており、鎮守の備えは実にあらかじめ設けねばなりません。義陽は淮の源にやや近く、渡渉の要衝です。朝廷が師を行るには必ずこの道を通ります。もし江南が一たび平らげば、淮外に事があるとき、夏の水の増すのに乗じて舟を長淮に並べ、軍を寿春に赴かせるには義陽の北を通らねばならぬ。それはわが咽喉の要を押さえられるも同然で、憂いはいよいよ深い。義陽を滅ぼすのは、今こそ時です。 彼らを測るに精卒一万二千で足ります。ただし師を行る法は形と勢いを張るのを貴びます。両荊の衆に西の随・雍へ向かうと見せかけ、揚州の卒を建安に屯させて三関の援けを防がせ、そのうえで二豫の軍がまっすぐ南関に拠って延頭と対抗し、都督一人を遣わして諸軍を節度させ、季冬に進軍して春の末までなら、十旬を過ぎずして必ず落とせます」。
  • 元英もまた奏した。「今、宝巻は骨肉相残み、藩鎮は鼎のように立ち、義陽は孤絶して王土のごく近くにあります。内に兵と蓄えの固めなく、外に糧と援けの期もない。これぞ焼かれようとする鳥の巣、薪を除かずにおれましょうか。首を差し出す敵に、どうして斧を緩められましょう。これを逸して取らねば、後の挙が図りがたいだけでなく、さらに深い患いとなるのを恐れます。今、豫州刺史司馬悦はすでに戒厳して出発しようとしており、東豫州刺史田益宗の兵は三関を守っております。軍司を遣わして節度させていただきたい」。
  • 魏主はそこで直寝の羊霊引を軍司として遣わした。益宗はそのまま侵入し、建寧太守黄天賜が赤亭で益宗と戦って敗れた。

梁武帝天監元年(502年)

  • 春二月辛丑、斉の邵陵王蕭宝攸、晉熙王蕭宝嵩、桂陽王蕭宝貞を殺した。
  • 梁王が斉の諸王を殺そうとしたとき、防守はまだ厳しくなかった。鄱陽王蕭宝寅の家の宦人顔文智が側近の麻拱らとひそかに謀り、牆を穿って夜に脱出させた。宝寅は小船を江岸に用意し、黒い布の襦を着け、腰に千ほどの銭を結んで、ひそかに江のほとりへ赴いた。草鞋を履いて徒歩で行き、足は皮も残らなかった。
  • 防守の者が夜明けに追ったが、宝寅は釣人を装って流れに従って十余里を上り下りし、追手は疑わなかった。散じてから西岸に渡り、民の華文栄の家に身を寄せた。文栄はその族人の華天竜・華恵連とともに家を棄てて宝寅を連れて山澗に隠れ、驢馬を借りて乗せ、昼は伏し夜に行き、寿陽の東城に至った。
  • 魏の戍主杜元倫が馳せて揚州刺史任城王澄に告げ、車馬と侍衛で迎えた。宝寅は時に十六歳。徒歩で憔悴し、見る者は掠われて来た捕虜と思った。澄は客の礼で遇した。
  • 宝寅は君の喪の斬衰の服を請うた。澄は人を遣わして情と礼を説き諭し、兄の喪の斉衰の服を持たせて与えた。澄は官僚を率いて弔問に赴いた。宝寅の起居は礼に適い、極哀の節に一致していた。寿陽には旧知の者が多く、みな慰めを受けたが、ただ夏侯の一族だけには会わなかった。夏侯詳が梁王に従ったからである。澄は深く器量を認めて重んじた。
  • 三月、斉の和帝が詔を下して梁王に禅位した。

二年(503年)

  • 春三月、蕭宝寅が魏の闕の下に伏して兵を請い梁を伐とうとした。暴風大雨でもついに片時も動かなかった。折しも陳伯之が魏に降り、やはり兵を請うて身を尽くしたいと願った。魏主はそこで八座と門下を引いて議を定めた。
  • 夏四月癸未朔、宝寅を都督東揚等三州諸軍事・鎮東将軍・揚州刺史・丹陽公とした。斉王の礼で賜与は甚だ厚く、兵一万を配して東城に屯させた。伯之を都督淮南諸軍事・平南将軍・江州刺史として陽石に屯させ、秋冬の大挙を待たせた。
  • 宝寅は明日、命を拝するという夜、朝まで慟哭した。魏人はまた宝寅に四方の壮勇を募らせ、数千人を得た。顔文智・華文栄ら六人をみな将軍・軍主とした。宝寅は志も性も雅やかで重く、一年を過ぎてもなお酒肉を絶ち、痛ましい形と憔悴した顔色で、菜食と粗衣を通し、一度も笑い戯れなかった。
  • 六月、魏の揚州刺史任城王澄が表を奉じた。「蕭衍がしきりに東関を断ち、漅湖を溢れさせて淮南の諸戍に灌ごうとしております。呉・楚の者は水に慣れており、灌ぎつつ掠めれば、淮南の地は国のものでなくなりましょう。寿春は長江から五百余里離れておりますが、衆庶は恐れ騒ぎ、みな水害を懼れております。民の願いに乗じ、敵の虚を攻めるべく、あらかじめ諸州に士馬を集めさせ、初秋に大々的に集めて機に応じて経略すべきです。統一は必ずしも果たせずとも、江西は以後、憂いなくなりましょう」。
  • 丙戌、魏は冀・定・瀛・相・并・済の六州の兵二万人と馬千五百匹を発し、仲秋のうちに淮南に集結させることとし、寿春の先の兵一万とあわせて澄に委ねて経略させた。蕭宝寅と陳伯之はみな澄の節度を受けた。
  • 秋八月庚子、魏は鎮南将軍元英を都督征義陽諸軍事とした。司州刺史蔡道恭は魏軍の接近を聞き、驍騎将軍楊由に城外の住民三千余家を率いて賢首山に籠らせ、三つの柵を作らせた。
  • 冬十月、元英が諸軍を率いて賢首の柵を囲んだ。柵の民の任馬駒が由を斬って魏に降った。
  • 任城王澄は統軍党法宗・傅豎眼・太原の王神念らに兵を分けて東関・大峴・淮陵・九山を侵させ、高祖珍に騎三千で遊軍とさせ、澄は大軍でその後に続いた。豎眼は傅霊越の子である。魏人は関要・潁川・大峴の三城を落とし、白塔・牽城・清渓はみな潰えた。
  • 徐州刺史司馬明素が三千の兵で九山を救い、徐州長史潘伯鄰が淮陵に拠り、寧朔将軍王燮が焦城を保った。党法宗らが進んで焦城を落とし淮陵を破った。十一月壬午、明素を捕らえ伯鄰を斬った。
  • これに先立ち、南梁太守馮道根が阜陵に戍っていた。着任するとすぐ城と濠を修め、斥候を遠くまで出し、敵が来るかのように備えた。衆はかなり笑ったが、道根は「防ぐには怯え、戦うには勇む。これを言うのだ」と言った。城がまだ完成せぬうちに党法宗ら二万の衆が突如城下に至り、衆はみな色を失った。道根は門を大きく開けさせ、緩やかな服で城に登り、精鋭二百人を選んで出して魏兵と戦い破った。魏人はその意思の閑暇なるを見、戦っても利がなかったので、そのまま引き揚げた。道根は百騎を率いて高祖珍を撃って破った。魏の諸軍は糧運が絶えて退いた。道根を豫州刺史とした。
  • 乙酉、将軍呉子陽が魏の元英と白沙で戦い、子陽が敗れた。

三年(504年)

  • 春正月、蕭宝寅が汝陰まで行ったところ、東城はすでに梁に取られていた。そこで寿陽の棲賢寺に屯した。
  • 二月戊子、将軍姜慶真が魏の任城王澄の外出に乗じて寿陽を襲い、その外郭を占めた。長史韋纉は急のことで手を打てなかった。任城太妃孟氏が兵を整えて城壁に登り、先に要所を守り、文武を激励し、新旧の者を安んじ、賞罰をもって勧めたので、将士はみな奮う志を抱いた。太妃は自ら城の守りを巡り、矢石を避けなかった。蕭宝寅が兵を率いて至り、州軍と合わせて撃ち、四鼓から日暮れまで戦って慶真は敗走した。韋纉は罪に問われて免官された。
  • 任城王澄が鍾離を攻めた。上は冠軍将軍張恵紹らに五千の兵で糧を鍾離に送らせた。澄は平遠将軍劉思祖らを遣わして迎え撃たせた。丁酉、邵陽で戦い、梁兵を大敗させ、恵紹ら十将を捕らえ、士卒はほとんど殺され捕らえられた。思祖は劉芳の従子である。尚書は思祖の功は千戸侯に封ずるに当たると論じたが、侍中・領右衛将軍元暉が思祖に婢二人を求めて得られず、事は握り潰された。暉は元素の孫である。
  • 上は平西将軍曹景宗と後軍王僧炳らに歩騎三万を率いて義陽を救わせた。僧炳が二万人で鑿峴に拠り、景宗が一万人で後続とした。元英は冠軍将軍元逞らを樊城に拠らせて防がせた。三月壬申、樊城で僧炳を大破し、四千余人を捕らえ斬った。
  • 魏は詔で任城王澄に「四月には淮水が漲り、舟行に障りがなくなる。南軍は時を得る。利を貪って後悔を招くな」と告げた。折しも大雨で淮水が急に漲り、澄は兵を引いて寿陽に還った。魏軍の帰還は狼狽して四千余人を失った。中書侍郎である斉郡の賈思伯が澄の軍司として後方の殿軍を務めた。澄は儒者なので必ず死ぬと思っていたが、帰着すると大いに喜び「仁者には必ず勇があるというが、軍司にそれを見た」と言った。思伯は道に迷ったと言い訳し、その功を誇らなかった。有司は澄の開府を奪い、三階を降すよう奏した。
  • 上は捕らえた魏の将士と引き換えに張恵紹の返還を魏に請い、魏人は帰した。
  • 夏五月、魏人が義陽を囲んだ。城中の兵は五千に満たず、食はかろうじて半年を支えるだけだった。魏軍は昼夜休みなく攻めたが、刺史蔡道恭がその場その場で防ぎ、みな手ごたえのままに退けた。対峙すること百余日、前後の斬獲は数えきれず、魏軍は憚って退こうとした。
  • 折しも道恭の病が篤くなった。従弟の驍騎将軍蔡霊恩、兄の子の尚書郎蔡僧勰および諸将佐を呼んで言った。「私は国の厚恩を受けながら敵を攘い滅ぼせなかった。今、苦しみはますます篤く、勢いとして長くは支えられぬ。お前たちは死をもって節を固くし、私が没して遺恨を残させるな」。衆はみな涙を流した。道恭は没し、霊恩が州の事を代行して城を守った。
  • 秋七月、魏人は蔡道恭の死を聞いて義陽をいよいよ急に攻め、短兵が日々交わった。曹景宗は鑿峴に陣したまま進まず、ただ兵を耀かせて遊び狩りをするだけだった。上はまた寧朔将軍馬僊琕を遣わして義陽を救わせた。僊琕は転戦しつつ前進し、兵の勢いは甚だ鋭かった。
  • 元英は士雅山に塁を結び、諸将に四方の山に伏せるよう命じて弱く見せた。僊琕は勝ちに乗じてまっすぐ長囲に至り、英の営を襲った。英は偽って北げて誘い、平地に至ると兵を放って撃った。統軍傅永が甲を着け槊を執って単騎で先に入り、ただ軍主蔡三虎だけが副となって陣に突入して横切った。梁兵が射て永の左股を貫いたが、永は矢を抜いてまた突入した。僊琕は大敗し、一人の子が戦死した。僊琕は退き走った。
  • 英が永に「公は傷ついた。ひとまず営に帰られよ」と言うと、永は「昔、漢の高祖は足を撫でて人に知られまいとした。下官は微賤とはいえ国家の一将です。どうして賊に将を傷つけたという名を得させましょう」と言い、諸軍とともに追撃して夜通しかけて返った。時に年七十余。軍中で壮としない者はなかった。
  • 僊琕はまた一万余人を率いて英を撃ったが、英はまた破って将軍陳秀之を殺した。僊琕は義陽が危急と知り、精鋭を尽くして決戦し、一日に三度交えたが、みな大敗して返った。
  • 蔡霊恩は勢い窮まり、八月乙酉、魏に降った。三関の戍将はこれを聞き、辛酉、やはり城を棄てて逃げた。
  • 英は司馬陸希道に露板を作らせたが、精緻でないのを嫌い、傅永に直させた。永は文彩を加えず、ただ軍事を陳列して要所を処置しただけだった。英は深く賞して「この経算を見れば、金城湯池といえども守れまい」と言った。
  • はじめ南安恵王は穆泰の謀に与ったとして爵邑を追奪されていたが、英が義陽を落としたので、改めて英を中山王に立てた。
  • 御史中丞任昉が曹景宗を弾劾する奏をしたが、上は功臣なので握り潰して問わなかった。
  • 衛尉鄭紹叔は事に忠実で、外で聞き知ったことは毫も隠さなかった。上に事を言うたび、善ければ功を上に推し、善くなければ咎を自分に帰した。上はそれで親しんだ。詔で南義陽に司州を置き、鎮を関の南に移し、紹叔を刺史とした。紹叔は城と濠を立て、器械を修め、広く田を開いて穀を積み、流散した者を招き集めたので、百姓は安んじた。
  • 魏は義陽に郢州を置き、司馬悦を刺史とした。上は馬僊琕を遣わして竹敦・麻陽の二城を三関の南に築かせた。司馬悦は兵を送って竹敦を攻め落とした。

四年(505年)

  • 春二月、上が魏討伐を謀り、壬午、衛尉卿楊公則に宿衛の兵を率いて洛口を塞がせた。
  • 八月壬寅、魏の中山王英が雍州を侵した。
  • 楊公則が洛口に至り、魏の豫州長史石栄と戦って斬った。甲寅、将軍姜慶真が魏と羊石で戦って利あらず、公則は馬頭に退いて屯した。
  • 九月己巳、楊公則らが魏の揚州刺史元嵩と戦い、公則が敗れた。
  • 冬十月丙午、上が大挙して魏を伐った。揚州刺史臨川王蕭宏を都督北討諸軍事、尚書右僕射柳惔を副とした。王公以下がそれぞれ国の租と田穀を献じて軍を助けた。宏は洛口に陣した。

五年(506年)

  • 夏四月庚戌、魏は中山王英を征南将軍・都督揚徐二州諸軍事とし、十余万の衆を率いて梁軍を防がせ、諸軍の節度を指授し、行く先々で便宜に従って処理させた。
  • 江州刺史王茂が数万の兵で魏の荊州を侵し、魏の辺民および諸蛮を誘って改めて宛州を立て、自ら任じた宛州刺史雷豹狼らに魏の河南城を襲い取らせた。魏は平南将軍楊大眼を遣わして諸軍を督して茂を撃たせた。辛酉、茂は敗れて二千余人を失った。大眼が河南城に進攻すると茂は逃げ帰り、大眼は漢水まで追って五城を攻め落とした。魏の征虜将軍宇文福が司州を侵し、千余口を捕らえて去った。
  • 五月辛未、太子右衛率張恵紹らが魏の徐州を侵して宿預を落とし、城主馬成竜を捕らえた。乙亥、北徐州刺史昌義之が梁城を落とした。
  • 豫州刺史韋叡が長史王超らに小峴を攻めさせたが落とせなかった。叡が囲みの柵を巡っていると、魏が数百人を出して門の外に陣した。叡が撃とうとすると、諸将はみな「先ほど軽装で来たので戦備がありません。ひとまず還って甲を授けてから進むべきです」と言った。叡は「そうではない。魏の城中には二千余人あり、固守するに足る。今、理由もなく人を外に出したのは、必ずその驍勇な者だ。これを挫けば城は自ずと落ちる」と言った。衆はなお遅疑した。叡はその節を指して「朝廷がこれを授けたのは飾りにするためではない。韋叡の法は犯せぬぞ」と言い、そのまま進撃した。士はみな決死で戦い、魏兵は敗走した。それに乗じて急攻し、翌日には落とした。
  • そのまま合肥に至った。これに先立ち、右軍司馬胡略らが合肥を攻めて久しく落とせなかった。叡は山川を按じ、夜のうちに衆を率いて肥水を堰き止めた。ほどなく堰が完成して水が通じ、舟艦が次々と到着した。魏は東西に小城を築いて合肥を挟んでいた。叡はまず二城を攻めた。魏将楊霊胤が五万の衆を率いて突如至り、衆は敵しえぬのを恐れて増兵を奏請しようとした。叡は笑って「賊が城下に至ってから増兵を求めても間に合うものか。それに私が兵を増せば彼も兵を増す。兵は奇を用いるのを貴ぶ。数の多さではない」と言い、そのまま霊胤を撃って破った。
  • 叡は軍主王懐静に岸に城を築かせて堰を守らせた。魏がこれを攻め落とし、城中の千余人はみな死んだ。魏人は勝ちに乗じて堤の下まで至り、兵の勢いは甚だ盛んだった。諸将は漅湖へ退こう、あるいは三叉を保とうと言った。叡は怒って「そんなことがあるものか」と言い、傘・扇・麾・幢を取り寄せて堤の下に樹て、動く志のないことを示した。魏人が堤を鑿ちに来ると、叡は自らこれと争った。魏兵が退くと、堤に塁を築いて自ら固めた。
  • 叡は闘艦を起こし、高さを合肥城と同じにして四面から臨んだ。城中の人はみな哭した。守将杜元倫が城に登って戦を督したが、弩に当たって死んだ。辛巳、城が潰え、一万余級を捕らえ斬り、牛馬を万を数えるほど獲た。
  • 叡は体がもとより痩せ弱く、一度も馬に跨らなかった。戦うたびに常に板輿に乗って将士を督励し、勇気は敵なしだった。昼は賓客と応接し、夜半に起きて軍書を算し、灯を張って夜明けまで働き、衆を撫すること常に及ばぬかのようだった。ゆえに募りに応ずる士が争って帰した。宿営する所の館の建物や垣は、みな縄を張ったように整っていた。
  • 諸軍が東陵まで進むと、詔で凱旋を命じた。魏の城が近いので、諸将は追撃を恐れた。叡は輜重をみな前に行かせ、自ら小輿に乗って殿軍を務めた。魏人は叡の威名に服し、望んで迫る勇気がなく、全軍を保って還った。こうして豫州の治所を合肥に遷した。
  • 壬午、魏は尚書元遥を遣わして南して梁兵を防がせた。
  • 丁亥、廬江太守である聞喜の裴邃が魏の羊石城を落とした。庚寅、また霍丘城を落とした。六月庚子、青冀二州刺史桓和が朐山城を落とした。
  • 張恵紹と仮徐州刺史宋黒が水陸から進んで彭城へ向かい、高塚戍を囲んだ。魏の武衛将軍奚康生が兵を率いて救った。丁未、恵紹の兵は利あらず、黒は戦死した。
  • 秋七月丙寅、桓和が魏の兖州を撃って固城を落とした。
  • 戊子、徐州刺史王伯敖が魏の中山王英と陰陵で戦って敗れ、五千余人を失った。己丑、魏は定・冀・瀛・相・并・肆の六州の十万人を発して南行の兵に加えた。
  • 上は将軍角念に一万の兵で蒙山に屯させ、兖州の民を招き入れさせ、降る者が甚だ多かった。当時、将軍蕭及が固城に、桓和が孤山に屯していた。魏の邢巒は統軍樊魯に和を、別将元恒に及を、統軍畢祖朽に念を攻めさせた。壬寅、魯が孤山で和を大破し、恒が固城を落とし、祖朽が念を撃って走らせた。
  • 己酉、魏は詔で平南将軍安楽王元詮に後発の諸軍を督して淮南に赴かせた。詮は元長楽の子である。
  • 将軍藍懐恭が魏の邢巒と睢口で戦って敗れた。巒は進んで宿預を囲んだ。懐恭はまた清水の南に城を築いた。巒は平南将軍楊大眼と合わせて攻め、九月癸酉、落として懐恭を斬り、殺獲は万を数えた。張恵紹は宿預を棄て、蕭炳は淮陽を棄てて逃げ帰った。
  • 臨川王宏は帝の弟として兵を率い、器械は精良で新しく、軍容は甚だ盛んだった。北の人は百数十年来なかったことだと言った。軍が洛口に陣し、前軍が梁城を落とすと、諸将は勝ちに乗じて深入りしようとしたが、宏は懦弱な性で部署の配分も的外れだった。
  • 魏は詔で邢巒に兵を率いて淮を渡らせ、中山王英と合わせて梁城を攻めさせた。宏はこれを聞いて恐れ、諸将を召して撤退を議した。呂僧珍が「難を知って退くのも、よいことではありませんか」と言い、宏は「私もそう思う」と言った。
  • 柳惔が「わが大衆が臨む以上、どの城が服さぬでしょう。何が難でしょうか」と言った。裴邃は「この行はもとより敵を求めてのこと。何の難を避けるのですか」と言った。馬僊琕は「王はどうして亡国の言をなさるのか。天子が境内を掃って王に属せられたのです。前に進んで一尺で死ぬことはあっても、退いて一寸生きることはありません」と言った。昌義之は怒って鬚も髪も逆立て「呂僧珍は斬るべきだ。どうして百万の師が出て敵にも遭わぬうちに、風を望んで退くことがあろう。どの面下げて聖主にまみえられるか」と言った。朱僧勇と胡辛生は剣を抜いて退き、「退きたければ勝手に退かれよ。下官は前に出て死を取る」と言った。議者は退出した。
  • 僧珍は諸将に謝して「殿下は昨日から気が動き、意が軍にありません。大いに沮喪を招くのを深く恐れ、全軍を保って返そうとしたまでです」と言った。宏は急に衆議に背けず、軍を止めて進まなかった。
  • 魏人はその不甲斐なさを知り、婦人の頭巾を送って歌にした。「蕭娘と呂姥は畏れぬが、ただ合肥の韋虎を畏れる」。虎とは韋叡のことである。僧珍は嘆じて「始興(蕭憺)や呉平(蕭景)を帥として佐けていたら、どうして敵にこれほど侮られたか」と言った。
  • 裴邃に軍を分けて寿陽を取らせ、大衆は洛口に留めたいと言ったが、宏は固く聴かず、軍中に「人も馬も前へ行く者は斬る」と令した。こうして将士は人ごとに憤怒を抱いた。
  • 魏の奚康生が急ぎ楊大眼を遣わして中山王英に「梁人は梁城を落として以来、久しく進軍しない。その勢いは見て取れる。必ずわれを畏れているのだ。王が進んで洛水に拠れば、彼らは自ずと敗走する」と言わせた。英は「蕭臨川は愚かでも、その下には良将がいる。韋・裴の輩を軽んじてはならぬ。しばらく形勢を観て、鋒を交えるな」と言った。
  • 張恵紹は号令が厳明で、行く先々で独り勝った。下邳に陣すると、下邳の人で降ろうとする者が多かった。恵紹は諭して「私が城を得れば諸卿はみな国の人となる。落とせなければ、いたずらに諸卿に郷里を失わせるだけで、朝廷が民を弔う意ではない。今はひとまず安堵して業に復し、みだりに自ら苦労するな」と言った。降人はみな喜んだ。
  • 己丑の夜、洛口に暴風雨があり、軍中は驚いた。臨川王宏は数騎とともに逃げ去った。将士は宏を探しても見つからず、みな散り帰った。棄てられた甲や投げ出された戈が水陸に満ち、病者を捨て、老弱で死んだ者は五万近くに及んだ。宏は小船で江を渡り、夜に白石塁に至って城門を叩いて入れてくれと求めた。臨汝侯蕭淵猷が城に登って「百万の師が一朝にして鳥のように散った。国の存亡も測れぬ。姦人が隙に乗じて変を起こすのを恐れる。城は夜に開けられぬ」と言った。宏は答えようがなく、そこで食を縄で吊るして与えた。淵猷は蕭淵藻の弟である。
  • 当時、昌義之は梁城に陣していたが、洛口の敗北を聞いて張恵紹とともに兵を引いて退いた。
  • 魏主は詔で中山王英に勝ちに乗じて東南を平蕩させた。英は敗走する敵を追って馬頭に至って攻め落とし、城中の糧の蓄えを魏はすべて北へ運んだ。議者はみな「魏が米を北へ運ぶのは、二度と南へ向かわぬということだ」と言った。上は「そうではない。これは必ず進兵しようとして詐りの計を立てたのだ」と言い、鍾離城の修復を命じ、昌義之に戦守の備えをするよう敕した。
  • 冬十月、英が進んで鍾離を囲んだ。魏主は詔で邢巒に兵を率いて合流させた。
  • 巒が上表した。「南軍は野戦ではわが敵ではないにせよ、城を守るには余りあります。今、精鋭を尽くして鍾離を攻めても、得たところで利は幾許もなく、得られねば損は甚だ大きい。それに淮の外に孤立しており、かりに手を束ねて帰順しても、糧がなければ守り難いのを恐れます。まして士卒を殺して攻めるとは。しかも征南(英)の士卒は従軍して二季を経て疲弊しており、死傷は問わずとも知れます。勝ちに乗ずる資はあっても、用いるべき力がないのを懼れます。臣の愚見では、旧の戍を修復し、諸州を撫循して後の挙を待つべきです。江東の隙は、なくなる心配はありません」。
  • 詔が下った。「淮を渡って掎角をなすことは前に敕したとおり。どうしてなおぐずぐずしてこんな請いをするのか。速やかに進軍せよ」。
  • 巒はまた表を奉じた。「今、中山が鍾離に進軍するのは、実に解しかねます。もし得失の計として万全を顧みず、まっすぐ広陵を襲ってその不備を衝くのなら、あるいは分かりません。しかし八十日分の糧で鍾離城を取ろうというなら、臣はいまだ聞いたことがありません。彼らは堅城で自ら守り、人と戦いません。城の塹は水が深く埋められません。空しく坐して春に至れば、士卒は自ら疲弊します。もし臣をそこへ赴かせるなら、どこから糧を調達するのですか。夏に来た兵は冬服を持っておりません。かりに氷雪に遭えば、どうやって済うのですか。 臣はむしろ怯懦にして進まぬ責めを負っても、敗損して空しく行った罪は受けたくありません。鍾離は天険で、朝廷の貴顕もみな承知のはず。もし内応があるなら私の知らぬことですが、なければ必ず落とせません。臣の言を信じられるなら、どうか臣に留まることをお許しください。臣が行くのを憚って帰りたがっているとお思いなら、臣の領する兵をすべて中山に付し、その処分に任せます。臣はただ単騎で東西に随いましょう。臣はたびたび将となり、可否はかなり心得ております。臣がすでに難しと申す以上、どうして強いて遣わされるのですか」。
  • そこで巒を召し戻し、改めて鎮東将軍蕭宝寅に英と共に鍾離を囲ませた。
  • 侍中盧昶は日ごろ巒を憎み、侍中・領右衛将軍元暉とともに讒言し、御史中尉崔亮に「巒が漢中で人を掠めて奴婢とした」と弾劾させた。巒は漢中で得た美女を暉に賄賂した。暉は魏主に「巒は新たに大功があります。赦の前の小事で調べるべきではありません」と言い、魏主はもっともとして問わなかった。
  • 丁酉、義陽を囲んでいた梁兵が夜に逃げた。魏の郢州刺史婁悦が追撃して破った。
  • 十一月乙丑、大赦した。詔で右衛将軍曹景宗に諸軍二十万を都督して鍾離を救わせた。上は景宗に道人洲に陣して衆軍の集結を待って共に進むよう敕した。景宗は固く啓して先に邵陽洲の尾に拠りたいと求めたが、上は許さなかった。景宗は功を独占しようとして詔に違って進んだが、暴風が突然起こって溺れる者がかなり出、また元の陣に戻って守った。上はこれを聞いて「景宗が進まなかったのは天意だ。もし孤軍で単独に行き、城が時を得て立たなければ、必ず狼狽を招いた。今こそ賊を破るのは必定だ」と言った。

六年(507年)

  • 春正月、魏の中山王英と平東将軍楊大眼らの数十万の衆が鍾離を攻めた。鍾離城の北は淮水に阻まれている。魏人は邵陽洲の両岸に橋を架け、数百歩にわたって柵を立て、淮を跨いで道を通じた。英が南岸に拠って城を攻め、大眼が北岸に拠って城を立てて糧運を通じさせた。
  • 城中の衆はわずか三千人。昌義之が将士を督し率いて、その場その場で防いだ。魏人は車に土を載せて塹を埋め、衆に土を背負って続かせ、騎兵を厳しく背後に迫らせた。引き返す暇のない者は、そのまま土で押し込められた。ほどなく塹が満ち、衝車が突くたびに城の土が崩れた。義之は泥で補い、衝車が入っても壊せなかった。魏人は昼夜苦しく攻め、番を分けて交替し、落ちてはまた登り、退く者はなかった。一日に数十合戦い、前後の殺傷は万を数え、魏人の死者は城と同じ高さになった。
  • 二月、魏主が英を召して帰らせようとした。英は「臣は逃げた敵を殄滅する志です。ただ月の初め以来、長雨が止みません。三月に晴れれば城は必ず落とせます。少し猶予をお与えください」と上表した。魏主はまた詔を賜って「彼の地は蒸し暑い。長く留まるべきでない。勢いとして必ず取れるというのは将軍の深計だろうが、兵が長引いて力が尽きるのは朝廷の憂うるところでもある」と言った。英はなお必ず落とせると上表した。魏主は歩兵校尉范紹を英のもとへ遣わして攻略の形勢を議させた。紹は鍾離城の堅さを見て英に引き揚げるよう勧めたが、英は従わなかった。
  • 上は豫州刺史韋叡に兵を率いて鍾離を救わせ、曹景宗の節度を受けさせた。叡は合肥から直道を取り、陰陵の大沢を通った。谷や澗に行き当たるたび橋を飛ばして師を渡した。人々は魏兵の多さを恐れ、ゆっくり行くよう勧めたが、叡は「鍾離は今、穴を鑿って住み、戸板を背負って水を汲んでいる。車を馳せ卒を走らせても後れるのを恐れるのに、まして緩めてよいものか。魏人はすでにわが腹の中にある。卿らは憂えるな」と言った。旬日で邵陽に至った。
  • 上はあらかじめ曹景宗に「韋叡は卿の郷里の名望家だ。よく敬うがよい」と敕していた。景宗は叡に会って甚だ謹んで礼を尽くした。上はこれを聞いて「二将が和した。師は必ず成る」と言った。
  • 景宗と叡は進んで邵陽洲に陣した。叡は景宗の営の前二十里に、夜のうちに長い塹を掘り鹿角を樹て、洲を截って城とした。魏の城から百余歩の距離である。南梁太守馮道根は馬を走らせて土地を測り、馬の足で必要な工数を計算した。夜明けには営が立った。魏の中山王英は大いに驚き、杖で地を打って「これは何という神業か」と言った。
  • 景宗らの器も甲も精良で新しく、軍容は甚だ盛んで、魏人は望み見て気を奪われた。景宗は城中が危ぶみ恐れているのを慮り、軍士を募って言文達らにひそかに水底を潜らせ、敕を携えて城に入らせた。城中は初めて外の援軍を知り、勇気は百倍した。
  • 楊大眼は勇が軍中に冠たる者で、一万余騎を率いて戦いに来た。向かうところみな靡いた。叡は車を結んで陣を作った。大眼が騎を集めて囲むと、叡は強弩二千を一斉に放った。甲を洞し中を貫いて殺傷は甚だ多く、矢が大眼の右腕を貫き、大眼は退き走った。
  • 翌朝、英が自ら衆を率いて戦いに来た。叡は白木の輿に乗り、白い角の如意を執って軍を指揮した。一日に数合し、英はそこで退いた。魏軍はまた夜に城を攻めに来、飛ぶ矢が雨のように集まった。叡の子の韋黯が城を下りて矢を避けるよう請うたが、叡は許さなかった。軍中が驚くと、叡は城上から声を厲しくして叱り、そこで落ち着いた。
  • 牧人が淮の北へ渡って草を刈るたび、みな楊大眼に掠められた。曹景宗は勇敢な者七千余人を募り、大眼の城の南数里に塁を築いた。大眼が攻めに来たが、景宗が撃退した。塁ができると別将趙草に守らせた。掠奪に来る者はみな草に捕らえられた。これ以後、ようやく自由に草を刈り牧ができるようになった。
  • 上は景宗らにあらかじめ高い艦を装備させ、魏の橋と同じ高さにして火攻めの計とするよう命じ、景宗と叡にそれぞれ一つずつ橋を攻めさせた。叡が南、景宗が北を攻めた。
  • 三月、淮水が急に六、七尺増した。叡は馮道根と廬江太守裴邃、秦郡太守李文釗らに闘艦に乗って競って発せさせ、魏の洲上の軍を撃ってことごとく殲滅した。別に小船に草を載せ膏を注ぎ、そのままその橋を焼いた。風が怒り火が盛んで、煙と塵が空を暗くした。決死の士が柵を抜き橋を斫り、水もまた速く流れ、たちまちのうちに橋も柵も尽きた。道根らはみな自ら格闘し、軍人は勇を奮って叫び声が天地を動かし、一人が百人に当たらぬ者はなかった。
  • 魏軍は大潰した。英は橋が絶たれたのを見て身一つで城を棄てて逃げ、大眼もまた営を焼いて去った。諸塁は次々と土崩し、みな器と甲を棄て、争って水に投じて死ぬ者が十余万、斬られた首も同じほどだった。
  • 叡が昌義之に報せると、義之は悲しみと喜びで答える暇もなく、ただ「更生、更生」と叫んだ。諸軍が敗走する敵を濊水まで追い、英は単騎で梁城に入った。淮沿いの百余里に屍が枕を並べ、生け捕りは五万人、収めた資糧と器械は山と積み、牛馬驢騾は数えきれなかった。
  • 義之は景宗と叡に恩義を感じ、二人を招いて会し、銭二十万を設けて賭けをした。景宗は投げて雉を出し、叡はゆっくり投げて盧(最上の目)を出したが、すぐ一つの采を裏返して「妙なことだ」と言い、そのまま塞(劣った目)にした。景宗が諸帥と先を争って勝報を告げたのに、叡だけは後に控えた。世はことにこれを賢しとした。詔で景宗と叡の爵邑を増し、義之らはそれぞれ差をつけて賞を受けた。
  • 秋八月、魏の有司が「中山王英は経算を誤り、斉王蕭宝寅らは橋を守り固めなかった。みな極刑に処すべし」と奏した。己亥、詔で英と宝寅を死を免じて除名し庶民とし、楊大眼を営州に移して兵とした。中護軍李崇を征南将軍・揚州刺史とした。

七年(508年)

  • 秋九月庚子、魏の郢州司馬彭珍らが魏に叛き、ひそかに梁兵を義陽に導いた。三関の戍主侯登らが城を挙げて降り、郢州刺史婁悦は城に籠って自ら守った。魏は中山王英を都督南征諸軍事として歩騎三万で汝南に出て救わせた。
  • 冬十月、魏の懸瓠の軍主白早生が豫州刺史司馬悦を殺し、平北将軍を自号して司州刺史馬僊琕に援けを求めた。当時、荊州刺史安成王蕭秀が都督だった。僊琕が籤で応援を求めると、参佐はみな中央の返答を待つべきだと言った。秀は「彼は我らを頼りにして生き延びようとしている。援けるのは速やかであるべきだ。敕を待つのは古来、急を要する場合のやり方ではない」と言い、ただちに兵を送った。上もまた僊琕に早生を救うよう詔した。僊琕は進んで楚王城に陣し、副将斉苟児に二千の兵を与えて懸瓠の守りを助けさせた。詔で早生を司州刺史とした。
  • 魏は尚書邢巒に豫州の事を行わせ、兵を率いて白早生を撃たせた。魏主が「卿の言うところ、早生は逃げるか守るか、いつ平らげられるか」と問うた。巒は「早生に深謀大智があるのではありません。まさに司馬悦の暴虐で、衆の怒りに乗じて乱を作しただけです。民は凶威に迫られてやむなく従っております。かりに梁兵が城に入っても、水路が通じず糧運が続かねば、やはり捕らえられるだけ。早生は梁の援けを得て利欲に溺れ、必ず守って逃げますまい。王師をもって臨めば士民は必ず翻然と帰順します。今年のうちに首を京師に伝えましょう」と答えた。
  • 魏主は喜んで巒を先発させ、中山王英に続かせた。巒は騎八百を率いて道を倍し兼行して五日で鮑口に至った。丙子、早生が大将胡孝智に七千の兵を与え、城から二百里の地で迎え撃たせた。巒は奮撃して大破し、勝ちに乗じて長駆して懸瓠に至った。早生が城を出て迎え戦い、これも破り、そのまま汝水を渡ってその城を囲んだ。詔で巒に都督南討諸軍事を加えた。
  • 丁丑、魏の鎮東参軍成景雋が宿預の戍主厳仲賢を殺して城を挙げて降った。当時、魏の郢・豫の二州は懸瓠以南から安陸まで諸城がみな陥落し、ただ義陽一城だけが魏のために堅守していた。
  • 巒は田益宗を率いて群蛮を率いて魏に付かせ、魏は東豫州刺史とした。上は車騎大将軍・開府儀同三司・五千戸の郡公で招いたが、益宗は従わなかった。
  • 十一月庚寅、魏は安東将軍楊椿を遣わして四万の兵で宿豫を攻めさせた。
  • 魏主は邢巒のたびたびの勝報を聞き、中山王英に義陽へ向かうよう命じた。英は衆が少ないとしてしきりに上表して増兵を請うたが許されなかった。英は懸瓠に至り、そのまま巒とともに攻めた。十二月己未、斉苟児らが門を開いて降り、白早生とその党数十人を斬った。
  • 英はそこで兵を率いて義陽へ向かった。寧朔将軍張道凝が先に楚王城に屯していたが、癸亥、城を棄てて逃げた。英が追撃して斬った。
  • 魏の義陽太守である狄道の辛祥が婁悦とともに義陽を守った。将軍胡武城と陶平虜が攻めると、祥は夜に出てその営を襲い、平虜を捕らえ武城を斬った。これで州境は全うされた。功を論じて賞すべきだったが、婁悦は功が自分より上に出るのを恥じて執政に讒言し、賞はついに行われなかった。

八年(509年)

  • 春正月、魏の中山王英が義陽に至り、三関を取ろうとして、まず策を立てた。「三関は左右の手のように相俟っている。一関を落とせば二関は攻めるまでもなく破れる。難きを攻めるより易きを攻めるにしくはない。まず東関を攻めるべきだ」。また敵が東に力を併せるのを恐れ、長史李華に五統を率いて西関へ向かわせ、その兵力を分けさせ、自ら諸軍を督して東関に向かった。
  • これに先立ち、馬僊琕は雲騎将軍馬広を長薄に、軍主胡文超を松峴に屯させていた。丙申、英が長薄に至り、戍の長薄は潰えた。馬広は武陽に逃げ込み、英は進んで囲んだ。上は冠軍将軍彭甕生と驃騎将軍徐元季に兵を与えて武陽を援けさせた。英はわざと放って城に入らせ、「私が見るにこの城の形勢は取りやすい」と言った。甕生らが入ってしまうと、英は兵を促して攻め、六日で落とし、三将と士卒七千余人を捕らえた。
  • 進んで広峴を攻めると、太子左衛率李元履は城を棄てて逃げた。また西関を攻めると、馬僊琕もまた城を棄てて逃げた。
  • 上は南郡太守韋叡に兵を率いて僊琕を救わせた。叡は安陸に至って城を二丈余り増築し、さらに大きな塹を開き高い楼を起こした。衆はかなりその怯懦を譏った。叡は「そうではない。将たる者、怯えるべき時がある。ひたすら勇であってはならぬ」と言った。中山王英は急ぎ馬僊琕を追って邵陽の恥を雪ごうとしていたが、叡が来たと聞いて退いた。上もまた詔して兵を罷めた。
  • はじめ魏主は中書舎人である鮦陽の董紹を遣わして叛いた城を慰労させたが、白早生が襲って囚え、建康に送った。魏主は懸瓠を落としてから、斉苟児ら四将のうち二人を分けて遣わし、揚州に敕して移牒を作らせ、紹および司馬悦の首と交換させようとした。移牒がまだ届かぬうちに、領軍将軍呂僧珍が紹と語ってその文と義を愛し、上に言上した。
  • 上は主書霍霊超を遣わして紹に「今、卿を還らせ、卿に両家の好を通じさせよう。彼此ともに民を休ませるのは、よいことではないか」と言わせ、そのついでに召見して衣物を賜り、舎人周捨に慰労させた。あわせて「戦争が長年続き、民も物も塗炭に落ちている。私はそれゆえ先に口を開くのを恥じぬ。魏朝と通好しようとして、近ごろも書を送ったが、まったく返事がない。卿はこの意を詳しく申し伝えよ。今、伝詔の霍霊秀に卿を国まで送らせる。よい知らせを待っている」と言った。
  • また紹に言った。「卿は自分がなぜ死なずに済んだか分かるか。今、卿を得たのは天意だ。そもそも君を立てるのは民のためである。およそ民の上に在る者が、これを思わずにおれようか。もし好を通じたいなら、今、宿預をあちらに返そう。あちらは漢中を返すべきだ」。紹は魏に還ってこれを伝えたが、魏主は従わなかった。