通鑑紀事本末魏、洛陽に遷都する(魏遷洛陽)
北魏の孝文帝が、寒冷な平城から洛陽へ都を移すため、南伐を口実に大軍を動かして遷都を認めさせ、続いて胡服・北語を禁じ、姓を拓跋から元に改めるなど、徹底した漢化政策を進めた経緯。永明十一年(493年)から建武四年(497年)まで。任城王元澄・李冲・韓顕宗らが帝を助け、旧俗を惜しむ太子元恂は廃され、穆泰・陸叡・元丕らの反抗も澄によって断たれた。
斉武帝永明十一年(493年)
- 魏主(孝文帝)は平城の地が寒く、六月に雨や雪が降り、風と砂が常に舞い上がるので、洛陽への遷都を望んだ。だが群臣が従わぬのを恐れ、そこで大挙して斉を伐つ議を出し、それで衆を脅そうとした。明堂の右个で斎戒し、太常卿王諶に筮わせると「革」の卦が出た。帝は「湯王・武王の革命は天に順い人に応じたもの。これ以上の吉があろうか」と言い、群臣は誰も口を開けなかった。
- 尚書任城王元澄が言った。「陛下は代々の栄光を継ぎ、帝として中土に君臨しておられます。今、師を出してまだ服さぬ者を征するのに、湯武革命の象を得たとしても、全き吉とは申せません」。帝は声を厲しくして「繇に『大人虎変す』とある。なぜ吉でないと言うのか」と言った。澄は「陛下が竜のごとく興られてすでに久しい。今さらどうして虎変なのですか」と言った。帝は色を変えて「社稷はわが社稷だ。任城は衆を沮もうというのか」と言った。澄は「社稷は陛下のものであっても、臣は社稷の臣です。危うきを知って言わずにおれましょうか」と答えた。帝はしばらくして怒りを解き、「それぞれ志を言うのだ。何の差し障りがあろう」と言った。
- 宮に帰ると澄を召して引見し、先んじて言った。「先ほどの革の卦を、あらためて卿と論じよう。明堂での憤りは、人々が競って言い立ててわが大計を沮むのを恐れ、声と色で文武を威したまでだ。朕の意を察してくれ」。そして人を退けて澄に言った。「今日の挙はまことに容易ではない。だが国家は朔北の地に興り、平城に移り住んだ。ここは武を用いる地であって文治のできる地ではない。今、風を移し俗を易えようとしても、その道はまことに難しい。朕はこれに乗じて中原に宅を遷したい。卿はどう思うか」。澄は「陛下が中土に宅を卜して四海を経略なさろうというのは、周と漢が興隆した所以です」と答えた。帝が「北の人は慣れに従い故郷を恋うる。必ず驚き騒ぐだろう。どうしたものか」と言うと、澄は「非常の事はもとより常人の及ぶところではありません。陛下が聖心から断ぜられれば、彼らに何ができましょう」と答えた。帝は「任城はわが子房(張良)だ」と言った。
- 六月丙戌、河橋を作らせて師を渡そうとした。秘書監盧淵が上表して「前代の承平の主は、自ら六軍を率いて戦陣の間で勝敗を決したことはありません。勝っても武とするに足らず、勝てねば威重を損なうからではありませんか。昔、魏武は疲れた卒一万で袁紹を破り、謝玄は歩兵三千で苻秦を摧きました。勝敗の変は須臾に決まり、衆寡にはよりません」と述べた。
- 詔で答えた。「承平の主が自ら戎事に当たらなかったのは、あるいは同軌(天下統一)で敵がないため、あるいは儒弱で安逸を貪ったためだ。今、同軌と言えばそうではなく、懦弱に比べれば恥ずべきこと。かりに王者が自ら戎に当たるべきでないなら、先王が革輅を制したのは何のためか。魏武の勝ちは順に拠ったからであり、苻氏の敗けは政を失ったからだ。どうして寡が必ず衆に勝ち、弱が必ず強を制すると言えようか」。
- 丁未、魏主が講武し、尚書李冲に武官の選任を掌らせた。
- 秋九月戊辰、魏主が黄河を渡り、庚午、洛陽に至った。
- 魏主が平城を発ってから洛陽に至るまで、長雨が止まなかった。丙子、諸軍に前進を詔した。丁丑、帝は戎服で鞭を執り馬に乗って出た。群臣が馬前で額を地につけた。帝は「廟算はすでに定まり、大軍はまさに進む。諸公はさらに何を言おうというのか」と言った。尚書李冲らが「今回の挙は天下が願わぬところで、ただ陛下だけが望まれるもの。臣どもは陛下が独り行かれて何をなさるのか分かりません。臣らには思いはあっても言葉がありません。あえて死をもって請います」と言った。
- 帝は激怒して「われは天下を経営して統一を期しているのに、卿ら儒生はたびたび大計を疑う。斧鉞には常の法がある。卿ら、二度と言うな」と言い、馬に鞭打って出ようとした。そこで安定王元休らがそろって懇ろに泣いて諫めた。
- 帝はそこで群臣に諭した。「今回の発起は小さくない。動いて成果がなければ、何をもって後世に示そう。朕は代々幽朔に居してきたが、南して中土に遷りたい。もし南伐せぬなら、ここに遷都する。王公はどう思うか。遷りたい者は左、望まぬ者は右へ」。安定王休らが連れ立って右に行った。南安王元楨が進み出て「大功を成す者は衆に謀らぬもの。今、陛下が南伐の謀をやめて洛邑に遷都なさるなら、これぞ臣らの願い、蒼生の幸いです」と言い、群臣はみな万歳を唱えた。当時、旧来の人々は内地への移住を望まなかったが、南伐を憚って誰も口に出せなかった。こうして遷都の計が定まった。
- 李冲が上に言った。「陛下が洛邑に鼎を定められるにしても、宗廟も宮室も馬上の旅で待てるものではありません。しばらく代都にお還りになり、群臣が経営を終えてから文物を備え、和鸞を鳴らして臨まれますよう」。帝は「朕は州郡を巡省し、鄴に至って少し留まり、春の初めにはすぐ還る。北へ帰るのはまだ適当でない」と言った。
- そこで任城王澄を平城に帰らせ、留守の百官に遷都の事を諭させ、「今日こそまことに『革』というものだ。王よ、励め」と言った。
- 帝は群臣の意が分かれているので、衛尉卿・鎮南将軍于烈に「卿の意はどうか」と問うた。烈は「陛下の聖略は淵深遠大で、愚かで浅い者の測るところではありません。心を隠さずに申せば、遷都を喜ぶ者と旧を恋う者がちょうど半々です」と答えた。帝は「卿が異を唱えぬのは同意ということだ。言わぬ益に深く感じ入る」と言い、平城に帰し鎮させて「留台の庶政は一切そなたに委ねる」と言った。
- 冬十月戊寅朔、魏主が金墉城に行き、穆亮を召して尚書李冲・将作大匠董爾とともに洛都を経営させた。己卯、河南城に行き、乙酉、豫州に行き、癸巳、石済に泊まった。乙未、魏は戒厳を解き、滑台城の東に壇を設けて行廟に遷都の意を告げ、大赦して滑台の宮を起こした。
- 任城王澄が平城に至った。衆は初めて遷都を聞いて驚愕せぬ者はなかったが、澄が古今を引いてゆっくり諭したので、衆はようやく納得し服した。澄が滑台に戻って報告すると、魏主は喜んで「任城がいなければ朕の事は成らなかった」と言った。
- 乙巳、魏主が安定王休に従官を率いさせ、平城の家族を迎えに行かせた。
- 魏主は鄴の西に宮を築き、冬十一月癸亥、そこに移り住んだ。
明帝建武元年(494年)
- 春正月乙亥、魏主が洛陽の西宮に行った。中書侍郎韓顕宗が上書して四事を陳べた。 その一。「ひそかに聞くに、御駕は今夏、三斉を巡らず中山に行幸されるとのこと。昨冬、御駕が鄴に留まられたときは農閑期でしたが、それでも家々が供奉して労費に堪えませんでした。まして今は蚕と麦の繁忙期。どうして命に堪えられましょう。それに六軍が暑さを冒せば疫病の生ずるのを恐れます。臣は早く北京にお還りいただき、諸州の供応の苦しみを省き、洛都の営繕の役を成し遂げていただきたく存じます」。 その二。「洛陽の宮殿の旧基はみな魏の明帝が造ったもので、前世すでにその奢りが譏られました。今の営繕は裁ち減らすべきです。また近ごろこの都では富室が競って邸宅の立派さを張り合っております。遷都を機に制度を定め、あわせて大路を広く整え、溝渠を通じさせるべきです」。 その三。「陛下が洛陽にお還りの際、従う騎を軽くされました。王者は宮門の内でさえ警蹕を行うもの。まして山河を渡り歩かれるのに、三思なさらぬでよいのですか」。 その四。「陛下は耳に法音を聴き、目に古典を翫び、口では百官に応じ、心には万機を憂え、日が傾いてから食し、夜半に寝まれ、そのうえ孝思の至りは時とともに深く、文章の業は日々篇巻を成しております。叡明の用いるところとはいえ、煩わしきに過ぎましょう。神を惜しみ性を養い、無疆の祚を保つ道ではありません。伏して願わくは陛下、拱手して契を司られれば天下は治まります」。帝はかなりこれを容れた。顕宗は韓麒麟の子である。
- 顕宗はまた上言した。「州郡の貢察には秀才・孝廉の名ばかりで実がありません。朝廷はただその家柄を調べるだけで、推挙の責任を問いません。それならいっそ別に家柄を貢がせて士人を序列すればよく、なぜ秀才・孝廉の名を借りるのですか。そもそも家柄とはその父祖の遺した功業であって、皇家に何の益がありましょう。時に益あるのは賢才のみ。才さえあれば、屠殺や釣りをする者、奴や捕虜であっても、聖王は恥じずに臣とします。才がなければ、三后の子孫であっても皁隷に落ちるのです。議者はあるいは『今の世に格別の才はない。門地から士を取るにしくはない』と言いますが、これも誤りです。世に周公・召公がいないからといって宰相を廃せましょうか。ただその一寸の長所、一銖の重みを比べて先に登用すれば、賢才は漏れません。 また刑罰の要は明らかで妥当なことにあり、重いことにはありません。もし罪ある者を逃さなければ、笞の軽い罰でも人はあえて犯しません。僥倖が容れられるなら、三族を誅する厳罰でも懲らしめにはなりません。今、内外の官は当代の名を得ようとして、競って厳酷を無私と称し、互いに励まし合って風俗となっております。陛下は九重の内にあって人を赤子のように見ておられるのに、百司は万務の任を分けて下を仇讎のように遇する。これでは堯・舜は一人だけで桀・紂が千百いることになります。和気が至らぬのはこれによります。百僚に敕を示し、元元(万民)の命に恵みを垂れられますよう。 また昔、周は洛邑に居してもなお宗周を存し、漢が東都に遷っても京兆に尹を置きました。春秋の義では宗廟があれば都、なければ邑と言います。まして代京は宗廟と山陵の託されたところ、王業の基です。神郷福地たること、まことに遥かなものです。今それを郡国と同じ扱いにされるのは、臣はひそかに心安からず思います。畿を建て尹を置き、故事どおりにして本を崇め旧を重んじ、万葉に光を示されるべきです。 また古は四民が住まいを分けました。その業を専らにし志を定めさせるためです。太祖道武皇帝は基を創め乱を撥うのに日も足りぬ有様でしたが、それでも士と庶を分け、雑居させず、工人・技人・屠者・酒売りにそれぞれ住む所を定めました。ただ禁令を設けなかったので、久しくして入り交じりました。今、洛邑の居住の制は、もっぱら官位によって並べ、族類を分けないと聞きます。官位は定まったものではなく、朝に栄えて夕に衰えれば、衣冠の士と皁隷が日ならずして同居することになります。かりに一つの里の内で、あるいは歌舞を習い、あるいは詩書を講ずるとして、子供らを放して行きたい所へ行かせれば、必ず歌舞を捨てて詩書に就きはしません。とすれば、工技の家に士人の風儀と礼を習わせるのは百年かけても難しく、士人の子が工技の物腰を真似るのは一朝にして成ります。ゆえに仲尼は仁に居る里の美を称え、孟母は三たび移る訓えに努めたのです。これこそ風俗の源、察せぬわけにいきません。朝廷は人士を選ぶたび一度の婚姻、一度の任官まで比べて昇降を定めるほど細かいのに、地を測って民を住まわせるとなると清濁が甍を連ねる。何と大まかなことでしょう。今、遷都の初めですべて公の土地です。工技を分けるのは一言で済みます。何を疑って盛美を欠かれるのですか。 また南人が昔、淮北の地を有していたころ、中華になぞらえて僑郡・僑県を置きました。聖化に帰付してからもそのまま改めておりません。名と実が入り交じり、文書も判じがたい。地理の旧名によって一律に改めるべきです。小さいものは併合し、大きいものは分置する。また中州の郡県で昔、戸が少なくて併合されたものも、今は民口が増えたのですから旧に復せます。 また人に君たる者は天下を家とするのですから、私するところがあってはなりません。倉庫の蓄えは軍国の用に供するもので、功徳のある者でなければ賜与すべきではありません。朝廷の貴顕は受ける禄も軽くないのに、近ごろの下賜はいつも千を単位としています。それを分けて鰥寡孤独の民に賜れば、救われる者は実に多いでしょう。今、ただ親近の臣に与えるのは、『急を周うて富を継がず』という道理ではありますまい」。帝は奏を見て甚だ善しとした。
- 二月壬寅、魏主が北巡し、癸卯、渡河した。三月壬申、平城に至り、群臣にあらためて遷都の利害を論じさせ、それぞれ志を言わせた。
- 燕州刺史穆羆が「今、四方はまだ定まらず、遷都すべきではありません。それに征伐に馬がなければ、どうして勝てましょう」と言った。帝は「厩と牧は代にある。馬がないことを何の心配があろう。今、代は恒山の北、九州の外にある。帝王の都ではない」と言った。尚書于果は「臣は代の地が伊・洛の美に勝ると思うのではありません。ただ先帝以来久しくここに居して百姓が安んじております。一朝にして南に遷れば衆情は喜びません」と言った。平陽公元丕は「遷都は大事です。卜筮に問うべきです」と言った。
- 帝は答えた。「昔、周公・召公は聖賢だからこそ宅を卜せた。今、その人はない。卜して何の益があろう。それに卜は疑いを決するもの、疑わぬなら何を卜すか。黄帝が卜して亀甲が焦げたとき、天老は吉と言い、黄帝は従った。とすれば至人が未然を知るのは亀より確かなのだ。王者は四海を家とする。南であれ北であれ、常などあろうか。朕の遠祖は代々北の荒に居し、平文皇帝が初めて東木根山に都し、昭成皇帝が改めて盛楽を営み、道武皇帝が平城に遷った。朕は幸いに残虐に勝つ運に当たっている。なぜ独り遷れぬというのか」。群臣はもう何も言えなかった。羆は穆寿の孫、果は于烈の弟である。
- 癸酉、魏主が朝堂に臨み、遷る者と留まる者を配分した。
- 冬十月戊申、魏主が自ら太廟に告げ、高陽王元雍と于烈に神主を洛陽に遷し奉らせた。辛亥、平城を発った。
- 十一月、魏主が洛陽に至り、人物の品等を清め正そうとして、尚書崔亮に吏部郎を兼ねさせた。
- 十二月、魏主は旧習を改めようとし、壬寅、詔で士民の胡服を禁じたが、国人の多くは喜ばなかった。
- 通直散騎常侍劉芳は劉纘の族弟で、給事黄門侍郎である太原の郭祚とともに文学の才で帝に親しく礼遇され、しばしば引いて講論させ、ひそかに政事を議した。大臣や貴戚はみな自分たちが疎んじられていると思い、不平の色を浮かべた。帝は給事黄門侍郎陸凱に「至尊はただ広く古事を知り、前世の法式を尋ねられたいだけだ。ついに彼らに親しんでそなたらを疎んずるのではない」と私に諭させ、衆の心はようやく解けた。
- 戊申、詔で代の民で洛陽に遷った者に租賦を三年免じた。
二年(495年)
- 夏五月、魏主は北の俗を変えようとして群臣を引見し、「卿らは朕に遠く商・周を追わせたいのか。それとも漢・晉に及ばずともよいというのか」と問うた。咸陽王元禧が「群臣は陛下が前王を越えられることを願っております」と答えた。帝は「では風を変え俗を易えるべきか、旧に因って守るべきか」と問い、「聖政が日々新たになることを願います」と答えた。帝は「一身にとどめるのか、子孫に伝えたいのか」と問い、「百世に伝えられますよう」と答えた。帝は「ならば必ず改めるべきだ。卿らは違えてはならぬ」と言い、「上が令すれば下は従います。誰があえて違えましょう」と答えた。
- 帝は言った。「名が正しくなければ言は順わず、礼楽も興せぬ。今、北語を断って一律に正音(中国語)に従わせたい。三十以上の者は習性が長く、にわかには改められまいが、三十以下で現に朝廷にある者は、なまりのまま話すのを許さぬ。故意にする者は降格せよ。それぞれ深く戒めよ。王公卿士はどう思うか」。「まことに聖旨のとおりです」と答えた。
- 帝は言った。「朕はかつて李冲とこれを論じたが、冲は『四方の言葉のどれが正しいと分かりましょう。帝者の言えばそれが正音です』と言った。冲のこの言は罪、死に当たる」。そして冲を顧みて「卿は社稷に負い目がある。御史に引き下ろさせるべきだ」と言い、冲は冠を脱いで頓首して謝した。
- また留守の官を責めて「昨日、婦女がなお夾領で小袖の服を着ているのを見た。卿らはなぜ前の詔に従わぬのか」と言い、みな謝罪した。帝は「朕の言が正しくないなら、卿らは朝廷で争うべきだ。どうして入っては旨に順い、退いては従わぬのか」と言った。
- 六月己亥、詔で朝廷において北俗の言葉を用いてはならぬとし、違う者は現職を免ずることとした。
- 戊午、魏は長い尺と大きい斗に改め、その法は漢の制に依った。
- 秋八月、国子学・太学・四門小学を洛陽に立てた。
- 九月庚午、魏の六宮の文武がすべて洛陽に還った。
- 冬十二月甲子、魏王が光極堂で群臣を引見し、冠と服を頒ち賜った。
三年(496年)
- 春正月、魏主が詔を下した。「北人は土を『拓』、后を『跋』と言う。魏の先は黄帝から出、土徳をもって王たるゆえに拓跋氏とした。そもそも土は黄中の色、黄は物の元である。姓を元氏と改めるべきだ」。諸功臣の旧族で代から来た者の姓が重複したものもみな改めた。
- 秋七月、魏の太子元恂は学を好まず、体はもとより肥え大きく、河南の暑さに苦しみ、常に北へ帰りたいと思っていた。魏主が衣冠を賜っても、恂はいつもひそかに胡服を着ていた。
- 八月戊戌、恂はひそかに牧場の馬を召して軽騎で平城へ逃げる謀を巡らせた。尚書陸琇が帝に啓した。帝は恂を引見してその罪を数え、百余下も杖で打ち、城の西に囚え、庶人に廃した。
- はじめ魏主が洛陽に南遷したとき、親しく任じた者の多くは中州の儒士で、宗室と代の人はしばしば喜ばなかった。穆泰が陸叡と乱を起こす謀を立てた。
- 帝は任城王澄を凝閑堂に召して言った。「穆泰が不軌を謀り宗室を煽り誘っている。もし本当にそうなら、遷都したばかりで北の人は旧を恋うており、南北が入り乱れて朕の洛陽は立たなくなる。これは国家の大事で、卿でなければ処理できぬ。卿は病んでいるが、無理をして私のために北へ行き、その勢いをよく見よ。もし微弱ならまっすぐ行って捕らえよ。すでに強盛なら、承制して并州・肆州の兵を発して撃て」。澄は「泰らが愚かに惑うのは、まさに旧を恋うてこの計を立てただけで、深謀遠慮があるのではありません。臣は駑鈍で怯えておりますが、制するには足ります。陛下、ご心配なさいますな。犬馬の病があっても、どうして辞退できましょう」と答えた。帝は笑って「任城が行ってくれるなら、朕は何を憂えよう」と言い、節と銅虎符・竹使符と御仗の左右を授け、そのまま恒州の事を行わせた。
- 雁門まで来たとき、雁門太守が夜に「泰はすでに兵を率いて西へ陽平公のもとへ向かった」と告げた。澄はただちに進発を命じた。右丞孟斌が「事はまだ測れません。敕どおり并州・肆州の兵を召してからゆっくり進むべきです」と言った。澄は「泰が乱を謀った以上、堅固な城に拠るべきなのに、逆に陽平を迎えに行くとは。その為すところを推せば勢いは弱いのだろう。泰が防ぎもせぬのに理由なく兵を発するのは適当でない。ただ速やかに行って鎮すれば、民心は自ずと定まる」と言い、道を倍して兼行し、先に治書侍御史李煥を単騎で代に入らせた。
- 不意を衝かれ、煥が泰の一党に諭して禍福を示すと、みな泰のために働こうとしなくなった。泰は計の立てようがなく、麾下数百人を率いて煥を攻めたが落とせず、城の西へ逃げ出したところを追って捕らえた。澄もまもなく到着し、党与を徹底的に追及して陸叡ら百余人を捕らえてみな獄に繋いだ。民間は静まった。
- 澄が詳しい状況を上表すると、帝は喜んで公卿を召してその表を示し、「任城は社稷の臣と言うべきだ。その獄辞を見れば、皋陶といえどもこれに勝るものか」と言い、咸陽王禧らを顧みて「お前たちがこれに当たっても処理できまい」と言った。
四年(497年)
- 春二月癸酉、魏主が平城に至り、穆泰と陸叡の一党を引見して問うたが、一人として冤罪を訴える者がなかった。当時の人はみな任城王澄の明察に服した。穆泰とその親党はみな誅され、陸叡には獄で死を賜り、その妻子は赦して遼西に移して民とした。
- はじめ魏主が遷都して旧俗を変えたのを、并州刺史新興公元丕はみな喜ばなかった。帝は宗室の古老なので迫らず、ただ大きな道理を諭し示して異同を生じさせぬようにしただけだった。朝臣がみな衣冠を変えて朱衣が座に満ちても、丕だけがその中で胡服のままだった。晩年になってようやく冠と帯を加えたが、容儀を修めることはできず、帝も強いなかった。
- 太子恂が平城から洛陽に遷ろうとしたとき、元隆が穆泰らとひそかに恂を留め、それに乗じて兵を挙げて関を断ち、陘北に拠る謀を立てていた。丕は并州にあり、隆らはその謀を告げた。丕は外向きには成らぬことを慮り、口では難じたが心ではかなり同意していた。事が発覚すると、丕は帝に従って平城に至った。帝は泰らを推問するたび、いつも丕を座らせて見せた。
- 有司が元業・元隆・元超の罪は族滅に当たり、丕も連座すべきだと奏した。帝は丕が常々「死を賜らぬ」との詔を受けていたので、死を免じて民とし、その後妻と二子を留めて太原に居させ、隆と超の同母弟の乙升を殺し、その他の子は敦煌に移した。
- はじめ丕と陸叡は僕射李冲・領軍于烈とともに「死せしめず」の詔を受けていた。叡が誅されると、帝は冲と烈に詔を賜った。「叡の反逆の志は自ら幽冥に負うもの。誓いに違えたのは彼であって朕ではない。反逆は他の罪と異なる以上、憐れみ恕したくともどうにもならぬ。それでも前言を忘れず、自死を許し、別の府で妻子の誅を免じた。元丕の二子と一弟は賊の端を首謀し、連座して死に当たるが、特に恕して民とした。朕はもとより終わりを全うするつもりだったのに、彼らが自ら棄て絶った。心に違い念に乖くこと、何と悲しいことか。ゆえにこう別に示す。怪しむには及ばぬ。謀反の外については、白日のごとく明らかである」。冲も烈もみな上表して謝した。
史論(臣光曰)
- そもそも爵禄の廃置、殺生と与奪は、人君が臣を御する大権である。ゆえに先王の制では、親故・賢能・功貴・勤賓であっても、罪があればただちに赦しはせず、必ず槐棘の下で議した。赦すべきは赦し、宥すべきは宥し、刑すべきは刑し、殺すべきは殺す。軽重は情を見、寛猛は時に随う。ゆえに君は恩を施しながら威を失わず、臣は罪を免れながらそれを恃むことがなかった。魏はそうではなく、勲貴の臣にしばしば前もって死せしめぬと約した。彼らを驕らせて罪に触れさせ、そのうえで殺すのである。これは信ならざる令で誘って死地に陥れるものだ。刑政の失で、これに勝るものはない。