通鑑紀事本末蕭道成、宋を簒奪する(蕭道成簒宋)
淮陰の一鎮将だった蕭道成が、明帝の兄弟誅殺と後廃帝(蒼梧王)の暴虐に乗じて台頭し、桂陽王劉休範の乱と建平王劉景素の乱を鎮め、蒼梧王の弑逆のあと袁粲・劉秉を石頭に討ち、沈攸之の挙兵を柳世隆・蕭賾らに破らせて宋の禅譲を受けるまで。泰始三年(467年)から建元元年(479年)までの十三年間で、褚淵・王倹が簒奪を助け、袁粲は節に死んだ。
年表(13件)
- 宋明帝
- 泰始三年467年蕭道成が淮陰に鎮し、豪傑を養って賓客が集まり始める
- (泰始六年前後)道成を南兖州刺史とし、阮佃夫・王道隆ら側近が権を専らにする
- 六年470年道成の異相の噂に明帝が疑い、荀伯玉の計で淮陰に戻される
- 七年471年明帝が休祐・休仁・休若を次々に殺し、道成を召して入朝させる
- 泰豫元年472年明帝が崩じ、蒼梧王が十歳で即位して袁粲・褚淵が政を執る
- 蒼梧王
- 元徽元年473年桂陽王休範が用いられぬのを恨み、許公輿と挙兵を謀る
- 二年474年休範が反し、道成が新亭で防いで張敬児が休範を斬る
- 三年475年建平王景素に人望が集まり、王季符の告発で開府の位を奪われる
- 四年476年景素が京口に拠って挙兵し、任農夫らに攻められて斬られる
- 順帝
- 昇明元年477年楊玉夫らが蒼梧王を弑し、道成が安成王準を立てて政を握る
- 昇明元年つづき袁粲・劉秉が石頭で謀って敗死し、沈攸之が郢城を攻めて滞る
- 二年478年沈攸之の軍が崩れて自尽し、道成は太傅・黄鉞を加えられる
- 斉高帝
- 建元元年479年道成が斉公から斉王に進み、順帝の禅譲を受けて即位する
宋明帝泰始三年(467年)
- 秋八月、征北司馬・行南徐州事の蕭道成を淮陰に鎮させた。道成は豪傑を養い、賓客が盛んになり始めた。垣崇祖が朐山に逃れると道成は戍主とし、垣栄祖もまた朐山に逃れて淮陰の道成に身を寄せた。劉僧副が魏を避けて海島に住んでいたのを、道成はまた召して撫した。
(泰始六年前後)
- この年、秋七月庚申、蕭道成を南兖州刺史とした。
- これに先立ち、中書侍郎と舎人はみな名流を用いていたが、太祖(文帝)が初めて寒士を用い、世祖の頃はなお士族と庶族を混ぜて選び、巣尚之と戴法興がいずれも権を執った。上(明帝)が即位すると側近の卑しい者ばかりを用い、遊撃将軍阮佃夫、中書通事舎人王道隆、員外散騎侍郎楊運長らがみな政事に参与し、権は人主に次ぎ、巣・戴の及ぶところではなかった。
- 佃夫はとりわけ恣まで横暴だった。人が従うか逆らうかで禍福がたちどころに決まり、大いに賄賂を受け、贈り物が絹二百匹に満たなければ返事も書かなかった。庭園も邸宅も飲食も諸王に勝り、妓楽も服飾も宮中の及ぶところではなかった。朝士は貴賤を問わず自ら結ばぬ者はなく、僕隷までみな序列を越えて官に除された。車を引く者が虎賁中郎将に、馬丁が員外郎になるほどだった。
六年(470年)
- 南兖州刺史蕭道成が軍中にあること久しく、民間には道成に異相があり天子となるはずだと言う者があった。上は疑い、召して黄門侍郎・越騎校尉とした。道成は恐れて中央へ移りたくなかったが、留まる術がなかった。冠軍参軍である広陵の荀伯玉が、道成に数十騎を魏の境に入れて標榜を設置するよう勧めた。魏は果たして遊騎数百を出して境上を巡らせ、道成がこれを報告したので、上は道成を元の任に戻した。秋九月、道成に淮陰へ遷鎮するよう命じた。
七年(471年)
- はじめ上は諸王だったころ寛和で良い評判があり、ひとり世祖に親しまれた。即位の初め、義嘉(子勛)の党の多くが赦され、才に応じて登用され、旧臣のように扱われた。ところが晩年はいよいよ猜疑深く残忍になり、鬼神を好み忌諱が多かった。言葉や文書で禍・敗・凶・喪およびそれに紛らわしい語で避けるべきものが数百千種に及び、触れれば必ず罪して殺した。「騧」の字を改めたのは「禍」の字に似ているからである。上の意に触れた側近には、しばしば身を裂かれる者があった。
- 当時、淮泗で兵を用いて府蔵は空になり、内外の百官はみな俸禄を断たれたのに、上の奢費は度を過ぎ、器物を造るたびに必ず正御・副御・次副それぞれ三十枚ずつ作らせた。寵臣が権を執り、賄賂が公然と行われた。
- 上はもとより子がなく、ひそかに諸王の姫で身ごもった者を取って宮中に入れ、男子が生まれるとその母を殺して寵姫の子とした。
- ここに至って病臥し、太子が幼弱なので諸弟を深く忌んだ。南徐州刺史晉平剌王劉休祐は以前江陵に鎮していたころ貪欲で残虐、際限がなかった。上は鎮に赴かせず建康に留め、上佐を遣わして府州の事を行わせていた。休祐は剛情で、前後に何度も上に逆らい、上は不満を積み、また将来制しがたくなるのを慮って、うまく除こうと考えた。
- 春二月甲寅、休祐が上に従って巌山で雉狩りをした。左右の従者はみな仗の後ろにいた。日が暮れかかったころ、上は側近の寿寂之ら数人を遣わして休祐に迫って落馬させ、共に殴り倒して殺した。「驃騎が落馬した」と触れ回らせ、上は驚いたふりをして御医を次々に遣わして診させた。その側近が着いたときには休祐はすでに絶命していた。車輪を外した輿で邸に帰し、司空を追贈して礼どおりに葬った。
- 建康の民間に、荊州刺史巴陵王劉休若に至って貴い相があるという流言が立った。上はこれを休若に伝え、休若は憂え恐れた。戊午、休若を休祐に代えて南徐州刺史とした。休若の腹心の将佐はみな、休若が帰朝すれば必ず禍を免れぬと言った。
- 中兵参軍である京兆の王敬先が休若に説いた。「今、主上は危篤で、政は省閤から出ております。群小どもが騒がしく、宗族をすべて除いて自分たちの都合をよくしようとしている。殿下の名声は海内に顕れており、詔を受けて入朝すれば必ず往って返らぬことになりましょう。荊州には甲兵十余万、地は数千里。上は天子を匡し姦臣を除き、下は境土を保てます。邸宅で剣を賜り、臣妾に涙を呑ませて葬ることも許されぬのと、どちらがましですか」。休若は日ごろ謹み深く畏れる性で、偽って承諾したが、敬先が出ると人を遣わして捕らえ、上に報告して誅した。
- 晉平剌王が死ぬと、建安王休仁はいよいよ身の置き所がなくなった。上は寵臣の楊運長らと身後の計を巡らせた。運長らもまた上の崩後に休仁が政を執れば自分たちが専権できぬと慮り、いよいよこれに賛成した。
- 上の病があるとき急に重くなり、内外で休仁に心を寄せぬ者がなく、主書以下がみな東府に赴いて休仁の親信の者を訪ね、あらかじめ自ら結ぼうとした。当直で出られなかった者はみな恐懼した。上はこれを聞いていよいよ休仁を憎んだ。
- 五月戊午、休仁を召して引見し、やがて「今夕は尚書下省に泊まれ。明朝早く来るがよい」と言った。その夜、人を遣わして薬を持たせ死を賜った。休仁は罵って「上が天下を得たのは誰の力か。孝武は兄弟を誅し鋤いて子孫が絶えた。今また同じことをする。宋の祚が長く保てようか」と言った。上は変があるのを慮り、病を押して輿に乗って端門に出、休仁が死んでから入った。
- 詔を下して「休仁は禁兵と結んで乱逆を謀った。朕は法を明らかにするに忍びず、詔を下して詰り責めたところ、休仁は恩に恥じ罪を恐れて急ぎ自ら決した。その二子を宥し、始安県王に降し、子の劉伯融に封を継がせる」と称した。
- 上は人情が納得せぬのを慮り、諸大臣および方鎮に詔を出して言った。「休仁は休祐と深く親しく結び、休祐に『お前はただ諂っておればよい。この法で身は安泰だ。私も従来これでずいぶん助かった』と語っていた。休祐の死は本来、民のために患いを除くつもりだったが、休仁はそれ以来、日ごとに恐れを募らせた。私が呼んで省に入らせるたび、入る前に楊太妃に別れを告げていた。私は春のうちよく彼と雉狩りをしたが、陰雨で出ぬときは、休仁はその都度左右に『私はまた一日生き延びた』と言っていた。休仁は南討を経て宿衛の将帥と親しく事を共にしている。私は先ごろ幾日も加減が悪かったが、休仁は殿省に出入りして和やかな顔で厚く撫し労わっていた。その意趣は誰にも測れぬ。事はやむを得ず、繰り返し思案して、近日の処分を取らざるを得なかった。すぐには納得されまいから、こうして知らせておく」。
- 上は休仁と日ごろ親しく、殺してからも人に「私と建安は年が近く、若い頃から仲がよかった。景和・泰始の間の勲功と誠意はまことに重い。だが事の計は差し迫っており、除かざるを得なかった。痛惜の念に堪えぬ」と言い、涙を流して抑えられなかった。
- はじめ上は藩にあった頃、褚淵と気風が合って親しく、即位すると深く任せた。上が病臥すると、呉郡太守だった淵を急ぎ召した。着いて謁見すると、上は涙を流して「私は近ごろ危篤だ。ゆえに卿を召した。黄𧝓を着てもらいたいのだ」と言った。黄𧝓とは乳母の服である。上は淵と建安王休仁を誅す謀を語ったが、淵は不可とした。上は怒って「卿は愚か者だ。共に事を計るに足りぬ」と言い、淵は恐れて命に従った。改めて淵を吏部尚書とした。庚午、尚書右僕射袁粲を尚書令、褚淵を左僕射とした。
- 丙戌、晉平王休祐を追って庶人に廃した。
- 巴陵王休若が京口に至り、建安王の死を聞いていよいよ恐れた。上は休若が温和篤厚で人心をまとめられるので、将来幼主を傾け奪うのではと恐れ、使者を送って殺そうとしたが、詔を奉じないのを慮り、召して入朝させようとしたが、また疑い驚かせるのを恐れた。六月丁酉、江州刺史桂陽王劉休範を南徐州刺史とし、休若を江州刺史として、自筆の書を懇ろに送り、七月七日の宴に来るよう招いた。
- 秋七月、巴陵哀王休若が建康に至った。乙丑、邸で死を賜り、侍中・司空を贈った。改めて桂陽王休範を江州刺史とした。
- 当時、上の諸弟はみな尽き、ただ休範だけが人才が凡庸劣弱で上に忌まれなかったので全うできた。
史論(沈約論曰)
- 聖人が法を立て制を垂れるのに必ず先王を称するのは、遺訓と余風が来世に伝えるに足るからである。太祖の国を治める義は弘かったが、家を隆んにする道は足りなかった。彭城王(義康)は古を顧みず、ただ兄弟の義だけを見て君臣の礼を知らず、家の情で国の道を行おうとし、主が猜疑してもなお犯し、恩が薄れても悟らず、叱責という些細なことから親を滅ぼす大禍を成した。端緒を開き隙を植えて後人に伝えた。太宗(明帝)は隙を作りやすい情に乗じ、すでに行われた先例に拠って、大枝を切り落とすのに躊躇しなかった。やがて本も根も庇うものがなくなり、幼主は孤立し、神器は勢いの弱さゆえに傾き移り、天命は人々の推す方へと改まった。これぞ霜を履むうちに堅氷に至るというもの。その由来は遠いのである。
史論(裴子野論曰)
- 虎を噬む獣も己の子を愛することを知り、狸を搏つ鳥も他の巣を護りはしない。太宗は螟蛉(他人の子)を養い育て、同気(実の兄弟)を斬り倒した。すでに「原に在り」(兄弟相助く)の天性に迷い、父子の自然も知らなかった。宋の徳が終わりを告げたのは、天が廃したのではない。そもそも危亡の君は、必ずまず本枝を棄て、傍系の孽子を可愛がり、寵臣に誠を寄せ、父兄を憎み嫌う。前の車が覆っても後の車が轡を並べる。かりに叔や仲が国を有っていても、なお天に配する祭祀は失わなかったろうに、他人が室に入れば七廟の祀りが絶える。それを思わず、進んで剪り落とした。晉の武帝は文明皇后の託に背いて中州を覆したのが賈后、太祖は初寧の誓いを棄てて合殿に登ったのが元凶(劉劭)である。禍福に決まった門はない。どうして選べようか。兄弟と睦まじくするほうが、安らかではないか。
- ある者が、蕭道成は淮陰にあって魏に二心があると讒言した。上は銀の壺の酒を封じて呉喜に持たせ、道成に賜った。道成は恐れて逃げようとしたが、喜は事情を告げ、そのうえで先に自ら飲んでみせ、道成もすぐに飲んだ。喜は帰朝して道成を保証した。ある者がひそかに上に啓した。上は喜が策謀に富み日ごろ人心を得ているので、幼主に仕えられぬのではと恐れ、喜を内殿に召して談笑を交わし甚だ親しくし、退出すると珍味を賜り、まもなく死を賜った。
- 戊寅、淮陰を北兖州とし、蕭道成を召して入朝させた。道成の親しい者は、朝廷がまさに大臣を誅しているのだから召しに応ずべきでないと勧めた。道成は「諸卿はまるで事が見えておらぬ。主上は太子が幼弱なので諸弟を剪り除いておられるだけで、他人に関わりはない。今はただ速やかに発つべきだ。留まって様子をうかがえば必ず疑われる。それに骨肉が相残むのは長続きする祚ではない。禍難はいずれ起こる。そのとき卿らと力を尽くそう」と言った。到着して散騎常侍・太子左衛率を拝した。
泰豫元年(472年)
- 夏四月己亥、上の病が篤くなり、江州刺史桂陽王休範を司空とし、また尚書右僕射褚淵を護軍将軍、中領軍劉勔に右僕射を加え、詔で淵・勔と尚書令袁粲、荊州刺史蔡興宗、郢州刺史沈攸之にそろって顧命を受けさせた。褚淵は日ごろ蕭道成と親しく、上に薦めていたので、詔でまた道成を右衛将軍・領衛尉として袁粲らと共に機事を掌らせた。
- この夕、上が崩じた。庚子、太子が即位して大赦した。当時、蒼梧王(後廃帝)はわずか十歳。袁粲と褚淵が政を執り、太宗の奢侈の後を受けて節倹を弘めることに努め、その弊を救おうとしたが、阮佃夫と王道隆らが権を執り、賄賂が公然と行われ、禁じられなかった。
- 冬十一月、中書通事舎人阮佃夫に給事中・輔国将軍を加えた。権任はいよいよ重くなり、親しい呉郡の張澹を武陵郡に用いようとした。袁粲らはみな同意しなかったが、佃夫は勅と称して施行し、粲らも押しとどめられなかった。
蒼梧王元徽元年(473年)
- 桂陽王休範はもとより凡庸で口下手、物わかりも悪く、諸兄に相手にされず、人望も向かなかった。そのため太宗の末に禍を免れた。帝が即位して幼年であり、素族が政を執り側近が権を用いるようになると、休範は自ら「尊親において並ぶ者なし。入って宰輔となるべきだ」と思ったが、志のとおりにならず、怨みと憤りが甚だしくなった。
- 典籤である新蔡の許公輿が謀主となり、休範に身を低くして士に接し、手厚く資を与えさせた。こうして遠近から集まる者が年に万を数え、勇士を養い、武器を整えた。朝廷はその異志を知ってひそかに備えた。
- 折しも夏口の鎮が欠けた。朝廷はその地が尋陽の上流にあるので腹心を置きたいと考え、二月乙亥、晉熙王劉燮を郢州刺史とした。燮はまだ四歳で、黄門郎王奐を長史・行府州事として資力を配し、夏口に鎮させた。また尋陽を通れば休範に劫留されるのを恐れ、太洑からまっすぐ行かせた。休範はこれを聞いて激怒し、ひそかに許公輿と建康を襲う謀を巡らせ、上表して城と濠を修めると称して多くの材木と板を得て蓄えた。奐は王景文の兄の子である。
二年(474年)
- 夏五月壬午、桂陽王休範が反した。民の船を奪い、軍隊に力量に応じて申請させ、材木と板を渡して自分たちで装備させたので、数日で整った。
- 丙戌、休範が衆二万・騎五百を率いて尋陽を発ち、昼夜行軍した。書を諸執政に送り、「楊運長と王道隆が先帝を蠱惑し、建安・巴陵の二王を罪なくして戮させた。この二人の小僧を捕らえて冤魂に謝したい」と称した。
- 庚寅、大雷の戍主杜道欣が馳せ下って変を告げ、朝廷は驚き恐れた。護軍褚淵、征北将軍張永、領軍劉勔、僕射劉秉、右衛将軍蕭道成、遊撃将軍戴明宝、驍騎将軍阮佃夫、右軍将軍王道隆、中書舎人孫千齢、員外郎楊運長が中書省に集まって議したが、誰も口を開かなかった。
- 道成が言った。「昔、上流の謀逆はみな遅れたために敗れた。休範は必ず前の失敗に懲りて、軽兵で急ぎ下り、我らの無備に乗ずる。今、応変の術としては遠出すべきでない。もし別動隊が敗れれば大いに衆心を挫く。新亭と白下に陣を敷き、宮城・東府・石頭を堅く守って賊の到来を待つべきだ。千里の孤軍で後ろに蓄えもなく、戦おうにも戦えず、自然に瓦解する。私は新亭に陣してその鋒に当たろう。征北(張永)は白下を守り、領軍(劉勔)は宣陽門に屯して諸軍を節度されよ。諸貴は殿中に安坐して、競って出るには及ばぬ。私が自ら賊を破ってみせる」。そのまま筆を求めて議案を書き、衆はみな同意を記した。
- 孫千齢はひそかに休範と通謀しており、独り「旧例どおり軍を遣わして梁山に拠るべきです」と言った。道成は色を正して「賊は今すでに近づいている。梁山まで行けるものか。新亭こそ兵の衝く所。そこで死をもって国に報いるまでだ。平時なら屈して従うこともできようが、今はそうはいかぬ」と言って座を立った。道成は劉勔を顧みて「領軍はすでに私の卑見に同意された。変えてはならぬ」と言った。
- 袁粲は難を聞き、支えられて殿に入った。即日、内外を戒厳した。
- 道成は前鋒の兵を率いて新亭に出て屯し、張永は白下に屯し、前南兖州刺史沈懐古が石頭に戍り、袁粲と褚淵が殿省に入って衛った。当時は急で甲を授ける暇がなく、南北の二武庫を開いて将士に思うまま取らせた。
- 蕭道成が新亭に至り、城塁がまだ完成せぬうちに、辛卯、休範の前軍がすでに新林に至った。道成はゆっくり衣を解いて高枕で寝て衆心を安んじ、おもむろに白虎幡を取り寄せて西の垣に登り、寧朔将軍高道慶、羽林監陳顕達、員外郎王敬則に舟師で休範と戦わせ、かなりの殺獲を挙げた。
- 壬辰、休範は新林で舟を捨てて陸に上がった。その将の丁文豪が休範にまっすぐ台城を攻めるよう請うた。休範は文豪に別に兵を率いて台城へ向かわせ、自らは大衆で新亭の塁を攻めた。道成は将士を率いて力を尽くして防ぎ戦った。巳から午まで、外の勢いはいよいよ盛んで、衆はみな色を失った。道成は「賊は多いが乱れている。まもなく破れる」と言った。
- 休範は白服で肩輿に乗り、自ら城南の臨滄観に登り、数十人で自らを衛った。屯騎校尉黄回が越騎校尉張敬児と、偽って降ってこれを討つ謀を立てた。回は敬児に「卿が取れ。私は諸王を殺さぬと誓っている」と言った。敬児が道成に告げると、道成は「卿が事を成せば、本州(の刺史)で賞そう」と言った。
- そこで回とともに城の南に出て武器を放り出して走り、大声で降ると称した。休範は喜んで輿の傍らに召した。回は道成の密意を伝えるふりをし、休範は信じて、二子の劉徳宣・劉徳嗣を人質として道成に預けた。二子が着くと道成はただちに斬った。
- 休範は回と敬児を側近に置いた。親しい李恒と鍾爽が諫めたが聞かなかった。当時、休範は日ごろ濃い酒を飲んでいた。回は休範に備えのないのを見て敬児に目配せし、敬児は休範の護身の刃を奪って休範の首を斬った。左右はみな散り逃げ、敬児は馬を馳せて首を持って新亭に帰った。
- 道成は隊主の陳霊宝に休範の首を台へ送らせたが、霊宝は道中で休範の兵に出会い、首を水に棄てて身一つで到着した。「すでに平らげた」と唱えても証拠がなく、衆は信じなかった。休範の将士もこれを知らなかった。
- その将の杜黒騾が新亭を甚だ急に攻めた。蕭道成は射堂にいた。司空主簿蕭恵朗が決死の士数十人を率いて東門を突破し、射堂の下まで至った。道成は馬に乗り麾下を率いて格闘し、恵朗は退き、道成はまた城を保った。恵朗は蕭恵開の弟で、その姉は休範の妃である。恵朗の兄の黄門郎蕭恵明は当時、道成の軍副として城内にいたが、まったく自ら疑わなかった。
- 道成は黒騾と戦い、日暮れから明け方まで矢石が絶えなかった。その夜は大雨で、鼓も叫び声も互いに聞こえなかった。将士は幾日も寝食できず、軍中の馬が夜に驚いて城内が乱れ走った。道成は燭を秉って正坐し、声を張って叱った。こういうことが四度もあった。
- 丁文豪が皁莢橋で台軍を破り、まっすぐ朱雀桁の南に至った。杜黒騾もまた新亭を捨てて北の朱雀桁へ向かった。右軍将軍王道隆は羽林の精兵を率いて朱雀門の内にあり、急ぎ石頭の鄱陽忠昭公劉勔を召した。勔は着くと桁を撤して南軍の勢いを挫くよう命じた。道隆は怒って「賊が来たならただ急いで撃つべきだ。桁を開いて自ら弱まる話をするのか」と言い、勔は二度と言えなかった。道隆は勔に進み戦うよう促し、勔は桁の南へ渡って戦い、敗れて死んだ。黒騾らは勝ちに乗じて淮を渡り、道隆は衆を棄てて台へ逃げ帰ったが、黒騾の兵に追い殺された。黄門侍郎王蘊は重傷を負って御溝の傍らに倒れたが、人に扶けられて免れた。蘊は王景文の兄の子である。
- こうして内外は大いに震え、道には「台城はすでに陥ちた」という噂が流れ、白下と石頭の衆はみな潰え、張永と沈懐明は逃げ帰った。宮中には新亭も陥ちたと伝わり、太后は帝の手を執って泣いて「天下は敗れた」と言った。
- これに先立ち、月が右執法を犯し、太白が上将を犯した。ある者が劉勔に辞職を勧めたが、勔は「私は心を執って身を行い、幽明に恥じるところがない。もし災いが必ず至るなら、避けて免れられようか」と言った。勔は晩年、かなり高尚を慕い、園と邸宅を立てて東山と名づけ、世務を捨て置き、部曲も解散させていた。蕭道成が勔に「将軍は顧命を受けて幼主を輔けておられる。この艱難の日に、深く悠々自適を尚び、羽翼を廃されている。ひとたび事が至れば、悔いても追いつきますまい」と言ったが、勔は従わずに敗れた。
- 甲午、撫軍長史褚澄が東府の門を開いて南軍を入れ、安成王劉準を擁して東府に拠った。桂陽王の教と称して「安成王は吾が子である。侵し犯すな」と言った。澄は褚淵の弟である。
- 杜黒騾はまっすぐ杜姥宅まで進み、中書舎人孫千齢が承明門を開いて出て降った。宮省は恐れ騒いだ。当時、府蔵はすでに尽きており、皇太后と太妃が宮中の金銀の器物を取り出して賞に充てた。衆に戦う志はなかった。
- ほどなく丁文豪の衆は休範がすでに死んだと知り、次第に退き散ろうとした。文豪は声を張って「私一人で天下を定められぬというのか」と言った。許公輿は桂陽王が新亭にいると偽り、士民は惑って蕭道成の塁に名刺を投じる者が千を数えた。道成はみな焼き、北の城に登って「劉休範父子は昨日すでに誅され、屍は南岡の下にある。私は蕭平南だ。諸君よくご覧じよ。名刺はみな焼いた。心配するな」と言った。
- 道成は陳顕達・張敬児および輔師将軍任農夫、馬軍主である東平の周盤竜らに兵を率いさせ、石頭から淮を渡り承明門から入って宮省を衛らせた。
- 袁粲が慷慨して諸将に「今、敵はすでに迫り、衆情は離れ沮んでいる。孤子(私)は先帝の付託を受けながら国家を安んじられぬ。諸君と社稷に共に死にたい」と言い、甲を着けて馬に乗り駆け出そうとした。そこで陳顕達らが兵を出して戦い、杜姥宅で杜黒騾を大破した。飛んできた矢が顕達の目を貫いた。
- 丙申、張敬児らがまた宣陽門で黒騾らを破り、黒騾と丁文豪を斬り、進んで東府を落とし、残党はみな平定された。
- 蕭道成が軍を整えて建康に還ると、百姓は道に沿って群がり見て「国家を全うしたのはこの公だ」と言った。道成は袁粲・褚淵・劉秉とともに上表して咎を引き辞職を請うたが、許されなかった。丁酉、戒厳を解いて大赦した。
- 六月庚子、平南将軍蕭道成を中領軍・南兖州刺史として建康の衛りに留め、袁粲・褚淵・劉秉と日を交替で当直して事を決させた。これを「四貴」と号した。
- 桂陽王休範が反したとき、道士の陳公昭に天公の書を作らせ、「沈丞相へ」と題して荊州刺史沈攸之の門に付けさせた。攸之は開いて見もせず、公昭を捜し出して送った。休範が反すると、攸之は僚佐に「桂陽は必ず私が同心だと言い立てる。急ぎ勤王せねば必ず朝野の疑いを増す」と言い、南徐州刺史建平王劉景素、郢州刺史晉熙王劉燮、湘州刺史王僧虔、雍州刺史張興世とともに挙兵して休範を討った。
- 休範は中兵参軍毛恵連らを残して尋陽を守らせていた。燮は中兵参軍馮景祖を遣わして襲わせ、癸卯、恵連らが門を開いて降を請い、休範の二子を殺した。諸鎮はみな兵を解いた。
三年(475年)
- 冬十二月、南徐州刺史建平王劉景素は孝行で友愛があり清らかで、服も用も倹素、また文学を好んで士大夫を礼をもって遇したので、美しい評判があった。太宗は特に愛してその礼秩を格別にした。当時、太祖の諸子はみな尽き、諸孫では景素が最年長だった。帝は凶狂で徳を失っており、朝野はみな景素に心を寄せた。帝の外家の陳氏はこれを深く憎み、楊運長と阮佃夫らは権勢を専らにしようとして年長の君が立つのを嫌い、これも除こうとした。
- 景素の腹心の将佐の多くが挙兵を勧めたが、鎮軍参軍である済陽の江淹だけが諫め、景素は不快に思った。
- この年、防閤将軍王季符が景素に罪を得、単騎で建康に亡命して景素の謀反を告げた。運長らはただちに兵を出して討とうとしたが、袁粲と蕭道成が不可とした。景素もまた世子の劉延齢を闕に遣わして自ら弁明した。そこで季符を梁州に移し、景素の征西将軍・開府儀同三司を奪った。
四年(476年)
- 夏六月乙亥、蕭道成に尚書左僕射を加えた。
- 楊運長と阮佃夫らが建平王景素をいよいよ忌んだ。景素はそこで録事参軍である陳郡の殷瀰、中兵参軍である略陽の垣慶延、参軍沈顒・左暄らと自ら身を全うする計を謀り、人を建康に往来させて才力ある士と結ぼうとした。冠軍将軍黄回、遊撃将軍高道慶、輔国将軍曹欣之、前軍将軍韓道清、長水校尉郭蘭之、羽林監垣祗祖がみなひそかに通謀し、志を得ぬ武人で帰さぬ者はなかった。
- 当時、帝は独りで出歩き郊野を遊び回るのを好んだ。欣之は石頭城に拠り、帝の外出を伺って乱を起こそうと謀った。道清と蘭之は蕭道成を説き、帝の夜の外出に乗じて帝を捕らえて景素を迎えようとし、道成が従わなければ図ろうとした。景素はその都度禁じて緩めさせた。
- 楊・阮はうっすらその事を聞き、傖人(北方の者)周天賜を偽って景素に投じさせ、挙兵を勧めさせた。景素はこれを察して天賜の首を斬り、台に送った。
- 秋七月、祗祖が数百人を率いて建康から京口へ逃げ、「京師はすでに潰乱している。速やかに入るべきだ」と勧めた。景素はこれを信じ、戊子、京口に拠って挙兵した。士民で駆けつける者は千を数えた。
- 楊・阮は祗祖が叛き逃げたと聞き、ただちに戒厳を命じた。己丑、驍騎将軍任農夫、領軍将軍黄回、左軍将軍である蘭陵の李安民に歩軍を率いさせ、右軍将軍張保に水軍を率いさせて討たせた。辛卯、また南豫州刺史段仏栄を都統とした。蕭道成は黄回に異志があると知っていたので、安民と仏栄を同行させた。回はひそかに士卒に「道で京口の兵に会っても戦うな」と戒めた。道成は玄武湖に屯し、冠軍将軍蕭賾が東府に鎮した。
- 始安王劉伯融と都郷侯劉伯猷はいずれも建安王休仁の子である。楊・阮はその年長なのを忌み、みな詔と称して死を賜った。
- 景素は竹里を断って台軍を防ごうとしたが、垣慶延・垣祗祖・沈顒はみな「今は日照りで暑い。台軍は遠来で疲れております。引き入れて来させ、逸をもって労を待てば、一戦で勝てます」と言った。殷瀰らが固く争ったが通らなかった。
- 農夫らが到着して市邑に火を放つと、慶延らはそれぞれ顔を見合わせるばかりで、戦う志がなかった。景素はもとより威略に乏しく、恐れ騒いでどうしてよいか分からなかった。黄回は段仏栄に押さえられ、また京口の軍が弱いのを見て、ついに動かなかった。
- 張保が西渚に泊まった。景素の側近の勇士数十人が自ら誘い合って水軍を進撃し、甲午、張保は敗死した。だが諸将は呼応せず、また台軍に破られた。台軍が城下に迫ると、顒がまず衆を率いて逃げ、祗祖が次ぎ、その他の諸軍も相次いで逃げ退いた。ただ左暄だけが万歳楼の下で台軍と力戦したが、配された兵力が甚だ弱く敵しえず散った。
- 乙未、京口を落とした。黄回の軍が先に入ったが、諸王を殺さぬと誓っていたので、景素を殿中将軍張倪奴に譲り、倪奴が景素を捕らえて斬った。あわせてその三子と同党の垣祗祖ら数十人がみな誅された。蕭道成は黄回と高道慶を釈放して問わず、以前のように撫した。この日、戒厳を解いた。丙申、大赦した。
- 八月庚午、給事黄門侍郎阮佃夫を南豫州刺史とし、京師に留め鎮させた。
順帝昇明元年(477年)
- はじめ蒼梧王が東宮にいた頃、漆塗りの帳の竿を伝って地上一丈余りまで登るのを好み、喜怒に節がなく、主帥も禁じられなかった。太宗はたびたび陳太妃に厳しく打つよう勅した。即位すると、内は太后・太妃を畏れ、外は諸大臣を憚って、まだ放縦にはならなかったが、元服を加えてからは内外に抑える者がなくなり、たびたび遊行に出た。
- 出始めのころはまだ儀衛を整えていたが、まもなく車も騎も捨て、左右数人を率いて、あるいは郊野に出、あるいは市中に入るようになった。太妃はその都度青牛の車に乗って追い、取り締まろうとしたが、帝が軽騎で一、二十里も遠く走ると太妃はもう追えず、儀衛も禍を恐れて追い尋ねる勇気がなく、ただ隊伍を整えて別の場所から遠望するだけだった。
- はじめ太宗はかつて陳太妃を寵臣の李道児に与え、のちにまた迎え戻して帝を生ませた。ゆえに帝は微行のたび「劉統」と自称し、あるいは「李将軍」と称した。常に小さな袴と衫を着け、役所も巷も通らぬ所がなかった。夜は宿屋に泊まり、昼は道端に寝、下働きの者を突き飛ばしては物を交換し、あるいは侮辱されても喜んで受け入れた。あらゆる卑俗な技も、衣を裁ち帽を作ることまで、一度見れば覚えた。篪を吹いたこともないのに管を執れば調子が合った。
- 京口が平定されてからは驕り恣まがとりわけ甚だしく、外出せぬ日はなかった。夕に去って朝に返り、朝に出て暮れに帰る。従者はみな鋋と矛を持ち、行人の男女、犬・馬・牛・驢に至るまで、出会って免れる者はなかった。民間は騒ぎ恐れ、商売は絶え、門戸は昼も閉ざされ、通行人は絶えた。針・椎・鑿・鋸を側から離さず、少しでも意に逆らえばその場で切り裂き、一日殺さぬと不機嫌になった。殿省は憂え恐れ、食事も呼吸も安んじられなかった。
- 阮佃夫が直閤将軍申伯宗らと、帝が江乗に雉狩りに出るのに乗じ、太后の令と称して隊仗を呼び戻し城門を閉ざし、人を遣わして帝を捕らえて廃し、安成王劉準を立てる謀を巡らせた。事が発覚し、甲戌、帝は佃夫らを捕らえて殺した。
- 太后がたびたび帝を訓戒したので、帝は不快になった。折しも端午に太后が帝に毛の扇を賜った。帝は華やかでないのを嫌い、太医に薬を煮させて太后を毒殺しようとした。側近が止めて「もしそれをなされば、官家(陛下)は孝子(喪主)を務めねばなりません。二度と出歩いて悪ふざけができましょうか」と言った。帝は「お前の言葉は大いに理がある」と言って取りやめた。
- 六月甲戌、散騎常侍杜幼文、司徒左長史沈勃、遊撃将軍孫超之が阮佃夫と同謀だったと告げる者があった。帝は自ら衛士を率いて三家を襲い、ことごとく誅した。刳り裂き切り刻み、嬰児も免れなかった。沈勃はそのとき喪中で廬にいた。左右がまだ着かぬうちに帝が刀を振るって独り進んだ。勃は免れぬと知って手で帝の耳を殴り、唾を吐いて罵り「お前の罪は桀・紂に勝る。屠り殺される日は近いぞ」と言って死んだ。この日、大赦した。
- 帝はあるとき領軍府に直入した。ひどく暑い日で、蕭道成は昼寝をして裸で腹を出していた。帝は道成を室内に立たせ、腹に的を描いて弓を引き絞って射ようとした。道成は笏を斂めて「老臣に罪はありません」と言った。側近の王天恩が「領軍の腹は大きく、よい的です。一矢で死んでしまえばもう射られません。骲箭(音の出る鏃なしの矢)で射られては」と言った。帝は骲箭に替えて射て、ちょうど臍に当たり、弓を投げて大笑いし「この腕前はどうだ」と言った。
- 帝は道成の威名を忌み、あるとき自ら鋋を磨いて「明日、蕭道成を殺す」と言った。陳太妃が罵って「蕭道成は国に功がある。害すれば誰がまたお前のために力を尽くすか」と言い、帝は取りやめた。
- 道成は憂え恐れ、ひそかに袁粲・褚淵と廃立を謀った。粲は「主上は幼年で、些細な過ちは改まりやすい。伊尹・霍光の事は末世に行うべきものではない。たとえ功が成っても、しまいには身の置き所がなくなる」と言い、淵は黙っていた。
- 領軍功曹である丹陽の紀僧真が道成に言った。「今、朝廷は猖狂で、人は身を保てません。天下の望みは袁・褚にはありません。明公が座して滅ぼされるままでよいのですか。存亡の機、どうかよくお考えください」。道成はもっともと思った。
- ある者は道成に広陵へ逃げて挙兵するよう勧めた。道成の世子の蕭賾は当時、晉熙王長史・行郢州事だったので、賾に郢州の兵を率いて東下させ、京口で会おうとも考えた。道成はひそかに親しい劉僧副を遣わし、その従兄の行青冀二州刺史劉善明に告げた。「多くの者が北の広陵を固めるよう勧めるが、良策ではあるまい。今は秋風の吹く時期。卿が垣東海(垣栄祖)と少しでも虜を動かせるなら、わが諸計は立てられる」。あわせて東海太守垣栄祖にも告げた。
- 善明は「宋氏が亡ぶのは愚者も智者も共に知るところ。北虜が動けば、かえって公の患いとなります。公は神武で世に抜きん出ておられる。ただ静かに待ち、機に応じて奮い立てば功業は自ずと定まります。根本を遠く離れて自ら躓きを招いてはなりません」と言った。栄祖もまた「領軍府は台から百歩。公が走れば人が知らぬはずがない。単騎で軽々しく行っても、広陵の人が門を閉じて受け入れねば、公はどこへ行かれる。公が今、床から足を下ろせば、たちまち台の門を叩く者があります。公の事は去りましょう」と言った。紀僧真も「主上は無道でも、国家は累世の基でなお安固です。公の一族百人を北へ渡すことは必ずできますまい。かりに広陵城を得ても、天子は深宮にあって号令を下し、公を逆賊と名指しする。どうやって避けられますか。万全の策ではありません」と言った。
- 道成の族弟の鎮軍長史蕭順之と次子の驃騎従事中郎蕭嶷も、いずれも「帝は単独で出歩くのを好むから、道路でこそ計を立てやすく成功しやすい。外州の挙兵はめったに勝たず、いたずらに先に人が禍を受けるだけです」と言い、道成は取りやめた。
- 東中郎司馬・行会稽郡事の李安民が江夏王劉躋を奉じて東方で挙兵しようとしたが、道成が止めた。
- 越騎校尉王敬則はひそかに道成と自ら結び、夜に青い衣を着けて道を這い回り、道成のために帝の往来を伺い探った。道成は敬則にひそかに帝の側近の楊玉夫・楊万年・陳奉伯ら二十五人と結ばせ、殿中で機会をうかがわせた。
- 秋七月丁亥の夜、帝が微行して領軍府の門に至った。左右が「府中はみな眠っております。垣を越えて入られては」と言った。帝は「今夕は別の所で楽しみたい。明夕まで待とう」と言った。員外郎桓康らが道成の門の隙間で聞いてこれを知った。
- 戊子、帝は露車に乗って左右と台岡で跳躍の賭けをし、そのまま青園尼寺へ行き、夕方に新安寺に至って犬を盗み、曇度道人のところで煮させ、酒を飲んで酔い、仁寿殿に帰って寝た。
- 楊玉夫は常に帝の意にかなっていたが、ここに至って急に憎まれ、見るたびに歯噛みして「明日この小僧を殺して肝と肺を取ってやる」と言われていた。この夜、王夫(玉夫)に織女が河を渡るのを見張らせ、「見えたら報せよ。見えなければ殺す」と言った。
- 当時、帝の出入りに定まりがなく、省内の諸閤は夜も閉ざされず、廂の下では鉢合わせを恐れて誰も出る者がなく、宿衛もみな逃げ避けて、内外に取り締まる者がなかった。
- この夕、王敬則は外に出ていた。玉夫は帝が熟睡するのを伺い、楊万年と帝の護身の刀を取ってその首を刎ねた。廂の下に伎楽を奏するよう命じ、陳奉伯がその首を袖に入れ、いつもの手続きどおり勅と称して承明門を開いて出、首を敬則に渡した。
- 敬則は領軍府に馳せて門を叩いて大声で呼んだ。蕭道成は蒼梧王に騙されているのではと慮って門を開ける勇気がなかった。敬則が牆の上から首を投げ入れ、道成は洗って確かめ、そこで戎服で馬に乗って出た。敬則・桓康らがみな従って宮に入った。承明門に至ると、いつもの行幸の帰りと偽った。敬則は内の人にのぞき見られるのを恐れ、刀の環で覗き穴を塞ぎ、甚だ急に門を呼んだ。門が開いて入った。他の夕、蒼梧王が門を開けさせるたび、門番は震え上がって顔を上げる勇気もなかったので、このときも疑わなかった。
- 道成が殿に入ると殿中は驚き恐れたが、まもなく蒼梧王の死を聞き、みな万歳を唱えた。
- 己丑の朝、道成は戎服で殿庭の槐の木の下に出、太后の令として袁粲・褚淵・劉秉を召して会議した。道成が劉秉に「これは使君のお家の事です。どう決められる」と言った。秉が答えぬうちに、道成の鬚髯がすべて逆立ち、目の光は電のようだった。秉は「尚書の諸事はお預かりできますが、軍旅の処置はすべて領軍にお任せします」と言った。道成は次に袁粲に譲ったが、粲も引き受ける勇気がなかった。
- 王敬則が白刃を抜いて牀の傍らで跳び上がり「天下の事はみな蕭公にかかっている。あえて一言でも異を唱える者は、その血で敬則の刀を染めるぞ」と言い、そのまま手ずから白紗の帽を取って道成の頭に載せ、即位せよと迫り、「今日、誰があえて動こう。事は熱いうちにすべきです」と言った。道成は色を正して叱り「卿はまるで分かっておらぬ」と言った。粲が何か言おうとすると敬則が叱ってやめさせた。
- 褚淵が「蕭公でなければこれを収められません」と言い、手ずから事を取って道成に授けた。道成は「相手方が承知せぬ以上、私が辞退できようか」と言い、法駕を備えて東城に赴き安成王を迎え立てる議を下した。こうして長刀で粲や秉らを遮り、みな色を失って去った。
- 秉が出ると、道で従弟の劉韞に出会った。韞は車を開けて迎え、「今日の事は兄上に帰しましたか」と問うた。秉は「我らはもう領軍に譲った」と答えた。韞は胸を打って「兄上の肉の中に血があるのか。今年は一族滅亡だ」と言った。
- この日、太后の令として蒼梧王の罪悪を数え、「吾はひそかに蕭領軍に命じてひそかに明略を運ばせた。安成王準が万国に臨むべきである」と言い、劉昱を蒼梧王に追封した。
- 儀衛が東府の門に至ると、安成王は門番に開けさせず、袁司徒(粲)の到着を待ってから入り、朝堂に居した。壬辰、王が即位した。時に十一歳。改元して大赦し、蒼梧王を郊壇の西に葬った。
- 甲午、蕭道成が出て東府に鎮した。丙申、道成を司空・録尚書事・驃騎大将軍とし、袁粲を中書監に遷し、褚淵に開府儀同三司を加え、劉秉を尚書令に遷して中領軍を加え、晉熙王燮を揚州刺史とした。
- 劉秉ははじめ、尚書が万機を掌るのだから宗室が就けば天下に変はないと思っていた。ところが蕭道成が軍と国を兼ね総べ、腹心を配置し、与奪を専断し、褚淵は日ごろから道成に頼っていたので、秉と袁粲は手をこまねいて見ているだけだった。
- 辛丑、尚書右僕射王僧虔を僕射とした。丙午、武陵王劉贊を郢州刺史とし、蕭道成は南徐州刺史を改め領した。
- 八月癸亥、詔で袁粲を石頭に鎮させた。粲は静かな性で、朝命があるたび常に固辞し、迫られてやむを得ず就任していた。ここに至って蕭道成に不臣の志があると知り、ひそかに図ろうとして、即座に命に従った。
- 蕭道成が司空を固辞し、庚辰、驃騎大将軍・開府儀同三司とした。九月戊申、楊玉夫ら二十五人を侯・伯・子・男に封じた。
- はじめ沈攸之と蕭道成は大明・景和の間、共に殿省に当直して深く親しく、道成の娘は攸之の子の中書侍郎沈文和の妻となった。攸之が荊州にいたとき、直閤将軍高道慶の家が華容にあり、休暇で帰る途中、江陵に立ち寄って攸之と槊の遊びで争い、建康に馳せ帰って「攸之の謀反の状はすでに成っている。三千人で襲わせてほしい」と言った。執政はみな不可とし、道成もそうではないと保証した。楊運長らは攸之を憎み、ひそかに道慶と謀って刺客を送って攸之を殺そうとしたが果たせなかった。
- 折しも蒼梧王が弑され、主簿宗儼之と功曹臧寅が攸之にこれを機に挙兵するよう勧めた。攸之は長子の沈元琰が建康で司徒左長史をしていたので、まだ動かなかった。寅は臧凝之の子である。
- 当時、楊運長らはすでに中央にいなかった。蕭道成は元琰に蒼梧王が人を刳り斬った道具を攸之に示させた。攸之は道成の名も位ももとは自分より下だったのに、一朝にして朝権を専らにしているのを不平に思い、元琰に「私は王陵として死ぬほうがよい。賈充として生きはせぬ」と言った。だがまだ挙兵の暇がなく、上表して慶賀し、そのまま元琰を留めた。
- 雍州刺史張敬児は日ごろ攸之の司馬劉攘兵と親しく、攸之が事を起こすと疑ってひそかに攘兵に問うた。攘兵は何も言わず、敬児に馬の鐙一つを送った。敬児はそこで備えた。
- 攸之は十数行の白絹の書を常に裲襠の隅に隠しており、「明帝が自分と交わした約誓だ」と言っていた。攸之が挙兵しようとすると、妾の崔氏が「殿はもうお年です。なぜ一族百人のことをお考えにならぬのか」と諫めた。攸之は裲襠の隅を指して示し、あわせて「太后の使者が来て攸之に燭を賜った。割ってみると太后の自筆の令があり、『社稷の事を一切公に委ねる』とあった」と称した。
- こうして兵を整えて檄を移し、使者を送って張敬児、豫州刺史劉懐珍、梁州刺史である梓潼の范柏年、司州刺史姚道和、湘州行事庾佩玉、巴陵内史王文和を誘って共に挙兵させようとした。敬児・懐珍・文和はいずれもその使者を斬り、馳せて上表した。文和はまもなく州を捨てて夏口へ逃げた。柏年・道和・佩玉はみな両端を懐いた。道和は後秦の高祖(姚興)の孫である。
- 辛酉、攸之は輔国将軍孫同らを相次いで東下させた。攸之は道成に書を送って言った。「少帝は昏狂だったのだから、諸公とひそかに議し、共に太后に申し上げて令を下し廃すべきだった。それをどうして左右と結んで自ら弑逆を行い、殯もせず虫が流れ出て戸口にたかるほどに至ったのか。およそ臣下たる者、誰が驚き嘆かぬだろう。さらに朝廷の旧臣を移し替え、親党を配置し、宮閤の鍵はすべて家人が握っている。私は子孟(霍光)や孔明の遺訓が本当にそうであったとは知らぬ。足下にすでに宋を賊する心がある以上、私がどうして申包胥の節を捨てられよう」。
- 朝廷はこれを聞いて恐れ騒いだ。十二月丁卯、道成が入って朝堂を守り、侍中蕭嶷に代わって東府を鎮させ、撫軍行参軍蕭映に京口を鎮させた。映は嶷の弟である。戊辰、内外を戒厳した。己巳、郢州刺史武陵王贊を荊州刺史とした。庚午、右衛将軍黄回を郢州刺史・督前鋒諸軍として攸之を討たせた。
- はじめ道成は世子の蕭賾を晉熙王燮の長史・行郢州事として武具を整え攸之に備えさせていた。燮を召して揚州刺史とすると、賾を左衛将軍として燮とともに下らせた。劉懐珍が道成に「夏口は要衝です。適任者を得るべきです」と言った。道成は賾に書を送って「お前が入朝する以上、文武兼備でお前の意に適う者に後事を委ねよ」と言い、賾は燮の司馬柳世隆を自分の代わりに薦めた。道成は世隆を武陵王贊の長史・行郢州事とした。
- 賾は出発に際して世隆に「攸之が一朝にして変を起こし、夏口の舟艦を焼いて流れに沿って東へ下れば制せられぬ。もし攸之を留めて郢城を攻めさせられれば、必ずすぐには落とせぬ。君が内、私が外となれば、破るのは必定だ」と言った。
- 攸之が挙兵したとき、賾は尋陽まで来ていたが、まだ朝廷の処置が行われていなかった。衆は道を倍して建康へ急ごうとしたが、賾は「尋陽は中流に位置し畿甸に近い。湓口に留まり屯すれば、内は朝廷を藩屏し、外は夏首を援け、形勝を保って西南を制せる。今日ここに集まったのは天の配剤だ」と言った。ある者は湓口の城が小さくて固めにくいと言った。左中郎将周山図が「今、中流に拠って四方の勢援となるのだから、小ささを難ずべきではない。衆心が一つなら江も山もみな城郭となる」と言った。
- 庚午、賾は燮を奉じて湓口に鎮し、事はすべて山図に委ねた。山図は旅の船の板を取って楼櫓を造り、水柵を立て、旬日ですべて整えた。道成はこれを聞いて喜び「賾はまことにわが子だ」と言い、賾を西討都督とした。賾は山図を軍副に推した。
- 当時、江州刺史邵陵王劉友が尋陽に鎮していたが、賾は尋陽城が固めるに足らぬとして、上表して友を湓口に移して共に鎮させ、江州別駕である豫章の胡諧之を尋陽の守りに残した。
- 湘州刺史王蘊は母の喪に遭って帰任し、巴陵王と沈攸之と深く結んでいた。攸之がまだ挙兵せぬ頃、蘊は郢州を通り、蕭賾が弔問に出るのに乗じて事を起こし郢城に拠ろうとした。賾はこれを察して出なかった。東府に至ると、また蕭道成が弔問に出るのに乗じて事を起こそうとしたが、道成もまた出なかった。蘊はそこで袁粲・劉秉とひそかに道成を誅す謀を巡らせた。将帥の黄回・任候伯・孫曇瓘・王宜興・卜伯興らがみな通謀した。伯興は卜天与の子である。
- 道成は攸之の事が起こったと聞いた当初、自ら粲を訪ねたが、粲は辞して会わなかった。通直郎袁達が粲に異同を示すべきでないと言った。粲は「彼がもし主が幼く時が難しいのは桂陽のときと変わらぬとして、私を劫かして台に入れようとしたら、何と言って拒めよう。ひとたび同じ所に居ながら異にできるものか」と言った。
- 道成はそこで褚淵を召して席を連ね、事あるごとに必ず淵を引き入れて共にした。当時、劉韞が領軍将軍として門下省に当直し、卜伯興が直閤で、黄回ら諸将はみな出て新亭に屯していた。
- はじめ褚淵が衛将軍のとき母の喪に遭って職を去り、朝廷が強く促しても起たなかった。粲は日ごろ重い名があり、自ら出向いて説き、淵はそれに従った。ところが粲が尚書令となって母の喪に遭ったとき、淵が懇ろに説いても粲はついに起たなかった。淵はこれを恨んだ。
- 沈攸之の事が起こると、道成は淵と議した。淵は「西夏の乱は必ず成りません。公はまず内に備えられよ」と言った。
- 粲の謀が定まり、これを淵に告げようとした。衆は淵が道成と日ごろ親しいから告げるべきでないと言ったが、粲は「淵は彼と親しいとはいえ、大きく異同を作りはすまい。今もし告げねば、事が定まってから除かねばならなくなる」と言い、謀を淵に告げた。淵はただちに道成に告げた。道成もまた先にその謀を聞いており、軍主蘇烈・薛淵・太原の王天生に兵を率いて粲の石頭守備を助けさせた。
- 薛淵は固辞したが道成が強いた。淵はやむなく涙を流して拝辞した。道成が「卿は近く石頭にいて朝夕行き来するのに、なぜそこまで悲しむ。それに何を辞退するのか」と言うと、淵は「公は袁公と一家となれると保証できますか。今、私が行って彼と同じくすれば公に背き、同じくせねばたちまち禍を受けます。どうして悲しまずにおれましょう」と言った。道成は「卿を遣わすのは、まさに事に臨んで宜しきを尽くし、私に西を顧みる憂いをなくさせるためだ。ただ力を尽くせ。多くを言うな」と言った。淵は薛安都の従子である。
- 道成はまた驍騎将軍王敬則を直閤として卜伯興とともに禁兵を総べさせた。
- 粲は太后の令と偽り、劉韞と卜伯興に宿衛の兵を率いて朝堂の道成を攻めさせ、黄回らに配下を率いて呼応させ、劉秉・任候伯らはみな石頭に赴くという謀を立て、壬申の夜に発する約束だった。
- ところが秉は恐れ騒いでどうしてよいか分からず、昼過ぎにはもう荷造りをし、出発前に羹をすすったところ胸にこぼし、手が震えて自ら抑えられなかった。暗くならぬうちに婦女を載せ、一家をあげて石頭へ逃げ、部曲数百が道いっぱいに華やかに連なった。着いて粲に会うと、粲は驚いて「何事でこんなに急に来られた。今日で敗れる」と言った。秉は「公にお目にかかれれば万死も悔いはありません」と言った。孫曇瓘もこれを聞いて石頭へ逃げた。
- 丹陽丞王遜らが走って道成に告げ、事はすっかり露見した。遜は王僧綽の子である。
- 道成はひそかに人を遣わして王敬則に告げた。当時すでに閤は閉ざされており、敬則は閤を開けて出ようとしたが、卜伯興が兵を厳しくして備えていた。敬則はそこで自分のいる部屋の壁を鋸で切って出、中書省に至って劉韞を捕らえに行った。韞はすでに戒厳しており、燭を並べて自ら照らしていた。敬児が突然来たのを見て驚いて立ち上がり、迎えて「兄はどうして夜にお越しか」と言った。敬則は叱って「小僧、よくも賊を働けたな」と言った。韞が敬則に抱きつくと、敬則は拳でその頬を殴り、地に倒して殺した。また伯興も殺した。
- 蘇烈らが倉城に拠って粲を防いだ。王蘊は秉がすでに逃げたと聞いて「事は成らぬ」と嘆じ、慌てて部曲数百を率いて石頭へ向かった。もともと南門を開ける手はずだったが、暗い夜で薛淵が門に拠って射かけた。蘊は粲がすでに敗れたと思って散り逃げた。
- 道成は軍主である会稽の戴僧静に数百人を率いて石頭へ向かわせ、烈らを助けさせた。倉の門から入り、力を併せて粲を攻めた。孫曇瓘は驍勇で善戦し、台軍の死者は百余人に及んだ。王天生も決死で戦ったので持ちこたえた。
- 亥から丑まで、戴僧静は兵を分けて府の西門を攻めて焼いた。粲と秉は城の東門にいて、火が上がるのを見て府へ戻ろうとした。秉は二子の劉俁・劉陔とともに城を越えて逃げた。粲は城を下り、燭を並べて自ら照らし、子の袁最に「一本の木で大厦の崩れを止められぬのは元より承知。ただ名義のためにここに至ったまでだ」と言った。僧静が暗闇に乗じて城を越えて独り進んだ。最は異変を察して身をもって粲を庇った。僧静はまっすぐ進んで斬った。粲は最に「私は忠臣たるを失わず、お前は孝子たるを失わぬ」と言い、父子ともに死んだ。百姓は哀れんで謡を作った。「あわれ石頭城、袁粲となって死ぬとも、褚淵となって生きはせぬ」。
- 劉秉父子は額檐湖まで逃げたが、追いつかれて捕らえられ斬られた。任候伯らはみな船で石頭に赴いたが、着いたときには台軍がすでに集まっていて入れず、馳せ帰った。黄回は兵を整えて明朝に配下を率い御道からまっすぐ台門へ向かい道成を攻める手はずだったが、事が漏れたと聞いて発する勇気がなかった。道成は以前のように撫した。
- 王蘊と孫曇瓘はみな逃げ隠れたが、先に蘊が捕らえられて斬られた。その他の粲の党はみな問われなかった。
- 粲の典籤の莫嗣祖が粲と秉の密謀を取り次いでいた。道成が召して詰り「袁粲が謀反したのに、なぜ啓上しなかった」と問うた。嗣祖は「小人には識見がなく、ただ恩に報いることを知るだけ。どうしてその大事を漏らせましょう。今、袁公はすでに死なれた。義として生を求めません」と答えた。蘊の寵臣の張承伯は蘊を匿った。道成はいずれも赦して用いた。
- 粲は簡素淡泊で平生を保ったが、経世の才はなかった。飲酒を好み吟詠に長け、重職にありながら政務に当たろうとせず、主事が決を仰ぎに来ても高らかに詩を吟じて応えることがあった。閑居して高枕し、門に雑多な賓客はなく、人情と接しなかった。ゆえに敗れたのである。
史論(裴子野論曰)
- 袁景倩(粲)は民の望み、国の華であり、付託の重きを受けた。しかし智は姦を除くに足りず、権は変に処するに足りず、蕭条として散り落ち、危うきを扶けられなかった。九鼎がすでに軽く、三才がまさに換わろうとするとき、わずかな斗ほどの城の中で万死を辞さなかった。これは匹夫の節を踏んだのであって、棟梁の器ではなかったのである。
昇明元年つづき
- 乙亥、尚書僕射王僧虔を左僕射、新任の中書令王延之を右僕射、度支尚書張岱を吏部尚書、吏部尚書王奐を丹陽尹とした。延之は王裕之の孫である。
- 劉秉の弟の劉遐が呉郡太守だった。司徒右長史張瓌は張永の子で、父の喪に遭って呉におり、家は日ごろから豪盛だった。蕭道成は瓌に隙を伺って遐を取らせた。折しも遐が瓌を府に召したので、瓌は部曲十余人を率いて斎中に直入して遐を捕らえて斬った。郡中に動く者はなかった。道成はこれを聞き、瓌の従父の領軍張沖に告げた。沖は「瓌は一族百人を賭けて一擲し、手には盧(最上の目)が出ました」と言った。道成はただちに瓌を呉郡太守とした。
- 道成は閲武堂に屯を移した。なお重兵を黄回に付けて西上させ、腹心を配していた。回は日ごろ王宜興と折り合わず、宜興が返って自分の謀を告げるのを恐れた。閏月辛巳、事に託けて宜興を捕らえて斬った。諸将はみな「回は強兵を握っており必ず反します」と言った。寧朔将軍桓康は独り行って刺すことを請うたが、道成は「卿らは何を疑うのか。彼には何もできぬ」と言った。
- 沈攸之は中兵参軍孫同ら五将に三万人で前駆させ、司馬劉懐兵ら五将に二万人で続かせ、さらに中兵参軍王霊秀ら四将に兵を分けて夏口へ出て魯山に拠らせた。
- 癸巳、攸之が夏口に至った。兵の強さを恃んで驕った色があり、郢城は小さくて攻めるに足らぬと言い、「安西(武陵王贊)に見舞いに行き、しばらく黄金浦に泊まる」と称し、人を遣わして柳世隆に「太后の令を受けてしばらく都に還る。卿も共に国に奉ずる身、この意を汲まれよ」と告げさせた。世隆は「東下の師のことは久しく噂に聞いております。郢城は小鎮、自ら守るだけです」と答えた。
- 宗儼之は攸之に郢城を攻めるよう勧めた。臧寅は「郢城は兵は少なくとも地は険しく、攻守の勢いが異なります。旬日で落とせるものではない。時機を逸すれば鋭気を挫き威を損ないます。今、流れに順って長駆すれば日を数えて勝てます。根本が傾けば、郢城とて自ら固められましょうか」と言い、攸之はその計に従い、別動隊を残して郢城を守らせ、自ら大衆を率いて東下することにした。
- 乙未、出発しようとしたところ、柳世隆が人を西渚に遣わして挑戦させ、前軍中兵参軍焦度が城楼の上から攸之を思うさま罵り、汚い言葉で辱めた。攸之は怒って計を改め城を攻めることとし、諸軍に上陸させ郭邑を焼き、長囲を築いて昼夜攻め戦った。世隆は宜しきに応じて防ぎ、攸之は落とせなかった。
- 道成は呉興太守沈文秀に呉・銭唐の軍事を督させ、文秀は攸之の弟の新安太守沈登之を捕らえ、その一族を誅した。
- 乙未、後軍将軍楊運長を宣城太守とした。こうして太宗の寵臣で禁省にいる者はいなくなった。
史論(沈約論曰)
- 人君は南面して九重の奥に絶し、朝夕に陪り奉る者は義において卿士と隔たる。階と闥の任には司る者があるべきだ。ところが恩は馴れ合いから生じ、信は恩によって固まる。憚るべき姿なく、親しみやすい顔がある。孝建・泰始には主の威が独り運び、刑政は入り乱れ、道理としてすべてには通じきれず、耳目を寄せる先は側近に帰した。彼らは喜怒をうかがい機嫌を伺い、動けば主の情に中り、挙げれば旨に違わない。人主は彼らの身が卑しく位が薄いから権は重くなるまいと思うが、鼠が社を恃んで貴くなり、狐が虎の威を藉ることを知らない。外には主に迫るという嫌疑がなく、内には専用の効がある。勢いは天下を傾けても、悟る者はない。太宗の晩年に至って盛衰を慮ると、寵幸の徒は宗戚を恐れ憚り、幼主を孤立させて永く国権を窃もうとし、異同を構え、禍の隙を植えた。帝の弟や宗室の王が相次いで屠られ、宝祚が早く傾いたのは、実にこれによるのである。
- 辛丑、尚書左丞である済陽の江謐が、蕭道成に黄鉞を仮すよう建議し、従われた。
- 乙巳、蕭道成が出て新亭に陣し、驃騎参軍江淹に「天下は紛々としている。君はどう思うか」と問うた。淹は答えた。「成敗は徳にあって衆寡にはありません。公は雄武で奇略がある。これが一の勝ち。寛容で仁恕である。二の勝ち。賢能が力を尽くす。三の勝ち。民望の帰するところ。四の勝ち。天子を奉じて叛逆を伐つ。五の勝ち。彼は志は鋭くとも器が小さい。一の敗け。威はあっても恩がない。二の敗け。士卒が離散している。三の敗け。搢紳が懐かない。四の敗け。兵を数千里の彼方に懸けながら悪を共にして助ける者がない。五の敗け。豺狼十万といえど、ついに我らの獲物です」。道成は笑って「君の談は過ぎたるものだ」と言った。
- 南徐州行事劉善明が道成に言った。「攸之は衆を集め騎を蓄え、舟を造り械を治め、禍心を包み隠して今に十年。性は険しく躁がしく、才は持重ではありません。逆を起こして幾旬も遅れて進まぬのは、一に兵機に暗く、二に人情が離れ怨み、三に肘を掣かれる患いがあり、四に天がその魄を奪ったからです。もともと彼の剽悍で軽捷なこと、備えぬところを掩い襲い一戦で決するのを憂えておりましたが、今や六師が一斉に奮い諸侯が共に挙がっている。籠の中の鳥にすぎません」。
- 蕭賾が周山図に攸之について問うた。山図は「攸之とは近隣同士で、たびたび共に征伐しました。その人となりはよく承知しております。性度は険しく刻薄で士心が付いておりません。今、堅城の下に兵を止めているのは、ちょうど離散の始まりとなるだけです」と言った。
二年(478年)
- 春正月己酉朔、百官が戎服で入朝した。沈攸之が精鋭を尽くして郢城を攻め、柳世隆は隙に乗じてたびたび破った。蕭賾は軍主桓敬ら八軍を西塞に拠らせて世隆の後援とした。
- 攸之は郢府の法曹である南郷の范雲を捕らえ、書を城に届けさせ、武陵王贊に犢一頭、柳世隆に魚三十尾を贈った。いずれも頭を落としてあった。城中は雲を殺そうとしたが、雲は「老母と幼い弟の命が沈氏に懸かっている。命に背けば禍は必ず親に及ぶ。今日、戮に就くのは薺を食うほど甘んじて受ける」と言い、赦された。
- 攸之は将の皇甫仲賢を武昌へ、中兵参軍公孫方平を西陽へ向かわせた。武昌太守臧渙は攸之に降り、西陽太守王毓は湓城へ逃げ、方平が西陽に拠った。豫州刺史劉懐珍が建寧太守張謨らに一万人で撃たせ、辛酉、方平は敗走した。平西将軍黄回らの軍が西陽に至り、流れを遡って進んだ。
- 攸之は日ごろ人情を失っており、ただ威力で脅すだけだった。江陵を発ったときすでに逃げる者があり、郢城を攻めて三十余日も落とせぬうちに逃げる者が次第に増えた。攸之は朝夕に馬に乗って営を巡り撫慰したが、去る者は絶えなかった。
- 攸之は激怒して諸軍主を召して言った。「私は太后の令を受けて義を建て都へ下る。大事が成れば白紗の帽を共に着けよう。振るわねば朝廷は私を誅すだけで、私の一族百人のこと、他の者には関わらぬ。近ごろ軍人が叛き散っているのは、みな卿らが意に介さぬからだ。私も逃げた者を問わぬ。今後、軍中に叛く者があれば、軍主がその罪を負え」。そこで一人が叛くと人を遣わして追わせたが、その者もまた去って返らず、誰も発覚させる勇気がなくなり、みな異心を抱いた。
- 劉攘兵が書を射て城に入れ、降を請うた。柳世隆は門を開いて受け入れた。丁卯の夜、攘兵は営を焼いて去った。軍中は火が上がるのを見て争って甲を棄てて逃げ、将帥も禁じられなかった。攸之はこれを聞いて怒り、鬚を銜んで噛み、攘兵の兄の子の劉天賜と婿の張平虜を捕らえて斬った。
- 明け方近く、攸之は衆を率いて江を渡り魯山に至ったが、軍はついに大いに散り、諸将はみな逃げた。臧寅は「その成功を幸いとしながら敗北を棄てるのは、私には忍びない」と言って水に身を投げて死んだ。
- 攸之にはなお数十騎が従っていた。軍中に令を宣べて「荊州城中には大量の銭がある。共に帰って取り、資糧としよう」と言った。郢城からはまだ追軍が出ておらず、散った軍は蛮の掠奪を恐れて改めて集まり、二万人ほどが攸之に従って江陵へ帰った。
- 張敬児は攸之の使者を斬ってから、兵を整えて攸之の動向を偵察しており、そのまま江陵を襲った。攸之は子の元琰と兼長史江乂・別駕傅宣に共に江陵城を守らせていた。敬児は沙橋に至って様子をうかがい進まなかったが、城中は夜に鶴の声を聞いて軍が来たと思い、また傅宣が門を開いて逃げ出したので、吏民は崩れ潰えた。元琰は寵洲へ逃げたが人に殺された。敬児は江陵に至って攸之の二子と四人の孫を誅した。
- 攸之は江陵まで百余里の所で、城がすでに敬児に押さえられたと聞き、従っていた士卒はみな散った。攸之は帰する所がなく、子の沈大和と華容の境まで逃げ、ともに櫟の林で首を吊った。己巳、村民が首を斬って江陵に送った。敬児は楯に掲げ青い傘で覆って市や郭を巡らせ、建康に送った。敬児は攸之の親党を誅し、その財物数十万を収めてみな私したものにした。
- はじめ倉曹参軍である金城の辺栄が府の録事に辱められ、攸之は栄のために録事を鞭殺した。敬児が来ようとしたとき、栄は留守府の司馬だった。ある者が敬児のもとへ行って降るよう説いたが、栄は「沈公の厚恩を受け、共にこれほどの大事に当たった。一朝の急に本心を易々と変えることは、私にはできぬ」と言った。城が潰えて軍士が捕らえて敬児に会わせた。敬児が「辺公はなぜ早く来なかったのか」と言うと、栄は「沈公に留守を託された。捨てて去るに忍びなかった。もとより生を祈ってはおらぬ。何を問う必要があろう」と答えた。敬児は「死ぬのは何の難しいこともない」と言って斬るよう命じた。栄は喜んで笑いながら去った。
- 栄の客である太山の程邕之が栄を抱いて「辺公と交わってきた身、辺公の死を見るに忍びない。先に殺してほしい」と言った。兵は処刑できず敬児に申し出た。敬児は「死を求めるのは易い。なぜ許さぬ」と言い、先に邕之を殺してから栄を殺した。軍人で涙を流さぬ者はなかった。
- 孫同・宗儼之らはみな誅された。丙子、戒厳を解いた。侍中柳世隆を尚書右僕射とし、蕭道成は東府に還り鎮した。丁丑、左衛将軍蕭賾を江州刺史、侍中蕭嶷を中領軍とした。
- 二月庚辰、尚書左僕射王僧虔を尚書令、右僕射王延之を左僕射とした。癸未、蕭道成に太尉・都督南徐等十六州諸軍事を加え、衛将軍褚淵を中書監とした。司空道成は黄鉞を返上した。
- 夏四月、蕭道成は黄回がいずれ禍乱を起こすと見た。回には部曲数千人があり、捕らえに人を遣わせば乱を起こすのを恐れた。辛卯、回を東府に召し、外の斎に留めて、桓康に数十人を率いさせて回の罪を数えて殺させた。
- 秋八月乙未、蕭賾を領軍将軍、蕭嶷を江州刺史とした。
- 九月、蕭道成は当代の賢者を引き入れて大業を賛けさせようとし、夜に驃騎長史謝朏を召して人を退けて語ることしばらく。朏は何も言わず、ただ二人の小さな子が燭を持っていた。道成は朏が言いにくいのかと慮って燭を取って子らを退けたが、朏はやはり何も言わなかった。道成はそこで左右を呼んだ。朏は謝荘の子である。
- 太尉右長史王倹はその意を察し、後日、人払いを請うて道成に言った。「功高くして賞せられぬ例は古今に一つではありません。公の今日の位と地をもって、終生北面しておられてよいのですか」。道成は色を正して抑えたが、その表情には内心の和らぎがあった。倹はそこで言った。「倹は公の格別の目をかけていただいたので、言いにくいことを吐いたのです。なぜそう深く拒まれるのか。宋氏は徳を失っており、公でなければ誰が安んじ済えましょう。ただ人情は薄く、長くは持ちません。公がもう少し先延ばしにされれば、人望は去ります。大業が永く沈むだけでなく、七尺の身も保てなくなりましょう」。道成は「卿の言に理がないでもない」と言った。
- 倹は「公の今の名位はしょせん通常の宰相です。礼は諸侯を絶して、わずかにでも変革を示すべきです。まず褚公に知らせるべきでしょう。倹が命を銜えて参りましょう」と言った。道成は「私が自ら行こう」と言った。数日して道成は自ら褚淵を訪ね、懇ろに語って時を移し、そして「私は官を得る夢を見た」と言った。淵は「今の任命がまだ始まったばかりです。一、二年のうちにはそう簡単に移れますまい。それに吉夢が必ずしも旦夕に応ずるとは限りません」と言った。道成が帰って倹に告げると、倹は「褚どのは道理に達しておられぬだけです」と言った。
- 倹はそこで議を唱えて道成に太傅を加え黄鉞を仮すこととし、中書舎人虞整に詔を作らせた。道成の親しい任遐が「これは大事です。褚公に報せるべきです」と言った。道成が「褚公が従わねばどうする」と言うと、遐は「彦回(淵)は身を惜しみ妻子を守る人で、奇才も異節もありません。遐が制してみせます」と言った。淵は果たして異を唱えなかった。
- 丙午、詔で道成を仮黄鉞・大都督中外諸軍事・太傅・領揚州牧とし、剣履のまま殿に上り、入朝しても小走りせず、儀礼で名を称されぬこととし、使持節・太尉・驃騎大将軍・録尚書・南徐州刺史は元のままとした。道成は殊礼を固辞した。
- 戊申、太傅道成が蕭映を南兖州刺史とした。冬十月丁丑、蕭晃を豫州刺史とした。
斉高帝建元元年(479年)
- 春正月甲辰、江州刺史蕭嶷を都督荊湘等八州諸軍事・荊州刺史とした。
- 太傅道成は謝朏に重い名声があるので、どうしても引き入れて佐命に加えたいと思い、左長史とした。あるとき酒宴で魏晉の故事を論じ、「石苞が早くに晉の文帝に勧めず、死んでから慟哭したのは、馮異になぞらえても機を知る者ではない」と言った。朏は「晉の文帝は代々魏室に仕えており、必ず身を終えるまで北面するつもりでした。かりに魏が唐虞の故事に倣ったとしても、三度譲ってこそいよいよ高いのです」と言った。道成は不快になった。甲寅、朏を侍中とし、改めて王倹を左長史とした。
- 丙辰、給事黄門侍郎蕭長懋を雍州刺史とした。
- 二月甲午、詔で前の命を重ねて申し、太傅に儀礼で名を称さぬことを命じた。
- 三月甲辰、太傅を相国・総百揆とし、十郡を封じて斉公とし、九錫を加え、驃騎大将軍・揚州牧・南徐州刺史は元のままとした。乙巳、詔で斉国の官爵と礼儀をすべて天朝に倣わせた。丙午、世子の賾に南豫州刺史を領させた。
- 楊運長が宣城郡を去って家に帰ると、斉公は人を遣わして殺した。凌源令の潘智は運長と親しかった。臨川王劉綽は劉義慶の孫である。綽は腹心の陳讃を遣わして智に説いた。「君は先帝の旧人、身は宗室の近縁。この形勢でどうして長く全うできよう。もし内外の者を糾合すれば、従う者は多かろう。台城の内の人も常にその心を抱いており、ただ言い出す者がいないのに苦しんでいるだけだ」。智はただちに斉公に告げ、庚戌、綽の兄弟とその党与を誅した。
- 甲寅、斉公が策命を受け、その境内に大赦し、石頭を世子の宮として一切東宮に倣わせた。褚淵は何曾が魏の司徒から晉の丞相となった故事を引いて斉の官になることを求めたが、斉公は許さなかった。王倹を斉の尚書右僕射・領吏部とした。倹は時に二十八歳。
- 夏四月壬申朔、斉公の爵を王に進め、十郡を加封した。甲戌、武陵王贊が没した。病死ではなかった。丙戌、斉王に殊礼を加え、世子を太子に進めた。
- 辛卯、宋の順帝が詔を下して斉に禅位した。壬辰、帝は殿前に臨むはずだったが出ようとせず、仏の蓋の下に逃げ隠れた。王敬則が殿庭に兵を整え、板輿を入れて帝を迎えた。太后は恐れて自ら宦官を率いて捜し出した。敬則が申し諭して出させ、車に乗せた。帝は涙を収めて敬則に「私を殺す気か」と言った。敬則は「別宮にお住まいいただくだけです。官家(陛下)が先に司馬家からお取りになったときも同じでした」と答えた。帝は泣いて指を弾き、「願わくは後の世、二度と天王の家に生まれませんように」と言った。宮中はみな哭した。帝は敬則の手を叩いて「決してご心配なく。輔国に十万銭を差し上げよう」と言った。
- この日、百官が陪席した。侍中謝朏が当直で璽綬を解くべき役だったが、知らぬふりをして「何の公事か」と言った。伝詔が「璽綬を解いて斉王に授けるのです」と言うと、朏は「斉には自ずと侍中がいるはずだ」と言い、そのまま枕を引き寄せて横になった。伝詔は恐れて、朏に病と称させて代わりの者を立てようとした。朏は「私に病はない。何を言うことがあろう」と言い、朝服のまま歩いて東掖門を出、そのまま車に乗って邸に帰った。そこで王倹を侍中として璽綬を解かせた。
- 礼が終わると帝は画輪車に乗って東掖門を出、東邸に就いた。「今日はなぜ鼓吹を奏さぬのか」と問うたが、左右に答える者はなかった。
- 右光禄大夫王琨は王華の従父の弟で、晉の世にすでに郎中となっていた。ここに至って車の獺尾にすがって慟哭し、「人は長寿を歓びとするが、老臣は長寿を悲しみとする。螻蟻に先んじて死ねなかったばかりか、またこんな事を目にするとは」と言い、咽んで自ら抑えられなかった。百官は雨のように涙を流した。
- 司空兼太保褚淵らが璽綬を奉り、百官を率いて斉の宮に赴いて即位を勧めた。王は辞譲して受けなかった。淵の従弟の前成安太守褚炤が淵の子の褚賁に「司空は今日どこにおられる」と問うた。賁が「璽綬を奉じて斉の大司馬門におられます」と答えると、炤は「お前の家の司空が一つの家の物を別の家に与えたところで、何と言えばよいのか分からぬ」と言った。
- 甲午、王が南郊で皇帝に即位し、宮に還って大赦・改元した。宋の順帝を汝陰王として奉じ、優遇の礼はすべて宋の初めに倣った。丹陽に宮を築き、兵を置いて守衛させた。宋の神主は汝陰の廟に移した。諸王はみな公に降し、斉室に力を尽くした者以外はみな国を除いた。ただ南康・華容・䓑郷の三国だけを置いて劉穆之・王弘・何無忌の後を継がせた。国を除かれた者は総計百二十人。二台の官僚は任に応じて職を摂り、名号が異なるものや定員を超えるものは別に詳しく議することとした。
- 褚淵を司徒とした。祝賀の賓客が座に満ちた。褚炤は嘆じて「彦回は若い頃に名と行いを立てたのに、どうして乱れてここまで落ちたのか。門戸の不幸で、今日のこの拝命がある。彦回が中書郎で死んでいれば、一人の名士であり得たろうに。名徳が昌えぬまま、あまつさえ長寿を得るとは」と言った。淵は固辞して拝さなかった。
- 奉朝請である河東の裴顗が上表して帝の過悪を数え、冠を掛けてまっすぐ去った。帝は怒って殺した。
- 太子賾が謝朏を殺すよう請うた。帝は「殺せばその名を成させるだけだ。度外に容れておけばよい」と言った。久しくして事に託けて家に廃した。
- 帝は前撫軍行参軍である沛国の劉瓛に政について問うた。瓛は「政は孝経にあります。およそ宋氏が亡んだ理由も、陛下が得られた理由も、すべてそこにあります。陛下がもし前車の失を戒め、寛厚を加えられれば、危うくとも安んじられます。もしその覆轍を踏まれれば、安らかであっても必ず危うくなりましょう」と答えた。帝は嘆じて「儒者の言は万世の宝とすべきだ」と言った。
- 夏五月己未、ある者が馬を走らせて汝陰王の門前を過ぎた。衛士は乱を起こす者かと恐れ、駆け入って王を殺し、病死と報告した。上は罪せず、かえって賞した。
- 辛酉、宋の宗室の陰安公劉燮らを殺した。老若を問わずみな死んだ。前豫州刺史劉澄之は劉遵考の子で、褚淵と親しく、淵がそのために固く請うて「澄之兄弟は武ならず、また劉宗としても遠縁です」と言ったので、遵考の一族だけが免れた。
- 丙寅、皇考に宣皇帝、皇妣陳氏に孝皇后と追尊した。
- 丁卯、皇子の蕭鈞を衡陽王に封じた。
- 六月甲子、王太子賾を皇太子に立て、皇子の蕭嶷を豫章王、蕭映を臨川王、蕭晃を長沙王、蕭曄を武陵王、蕭暠を安成王、蕭鏘を鄱陽王、蕭鑠を桂陽王、蕭鑑を広陵王、皇孫の蕭長懋を南郡王とした。
- 乙酉、宋の順帝を遂寧陵に葬った。