通鑑紀事本末南郡王の叛乱(南郡王之叛)

太子劭の討伐で第一の功とされた南郡王劉義宣と江州刺史臧質が、驕り高ぶって孝武帝と対立し、豫州刺史魯爽・兖州刺史徐遺宝を誘って挙兵した反乱。孝建元年(454年)の一年のうちに、魯爽は薛安都に斬られ、義宣と質は梁山で王玄謨・柳元景・垣護之らに大敗し、質は南湖で射殺され、義宣は江陵で朱脩之に誅された。乱の後、荊・揚の力を削ぐため東揚州と郢州が置かれた。

年表(2件)
  • 武帝
  • 孝建元年454年臧質が義宣を誘い、魯爽が誤って先に挙兵して寿陽で号を建てる
  • 孝建元年つづき梁山の戦いで義宣・質が大敗し、質は射殺され義宣は江陵で誅される

武帝孝建元年(454年)

  • はじめ江州刺史臧質は、自分の人才は一世の英雄たるに足ると自負していた。太子劭の乱のとき、質はひそかに異図を抱き、荊州刺史南郡王義宣が凡庸暗愚で制しやすいと見て、表向きは推し立てておいてそのうえで覆そうと考えた。質は義宣にとって内兄(妻の兄)にあたる。江陵に着くとすぐ名を称して義宣に拝礼した。義宣が驚いて理由を問うと、質は「事情としてそうすべきです」と答えた。当時、義宣はすでに帝を主と奉じていたので、質の計は行われなかった。新亭に至ると、また江夏王義恭に拝礼して「天下は危難のとき、礼も常日とは異なります」と言った。
  • 劭が誅されると、義宣と質はいずれも功が第一とされた。これで驕り恣まになり、事の多くを専断し、求めるものは何でも必ず通った。義宣は荊州にあること十年、財は富み兵は強く、朝廷が下す制度も意に合わなければ一切従わなかった。質が建康から江州へ行くとき、船千余艘、部隊は前後百余里に及んだ。
  • 帝はまさに自ら威権を執ろうとしていたのに、質は年少の主として遇し、政も刑も慶賞も一切諮らず、湓口の鉤折米(税米)を勝手に使った。中央から符が下ってたびたび問い質され、次第に猜疑と恐れが生じた。帝は義宣の娘たちを犯し、義宣はこれで恨み怒った。
  • 質はひそかに使いを送って義宣に説いた。「賞しきれぬ功を負い、主を震わす威を挟んで、古来身を全うできた者が幾人いましょう。今、万物の心は公に懸かり、その声も跡もすでに顕れております。機を見て動かねば、他人に先を越されます。今、徐遺宝と魯爽が西北の精兵を駆って長江のほとりに屯し、質が九江の楼船を率いて公の前駆となれば、すでに天下の半ばを得たも同然。公が八州の衆でゆっくり進んで臨めば、韓信・白起が生き返っても建康のために計を立てられますまい。それに少主の失徳は道行く人の口の端に上っております。沈氏・柳氏の諸将も我らの旧知。誰が少主のために力を尽くしましょう。留められぬのは年、失ってはならぬのは時です。質は常々、朝露より先に消えて、その力を尽くして公のために掃除できぬのではと恐れております。そのとき悔いても及びません」。
  • 義宣の腹心の将佐である諮議参軍蔡超、司馬竺超民らはみな富貴を望み、質の威名に頼って業を成そうと、そろって義宣に質の計に従うよう勧めた。質の娘は義宣の子の劉採之の妻だった。義宣は質にもう異心はあるまいと思って許した。超民は竺夔の子である。
  • 臧敦は当時、黄門侍郎だった。帝が敦を義宣のもとへ遣わし、道中で尋陽を通った。質はさらに敦に義宣を説き誘わせ、義宣の意はついに定まった。
  • 豫州刺史魯爽は勇力があり、義宣と質は日ごろから結んでいた。義宣はひそかに人を遣わして爽および兖州刺史徐遺宝に報せ、今秋に共に挙兵すると約した。使者が寿陽に着いたとき、爽はちょうど酒を飲んで酔っており、義宣の趣旨を取り違え、その日のうちに挙兵した。爽の弟の魯瑜は建康にいたが、これを聞いて逃亡した。爽は衆に黄色い標を付けさせ、勝手に法服を作り、壇に登って建平元年と号した。長史韋処穆、中兵参軍楊元駒、治中庾騰之が自分と同心でないと疑ってみな殺した。徐遺宝も兵を整えて彭城へ向かった。
  • 二月、義宣は爽がすでに反したと聞いて、慌ただしく挙兵した。魯瑜の弟の魯弘が質の府佐だったので、帝は質に捕らえるよう勅した。質はそのまま中央の使者を捕らえて挙兵した。義宣と質はともに上表して、側近に讒言され憎まれているので君側の悪を誅したいと言った。
  • 義宣は爽の号を征北将軍に進めた。爽はそこで作った輿と服を江陵に送り、征北府の戸曹に義宣らを板授する文書を作らせた。「丞相の劉、今、天子に補す。名は義宣。車騎の臧、今、丞相に補す。名は質。西平の朱、今、車騎に補す。名は脩之。いずれも板が到り次第、奉行せよ」。義宣は驚愕し、爽が送った法物はみな竟陵に留めて進ませなかった。質は魯弘に輔国将軍を加えて大雷に下し戍らせ、義宣は諮議参軍劉諶之に一万人を与えて弘に合流させた。
  • 司州刺史魯秀を召して諶之の後詰にしようとした。秀は江陵に至って義宣に会い、出てから胸を打って「わが兄が私を誤らせた。愚か者と組んで賊になるとは。今年は敗れる」と言った。
  • 義宣は荊・江・兖・豫の四州の力を兼ね、威は遠近に震えた。帝は乗輿と法物を奉じて迎えようとしたが、竟陵王誕が固く不可とし、「なぜこの座を人に譲るのか」と言ったので取りやめた。
  • 己卯、領軍将軍柳元景を撫軍将軍とした。辛卯、左衛将軍王玄謨を豫州刺史とし、元景に玄謨ら諸将を統べて義宣を討たせた。癸巳、梁山洲に進拠し、両岸に偃月の塁を築き、水陸で待った。
  • 義宣は都督中外諸軍事を自称し、僚佐にみな名を称させた。
  • 丙申、安北司馬夏侯祖歓を兖州刺史とした。三月己亥、内外を戒厳した。辛丑、徐州刺史蕭思話を江州刺史、柳元景を雍州刺史とした。癸卯、太子左衛率龐秀之を徐州刺史とした。
  • 義宣は州郡に檄を移して位号を進め、共に兵を出させようとした。雍州刺史朱脩之は偽って承諾しておいて使者を送って帝に誠意を陳べた。益州刺史劉秀之は義宣の使者を斬り、中兵参軍韋崧に一万人で江陵を襲わせた。
  • 戊申、義宣は十万の衆を率いて江津を発ち、舳艫は数百里に及んだ。子の劉慆を輔国将軍として左司馬竺超民とともに江陵に留めて鎮させた。朱脩之に檄を送って一万の兵を出して続かせようとしたが、脩之は従わなかった。義宣は脩之が二心を抱いていると知り、魯秀を雍州刺史として一万余人で撃たせた。王玄謨は秀が来ないと聞いて喜び、「臧質など御しやすい」と言った。
  • 冀州刺史垣護之の妻は徐遺宝の姉だった。遺宝は護之を誘って共に反そうとしたが、護之は従わず、兵を出して撃った。遺宝は兵を送って彭城の徐州長史明胤を襲ったが落とせず、胤は夏侯祖歓・垣護之とともに湖陸で遺宝を撃った。遺宝は衆を捨て城を焼いて魯爽のもとへ逃げた。
  • 義宣は尋陽に至り、質を前鋒として進んだ。爽もまた兵を率いてまっすぐ歴陽へ向かい、質と水陸ともに下った。殿中将軍沈霊賜が舸百艘で南陵に質の前軍を破り、軍主徐慶安らを捕らえた。質は梁山に至り、両岸に陣を張って官軍と対峙した。
  • 夏四月戊辰、後将軍劉義綦を湘州刺史とした。甲申、朱脩之を荊州刺史とした。
  • 上は左軍将軍薛安都と龍驤将軍である南陽の宗越らを遣わして歴陽に戍らせ、魯爽の前鋒楊胡興らと戦って斬った。爽は進めず、軍を大峴に留め、魯瑜を小峴に屯させた。上はさらに鎮軍将軍沈慶之を長江を渡らせ、諸将を督して爽を討たせた。
  • 爽は食が少なく、兵を率いて少しずつ退き、自ら殿軍を務めた。慶之は薛安都に軽騎で追わせた。丙戌、小峴で爽に追いついた。爽は戦おうとして酒を飲みすぎて泥酔していた。安都は爽を見つけるや馬を躍らせ大声を上げてまっすぐ突き刺し、爽は手ごたえのままに倒れた。左右の范双がその首を斬った。爽の衆は逃げ散り、瑜も部下に殺された。そのまま寿陽に進攻して落とした。徐遺宝は東海へ逃げたが、東海の人に殺された。

史論(李延壽論曰)

  • 凶人がその身を成すのは乱世でなければできない。魯爽は乱世の心根を平時に行った。敗れたのも当然である。

孝建元年つづき

  • 南郡王義宣が鵲頭に至ると、慶之は爽の首を送って示し、あわせて書を送った。「僕は一方の任を負いながら、統べる地の近くで乱が生じました。いささか軽装の軍を率いて討ち平らげに参りましたが、軍鋒が及ぶや賊爽は首を差し出しました。公とは並々ならぬ交わりがおありでしょうから、まだ見分けのつくうちにお目にかけようと送り届けます」。爽は代々の将家の出で驍猛にして善戦し、万人の敵と呼ばれていた。義宣と質はその死を聞いてみな驚き恐れた。
  • 柳元景が采石に陣した。王玄謨は臧質の衆が盛んなので使者を送って増兵を求めた。上は元景を姑孰に進み屯させた。
  • 太傅義恭が義宣に書を送った。「かつて殷仲堪は桓玄に兵を貸し、玄はまもなくその一族を害した。孝伯は劉牢之に誠を尽くしたが、たちまち敗れた。臧質は若い頃から善行がないことは、弟(あなた)もよくご存じのはず。今、西楚の強大な力を借りて私欲を遂げようとしている。凶謀が成れば、もはや池の中の物ではありますまい」。義宣はこれで質を疑うようになった。
  • 五月甲辰、義宣が蕪湖に至った。質が計を進めた。「今、一万人で南州を取れば梁山は中断されます。一万人で梁山を牽制すれば玄謨は必ず動けません。下官が中流で棹を鳴らしてまっすぐ石頭へ向かう。これが上策です」。義宣は従おうとしたが、劉諶之がひそかに「質が前駆を求めるのは志が測りがたい。精鋭をすべて注いで梁山を攻め、成功してから長駆するのが万全の計です」と言い、義宣は取りやめた。
  • 冗従僕射胡子反らが梁山の西塁を守っていた。折しも西南の風が強く、質は将の尹周之に西塁を攻めさせた。子反はちょうど東岸に渡って玄謨と軍議をしていたが、聞いて駆け戻った。周之の攻めは甚だ急で、偏将劉季之が水軍を率いて決死で戦い、玄謨に救援を求めた。玄謨は送らなかったが、大司馬参軍崔勲之が強く争ったので、勲之と積弩将軍垣詢之を救援に送った。着いたときには城はすでに陥ち、勲之も詢之も戦死した。詢之は垣護之の弟である。子反らは東岸に逃げ帰った。
  • 質はまた将の龐法起に数千の兵で南浦へ向かわせ、背後から玄謨を襲おうとしたが、遊撃将軍垣護之が水軍を率いて戦い破った。
  • 朱脩之は馬鞍山の道を断ち、険に拠って自ら守った。魯秀は攻めても落とせず、たびたび脩之に敗れて江陵へ帰った。脩之は兵を率いて追尾した。ある者が急追を勧めたが、脩之は「魯秀は驍将だ。獣は窮すれば掴みかかる。追い詰めてはならぬ」と言った。
  • 王玄謨は垣護之に柳元景へ急を告げさせた。「西城が守れず、残るは東城だけ。敵軍は数倍で強弱が釣り合いません。姑孰へ退いて節下と協力して当たり、改めて進取を議したい」。元景は許さず、「敵の勢いは今まさに盛んで、先に退くことはできぬ。私が甲を巻いて赴こう」と言った。護之は「敵は南州に三万人いると思っておりますが、将軍の麾下はその十分の一。もし敵の塁に近づけば虚実が露見します。王豫州(玄謨)は必ず来られません。兵を分けて援けるのがよろしい」と言った。元景は「よし」と言い、弱兵を残して自ら守り、精兵をすべて玄謨の助けに送り、旗を多く立てさせた。梁山から望むと数万人に見え、みな建康の兵が総出で来たと思って衆心は安んじた。
  • 質は自ら東城を攻めたいと申し出た。諮議参軍顔楽之が義宣に「質がまた東城を落とせば、大功はすべて彼のものになります。麾下を遣わして自ら行かせるべきです」と説き、義宣は劉諶之を質とともに進ませた。
  • 甲寅、義宣が梁山に至り、両岸に兵を置いた。質と劉諶之が東城に進攻した。玄謨は諸軍を督して大いに戦い、薛安都が突騎を率いて先にその陣の東南を衝いて陥れ、諶之の首を斬った。劉季之と宗越もその西北を陥れ、質らの兵は大敗した。垣護之が長江の中の舟艦を焼き、煙と炎が水を覆い、西岸の営塁まで延焼してほぼ焼き尽くした。諸軍が勢いに乗って攻め、義宣の兵も潰えた。
  • 義宣は小舟一艘で逃げ、戸を閉じて泣いた。荊州の人で従う者はなお百余艘あった。質は義宣に会って計を立てようとしたが、義宣はすでに去っていた。質はどうしてよいか分からず、やはり逃げ、その衆はみな降るか散った。己未、戒厳を解いた。
  • 六月、臧質が尋陽に至って府舎を焼き、妓妾を載せて西へ逃げた。寵臣の何文敬に残兵を率いて前を行かせた。西陽に至ると、西陽太守魯方平が文敬を欺いて「詔書では元凶だけを捕らえ、その他は問わぬそうだ。逃げるにしくはない」と言い、文敬は衆を捨てて逃げ去った。質は先に妹の夫の羊沖を武昌郡に置いていたのでそこへ身を寄せようとしたが、沖はすでに郡丞胡庇之に殺されていた。質は帰する所がなく南湖に逃げ、蓮の実を採って食べた。追手が来ると、荷の葉で頭を覆って水に沈み、鼻だけを出した。戊辰、軍主の鄭俱兒が見つけて射て心臓を射抜き、兵刃が乱れ加わり、腸と胃が水草に絡んだ。首を斬って建康に送り、子孫はみな棄市された。あわせてその一党の豫章太守である楽安の任薈之、臨川内史劉懐之、鄱陽太守杜仲儒を誅した。仲儒は杜驥の兄弟である。功臣の柳元景らにはそれぞれ差をつけて封賞した。
  • 丞相義宣は逃げて江夏に至ったが、巴陵に軍があると聞いて江陵へ引き返した。衆はほとんど散り尽くし、左右十人ばかりと徒歩で行ったが、足が痛んで進めず、民から露天の車を借りて自ら乗り、道々食を求めた。江陵の郭外に至って人を遣わして竺超民に報せ、超民は羽儀と兵衆を整えて迎えた。
  • 当時、荊州にはなお一万余の甲兵がいた。側近の翟霊宝が義宣に、将佐を撫慰して「臧質が指示に違ったので利を失った。今、兵を整え甲を繕って改めて後図を立てる。昔、漢の高祖は百度敗れてついに大業を成した」と言うよう教えた。ところが義宣は霊宝の言を忘れ、誤って「項羽は千度敗れた」と言ったので、衆はみな口を覆った。魯秀や竺超民らはなお残兵を集めてもう一度決戦を図ろうとしたが、義宣は呆けて塞ぎ込み、正気を失い、奥に入ったきり出て来なかった。左右の腹心も次第に離れ叛いた。
  • 魯秀が北へ逃げた。義宣は自立できず、秀に随って行こうとし、子の慆と愛妾五人に男の服を着せて連れ立った。城内は騒乱し白刃が交錯していた。義宣は恐れて落馬し、そのまま歩いて進んだ。竺超民が城外まで送り、改めて馬を与えた。超民が帰ると城門は閉ざされた。義宣は秀を探しても見つからず、左右はみな捨てて去った。夜、南郡の空き役所に戻った。翌朝、超民が捕らえて刺姦(監察官)に送った。義宣は獄の戸口に地べたに坐って「臧質の老いぼれが私を誤らせた」と嘆じた。五人の妾はまもなく追い出された。義宣は号泣して獄吏に「常日ごろは苦とは思わなかったが、今日の別れこそが苦しみだ」と言った。
  • 魯秀は衆が散って去れず、江陵へ引き返したが、城上の者が射かけ、秀は水に飛び込んで死んだ。その首が取られた。
  • 詔で右僕射劉延孫に荊・江二州の是非曲直を選り分けさせ、その場で誅と賞を行わせた。あわせて二州の地を分割し、新州を置く議を出した。
  • はじめ晉氏が南遷して以来、揚州を京畿とし、穀も帛もみなそこから出た。荊州と江州を重鎮とし、甲兵はみなそこに集まり、常に大将を置いた。三州の戸口は江南の半ばを占めた。上はその強大なのを嫌い、分割しようとしたのである。癸未、揚州の浙東五郡を分けて東揚州を置き会稽を治所とし、荊・湘・江・豫州の八郡を分けて郢州を置き江夏を治所とし、南蛮校尉を廃してその営を建康に移した。
  • 太傅義恭は郢州の治所を巴陵にすべきだと議した。尚書令何尚之は「夏口は荊と江の中間にあり、ちょうど沔口に向かい合い、雍・梁に通じており、実に要衝です。もとより旧鎮であり基盤は変えがたい。すでに城があり、浦は舟を大量に容れられるので、事に便利です」と言い、上はこれに従った。まもなく荊州と揚州はこれで虚耗し、尚之は二州を再び合わせるよう請うたが、上は許さなかった。
  • 上は宗室が強盛なのを嫌い、権が臣下にあるのを望まなかった。太傅義恭はその意を察して自ら削減を請うた。上は王公と八座に荊州刺史朱脩之への書を送らせ、丞相義宣に自ら処置させるよう命じた。書がまだ届かぬうちに、庚寅、脩之が江陵に入って義宣を殺し、あわせてその子十六人および同党の竺超民、従事中郎蔡超、諮議参軍顔楽之らを誅した。
  • 超民の兄弟も連座して誅されるはずだった。何尚之が上言した。「賊がすでに逃げ落ちれば、一人でも捕らえられます。もし超民が反覆して利に暗く従っていたなら、そのとき捕らえればよかった。それは咎を免れるだけでなく、不義の賞をも要求できたはず。ところが超民にはそういう意がまったくなかった。過ちを見てその仁を知るとはこのこと。それに官のために城府を保全し、庫蔵を謹んで守り、端座して縛につきました。今、誅が兄弟にまで及べば、他の逆党と変わらぬ扱いとなり、処置として重すぎます」。上はそこで赦した。