通鑑紀事本末太子劭の弑逆(太子劭弑逆)

宋の文帝の長子である劉劭が、生まれたときから不吉を言われながら太子に立てられ、弟の始興王劉濬とともに巫女厳道育を頼って巫蠱に手を染め、発覚して廃立を議されるや父帝を弑して即位した事件。元嘉三年(426年)の誕生から、武陵王劉駿が沈慶之・柳元景を擁して尋陽に挙兵し、劭と濬を斬って孝武帝として即位するまでの約三十年間を扱う。

年表(7件)
  • 宋文帝
  • 元嘉三年426年袁皇后が劉劭を生み、不吉として殺そうとするのを帝が止める
  • 六年429年劉劭を皇太子に立てる
  • 十五年438年殷淳の娘を太子劭の妃に迎える
  • 十六年439年太子劭が元服し、東宮の兵を羽林と同等に置く
  • 二十九年452年劭と濬の巫蠱が陳慶国の告発で発覚し、埋めた玉人も見つかる
  • 三十年453年劭が父文帝を弑して即位、武陵王駿が挙兵して劭と濬を斬り即位する
  • 武帝
  • 孝建元年454年改元して大赦し、皇子劉子業を皇太子に立てる

宋文帝元嘉三年(426年)

  • はじめ袁皇后が皇子劉劭を生んだ。后は自ら詳しく見て、急使で帝に「この子は形貌が尋常でない。必ず国を破り家を亡ぼす。育ててはなりません」と告げさせ、ただちに殺そうとした。帝は慌てて后の殿の戸外まで来て、手で帳を払って止めさせ、取りやめとなった。まだ諒闇(先帝の服喪)中だったので、このことは秘された。閏正月丙戌、はじめて劭の誕生が公にされた。

六年(429年)

  • 春三月丁巳、皇子劭を太子に立てた。

十五年(438年)

  • 夏四月、故黄門侍郎殷淳の娘を太子劭の妃に迎えた。

十六年(439年)

  • 乙亥、太子劭が元服し、大赦した。劭は鬢と眉が美しく、読書を好み、弓馬に巧みで、賓客を招くのを喜んだ。望むことは上が必ず聞き入れ、東宮に置く兵は羽林と同等だった。

二十九年(452年)

  • はじめ潘淑妃が始興王劉濬を生んだ。元皇后は嫉妬深い性で、淑妃が上に寵せられるのを恨んで没した。淑妃が内政を専ら総べたので、太子劭は淑妃と濬を深く憎んだ。濬は将来の禍を恐れて意を曲げて劭に仕え、劭も改めて親しくなった。
  • 呉興の巫女の厳道育は、辟穀・服食ができ鬼神を使役できると自称し、東陽公主の婢の王鸚鵡を通じて公主の家に出入りした。道育が公主に「神がまもなく符を賜ります」と言うと、公主は夜、螢のような光が書箱に飛び込むのを見た。開けてみると青い珠が二つあった。これで公主も劭も濬もみな信じ込んだ。
  • 劭と濬にはともに過失が多く、たびたび上に詰責された。道育に祈らせて過失が上の耳に届かぬようにしようとすると、道育は「私はすでに上天に願い出た。必ず漏れません」と言った。劭らは敬い仕えて「天師」と呼んだ。
  • その後、道育・鸚鵡および東陽公主の奴の陳天与、黄門の陳慶国とともに巫蠱を行い、玉を彫って上の像を作り、含章殿の前に埋めた。劭は天与を隊主に取り立てた。東陽王が没して鸚鵡が嫁に出るべきときになり、劭と濬は口が漏れるのを恐れた。濬の府佐である呉興の沈懐遠は日ごろ濬に厚遇されていたので、鸚鵡をその妾として嫁がせた。
  • 上は天与が隊を領していると聞いて劭を責め、「お前が用いた隊主・副はみな奴僕なのか」と言った。劭は恐れて書で濬に告げた。濬は返書して「彼の人がなおも同じことを続けるなら、その余命を縮めるだけのこと。あるいは大慶の兆しかもしれません」と言った。劭と濬が交わす書状では常に上を「彼の人」あるいは「その人」と呼び、江夏王義恭を「佞人」と呼んでいた。
  • 鸚鵡は以前から天与と私通しており、懐遠に嫁いでからは事が漏れるのを恐れて劭に告げ、ひそかに天与を殺させた。陳慶国は恐れて「巫蠱の事を知るのは私と天与だけで、伝令の往来をしてきた。今、天与が死んだ。私も危うい」と言い、事の次第をすべて上に告げた。
  • 上は大いに驚き、ただちに鸚鵡を捕らえてその家を封じて調べさせ、劭と濬の書状数百枚を得た。みな呪詛と巫蠱の言葉だった。また埋められた玉人も見つかり、有司に事を徹底追及させた。道育は逃亡し、捕らえられなかった。
  • これに先立ち、濬は揚州刺史から京口に出鎮していた。廬陵王劉紹が病で揚州を辞したとき、濬は自分が必ず戻れると思っていたが、上が南譙王義宣を用いたので甚だ不快になり、江陵への転鎮を求め、上は許した。濬は入朝し、京口へ帰されて赴任と留守の処置をした。京口に着いて数日で巫蠱の事が発覚した。上は幾日も嘆き、潘淑妃に「太子が富貴を図るのはまだ一つの理屈だ。だが虎頭(濬の幼名)までこうとは、思慮の及ぶところでない。お前たち母子は一日たりとも私なしでいられようか」と言い、中使を遣わして劭と濬を厳しく責めた。劭と濬は恐懼して言葉もなく、ただ謝るばかりだった。上は激怒しながらも、なお罪するには忍びなかった。

三十年(453年)

  • 春正月壬午、征北将軍始興王濬を荊州刺史とした。帝の怒りが解けず、濬は久しく京口に留められていたが、荊州に任じられてようやく入朝を許された。
  • 厳道育が逃亡すると、上は手分けして使者を出して厳しく捜索させた。道育は服を変えて尼となり東宮に隠れ、また始興王濬に従って京口に至り、あるときは民の張旿の家に身を寄せた。濬は入朝の際にまた東宮に載せて戻し、ともに江陵へ行こうとした。
  • 丁巳、上が殿前に臨み、濬が入って拝命した。この日、道育が張旿の家にいると告げる者があり、上は不意を襲って捕らえさせ、その婢二人を得た。婢は「道育は征北(濬)に従って都に帰りました」と言った。上は濬と太子劭がすでに道育を追い払ったと思っていたのに、なお往来があると聞いて、落胆し驚愕した。そこで京口に二人の婢を送らせ、到着して検証したうえで劭と濬の罪を治めることにした。
  • 潘淑妃は濬を抱いて泣き、「お前が前に呪詛の事を発覚させたときも、なお心を刻んで過ちを思うことを願っていた。それがなぜまた厳道育を匿ったのか。上のお怒りは甚だしい。私が叩頭して恩を乞うても解けない。今さら生きて何になろう。薬を送ってきなさい。私が先に自ら命を絶つ。お前の禍敗を見るに忍びない」と言った。濬は衣を払って立ち、「天下の事はいずれ自ずと決まります。少しお気を楽になさい。必ずご迷惑はおかけしません」と言った。
  • 帝は太子劭を廃し、始興王濬に死を賜ろうとし、まず侍中王僧綽と謀り、僧綽に漢・魏以来の太子・諸王を廃した先例を調べさせ、尚書僕射徐湛之と吏部尚書江湛に送らせた。
  • 武陵王劉駿は日ごろ寵がなく、たびたび外藩に出されて建康に留まれなかった。南平王劉鑠と建平王劉宏はいずれも帝に愛された。鑠の妃は江湛の妹、随王劉誕の妃は徐湛之の娘だったので、江湛は鑠を立てるよう勧め、徐湛之は誕を立てたいと考えた。
  • 僧綽は「立てる件は聖慮によります。臣が思いますに、速やかに断ずるべきで、遅らせてはなりません。断ずべきときに断ぜねば、かえってその乱を受けます。願わくは義をもって恩を割き、小さな忍びなさは度外視されますよう。そうでなければ、いっそ何もなかったかのように胸に収め、疑い論ずるのはおやめください。事機は密であっても漏れやすいもの。難が生じて後手に回り、千載の物笑いになってはなりません」と言った。帝は「卿は大事を断ずる者と言えよう。しかしこの事は極めて重い。慇懃に三思せずにはおれぬ。それに彭城(義康)を亡くしたばかりで、人は私にもう慈愛の道がないと言うだろう」と言った。僧綽は「臣は千載ののち、陛下は弟を裁けても子を裁けなかったと言われるのを恐れます」と言い、帝は黙った。
  • 江湛が同席していた。閤を出て僧綽に「卿の先ほどの言は、あまりに切り込みすぎではないか」と言うと、僧綽は「私もまた君が率直でないのを残念に思う」と答えた。
  • 鑠が寿陽から入朝したが、着いてみると帝の意に適わなかった。帝は宏を立てたかったが順序が違うのを憚り、そのため議は長く決まらなかった。毎夜、湛之と人払いして語り、連日連夜に及ぶこともあった。常に湛之自身に燭を持たせて壁伝いに見回らせ、盗み聞きする者がないか確かめさせた。
  • 帝はその謀を潘淑妃に告げ、淑妃が濬に告げ、濬がそれを劭に伝えた。劭はひそかに腹心の隊主陳叔児、斎帥張超之らと逆謀を巡らせた。
  • はじめ帝は宗室が強盛で内難があるのを慮り、特に東宮の兵を増やして羽林と同等にしていたので、実兵は一万人に及んでいた。劭は狡猾で剛猛な性で、帝は深く頼りにしていた。乱を起こそうとして、毎夜将士を饗応し、自ら酒を注いで回ることもあった。王僧綽はひそかにこれを上奏した。
  • 折しも厳道育の婢が到着しようとしていた。癸亥の夜、劭は帝の詔と偽って「魯秀が謀反した。夜明けに闕を守り、衆を率いて入れ」と言い、張超之らに日ごろ養っていた兵士二千余人を集めさせ、みな甲を着けさせ、内外の幢隊の主・副を召してあらかじめ部署を定め、「討つべき者がある」と告げた。
  • 夜、前中庶子・右軍長史の蕭斌、左衛率袁淑、中舎人殷仲素、左積弩将軍王正見を呼んでともに宮に入れた。劭は涙を流して「主上は讒言を信じ、私を罪して廃そうとしておられる。内省しても過ちはなく、冤罪を受けるわけにいかぬ。明朝、大事を行う。皆と力を合わせたい」と言い、立って一人ひとりに拝礼した。衆は驚愕して答えられなかった。しばらくして淑と斌がともに「古来こんなことはありません。よくお考えください」と言った。劭は怒って顔色を変え、斌は恐れて衆とともに「身を尽くして命を奉じます」と言った。
  • 淑はこれを叱って「卿は殿下に本当にそんなことがあるとお思いか。殿下は幼い頃から風の病を患われた。あるいは病が出ただけのことだ」と言った。劭はいよいよ怒り、淑を睨んで「事は成るか」と言った。淑は「疑いなき地位に居ながら、なぜ成らぬことがありましょう。ただ成し遂げた後、天地に容れられず、大禍がたちまち至ります。かりにこの謀があるとしても、まだ止めることができます」と答えた。左右が淑を引き出して「これほどの事を、やめられるなどと言うのか」と言った。淑は役所に戻り、寝台の周りを歩き回って四更に至ってようやく寝た。
  • 甲子、宮門がまだ開かぬうちに、劭は戎服の上に朱衣を着け、画輪車に乗り、蕭斌と同乗した。護衛の従者は常の入朝の儀と同じだった。袁淑を呼ぶことしきりだったが、淑は眠って起きなかった。劭は奉化門で車を停め、次々に急かした。淑はゆっくり起きて車の後ろに来た。劭が車に乗るよう命じても辞退して乗らないので、劭は左右に命じて殺した。
  • 門番が門を開け、万春門から入った。旧制では東宮の隊は城に入れなかったが、劭は偽詔を門衛に示して「勅を受けて捕らえるべき者がある」と言い、後隊に速やかに来るよう命じた。張超之ら数十人が雲竜門に駆け入り、斎閤に至って刃を抜き、まっすぐ合殿に上がった。
  • 帝はその夜、徐湛之と人払いして語り、夜明けになっても燭がまだ消えていなかった。門や階、戸口や席で直衛の兵はまだ寝ていて起きていなかった。帝は超之が入ってくるのを見て几を挙げて防ぎ、五本の指がみな落ち、そのまま弑された。湛之は驚いて立ち、北の戸へ走ったが、開ける前に兵に殺された。
  • 劭は合殿の中閤まで進んで帝の崩御を聞き、出て東堂に坐した。蕭斌が刀を執って侍立した。中書舎人顧嘏を呼んだが、嘏は震え恐れてすぐには出て来なかった。着くと劭は「共に廃立しようというのに、なぜ早く申し出なかったのか」と問い、嘏が答える前にその場で斬った。
  • 江湛は当直で省にいたが、騒ぎの声を聞いて「王僧綽の言を用いなかったからこうなったのだ」と嘆じ、傍らの小屋に隠れた。劭が兵を遣わして殺した。
  • 宿衛の旧将である羅訓と徐罕はみな風を望んで屈服した。左細仗主・広威将軍である呉興の卜天与は、甲を着ける暇もなく刀を執り弓を持ち、大声で左右を呼んで出撃した。徐罕が「殿下がお入りになった。お前は何をする気だ」と言うと、天与は罵って「殿下は常にお越しになるのに、なぜ今そんなことを言うのか。お前こそ賊だ」と言い、東堂の劭を射て、あやうく当たるところだった。劭の一党が撃ちかかり、腕を切り落とされて死んだ。隊将の張泓之・朱道欽・陳満も天与とともに戦死した。左衛将軍尹弘は恐れおののいて上申し処分を仰いだ。
  • 劭は人を東閤から入らせて潘淑妃および太祖の親信の側近数十人を殺し、急いで始興王濬を召して衆を率いて中堂に屯させた。
  • 濬はそのとき西州にいた。府舎人の朱法瑜が駆けつけて「台内が騒がしく宮門はみな閉ざされております。道では太子が反したと伝えており、禍変がどこまで及ぶか分かりません」と告げた。濬は驚いたふりをして「今どうすればよいか」と言った。法瑜は石頭に拠ることを勧めた。濬は劭からの便りがなく、事が成ったかどうか分からず、騒ぐばかりでどうしてよいか分からなかった。
  • 将軍王慶が「今、宮内に変があり、主上のご安否も分かりません。およそ臣子たる者、袖をまくって難に赴くべきです。城に籠って自ら守るのは臣節ではありません」と言ったが、濬は聞かず、南門から出てまっすぐ石頭へ向かった。文武の従者は千余人。当時、南平王鑠が石頭に戍っており、兵士もまた千余人いた。
  • ほどなく劭が張超之を馳せさせて濬を召した。濬は人を退けて事情を問い、ただちに戎服で馬に乗って去った。朱法瑜が固く止めても濬は従わなかった。中門を出るとき王慶がまた諫めた。「太子の反逆に天下は怨み憤っております。明公はただ城門を堅く閉じ、座して積んだ穀を食べておられればよい。三日もせずに凶党は自ら離れます。公のお立場でありながら、今どうして行かれるのですか」。濬は「皇太子の令だ。重ねて言う者は斬る」と言った。
  • 入って劭に会うと、劭は濬に「潘淑妃は乱兵に害された」と言った。濬は「それは下情のかねてよりの願いです」と言った。
  • 劭は太祖の詔と偽って大将軍義恭と尚書令何尚之を召して内に拘留し、あわせて百官を召したが、来た者はわずか数十人だった。劭は急いで即位して詔を下した。「徐湛之と江湛が弑逆の暴挙に及んだ。吾は兵を率いて殿に入ったが、すでに及ばなかった。号泣し慟哭し、肝も心も裂ける思いである。今、罪人は捕らえ、元凶は殄滅した。大赦して太初と改元する」。
  • 即位が済むとすぐに病と称して永福省に帰り、あえて喪に臨まず、白刃で自ら守り、夜は灯を並べて左右を警戒した。蕭斌を尚書僕射・領軍将軍、何尚之を司空とし、前右衛率檀和之に石頭を戍らせ、征虜将軍営道侯劉義綦を京口に鎮させた。義綦は劉義慶の弟である。
  • 乙丑、先に各所に配っていた兵器をすべて回収して武庫に返し、江・徐の親党である尚書左丞荀赤松、右丞臧凝之らを殺した。凝之は臧燾の孫である。殷仲素を黄門侍郎、王正見を左軍将軍とし、張超之・陳叔児らはみな官を拝し、賞賜に差があった。
  • 輔国将軍魯秀が建康にいた。劭は秀に「徐湛之は常にお前を危うくしようとしていた。私がお前のために除いてやった」と言い、秀と屯騎校尉龐秀之に軍隊を分けて掌らせた。
  • 劭は王僧綽の謀を知らず、僧綽を吏部尚書、司徒左長史何偃を侍中とした。
  • 武陵王駿は五洲に屯し、沈慶之が巴水から来て軍略の指示を受けていた。三月乙亥、典籤の董元嗣が建康から五洲に至り、太子の弑逆を詳しく告げた。駿は元嗣に僚佐へ告げさせた。沈慶之はひそかに腹心に「蕭斌は女のような者、その他の将帥も御しやすい。東宮の同悪は三十人に過ぎず、それ以外は脅されただけで必ず使い物にならぬ。今、順を輔けて逆を討つのだ。成らぬ心配はない」と言った。
  • 太子劭は浙東五郡を分けて会州とし、揚州を省いて司隷校尉を置き、妃の父の殷冲を司隷校尉とした。冲は殷融の曽孫である。大将軍義恭を太保、荊州刺史南譙王義宣を太尉、始興王濬を驃騎将軍、雍州刺史臧質を丹陽尹、会稽太守随王誕を会州刺史とした。
  • 劭は文帝の巾箱と江湛の家の書状を調べ、王僧綽が上奏した将士饗応の件と前代の先例を見つけた。甲申、僧綽を捕らえて殺した。僧綽の弟の王僧虔は司徒左西属だった。親しい者がみな逃げるよう勧めたが、僧虔は泣いて「わが兄は忠貞をもって国に仕え、慈愛をもって私を撫でてくれた。今日の事で、及ばれぬのがつらいだけだ。共に九泉に帰せるなら、羽化するようなものだ」と言った。
  • 劭はそれに乗じて北第の諸王侯が僧綽と謀反したと誣告し、長沙悼王劉瑾、瑾の弟の劉楷、臨川哀王劉爗、桂陽孝侯劉覬、新渝懐侯劉玠を殺した。みな劭が日ごろ憎んでいた者である。瑾は劉義欣の子、爗は劉義慶の子、覬と玠は義慶の弟の子である。
  • 劭はひそかに沈慶之に自筆の書を送り、武陵王駿を弑させようとした。慶之が王に会いたいと求めると、王は恐れて病と称した。慶之は突入して劭の書を王に示した。王は泣いて内に入って母に別れを告げたいと願った。慶之は「下官は先帝の厚恩を受けました。今日の事は力の限りを尽くすのみ。殿下はなぜそこまで私をお疑いになる」と言った。王は立って再拝し「家と国の安危はみな将軍にかかっている」と言った。
  • 慶之はただちに内外に兵を整えさせた。府主簿の顔竣が「今、四方はまだ義師の挙兵を知りません。劭は天府を押さえております。首尾が呼応せねば危うい道です。諸鎮の協力を待ってから事を挙げるべきです」と言った。慶之は声を張って「今、大事を挙げるのに黄毛の小僧まで口を出すようでは、どうして失敗せぬはずがあろう。斬って衆に示すべきだ」と言った。王は竣に慶之へ拝謝させた。慶之は「君は筆と札の事だけを心得ておればよい」と言った。こうして慶之に処置を専ら委ね、旬日のうちに内外が整い、人は神兵と言った。竣は顔延之の子である。
  • 庚寅、武陵王が戒厳して衆に誓い、沈慶之に府司馬を兼ねさせ、襄陽太守柳元景と随郡太守宗慤を諮議参軍・領中兵とし、将軍内史朱脩之に行平東将軍を、記室参軍顔竣を諮議参軍・領録事として内外を兼ね総べさせ、諮議参軍劉延孫を長史・尋陽太守として留守府の事を行わせた。延孫は劉道産の子である。
  • 南譙王義宣と臧質はいずれも劭の命を受けず、司州刺史魯爽とともに兵を挙げて駿に応じた。質と爽はともに江陵に赴いて義宣に会い、あわせて使者を送って王に即位を勧めた。
  • 辛卯、臧質の子の臧敦ら建康にいた者は、質の挙兵を聞いてみな逃亡した。劭は慰めて懐柔しようと詔を下し、「臧質は国戚の勲臣で、まさに京師を輔翼すべきときに、子弟が散り逃げたのは怪しみ嘆かわしい。宣諭して帰らせ、みな本の位に復せよ」と言った。劭はまもなく敦を捕らえ、大将軍義恭に訓戒の杖三十を加えさせたうえで、厚く賜った。
  • 乙未、武陵王が西陽を発ち、丁酉、尋陽に至った。庚子、王は顔竣に檄を四方に移させ、共に劭を討たせた。州郡は檄を受けて一斉に響き応じた。南譙王義宣は臧質に兵を率いて尋陽に赴かせ、駿とともに下らせ、魯爽を江陵に留めた。
  • 劭は兖冀二州刺史蕭思話を徐兖二州刺史とし、張永を起用して青州刺史とした。思話は歴城から部曲を率いて平城に帰り、兵を挙げて尋陽に応じた。建武将軍垣護之は歴城におり、やはり配下を率いて駆けつけた。南譙王義宣は張永を冀州刺史に板授し、永は司馬崔勲之らに兵を与えて義宣のもとへ行かせた。義宣は蕭思話と永が以前の遺恨を解いていないのを慮り、自ら書を思話に送り、長史張暢に永への書を書かせて、互いに胸襟を開くよう勧めた。
  • 随王誕は劭の命を受けようとしていた。参軍事の沈正が司馬顧琛に説いた。「国家のこの禍は開闢以来聞いたことがありません。今、江東の驍勇な衆で天下に大義を唱えれば、誰が響き応じぬでしょう。どうして殿下を凶逆に北面させ、その偽の寵を受けさせてよいものか」。琛は「江東は戦を忘れて久しい。逆順の別はあっても強弱の差もあります。まず四方に義挙する者が現れてから応じても遅くありません」と言った。正は「天下にいまだ父も君もない国はありません。自らは仇と恥に安んじて、他の地方に義を求めてよいものか。今まさに弑逆の醜行があり、義として天を共にできません。兵を挙げる日に、身を全うすることなど求めましょうか。馮衍は『大漢の貴臣が荊・斉の賤しい士に及ばぬはずがあろうか』と言いました。まして殿下は義において臣であり子であり、事実として国家そのものではありませんか」と言った。琛はそこで正とともに入って誕に説き、誕は従った。正は沈田子の兄の子である。
  • 劭は自分が日ごろ武事に習熟していると思い、朝士に「卿らはただ私の文書を助けよ。軍旅に口を出すな。寇難があれば私が自ら当たる。ただ賊虜が動く勇気がないのを恐れるだけだ」と言っていた。ところが四方の挙兵を聞くと初めて憂え恐れ、戒厳して非番の将吏をみな召し、淮の南岸の住民を北岸に移し、諸王と大臣をことごとく城内に集め、江夏王義恭を尚書下舎に移し、義恭の諸子を分けて侍中下省に置いた。
  • 夏四月癸卯朔、柳元景が寧朔将軍薛安都ら十二軍を統べて湓口を発ち、司空中兵参軍徐遺宝が荊州の衆で続いた。丁未、武陵王が尋陽を発ち、沈慶之が中軍を総べて従った。
  • 劭は妃の殷氏を皇后に立てた。庚戌、武陵王の檄書が建康に届いた。劭は太常顔延之に示して「あれは誰の筆か」と問うた。延之は「竣の筆です」と答えた。劭が「言葉がなぜここまで至るのか」と言うと、延之は「竣は老臣(私)すら顧みません。どうして陛下を顧みましょう」と言った。劭の怒りはやや解けた。武陵王の子をすべて侍中下省に、南譙王義宣の子を太倉の空き舎に拘留した。
  • 劭は三鎮の士民の家族をみな殺そうとした。江夏王義恭と何尚之はともに「およそ大事を挙げる者は家を顧みません。それに多くは駆り立てられた者です。今、急にその家族を誅せば、かえって彼らの意を固めるだけです」と言い、劭ももっともと思って、書を下して一切問わないことにした。
  • 劭は朝廷の旧臣がみな自分のために働かぬと疑い、魯秀と右軍参軍王羅漢を厚く撫して軍事をすべて委ね、蕭斌を謀主とし、殷冲に文書と符を掌らせた。
  • 蕭斌は劭に、水軍を率いて自ら上って決戦するか、さもなくば梁山を保拠するよう勧めた。江夏王義恭は南軍が急ごしらえで船が粗末で小さく水戦に不利だとして、こう進言した。「賊駿は年少で軍旅に慣れておらず、遠来して疲弊しております。逸をもって待つべきです。今、遠く梁山に出れば京都が空いて弱くなり、東軍が虚に乗じて患いをなすかもしれません。力を分けて両方に赴けば兵は敗れ勢いは離れます。鋭気を養って時を待ち、座して隙を観るほうがよい。南岸を割いて捨て、石頭で遮断する。これは先朝の旧法です。賊が破れぬ心配はありません」。劭はこれをよしとした。
  • 斌は色を厲しくして言った。「南中郎(駿)は二十歳そこそこでこれほどの大事を起こせるのです。どうして測れましょう。三方が悪を共にし、勢いは上流を押さえております。沈慶之は軍事に極めて練れ、柳元景と宗慤はたびたび功を立てている。この形勢は決して小さな敵ではありません。ただ人情がまだ離れぬうちに、力を決して一戦するほかない。台城に端座していて、どうして長続きしましょう。今、主も相もみな戦う意がない。これぞ天ではありませんか」。劭は聞かなかった。
  • ある者が劭に石頭城を保つよう勧めた。劭は「昔の人が石頭城を固めたのは諸侯の勤王を待つためだ。私がここを守っても、誰が救いに来る。ただ力戦して決するほかない。そうでなければ勝てぬ」と言い、毎日自ら出て軍を回り将士を慰労し、自ら都水を督して船艦を整えた。
  • 壬子、淮の南岸の家屋を焼き、淮内の船をすべて奪い、民家を水の北へ渡らせた。子の劉偉之を皇太子に立て、始興王濬の妃の父の褚湛之を丹陽尹とした。湛之は褚裕之の兄の子である。濬を侍中・中書監・司徒・録尚書六条事とし、南平王鑠に開府儀同三司を加え、南兖州刺史建平王宏を江州刺史とした。
  • 太尉司馬龐秀之が石頭から衆を離れて南へ逃げ、人心はこれで大いに震えた。営道侯義綦を湘州刺史、檀和之を雍州刺史とした。
  • 癸丑、武陵王が鵲頭に陣した。宣城太守王僧達は武陵王の檄を得て、どちらに従うか決めかねた。客が説いた。「今、逆行は天を衝き、古今に例がありません。君のために計れば、義師の檄を承けて傍らの郡に移し告げるのが最上です。心ある者なら誰が響き応じぬでしょう。それができぬなら、自ら義に向かう者を率い、水陸の便を見極めて身を南に帰すのが次策です」。僧達はそこで間道から南へ逃げ、鵲頭で武陵王に出会った。王はただちに長史とした。僧達は王弘の子である。
  • 王が尋陽を発った当初、沈慶之は人に「王僧達は必ず義に駆けつける」と言った。人がその理由を問うと、「私は彼が先帝の前で議論を開陳し、執る意が明快で決断力があるのを見た。だから必ず来る」と答えた。
  • 柳元景は舟艦が堅固でないので水戦を憚り、道を倍して兼行した。丙辰、江寧に至り、陸に上がり、薛安都に鉄騎を率いて淮上で威を示させ、朝士に書を送って逆順を陳べた。
  • 劭は呉興太守である汝南の周嶠に冠軍将軍を加えたが、随王誕の檄も届いた。嶠は日ごろ臆病で、迷ってどちらに従うか決めかねた。府司馬の丘珍孫が嶠を殺し、郡を挙げて誕に応じた。
  • 戊午、武陵王が南洲に至り、降る者が続いた。己未、溧洲に陣した。王は尋陽を発って以来病んで将佐に会えず、ただ顔竣だけが寝所に出入りし、王を膝に抱えて起き居を看た。病はたびたび危篤に陥って諮ることもできず、竣がすべて専断した。軍政の他に、文書・教令・書檄で遠近に応接するもの、明け方や夕方の哭礼まで、一人の手から出たようだった。こうして幾旬も、舟中の甲士でさえ王の危篤を知らなかった。
  • 癸亥、柳元景がひそかに新亭に至り、山に依って塁を築いた。新たに降った者はみな元景に速やかに進むよう勧めたが、元景は「そうではない。道理は順でも侍みがたい。悪を同じくする者は互いに助け合う。軽々しく進んで備えがなければ、かえって敵に隙を与える」と言った。
  • 元景の営がまだ立たぬうちに、劭の龍驤将軍詹叔児がこれを偵知し、劭に出戦を勧めたが、劭は許さなかった。
  • 甲子、劭は蕭斌に歩軍、褚湛之に水軍を統べさせ、魯秀・王羅漢・劉簡之らと精兵合わせて一万人で新亭の塁を攻めさせ、自らは朱雀門に登って戦を督した。元景は前夜に軍中へ「鼓を繁く打てば気は衰えやすく、叫び声が多ければ力は尽きやすい。ただ枚を銜んで疾く戦い、ひたすら私の鼓の音を聴け」と令していた。
  • 劭の将士は劭の重賞を思って決死で戦った。元景は水陸から敵を受けたが意気はいよいよ強く、麾下の勇士をすべて出して戦わせ、左右には伝令の数人だけを残した。劭の兵の勢いは勝ちに迫ったが、魯秀が退却の鼓を打ち、劭の衆はにわかに止まった。元景はそこで塁を開き鬨を上げて乗じ、劭の衆は大潰して淮に落ちて死ぬ者が甚だ多かった。
  • 劭は残った衆を率いて自ら塁を攻めに来たが、元景はまた大破した。殺傷は前の戦いを上回り、士卒は争って死馬澗に飛び込み、澗は溢れんばかりだった。劭は自ら退く者を斬っても止められなかった。劉簡之は死に、蕭斌は傷を負い、劭はかろうじて身一つで免れて宮に逃げ帰った。魯秀・褚湛之・檀和之はみな南へ逃げた。
  • 丙寅、武陵王が江寧に至った。丁卯、江夏王義恭が単騎で南へ逃げ、劭は義恭の十二人の子を殺した。劭と濬は憂え迫って計もなく、輦で蔣侯の神像を迎えて宮中に置き、額を地につけて恩を乞い、大司馬に任じて中山王に封じ、蘇侯の神を驃騎将軍に任じた。濬を南徐州刺史とし、南平王鑠とともに録尚書事とした。
  • 戊辰、武陵王が新亭に陣した。大将軍義恭が上表して即位を勧めた。散騎侍郎徐爰は殿中にあって劭に「自ら義恭を追う」と偽り、そのまま武陵王のもとへ帰した。当時、王の軍府は草創で朝廷の儀章に通じておらず、爰は日ごろ諳んじていたので、爰に太常丞を兼ねさせて即位の儀注を撰ばせた。
  • 己巳、王が皇帝に即位し、大赦して文武に爵一等、従軍者には二等を賜り、大行皇帝の諡を文と改め、廟号を太祖とした。大将軍義恭を太尉・録尚書六条事・南徐州刺史とした。
  • この日、劭もまた殿前に臨んで太子偉之を立て、大赦したが、劉駿・義恭・義宣・誕だけは赦免の例外とした。
  • 庚子、南譙王義宣を中書監・丞相・録尚書六条事・揚州刺史、随王誕を衛将軍・開府儀同三司・荊州刺史、臧質を車騎将軍・開府儀同三司・江州刺史、沈慶之を領軍将軍、蕭思話を尚書左僕射とした。壬申、王僧達を右僕射、柳元景を侍中・左衛将軍、宗慤を右衛将軍、張暢を吏部尚書、劉延孫と顔竣をともに侍中とした。
  • 五月癸酉朔、臧質が雍州の兵二万で新亭に至った。豫州刺史劉遵考は将の夏侯献之に歩騎五千を率いさせて瓜歩に陣させた。
  • これに先立ち、世祖(孝武帝)は寧朔将軍顧彬之に兵を率いて東へ入らせ、随王誕の節度を受けさせていた。誕は参軍劉季之に兵を与えて彬之とともに建康へ向かわせ、自らは西陵に留まって後詰とした。劭は殿中将軍燕欽らを遣わして防がせたが、曲阿の犇牛塘で遭遇して欽らは大敗した。
  • 劭はそこで淮沿いに柵を立てて自ら守り、また破崗と方山の埭を決壊させて東軍を遮った。当時、男子はすでに尽きたので婦女を召して役に供した。
  • 甲戌、魯秀らが勇士を募って大航を攻め落とした。王羅漢は官軍がすでに渡ったと聞いて節を放り出して武器を捨てて降った。渚沿いの幢隊も次々に逃げ散り、武器や鼓・蓋が道に溢れた。その夜、劭は六門を閉じて守り、門の内に塹を掘り柵を立てた。城中は沸き乱れ、丹陽尹尹弘ら文武の将吏は争って城を越えて出て降った。
  • 劭は輦と衮冕の服を宮庭で焼いた。蕭斌は統べる者に令を宣べてみな甲を解かせ、石頭から白旗を掲げて降った。詔で斌を軍門で斬った。濬は劭に宝貨を載せて海に逃げるよう勧めたが、劭は人心が離散していて実行できなかった。
  • 乙亥、輔国将軍朱脩之が東府を落とした。丙子、諸軍が台城を落とし、それぞれ諸門から入って殿庭に会し、王正見を捕らえて斬った。張超之は逃げて合殿の御牀のあった場所まで来たが軍士に殺され、腸を刳り心を割かれ、諸将はその肉を切って生で食った。建平王ら七人の王が号泣して共に出た。
  • 劭は西の垣を穿って武庫の井戸に入った。隊副の高禽が捕らえた。劭が「天子はどこにおられる」と問うと、禽は「近く新亭におられる」と答えた。殿前に至ると臧質が見て慟哭した。劭は「天地の覆い載せぬ身だ。丈人はなぜ哭かれるのか」と言い、また質に「遠くへ流されるよう申し出てはもらえまいか」と言った。質は「主上は近く航の南におられる。自ずと処分があろう」と言った。劭を馬上に縛って軍門へ護送した。当時、伝国璽が見つからず劭に問うと、「厳道育のところにある」と言い、行って手に入れた。劭とその四子を牙門の下で斬った。
  • 濬は左右数十人を率い、南平王鑠を挟んで南へ逃げ、越城で江夏王義恭に出会った。濬は馬を下りて「南中郎は今何をしておられる」と言った。義恭は「上はすでに万国に君臨された」と答えた。濬が「虎頭が来たのは遅すぎたでしょうか」と言うと、義恭は「まことに遅きに過ぎた」と答えた。「それでも死なずに済みましょうか」と問うと、義恭は「行在の闕に赴いて罪を請うがよい」と答えた。「なお一職を賜って身を尽くさせていただけましょうか」と問うと、義恭は「それは測れぬ」と答え、共に連れ帰らせ、道中で斬った。その三子も斬った。
  • 劭と濬父子の首は大航に梟され、屍は市に晒された。劭の妃の殷氏および劭・濬の娘や妾たちはみな獄で死を賜り、劭の住んでいた斎は汚水を溜めて池とされた。殷氏は死ぬ間際、獄丞の江恪に「お前の家は骨肉相残んでおきながら、なぜ罪なき者を枉げて殺すのか」と言った。恪が「皇后の位を受けたことが罪でなくて何か」と言うと、殷氏は「あれは一時のことだ。いずれ鸚鵡を后にするつもりだった」と言った。
  • 褚湛之が南へ逃げたとき濬はただちに褚妃と離縁していたので、褚妃は誅を免れた。厳道育と王鸚鵡はともに都の街頭で鞭殺され、屍は焼かれ灰は長江に撒かれた。殷冲・尹弘・王羅漢および淮南太守沈璞はみな誅された。
  • 庚辰、戒厳を解いた。辛巳、帝が東府に行き、百官が罪を請うたが、詔で赦した。甲申、帝の母の路淑媛を皇太后と尊んだ。太后は丹陽の人である。乙酉、妃の王氏を皇后に立てた。后の父の王偃は王導の玄孫である。
  • 戊子、柳元景を雍州刺史とした。辛卯、袁淑に太尉を追贈して忠憲公と諡し、徐湛之に司空を贈って忠烈公、江湛に開府儀同三司を贈って忠簡公、王僧綽に金紫光禄大夫を贈って簡侯と諡した。
  • 壬辰、太尉義恭を揚・南徐二州刺史とし、位を太傅に進め大司馬を兼ねさせた。
  • はじめ劭は尚書令何尚之を司空・領尚書令とし、その子の征北長史何偃を侍中として、父子ともに権要の地位にあった。劭が敗れると尚之の左右はみな散り、自ら黄閤(役所)を掃除する有様だった。殷冲らが誅されて人は肝を冷やしたが、帝は尚之と偃に日ごろ良い評判があり、また劭の朝廷にあっては智を働かせて時をやり過ごしていたので、特に免じた。改めて尚之を尚書令、偃を大司馬長史とし、任も待遇も改めなかった。
  • 甲午、帝が初寧陵と長寧陵に参拝した。卜天与に益州刺史を追贈して壮侯と諡し、袁淑ら四家には長く廩禄を給し、張泓之らにはそれぞれ郡守を贈った。
  • 戊戌、南平王鑠を司空、建平王宏を尚書左僕射、蕭思話を中書令・丹陽尹とした。六月丙午、帝が宮に帰った。
  • はじめ帝が西陽の蛮を討ったとき、臧質は柳元景に兵を率いて合流させていた。質が挙兵したとき南譙王義宣を主に奉じようと考え、ひそかに元景に配下を率いて西へ帰るよう命じた。元景はただちに質の書を帝に呈し、その使者に「臧冠軍はまだ殿下の義挙をご存じないのだろう。まさに逆を伐つべきときで、西へ帰るわけにいかぬ」と言った。質はこれを恨んだ。元景が雍州刺史になると、質は荊・江の後患になると慮り、「元景は爪牙とすべきで、遠くへ出すべきでない」と建議した。帝はその言を退けにくく、戊申、元景を護軍将軍・領石頭戍事とした。
  • 己酉、司州刺史魯爽を南豫州刺史とした。庚戌、衛将軍司馬徐遺宝を兖州刺史とした。
  • 庚申、詔で有司に功を論じ賞を行わせ、顔竣らを公・侯に封じた。
  • 辛未、南譙王義宣を南郡王に、随王誕を竟陵王に徙し、義宣の次子の宜陽侯劉愷を南譙王に立てた。
  • 閏月壬申、領軍将軍沈慶之を南兖州刺史として盱眙に鎮させた。癸酉、柳元景を領軍将軍とした。丞相義宣が中央の任および子の愷の王爵を固辞したので、甲午、改めて義宣を荊・湘二州刺史、愷を宜陽県王とし、将佐以下にはみな秩を加えて賞した。竟陵王誕を揚州刺史とした。
  • 秋七月、南平穆王鑠は日ごろ才能を自負して常に上を軽んじ、また太子劭に用いられ、降るのが最も遅かった。上はひそかに人に毒を盛らせた。己巳、鑠が没した。司徒を贈り、商臣(楚の穆王)の諡になぞらえて「穆」と諡した。
  • 冬十一月丙午、左軍将軍魯秀を司州刺史とした。
  • 十二月癸未、東宮の官署を置くにあたり、太子率更令などの官を設け、中庶子などはそれぞれ旧来の定員の半分に減らした。

武帝孝建元年(454年)

  • 春正月己亥、改元して大赦した。
  • 甲辰、尚書令何尚之を左光禄大夫・護軍将軍とし、左衛将軍顔竣を吏部尚書・領驍騎将軍とした。
  • 丙子、皇子劉子業を太子に立てた。