通鑑紀事本末劉裕、後秦を滅ぼす(劉裕滅後秦)
後秦の姚興が太子姚泓を立てながら広平公姚弼を寵愛して継嗣争いを長く放置し、その死後に内乱が続いて国が弱るところへ、劉裕が大挙して北伐する経過。王鎮悪・檀道済らが許昌・洛陽を落とし、却月陣で魏の騎兵を破って潼関を抜き、沈田子が青泥で姚泓を大破、王鎮悪が渭橋から長安に入って後秦は滅びる。だが劉穆之の死で劉裕が東帰すると、留守の諸将が相討ち、関中は夏の赫連勃勃に奪われた。
年表(9件)
- 晉安帝
- 元興元年402年姚興が姚泓を太子に立て、諸子を公に封ずる
- 義熙三年407年太子泓に録尚書事を兼ねさせる
- 七年411年広平公姚弼が召されて朝士を集め、東宮を傾けようと図る
- 十年414年姚弼の専横に諸鎮が兵を挙げ、興はやむなく弼の尚書令を解く
- 十一年415年姚弼が再び兵を集めて誅されかけ、太子泓の願いで赦される
- 十二年416年姚興が没して泓が即位、劉裕が北伐して洛陽が陥ちる
- 十三年417年潼関を抜き青泥で泓を破り、王鎮悪が長安に入って後秦が滅ぶ
- 十三年つづき(劉裕の東帰)三秦の父老の訴えを退けて劉裕が長安を去り、勃勃が動く
- 十四年418年沈田子・王脩らが相次いで殺され、義真は青泥で敗れて長安を失う
晉安帝元興元年(402年)
- 秦王姚興が子の姚泓を太子に立て、大赦した。泓は孝行で兄弟に親しく、寛容温和で文学を好み談論に長けたが、気弱で病がちだった。興は後継にしたいと思いながら長く迷い、ようやく立てた。
- この年、姚興は昭儀の張氏を皇后に立て、子の姚懿・弼・洸・宣・諶・愔・璞・質・逵・裕・国児をみな公に封じた。
義熙三年(407年)
- 秦王興が太子泓に録尚書事を兼ねさせた。
七年(411年)
- 秦の広平公姚弼は興に寵愛され、雍州刺史として安定に鎮していた。姜紀が弼に諂い、興の側近と結んで入朝を求めるよう勧めた。興は弼を尚書令・侍中・大将軍として召した。弼は身を入れて朝士と交わり、名望と権勢のある者を集めて東宮を傾けようとしたので、国人はこれを憎んだ。折しも興は西北の叛乱が多いのを見て重臣の将を鎮撫に出そうとし、隴東太守郭播が弼を出鎮させるよう請うたが、興は聞かなかった。
十年(414年)
- 夏五月、秦の左将軍姚文宗は太子泓に寵せられており、広平公弼はこれを憎んで、文宗が怨言を吐いたと誣告した。興は怒って文宗に死を賜った。以来、群臣は弼を恐れて横目に見るばかりで、弼の言うことは何でも通った。弼は腹心の天水の尹沖を給事黄門侍郎、唐盛を治書侍御史とし、興の側近で機密を握る者はみな弼の一党となった。
- 右僕射梁喜・侍中任謙・京兆尹尹昭が折を見て興に進言した。「父子の間柄は人が言いにくいことですが、君臣の義も父子に劣りませぬゆえ黙っていられません。広平公弼にはひそかに嫡を奪う志があり、陛下の寵愛が過ぎて威権を与えたため、よこしまな無頼の徒が集まり、道行く人はみな陛下が廃立をお考えだと申しております。まことでしょうか」。興が「そんなことがあるものか」と言うと、喜らは「ならばこそ、陛下が弼を愛されることが逆に弼の禍となります。側近を除き権勢を減らしてこそ、弼も宗廟社稷も安泰です」と述べたが、興は応じなかった。
- 大司農竇温と司徒左長史王弼はいずれも密かに上疏して弼の立太子を勧めた。興は従わなかったが、咎めもしなかった。
- 興が重病になると、弼はひそかに数千人を集めて乱を起こそうと謀った。姚裕が使者を送って各地の藩鎮にいる兄たちに弼の反逆の状を告げた。そこで姚懿は蒲阪で、鎮東将軍・豫州牧の姚洸は洛陽で、平西将軍姚諶は雍で兵を整え、みな長安に赴いて弼を討とうとした。ちょうど興の病が癒えて群臣を引見したので、征虜将軍劉羌が泣いて告げた。梁喜と尹昭が弼の誅殺を請い、「殺すに忍びないなら権限だけでも奪うべきです」と言った。興はやむなく弼の尚書令を解き、将軍公の身分で邸に帰らせ、姚懿らも兵を解いた。
- 懿・洸・諶と姚宣が入朝し、姚裕に取り次がせて謁見を求めた。興は「お前たちは弼のことを言いたいだけだろう。もう分かっている」と言った。裕は「弼に論ずべきことがあるならお聞きになるべきですし、懿らの言が誤りなら刑に処すべきです。なぜ拒まれるのですか」と言い、興は諮議堂で懿らを引見した。姚宣が涙を流して極言すると、興は「私が自分で処置する。お前たちの心配することではない」と言った。
- 撫軍東曹属の姜虬が上疏して「広平公弼の罪状は明らかで道行く人も知っています。昔文王の教化は妻から始まりました。今、聖朝の乱は愛子から起こっています。堪え忍んで覆い隠そうとしても、逆党が煽動をやめぬ以上、弼の乱心は改まりません。凶徒を追い散らして禍の根を絶つべきです」と述べた。興が虬の表を梁喜に示して「天下の人がみなわが子を口実にしている。どうしたものか」と言うと、喜は「虬の言うとおりなら、陛下は早く裁断なさるべきです」と答えた。興は黙っていた。
十一年(415年)
- 春三月、広平公弼が姚宣を讒言した。宣の司馬権丕が長安に来ると、興は輔導の不行き届きを責めて誅そうとした。丕は恐れて宣の罪悪を捏造して自分の身を守った。興は怒って使者を杏城に遣わして宣を捕らえ投獄し、弼に三万の兵で秦州に鎮させた。尹昭は「広平公は皇太子と不仲です。今、外で強兵を握っており、陛下に万一のことがあれば社稷は必ず危うくなります。小事に忍びず大謀を乱すとはこのことです」と言ったが、興は従わなかった。
- 秋九月、興の病が悪化した。広平公弼は病と称して朝せず、邸に兵を集めた。興は聞いて怒り、弼の一党である唐盛・孫玄らを捕らえて殺した。太子泓は「臣が不肖で兄弟を和ませられず、ここまで至ったのは臣の罪です。臣が死んで国が安らぐなら死を賜りたく、殺すに忍びないなら藩に退かせてください」と請うた。興は哀れんで、姚讃・梁喜・尹昭・斂曼嵬を召して謀り、弼を捕らえて殺し、一党を徹底的に追及しようとした。泓が涙して固く請うたので、弼も一党もともに赦した。泓は以前どおり弼に接し、恨む色を見せなかった。
- 魏の太史が「熒惑(火星)が匏瓜星の中にあったが、突然消えて所在が分からない。法によれば危亡の国に入るしるしで、まず童謡や妖言が起こり、そののち禍罰が下る」と奏した。魏主拓跋嗣は名儒十余人を召して太史と熒惑の行方を議させた。崔浩は「春秋左氏伝に神が莘に降ったとき、来た日から何の神かを推したとあります。庚午の夕から辛未の朝にかけて空に雲があり、熒惑が消えたのはこの二日のうちのはず。庚と午はいずれも秦を主り、辛は西夷を主ります。今、姚興が長安に拠っている以上、熒惑は必ず秦に入ったのです」と答えた。一同は怒って「天上で失われた星の行方が人間に分かるものか」と言ったが、浩は笑って応じなかった。
- 八十余日後、熒惑が東井に現れて留まり、しばらくして去った。秦は大旱魃となり昆明池が涸れ、童謡や流言が飛び交って国人は不安に陥り、一年ほどで秦は滅んだ。人々はようやく崔浩の精妙さに服した。
十二年(416年)
- 春二月、秦王興が華陰に行幸し、太子泓に監国させて西宮に入らせた。興の病が重くなり長安に帰った。黄門侍郎尹沖は、泓が出迎えに出るところを殺そうと謀った。興が到着し泓が出迎えようとすると、宮臣が「主上のご病気は重く姦臣が側におります。殿下が今お出になっても主上にはお会いできず、退けば不測の禍があります」と諫めた。泓は「臣子として君父の病篤いと聞いて出ないでどうして安んじられよう」と言ったが、「身を全うして社稷を安んずるのが大孝です」と説かれ、思いとどまった。
- 尚書姚沙彌は尹沖に「太子が迎えに出ぬなら、乗輿を奉じて広平公の邸に移すべきです。宿衛の将士は乗輿の所在を知れば自ら集まります。太子は誰と守るのか。われらは広平公のゆえにすでに逆節の名を負っており、身の置き所がない。今、乗輿を奉じて事を挙げれば大義に拠ることになり、広平公の禍を救うだけでなく、われらの前罪もすべて雪がれます」と言った。沖は興の生死が分からぬので、興とともに宮に入って乱を起こそうとし、沙彌の言を用いなかった。
- 興は宮に入ると、太子泓に録尚書事を命じ、東平公姚紹と右衛将軍胡翼度に禁中の兵を掌らせて内外を防がせ、殿中上将軍斂曼嵬に弼の邸の武具を接収して武庫に納めさせた。興の病はさらに重くなり、妹の南安長公主が見舞っても応じなかった。幼子の耕児が出て兄の南陽公姚愔に「主上はもう崩じられた。急ぎ決断を」と告げた。愔はただちに尹沖と甲兵を率いて端門を攻めた。斂曼嵬・胡翼度らは兵を整え門を閉じて防戦した。愔らは壮士に門に登らせ屋根伝いに侵入させて馬道に達した。泓は諮議堂で看病していたが、太子右衛率の姚和都が東宮の兵で馬道の南に陣取ったため愔らは進めず、端門に火を放った。
- 興は病を押して前殿に臨み、弼に死を賜った。禁兵は興の姿を見て喜び勇んで争って賊に向かい、賊勢は動揺した。和都が東宮兵で背後から撃つと愔らは大敗した。愔は驪山に逃げ、その一党の建康公呂隆は雍へ走り、尹沖と弟の尹泓は晉に亡命した。興は東平公紹と姚讃・梁喜・尹昭・斂曼嵬を内寝に引き入れ、遺詔を受けて輔政させた。
- 翌日、興が没した。泓は喪を秘し、南陽公愔・呂隆・大将軍尹元らを捕らえて誅し、そのうえで喪を発して皇帝に即位し、大赦して永和と改元した。
- 三月、太尉劉裕に中外大都督が加えられた。裕は戒厳して秦討伐に向かい、司州・豫州二州刺史を兼ねる詔が下った。世子の劉義符を徐州・兖州二州刺史とした。琅邪王司馬徳文が先陣に加わって山陵(歴代の陵墓)に敬意を修めたいと請い、詔が許した。
- 秋八月、寧州が琥珀の枕を裕に献じた。裕は琥珀が金創(刀傷)に効くと知って大いに喜び、砕いてつき、北征の将士に分け与えた。
- 裕は世子義符を中軍将軍・監太尉留府事とし、劉穆之を左僕射・領監軍中軍二府軍司として東府に入居させ、内外を総攬させた。太尉左司馬の東海の徐羨之を穆之の副とし、左将軍朱齢石に殿省を守衛させ、徐州刺史劉懐慎に京師を守衛させ、揚州別駕従事史の張裕に留州の事を任せた。懐慎は懐敬の弟である。
- 丁巳、裕は建康を発った。龍驤将軍王鎮悪と冠軍将軍檀道済に歩兵を率いて淮・淝から許昌・洛陽へ向かわせ、新野太守朱超石と寧朔将軍胡藩を陽城へ、振武将軍沈田子と建威将軍傅弘之を武関へ、建武将軍沈林子と彭城内史劉遵考に水軍を率いて石門から出て汴より黄河に入らせ、冀州刺史王仲徳を前鋒諸軍の督として鉅野を開いて黄河に入らせた。遵考は裕の族弟である。
- 劉穆之は王鎮悪に「公は今、卿に秦討伐の任を委ねられた。励むがよい」と言い、鎮悪は「関中を平定できねば、二度と江を渡らぬと誓います」と答えた。
- 裕が出発すると、青州刺史檀祗が広陵から涂中に兵を進めて亡命者を討った。劉穆之は祗が変を起こすのを恐れて軍を派す議を出した。当時、檀韶が江州刺史であり、張邵が「今、檀韶は中流に拠り、檀道済は軍の先鋒です。疑いの気配を見せれば大府がたちまち危うくなります。先んじて慰労の使いを送り意向を見るのがよく、必ず憂いはありません」と言い、穆之は取りやめた。
- 九月、裕は彭城に至り、徐州刺史を兼ねた。太原の王玄謨を従事史とした。王鎮悪と檀道済が秦の領域に入ると向かうところ連戦連勝で、秦将王苟生は漆丘を挙げて鎮悪に降り、徐州刺史姚掌は項城を挙げて道済に降り、諸屯の守将もみな風を望んで従った。ただ新蔡太守董遵だけは降らず、道済はその城を攻略して遵を殺した。さらに許昌を陥れ、秦の潁川太守姚坦と大将楊業を捕らえた。
- 沈林子は汴から黄河に入った。襄邑の人董神虎が千余人を集めて降り、裕は参軍に抜擢した。林子と神虎はともに倉垣を攻めて陥れ、秦の兖州刺史韋華が降った。神虎が無断で襄邑に帰ったので、林子はこれを殺した。
- 秦の東平公姚紹が秦主泓に進言した。「晉兵はすでに許昌を過ぎました。安定は孤立して遠く救い難いので、その鎮の戸を移して京畿を実らせれば精兵十万が得られ、晉と夏の両面侵攻があっても国は亡びません。さもなくば晉が豫州を攻め夏が安定を攻めたときどうなさる。機はすでに至り、速断が肝要です」。左僕射梁喜は「斉公姚恢は威名があり嶺北の者が憚っております。鎮の人々はすでに勃勃と深い仇があり、道理として死守して二心なきはず。勃勃も安定を越えて遠く京畿を侵すことはできますまい。安定がなくなれば胡馬は必ず郿まで至ります。今、関中の兵は晉を防ぐに足ります。自ら削るには及びません」と言い、泓はこれに従った。
- 吏部郎の懿横がひそかに泓に言った。「姚恢は広平の乱で忠勲がありましたのに、陛下が即位されてから格別の賞もなく、その意に応えておりません。今、外では死地に置かれ、内では朝権に与れません。安定の人々は自ら孤立して敵に迫られていると思い、南へ移りたい者が十のうち九です。もし恢が精兵数万を擁して鼓を鳴らして京師に向かえば、社稷の累となりましょう。召し返して心を慰めるべきです」。泓は「恢に不逞の心があるなら、召せばかえって禍を早めるだけだ」と言い、これも聞かなかった。
- 王仲徳の水軍が黄河に入り滑台に迫ろうとすると、魏の兖州刺史尉建は怯えて兵を率いて城を捨て北へ渡った。仲徳は滑台に入り「晉はもともと布帛七万匹で魏に道を借りるつもりだった。魏の守将が城を捨てて去ったとは思わなかった」と言い触らした。魏主嗣はこれを聞いて叔孫建・公孫表を河内から枋頭へ向かわせ、兵を率いて渡河させ、尉建を城下で斬って屍を河に投げ入れ、仲徳の軍に侵冦の理由を問わせた。仲徳は司馬の竺和之に「劉太尉は王征虜(仲徳)に河から洛に入り山陵を清掃させるだけで、魏を侵すつもりはない。魏の守将が自ら滑台を捨てて去ったので、王征虜は空城を借りて兵を休めているだけだ。まもなく西へ向かい、晉と魏の好誼は変わらない。旗を掲げ鼓を鳴らして威を示す必要があろうか」と答えさせた。
- 嗣は叔孫建に太尉裕へ問わせた。裕はへりくだって謝し、「洛陽は晉の旧都なのに羌が占拠している。晉は久しく山陵を修復したかった。桓氏一族、司馬休之・司馬国璠兄弟、魯宗之父子はみな晉の害虫だが羌がこれを収容して晉の患いとしている。今、晉が討とうとして魏に道を借りたいだけで、不利を図る意はない」と述べた。
- 魏の河内鎮将于栗磾は勇名があり、河上に塁を築いて侵入に備えていた。裕は書状の宛名に「黒矟公麾下」と書いた。栗磾は黒い矟(ほこ)を持つのを好んで目印としていたので、裕はそう呼んだのである。
- 司馬休之らが秦に亡命した。
- 冬十月、秦の陽城・滎陽の二城がともに降った。晉兵は成皋に進んだ。秦の征南将軍陳留公姚洸は洛陽に鎮しており、長安に救援を求めた。泓は越騎校尉閻生に騎三千で救わせ、武衛将軍姚益男に歩卒一万で洛陽の守りを助けさせ、また并州牧姚懿を陝津の南に駐屯させて後詰とした。
- 寧朔将軍趙玄が姚洸に「今、晉の侵攻は深まり人心は動揺しています。衆寡敵せず、出て戦って勝てねば大事は去ります。諸戍の兵をまとめて金墉を固守し、西からの救援を待つべきです。金墉が落ちねば晉は我らを越えて西へ進む勇気はなく、戦わずして敵の疲弊を待てます」と説いた。だが司馬の姚禹はひそかに檀道済と通じており、主簿の閻恢・楊虔もその一党で、みな趙玄の言を嫌って洸に「殿下は英武の略をもって一方面を任されたのに、今、城に籠って弱みを見せては朝廷に責められましょう」と言った。洸はもっともと思い、趙玄に千余の兵で南の柏谷塢を守らせ、広武将軍石無諱に東の鞏城を守らせた。玄は泣いて洸に「私は三代の帝の重恩を受けており、守って死ぬのみです。ただ明公が忠臣の言を用いず姦人に誤られたことを、のちに必ず悔やまれましょう」と言った。
- ほどなく成皋・虎牢がともに降り、檀道済らは長駆して進んだ。石無諱は石関まで来て逃げ帰った。龍驤司馬の滎陽の毛徳祖が柏谷で趙玄と戦い、玄は敗れて十余の傷を負い、地に伏して大声を上げた。玄の司馬蹇鑒が刃をものともせず玄を抱いて泣くと、玄は「私の傷は重い。君は早く去れ」と言った。鑒は「将軍が助からぬのに私がどこへ行けましょう」と言い、ともに死んだ。姚禹は城を越えて道済に降った。
- 甲子、道済は洛陽に迫った。丙寅、姚洸が降った。道済は秦人四千余を捕らえ、議者は皆殺しにして京観(首塚)にしようとしたが、道済は「罪を討ち民を弔うのは今日にこそある」と言い、みな解放して帰した。これで夷も夏も感じ入って喜び、帰服する者が甚だ多かった。閻生と姚益男は到着前に洛陽陥落を聞いて進めなかった。
- 己丑、詔により兼司空の高密王司馬恢之が五陵を参拝修復し、守衛を置いた。太尉裕は冠軍将軍毛脩之を河南・河内二郡太守・行司州事として洛陽に戍らせた。
- 十一月、西秦王乞伏熾磐が裕に使者を送り、秦を撃って協力したいと申し出た。裕は熾磐を平西将軍・河南公に任じた。
- 秦の姚懿の司馬孫暢が、懿に長安を襲って東平公紹を誅し、秦主泓を廃して代わるよう説いた。懿はその気になり、穀を放出して河北の夷夏に与え、私恩を売ろうとした。左常侍張敞と侍郎左雅は「殿下は母弟として一方面に居られ、安危休戚を国と共にされる身。今、呉の敵は内に侵入し、四州は陥落し、西の異民族が辺境を騒がせ、秦・涼は敗れ、朝廷の危うきこと累卵のごとし。穀は国の本なのに、殿下は理由もなくこれを散じて国の蓄えを損なわれる。どうなさるおつもりか」と諫めた。懿は怒って笞打ち殺した。
- 泓はこれを聞いて東平公紹を召してひそかに謀った。紹は「懿は識見が浅く、周りに流される。この謀を作ったのは必ず孫暢です。急使で暢を召し、撫軍将軍姚讃を陝城に置き、臣は潼関へ向かって諸軍を統べます。暢が詔を奉じて来れば、懿に河東の兵で晉軍を防がせましょう。詔を受けねば罪を鳴らして討つまでです」と述べた。泓は「叔父の言は社稷の計だ」と言い、姚讃と冠軍将軍司馬国璠・建義将軍虵玄を陝津に、武衛将軍姚驢を潼関に駐屯させた。
- 懿はついに兵を挙げて帝を称し、州郡に檄を伝え、匈奴堡の穀を運んで鎮の人々に配ろうとした。寧東将軍姚成都がこれを拒んだ。懿はへりくだって誘い、佩刀を送って誓いとしたが、成都は従わなかった。懿が驍騎将軍王国に甲士数百で成都を攻めさせると、成都は撃って捕らえ、使者を送って懿を責めた。「明公は至親として重任にありながら、国の危急を救わず、あろうことか身分違いの望みを図られる。三祖の霊がどうして明公を佑けましょうか。成都は義兵を糾合して河上に明公にお目にかかりましょう」。そして諸城に檄を伝えて逆順を諭し、兵と兵糧を徴して懿を討った。懿も諸城の兵を徴したが応ずる者はなく、臨晉の数千戸だけが応じた。成都は河を渡って臨晉の叛徒を撃ち破った。鎮の人である安定の郭純らが兵を挙げて懿を囲み、東平公紹が蒲阪に入って懿を捕らえ、孫暢らを誅した。
十三年(417年)
- 春正月、秦主泓が前殿で百官の朝会をしたが、内外の危機に君臣は相対して泣くばかりだった。征北将軍斉公姚恢が安定の鎮戸三万八千を率い、家屋を焼いて北雍州から長安へ向かい、大都督・建義大将軍を自称し、州郡に檄を移して君側の悪を除くと称した。揚威将軍姜紀が兵を率いて加わり、建節将軍彭完都は陰密を捨てて長安へ逃げ帰った。
- 恢が新支に至ると、姜紀は「国家の重将と大兵はみな東方にあり京師は空虚です。公は速やかに軽兵で襲えば必ず勝てます」と説いたが、恢は従わず南に郿城を攻めた。鎮西将軍姚諶が恢に敗れ、長安は大いに動揺した。泓は急使で東平公紹を召し戻し、姚裕と輔国将軍胡翼度を灃西に駐屯させた。扶風太守姚雋らはみな恢に降った。紹が諸軍を率いて西に還り、霊台で恢と対峙した。姚讃は寧朔将軍尹雅を弘農太守として潼関を守らせ、自らも兵を引き返した。恢の兵は諸軍が四方から集まるのを見て皆恐れを抱き、将の斉黄らは大軍に降った。恢が進んで紹に迫ると、讃が背後から撃ち、恢の軍は大敗した。恢とその三人の弟が殺された。泓は慟哭し、公の礼で葬った。
- 太尉裕が水軍を率いて彭城を発ち、子の彭城公劉義隆を彭城に鎮させた。詔により義隆を監徐兖青冀四州諸軍事・秦州刺史とした。
- 二月、王鎮悪が澠池に進軍し、毛徳祖に蠡吾城の尹雅を襲わせて捕らえたが、雅は番兵を殺して逃げた。鎮悪はまっすぐ進んで潼関に迫った。檀道済と沈林子は陝から北へ黄河を渡り襄邑堡を陥れ、秦の河北太守薛帛は河東へ逃げた。さらに蒲阪に秦の并州刺史尹昭を攻めたが落とせず、別将が匈奴堡を攻めて姚成都に敗れた。辛酉、滎陽の守将傅洪が虎牢を挙げて魏に降った。
- 秦主泓は東平公紹を太宰・大将軍・都督中外諸軍事・仮黄鉞とし、魯公に改封して、武衛将軍姚鸞ら歩騎五万を督して潼関を守らせ、別将姚驢に蒲阪を救わせた。沈林子は檀道済に「蒲阪は城が堅く兵も多く、にわかには落とせません。攻めれば兵を損ない、守れば日を費やします。王鎮悪は潼関で孤立して勢い弱い。鎮悪と合流して力を併せ潼関を争うべきです。潼関を得れば尹昭は攻めずとも自ら潰えます」と言い、道済は従った。
- 三月、道済と林子が潼関に至った。秦の魯公紹が兵を出して戦い、道済・林子は奮撃して大破し、斬獲は千を数えた。紹は定城に退いて険に拠り守り、諸将に「道済らは兵力が多くなく、孤軍で深入りしている。堅く守って援軍を待つほかあるまい。わが軍を分けて糧道を断てば、座して捕らえられる」と言い、姚鸞を大路に駐屯させて道済の糧道を断たせた。鸞は尹雅に兵を与えて関の南で晉軍と戦わせたが、雅は捕らえられた。殺そうとすると雅は「私は先日すでに死ぬはずの身、幸いに逃れて今日に至った。死ぬのは本望だ。しかし夷と夏の別はあっても君臣の義は一つ。晉は大義をもって兵を起こしたのに、秦に節を守る臣がいてはならぬのか」と言い、赦された。
- 丙子の夜、沈林子が精鋭で姚鸞の営を襲い、鸞を斬って士卒数千を殺した。紹はさらに東平公姚讃を河上に置いて水路を断とうとしたが、林子が撃って讃は定城へ敗走した。薛帛は河曲に拠って降ってきた。
- 太尉裕は水軍を率いて淮・泗から清河に入り、黄河を遡って西へ向かおうとし、先に魏へ使者を送って道を借りた。秦主泓もまた魏に救援を請うた。魏主嗣が群臣に議させると、皆「潼関は天険で劉裕が水軍で攻めるのは難しい。岸に上がって北を侵すほうが容易です。裕は秦討伐と言うが本心は測り難く、また秦は婚姻の国で救わぬわけにいきません。兵を出して河の上流を断ち、西へ行かせぬべきです」と言った。
- 博士祭酒の崔浩は反対した。「裕が秦を図って久しく、今、姚興が死んで子の泓は懦弱、国は内紛だらけ。その危うきに乗じて伐つのだから必ず取るつもりです。上流を遮れば裕は怒って必ず北岸に上がって侵します。それでは我らが秦に代わって敵を受けることになります。今、柔然が辺境を侵し民の食糧も乏しい。そのうえ裕を敵として南に兵を出せば北の敵はいよいよ深く入り、北を救えば南の州がまた危うい。良策ではありません。むしろ水路を貸して西へ行かせ、そのうえで兵を屯して東を塞ぐのがよい。裕が勝てば道を貸した恩に感じ、勝たなくとも我らは秦を救った名を失いません。これが得策です。それに南北は風俗が異なり、仮に国が恒山以南を捨てたとしても、裕は呉越の兵で我らと河北を争って守ることなどできません。どうして患いとなりましょう。国のために計るなら社稷の利だけを見るべきで、女ひとりを顧みる話ではありません」。
- なお議者は「裕が関に入れば我らが背後を断つのを恐れ、北上すれば姚氏が関を出て我らを助けるはずもない。西と言って実は北を攻めるつもりだろう」と言った。嗣は司徒長孫嵩を山東諸軍事の督とし、振威将軍娥清と冀州刺史阿薄干に歩騎十万で黄河の北岸に駐屯させた。
- 庚辰、裕は軍を率いて黄河に入り、左将軍向彌を北青州刺史として碻磝に戍らせた。
- 当初、裕は王鎮悪らに洛陽を落としたら大軍の到着を待って共に進むよう命じていた。だが鎮悪らは勢いに乗じてまっすぐ潼関に進み、秦兵に阻まれて前進できなくなった。長く食糧が尽き衆心は疑い恐れ、輜重を捨てて大軍に合流しようという声も出た。沈林子は剣に手をかけて怒った。「相公の志は六合を清めることにある。今、許・洛は定まり関右も平らぐところ。事の成否は前鋒に懸かっている。なぜ勝ちに乗る気勢を挫き、成りかけた功を捨てるのか。それに大軍はなお遠く、賊勢は盛んだ。帰ろうとしても帰れまい。私は命を捧げて顧みぬ。今日の事は将軍のために自ら片づける。諸君はどの面下げて相公の旗鼓にまみえるのか」。
- 鎮悪らは裕に使者を馳せて糧の援助を求めた。裕は使者を呼んで船の北の戸を開き、河上の魏軍を指して「進むなと言ったのだ。今、軽々しく深入りして、岸の上はこのありさま。どうして軍を送れるか」と言った。鎮悪はそこで自ら弘農に出向いて百姓を説得し、百姓が競って義租を差し出したので軍糧は持ち直した。
- 魏軍は数千騎で河沿いに裕の軍と並んで西へ進んだ。晉の軍人が南岸で船を綱で曳いたが、風も水も急で北岸に流される者があり、その都度魏人に殺され掠われた。裕が兵を出して撃つと、上陸したとたんに逃げ、退けばまた来た。
- 夏四月、裕は白直隊主の丁旿に武装兵七百と車百乗を与えて北岸に渡らせ、水際から百余歩の地に「却月陣」を布かせた。両端を河に接して弧を描き、車ごとに七人の武装兵を置き、完成したら白い眊(旗印)を一つ立てさせた。魏人は意図が分からず動かなかった。裕はあらかじめ寧朔将軍朱超石に戒厳させており、白眊が挙がると超石は二千人を率いて駆けつけた。大弩百張を携え、車ごとに二十人を増し、轅の上に彭排(盾)を設けた。
- 魏人は陣が立ったのを見て取り囲み、長孫嵩が騎三万で加勢し、四面から肉薄して営を攻めた。弩では抑えきれない。超石は別に大槌と矟千余張を用意しており、矟を三、四尺に切って槌で打ち込ませると、一本の矟が三、四人を貫いた。魏兵は支えきれず一斉に潰走し、死者が積み重なった。陣中で阿薄干を斬り、魏人は畔城に退いた。超石は寧朔将軍胡藩・寧遠将軍劉栄祖とともに追撃してまた破り、殺獲は千を数えた。魏主嗣はこれを聞いて崔浩の言を用いなかったのを悔いた。
- 秦の魯公紹は長史姚洽・寧朔将軍安鸞・護軍姚墨蠡・河東太守唐小方に三千の兵で河北の九原に駐屯させ、黄河を頼みに固め、檀道済の糧援を断とうとした。沈林子が迎え撃って破り、洽・墨蠡・小方を斬り、ほぼ皆殺しにした。林子は裕に「紹の気勢は関中を覆っています。今、兵は外で屈し国は内で危うい。彼の凶命が先に尽きて、わが斧の血糊にできないのが残念です」と報告した。紹は洽らの敗死を聞いて憤り病んで血を吐き、兵を東平公讃に託して没した。讃は紹に代わったが兵力はなお盛んで、兵を率いて林子を襲ったが、林子はまた破った。
- 太尉裕は洛陽に至り、城と濠を巡視して毛脩之の修繕の功を賞し、二千万に値する衣服・愛玩の品を賜った。
- 秋七月、裕は陝に至った。沈田子と傅弘之が武関に入ると、秦の守将はみな城を捨てて逃げ、田子らは青泥に進み駐屯した。秦主泓は給事黄門侍郎姚和都を嶢柳に置いて防がせた。
- 裕が閺郷に至り、沈田子らが嶢柳を攻めようとした。秦主泓は自ら裕の軍を防ごうとしたが、田子らに背後を襲われるのを恐れ、まず田子らを撃滅してから国を挙げて東に出ようと考え、歩騎数万を率いて不意に青泥に至った。田子はもともと陽動の兵で、率いる兵はわずか千余人だったが、泓の到着を聞いて撃とうとした。傅弘之は衆寡敵せずと止めたが、田子は「兵は奇を貴び、数の多寡ではない。今、衆寡が懸絶している以上、両立の勢いはない。敵の包囲が固まればわれらに逃げ場はない。着いたばかりで陣も立たぬところを叩けば功を挙げられる」と言い、率先して進み、弘之が続いた。
- 秦兵は幾重にも包囲した。田子は士卒を励まし、「諸君は危険を冒し遠来した。まさに今日の戦いを求めてのこと。生死を一挙に決する。封侯の業はここにある」と言った。士卒は踊り上がり鬨を上げ、短兵を執って奮撃した。秦兵は大敗し、一万余の首を挙げ、乗輿や服御の品を得た。泓は灞上へ逃げ帰った。裕は田子らの兵が少ないので沈林子に兵を与え、秦嶺伝いに援けに行かせたが、着いたときには秦兵はすでに敗れていたので、ともに追撃した。関中の郡県の多くがひそかに田子に降伏の意を通じた。
- 辛丑、裕は潼関に至り、朱超石を河東太守として振武将軍徐猗之とともに河北で薛帛と合流して蒲阪を攻めさせた。秦の平原公姚璞と姚和都がこれを迎え撃ち、猗之は敗死し、超石は潼関に逃げ帰った。東平公讃は司馬国璠に魏兵を引き入れて裕の背後を衝かせた。
- 王鎮悪が水軍を率いて黄河から渭水に入り長安へ向かうことを請い、裕は許した。秦の恢武将軍姚難が香城から兵を率いて西へ向かい、鎮悪が追った。秦主泓は灞上から兵を還して石橋に屯し後詰とした。鎮北将軍姚彊が難と合流して涇上に屯して鎮悪を防いだが、鎮悪は毛徳祖に撃たせて破り、彊は戦死、難は長安へ逃げた。東平公讃は鄭城に退いた。
- 裕が進軍して迫ると、泓は姚丕に渭橋を守らせ、胡翼度を石積に、東平公讃を灞東に置き、自らは逍遥園に屯した。鎮悪は渭水を遡り、蒙衝の小艦に乗った。漕ぐ者はみな艦内にいたので、秦人は艦が進むのに漕ぐ者が見えず、驚いて神業と思った。
- 壬戌の朝、鎮悪は渭橋に至り、軍士に食事を済ませてから武器を執って上陸させ、遅れて登る者は斬ると命じた。全員が上陸すると、渭水の流れが速く艦はみな流されて瞬く間に見えなくなった。当時、泓の手勢はなお数万いた。鎮悪は士卒に諭した。「われらの家はみな江南にある。ここは長安の北門で、家から万里の彼方だ。舟も衣も糧もすべて流れ去った。今、進んで勝てば功名がともに顕れ、負ければ骨も帰らぬ。ほかに道はない。励め」。そして自ら士卒に先んじ、皆が躍り上がって争い進み、渭橋で姚丕を大破した。泓は救援に向かったが、丕の敗兵に踏みにじられ、戦わずして潰えた。姚諶らはみな死に、泓は単騎で宮に帰った。
- 鎮悪は平朔門から入城した。泓は姚裕ら数百騎とともに石橋へ逃げた。東平公讃は泓の敗報を聞いて駆けつけたが、兵はみな潰散した。胡翼度は裕に降った。泓が降伏に出ようとすると、十一歳の子の姚仏念が「晉人は欲を遂げようとしています。降っても必ず助かりません。自決なさるほうが」と言った。泓は呆然として答えず、仏念は宮の壁に登って身を投げて死んだ。
- 癸亥、泓は妻子と群臣を連れて鎮悪の塁の門に至り降伏を請い、鎮悪は官吏に引き渡した。城中には夷と晉の民六万余戸がいた。鎮悪は国恩を説いて撫慰し、号令を厳しくしたので百姓は安堵した。
- 九月、太尉裕が長安に至り、鎮悪が灞上で迎えた。裕は「わが覇業を成したのは卿だ」と労った。鎮悪は再拝して「明公の威と諸将の力です。鎮悪に何の功がありましょう」と辞した。裕は笑って「卿は馮異を学ぶつもりか」と言った。
- 鎮悪は貪欲な性で、秦の府庫が満ちているのを盗み取ること数え切れないほどだった。裕は功が大きいので問わなかった。ある者が「鎮悪は姚泓の偽輦を隠している。異心があるのでは」と讒言した。裕が人にうかがわせると、鎮悪は輦から金銀を剥ぎ取って輦は垣の脇に捨てていたので、裕は安心した。
- 裕は秦の彝器・渾儀・土圭・記里鼓・指南車を収めて建康に送り、その他の金玉・繒帛・珍宝はみな将士に分け与えた。秦の平原公姚璞と并州刺史尹昭は蒲阪を挙げて降り、東平公讃は一族百余人とともに裕に降ったが、裕はみな殺した。姚泓は建康に送られ市で斬られた。
- 裕は薛辯を平陽太守として北道を守らせた。裕は洛陽への遷都を議したが、諮議参軍王仲徳が「非常の事は非常の人でなければ及ばぬもの。必ず動揺を招きます。今、軍を野に晒して久しく、士卒は帰心に逸っています。遷都の計は議すべきときではありません」と言い、裕は取りやめた。羌の民十万口が西の隴上へ逃れ、沈林子が槐里まで追撃して捕虜は万を数えた。
- 先に夏王赫連勃勃は裕の秦討伐を聞き、群臣に「姚泓は裕の敵ではない。しかも兄弟が内で叛いている。人を防げるものか。裕は必ず関中を取る。だが裕は長く留まれず必ず南に帰り、子弟と諸将に守らせる。そうなればわれが取るのは芥を拾うようなものだ」と言い、馬を肥やし兵を研ぎ、士卒を訓練して安定に進拠した。秦の嶺北の郡県・鎮戍はみな勃勃に降った。裕は使者に書状を持たせて勃勃と兄弟の契りを結ぼうとした。勃勃は中書侍郎皇甫徽に返書を作らせてひそかに暗記し、裕の使者の前で舎人に口授して書かせた。裕はその文を読んで「われは及ばぬ」と嘆じた。
- 冬十一月辛未、劉穆之が没した。裕は聞いて驚き嘆き、幾日も悲しんだ。もともと裕は長安に留まって西北を経略するつもりだったが、将佐はみな長い遠征に帰心を抱いて留まりたがらず、そこへ穆之が没したので、裕は本拠を託す者がなくなり東帰を決意した。
- 穆之が没すると朝廷は恐慌し、詔で太尉左司馬徐羨之を後任にしようとしたが、中軍諮議参軍張邵が「急場をしのぐ任はまことに徐氏でしょうが、世子に専断の権はありません。諮るべきです」と言った。裕は王弘を後任にしようとしたが、従事中郎の謝晦が「休元(王弘)は軽率です。羨之に及びません」と言った。そこで羨之を吏部尚書・建威将軍・丹陽尹として留任の職務を代行させた。以後、朝廷の大事で常に穆之が決していたものは、みな北の裕に諮ることになった。
- 裕は次子の桂陽公劉義真を都督雍梁秦三州諸軍事・安西将軍・領雍東秦二州刺史とした。義真は当時十二歳。太尉諮議参軍の京兆の王脩を長史、王鎮悪を司馬・領馮翊太守、沈田子と毛徳祖をともに中兵参軍とし、田子に始平太守、徳祖に秦州刺史を兼ねさせ、天水太守傅弘之を雍州治中従事史とした。以前から関中に寄寓していた隴上の流民は兵威で故郷に帰れると期待していたが、東秦州が置かれると裕にもはや西進の意がないと知り、みな嘆息して失望した。
- 裕が長安を落としたのは王鎮悪の功が最も大きく、そのため南人はみな鎮悪を妬んだ。沈田子は嶢柳の勝利を誇り、鎮悪と功を争って不満を抱いた。裕が帰ろうとすると、田子と傅弘之はしばしば「鎮悪は家が関中にあり、信用できません」と言った。裕は「今、卿ら文武の将士と精兵一万を留める。彼が悪事を企てても自滅するだけだ。もう言うな」と言い、ひそかに田子に「鍾会が乱を遂げられなかったのは衛瓘がいたからだ。諺に猛獣も狐の群れに及ばずという。卿ら十余人が何を王鎮悪ごときに怯えるのか」と言った。
史論(臣光曰)
- 古人は「疑わしければ任ずるな、任じたなら疑うな」と言った。裕は鎮悪に関中を委ねながら、沈田子に後ろで別のことを言った。これは二人を闘わせて乱を起こさせたようなものだ。百年来の敵、千里の土地を、苦労して得ながら瞬く間に失い、豊・鎬の都をまた敵の手に渡してしまったのは惜しいことだ。荀子が「兼併は容易だが、固め凝集させるのが難しい」と言ったのはまことである。
十三年つづき(劉裕の東帰)
- 三秦の父老は裕が帰ると聞き、門に来て涙ながらに訴えた。「取り残された民は百年ものあいだ王化に浴さず、今ようやく衣冠の人を目にして互いに喜び合ったところです。長安の十陵は公の家の墳墓、咸陽の宮殿は公の家の住まい。これを捨ててどこへ行かれるのか」。裕は憐れんで慰めた。「朝廷の命を受けた身で勝手に留まれぬのだ。諸君が故郷を思う志には申し訳ないが、次子と文武の賢才にこの地を鎮させる。ともに励んで暮らしてほしい」。
- 十二月庚子、裕は長安を発ち、洛陽から黄河に入り、汴渠を開いて帰った。
- 閏月、夏王勃勃は裕の東帰を聞いて大いに喜び、王買徳に方略を問うた。買徳は「関中は要害の地なのに、裕は幼子に守らせて慌ただしく帰ります。これは急いで簒奪を成そうとしてのことで、中原を顧みる余裕はありません。天が関中を我らに賜ったのです。逃してはなりません。青泥と上洛は南北の要害ですから、まず遊軍を送って断ち、東は潼関を塞いで水陸の道を絶ち、そのうえで三輔に檄を伝えて威と徳を施せば、義真は網の中にあるも同然、取るに足りません」と答えた。勃勃は子の撫軍大将軍赫連璝を都督前鋒諸軍事として騎二万で長安へ向かわせ、前将軍赫連昌を潼関に屯させ、買徳を撫軍右長史として青泥に屯させ、自らは大軍を率いて後に続いた。
十四年(418年)
- 春正月、夏の赫連璝が渭に至り、関中の民で降る者が道に連なった。龍驤将軍沈田子が兵を率いて防いだが、敵の多さを恐れて劉廻堡に退き、使者を返して王鎮悪に報告した。鎮悪は王脩に「公は十歳の子(義真)を我らに託された。皆で力を尽くすべきなのに、兵を擁して進まぬ。どうして敵を退けられよう」と言った。使者が戻ってこれを田子に伝えると、田子はもともと鎮悪と互いに謀る心があったので、いよいよ怒り恐れた。
- ほどなく鎮悪と田子はともに北地へ出て夏兵を防いだ。軍中に「鎮悪は南人をみな殺し、数十人で義真を南に送り返して関中に拠って叛くつもりだ」という流言が立った。辛亥、田子は鎮悪を傅弘之の営に呼んで軍議を装い、人払いをして話すと言って一族の沈敬仁に幕下で斬らせ、太尉の命を受けて誅したと偽った。弘之は劉義真に走って告げ、義真と王脩は甲を着けて黄門(門楼)に登って様子をうかがった。まもなく田子が数十人を率いて来て「鎮悪が謀反した」と言ったので、王脩は田子を捕らえ、専断で人を殺した罪を数えて斬った。冠軍将軍毛脩之が鎮悪に代わって安西司馬となった。
- 傅弘之が池陽で赫連璝を大破し、また寡婦渡で破って、斬獲は甚だ多く、夏兵は退いた。
- 壬戌、太尉裕が彭城に至って戒厳を解いた。琅邪王徳文は先に建康に帰った。裕は王鎮悪の死を聞き、「沈田子が突然発狂して忠勲の臣を殺した」と上表し、鎮悪に左将軍・青州刺史を追贈した。彭城内史劉遵考を并州刺史・領河東太守として蒲阪に鎮させ、荊州刺史劉道憐を召して徐兖二州刺史とした。
- 裕は世子義符を荊州に鎮させ、徐州刺史劉義隆を司州刺史として洛陽に鎮させようとしたが、中軍諮議張邵が「儲貳(世継ぎ)は重く四海の繋がるところ。外に置くべきではありません」と諫めた。そこで義隆を都督荊益寧雍梁秦六州諸軍事・西中郎将・荊州刺史とし、南郡太守到彦之を南蛮校尉、張邵を司馬・領南郡相、冠軍功曹の王曇首を長史、北徐州従事の王華を西中郎主簿、沈林子を西中郎参軍とした。義隆はまだ幼く、府の事はみな張邵と王曇首が決した。曇首は王弘の弟である。裕は義隆に「王曇首は沈毅で器量があり、宰相の才だ。何事も彼に諮れ」と言った。南郡公劉義慶を豫州刺史とした。義慶は道憐の子である。裕は司州を解いて徐州・冀州二州刺史を兼ねた。
- 冬十月、劉義真は年少で左右への賜与に節度がなく、王脩がそのたびに抑えたので左右はみな怨んだ。彼らは義真に「王鎮悪が謀反しようとしたので沈田子が殺した。王脩が田子を殺したのも、脩自身が謀反したいからだ」と讒言した。義真はこれを信じ、左右の劉乞らに脩を殺させた。脩が死ぬと人心は離れ動揺し、統一が取れなくなった。義真は外の軍をみな長安に呼び入れて門を閉じ守りに就いたので、関中の郡県はことごとく夏に降った。赫連璝が夜に長安を襲ったが落とせず、夏王勃勃は咸陽に進拠し、長安は薪や食料を採る道も絶たれた。
- 宋公裕はこれを聞き、輔国将軍蒯恩を長安に遣わして義真を東に呼び戻し、相国右司馬朱齢石を都督関中諸軍事・右将軍・雍州刺史として代わりに長安に鎮させた。裕は齢石に「着いたら義真に軽装で速やかに出発するよう命じよ。関を出たらゆっくり行けばよい。関右がどうしても守れぬなら義真とともに帰れ」と言い、また中書侍郎朱超石に河・洛の慰労を命じた。
- 十一月、齢石が長安に至った。義真の将士は貪欲に大掠奪をして東へ向かい、宝貨と婦女を大量に積み、車を並べてゆっくり進んだ。雍州別駕の韋華が夏に亡命した。赫連璝が三万の兵で義真を追った。建威将軍傅弘之が「公は急ぎ進めと命じられました。今これほどの輜重では一日十里も進めません。敵の追騎がすぐ来ます。どう防ぐのか。車を捨てて身軽に行けば免れられます」と言ったが、義真は従わなかった。
- ほどなく夏兵が大挙して至り、傅弘之と蒯恩が殿軍となって連日力戦した。青泥に至って晉兵は大敗し、弘之と恩はともに王買徳に捕らえられた。司馬毛脩之は義真とはぐれ、やはり夏兵に捕らえられた。義真は先行しており、折しも日が暮れて夏兵が深追いしなかったので免れた。左右はみな散り、独り草むらに隠れていたところ、中兵参軍の段宏が単騎で道々呼びながら探した。義真は声を聞き分けて出て来て、「段中兵ではないか。私はここだ。二人とも助かるまい。私の首を斬って南へ持ち帰り、父の望みを絶ってくれ」と言った。宏は泣いて「生死をともにします。下官には忍びません」と言い、義真を背に縛りつけ、単騎で帰った。義真は宏に「今日のことはまったく計略がなかった。だが丈夫たる者、これを経ずして艱難を知ることはできぬ」と言った。
- 夏王勃勃は傅弘之を降らせようとしたが弘之は屈しなかった。折しも寒いさなかで、勃勃は弘之を裸にし、弘之は叫び罵って死んだ。勃勃は人の首を積んで京観とし、髑髏台と名づけた。
- 長安の百姓が朱齢石を追い出し、齢石は宮殿を焼いて潼関へ逃げた。勃勃は長安に入り、将士を大いに饗応して盃を挙げ、王買徳に「卿の先日の言は一年で証明された。算に遺策なしとはこのことだ。この盃は卿をおいて誰に注ごう」と言い、買徳を都官尚書として河陽侯に封じた。
- 龍驤将軍王敬先が曹公塁に戍っており、齢石はそこへ身を寄せた。朱超石も蒲阪で兄の所在を聞いて合流した。赫連昌が敬先の塁を攻めて水路を断ち、衆は渇いて戦えず、城は落ちかかった。齢石は超石に「兄弟がともに異域で死んでは、年老いた親の心はどうなる。お前は間道から逃げ帰れ。私はここで死んでも悔いはない」と言った。超石は兄にすがって泣き、「人は誰しも死ぬもの。今日どうして兄を捨てて去れましょう」と言った。二人は敬先および右軍参軍劉欽之とともに捕らえられ、長安に送られて勃勃に殺された。欽之の弟の劉秀之は悲嘆し、十年のあいだ宴楽を絶った。欽之は劉穆之の従兄の子である。
- 宋公裕は青泥の敗報を聞いたが義真の生死が分からず、激怒して日を定めて北伐しようとした。侍中謝晦が士卒の疲弊を挙げて他年に延ばすよう諫めたが従わなかった。鄭鮮之が上表した。「敵は殿下の親征を聞けば必ず力を併せて潼関を守ります。まっすぐ攻めても容易には勝てません。もし御駕が洛陽に留まるだけなら、わざわざ聖躬を労するには及びません。それに敵は志を得ても勝ちに乗じて陝を越えぬのは、なお大威を恐れて将来を慮っているからです。洛陽まで行って引き返せば、敵は必ずこちらを値踏みする心を強め、かえって辺境の患いを生むでしょう。まして大軍が遠く出れば後患は甚だ多い。先年の西征では劉鍾が狼狽し、昨年の北討では広州が傾覆しました。過ぎた事例が後の鑑です。今、諸州は大水で民の食は乏しく、三呉の群盗が諸県を攻め落としているのも、みな征役に苦しんだためです。江南の士庶は首を伸ばして殿下の凱旋を待っています。また北へ出ると聞けば、謀の深浅も往還の期も測れず、臣は憂いがかえって腹心に生じるのを恐れます。西の敵が河洛の患いとなるのを慮られるなら、北の敵(魏)と好誼を結ぶべきです。北虜と親しめば河南が安らぎ、河南が安らげば済・泗が静まります」。
- そこへ段宏の報告が届き、義真の無事が知れたので、裕は取りやめた。ただ城に登って北を望み、感慨のあまり涙を流すのみだった。義真を建威将軍・司州刺史に降格し、段宏を宋台の黄門郎・領太子右衛率とした。裕は天水太守毛徳祖を河東太守として、劉遵考に代えて蒲阪を守らせた。