通鑑紀事本末沮渠蒙遜、西秦を伐つ(䝉遜伐西秦)

北涼の沮渠蒙遜と西秦の乞伏熾磐が広武・湟河・西平をめぐって攻防を重ね、一時は和親したものの、たびたび兵を交えて西秦が疲弊してゆく経過。熾磐は魏に通じて夏の討伐を請うが、逆に夏軍の来襲を招いて枹罕を脅かされる。熾磐の死後を継いだ暮末は蒙遜の圧迫に耐えかね、国を焼いて東へ移ろうとして果たさず、南安で夏に降って一族ともども殺され、西秦は滅びる。415年から431年の記。

年表(14件)
  • 晉安帝
  • 義熙十一年415年蒙遜が広武を落とし、熾磐は湟河で沮渠漢平を捕らえる
  • 十二年416年石泉をめぐる対陣ののち、蒙遜と熾磐が和親する
  • 宋武帝
  • 永初元年420年熾磐が暮末を太子に立て、王基が胡園の戍を襲う
  • 二年421年木弈千が五澗で沮渠鄯善を破り、沮渠苟生を捕らえる
  • 三年422年出連虔が嶺南に出た沮渠成都を捕虜とする
  • 營陽王
  • 景平元年423年熾磐が魏に金を献じ、国を挙げて仕えて夏討伐を請う
  • 文帝
  • 元嘉元年424年暮末らが臨松を攻略し、二万余口を移して帰る
  • 二年425年叱盧犍が臨松で沮渠白蹄を捕らえ、五千余戸を枹罕へ移す
  • 三年426年蒙遜の誘いで夏軍が来襲し、南安が陥ちて西平から二万余戸を奪われる
  • 四年427年熾磐が枹罕へ帰り、渥頭を魏へ入貢させる
  • 五年428年熾磐が没して暮末が立ち、沮渠成都を返して蒙遜と和す
  • 六年429年蒙遜が西平を陥れるが、暮末は冶城で世子の興国を生け捕る
  • 七年430年暮末が国を焼いて東遷を図るも夏に阻まれ、南安に留まる
  • 八年431年暮末が夏に降り、一族五百人とともに殺されて西秦は滅ぶ

晉安帝義熙十一年(415年)

  • 春三月、河西王沮渠蒙遜が西秦の広武郡を攻め落とした。西秦王乞伏熾磐は将軍の乞伏魋尼寅を派して浩亹で蒙遜を迎え撃たせたが、蒙遜はこれを討ち取った。続いて派遣された将軍圻斐ら騎兵一万も勒姐嶺で捕らえられた。
  • 夏五月、熾磐が三万の兵で湟河を襲った。蒙遜の弟の漢平は司馬の隗仁に夜襲をかけさせて破り、熾磐は退こうとしたが、漢平の長史焦昶と将軍段景がひそかに熾磐を呼び戻した。熾磐が再度攻めると漢平は力尽きて捕らえられた。

十二年(416年)

  • 春正月、熾磐が漒川で秦の洮陽公彭利和を攻めた。蒙遜は石泉を攻めて救援しようとしたが、熾磐が㳫中まで来ると引き返した。
  • 二月、熾磐は襄武侯曇達を派して石泉を救わせ、蒙遜も撤退した。以後、蒙遜と熾磐は和親を結んだ。

宋武帝永初元年(420年)

  • 春正月、秦王熾磐が子の暮末を太子に立てた。
  • 秋九月、秦の振武将軍王基らが河西王蒙遜の胡園の守備陣を襲い、二千余人を捕虜として帰った。

二年(421年)

  • 秋七月、蒙遜が右衛将軍沮渠鄯善・建節将軍沮渠苟生に七千の兵を与えて秦を討たせた。秦王熾磐は征北将軍木弈千ら歩騎五千でこれを防ぎ、五澗で鄯善らを破り、苟生を捕らえ二千の首を挙げて帰還した。

三年(422年)

  • 秋七月、蒙遜が前将軍沮渠成都に一万の兵を与えて嶺南で示威させ、五潤に駐屯させた。
  • 九月、秦王熾磐が征北将軍出連虔ら騎六千でこれを迎撃した。
  • 冬十月、出連虔が沮渠成都と戦って捕虜とした。

營陽王景平元年(423年)

  • 夏四月、秦王熾磐が群臣に語った。宋は江南を占め夏は関中に拠るがいずれも組む相手ではない、魏主は代々英武で賢者を用い、また讖に恒代の北に真人ありというから、国を挙げて魏に仕えようと。そこで尚書郎の莫者阿胡らを魏に遣わし、黄金二百斤を献じ、夏を討つ方策を進言させた。

文帝元嘉元年(424年)

  • 秋七月、熾磐が太子暮末と征北将軍木弈干らに歩騎三万を与え、貂渠谷から河西の白草嶺・臨松郡を攻略させ、二万余口の民を移して帰った。

二年(425年)

  • 夏四月、熾磐が平遠将軍叱盧犍らを派し、臨松で河西の鎮南将軍沮渠白蹄を襲って捕らえ、その民五千余戸を枹罕に移した。

三年(426年)

  • 春正月、熾磐は再び魏に使者を送り、夏への出兵を請うた。
  • 秋八月、熾磐が河西を伐って廉川に至り、太子暮末に歩騎三万で西安を攻めさせたが落とせず、番禾も攻めた。蒙遜は兵を出して防ぎ、同時に夏主に使者を送って手薄な枹罕を襲うよう説いた。夏主は征南大将軍呼盧古に騎二万で苑川を、車騎大将軍韋伐に騎三万で南安を攻めさせた。これを聞いた熾磐は引き返した。
  • 九月、熾磐は領内の老弱と家畜を澆河・莫河・仍寒川に移し、左丞相曇達に枹罕を守らせた。韋伐は南安を陥れ、秦の秦州刺史翟爽と南安太守李亮を捕らえた。
  • 冬十月、曇達が嵻㟍山で呼盧古と戦って敗れた。
  • 十一月、呼盧古と韋伐が枹罕に進攻し、熾磐は定連に退いて守った。呼盧古が南城に侵入すると、鎮京将軍趙寿生が決死の三百人を率いて奮戦し撃退した。呼盧古・韋伐はさらに湟河の沙州刺史出連虔を攻めたが、虔は後将軍乞伏万年を派して破った。夏軍は西平も攻め、安西将軍庫洛于を捕らえ、戦士五千余人を坑にし、民二万余戸をさらって去った。

四年(427年)

  • 夏六月、熾磐が枹罕に帰還した。
  • 秋八月、熾磐は叔父の平遠将軍渥頭らを魏に入貢させた。

五年(428年)

  • 夏五月、秦の文昭王熾磐が没し、太子暮末が即位して大赦し、永弘と改元した。
  • 六月、熾磐を武平陵に葬り、廟号を太祖とした。暮末は右丞相元基を侍中・相国・都督中外諸軍・録尚書事とし、鎮軍大将軍河州牧の謙屯を驃騎大将軍、安北将軍涼州刺史の段暉を召して輔国大将軍・御史大夫、叔父の右禁将軍千年を鎮北将軍・涼州牧として湟河に鎮させ、征北将軍木弈干を尚書令・車騎大将軍、征南将軍吉毗を尚書僕射・衛大将軍とした。
  • 蒙遜は秦の喪に乗じて西平を攻めた。西平太守麴承は「まず楽都を取るべきで、そうすれば西平は自ずと殿下のものになる。西平が風を望んで降るのは明主の嫌うところだ」と説き、蒙遜は西平を放って楽都を攻めた。相国元基が騎三千で救援に入った直後に河西軍が到り、外城を陥れて水路を断ったため、城中は飢渇で死者が過半に及んだ。元基に従っていた東羌の乞提が河西と内通し、縄を垂らして百余人を城に引き入れ、鼓を鳴らして門を焼いたが、元基が左右を率いて奮撃し河西兵を退けた。
  • 生前、文昭王は暮末に「わが死後は領土を保てればそれでよい。沮渠成都は蒙遜に重んじられているから返してやれ」と遺言していた。暮末は成都を返す条件で和を求め、蒙遜は兵を引いて秦に弔問の使者を送った。暮末は成都を手厚く送り出し、将軍王伐に護送させたが、蒙遜はなお疑って恢武将軍沮渠奇珍に捫天嶺で伏兵を置かせ、王伐と騎士三百を捕らえた。のち尚書郎王杼に王伐を送り返させ、暮末に馬千匹と錦・罽・銀・繒を贈った。
  • 秋七月、暮末は記室郎中の馬艾を河西に返礼の使者として送った。
  • 冬十二月、蒙遜が秦を伐って磐夷に至り、秦の相国元基らが騎一万五千で防いだ。蒙遜は転じて西平を攻め、征虜将軍出連輔政らが騎二千で救援に向かった。

六年(429年)

  • 春正月、出連輔政らが西平に着く前に蒙遜が西平を陥れ、太守麴承を捕らえた。
  • 夏五月、蒙遜が秦を伐った。暮末は相国元基に枹罕を守らせて定連に移り守った。南安太守翟承伯らが罕开谷に拠って河西に呼応したが、暮末はこれを破り冶城に進んだ。西安太守莫者幼眷が汧川に拠って叛き、暮末は討ったが敗れて定連に戻った。蒙遜は枹罕に至り、世子興国に定連を攻めさせた。
  • 六月、暮末が冶城で興国を迎え撃って捕らえ、譚郊まで蒙遜を追撃した。吐谷渾王慕璝は弟の没利延に騎五千を与えて蒙遜の秦討伐に合流させたが、暮末は輔国大将軍段暉らに迎撃させて大破した。
  • 秋七月、蒙遜は穀三十万斛を送って世子興国の身柄を贖おうとしたが暮末は許さず、蒙遜は興国の同母弟菩提を世子に立てた。暮末は興国を散騎常侍とし、妹の平昌公主を娶らせた。

七年(430年)

  • 秦王暮末は河西に圧迫され、臣の王愷・烏納闐を魏に送って受け入れを請うた。魏は平涼・安定に封ずると約したので、暮末は城邑を焼き宝器を壊し、一万五千戸を率いて東の上邽へ向かった。高田谷で給事黄門侍郎郭恒が沮渠興国を奪って叛こうと謀ったが発覚し、暮末は郭恒を殺した。夏主は暮末の接近を聞いて兵を出して阻んだため、暮末は南安にとどまり、旧領はすべて吐谷渾のものとなった。
  • 十一月、魏の尚書庫結が騎五千で暮末を迎えに来たが、衛将軍吉毗が内地への移住は不可と説き、暮末はこれに従い、庫結は引き返した。南安の諸羌一万余人が秦に叛き、安南将軍・督八郡諸軍事・広寧太守の焦遺を主に推したが遺は従わず、そこで遺の族子で長城護護軍の焦亮を主に立てて南安を攻めた。暮末は氐主楊難当に救援を求め、難当は将軍符献に騎三千を与えて救わせた。暮末は合流して諸羌を撃ち破り、亮は広寧に逃げ帰った。暮末は進軍して攻め、手ずから書いた令を焦遺に送って亮を討たせた。
  • 十二月、焦遺は亮の首を斬って降った。暮末は遺に鎮国将軍の号を加えた。秦の略陽太守の弘農楊顕が郡ごと夏に降った。

八年(431年)

  • 夏主が秦将姚献を破り、叔父の北平公韋伐に一万の兵で南安を攻めさせた。城中は大飢饉となり人が人を食う有様で、秦の侍中征虜将軍出連輔政、侍中右衛将軍乞伏延祚、吏部尚書乞伏跋跋が城を越えて夏に降った。追い詰められた秦王暮末は棺を車に載せて降伏し、沮渠興国とともに上邽に送られた。
  • 秦の太子司直焦楷は広寧に逃れ、父の焦遺に泣いて「本朝が滅んだ今、兵を率いて大義を唱え仇を討つべきだ」と訴えた。遺は「主上はすでに賊の手中にある。死を惜しむのではないが、大兵で追えばかえって主上の命を絶つことになる。王族の賢者を主に奉じて討つほうがよい」と答えた。楷は壇を築いて衆に誓い、二十日で一万余人が集まったが、遺が病没したため単独では挙兵できず、河西に亡命した。
  • 夏五月、夏主が乞伏暮末とその一族五百人を殺した。