通鑑紀事本末祖逖の北伐(祖逖北伐)

范陽の祖逖が江を渡り、北伐の志なき司馬睿から名目だけの官と乏しい資を与えられ、部曲百余家とともに中流で楫を撃って誓うところから始まる。淮陰で兵を鋳て衆を募り、張平・樊雅を平らげて譙城に拠り、陳川の離反と石虎の来援に阻まれながら河南を経略する。布嚢の偽米や糧道の遮断で桃豹を退け、趙固・李矩らを和解させて節度下に置き、河上の塢主の心を得て河以南の多くを晉に帰させた。しかし戴淵が上に置かれ、王敦の内難も迫って大功の成らぬことを悟り、憤悶のうちに雍丘で病死する。建興元年(313年)から永昌元年(322年)に河南が再び後趙に奪われるまで。

年表(6件)

晉愍帝建興元年(313年)祖逖の渡江

  • 范陽の祖逖は若くして大志があり、劉琨とともに司州主簿であった。同じく寝ていた夜半に鶏鳴を聞き、劉琨を蹴って覚まし、これは悪い声ではないと言い、それに因って起って舞った。
  • 江を渡ると、左丞相司馬睿は軍諮祭酒とした。祖逖は京口に居って驍健の者を糾合し、司馬睿に言った。晉室の乱は上に道がなく下が怨み叛いたからではない。宗室が権を争って自ら相魚肉し、ついに戎狄に隙に乗じさせ毒が中土に流れたのである。今、遺民は既に残賊に遭って人は自ら奮うことを思っている。大王がまことに將に命じて師を出し、逖のような者に統べさせて中原を復されるなら、郡国の豪傑には必ず望風して響応する者があろう、と。
  • 司馬睿はもとより北伐の志がなく、祖逖を奮威將軍・豫州刺史として千人分の廩と布三千疋を給したが、鎧仗は給せず、自ら召募させた。
  • 祖逖はその部曲百余家を将いて江を渡り、中流で楫を撃って誓い、祖逖が中原を清められずして再び渡るなら、この大江のごとくあれと言った。そのまま淮陰に屯し、冶を起こして兵を鋳、募って二千余人を得てから進んだ。

元帝建武元年(317年)譙城の平定

  • 流民の張平・樊雅がそれぞれ衆数千人を聚めて譙にあり塢主となっていた。晉王が丞相であったとき、行参軍の譙國人桓宣を遣わして張平・樊雅に説かせ、張平・樊雅はみな降を請うた。
  • 豫州刺史祖逖が出て蘆洲に屯し、参軍殷乂を張平・樊雅に詣らせた。殷乂は意で張平を軽んじ、その屋を視て、馬廐にできると言い、大鑊を見て、鉄器を鋳られると言った。張平は、これは帝王の鑊である、天下が清平になったらまさに用いる、どうして毀てようかと言った。殷乂は、あなたはその頭を保てぬのに鑊を愛するのかと言った。張平は大いに怒って席上で殷乂を斬り、兵を勒して固守した。
  • 祖逖は攻めること一年余り下せず、そこでその部將謝浮を誘って殺させた。祖逖は進んで太丘に拠った。
  • 樊雅はなお譙城に拠って祖逖と相拒んだ。祖逖は攻めて克てず、南中郎將王含に兵を請うた。桓宣は当時王含の参軍で、桓宣に兵五百を遣わさせて祖逖を助けさせた。
  • 祖逖が桓宣に、あなたの信義は既に彼に著れている、今また我のために樊雅に説かれたいと言った。桓宣はそこで単馬で二人を從えて樊雅に詣り、祖豫州はまさに劉氏・石氏を平蕩しようとしてあなたを援と倚んでいる、先の殷乂は軽薄で豫州の意ではないと言った。樊雅はすぐ祖逖に詣って降った。
  • 祖逖が譙城に入ると、石勒は石虎を遣わして譙を囲んだ。王含が再び桓宣を遣わして救い、石虎は解いて去った。祖逖は上表して桓宣を譙國内史とした。
  • 六月己巳、晉王が天下に檄を伝え、石虎が敢えて犬羊を帥いて河を渡り毒を縦にした、今、琅邪王司馬裒ら九軍の鋭卒三万を遣わして水陸四道から直に賊の場に造らせ、祖逖の節度を受けさせると称した。ほどなくまた司馬裒を建康に召し還した。

太興二年(319年)陳川の離反

  • 蓬陂の塢主陳川が自ら陳留太守を称していた。祖逖が樊雅を攻めたとき、陳川はその將李頭を遣わして助けた。李頭は力戦して功があり、祖逖は厚遇した。李頭は毎度、この人を主とできたら吾は死んで恨みがないと歎じた。陳川は聞いてこれを殺した。
  • 李頭の党の馮寵がその衆を帥いて祖逖に降り、陳川はいよいよ怒って豫州の諸郡を大いに掠めた。祖逖が兵を遣わして撃ち破った。
  • 夏四月、陳川が浚儀をもって叛いて石勒に降った。
  • 祖逖が陳川を蓬關で攻めた。石勒が石虎に兵五万を将いさせて救わせ、浚儀で戦って祖逖の兵は敗れ、退いて梁國に屯した。石勒はまた桃豹に兵を将いて蓬關に至らせ、祖逖は退いて淮南に屯した。石虎は陳川の部衆五千戸を襄國に徙し、桃豹を留めて陳川の故城を守らせた。

太興三年(320年)祖逖の河南経略

  • 夏六月、祖逖の將韓濳と後趙の將桃豹が陳川の故城を分け拠った。桃豹は西臺に居り韓濳は東臺に居り、桃豹は南門から、韓濳は東門から出入して相守ること四旬となった。
  • 祖逖は布の囊に土を盛って米の形に見せ、千余人に臺に運び上げさせ、また数人に米を檐って道で息ませた。桃豹の兵が逐うと、担を棄てて走った。桃豹の兵は久しく飢えており、米を得て祖逖の士衆が豊かに飽いていると思い、いよいよ懼れた。
  • 後趙の將劉夜堂が驢千頭で糧を運んで桃豹に饋った。祖逖は韓濳および別將馮鐡に汴水で邀え撃たせ、ことごとくこれを獲た。桃豹は宵に遁れて東燕城に屯した。祖逖は韓濳を進めて封丘に屯させて逼らせ、馮鐡に二臺を拠らせ、祖逖は雍丘を鎮した。
  • 度々兵を遣わして後趙の兵を邀え撃った。後趙の鎮戍で祖逖に帰する者は甚だ多く、境土は次第に蹙まった。
  • これに先立ち趙固・上官已・李矩・郭黙が互いに攻撃していた。祖逖は馳せて使を遣わして和解させ、禍福を示し、そこでみな祖逖の節度を受けた。
  • 秋七月、詔で祖逖に鎮西將軍を加えた。
  • 祖逖は軍中で將士と甘苦を同じくし、自らを約して施すことに務め、農桑を勧課し、新たに附いた者を撫し納れ、疎く賤しい者でもみな恩礼で結んだ。河上の諸塢で先に任子を後趙に置いている者にはみな両属を許し、時に游軍を遣わして偽って抄わせ、その未だ附かぬことを明らかにした。塢主はみな恩に感じ、後趙に異謀があればそのたび密かに告げた。これによって克ち獲るところが多く、河以南は多く後趙に叛いて晉に帰した。
  • 祖逖は兵を練り穀を積んで河北を取る計とした。後趙王石勒はこれを患え、そこで幽州に下して祖逖のために祖父の墓を修めさせ、守冢二家を置き、それに因って祖逖に書を送って使を通じることと互市を求めた。祖逖は書に報せなかったが互市を聴し、利を十倍収めた。
  • 祖逖の牙門童建が新蔡内史周密を殺して後趙に降った。石勒は斬って首を祖逖に送り、叛臣・逃吏は吾の深い仇である、將軍の悪は吾の悪と同じだと言った。祖逖は深くこれを徳とし、これより後趙の人で叛いて祖逖に帰す者を祖逖はみな納れず、諸將に後趙の民を侵し暴することを禁じた。辺境の間は次第に休息を得た。

太興四年(321年)祖逖の死

  • 秋七月甲戌、尚書僕射戴淵を征西將軍・都督司兖豫并雍冀六州諸軍事・司州刺史として合肥を鎮させた。
  • 八月、豫州刺史祖逖は戴淵が吳の士で才望はあるが弘く致す遠識がなく、しかも自分が既に荆棘を翦って河南の地を収めたのに、戴淵が雍容として一旦来てこれを統べることを意に甚だ怏々とした。また王敦が劉隗・刁協と隙を構え内難があろうと聞き、大功が遂げられぬと知って感激して発病した。
  • 九月壬寅、雍丘で死去した。豫州の士女は父母を喪ったようであり、譙・梁の間ではみなこれのために祠を立てた。
  • 王敦は久しく異志を懐いており、祖逖の死を聞いていよいよ憚るところがなくなった。
  • 冬十月壬午、祖逖の弟の祖約を平西將軍・豫州刺史として祖逖の衆を領させた。祖約に綏め御する才はなく、士卒に附かれなかった。
  • もともと范陽の李産が乱を避けて祖逖に依っていた。祖約の志趣が常と異なるのを見て、親しい者に語った。吾は北方が鼎沸したので遠く来てここに就き、宗族を全うすることを冀った。今、祖約のなすところを観るに測りがたい志がある。吾は名を姻親に託しているのだから早く自ら計るべきで、事なくして再び身を不義に陥らせるべきでない。あなたたちは目前の利によって久長の策を忘れてはならぬ、と。そこで子弟十余人を帥いて間行して郷里に帰した。

永昌元年(322年)

  • 冬十月、祖逖が死んでから、後趙は度々河南を冦して襄城・城父を抜き、譙を囲んだ。豫州刺史祖約は禦げず退いて壽春に屯した。後趙はそのまま陳留を取り、梁・鄭の間は再び騒然となった。