通鑑紀事本末氐族、仇池に拠る(氐據仇池)

略陽清水の氐の楊氏が四面斗絶の要害仇池に拠り、楊茂捜が齊萬年の乱を避けて部落四千家を率いて還るところから始まる。子の楊難敵は梁州刺史張光を破って漢中を奪い、前趙・成漢の間で去就を変えながら仇池に自立し、趙の益州刺史田崧を殺す。以後、楊毅・楊初・楊國・楊俊・楊丗と相殺が続き、晉と秦の双方に臣を称して命脈を保つ。咸安元年に秦の苻雅・楊安の七万に攻められて楊纂が降り、仇池は秦に併合され、続いて秦は梁・益の二州をも奪う。元康六年(296年)から寧康元年(373年)まで。

年表(19件)

晉惠帝元康六年(296年)楊茂捜の仇池入り

  • 略陽清水の氐の楊駒が初めて仇池に居った。仇池は方百頃、その傍の平地は二十余里、四面は斗絶して高く、羊腸の蟠道を三十六回して上った。
  • その孫の楊千萬に至って魏に附き、百頃王に封じられた。楊千萬の孫の楊飛龍が次第に強盛となって略陽に移り居った。楊飛龍はその甥の令狐茂捜を子とした。
  • 楊茂捜は齊萬年の乱を避け、十二月、略陽から部落四千家を帥いて還って仇池を保ち、自ら輔國將軍・右賢王と号した。關中の人士で乱を避ける者は多くこれに依った。楊茂捜は迎え接して撫し納れ、去りたい者は衛護して資を送った。

愍帝建興元年(313年)梁州の失陥

  • 氐王楊茂捜の子の楊難敵が養子を梁州に遣わして交易させたところ、私に良人の子一人を売った。梁州刺史張光が鞭で殺した。楊難敵は怨んで、使君が来た当初、大荒の後で兵民の命は我が氐に仰いで活きた、氐に小罪があってもこれを貰せぬのかと言った。
  • 張光と楊虎が相攻んだとき、それぞれ楊茂捜に救を求めた。楊茂捜は楊難敵を遣わして張光を救わせた。楊難敵が張光に貨を求めたが張光は与えなかった。楊虎は厚く楊難敵に賂し、しかも流民と珍貨はことごとく張光の所にある、今、我を伐つより張光を伐つに勝らぬと言った。楊難敵は大いに喜んだ。
  • 張光は楊虎と戦い、張孟萇を前に置いて楊難敵を後に継がせた。楊難敵は楊虎と挟撃して張孟萇を大破し、張孟萇およびその弟の張援はみな死んだ。張光は城を嬰んで自守した。
  • 九月、張光が憤激して疾を成した。僚属が張光に退いて魏興に拠ることを勧めた。張光は剣を按じて、吾は国の重任を受けた、賊を討てぬ、今、死を得るのは仙に登るようなものだ、何を退くと言うのかと言い、声が絶えて死んだ。
  • 州人はその少子の張邁を推して州事を領させたが、これも氐と戦って没した。衆は始平太守胡子序を推して梁州を領させた。
  • 冬十月、楊虎・楊難敵が急ぎ梁州を攻め、胡子序は城を棄てて走った。楊難敵は自ら刺史を称した。

建興二年(314年)

  • 春正月、楊虎が漢中の吏民を掠めて成に奔った。梁州の人張咸らが兵を起こして楊難敵を逐い、楊難敵が去ると張咸はその地をもって成に帰した。そこで漢嘉・涪陵・漢中の地はみな成の有となった。

元帝建武元年(317年)

  • 氐王楊茂捜が死去し、長子の楊難敵が立って少子の楊堅頭と部曲を分け領した。楊難敵は左賢王と号して下辨に屯し、楊堅頭は右賢王と号して河池に屯した。

永昌元年(322年)前趙への帰属

  • 春二月、趙主劉曜が自ら将いて楊難敵を撃った。楊難敵は迎え撃って勝てず、退いて仇池を保った。仇池の諸氐羌および故晉王司馬保の將楊韜・隴西太守梁勛はみな劉曜に降った。劉曜は隴西の一万余戸を長安に遷し、進んで仇池を攻めた。
  • 折しも軍中に大疫があり、劉曜も疾を得た。兵を引いて還ろうとしたが、楊難敵がその後を躡むことを恐れ、そこで光國中郎將王獷を遣わして楊難敵に説き禍福を諭させた。楊難敵は使を遣わして藩を称した。
  • 劉曜は楊難敵を假黄鉞・都督益寧南秦涼梁巴六州隴上西域諸軍事・上大將軍・益寧南秦三州牧・武都王とした。

明帝大寧元年(323年)成への降伏と李琀・李稚の敗死

  • 楊難敵は陳安の死を聞いて大いに懼れ、弟の楊堅頭と南に漢中に奔った。趙の鎮西將軍劉厚が追撃して大いに獲て還った。趙主劉曜は大鴻臚田崧を鎮南大將軍・益州刺史として仇池を鎮させた。
  • 楊難敵は任子を送って成に降を請うた。成の安北將軍李稚は楊難敵の賂を受けて楊難敵を成都に送らず、趙兵が退くとすぐ武都に還し遣わした。楊難敵はそこで険に拠って服さなかった。
  • 李稚は自ら失計を悔い、急ぎ討伐を請うた。李雄は李稚の兄の侍中・中領軍李琀に李稚とともに白水を出させ、征東將軍李壽および李琀の弟の李玝に陰平を出させて楊難敵を撃たせた。群臣が諫めたが聴かなかった。
  • 楊難敵が兵を遣わして拒み、李壽・李玝は進めなかったが、李琀・李稚は長駆して下辨に至った。楊難敵は兵を遣わしてその帰路を断ち、四面から攻めた。李琀・李稚は深入して後継がなく、みな楊難敵に殺され、死者は数千人であった。

大寧三年(325年)田崧の死

  • 春三月、楊難敵が仇池を襲って克ち、田崧を執えて前に立たせ、左右に田崧を拝させようとした。田崧は目を瞋らせて叱し、氐狗め、どうして天子の牧伯が賊に向かって拝せようかと言った。
  • 楊難敵は字で呼んで、子岱よ、吾はあなたと共に大業を定めたい、あなたは劉氏に忠であった、どうして我に忠でありえぬのかと言った。田崧は厲色して大言し、賊氐め、汝はもと奴才だ、何を大業と言うのか、我は寧ろ趙の鬼となっても汝の臣とはならぬと言い、振り向いて一人を排して剣を奪い、前に進んで楊難敵を刺したが中らなかった。楊難敵はこれを殺した。

成帝咸和二年(327年)

  • 夏五月、趙の武衛將軍劉㓪が騎三万を帥いて仇池の楊難敵を襲ったが克てず、三千余戸を掠めて帰った。

咸和六年(331年)

  • 秋七月、成の大將軍李壽が陰平・武都を攻め、楊難敵を降した。

咸和九年(334年)

  • 春正月、仇池王楊難敵が死去し、子の楊毅が立って自ら龍驤將軍・左賢王・下辨公と称し、叔父の楊堅頭の子の楊盤を冠軍將軍・右賢王・河池公とし、使を遣わして来て藩を称した。

咸康三年(337年)

  • 仇池の氐王楊毅の族兄の楊初が襲って楊毅を殺し、あわせてその衆を有して自ら仇池公に立ち、趙に臣を称した。

穆帝永和三年(347年)

  • 冬十月、武都の氐王楊初が使を遣わして来て藩を称し、詔で楊初を使持節・征南將軍・雍州刺史・仇池公とした。

永和十一年(355年)

  • 春正月、故仇池公楊毅の弟の楊宋奴がその姑の子の梁式王に楊初を刺殺させた。楊初の子の楊國が梁式王および楊宋奴を誅して自ら仇池公に立った。桓温が上表して楊國を鎮北將軍・秦州刺史とした。

永和十二年(356年)

  • 仇池公楊國の從父の楊俊が楊國を殺して自ら立った。楊俊を仇池公とし、楊國の子の楊安は秦に奔った。

升平四年(360年)

  • 春正月、仇池公楊俊が死去し、子の楊丗が立った。

海西公太和三年(368年)

  • 仇池公楊丗を秦州刺史、楊丗の弟の楊統を武都太守とした。楊丗はまた秦にも臣を称し、秦は楊丗を南秦州刺史とした。

太和五年(370年)

  • 仇池公楊丗が死去し、子の楊纂が立ち、初めて秦と絶った。叔父の武都太守楊統がこれと国を争い、兵を起こして相攻んだ。

簡文帝咸安元年(371年)秦による仇池の併合

  • 春三月、秦の西縣侯苻雅・楊安・王統・徐成および羽林左監朱肜・揚武將軍姚萇が歩騎七万を帥いて仇池公楊纂を伐った。
  • 夏四月、秦兵が鷲峽に至った。楊纂は衆五万を帥いて拒いだ。梁州刺史の弘農人楊亮が督護郭寶・卜靖を遣わして千余騎を帥いて楊纂を助けさせた。峽中で秦兵と戦い、楊纂の兵は大敗して死者は十のうち三、四となり、郭寶らも没した。
  • 楊纂は散兵を収めて遁れ還った。西縣侯苻雅が進んで仇池を攻め、楊統が武都の衆を帥いて秦に降った。楊纂は懼れて面縛して出降した。苻雅は楊纂を長安に送り、楊統を南秦州刺史とし、楊安に都督南秦州諸軍事を加えて仇池を鎮させた。

武帝寧康元年(373年)梁益二州の失陥

  • 秋八月、梁州刺史楊亮がその子の楊廣を遣わして仇池を襲わせた。秦の梁州刺史楊安と戦って楊廣の兵は敗れ、沮水の諸戍はみな城を委てて奔り潰えた。楊亮は懼れて退いて磬険を守った。
  • 九月、楊安が進んで漢川を攻めた。
  • 冬、秦王苻堅が益州刺史王統・祕書監朱肜に卒二万を帥いさせて漢川に出し、前禁將軍毛當・鷹揚將軍徐成に卒三万を帥いさせて劔門に出して梁・益を侵させた。梁州刺史楊亮が巴獠一万余を帥いて拒み、青谷で戦って楊亮の兵は敗れ、固西城に奔った。朱肜はそのまま漢中を抜き、徐成が劔門を攻めて克った。
  • 楊安が進んで梓潼を攻めた。梓潼太守周虓は涪城を固守し、歩騎数千を遣わして母と妻を漢水から江陵に趨って送らせたが、朱肜が邀えて獲た。周虓はそこで楊安に降った。
  • 十一月、楊安が梓潼を克った。荆州刺史桓豁が江夏相笁瑶を遣わして梁・益を救わせたが、笁瑶は廣漢太守趙長の戦死を聞いて兵を引いて退いた。益州刺史周仲孫が兵を勒して朱肜を緜竹で拒いだが、毛當がまさに成都に至ろうとしていると聞き、周仲孫は騎五千を帥いて南中に奔った。
  • 秦はそのまま梁・益の二州を取り、卭莋・夜郎もみな秦に附いた。秦王苻堅は楊安を益州牧として成都を鎮させ、毛當を梁州刺史として漢中を鎮させ、姚萇を寧州刺史として墊江に屯させ、王統を南秦州刺史として仇池を鎮させた。