通鑑紀事本末前趙、秦・隴を平定する(前趙平秦隴)
長安を鎮した南陽王司馬模が趙染の離反を招いて漢に降り殺され、關中の晉の勢力が崩れるところから始まる。子の司馬保は上邽に拠って晉王を僭称するが、闇弱で断がなく、部将張春・楊次に幽殺される。司馬保の下から出た陳安は隴上の氐羌を集めて涼王を称し、劉曜に叛いて呼延寔・魯慿ら賢者を殺す。劉曜は自ら隴城を囲んで陳安を追い詰め、澗の曲がりで斬って秦・隴を平定し、姚弋仲ら氐羌の帰服を得る。永嘉元年(307年)から大寧元年(323年)まで。
年表(8件)
- 晉懷帝
- 永嘉元年307年南陽王司馬模を征西大將軍・都督秦雍梁益四州諸軍事として長安を鎮させる
- 永嘉五年司馬模の敗降311年趙染の離反から漢兵が長安を囲み、司馬模は降って劉粲に殺される
- 愍帝
- 建興三年陳安の帰属315年陳安が司馬保に帰して重んじられるが、張春の刺客に傷つけられ隴城に退く
- 元帝
- 大興元年司馬保の晉王僭称318年司馬保が尊号を謀り、張詵の説を容れた張寔は建康の琅邪王を奉ずる
- 大興二年司馬保の窮迫319年司馬保が晉王を称するが陳安に逼られ、涼州の救援でかろうじて上邽に帰る
- 大興三年司馬保の死320年劉曜が陳倉・草壁・陰密を抜き、司馬保は張春・楊次に幽殺される
- 永昌元年陳安の叛322年陳安が劉曜に叛いて呼延寔・魯慿を殺し、涼王を称して隴上に十余万を擁する
- 明帝
- 大寧元年陳安の滅亡323年劉曜が隴城を囲んで陳安を追撃し斬り、隴上の氐羌を降して姚弋仲を封ずる
晉懷帝永嘉元年(307年)
- 春三月、南陽王司馬模を征西大將軍・都督秦雍梁益四州諸軍事として長安を鎮させた。
永嘉五年(311年)司馬模の敗降
- 太傅司馬越は南陽王司馬模が關中を綏撫できぬとして、上表して徴して司空とした。將軍淳于定が司馬模に徴に就かぬよう説き、司馬模は従った。上表して世子の司馬保を平西中郎將として上邽を鎮させた。
- 秦州刺史裴苞が拒み、司馬模は帳下都尉陳安に裴苞を攻めさせた。裴苞は奔り、安定太守賈疋がこれを納れた。
- 秋七月、南陽王司馬模が牙門の趙染に蒲坂を戍らせた。趙染は馮翊太守を求めて得られず怒り、衆を帥いて漢に降った。漢主劉聦は趙染を平西將軍とした。
- 八月、劉聦が趙染と安西將軍劉雅に騎二万を帥いさせて長安の司馬模を攻めさせ、河内王劉粲・始安王劉曜に大衆を帥いさせて継がせた。趙染は潼關で司馬模の兵を敗り、長駆して下邽に至った。涼州の將北宮純が長安からその衆を帥いて漢に降った。
- 漢兵が長安を囲んだ。司馬模は淳于定を出して戦わせたが敗れた。司馬模の倉庫は虚しく竭き士卒は離散し、ついに漢に降った。趙染は司馬模を河内王劉粲に送り、九月、劉粲が司馬模を殺した。
愍帝建興三年(315年)陳安の帰属
- 春二月丙子、南陽王司馬保を相國とした。
- 南陽王司馬模が敗れたとき、都尉陳安は往って世子の司馬保に秦州で帰した。司馬保は陳安に千余人を将いさせて叛いた羌を討たせ、寵待は甚だ厚かった。
- 司馬保の將張春がこれを疾んで、陳安に異志があると譛して除くことを請うた。司馬保は許さなかったが、張春はそのまま刺客を伏せて陳安を刺した。陳安は創を被って馳せて隴城に還り、使を司馬保に詣らせて貢献を絶たなかった。
元帝大興元年(318年)司馬保の晉王僭称
- 春三月、焦嵩・陳安が兵を挙げて上邽に逼った。相國司馬保が使を遣わして張寔に急を告げ、張寔は金城太守竇濤に歩騎二万を督させて赴かせた。軍が新陽に至ったところで愍帝の崩を聞いた。
- 司馬保が尊号を称そうと謀った。破羌都尉張詵が張寔に、南陽王は国の疎属である、その大恥を忘れて急ぎ自ら尊ばんとしているが必ず成功できぬ、晉王は近親でしかも名徳がある、天下を帥いてこれを奉ずべきと言った。張寔は従い、牙門蔡忠を遣わして表を奉じて建康に詣らせた。至った頃には帝は既に即位していた。張寔は江東の年号を用いず、なお建興と称した。
大興二年(319年)司馬保の窮迫
- 夏四月、南陽王司馬保が自ら晉王と称し建康と改元して百官を置き、張寔を征西大將軍・開府儀同三司とした。
- 陳安は自ら秦州刺史を称して漢に降り、また成にも降った。上邽は大饑で士衆は困迫した。張春が司馬保を奉じて南安の祁山に行った。張寔が韓璞に歩騎五千を帥いさせて救わせ、陳安は退いて緜諸を保った。司馬保は上邽に帰った。
- ほどなく司馬保は再び陳安に逼られ、張寔がその將宋毅を遣わして救い、陳安はそこで退いた。
- 冬十二月、屠各の路松多が新平・扶風で兵を起こして晉王司馬保に附いた。司馬保はその將楊曼・王連に陳倉を拠らせ、張顗・周庸に陰密を拠らせ、路松多に草壁を拠らせた。秦・隴の氐羌は多くこれに応じた。趙主劉曜が諸將を遣わして攻めさせたが克てず、劉曜が自ら将いて撃った。
大興三年(320年)司馬保の死
- 春正月、劉曜が陳倉を攻めて王連は戦死し、楊曼は南氏に奔った。劉曜は進んで草壁を抜き、路松多は隴城に奔った。また陰密を抜いた。晉王司馬保は懼れて桑城に遷った。劉曜は長安に還り、劉雅を大司徒とした。
- 張春が晉王司馬保を奉じて涼州に奔ることを謀った。張寔はその將陰監に兵を将いて迎えさせ、翼衛すると声言しながらその実は拒んだ。
- 閏三月、晉王司馬保の將張春・楊次が別將楊韜と協わず、司馬保に誅すよう勧め、しかも陳安を撃つことを請うたが、司馬保はみな従わなかった。
- 夏五月、張春・楊次が司馬保を幽して殺した。司馬保は体が肥大で重さ八百斤、睡ることを喜び読書を好んだが、闇弱で断がなく、それゆえ難に及んだ。
- 司馬保に子はなく、張春は宗室の子の司馬瞻を世子に立てて大將軍を称した。司馬保の衆で散じて涼州に奔った者は一万余人であった。
- 陳安が趙主劉曜に上表して司馬瞻らの討伐を請うた。劉曜は陳安を大將軍として司馬瞻を撃って殺した。張春は枹罕に奔った。陳安は楊次を司馬保の柩の前で執えて斬り、それで司馬保を祭った。陳安は天子の礼で司馬保を上邽に葬り、元王と諡した。
永昌元年(322年)陳安の叛
- 春二月、秦州刺史陳安が劉曜に朝することを求めた。劉曜は疾を理由に辞した。陳安は怒って劉曜が既に死んだと思い、大いに掠めて帰った。
- 劉曜の疾は甚だしく、馬の輿に乗って還り、その將呼延寔に輜重を後で監させた。陳安が邀え撃ってこれを獲た。陳安は呼延寔に、劉曜は既に死んだ、あなたはなお誰を佐けるのか、自分はあなたと共に大業を定めたいと言った。
- 呼延寔は叱して、汝は人の寵禄を受けながらこれに叛いた、自ら智能を視るに主上と比べてどうか、吾は汝が日ならず首を上邽の市に梟されるのを見る、何を大業と言うのか、速やかに我を殺すべきだと言った。陳安は怒って殺し、呼延寔の長史魯慿を参軍とした。
- 陳安がその弟の陳集に騎三万を帥いさせて劉曜を追わせたが、衛將軍呼延瑜が迎え撃って斬った。陳安はそこで上邽に還り、將を遣わして汧城を襲って抜いた。隴上の氐羌はみな陳安に附き、衆十余万を有した。自ら大都督・假黄鉞・大將軍・雍涼秦梁四州牧・涼王と称し、趙募を相國とした。
- 魯慿は陳安に向かって大哭し、吾は陳安の死を見るに忍びぬと言った。陳安は怒って斬るよう命じた。魯慿は、死は自ら吾の分だ、吾の頭を上邽の市に懸けて趙が陳安を斬るのを観させよと言い、そのまま殺された。劉曜はこれを聞いて慟哭し、賢人は民の望である、陳安は賢を求めるべき秋に多く賢者を殺した、吾はその能をなすところなきを知ると言った。
- 休屠王石武が桑城をもって趙に降り、趙は石武を秦州刺史として酒泉王に封じた。
明帝大寧元年(323年)陳安の滅亡
- 夏六月、陳安が趙の征西將軍劉貢を南安で囲んだ。休屠王石武が桑城から兵を引いて上邽に趨って救い、劉貢と合撃して陳安を大破した。陳安は余騎八千を収めて走り隴城を保った。
- 秋七月、趙主劉曜が自ら将いて隴城を囲み、別に兵を遣わして上邽を囲ませた。陳安が頻りに出戦したがそのたび敗れた。右軍將軍劉幹が平襄を攻めて克ち、隴上の諸県はことごとく降った。
- 陳安はその將楊伯支・姜冲兒に隴城を守らせ、自ら精騎を帥いて囲みを突いて出、陝中に奔った。劉曜は將軍平先らを遣わして追わせた。
- 陳安は左に七尺の大刀を揮い、右に丈八の蛇矛を運び、近ければ刀と矛をともに発してそのたび五、六人を殪し、遠ければ左右に馳せ射て走った。平先も勇捷で飛ぶがごとくであり、陳安と搏戦して三度交わり、ついにその蛇矛を奪った。
- 折しも日が暮れ雨が甚だしく、陳安は馬を棄てて左右と山中に匿れた。趙兵は索めたが在るところを知らなかった。翌日、陳安はその將石容を遣わして趙兵を覘わせた。趙の輔威將軍呼延青人がこれを獲、栲問して陳安の在るところを問うたが、石容はついに言うことを肯じなかったので、呼延青人は殺した。
- 雨が霽れると呼延青人はその迹を尋ね、澗の曲がりで陳安を獲て斬った。陳安は善く將士を撫して甘苦を同じくしたので、死ぬと隴上の人はこれを思い、「壮士の歌」を作った。
- 楊伯支が姜沖兒を斬って隴城をもって降り、別將宋亭が趙募を斬って上邽をもって降った。劉曜は秦州の大姓の楊・姜諸族二千余戸を長安に徙した。氐羌はみな任子を送って降を請い、赤亭の羌の酋長姚弋仲を平西將軍として平襄公に封じた。