通鑑紀事本末竇氏の専横(竇氏專恣)
章帝の竇皇后の一族が権を握り、和帝の代に誅されるまでの15年間。竇憲は沁水公主の園田を奪って章帝に叱責されながら罪を問われず、章和二年に太后が臨朝すると兄弟で要職を占めた。劉暢の暗殺が露見して窮すると匈奴征討を願い出、稽落山・金微山の大功で威名を高め、刺史や郡守を門下から出すに至る。袁安・楽恢・何敞・丁鴻らの弾劾は退けられたが、永元四年、和帝が宦官の鄭衆と謀って印綬を収め、竇憲ら三兄弟は封国で自殺させられた。
年表(9件)
- 後漢章帝
- 建初二年77年章帝が竇勲の娘を貴人として迎え寵愛する
- 建初三年78年竇貴人が皇后に立てられる
- 建初八年83年竇憲が沁水公主の園田を奪い、章帝に鹿を馬と言う類と責められる
- 元和三年86年竇憲を諫めた太尉の鄭弘が機密漏洩を理由に免ぜられ、憤死する
- 章和二年88年章帝が崩じ竇太后が臨朝、劉暢暗殺の露見で竇憲は匈奴征討を願い出る
- 和帝
- 永元元年89年竇憲が稽落山で北単于を破り大将軍となり、席次を三公の上に置く
- 永元二年90年竇憲を冠軍侯、竇篤を郾侯、竇瓌を夏陽侯に封じる
- 永元三年91年金微山で北単于を破り、楽恢が圧迫されて毒を仰ぎ朝臣は口を閉ざす
- 永元四年92年和帝が鄭衆と謀って印綬を収め、竇憲ら三兄弟が封国で自殺する
後漢章帝建初二年(77年)
- 十二月、章帝は竇勲の娘を貴人として迎え、寵愛した。貴人の母は東海恭王の娘、沘陽公主である。
建初三年(78年)
- 三月癸巳、竇貴人が皇后に立てられた。
建初八年(83年)
- 皇后の兄の竇憲が侍中・虎賁中郎将となり、弟の竇篤が黄門侍郎となって、ともに宮中に出仕した。賞賜は積み重なり、竇憲は賓客と交わることを好んだ。
- 司空の第五倫が上疏して諫めた——竇憲は皇后の親族として禁兵を統轄し宮門に出入りしている。若く志も立派で、謙譲を旨とし善を楽しむのは、確かに士と交わるうえで正しいやり方である。しかし貴戚の家に出入りする者にはとかく傷ある者や禁錮の身が多く、節約と安貧の節操を守る者はきわめて少ない。志のない士大夫が互いに売り込み合い、雲のようにその門に集まる。これこそ驕り高ぶりが生まれる原因である。三輔の議論では「貴戚のせいで禁錮となったのだから、また貴戚によって洗い清めてもらおう。二日酔いを酒で治すようなものだ」とまで言われている。ねじ曲がった危険な、権勢に群がる連中を近づけてはならない。陛下と中宮から竇憲らに厳しく命じ、門を閉ざして身を守り、士大夫とみだりに交わらぬようにさせ、芽の出る前に防ぎ、形になる前に配慮していただきたい。そうすれば竇憲は永く福禄を保ち、君臣が親しみ合ってわずかの隙も生じない。それが私の切なる願いである。
- 竇憲は後宮の勢威を頼みにして、諸王や公主から陰氏・馬氏の諸家まで、誰もが恐れはばかるほどになった。竇憲は安値を強いて沁水公主の園田を奪い取り、公主は圧迫を恐れて咎めることもできなかった。
- のちに章帝が外出してその園を通り、指さして竇憲に問うと、竇憲はひそかに人を制して答えさせなかった。後に事が発覚すると章帝は激怒し、竇憲を呼んで厳しく責めた——以前の過ちをよく考えてみよ。公主の田園を奪ったとき、いったい何のつもりだったのか。趙高が鹿を馬と言ったのと何が違う。長く思うほどに人を恐れさせる。永平の頃には陰党・陰博・鄧疊の三人に互いを糾察させたので、有力な外戚も法を犯そうとしなかった。いま高貴な公主すら不当に奪われるのなら、まして庶民はどうなる。国家が竇憲を捨てるのは、はぐれた雛や腐った鼠を捨てるのと同じことだ。
- 竇憲は大いに恐れ、竇皇后が喪服を着て深く謝罪し、長くかかってやっと許された。田は公主に返させたが、章帝は罪を問い正すことはせず、そのかわり重任も与えなかった。
史論(臣光曰)
- 臣下の罪で君主を欺くことより大きなものはなく、それゆえ明君はこれを憎む。章帝が竇憲を「鹿を馬と言うのと同じだ」と評したのは適切だった。しかし結局その罪を問わなかったのでは、姦臣を懲らしめることにならない。
- 君主が臣下に対して恐れるべきは、その姦悪を知らないことである。だが知りながら赦すのは、知らないよりもむしろ悪い。姦を行っても上が知らないうちは、まだ恐れる気持ちがある。知られたうえで討たれなければ、恐れる必要がないと悟り、放縦になって何も顧みなくなるからだ。
- 善を知りながら用いられず、悪を知りながら除けないことこそ、君主が深く戒めるべき点である。
元和三年(86年)
- 三月、太尉の鄭弘がたびたび侍中竇憲の権勢が強大すぎることを述べ、その言葉はきわめて痛切だった。竇憲はこれを憎んだ。
- たまたま鄭弘が、竇憲の一党である尚書の張林と洛陽令の楊光が官職にあって貪欲・残虐だと上奏したところ、上奏を扱った役人が楊光の旧知だったため楊光に知らせ、楊光は竇憲に報告した。竇憲は「鄭弘は大臣でありながら機密を漏らした」と上奏した。章帝は鄭弘を詰問して責め、四月丙寅、その印綬を取り上げた。
- 鄭弘は自ら廷尉に出頭したが、詔で釈放され、そのまま辞職を願い出たが許されなかった。病が重くなると上書して謝意を述べつつ訴えた——竇憲の姦悪は天地に貫き通り、天下は疑い惑い、賢者も愚者もこれを憎み、いかなる術で主上を惑わしているのかと言っている。近くは(前漢の)王氏の禍がはっきり見えるはずだ。陛下は天子の尊位にあり万世の祚を保つ身でありながら、讒言と佞言の臣を信じ、存亡の機を計られない。私の命は寸刻のうちにありますが、死んでも忠を忘れません。どうか四凶の罪を誅し、人と鬼の憤りに凝った願いを満たしてください。
- 章帝は上章を読んで医者を遣わし鄭弘の病を診させたが、着いたときにはすでに死んでいた。
章和二年(88年)
- 正月壬辰、章帝が章徳前殿で崩御し、太子(和帝)が十歳で即位、皇后を皇太后と尊称した。
- 三月、太后が臨朝した。竇憲は侍中として内で機密を握り、外に出て誥命を宣した。弟の竇篤は虎賁中郎将、その弟の竇景と竇瓌はともに中常侍となり、兄弟がみな近侍の要職を占めた。
- 竇憲の食客である崔駰が書簡で竇憲を戒めた——伝に「生まれつき富める者は驕り、生まれつき貴い者は傲る。富貴に生まれて驕らず傲らぬ者はいまだかつていない」とある。いま寵禄が高まり始め、百官がその行いを見ている。日夜心を配って世の称賛を永く保つよう努めるべきではないか。かつて馮野王は外戚として位にありながら賢臣と称された。近くは陰衛尉が己に克って礼に復し、ついに多くの福を受けた。外戚が当時に非難され後世に咎を残すのは、満ちて謙らず、地位が余って仁が足りないためである。漢が興ってから哀帝・平帝に至るまで、外戚の家は二十あったが、一族と身を全うできたのはわずか四家だけだった。『書経』に「殷を鑑とせよ」という。慎まずにいられようか。
- 庚戌、皇太后が詔して前太尉の鄧彪を太傅とし、関内侯の爵を賜り、尚書の事を統べさせ、百官はみな自らを抑えてその指示を聞くこととなった。竇憲は、鄧彪が義譲の人で先帝に敬われ、しかも仁厚で人に従う性質であるため、これを尊崇した。竇憲が行いたいことは外では鄧彪に上奏させ、内では太后に申し上げさせたので、どんなことも通らないことはなかった。鄧彪は在位中ただ身を修めるだけで、何も正すことができなかった。
- 竇憲は気性が激しく短気で、睨まれた程の恨みでも必ず報復した。永平の頃、謁者の韓紆が竇憲の父竇勲の獄を審理して弾劾したことがあったため、竇憲は食客に韓紆の子を斬らせ、その首を竇勲の墓に供えた。
- 七月、南単于が上言して、兵を出して北匈奴を共に討ちたいと請願し、太后も議してこれに従おうとした。
- ちょうどそのとき、斉の殤王の子である都郷侯の劉暢が国喪の弔問に来て、太后がたびたび召見した。竇憲は劉暢に宮中の権を分けられることを恐れ、食客を遣わして警護の陣中で劉暢を刺殺し、その罪を劉暢の弟の利侯劉剛に帰した。そして侍御史と青州刺史に共同で劉剛らを取り調べさせた。
- 尚書の潁川の人韓稜は、犯人は京師にいるのだから近くを捨てて遠くを問うべきではなく、姦臣に笑われるだろうと述べた。太后は怒って韓稜を厳しく責めたが、韓稜は自説を固く守った。
- 何敞が宋由に説いた——劉暢は宗室の肺腑にあたる者で、封土を受けた藩臣である。大喪の弔問に来て上書し返答を待っていたところ、武衛の中にいながらこの残酷な仕打ちを受けた。法を奉ずる役人は誰も討捕に当たらず、痕跡は明らかにならず犯人の名も立たない。私(何敞)は股肱の数に入り、職として賊曹を掌る者である。自ら現場に赴いてその異変を糾したい。ところが二府の執事は「先例では三公は盗賊の事に関与しない」として、姦悪を野放しにしながら誰も咎めとしない。私が単独で上奏して取り調べたい。宋由はこれを許した。
- 二府は何敞が動くと聞いて、いずれも担当者を随行させた。こうして捜査を進め、事実をすべて明らかにした。太后は怒って竇憲を内宮に閉じ込め、竇憲は誅殺を恐れて、自ら匈奴を撃って死罪を償いたいと願い出た。
- 十月乙亥、竇憲を車騎将軍として北匈奴を討たせた。
和帝永元元年(89年)
- 春、竇憲が匈奴征討に赴こうとした際、三公九卿が朝堂に出て上書して諫めた。
- 竇憲はかつて門弟に書簡を持たせて尚書僕射の郅寿のもとに送り、請託をしたことがあった。郅寿はただちにこれを詔獄に送った。前後して上書し、竇憲の驕り高ぶりを述べ、王莽の例を引いて国家に警告した。また朝会の場で、竇憲らが匈奴征討にかこつけて邸宅を建てていることを風刺し、声を厳しくし顔色を正して、言葉はきわめて痛烈だった。
- 竇憲は怒り、郅寿を公田買収と誹謗の罪に陥れ、獄吏に下して死罪に当てさせた。何敞が上疏して弁護した——郅寿は機密を扱う近臣であり、黙って何も言わなければその罪は誅に当たる。いま郅寿は衆に逆らって正論を述べ、宗廟を安んじようとした。どこに私心があろうか。私が死を賭して愚言を申し上げるのは、郅寿のためではない。忠臣は節を尽くして死を帰結とするもので、郅寿もそれを甘受しているだろう。ただ聖朝が誹謗の罪で人を誅し、和やかな教化を傷つけ、忠直の道を塞いで無窮の非難を残すことを望まないのだ。私も誤って機密に加わり、言うべきでないことを言った身であり、罪名は明白なので、まず牢獄を満たし郅寿より先に倒れるのが当然である。この上奏によって郅寿は死一等を減じられ、合浦への流刑となったが、赴く前に自殺した。郅寿は郅惲の子である。
- 六月、竇憲が朔方の雞鹿塞から出撃し、副校尉の閻盤らを分遣して稽落山で北単于を破った。
- 九月庚申、竇憲を大将軍、中郎将の劉尚を車騎将軍とし、竇憲を武陽侯に封じて食邑二万戸を与えた。竇憲は固く封爵を辞退し、詔でこれを許した。旧来、大将軍の位は三公の下だったが、このとき詔で竇憲の席次を太傅の下・三公の上とし、長史と司馬の秩を中二千石とした。
- 竇氏の兄弟は驕り高ぶり、なかでも執金吾の竇景がとくにひどかった。奴僕や食客、緹騎が人の財貨を強奪し、罪人の妻を奪い取り、婦女を略取したので、商人は敵や盗賊を避けるように店を閉ざした。また辺境の諸郡から、才力ある突騎を勝手に徴発した。有司は誰も上奏を憚った。
- 袁安が竇景を弾劾し、辺境の兵を勝手に徴発して官吏や民を驚かせ惑わせたこと、二千石が符信も待たずに竇景の檄に従ったのは公開処刑に当たる罪であると上奏した。また司隷校尉と河南尹が貴戚に阿って弾劾しないことを上奏し、免官して罪を調べるよう請願したが、いずれも棚上げされ返答はなかった。
- 駙馬都尉の竇瓌だけは経書を好み、節度をもって身を修めていた。尚書の何敞が封事を上って述べた——かつて鄭の武姜は叔段を可愛がり、衛の荘公は州吁を寵愛したが、愛して教えなかったため、ついに凶暴に至った。これに照らせば、子をこのように愛するのは、飢えた者に毒を食わせるようなもので、かえって害することになる。
- 何敞は続けた——大将軍の竇憲は大喪に遭った当初、公卿が相次いで国政を統べさせようと上奏したのに、深く謙退の姿勢を守って高位を固辞し、懇々と誠実に語ったので、天下は聞いて喜ばぬ者がなかった。ところが一年も経たず、大礼も終わらぬうちに突然態度が変わり、兄弟で朝廷を専断している。竇憲は三軍の重権を握り、竇篤・竇景は宮廷警護の権を統べ、民を虐げて用い、奢侈は身分を超え、罪なき者を誅殺して思うまま振る舞っている。いま議論は騒がしく、みな叔段と州吁が漢に生まれ変わったと言っている。
- 何敞はさらに、公卿が二心を抱いて言い切らないのは、竇憲らが怠らぬ志を持てば自分たちが吉甫が申伯を褒めた功を受け、竇憲らが罪に落ちれば陳平・周勃が呂后の権に従った立場を取れるからで、竇憲らの吉凶をまるで憂えていないのだと指摘した。自分は双方が安全になる策を願い、その細い流れを断ち、湧き出る水を塞ぎたい。上は皇太后が文母の名を損なうことなく、陛下が誓泉(母子の断絶)の譏りを受けることなく、下は竇憲らが永くその福を保てるようにしたいのだと述べた。そして竇瓌がしきりに退身を願い一家の権を抑えたいとしているのだから、彼を相談相手として意向に従うのが宗廟の至計であり竇氏の福だと結んだ。
- 当時、済南王の劉康が貴顕を頼んで甚だしく驕っていた。竇憲は何敞を外に出すため、済南太傅に任じるよう申し上げた。劉康に過失があると何敞はその都度諫争した。劉康は従うことはできなかったが、もともと何敞を敬重していたので、対立にはならなかった。
永元二年(90年)
- 六月、詔して竇憲を冠軍侯、竇篤を郾侯、竇瓌を夏陽侯に封じた。竇憲だけは封爵を受けなかった。
永元三年(91年)
- 二月、竇憲が左校尉の耿夔らを遣わし、金微山で北単于を破った。
- 竇憲は大功を立てて威名がますます高まり、耿夔・任尚らを手先とし、鄧疊・郭璜を腹心とし、班固・傅毅らを文章の担当とした。刺史・郡守・県令の多くはその門下から出て、競って官吏や民から取り立てて贈賄した。
- 司徒の袁安と司空の任隗が諸二千石とその連座する者を弾劾して上奏し、降格や免官となった者は四十余人に及んだ。竇氏は深く恨んだが、袁安・任隗はもとより行いが高潔で、害する手がかりがなかった。
- 尚書僕射の楽恢は弾劾に遠慮がなく、竇憲らはこれを憎んだ。楽恢は上疏した——陛下はお若くして大業を継がれた。母方の叔父たちが王室の政を仕切って天下に私を示すべきではない。いま為すべきは、上は義によって自ら断ち、下は謙によって自ら退くことである。そうすれば四人の叔父は永く爵土の栄を保ち、皇太后は宗廟に対して恥や負い目を憂えることがなくなる。これこそ最上の策である。
- 上奏は取り上げられず、楽恢は病と称して辞職を願い長陵に帰った。竇憲が州郡に働きかけて圧力をかけたため、楽恢は毒を飲んで死んだ。これによって朝臣は震え上がり、風向きを見て意向に従い、逆らう者はいなくなった。
- 袁安は、天子が幼弱で外戚が権を専らにしていることを憂え、朝会で謁見するときや公卿と国事を語るときには、いつも声を詰まらせて涙を流した。天子から大臣まで、みな袁安を頼みとした。
- 十月、詔して竇憲を車駕とともに長安で会わせることとした。竇憲が到着すると、尚書以下は拝礼して平伏し「万歳」と称えようと議した。尚書の韓稜が顔色を正して「上に交わるに諂わず、下に交わるに汚さず、と言う。礼には臣下に万歳を称える制度はない」と述べ、議した者はみな恥じて取りやめた。
- 尚書左丞の王龍が私的に上書して竇憲に牛と酒を贈った。韓稜はこれを弾劾して上奏し、王龍は城旦(労役刑)に処された。
- 竇憲が使者を遣わして北単于の弟である右谷蠡王の於除鞬を単于に立てたいと請願した。袁安が封事を上って争ったが、後に和帝は結局竇憲の策に従った。
永元四年(92年)
- 以前、廬江の周栄が袁安の府に召された。袁安が竇景を弾劾した上奏と北単于の擁立をめぐって争った文書は、いずれも周栄が起草したものだった。竇氏の食客である太尉掾の徐齮がこれを深く憎み、周栄を脅した——お前は袁公の腹心の謀臣として竇氏を排撃する上奏をした。竇氏の荒くれ者や刺客は城中に満ちている。よく気をつけろ。周栄は「私は江淮の身寄りなき者でありながら宰相の属官に加えられた。たとえ竇氏に害されようと、まことに本望である」と答え、妻子には「もし突然の災難に遭っても葬儀はするな。この取るに足らぬ腐った身で朝廷を目覚めさせたい」と言い含めた。
- 四月丙辰、竇憲が京師に帰還した。
- 六月戊戌朔、日食があった。丁鴻が上疏した——かつて諸呂が権を握り、帝統はほとんど移りかけ、哀帝・平帝の末には廟の祭祀も絶えた。だから周公のような親しい立場であっても、その徳がなければ権勢を行うことは許されない。いま大将軍は身を慎み自ら抑え、身分を超えることを敢えてしないつもりでも、天下の遠近はみな恐れおののいてその意向に従っている。刺史や二千石は任官の当初に挨拶に赴いて取り次ぎを求め、返答を待つ。符璽を受け台閣の勅を受けていても、勝手に去ろうとせず、長い者は数十日にもなる。これは王室に背を向けて私門に向かうことであり、上の威が損なわれ下の権が盛んになっているのだ。人の道が下で乱れれば、その現れは天に見える。密かな謀があっても神はその実情を照らし、象を垂れて戒めを示し君主に告げる。微小なうちに禁じるのは易しく、末に至って救うのは難しい。人は誰も微細なことを見過ごして大事に至らせる。恩に負けて教えられず、義に負けて断ち切れない。事の後になってこそ、未然を映す明鏡となるのだ。天は剛でなければならず、剛でなければ三光が明るくない。王は強くなければならず、強くなければ宰牧が勝手に振る舞う。この大きな変異に乗じて政を改め過失を正し、天意に応えるべきである。
- 竇氏の父子兄弟が卿や校尉となって朝廷に満ち、穣侯の鄧疊とその弟の歩兵校尉鄧磊、およびその母の元、竇憲の娘婿の射声校尉郭挙、郭挙の父の長楽少府郭璜が互いに結び合った。元と郭挙はともに宮中に出入りし、郭挙は太后の寵を得て、ついに共謀して和帝の殺害を図った。
- 和帝はひそかにその謀を知った。当時、竇憲の兄弟が権を専らにし、和帝は内外の臣僚と直接接する手立てがなく、身近にいるのは宦官だけだった。和帝は、朝臣がみな竇憲に付いている中で、中常侍鈎盾令の鄭衆だけが慎重で機知があり有力な党派に付かないのを見て、鄭衆と竇憲誅殺を議した。ただ竇憲が外にいるうちは乱を起こす恐れがあるため、耐えて行動を控えていた。
- たまたま竇憲と鄧疊がともに京師に帰った。当時、清河王の劉慶は特別に厚遇され、しばしば宮中に宿泊していた。和帝は謀を起こすにあたって『外戚伝』を手に入れたかったが、側近を恐れて命じられず、劉慶に千乗王からひそかに借りさせ、夜ひとりで持ち込ませた。また劉慶に鄭衆へ言葉を伝えさせ、先例を調べさせた。
- 庚申、和帝は北宮に行き、執金吾と五校尉に兵を統べて南宮・北宮を警護させ、城門を閉じて郭璜・郭挙・鄧疊・鄧磊を捕らえ、いずれも獄中で死なせた。謁者僕射を遣わして竇憲の大将軍の印綬を回収し、改めて冠軍侯に封じ、竇篤・竇景・竇瓌とともに封国に赴かせた。
- 和帝は太后に配慮して竇憲を名指しで誅することを望まず、厳格で能力のある相を選んで監督させた。竇憲・竇篤・竇景が封国に到着すると、いずれも自殺を強いられた。
- 以前、河南尹の張酺はたびたび正法をもって竇景を取り締まっていた。竇氏が滅ぶと張酺は上疏した——竇憲らが寵愛と貴顕を得ていた頃、群臣は追従に遅れることばかりを恐れ、みな「竇憲は顧命の託を受け、伊尹・呂尚の忠を抱いている」と言い、ついには鄧夫人を文母(周の文王の后)になぞらえるまでになった。いま厳しい威が行われると、みな「死んで当然だ」と言い、前後の言を顧みもしない。よく考えて中正な判断を下すべきである。私が見るところ、夏陽侯の竇瓌は常に忠実で善良であり、以前私と語ったときも節を尽くす心を持ち、賓客を取り締まって法を犯したことがなかった。王政には骨肉の刑に三度赦す義があり、厚きに過ぎても薄きに過ぎてはならないと聞く。いま議論する者は竇瓌にも厳格で能力ある相を選ぼうとしているが、それでは追い詰められて無事では済まないだろう。裁量を加えて寛大に許し、厚徳を示すべきである。和帝はその言葉に感じ入り、これによって竇瓌だけが身を全うできた。
- 竇氏の宗族や賓客で竇憲によって官職を得ていた者はみな免職されて故郷の郡に帰された。
- 以前、班固の奴僕が酔って洛陽令の种兢を罵ったことがあった。种兢は竇氏の賓客を逮捕・取り調べる機会に班固を捕らえ、班固は獄中で死んだ。
- 以前、竇憲が妻を迎えたとき、天下の郡国はみな祝儀を贈り、漢中郡も官吏を遣わすことになった。戸曹の李郃が諫めた——竇将軍は皇后の親族でありながら徳と礼を修めず、権を専らにして驕り高ぶっている。危亡の禍は足を上げるほどの間に訪れるだろう。どうか明府は王室に一心を尽くし、彼と交わりを持たれませんように。太守はそれでも人を遣わすことにし、李郃は止められなかったので自ら赴くことを願い、許された。李郃は途中の各地でわざと遅れて情勢を見た。扶風まで来たとき竇憲は封国に赴いており、交わりを持った者はすべて連座して免官されたが、漢中太守だけはそれに加わらなかった。