通鑑紀事本末楚王英の獄(楚王英之獄)
光武帝の子の劉英が楚王に封じられ、黄老と浮屠を好んで賓客を集めたことから、永平十三年(70年)に符瑞を作って逆謀ありと告発され、廃されて丹陽で自殺する。獄は年を越えて広がり、連座して死んだ者・徙された者は千を数えた。寒朗が冤を訴え、馬后が諫め、袁安が楚郡太守として四百余家を出し、章帝の建初二年(77年)に徙された家がすべて還されるまでの経緯。
年表(8件)
- 漢光武建武十五年39年皇子の英が楚公に封じられる
- 漢光武建武十七年41年諸国の公がみな王に進められ、英も楚王となる
- 漢光武建武二十八年52年諸王の賓客が捕らえられ、死者は千を数えて楚王英らが国に就く
- 漢明帝
- 永平八年65年楚王英が縑帛を奉じて罪を贖おうとし、帝は返して浮屠の供養に充てさせる
- 永平十三年70年英が符瑞を作って逆謀を告発され、廃されて丹陽に徙される
- 永平十四年71年英が自殺し、獄は広がるが寒朗の諫言と袁安の上奏で多数が出される
- 漢章帝
- 建初元年76年鮑昱が旱災を問われ、徙された家を還して禁錮を解くよう説く
- 建初二年77年楚・淮陽の事に坐して徙された四百余家が還される
漢光武建武十五年(39年)
- 夏四月丁巳、皇子の輔を右翊公、英を楚公、陽を東海公、康を済南公、蒼を東平公、延を淮陽公、荊を山陽公、衡を臨淮公、焉を左翊公、京を琅邪公に封じた。
漢光武建武十七年(41年)
- 冬十月、右翊公の輔を進めて中山王とし、その他の九国の公もみな王とした。
漢光武建武二十八年(52年)
- そもそも馬援の兄の子の婿の王磐は、平阿侯の王仁の子である。王莽が敗れると、磐は富を擁して遊俠となり、江淮の間に名があった。後に京師に遊び、諸々の貴戚と親しくした。
- 援は姉の子の曹訓に言った。「王氏は廃された姓だ。子石(磐)は身を退けて自ら守るべきなのに、かえって京師に遊んでいる。年長者が気を張って勝手に振る舞い、人を陵ぎ折ることが多い。その身の破滅は必至だ」と。一年余り後、磐は事に坐して死んだ。
- 磐の子の肅がまた王侯の邸第に出入りした。当時、禁令はまだ緩やかで、諸王はみな京師にあって競って名誉を修め、遊士を招いていた。
- 馬援が司馬の呂种に言った。「建武の元は天下が改めて開かれたというもの。今より後、海内は日ごとに安らかになるだろう。ただ憂えるのは、国家の諸子がそろって成長しているのに旧来の防ぎがまだ立っていないことだ。もし賓客と多く通ずれば大獄が起こる。卿らは慎み戒めよ」と。
- ここに至って、「肅ら誅された家の者が諸王の賓客となっている。事にかこつけて乱を生ずる恐れがある」と上書する者があった。
- 折しも更始の子の壽光侯の劉鯉が沛王に寵せられており、劉盆子を怨んで食客を結んでもと式侯の劉恭を殺した。帝は怒り、沛王は坐して詔獄に繋がれ、三日してようやく出られた。
- そこで郡県に詔して諸王の賓客を捕らえさせた。次々と引き合いに出されて死ぬ者は千を数えた。呂种もその禍に遭い、刑に臨んで嘆じた。「馬将軍はまことに神人であった」と。
- 秋八月戊寅、東海王の彊、沛王の輔、楚王の英、済南王の康、淮陽王の延が初めて国に就いた。
漢明帝永平八年(65年)
- 冬十月丙子、死罪の囚人を募って度遼営へ赴かせ、罪あって亡命した者には差等をつけて罪を贖わせた。
- 楚王の英が黄縑と白紈を国相のもとへ届けて言った。「藩輔に列していながら過ちと悪を積み重ねてきた。大恩を歓び喜び、縑帛を奉送して咎と罪を贖いたい」と。
- 国相が上申すると、詔して答えた。「楚王は黄老の微言を誦し、浮屠の仁ある祠を尊び、三月にわたって潔斎して神と誓った。何の嫌疑があって悔いを抱くことがあろう。贖いの品は返し、伊蒲塞(優婆塞)と桑門(沙門)の盛んな供養の助けとせよ」と。
- そもそも帝は西域に神があってその名を仏というと聞き、使者を天竺へ遣ってその道を求めさせ、その書および沙門を得て帰らせた。
- その書はおおむね虚無を宗とし、慈悲と不殺を貴び、人は死んでも精神は滅びず、改めて形を受け、生時の行いの善悪にはみな報応があるとする。ゆえに精神を修練して仏となるに至ることを貴ぶ。よく広大で壮大な言葉を用いて愚俗を勧誘し、その道に精しい者を沙門と号する。
- こうして中国で初めてその術が伝えられ、その形像が描かれた。王公・貴人では楚王の英が最も先にこれを好んだ。
漢明帝永平十三年(70年)
- 冬十月、楚王の英が方士とともに金の亀と玉の鶴を作り、文字を刻んで符瑞とした。男子の燕広が「英は漁陽の王平・顔忠らと図書を作り、逆謀がある」と告発した。
- 事は下されて取り調べられ、有司は「英は大逆不道である。誅することを請う」と奏した。帝は親を親しむ情から忍びなかった。
- 十一月、英を廃して丹陽の涇県へ徙し、湯沐邑五百戸を賜い、男女で侯・主となっている者は元のとおり食邑を与え、許太后には璽綬を返上させず楚宮に留まり住むことを許した。
- これに先立ち、ひそかに英の謀を司徒の虞延に告げた者があったが、延は英が藩の親戚で至親であるとしてその言を信じなかった。英の事が発覚すると、詔書で延を厳しく責めた。
漢明帝永平十四年(71年)
- 夏四月、楚王の英が丹陽に至って自殺した。詔して諸侯の礼で涇に葬らせた。燕広を折姦侯に封じた。
- このとき楚の獄を徹底的に糺したので、ついに年を重ねた。その供述は次々と連なり、京師の親戚・諸侯・州郡の豪傑および取り調べに当たった吏で阿附したとして坐して死んだ者、徙された者は千を数え、繋がれている者はなお数千人に上った。
- そもそも樊鯈の弟の樊鮪は、その子の賞のために楚王英の娘を娶ろうとした。鯈はこれを聞いて止めた。「建武年間、わが家はそろって栄寵を受け、一族から五人の侯が出た。当時、特進が一言添えれば、娘は王に配し、男は主を娶ることもできた。だが貴寵が盛んに過ぎればそのまま禍患となるので、そうしなかった。しかもお前には子が一人。どうして楚に棄てるのか」と。鮪は従わなかった。
- 楚の事が発覚したとき、鯈はすでに卒していた。帝は鯈の慎み深さを追念したので、その子らはみな坐せずにすんだ。
- 英はひそかに天下の名士を書き出していた。帝がその名簿を得ると、呉郡太守の尹興の名があった。そこで興および掾史五百余人を召して廷尉に赴かせ取り調べた。諸吏は拷問に堪えられず死ぬ者が大半だった。ただ門下掾の陸続、主簿の梁宏、功曹史の駟勲だけは五毒の責めをことごとく受け、肌肉が爛れても、ついに供述を変えなかった。
- 続の母が呉から洛陽へ来て、食事を作って続に差し入れた。続は拷問を受けても辞色を変えたことがなかったが、その食事に向かって悲しみ泣き、自ら抑えられなかった。獄を治める使者がその理由を問うと、続は「母が来たのに会えません。それで悲しいのです」と答えた。「どうしてわかったのか」と問うと、「母は肉を切るのに必ず四角に切り、葱を刻むのに一寸を尺度とします。それでわかりました」と答えた。使者がその有様を報告すると、帝は興らを赦し、終身の禁錮とした。
- 顔忠と王平の供述は、隧郷侯の耿建、朗陵侯の臧信、濩沢侯の鄧鯉、曲成侯の劉建を引き入れた。建らは「忠や平と会ったことはない」と述べた。
- このとき帝の怒りが甚だしく、吏はみな恐懼して、連座に及んだ者はおしなべて片端から罪に落とし、実情によって寛恕しようとする者はなかった。
- 侍御史の寒朗はその冤を心に痛め、試みに建らの人相風体を独り忠と平に問うたところ、二人は驚き当惑して答えられなかった。朗はその詐りを知り、そこで上言した。「建らに姦はなく、もっぱら忠と平に誣告されたものです。天下の無辜には、おそらくこうした類いが多いのではないかと疑われます」と。
- 帝は「そうなら、忠と平はなぜ彼らを引き入れたのか」と言った。答えて「忠と平は自分の犯した不道を知っているので、虚しく人を引き入れることが多い。それで自らを弁明しようと望んでいるのです」と。
- 帝は「そうならなぜ早く奏さなかった」と言った。答えて「臣は海内に別にその姦を暴く者があるのではないかと思っておりました」と。
- 帝は怒って言った。「吏が両端を持している。引き下ろして打て」と。左右が引いて行こうとすると、朗は「一言申し上げて死にたい」と言った。
- 帝が「誰とともに上奏文を作ったのか」と問うと、「臣が独りで作りました」と答えた。「なぜ三府と議さなかったのか」と問うと、「臣は必ず族滅されると自ら知っております。多くの人を汚し染めたくありませんでした」と答えた。
- 「なぜ族滅されるのか」と問うと、こう答えた。
- 臣は一年取り調べに当たりながら姦状を究め尽くせず、かえって罪人のために冤を訴えております。ゆえに族滅されるとわかります。それでも申し上げるのは、まことに陛下がひとたび覚悟されることを望むからです。
- 臣が見るに、囚人を取り調べる者はみなそろって「妖悪の大罪は臣子としてともに憎むべきもの。今、出してやるより入れてしまうほうが後の責めがない」と言います。だから一人を調べれば十人が連なり、十人を調べれば百人が連なるのです。
- また公卿が朝会し、陛下が得失を問われると、みな長跪して「旧制では大罪の禍は九族に及びましたが、陛下の大恩はその身だけに止められました。天下は幸甚です」と申し上げる。ところが家に帰れば、口では言わずとも屋根を仰いでひそかに嘆じている。冤が多いことを知らぬ者はないのに、敢えて陛下に逆らって申し上げる者がないのです。
- 臣が今陳べたことは、まことに死んでも悔いません。
- 帝の意は解け、詔して朗を出させた。二日後、車駕は自ら洛陽の獄に行幸して囚徒を取り調べ、千余人を出した。当時は旱魃だったが、ただちに大雨が降った。
- 馬后もまた楚の獄に濫りな点が多いとして、折を見て帝に言った。帝は惻然として感じ悟り、夜起きて彷徨した。これによって多くが減刑・宥免された。
- 任城令で汝南の袁安が楚郡太守に遷った。郡に着くと府に入らず、まず楚王英の獄事を調べに行き、明白な証拠のない者を整理して条目を上げ、出してやろうとした。
- 府丞と掾史はみな叩頭して争い、「反虜に阿附したことになり、法として同罪です。なりません」と言った。安は「もし合わなければ、太守が自ら坐する。お前たちには及ばぬ」と言った。そして一つ一つ分けて具さに奏した。帝は感じ悟り、ただちに許可を与え、出られた者は四百余家に上った。
漢章帝建初元年(76年)
- 春正月、帝が司徒の鮑昱に、どうすれば旱災を消し復せるかを問うた。昱は答えた。「陛下は天位を践まれたばかりで、得失があるとしても異変を招くほどではありません。臣は先に汝南太守として楚の事を治めましたが、繋がれた者は千余人、おそらくその罪に当たり尽くしてはおりません。そもそも大獄がひとたび起これば冤の者が半ばを超えます。また徙された者は骨肉が離れ分かれ、孤魂は祀られておりません。徙された家をすべて還し、禁錮を解いて、死者も生者もそれぞれ所を得られるようにすべきです。そうすれば和気を招けましょう」と。帝はその言を容れた。
漢章帝建初二年(77年)
- 夏四月戊子、詔して楚および淮陽の事に坐して徙された四百余家を還した。