通鑑紀事本末丁氏・傅氏の専権(丁傅用事)

定陶王欣が成帝の嗣に選ばれて哀帝となり、その祖母の傅太后と母の丁姫の一族が尊号と爵位を求めて朝廷を左右した経緯を描く。孔光・師丹・傅喜は尊号を不可として次々に退けられ、朱博も傅太后の意を承けて自殺した。哀帝が崩じると王莽が丁氏・傅氏を一掃し、のちに傅太后・丁姫の冢まで暴いて璽綬を取り上げた。成帝元延四年(前9年)から平帝元始五年(5年)までの14年間。

年表(9件)
  • 漢成帝
  • 元延四年前9年中山王と定陶王が参内し、成帝が定陶王の才を認めて後嗣候補とする
  • 綏和元年前8年定陶王欣を皇太子に立て、異を唱えた孔光を廷尉に左遷する
  • 綏和二年前7年哀帝が即位し、傅太后が北宮の複道から通って尊号と親族の顕貴を求める
  • 漢哀帝
  • 建平元年前6年傅喜を大司馬とするが、尊号の議に反対した師丹が策書で免ぜられる
  • 建平二年前5年傅喜・孔光が免ぜられ、朱博の議で傅太后が帝太太后、丁姫が帝太后となる
  • 建平四年前3年鄭崇の諫めを退けて傅商を汝昌侯に封じ、帝太太后を皇太太后と尊ぶ
  • 元寿元年前2年傅晏・丁明を二人の大司馬に拝した日に日食があり、杜鄴が外戚の偏重を諫める
  • 元寿二年前1年哀帝が崩じ、王莽が傅氏・丁氏を官爵から免じて故郡へ帰らせる
  • 漢平帝
  • 元始五年5年王莽が傅太后・丁姫の冢を暴いて璽綬を取り、改葬して墓を掘り平らげる

漢成帝元延四年(前9年)

  • 春正月、中山王の興と定陶王の欣がそろって参内した。中山王は傅だけを連れ、定陶王は傅・相・中尉をみな連れていた。帝が不審に思って問うと、定陶王は「諸侯王の朝見には国の二千石を従えてよいとあり、傅・相・中尉はいずれも国の二千石ですので全員を連れました」と答えた。詩を誦させると通じて解説もできた。
  • 別の日に中山王へ「傅だけを従えたのはどの法によるのか」と問うと答えられず、尚書を誦させても途中で詰まった。御前で食を賜ったとき、満腹して立ち上がると靴下の紐がほどけていた。帝はこれによって中山王を無能とみなし、定陶王の才を何度も褒めた。
  • 当時、諸侯王で帝に最も近しいのはこの二人だけだった。定陶王の祖母である傅太后が王に従って参内し、趙皇后・昭儀および票騎将軍の王根にひそかに賄賂を贈った。昭儀と根は帝に子がないのを見て、あらかじめ結んでおくのを長久の計と考え、そろって定陶王を称えて後嗣に勧めた。帝も自ら定陶王の才を美とし、元服させて国へ帰らせた。時に十七歳。

漢成帝綏和元年(前8年)

  • 春正月、帝は丞相の翟方進、御史大夫の孔光、右将軍の廉褒、後将軍の朱博を禁中に召し、中山王と定陶王のいずれを嗣とすべきかを議させた。
  • 方進・根・褒・博はみな「定陶王は帝の弟の子であり、礼に『昆弟の子はなお子のごとし、その後を継ぐ者はその子となる』とある。定陶王が嗣にふさわしい」とした。
  • 孔光だけは「礼では嗣を立てるに親を以てする。尚書の盤庚で殷が弟に及んだのを比とすれば、兄が終われば弟が継ぐ。中山王は先帝の子で帝の親弟であり、嗣にふさわしい」とした。
  • 帝は中山王を無能とし、また兄弟は互いに廟に入れないという礼を理由に、光の議を採らなかった。
  • 二月癸丑、詔して定陶王欣を皇太子に立てた。中山王の舅で諫大夫の馮参を宜郷侯に封じ、中山国に三万戸を加えてその意を慰めた。執金吾の任宏を守大鴻臚として節を持たせ、定陶王を徴した。
  • 定陶王は辞退して「臣の資質では太子の宮を汚すに足りません。しばらく国邸に留まって朝夕ご機嫌を伺い、聖嗣が生まれれば国へ帰って藩を守りたい」と上奏したが、天子は聞き置くにとどめた。
  • 戊午、孔光は議が意に合わなかったため廷尉に左遷され、何武が御史大夫となった。
  • 秋八月、中山孝王の興が薨じた。
  • 冬十月、帝は太子がすでに太宗(文帝)の後を奉ずる以上、私親を顧みてはならないとした。
  • 十一月、楚孝王の孫の景を定陶王に立て、恭王の後を奉じさせた。
  • そもそも太子が幼いころ、祖母の傅太后が自ら養育していた。太子となってからは、傅太后と太子の母の丁姫は定陶国邸に住み、会うことを許さないと詔された。
  • ほどなく王太后が、傅太后と丁姫を十日に一度太子の家へ行かせようとした。帝は「太子は正統を承け、陛下(王太后)を共に養うべきで、私親を顧みてはならない」と言った。王太后は「太子が幼いとき傅太后が抱いて育てた。今太子の家へ行くのは乳母の恩によるだけで、妨げにはなるまい」と言った。そこで傅太后だけが太子の家へ行けることになり、丁姫は太子を養育していないとして許されなかった。

漢成帝綏和二年(前7年)

  • 三月丙戌、帝が未央宮で崩じた。
  • 夏四月丙午、太子が即位した(哀帝)。皇太后を尊んで太皇太后とし、太皇太后は傅太后・丁姫が十日に一度未央宮へ来ることを認めた。
  • 定陶恭王太后をどこに住まわせるべきかを丞相・大司空に諮る詔が下った。丞相の孔光はかねて傅太后の人となりが剛暴で権謀に長けていると聞いており、帝が襁褓のころから養育して成人させ、即位にも力があったので、傅太后が政事に関与するのを恐れ、帝と朝夕近づけたくなかった。そこで「定陶太后のために宮を新築すべきだ」と議した。大司空の何武は「北宮に住ませてよい」と言った。帝は武の言に従った。
  • 北宮には紫房と複道があって未央宮に通じていた。傅太后は果たして複道から朝夕帝のもとへ通い、尊号を称し親属を貴顕にすることを求めて、帝が正道を行けないようにした。
  • 高昌侯の董宏が意を迎えて上書し、「秦の荘襄王の母はもと夏氏だったが華陽夫人の子とされ、即位後は両人ともに太后と称した。定陶恭王后を帝太后に立てるべきです」と言った。事が有司に下されると、大司馬の王莽と左将軍・関内侯で領尚書事の師丹が宏を弾劾し、「皇太后という至尊の号は天下に一つと知りながら、亡秦を引いて比喩とし、聖朝を誤らせた。言うべきでないことで、大不道である」と奏した。帝は即位したばかりで謙譲し、莽と丹の言を容れて宏を庶人に落とした。
  • 傅太后は大いに怒り、必ず尊号を称するよう帝に迫った。帝はやむなく太皇太后に申し上げ、詔を下して定陶恭王を尊んで恭皇とした。
  • 五月丙戌、皇后に傅氏を立てた。傅太后の従弟である晏の娘である。詔して「春秋に『母は子を以て貴し』とある。定陶太后を尊んで恭皇太后、丁姫を恭皇后とせよ」とし、それぞれに左右の詹事を置き、食邑は長信宮の中官と同等とした。傅氏の父を追尊して崇祖侯、丁氏の父を褒徳侯とし、舅の丁明を陽安侯、舅の子の丁満を平周侯、皇后の父の晏を孔郷侯、皇太后の弟で侍中・光禄大夫の趙欽を新城侯に封じた。
  • 傅太后の従弟で右将軍の傅喜は学問を好み志行があり、衆望を集めていた。外戚に爵を上せた当初、喜だけは謙遜して病と称した。傅太后が政事に関与しはじめると、喜は何度も諫めた。このため傅太后は喜に輔政させたくなかった。
  • 庚午、喜に黄金百斤を賜って右将軍の印綬を返上させ、光禄大夫として病を養わせた。大司空の何武、尚書令の唐林はいずれも上書して言った。「喜は行いが清廉で忠誠に国を憂える内輔の臣です。病臥を理由に一朝にして帰らせては衆望を失い、みな『傅氏の賢子が定陶太后と議論が合わないため退けられた』と言うでしょう。百官で国のために残念に思わぬ者はありません。忠臣は社稷の守りです。魯は季友によって治乱が分かれ、楚は子玉によって軽重が定まり、魏は無忌によって敵を退け、項は范増によって存亡した。百万の衆も一人の賢者に及びません。ゆえに秦は千金を用いて廉頗を離間し、漢は万金を散じて亜父を疎んじさせた。喜が朝に立つことは陛下の光輝であり、傅氏の廃興の分かれ目です」と。帝も喜を重んじていたので、ほどなく再び用いた。
  • 九月庚申、地震があり、京師から北辺まで郡国三十余か所で城郭が壊れ、圧死者は四百余人に及んだ。
  • 人が災異について待詔の李尋に問うと、こう答えた。
  • 日は衆陽の長、人君の表です。君が道を修めなければ日はその度を失って暗く光を失う。近ごろ日はことに精を欠き、光が侵され色を失い、邪気による珥や蜺がしばしば現れる。小臣は内事を知りませんが、日を見るかぎり陛下の志操は当初よりずいぶん衰えています。乾剛の徳を執り、志を強くして度を守り、女の口添えや邪臣の媚びを聴かず、乳母や保阿の甘言・悲辞の請託は断って聴かないでください。小さな忍びなさを絶ち、やむを得なければ財貨を賜えばよく、私的に官位を与えてはなりません。まことに皇天の禁ずるところです。
  • 月は衆陰の長、妃后・大臣・諸侯の象です。近ごろ月がしばしば変を示すのは、母后が政に関与して朝を乱し、陰陽ともに傷ついて双方に不利となる兆しです。外臣は朝事を知りませんが、天文を信ずるかぎり、近臣はもはや頼るに足りません。陛下みずから賢士を求め、憎むところを強いず、社稷を崇め本朝を強くしてください。
  • 五行は水を本とし、水は平準です。王道が公正で明らかであれば百川は理に従い脈が通じ、偏党して綱を失えば涌き溢れて災いとなる。今、汝水・潁水が溢れ、雨水と相まって民の害となっている。詩にいう「百川沸騰」で、咎は皇甫・卿士の類にあります。外親と大臣を少し抑えてください。
  • 地の道は柔静で、陰の常の義です。近ごろ関東でしばしば地震があるのは、陽を崇め陰を抑えてその咎を救うべきしるしです。志を固めて威を建て、私路を閉ざし、英俊を抜擢し、職に堪えぬ者を退けて本朝を強くなさい。本が強ければ精神が敵を折り、弱ければ殃を招いて邪謀に陵がれます。
  • 昔、淮南王が謀を企てたとき、難しいと恐れたのは汲黯ただ一人で、公孫弘らは言うに足りないとした。弘は漢の名相で今に比べる者もないのに軽んじられた。まして弘に及ばぬ者ばかりならなおさら。ゆえに「朝廷に人がなければ賊乱に軽んじられる」と言うのです。
  • 冬十月癸酉、師丹を大司空とした。丹は帝が成帝の政を多く改めるのを見て上書した。
  • 古は諒闇して語らず、三年は冢宰に聴かせ、父の道を改めなかった。先帝の柩がまだ堂にあるうちから、官爵は臣らおよび親属に及んで一斉に貴寵となり、舅を陽安侯に封じ、皇后の尊号が定まらぬうちに父を先に孔郷侯に封じ、侍中の王邑や射聲校尉の王邯らを出した。詔書が次々に下って政事が変わり、急激で順序がありません。臣は大義を明らかにできぬどころか、爵位を固辞することもできず、みなに従って空しく封侯を受け、陛下の過ちを増しました。
  • 近ごろ郡国で地震が多く、水が出て人民を殺し、日月は明らかならず五星は行を失っています。これはみな挙措が中を失い、号令が定まらず、法度が理を失い、陰陽が濁った応です。
  • 人情として子がなければ六、七十歳でも広く求めるもの。孝成皇帝は深く天命を見、至徳を照らして、壮年のうちに己に克って陛下を嗣に立てられた。先帝が天下を棄てられても陛下が体を継がれ、四海が安寧で百姓が懼れないのは、先帝の聖徳が天人に合った功です。
  • 天の威は顔を離れること咫尺と聞きます。先帝が陛下を建てた意を深く思い、己に克って躬行し、群下の従い方を観てください。天下は陛下の家です。肺腑の親がどうして富貴を得られぬ心配がありましょう。かくも倉卒であっては長続きしません。
  • 丹の上書は数十度に及び、切直な言が多かった。
  • 傅太后の従弟の子の傅遷が側近にあってことに傾邪だったので、帝は憎んで免官し故郡へ帰らせた。傅太后が怒ったため、帝はやむなく遷を留めた。丞相の孔光と大司空の丹が「詔書が前後で相反し、天下は疑惑して信ずるところがありません。遷を故郡に帰し姦党を消してください」と奏したが、結局帰らせず、再び侍中とした。傅太后に逼られる有様はみなこの類いだった。

漢哀帝建平元年(前6年)

  • 正月丁酉、光禄大夫の傅喜を大司馬とし、高武侯に封じた。
  • 秋九月、郎中令の泠褒、黄門郎の段猶らがまた奏して、「定陶共皇太后・共皇后はいずれも定陶という藩国の名を大号に冠すべきではなく、車馬・衣服もみな皇の意に称うべきです。二千石以下の吏を置いて職を供させ、また共皇のために京師に廟を立てるべきです」と言った。
  • 帝がまた議に下すと、群下の多くは意を迎えて「母は子を以て貴し、尊号を立てて孝道を厚くすべきだ」と言った。ただ丞相の孔光、大司馬の傅喜、大司空の師丹だけが不可とした。丹はこう論じた。
  • 聖王が礼を制するのは天地に法を取るためで、尊卑は天地の位を正すもの、乱してはなりません。今、定陶共皇太后・共皇后が定陶共を号とするのは、母は子に従い妻は夫に従うという義によります。官を立て吏を置き、車服を太皇太后と並べようというのは、尊きに二つの上なきを明らかにする議ではありません。
  • 定陶共皇の諡号はすでに前に議定されており、改めてはなりません。礼に「父が士で子が天子なら、祭りは天子の礼でも、その尸の服は士の服」とあり、子が父に爵を与える義はなく、父母を尊ぶにも限度がある。人の後となる者はその子となるので、後を継いだ相手に斬衰三年を服し、実の父母には期に降す。本祖を尊び正統を重んじるためです。
  • 孝成皇帝は聖恩深遠で、共王のために後を立てて祭祀を継がせ、共皇を永く一国の太祖として万世不毀とされた。恩義はすでに備わっています。陛下は先帝の体を継ぎ、大宗を持重して宗廟・天地・社稷の祀りを承ける以上、義として定陶共皇を奉じてその廟に入って祭ることはできません。
  • 今、京師に廟を立てて臣下に祭らせれば主のない祭りとなる。しかも親が尽きれば毀つべきで、一国の太祖として毀たれぬはずの祀りを空しくし、主のない毀たるべき不正の礼に就くことになる。共皇を尊び厚くする道ではありません。
  • 丹はこれによってしだいに帝の意に合わなくなった。
  • たまたま「古は亀貝を貨としたが今は銭に代え、民はそのために貧しい。幣を改めるべきだ」と上書する者があり、帝が丹に問うと丹は「改めてよい」と答えた。章が有司の議に下されると、みな「銭を行って久しく、にわかには変えがたい」とした。丹は老人ゆえ前言を忘れ、また公卿の議に従った。
  • また丹が吏に奏書を書かせたとき、吏がその草稿を私かに写した。丁氏・傅氏の子弟がこれを聞いて人に上書させ、「丹の封事が路上の人に持ち歩かれている」と告げた。帝が将軍・中朝の臣に問うと、みな「忠臣は諫めを顕わにせず、大臣の奏事は漏らすべきでない。廷尉に下して治めさせるべきです」と答えた。廷尉は丹を大不敬と弾劾した。
  • 事がまだ決しないうち、給事中・博士の申咸と杜欽が上書して「丹は経学と行いに比べる者なく、近世の大臣で丹に及ぶ者は少ない。憤懣を発して封事を奏したさい、深く思慮せず主簿に書かせて漏らしただけで、過ちは丹にあらず。これで貶黜しては衆心に厭かないでしょう」と言った。帝は咸と欽の秩をそれぞれ二等下げ、ついに策書で丹を免じた。「朕は君の位が尊く任が重いと思っていたが、偽りを懐いて国を迷わせ、進退は命に違い、反覆して言を異にした。君のために深く恥じる。君はかつて傅位を託されたので理に糺すに忍びない。大司空高楽侯の印綬を返上して罷め帰れ」と。
  • 尚書令の唐林が上疏した。「大司空の丹を免ずる策書は、あまりに深く痛切です。君子は文を作るに賢者のために諱む。丹は経学で世の儒宗、徳は国の老成で、親しく聖躬を傅け位は三公にありました。坐した所は些細で、海内はその大過を見ていません。事はすでに過ぎたにせよ、爵を免ずるのは重すぎます。京師の識者はみな丹の爵邑を復して朝請を奉じさせるべきだと考えています」と。帝は林の言に従い、詔して丹に関内侯の爵を賜った。

漢哀帝建平二年(前5年)

  • 丁氏・傅氏の一族は驕奢で、みな傅喜の恭倹を嫉んだ。また傅太后は尊号を称して成帝の母と斉しくなろうとしたが、喜は孔光・師丹とともに不可という立場を執った。帝は大臣の正論に背くのを重んじつつ、内では傅太后に迫られ、迷い続けること数年に及んだ。
  • 傅太后は大いに怒り、帝はやむなく先に師丹を免じて喜を動かそうとした。喜はついに従わなかった。朱博が孔郷侯の傅晏と結んでともに尊号の事を成そうと謀り、たびたび燕見して封事を奏し、喜および孔光を誹謗した。
  • 丁丑、帝はついに策書で喜を免じ、侯として邸に退けた。
  • 夏四月、傅太后はまた自ら丞相・御史大夫に詔して「高武侯の喜は下に阿り上を欺き、故大司空の丹と心を同じくして背いた。命を放ち族を害する者で、朝請を奉ずべきでない。国へ就かせよ」と言った。
  • 丞相の孔光は先帝のとき継嗣を議して異を持した隙があり、さらに傅太后の意に重ねて逆らった。このため在位の傅氏が朱博と表裏をなして光を讒謗した。乙亥、策書で光を免じて庶人とし、御史大夫の朱博を丞相とし陽郷侯に封じた。
  • 朱博が丞相となると、帝はついにその議を用いて詔した。「定陶共皇の号に定陶と称してはならぬ。共皇太后を尊んで帝太太后とし永信宮と称し、共皇后を帝太后として中安宮と称し、共皇のために京師に寝廟を立て、宣帝の父の悼皇考の制度に準ぜよ」と。ここに四人の太后がそれぞれ少府・太僕を置き、秩はみな中二千石となった。
  • 傅太后は尊号を得た後いよいよ驕り、太皇太后に向かって「嫗」と呼ぶほどだった。当時、丁氏・傅氏は一、二年のうちに急激に興って盛んをきわめ、公卿・列侯となる者が非常に多かった。ただし帝はさほど権勢を委ねず、成帝の世の王氏ほどではなかった。
  • 丞相の博と御史大夫の玄が奏した。「もと高昌侯の宏は真っ先に尊号の議を建てたのに、関内侯の師丹に弾劾されて庶人に落とされました。当時は天下が喪に服し政を丹に委ねていたが、丹は尊号を褒め広める義を深く思わず、妄りに説を称えて尊号を抑え貶め、孝道を損なった。これほど大きな不忠はありません。陛下は仁聖にして尊号を明らかに定められました。宏は忠孝により高昌侯に復し、丹は悪逆が著しいので赦令を蒙ったとはいえ爵邑を持つべきでなく、庶人に落とすことを請います」と。奏は可とされた。
  • 諫大夫の楊宣が封事を上した。「孝成皇帝は宗廟の重きを深く思い、陛下の至徳を称して天序を承けさせました。聖策は深遠、恩徳は至って厚い。先帝の意を思えば、陛下に自らの代わりとして東宮に仕えさせたかったのではありませんか。太皇太后は七十歳、たびたび憂傷を重ね、親属に命じて身を引かせて丁氏・傅氏を避けさせています。道行く人でさえ涙を落とすのに、まして陛下が高きに登って遠望されるとき、延陵(成帝の陵)に恥じぬはずがありましょうか」と。帝は深くその言に感じ、成都侯の商の次男の邑を改めて成都侯に封じた。
  • 六月庚申、帝太后の丁氏が崩じ、詔して定陶共皇の園に帰葬させた。
  • 秋七月、傅太后は傅喜への怨みが止まず、孔郷侯の晏に丞相の朱博を諷させて喜の侯を免ずるよう奏させた。博が御史大夫の趙玄と議すると、玄は「事はすでに前に決していますから、まずいのでは」と言った。博は「すでに孔郷侯に許した。匹夫でさえ約束すれば死をも辞さぬ。まして至尊の求めだ。自分は死ぬだけだ」と言い、玄はただちに許した。
  • 博は喜だけを名指しするのを嫌い、もと大司空・氾郷侯の何武も以前に過ちで免ぜられて国へ就いており事情が似ていたので、二人を併せて奏した。「喜と武は在位中いずれも治に益がなかった。すでに退いて免ぜられたとはいえ、爵土の封は当然持つべきものではない。ともに庶人とすることを請う」と。
  • 帝は傅太后がかねて喜を怨んでいると知っていたので、博と玄が意を承けたのを疑い、玄を尚書に召して事情を問うた。玄は罪を認めた。詔して左将軍の彭宣と中朝の者に併せて訊問させ、宣らは「博・玄・晏はみな不道不敬。廷尉の詔獄に召すことを請う」と弾劾した。帝は玄の死罪を三等減じ、晏の戸を四分の一削り、謁者に節を仮して丞相を廷尉に召させた。博は自殺し、国は除かれた。
  • 冬十月、帝は丁氏・傅氏を爪牙の官に置こうとし、光禄勲の丁望を左将軍とした。

漢哀帝建平四年(前3年)

  • 春正月、帝は傅太后の従父の弟で侍中・光禄大夫の傅商を封じようとした。尚書僕射で平陵の鄭崇が諫めた。「孝成皇帝が親しい舅の五人を侯に封じたとき、天は赤黄となり昼が暗く、日中に黒気がありました。孔郷侯は皇后の父、高武侯は三公として封じられ、なお縁由があります。今、理由もなく商を封じるのは制度を壊し天人の心に逆らうもので、傅氏の福ではありません。臣は身命をもって国の咎に当たりたい」と。崇が詔書を持って立ち上がると、傅太后は大いに怒って「天子でありながら、かえって一臣に専制されるとは何事か」と言った。
  • 二月癸卯、帝はついに詔を下して商を汝昌侯に封じた。
  • 夏六月、帝太太后を尊んで皇太太后とした。

漢哀帝元寿元年(前2年)

  • 春正月辛丑朔、将軍・中二千石に、兵法に明るい者をそれぞれ一人挙げるよう詔し、それにかこつけて孔郷侯の傅晏を大司馬衛将軍、陽安侯の丁明を大司馬票騎将軍に拝した。
  • この日、日食があった。帝は公卿・大夫に詔して心を尽くして過失を陳べさせ、また賢良方正で直言できる者をそれぞれ一人挙げさせた。前の涼州刺史の杜鄴が方正として対策した。
  • 陽は尊く陰は卑しいのが天の道です。ゆえに男は賤しくてもその家の陽、女は貴くてもその国の陰です。礼が三従の義を明らかにするのはこのためで、文母の徳があっても必ず子に繋がる。昔、鄭伯が姜氏の欲に随ってついに叔段の篡国の禍があり、周の襄王は内に恵后の難に迫られて鄭に居する危うきに遭い、漢が興ると呂太后が親属に権を私して社稷を危うくしかけました。
  • 陛下は倹約して身を正し、天下と共に新たにしようとされているのに、嘉瑞は応ぜず日食と地震が起こる。春秋の災異は象を指して言葉とします。日食は陽が陰に臨まれることを明らかにし、坤は地に法り土であり母であって、安静を徳とします。震は陰でないことのしるしです。占象はきわめて明らか、臣は直言せずにいられません。
  • 昔、曾子が命に従う義を問うと孔子は「それは何ということか」と言い、閔子騫が礼を守って親に苟合しなかったのは、その行いに理に外れるものがなく、非難のしようがなかったからだと善しとした。
  • 今、外家の兄弟は賢愚を問わず並んで帷幄に侍り列位に布かれ、あるいは兵衛を掌り、あるいは軍屯を将いています。寵愛が一家に集まり、貴を積んだ勢いは世に稀に見、稀に聞くものです。ついには大司馬将軍の官を二つ並べ置いた。皇甫が盛んでも三桓が隆んでも、魯が三軍を作ったのでさえ、これほどではありません。その拝命の日、前でも後でもなく事に臨んで日食があったのは、陛下が謙遜して独断せず、意を承けて言えばそのまま聴き、欲するままに随い、罪悪ある者が罰せられず、功も能もない者がみな官爵を受ける、その流れが積もった過ちがここにあると明らかにし、聖朝を目覚めさせようとするものです。
  • 昔、詩人が刺り春秋が譏った象がこの通りですから、おそらく他に原因はありません。人は後から前を視れば憤って非とするのに、自らの行いは鏡に映さぬので可と思ってしまう。これが計の過ちです。陛下が精誠を加え、始めの心を承け、事を古に稽えて下心を満たせば、万民は喜ばぬ者なく、上帝と百神は威怒を収め、禎祥と福禄が報いないはずがありません。
  • 丁巳、皇太太后の傅氏が崩じ、渭陵に合葬され、孝元傅皇后と称された。

漢哀帝元寿二年(前1年)

  • 六月戊午、帝が未央宮で崩じた。
  • 大司馬の王莽が太皇太后に申し上げ、「定陶共王太后は孔郷侯の晏と心を合わせて謀り、恩に背き本を忘れ、専恣で軌に外れた」として、孝哀皇后を桂宮へ退け、傅氏・丁氏をみな官爵から免じて故郡へ帰らせた。傅晏は妻子を連れて合浦へ徙された。
  • ただ傅喜だけは詔で褒め称えられた。「高武侯の喜は性質が真率で議論は忠直、もと定陶太后と縁がありながら終始その意に順わず邪に従わず、節を守った。そのため斥けられて国へ就いた。伝に『歳寒くして後に松柏の凋むに後るるを知る』と言うではないか。喜を長安に還し、特進として朝請を奉じさせよ」と。喜は外には褒賞を受けたが孤立して憂え懼れ、後にまた国へ就いて天寿を全うした。
  • 莽はまた傅太后の号を貶して定陶共王母とし、丁太后の号を丁姫とした。

漢平帝元始五年(5年)

  • 王莽が奏した。「共王母の丁姫は先に臣妾たらず、冢の高さは元帝の山と斉しく、帝太后・皇太后の璽綬を懐いて葬られました。共王母および丁姫の冢を発いてその璽綬を取り、共王母を定陶に帰して共王の冢の次に葬ることを請います」と。
  • 太后は「すでに済んだことで、改めて発くには及ばない」としたが、莽が固く争ったので、太后はもとの棺のまま改葬するよう詔した。
  • 莽はさらに奏した。「共王母と丁姫の棺はいずれも梓宮と名づけられ、珠玉の衣は藩妾の服ではありません。木棺に代え、珠玉の衣を除き、丁姫は媵妾の次に葬ることを請います」と。奏は可とされた。
  • 在位の公卿はみな莽の意に阿って銭帛を出し、子弟や諸生・四夷ら合わせて十余万人を遣って作具を持たせ、将作を助けて共王母と丁姫の旧墓を掘り平らげさせ、その跡を棘で囲んで世の戒めとしたという。