通鑑紀事本末燕王旦・蓋長公主の謀反(燕蓋謀逆)
帝位を望んで武帝に疎まれた燕王旦が、昭帝の即位を認めず劉澤らと叛乱を謀って失敗し、続いて丁外人の封侯を拒まれた蓋長公主・上官桀父子、利を誇る桑弘羊が霍光と権を争い、燕王と通謀して光の追い落としを図る。偽の上書を昭帝に見破られ、酒宴で光を殺して帝を廃する計画も燕倉の密告で露見して一党は誅滅され、旦は自殺した。後元元年(前88年)から元鳳元年(前80年)までの9年間。
漢武帝後元元年(前88年)
- 燕王旦は自分が序列から言って太子となるべきだと考え、上書して宿衛に入ることを求めた。上は怒ってその使者を北闕で斬った。
- また亡命者を匿った罪で良鄉・安次・文安の三県を削られた。上はこれによって旦を憎んだ。
- 旦は弁が立ち聡明で博学、その弟の廣陵王胥は勇力があったが、いずれもふるまいに法度がなく過失が多かった。ゆえに上はどちらも立てなかった。
漢武帝後元二年(前87年)
- 春正月、上の病が重くなった。乙丑、詔して弗陵を皇太子に立てた。丁卯、帝は五柞宮で崩じた。
漢昭帝始元元年(前86年)
- 武帝が崩じたとき、諸侯王に璽書が賜られた。燕王旦は書を得ても哭そうとせず、「璽書の封が小さい。京師に変があるのではないか」と言った。
- 寵臣の壽西長・孫縱之・王孺らを長安へ遣り、礼儀を尋ねるという名目で密かに朝廷の事情を探らせた。
- 詔で褒めて旦に銭三十万を賜り、封を一万三千戸加増した。旦は怒って「私こそ帝となるべきなのに、何が賜りか」と言った。
- そこで宗室の中山哀王の子の長、齊孝王の孫の澤らと謀を結び、「武帝の時に詔を受けて吏事を管掌し、武備を整えて非常に備えることになっている」と偽った。
- 郎中の成軫が旦に言った。「大王が職を失われた以上、立って求めるほかなく、座して得られるものではありません。大王がひとたび立てば、国中は女子までみな腕を振るって大王に従いましょう」と。
- 旦は澤と謀って偽の文書を作り、「少帝は武帝の子ではない。大臣がこぞって立てたのだ。天下はこぞって伐つべきである」と言い、人に郡国へ触れ回らせて百姓を動揺させた。澤は臨淄へ帰って兵を発し、青州刺史の雋不疑を殺すことを謀った。
- 旦は郡国の姦人を招き寄せ、銅鉄を徴収して武具を作り、しばしば車騎・材官の卒を閲兵し、民を発して大がかりな狩りをして士馬を訓練し、決行の日を待った。
- 郎中の韓義らが度々諫めたので、旦は義ら合わせて十五人を殺した。
- 折しも缾侯の成が澤らの謀を知って雋不疑に告げた。八月、不疑が澤らを捕らえて報告した。天子は大鴻臚丞を遣って裁かせ、追及は燕王に及んだが、詔して燕王は至親だから裁かないこととし、澤らはみな誅に伏した。
漢昭帝始元二年(前85年)
- 春正月、大将軍の霍光を博陸侯、左将軍の上官桀を安陽侯に封じた。
漢昭帝始元三年(前84年)
- かつて霍光と上官桀は親しかった。光が休沐で出るたびに、桀が常に代わって入って決裁した。
- 光の娘は桀の子の安の妻で、生まれた娘は五歳になったばかりだった。安は光を通じて宮中に入れようとしたが、光はまだ幼いとして聴かなかった。
- 蓋長公主は私かに子の食客である河間の丁外人を近づけていた。安はかねて外人と親しく、外人に説いた。「安の娘は容貌が端正です。長主のお力で入宮して后となれば、私ども父子は朝廷にあってしかも椒房の重みを持つ。それを成すのはあなた次第です。漢家の故事では常に列侯が公主を娶ります。あなたが侯に封じられないことを、なぜ心配なさるのか」と。
- 外人は喜んで長主に語り、長主ももっともと考えた。詔して安の娘を召して倢伃とし、安を騎都尉とした。
漢昭帝始元四年(前83年)
- 春三月甲寅、上官氏を皇后に立て、天下に赦を行った。
- この年、上官安が車騎将軍となった。
漢昭帝始元五年(前82年)
- 夏六月、上官安を桑樂侯に封じた。
- 安は日ごとに驕り淫らになった。殿中で賜りを受けたのに、賓客に向かって「私の婿と飲んで大いに楽しかった」と言い、その服飾を見て人をやって家へ帰し、自分の物を焼こうとした。子が病死すると天を仰いで罵った。その頑迷さと道理に外れたさまはこの通りであった。
漢昭帝元鳳元年(前80年)
- 上官桀父子はすでに尊く盛んだったので、蓋長公主の徳に報いようと、丁外人のために封侯を求めた。霍光は許さなかった。また外人のために光祿大夫を求め、召見されるようにしたいと言ったが、これも許さなかった。
- 長主は大いにこれを光に怨んだ。桀と安も度々外人のために官爵を求めて得られず、恥じ入った。
- また桀の妻の父が寵愛した充國が大醫監となったとき、無断で殿中に入って獄に下され死罪に当たった。冬の月が尽きようとするころ、蓋主が充國のために馬二十匹を献じて贖罪を願い、ようやく死を減じられた。これによって桀・安父子は深く光を怨み、蓋主に厚く恩を感じた。
- 先帝の時から桀はすでに九卿として位は光より上だった。父子ともに将軍となり、皇后は安の娘、光はその外祖父にすぎない。それなのに朝事を専制していると考え、これによって光と権を争った。
- 燕王旦は自ら帝の兄でありながら立てられなかったので、常に怨望を抱いていた。
- また御史大夫の桑弘羊は酒の専売と塩鉄の制を作って国のために利を興し、その功を誇って子弟に官を得させようとしたが叶わず、これも光を怨んだ。
- こうして蓋主・桀・安・弘羊はみな旦と通謀した。旦は孫縱之らを前後十余組送り、多くの金宝と走馬を蓋主・桀・弘羊らに贈った。
- 桀らはまた人に燕王の名で上書させ、「光は出て郎と羽林を閲兵し、道中で先払いをさせ、太官に先に食事を用意させた。また蘇武は匈奴に使いして二十年降らなかったのに典屬國にとどまり、大将軍の長史の敞は功がないのに搜粟都尉となった。さらに勝手に幕府の校尉を増員した。光は権を専らにして恣にしており、非常の事を疑わせる。臣旦は符璽を返上して宿衛に入り、姦臣の変を察したい」と言わせた。
- 桀は宮中からこの件を下し、弘羊が諸大臣とともに光を退けさせようとした。書が奏されたが、帝は下そうとしなかった。
- 翌朝、光はこれを聞いて畫室で足を止め、入らなかった。上が「大将軍はどこにいる」と問うと、左将軍の桀が「燕王がその罪を告発したので、入る勇気がないのです」と答えた。詔して大将軍を召すと、光は冠を脱いで頓首して謝した。
- 上は「将軍、冠をつけよ。朕はこの書が偽りだと分かっている。将軍に罪はない」と言った。光が「陛下はどうしてお分かりになりましたか」と問うと、上は「将軍が廣明に行って郎を閲兵したのはつい最近のこと。校尉を調えてからまだ十日も経っていない。燕王がどうして知り得よう。しかも将軍が非を行うのに校尉など必要ない」と答えた。
- このとき帝は十四歳。尚書も左右もみな驚いた。上書した者は果たして逃亡し、厳しく追捕された。桀らは恐れて上に「小事です。追及されるには及びません」と申し上げたが、上は聴かなかった。
- 後に桀の党で光を讒言する者があると、上はそのたびに怒って「大将軍は忠臣であり、先帝が朕の身を輔けるよう託された者だ。誹謗する者があれば罪に当てる」と言った。これ以来、桀らは二度と言えなくなった。
史論(李德裕曰・昭帝の明察)
- 人君の徳は至明にまさるものはない。明で姦を照らせば、あらゆる邪も覆い隠せない。漢の昭帝がそれである。
- 周の成王には恥じるところがあり、高祖・文帝・景帝もみな及ばない。
- 成王は管叔・蔡叔の流言を聞いて周公を狼狽させて東へ行かせた。漢の高祖は陳平が魏を去り楚に背いたと聞いて腹心の臣を捨てようとした。漢の文帝は季布が酒癖が悪く近づけがたいという言に惑わされて股肱の郡から呼び戻した者を帰し、賈誼が権を専らにして紛乱を起こすと疑って賢士を疎んじた。景帝は讒言を信じて晁錯を誅し、兵が解けた後に三公を殺した。
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いわゆる狐疑の心を執れば讒賊の口を招く、というものである。昭帝が伊尹・呂尚のごとき輔佐を得ていたら、成王・康王も比べるに足りなかったであろう。
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桀らは、長公主に酒宴を設けて光を招かせ、伏兵で撃ち殺し、そのうえで帝を廃して燕王を迎えて天子に立てることを謀った。旦は駅を置いて書を往来させ、互いに報せ合い、桀を王に立てることを約した。外は郡国の豪傑と連なること千を数えた。
- 旦がこれを相の平に語ると、平は言った。「大王が先に劉澤と謀を結びながら、事が成らぬうちに発覚したのは、劉澤がふだんから誇り高く人を侵し辱めたからです。私が聞くところでは、左将軍はふだんから軽率で、車騎将軍は若くて驕っている。劉澤の時のように成らないのではないかと恐れます。また、成った後で大王に叛くことも恐れます」と。
- 旦は「先日、一人の男が闕に至って旧太子だと名乗ったとき、長安中の民が押し寄せて騒ぎが止まなかった。大将軍は恐れて兵を出して並べ、自ら備えただけのことだ。私は帝の長子で天下が信じている。叛かれることを何で憂えよう」と言った。
- 後に群臣に言った。「蓋主が報せてきたところでは、憂いは大将軍と右将軍の王莽だけだった。今、右将軍は死に、丞相は病んでいる。幸いにも事は必ず成る。召されるのも遠くない」と。群臣にみな旅装をさせた。
- 安はまた、燕王が到着したところで誅し、そのうえで帝を廃して桀を立てることを謀った。ある者が「皇后はどうするのですか」と言うと、安は「麋を追う犬が兎を顧みるものか。しかも皇后によって尊くなっているとはいえ、ひとたび人主の意が移れば、庶民になろうとしてもできない。これは百世に一度の好機だ」と言った。
- 折しも蓋主の舎人の父で稻田使者の燕倉がその謀を知り、大司農の楊敞に告げた。敞はふだんから慎み深く事を恐れて言えず、病と称して臥せ、諫大夫の杜延年に告げた。延年が報告した。
- 九月、詔して丞相の部下の中二千石に孫縱之および桀・安・弘羊・外人らを追捕させ、宗族もろともことごとく誅した。蓋主は自殺した。
- 燕王旦はこれを聞いて相の平に「事は敗れた。兵を発するか」と問うた。平は「左将軍はすでに死に、百姓もみな知っています。発することはできません」と答えた。
- 王は憂え悶え、酒宴を設けて群臣・妃妾と別れを惜しんだ。折しも天子が璽書で旦を責めたので、旦は綬で自ら縊れて死んだ。后・夫人で旦に殉じて自殺した者は二十余人。
- 天子は恩を加えて王の太子建を赦して庶人とし、旦に剌王と諡した。皇后は年少で謀に加わらず、また霍光の外孫でもあったので、廃されずに済んだ。