通鑑紀事本末巫蠱の禍(巫蠱之禍)

鉤弋夫人が弗陵を生んで「堯母門」と名づけられたことに始まり、江充が巫蠱の獄を口実に丞相公孫賀の一族や公主らを死に追いやり、ついに戾太子の宮を掘って人形を出したため、太子は充を斬って挙兵し、長安の市街戦に敗れて逃亡先の湖で自ら首を吊り、衛皇后も自殺する。のち田千秋の上書で冤が晴れ、江充の一族は誅された。太始三年(前94年)から昭帝始元五年(前82年)までの13年間。

年表(5件)
  • 漢武帝
  • 太始三年前94年弗陵が生まれ、鉤弋宮の門を堯母門と名づける
  • 征和元年前92年朱安世の告発から公孫賀父子が獄死し、巫蠱の事件が始まる
  • 征和二年前91年江充に追い詰められた戾太子が挙兵して敗れ、湖で自殺する
  • 征和三年前90年田千秋の上書で太子の冤が晴れ、江充が族滅される
  • 漢昭帝
  • 始元五年前82年衛太子を名乗る男を雋不疑が捕らえ、偽者と判明して腰斬となる

漢武帝太始三年(前94年)

  • 皇子の弗陵が生まれた。弗陵の母は河間の趙倢伃で、鉤弋宮に住み、身ごもって十四か月で生んだ。上は「昔、堯は十四か月で生まれたと聞く。今、鉤弋も同じだ」と言い、その産室の門を「堯母門」と名づけた。

史論(臣光曰・堯母門)

  • 人君たる者は動静も挙措も慎まねばならない。心中に発したものは必ず外に形となり、天下に知られぬことはない。
  • このとき皇后も太子も無事であったのに、鉤弋の門を「堯母」と名づけた。ふさわしい名ではない。
  • そのため姦臣は上の意を先回りして探り、末子を格別に愛し嗣にしたいのだと知って、ついに皇后と太子を危うくする心を抱き、巫蠱の禍を成すに至った。悲しむべきことである。

  • 趙人の江充が水衡都尉となった。充ははじめ趙の敬肅王の食客だったが、太子丹に罪を得て逃亡し、闕に至って趙の太子の秘事を告発した。太子はこれによって廃された。

  • 上が充を召して会うと、容貌は堂々として衣服は軽やかで美しく、上は非凡と見た。政事を語り合って大いに喜び、これによって寵を得た。直指繡衣使者に任じ、貴戚・近臣で贅沢が度を越す者を監察させた。充は誰であろうと弾劾を避けず、上は忠直と考え、その言うことはみな意にかなった。
  • あるとき上に従って甘泉へ行く途中、太子家の使者が馳道の中を車馬で行くのに出くわし、充は吏に引き渡した。太子はこれを聞いて人を遣って詫び、「車馬が惜しいのではない。ただ上のお耳に入れて、日ごろの躾が行き届かないと思われたくないだけです。江君、寛大に願いたい」と言った。充は聴かず、上に奏上した。上は「人臣たる者はこうあるべきだ」と言い、大いに信任した。充の威は京師を震わせた。

漢武帝征和元年(前92年)

  • 夏、上が建章宮にいたとき、一人の男が剣を帯びて中の龍華門に入るのを見た。異人ではないかと疑って捕らえさせたが、男は剣を捨てて走り、追ったが捕らえられなかった。上は怒って門の番人を斬った。
  • 冬十一月、三輔の騎士を発して上林を大捜索し、長安の城門を閉じて十一日間捜索し、ようやく解いた。巫蠱の事件が起こりはじめたのはこのころである。
  • 丞相の公孫賀の夫人の君孺は衛皇后の姉であり、賀はこれによって寵を得ていた。賀の子の敬聲が父に代わって太僕となったが、驕り贅沢で法を守らず、北軍の銭一千九百万を勝手に使い、発覚して獄に下された。
  • このとき陽陵の大侠朱安世を捕らえよという詔が厳しく出ていた。賀は自ら安世を追捕して敬聲の罪を贖いたいと願い出、上は許した。後に果たして安世を捕らえた。
  • 安世は笑って「丞相の禍は一族に及ぶぞ」と言い、獄中から上書して、敬聲が陽石公主と密通していること、また上が甘泉へ行くとき巫に馳道に人形を埋めさせて上を呪詛し、悪しき言葉を吐かせたことを告発した。

漢武帝征和二年(前91年)

  • 春正月、賀を獄に下して取り調べた。父子は獄中で死に、一族は誅された。
  • 閏四月、諸邑公主・陽石公主および皇后の甥の長平侯伉がみな巫蠱に連座して誅された。
  • かつて上は二十九歳ではじめて戾太子を生み、甚だ愛した。成長すると性は仁恕・温謹だったが、上は才能が少なく自分に似ていないと不満だった。一方、寵愛する王夫人が子の閎を、李姬が子の旦と胥を、李夫人が子の髆を生み、皇后と太子への寵愛はしだいに衰え、太子は常に不安を抱いていた。
  • 上はこれを察して大将軍の衛青に言った。「漢の諸事は始まったばかりで、しかも四夷が中国を侵している。朕が制度を変えなければ後世に法がない。師を出して征伐しなければ天下は安んじない。そのために民を労さざるを得ない。だが後世がまた朕のようにすれば、滅んだ秦の跡を踏むことになる。太子は落ち着いて重厚で静けさを好む。必ず天下を安んじ、朕に憂いをかけまい。守文の主を求めるなら、太子より賢い者があろうか。皇后と太子が不安を抱いていると聞くが、そんなことがあるのか。それとなく分からせてやってほしい」と。
  • 大将軍は頓首して謝した。皇后はこれを聞いて簪を外して罪を請うた。太子が四夷征伐を諫めるたびに、上は笑って「私が労苦を引き受け、お前には安逸を遺す。よいではないか」と言った。
  • 上は行幸のたびに常に後事を太子に付し、宮内は皇后に付した。判断した事は帰ってからその要点を報告させ、上も異論はなく、時には目も通さなかった。
  • 上は法の適用が厳しく、多く苛酷な吏を任用した。太子は寛厚で多くを覆して救った。百姓の心を得たが、法を用いる大臣はみな喜ばなかった。皇后は長い目で見て罪を得ることを恐れ、しばしば太子を戒めて、上の意を汲むべきで勝手に赦免すべきでないと言った。上はこれを聞いて太子を是とし皇后を非とした。
  • 群臣で寛厚な長者はみな太子に付き、深酷に法を用いる者はみな太子を誹謗した。邪臣には徒党が多かったので、太子は誉める声が少なく誹る声が多かった。
  • 衛青が没した後、臣下は太子の外戚を頼りとしなくなり、競って太子を〔陥れ〕ようとした。上は諸子と疎遠で、皇后もめったに会えなかった。太子がかつて皇后に謁して長く経ってから出てきたとき、黄門の蘇文が上に「太子は宮人と戯れていました」と告げた。上は太子の宮人を二百人に増やした。太子は後にこれを知って文を恨んだ。
  • 文は小黄門の常融・王弼らとともに、常に太子の過ちを窺い、そのたびに誇張して報告した。皇后は歯噛みして、太子に上に申し上げて文らを誅すよう言った。太子は「ただ過ちを犯さなければよい。文らを恐れることはない。上は聡明で邪佞を信じない。憂えるに足りません」と言った。
  • 上がかつて少し体調を崩したとき、常融を遣って太子を召した。融は「太子は喜色を浮かべていました」と言った。上は黙っていた。太子が至ると、上はその顔に涙の跡があるのに、わざと談笑しているのを見た。上は怪しんで密かに問い直し、事情を知って融を誅した。
  • 皇后もまたよく自らを慎み嫌疑を避けたので、長く寵を失ってもなお礼遇された。
  • このころ方士や諸々の神巫が多く京師に集まり、おおむねみな邪道で衆を惑わし、変幻自在に何でもした。女巫が宮中に出入りして美人たちに厄除けを教え、部屋ごとに木の人形を埋めて祭らせた。妬みや怒りの罵り合いから互いに告発し合い、「上を呪詛して無道である」と言い立てた。上は怒って殺し、後宮から大臣にまで及び、死者は数百人に上った。
  • 上は心中すでに疑いを抱いており、あるとき昼寝をして、数千の木の人形が杖を持って上を撃とうとする夢を見た。上は驚いて目覚め、これがもとで体調を崩し、ぼんやりして物忘れがひどくなった。
  • 江充は自分が太子および衛氏と隙があると自覚しており、上が年老いて崩御した後に太子に誅されることを恐れ、これを機に姦言を吐いて「上の病の祟りは巫蠱にあります」と言った。
  • そこで上は充を使者として巫蠱の獄を治めさせた。充は胡の巫を連れて地を掘って人形を求め、蠱を捕らえ、夜に祀って鬼を見た。汚れを撒いて痕跡を作り、そのたびに捕らえて取り調べ、焼けた鉄と鉗で灼いて無理に自白させた。民は互いに巫蠱だと誣告し合い、吏はそのたびに大逆無道として弾劾した。京師・三輔から郡国に及び、連座して死んだ者は前後数万人に上った。
  • このとき上は年老いて、左右がみな蠱で呪詛していると疑い、有る無しにかかわらず、誰もその冤罪を訴えられなかった。
  • 充は上の意を知り、胡の巫の檀何を通じて「宮中に蠱の気があります。除かなければ上はついに治りません」と言わせた。上は充を宮中に入れ、御座を壊し地を掘って蠱を求めさせた。また按道侯の韓説、御史の章贛、黄門の蘇文らに充を助けさせた。
  • 充はまず後宮の寵の薄い夫人から手をつけ、順に皇后・太子の宮に及んだ。地を縦横に掘り、太子と皇后は寝床を置く場所もなくなった。
  • 充は「太子の宮で木の人形がとりわけ多く出た。しかも帛書があり、書かれた内容は不道である。奏上せねばならぬ」と言った。
  • 太子は恐れて少傅の石徳に問うた。徳は師傅として連座して誅されることを恐れ、太子に言った。「先の丞相父子、二人の公主、衛氏はみなこの件で処罰された。今、巫と使者が地を掘って証拠を得た。巫が置いたのか実際にあったのか分からず、身の証しを立てようがない。節を偽って充らを捕らえて獄に繋ぎ、その姦詐を徹底的に糺すのがよい。しかも上は病んで甘泉におられ、皇后や家の吏が伺いを立てても返答がない。上の生死も分からぬのに姦臣がこの有様。太子は秦の扶蘇の事をお考えにならないのか」と。
  • 太子は「私は人の子だ。どうして勝手に誅せよう。帰って詫びて、罪を免れられればそれでよい」と言い、甘泉へ行こうとした。ところが江充が太子を甚だ厳しく追い詰めたので、太子は打つ手がなくなり、ついに石徳の計に従った。
  • 秋七月壬午、太子は食客を使者に仮装させて充らを捕らえさせた。按道侯の説は使者に偽りがあると疑って詔を受けなかったので、食客が撃ち殺した。太子は自ら臨んで充を斬り、罵って「趙の虜め、以前はお前の国の王父子を乱した。それだけでは足りず、また私の父子を乱すのか」と言った。また胡の巫を上林の中で焼いた。
  • 太子は舎人の無且に節を持たせて夜に未央宮の殿の長秋門から入らせ、長御の倚華を通じて皇后につぶさに報告した。中廏の車を出して射手を載せ、武庫の兵器を出し、長樂宮の衛卒を発した。長安は騒乱となり、太子が叛いたと言われた。
  • 蘇文は逃げおおせて甘泉に帰り、太子のふるまいを非道と説いた。上は「太子は必ず恐れ、また充らを憤ってこの変を起こしたのだ」と言い、使者を遣って太子を召した。使者は進む勇気がなく、帰って「太子の謀反はすでに成っており、私を斬ろうとしたので逃げ帰りました」と報告した。上は激怒した。
  • 丞相の劉屈氂は変を聞いて身一つで逃げ、その印綬を失った。長史に早馬で報告させた。上が「丞相は何をしているのか」と問うと、「丞相は秘して、まだ兵を発しておりません」と答えた。上は怒って「事がこれほど騒がれているのに、何が秘だ。丞相には周公の風がない。周公は管叔・蔡叔を誅さなかったか」と言った。
  • そして丞相に璽書を賜って言った。「叛く者を捕らえ斬るには、おのずと賞罰がある。牛車を楯として短兵を交えず、士衆を多く殺傷するな。城門を堅く閉じて叛く者を出させるな」と。
  • 太子は百官に宣言して告げた。「帝は甘泉で病が重い。変があるのではないかと疑われる。姦臣が乱を起こそうとしている」と。
  • 上はそこで甘泉から来て城西の建章宮に行幸し、詔して三輔の近県の兵を発し、中二千石以下を部署に配し、丞相に兼ねて率いさせた。
  • 太子もまた使者を遣って制を偽り、長安中の都官の囚徒を赦し、少傅の石徳および賓客の張光らに分けて率いさせた。長安の囚人である如侯に節を持たせて長水と宣曲の胡騎を発させ、みな装備して集まった。
  • 折しも侍郎の馬通が長安へ使いしており、如侯を追捕して胡人に「その節は偽物だ。従うな」と告げ、如侯を斬って騎を率いて長安に入った。また楫棹の士を発して大鴻臚の商丘成に与えた。
  • もともと漢の節は純赤だったが、太子が赤い節を持ったので、黄色の旄を上に加えて区別することにした。
  • 太子は北軍の南門の外に車を立て、護北軍使者の任安を召して節を与えて兵を発するよう命じた。安は拝して節を受けたが、入って門を閉じ出てこなかった。
  • 太子は兵を率いて去り、四つの市の人を駆り立てて合わせて数万の衆となり、長樂宮の西闕の下に至って丞相の軍に遭遇し、三日戦った。死者は数万人、血は溝に流れ込んだ。
  • 民間ではみな太子が叛いたと言ったので、衆は太子に付かず、丞相に付く兵はしだいに多くなった。
  • 庚寅、太子の兵は敗れて南の覆盎城門へ走った。司直の田仁が城門を閉じる部署にあったが、太子父子の親を思って追い詰めることを望まなかったので、太子は脱出できた。
  • 丞相は仁を斬ろうとしたが、御史大夫の暴勝之が「司直は二千石の吏です。まず伺いを立てるべきなのに、なぜ勝手に斬るのですか」と言い、丞相は仁を放した。
  • 上はこれを聞いて激怒し、吏に下して御史大夫を責めさせた。「司直が叛く者を逃がしたのを丞相が斬るのは法だ。大夫はなぜ勝手に止めたのか」と。勝之は恐懼して自殺した。
  • 詔して宗正の劉長と執金吾の劉敢に策を奉じて皇后の璽綬を収めさせ、后は自殺した。
  • 上は、任安は古参の吏で戦が起こったのを見て成り行きを座視し、勝った方に付こうとして二心を抱いたと考え、田仁とともに腰斬にした。
  • 上は、馬通が如侯を捕らえ、長安の男子の景建が通に従って石徳を捕らえ、商丘成が力戦して張光を捕らえたので、通を重合侯、建を德侯、成を秺侯に封じた。
  • 太子の賓客でかつて宮門を出入りした者はみな連座して誅された。太子に従って兵を発した者は謀反の法で族滅され、吏士で略奪した者はみな敦煌郡へ移された。太子が外にいるため、はじめて長安の諸城門に屯兵を置いた。
  • 上の怒りは甚だしく、臣下は憂え恐れてどうしてよいか分からなかった。壺關の三老の茂が上書した。
  • 父は天のごとく、母は地のごとく、子は万物のごとしと聞きます。ゆえに天が平らかで地が安らかであってこそ万物は茂り成り、父が慈しみ母が愛してこそ子は孝順です。
  • 今、皇太子は漢の嫡嗣として万世の業を承け、祖宗の重きを体し、親しくは皇帝の宗子です。江充は布衣の人、村里の下役にすぎません。陛下が引き立てて用い、至尊の命を帯びて皇太子を追い詰めた。姦詐を仕組み、群れる邪臣が入り乱れた。そのため親戚の道は塞がって通じなくなった。
  • 太子は進んでは上に会えず、退いては乱臣に苦しめられ、独り冤を抱えて訴える所がなかった。憤りの心に耐えかねて立って充を殺し、恐れて逃亡した。子が父の兵を盗んで難を救い、自ら免れようとしただけです。私は邪心はなかったと考えます。
  • 『詩』に「営々たる青蠅、藩に止まる。愷悌の君子、讒言を信ずるなかれ。讒言は極まりなく、四国を交々乱す」とあります。かつて江充が讒言して趙の太子を殺したことは天下に知らぬ者がありません。陛下は察せずに太子を深く咎め、激しく怒って大軍を挙げて追い、三公が自ら将となった。智者は敢えて言わず、弁士も敢えて説かない。私はひそかに痛みます。
  • どうか陛下は心を寛やかにし意を慰め、少しは親しい者を顧み、太子の非を咎めず、速やかに兵を罷めて太子を長く逃亡させないでください。私は切なる思いに堪えず、一旦の命を投げ出して建章宮の下で処罰を待ちます。
  • 書が奏されて天子は感じて悟ったが、まだ公然と赦すとは言わなかった。
  • 太子は逃げて東の湖に至り、泉鳩里に身を隠した。家の主は貧しく、常に履物を売って太子に食を供した。太子には湖に旧知がおり、その者が裕福だと聞いて人を遣って呼びにやったところ、発覚した。
  • 八月辛亥、吏が太子を囲んで捕らえようとした。太子は逃れられないと悟り、室に入って戸を閉ざして首を吊った。山陽の男子の張富昌が卒として足で戸を蹴り開け、新安の令史の李壽が駆け寄って抱えて解いたが、太子の家の主人は格闘して死に、皇孫二人もともに殺された。
  • 上は太子を痛みつつも、李壽を邘侯、張富昌を題侯に封じた。
  • はじめ上は太子のために博望苑を立て、賓客と交わってその好むところに従わせた。ゆえに賓客には異端の説で取り入る者が多かった。

史論(臣光曰・太子の教育)

  • 古の明王は太子を教え養うのに、方正で敦良の士を選んで保傅・師友とし、朝夕ともに過ごさせた。左右前後に正しくない人はなく、出入り起居に正しくない道はなかった。それでもなお淫らに放縦になり邪に偏って禍敗に陥る者があった。
  • それを今、太子に自ら賓客と交わらせ、その好むところに従わせた。そもそも正直な者は親しみにくく、諂う者は気が合いやすい。これは中人の常情である。太子が全うできなかったのも当然である。

漢武帝征和三年(前90年)

  • 九月、吏民が巫蠱で互いに告発した件を取り調べると、多くは事実でなかった。上は太子が恐懼しただけで他意がなかったことをかなり知った。
  • 折しも高寝郎の田千秋が緊急の変事として上書し、太子の冤を訴えた。「子が父の兵をもてあそんだのなら、罪は笞に当たります。天子の子が過って人を殺したら、どんな罪に当たりましょう。私はかつて夢に白髪の老翁を見、この言葉を教えられました」と。
  • 上は大いに感じて悟り、千秋を召見して言った。「父子のあいだのことは人の言いにくいところだ。あなただけがそうでないと明らかにした。これは高廟の神霊があなたに私を教えさせたのだ。あなたは私の輔佐となるべきだ」と。その場で千秋を大鴻臚に任じた。
  • そして江充の家を族滅し、蘇文を横橋の上で焼いた。泉鳩里で太子に刃を加えた者は、はじめ北地太守となっていたが、後に族滅された。
  • 上は太子が無実だったことを憐れみ、思子宮を作り、湖に「歸來望思の臺」を築いた。天下は聞いて悲しんだ。

漢昭帝始元五年(前82年)

  • 春正月、一人の男が黄色い子牛の車に乗って北闕に至り、自ら衛太子だと名乗った。公車が報告し、詔して公卿・将軍・中二千石にみなで見分けさせた。長安中の吏民で集まって見物する者は数万人に上った。右将軍が闕下に兵を並べて非常に備えた。
  • 丞相・御史・中二千石で到着した者は立ち尽くして誰も口を開けなかった。京兆尹の雋不疑が後から来て、叱って従吏に縛らせた。ある者が「本物かどうかまだ分からない。しばらく様子を見ては」と言った。
  • 不疑は言った。「諸君はなぜ衛太子を憚るのか。昔、蒯聵は命に背いて出奔し、その子の輒は拒んで受け入れなかった。『春秋』はこれを是とした。衛太子は先帝に罪を得て、逃げてすぐには死ななかった。今、来て自ら出頭したのだから、この者は罪人である」と。そのまま詔獄に送った。
  • 天子と大将軍の霍光はこれを聞いて嘉し、「公卿・大臣には経術に通じ大義に明るい者を用いるべきだ」と言った。これによって不疑の名声は朝廷で重んじられ、在位の者はみな自分は及ばないと思った。
  • 廷尉が取り調べて、ついに偽りだと分かった。もとは夏陽の人で姓は成、名は方遂。湖に住んで卜筮を業としていた。旧太子の舎人でかつて方遂に占ってもらった者がおり、「あなたの姿は甚だ衛太子に似ている」と言った。方遂はその言葉を利用しようと考え、富貴を得られると期待したのである。誣罔不道の罪で腰斬となった。