通鑑紀事本末漢、西域に通ず(漢通西域)

武帝が匈奴挟撃の同盟者を求めて張騫を大月氏へ送り、十三年の苦難ののち西域の情報がもたらされたことに始まり、烏孫との縁組、李廣利の大宛遠征、傅介子の樓蘭王刺殺、都護の設置と屯田を経て、漢が西域を勢力下に置く経緯。のち烏孫は大小二昆彌に分立し、段會宗らがその調停に追われる。元朔三年(前126年)から成帝元延二年(前11年)までのおよそ115年間。

年表(20件)
  • 漢武帝
  • 元朔三年前126年張騫が大月氏から十三年ぶりに帰着し、太中大夫となる
  • 元狩元年前122年張騫が西域諸国の情勢を奏し、武帝が西方経略に乗り気となる
  • 元鼎二年前115年張騫が烏孫へ赴き、副使を諸国に分派して西域が漢と通じる
  • 元鼎六年前111年使者の乱脈で諸国と衝突し、張掖・敦煌郡を置く
  • 元封三年前108年趙破奴が樓蘭王を捕らえ車師を破り、酒泉から玉門まで亭障が連なる
  • 元封六年前105年江都王の娘細君を公主として烏孫の昆莫に嫁がせる
  • 太初元年前104年大宛が良馬を拒んで漢使を殺し、李廣利を貳師将軍として派遣する
  • 太初二年前103年貳師の軍が食糧に窮して敦煌まで退き、玉門を閉ざされる
  • 太初三年前102年六万の兵で再征し、大宛が王を殺して降り良馬を差し出す
  • 太初四年前101年貳師が凱旋して海西侯に封ぜられ、輪臺・渠犂に屯田を置く
  • 漢昭帝
  • 元鳳四年前77年傅介子が樓蘭王安歸を刺殺し、尉屠耆を立てて国を鄯善と改める
  • 漢宣帝
  • 本始二年前72年解憂を烏孫の翁歸靡に嫁がせ、常惠に烏孫兵を監督させる
  • 本始三年前71年常惠が諸国の兵で龜茲を攻め、頼丹殺害の首謀者姑翼を斬る
  • 元康元年前65年莎車王となった萬年が呼屠徴に殺され、漢使奚充國も殺される
  • 神爵二年前60年翁歸靡が死んで泥靡が立ち、蕭望之の議で公主相夫を召し戻す
  • 甘露元年前53年狂王が烏就屠に殺され、馮夫人の説得で烏孫が大小二昆彌に分かれる
  • 甘露三年前51年元貴靡が病死し、老いた解憂公主が帰国して京師に迎えられる
  • 漢成帝
  • 建始四年前29年段會宗が烏孫に囲まれ、陳湯が救援不要と読んで的中する
  • 陽朔四年前21年小昆彌の跡目争いを収め、諸国の願いで段會宗を再び都護とする
  • 元延二年前11年段會宗が末振將の子番丘を自ら斬り、烏孫の内訌を鎮める

漢武帝元朔三年(前126年)

  • かつて匈奴の降人が語ったところでは、月氏はもと敦煌と祁連のあいだに住む強国だったが、匈奴の冒頓が攻め破り、老上単于が月氏王を殺してその頭蓋を酒器とした。残った衆は遠く逃れ、匈奴を怨みながら共に撃つ相手がいなかった。
  • 上は月氏へ使いできる者を募った。漢中の張騫が郎として応募し、隴西を出て匈奴の中を通ったところ、単于に捕らえられて十余年留められた。
  • 騫は隙を得て逃げ、月氏を目指して西へ数十日走り大宛に至った。大宛は漢が財に富むと聞いて通交したいと思っていたので、騫を見て喜び、案内と通訳をつけて康居まで送り、康居が大月氏へ送り届けた。
  • 大月氏では太子が王となっており、すでに大夏を撃ってその城を分けて住んでいた。地は肥沃で盗も少なく、胡に報復する気はまったくなかった。騫は一年余り留まったが、ついに月氏の要領を得られず帰路についた。
  • 南山沿いに羌の中を通って帰ろうとしたが、再び匈奴に捕らえられて一年余り留められた。折しも伊穉斜が於単を追って匈奴の国内が乱れ、騫は堂邑氏の奴である甘父とともに逃げ帰った。上は騫を太中大夫とし、甘父を奉使君とした。騫が出発したときは百余人だったが、十三年を経て帰れたのは二人だけだった。

漢武帝元狩元年(前122年)

  • かつて張騫は月氏から帰り、天子に西域諸国の風俗をつぶさに述べた。
  • 大宛は漢の真西、およそ一万里。その俗は定住して田を耕し、良馬が多く、馬は血の汗をかく。城郭と家屋があって中国のようである。その東北は烏孫、東は于寘。于寘の西では水はみな西へ流れて西海に注ぎ、その東では水は東へ流れて鹽澤に注ぐ。鹽澤は地下を潜って流れ、その南に黄河の源が出る。鹽澤は長安からおよそ五千里。
  • 匈奴の右方は鹽澤以東から隴西の長城までに居り、南は羌と接して漢の道を隔てている。烏孫・康居・奄蔡・大月氏はみな移動する国で家畜を追い、俗は匈奴と同じである。大夏は大宛の西南で、俗は大宛と同じ。
  • 私が大夏にいたとき、邛の竹杖と蜀の布を見た。どこで得たかと問うと、大夏の人は「我が商人が身毒へ買いに行く」と答えた。身毒は大夏の東南およそ数千里、その俗は定住して大夏と同じである。
  • 私の推測では、大夏は漢から一万二千里、漢の西南にある。今、身毒国はさらに大夏の東南数千里にあって蜀の産物がある。とすれば蜀から遠くない。今、大夏へ使いするのに羌の中を通れば険しく羌人が嫌がる。少し北を行けば匈奴に捕らえられる。蜀からなら近道でしかも盗もない。
  • 天子は、大宛・大夏・安息の類がみな大国で珍しい物が多く、定住してかなり中国と同じ生業を持ち、しかも兵は弱く漢の財物を貴ぶこと、その北の大月氏・康居の類は兵が強いが贈り物と利を設ければ朝させられることを聞き、これを義によって従属させれば地は一万里広がり、幾重にも通訳を重ねて異俗を招き、威徳が四海に行き渡ると考えて、喜んで騫の言をもっともとした。

漢武帝元鼎二年(前115年)

  • 渾邪王が漢に降り、漢兵が匈奴を幕北へ追い払ったので、鹽澤以東は匈奴が空になり、西域への道が通じられるようになった。
  • そこで張騫が建言した。「烏孫王の昆莫はもと匈奴の臣だったが、後に兵が次第に強くなり、匈奴に朝して仕えることを拒んだ。匈奴は攻めても勝てず遠ざけた。今、単于は漢に苦しめられたばかりで、旧渾邪の地は空いて人がいない。蛮夷の俗は故地を慕い、また漢の財物を貪ります。今こそ厚い幣物で烏孫を懐柔し、東へ移って旧渾邪の地に住み漢と兄弟の縁を結ぶよう招けば、勢いから言って聴くはずです。聴けば匈奴の右腕を断つことになる。烏孫と連なれば、その西の大夏の類もみな招いて外臣にできます」と。
  • 天子はもっともとして騫を中郎将とし、三百人を率いさせ、一人に馬二匹、牛羊は万を数え、数千巨万に値する金・幣・帛を携えさせ、多くの副使を持たせて、道が通じれば周辺の国へ派遣できるようにした。
  • 騫が烏孫に着くと、昆莫の礼節は甚だ傲慢だった。騫が趣旨を諭して「烏孫が東へ移って故地に住めば、漢は公主を遣って夫人とし兄弟の縁を結び、共に匈奴を拒む。匈奴など破るに足りない」と説いた。
  • しかし烏孫は自ら漢から遠くその大小を知らず、かねて匈奴に属して久しく、しかも近い。大臣はみな匈奴を畏れて移りたがらなかった。騫は長く留まったが要領を得られず、副使を分けて大宛・康居・大月氏・大夏・安息・身毒・于闐および周辺諸国へ派遣した。
  • 烏孫は通訳と案内を出して騫を送り返し、使者数十人・馬数十匹を騫に従わせて謝礼させ、あわせて漢の大小を窺わせた。
  • この年、騫が帰着して大行に任じられた。一年余り後、騫が派遣した大夏の類へ通じた使者たちがみな現地の人を伴って来た。ここに西域ははじめて漢と通じた。
  • 西域は全部で三十六国。南北に大山があり、中央に河があり、東西六千余里、南北千余里。東は漢の玉門關・陽關に接し、西は葱嶺で限られる。河には二つの源があり、一つは葱嶺、一つは于闐から出て合流して東へ鹽澤に注ぐ。鹽澤は玉門關・陽關から三百余里。
  • 玉門關・陽關から西域へ出る道は二つある。鄯善から南山沿いに河の北を西へ行き莎車に至るのが南道。南道は西へ葱嶺を越えて大月氏・安息に出る。車師の前王庭から北山沿いに河の西を行き疏勒に至るのが北道。北道は西へ葱嶺を越えて大宛・康居・奄蔡に出る。
  • これらの国はもともとみな匈奴に従属していた。匈奴の西辺の日逐王が僮僕都尉を置いて西域を統轄させ、常に焉耆・危須・尉犂のあいだにいて諸国に賦税を課し、それで富を得ていた。
  • 烏孫王が東へ帰ることを拒んだので、漢は渾邪王の旧地に酒泉郡を置き、次第に民を移して充実させた。後にさらに武威郡を分けて置き、匈奴と羌が通じる道を絶った。
  • 天子は大宛の汗血馬を得て愛し「天馬」と名づけ、これを求める使者が道に絶えなかった。外国への使節は一組が大きいもので数百人、小さいもので百余人。携える物はおおむね博望侯(張騫)のときに倣った。その後は慣れて次第に減った。漢はおおむね一年のうちに、多いときで十余組、少ないときで五、六組を派遣し、遠い所は八、九年、近い所は数年で帰った。

漢武帝元鼎六年(前111年)

  • 博望侯が西域と通じて尊貴となったので、その配下の吏士はこぞって上書して外国の珍奇や利害を述べ、使者になることを求めた。天子は絶遠の地で人が好んで行きたがる所ではないと考え、その言を容れて節を与え、素性を問わずに吏民を募り、人員を揃えて派遣し、道を広げようとした。
  • 帰還した者のなかには幣物を横領する者や使命を果たさない者がおり、天子は彼らが手慣れているので、そのたびに取り調べて重罪に当て、憤らせて贖罪のため再び使者になることを願わせた。使者の口実は尽きず、彼らは軽々しく法を犯した。その吏卒もまた外国にあるものを誇大に言い立て、大きなことを言う者に節を与え、小さなことを言う者を副使とした。そのため出まかせを言う素行の悪い連中がこぞって真似た。
  • 使者はみな貧しい家の子で、官の物資を私して安く売って利を得ようとした。外国もまた漢の使者に飽き、誰もが言うことに軽重があると考え、漢の兵は遠くて来られないと踏んで、食糧を止めて漢の使者を苦しめた。漢の使者は困窮して怨みを積み、ついに攻撃し合うに至った。
  • 樓蘭・車師は小国ながら要路に当たり、漢の使者王恢らを攻めることがとりわけひどく、匈奴の奇兵もまた時々遮って撃った。使者はこぞって「西域はみな城邑があり兵は弱く撃ちやすい」と言った。
  • そこで天子は浮沮将軍公孫賀に一万五千騎を率いさせて九原から二千余里、浮沮井まで進ませて帰らせ、匈河将軍趙破奴に一万余騎を率いさせて令居から数千里、匈河水まで進ませて帰らせ、匈奴を追い払って漢の使者を遮らせないようにしたが、いずれも匈奴を一人も見なかった。
  • そこで武威・酒泉の地を分けて張掖・敦煌郡を置き、民を移して充実させた。

漢武帝元封三年(前108年)

  • 冬十二月、上は将軍趙破奴を遣って車師を撃たせた。破奴は軽騎七百余を率いて先んじ、樓蘭王を捕らえ、ついで車師を破り、その兵威で烏孫・大宛の類を圧迫した。
  • 春正月甲申、破奴を浞野侯に封じた。王恢は破奴を助けて樓蘭を撃ったので浩侯に封じた。ここに酒泉から玉門まで亭と障が連なった。

漢武帝元封六年(前105年)

  • 烏孫の使者は漢の広大さを見て国へ帰って報告し、その国は漢をますます重んじるようになった。
  • 匈奴は烏孫が漢と通じたと聞いて怒り、撃とうとした。また近隣の大宛・月氏の類がみな漢に仕えたので、烏孫は恐れ、使者を送って漢の公主を娶って兄弟の縁を結びたいと願った。天子は群臣と議して許した。
  • 烏孫は馬千匹を漢の女への聘礼とし、漢は江都王建の娘の細君を公主として烏孫に嫁がせた。贈り物は甚だ盛大だった。烏孫王昆莫は右夫人とした。匈奴もまた娘を昆莫に嫁がせ、左夫人とした。
  • 公主は自ら宮室を建てて住み、年に一、二度だけ昆莫と会って酒宴を共にした。昆莫は年老いており言葉も通じず、公主は悲しみ憂えて帰りたがった。天子は聞いて憐れみ、一年おきに使者を送って帷帳や錦繡を届けさせた。
  • 昆莫は「私は老いた。孫の岑娶に公主を娶らせたい」と言った。公主は聴かず上書して状況を述べた。天子は「その国の俗に従え。烏孫とともに胡を滅ぼしたい」と返答した。岑娶はついに公主を妻とした。昆莫が死ぬと岑娶が代わって立ち、昆彌となった。
  • このころ漢の使者は西へ葱嶺を越えて安息に至った。安息は使者を送り、大きな鳥の卵と黎軒の目くらましの術に長けた者を漢に献じた。諸小国の驩潜・大益・車師・扞罙・蘇䪥の類もみな漢の使者に従って献上し謁見した。天子は大いに喜んだ。
  • 西国の使者は入れ替わり立ち替わり来た。天子は海上を巡狩するたびに外国の客をみな従え、大きな都で人が多ければそこを通り、財帛を撒いて賞賜し、豊かに供応して漢の富厚を見せつけた。
  • 大がかりな角觝や珍奇な演技、さまざまな怪しい見世物を催し、多くの観客を集めて賞賜し、酒池肉林を設けて外国の客に名だたる倉庫・府庫の蓄えをあまねく見せ、漢の広大さを示して驚倒させた。
  • 大宛の周辺には葡萄が多く酒にでき、苜蓿も多くて天馬が好んだ。漢の使者がその種子を採って来たので、天子は離宮や別館の周りに植え、見渡す限りに広がった。
  • ただし西域は匈奴に近いので常に匈奴を畏れ、匈奴の使者を漢の使者より厚遇した。

漢武帝太初元年(前104年)

  • 西域に入った漢の使者が、大宛には貳師城に良馬がおり、隠して漢の使者に渡そうとしないと報告した。天子は壮士の車令らに千金と金の馬を持たせて求めさせた。
  • 大宛王は群臣と謀った。「漢は我らから遠く、鹽水の中で何度も難儀している。北から出れば胡の寇があり、南から出れば水草に乏しい。しかも所々に集落が途切れ食糧が乏しい。漢の使者は数百人ずつ来ても常に食糧不足で死者が半数を超える。どうして大軍を送れよう。我らをどうすることもできまい。しかも貳師の馬は大宛の宝馬だ」と言い、漢の使者に渡すことを拒んだ。
  • 漢の使者は怒り、暴言を吐いて金の馬を打ち壊して去った。大宛の貴人は怒って「漢の使者はひどく我らを軽んじた」と言い、漢の使者を去らせておいて東辺の郁成王に遮らせ、漢の使者を攻め殺して財物を奪った。
  • 天子は激怒した。かつて大宛へ使いした姚定漢らは「大宛の兵は弱い。漢の兵が三千人もあれば、強弩で射れば全員捕らえられます」と言った。天子はかつて浞野侯に七百騎で樓蘭王を捕らえさせたことがあったので、定漢らの言をもっともとし、また寵姫の李氏を侯にしたいと考え、李夫人の兄の廣利を貳師将軍とし、属国の六千騎および郡国の無頼の若者数万人を発して大宛を伐たせた。貳師城に至って良馬を取ることを期したので、貳師将軍と号した。趙始成を軍正、旧浩侯の王恢を案内役とし、李哆を校尉として軍事を統括させた。

漢武帝太初二年(前103年)

  • 貳師将軍が西へ進み、鹽水を越えた。道に当たる小国はそれぞれ籠城して食糧を供給しなかった。攻めても落ちず、落ちれば食糧を得たが、落ちなければ数日で去った。郁成に着くころには到達した士は数千人に過ぎず、みな飢えて疲れていた。郁成を攻めると郁成が大破し、死傷者は甚だ多かった。
  • 貳師将軍は李哆・趙始成らと計り、「郁成にすら至って落とせないのに、まして王都に至ってどうしよう」と言い、兵を引いて還った。敦煌に着いたとき、士は十分の一、二に過ぎなかった。
  • 使者を送って上書し、「道は遠く食糧が乏しい。士卒は戦いを患えるのではなく飢えを患えている。人が少なくて大宛を抜くに足りない。ひとまず兵を罷めて増発してから改めて行きたい」と述べた。天子は聞いて激怒し、使者を遣って玉門を塞ぎ、「軍で敢えて入る者はただちに斬る」と言わせた。貳師は恐れて敦煌に留まった。

漢武帝太初三年(前102年)

  • 公卿の議者はみな大宛への軍を罷めて胡討伐に力を集中したいと願った。しかし天子はすでに大宛誅伐に兵を出しており、大宛のような小国を落とせなければ大夏の類が次第に漢を軽んじ、大宛の良馬も来なくなり、烏孫や輪臺も漢の使者を苦しめて外国の笑い者になると考えた。
  • そこで大宛征伐を特に不便と言った鄧光らを取り調べ、囚人を赦し無頼の若者と辺境の騎兵を発し、一年余りかけて敦煌から出た者は六万人、自弁で従った者はこれに含まれない。牛十万、馬三万匹、驢馬・駱駝は万を数え、糧食と兵器・弩を十分に備えた。天下は騒然となって次々に供給し、大宛征伐に当たる校尉は五十余人に及んだ。
  • 大宛の城中には井戸がなく城外の流水を汲んでいたので、水工を遣ってその城下の水を移し、水路を空にして城を穴だらけにさせた。さらに守備の甲卒十八万を増発し、酒泉・張掖の北に居延・休屠を置いて屯兵させ酒泉を守らせた。天下の吏で罪ある者、亡命者、贅婿、商人、もと商籍のあった者、父母や祖父母に商籍のあった者、合わせて七種の適(謫)を兵として、また乾飯を運んで貳師に供給させた。輸送の車と人夫は連なり続いた。馬の扱いに習熟した者二人を執驅馬校尉に任じ、大宛を破ったとき良馬を選び取らせる備えとした。
  • こうして貳師は再び進軍した。兵が多かったので、到達した小国はみな迎え出て食糧を供給した。輪臺に至って輪臺が降らなかったので数日攻めて屠った。ここから西は平穏に進んで大宛城に至った。到着した兵は三万。大宛の兵が迎え撃ったが、漢兵は射て破った。大宛の兵は城に逃げ込んで守った。
  • 貳師は郁成城を攻めようとしたが、進軍が遅れて大宛にさらに詐術を弄させることを恐れ、先に大宛に至ってその水源を絶って流れを移した。大宛はこれで既に困窮した。城を囲んで四十余日攻めた。
  • 大宛の貴人は謀った。「王の母寡が良馬を隠して漢の使者を殺した。今、王を殺して良馬を出せば漢兵は囲みを解くだろう。解かなければ力戦して死んでも遅くない」と。大宛の貴人はみな賛成し、共に王を殺した。
  • 外城が壊れ、大宛の貴人で勇将の煎靡が捕らえられた。大宛は大いに恐れて城中に逃げ込み、王の母寡の首を持たせて人を貳師に遣って約した。「漢が我らを攻めなければ、良馬をすべて出して思うままに取らせ、漢軍に食糧を供給する。聴かなければ良馬をすべて殺す。康居の救援もまもなく来る。来れば我らが内にあり康居が外にあって漢軍と戦う。よく考えられよ」と。
  • このとき康居は漢兵がなお盛んなのを窺って進めなかった。貳師は、大宛城中が最近漢人を得て井戸の掘り方を知り、しかも食糧がまだ多いこと、首悪の母寡を誅しに来たのであり、その首がすでに届いた以上、これを許さなければ堅守され、康居が漢兵の疲れを窺って救援に来れば漢軍は必ず破れることを考え、大宛の約を許した。
  • 大宛は馬を出して漢に選ばせ、多くの食糧を出して漢軍を養った。漢軍は良馬数十匹、中等以下の牝牡三千余匹を取り、大宛の貴人でかつて漢に好意的だった昧蔡という者を大宛王に立てて盟い、兵を罷めた。
  • はじめ貳師が敦煌から西へ進むとき、軍を数隊に分けて南北の道を取らせた。校尉の王申生が千余人を率いて別に郁成に至ったが、郁成王が撃ち滅ぼし、数人が逃れて貳師のもとへ走った。貳師は搜粟都尉の上官桀を遣って攻めさせ、郁成を破った。郁成王は康居へ逃げた。桀が康居まで追うと、康居は漢がすでに大宛を破ったと聞いて郁成王を桀に引き渡した。桀は騎士四人に縛って護送させ貳師のもとへ送らせたが、上邽の騎士趙弟は郁成王を取り逃がすことを恐れ、剣を抜いて斬り、その首を持って貳師に追いついた。

漢武帝太初四年(前101年)

  • 春、貳師将軍が京師に帰着した。貳師が通過した小国は大宛の敗北を聞いて、みな子弟を従わせて入貢し天子に謁見させ、そのまま人質とした。
  • 軍が帰り、馬千余匹を納めた。後の遠征では食糧に窮せず戦死もさほど多くなかったが、将吏が貪欲で卒を大切にせず搾取したため、死んだ者が多かった。天子は万里の遠征であることを考えてその過ちを問わず、詔して李廣利を海西侯に封じ、趙弟を新畤侯に封じ、上官桀を少府とした。軍の官吏で九卿となった者三人、諸侯の相・郡守など二千石が百余人、千石以下が千余人。志願して従軍した者は望み以上の官を得、謫として従軍した者はその労を帳消しにした。士卒には四万銭相当を賜った。
  • 匈奴は貳師の大宛遠征を聞いて遮ろうとしたが、貳師の兵が盛んで当たれず、騎兵を送って樓蘭で漢の使者の後続を待ち伏せし、通行を絶とうとした。当時、漢の軍正の任文が兵を率いて玉門關にあり、捕虜を得て事情を知り上に報告した。上は文に詔して近道から兵を率いて樓蘭王を捕らえ闕下へ連行させた。
  • 責めを問うと、王は「小国が大国のあいだにあって双方に属さなければ自ら安んじられません。国を移して漢の地に住みたい」と答えた。上はその言を正直と認めて国へ帰し、あわせて匈奴の様子を窺わせた。匈奴はこれ以来、樓蘭をあまり信じなくなった。
  • 大宛が破れて以来、西域は震え恐れ、西域に入る漢の使者はますます務めを果たしやすくなった。敦煌の西から鹽澤まで所々に亭を設け、輪臺・渠犂にはいずれも数百人の屯田兵を置き、使者校尉を置いて統轄させ、外国へ行く者に供給させた。
  • 一年余り後、大宛の貴人は「昧蔡は諂いが上手く、我が国が屠られる目に遭った」と考え、共に昧蔡を殺して母寡の兄弟の蟬封を大宛王に立て、その子を漢に人質として送った。漢は使者を遣って賜り物をして鎮撫した。蟬封は漢と、毎年天馬二匹を献じることを約した。

漢昭帝元鳳四年(前77年)

  • かつて扞罙は太子の頼丹を龜茲に人質として送っていた。貳師が大宛を撃って帰るとき、頼丹を連れて京師に入った。霍光は桑弘羊の以前の議に基づいて頼丹を校尉とし、軍を率いて輪臺で屯田させた。
  • 龜茲の貴人姑翼はその王に「頼丹はもともと我が国に臣属していた。今、漢の印綬を佩びて来て我が国に迫り屯田する。必ず害となる」と言った。王はただちに頼丹を殺し、上書して漢に詫びた。
  • 樓蘭王が死んだ。匈奴が先にこれを聞き、人質の子の安歸を送り返し、安歸は帰って王となった。漢は使者を遣って新王に入朝を詔したが、王は辞退して来なかった。
  • 樓蘭国は最も東の辺にあって漢に近く、白龍堆に当たり、水草に乏しい。常に案内を出し水を担ぎ糧を運んで漢の使者を送迎した。また度々吏卒に略奪され、懲りて漢と通じることを嫌がっていた。その後さらに匈奴の反間となり、度々漢の使者を遮って殺した。その弟の尉屠耆が漢に降り、事情をつぶさに述べた。
  • 駿馬監で北地の傅介子が大宛へ使いすることになり、詔してついでに樓蘭・龜茲を責めさせた。介子は樓蘭・龜茲に至ってその王を責め、いずれも謝って服した。介子は大宛から帰り、龜茲に着いたとき、折しも烏孫から帰る匈奴の使者が龜茲にいた。介子はその配下を率いて匈奴の使者を誅斬した。帰って復命すると、詔して介子を中郎とし、平樂監に遷した。
  • 介子は大将軍霍光に言った。「樓蘭・龜茲は度々反覆しているのに誅さなければ、懲らしめになりません。私が龜茲を通ったとき、その王は人に近づきやすく、狙いやすかった。行って刺殺し、諸国に威を示したい」と。大将軍は「龜茲は道が遠い。まず樓蘭で試してみよ」と言い、上申して派遣した。
  • 介子は士卒とともに金・幣を携え、外国に賜るためだと吹聴して樓蘭に着いた。樓蘭王は介子に親しもうとしなかった。介子は去るふりをしてその西の境に至り、通訳に「漢の使者が黄金と錦繡を持って諸国に賜っている。王が来て受け取らないなら、私は西の国へ行く」と言わせ、金・幣を出して通訳に見せた。
  • 通訳が帰って王に報告すると、王は漢の物を貪って使者に会いに来た。介子は共に座って飲み、物を並べて見せた。飲んでみな酔うと、介子は王に「天子が私に王へ内密に伝えることを命じられた」と言った。王が立って介子に従って帳の中に入り、人払いして話すと、壮士二人が背後から刺した。刃は胸で交わり、王はその場で死んだ。
  • 王の貴人や側近はみな散り逃げた。介子は「王が漢に背いたので天子が私を遣って王を誅させた。漢にいる王の弟の尉屠耆を改めて立てるべきだ。漢兵がまもなく来る。動くな。国を滅ぼすことになるぞ」と告げ諭した。
  • 介子は王安歸の首を斬り、伝馬で闕下へ馳せ、首を北闕の下に懸けた。そして尉屠耆を王に立て、その国名を鄯善と改め、印章を刻んで賜り、宮女を夫人として賜り、車騎と輜重を備えた。丞相が百官を率いて横門の外まで送り、道祖神を祀って送り出した。
  • 王は自ら天子に願い出た。「私は長く漢にいました。今帰っても単身で弱く、しかも前王の子がいます。殺されることを恐れます。国中に伊循城があり、その地は肥沃です。漢が将を一人遣って屯田して穀物を蓄え、私がその威に頼れるようにしていただきたい」と。そこで漢は司馬一人と吏士四十人を遣って伊循で屯田させ、鎮撫した。
  • 秋七月乙巳、范明友を平陵侯、傅介子を義陽侯に封じた。

史論(臣光曰・傅介子の樓蘭王刺殺)

  • 王者の戎狄に対する態度は、叛けば討ち、服せば赦すことである。今、樓蘭王はすでに罪に服したのに、そのうえで誅した。後に叛く者があっても懐柔できなくなる。
  • どうしても罪ありとして討つなら、軍を陳ね兵を戒めて明らかにその罰を加えるべきである。それを、使者を遣って金と幣で誘い殺した。後に諸国へ使いする者を、なお信じてもらえようか。
  • しかも大漢の強さをもって蛮夷に盗賊の謀を仕掛けるとは、恥ずべきことではないか。論者のなかには介子を讃えて奇功とする者がいるが、行き過ぎである。

漢宣帝本始二年(前72年)

  • かつて烏孫の公主(細君)が死に、漢は改めて楚王戊の孫の解憂を公主として岑娶に嫁がせた。岑娶の胡婦の子の泥靡はまだ幼かった。岑娶は死に際して国を叔父の大祿の子の翁歸靡に与え、「泥靡が大きくなったら国を返せ」と言った。
  • 翁歸靡は立って肥王と号し、改めて楚主(解憂)を娶り、三男二女を生んだ。長男を元貴靡、次を萬年、次を大樂という。
  • 上は光祿大夫の常惠に節を持たせて烏孫の兵を監督させ、共に匈奴を撃たせた。

漢宣帝本始三年(前71年)

  • 上は再び常惠に金・幣を持たせ、烏孫の貴人で功のあった者に賜らせた。惠はついでに「龜茲国はかつて校尉の頼丹を殺しながら誅に伏していません。ついでに撃たせてください」と奏請した。帝は許さなかったが、大将軍霍光が惠にそれとなく臨機に行えと示唆した。
  • 惠は吏士五百人とともに烏孫へ赴き、帰路に西域諸国の兵二万人を発し、副使に龜茲の東の国の兵二万人を発させ、烏孫の兵七千人とともに三面から龜茲を攻めた。
  • 兵が合流する前に人を遣って王に、以前に漢の使者を殺したことを責めた。王は「あれは我が先王の時、貴人の姑翼に誤られたのです。私に罪はありません」と詫びた。惠は「そうであれば姑翼を縛って来い。王は許す」と言った。王は姑翼を捕らえて惠のもとへ送り、惠は斬って引き上げた。

漢宣帝元康元年(前65年)

  • かつて烏孫の公主の末子の萬年が莎車王に寵愛されていた。莎車王が死んで子がなく、当時萬年は漢にいた。莎車の国人は漢に身を託そうと考え、また烏孫の心も得たいと思い、上書して萬年を莎車王とすることを請うた。漢は許し、使者の奚充國に萬年を送らせた。
  • 萬年は立ったばかりで暴虐で、国人は不満だった。上は群臣に西域へ使いできる者を挙げさせ、前将軍の韓増が上黨の馮奉世を挙げた。奉世は衛侯として節を持ち、大宛など諸国の客を送って伊循城に至った。折しも旧莎車王の弟の呼屠徴が近隣の国と共にその王萬年および漢の使者奚充國を殺し、自ら王となった。

漢宣帝神爵二年(前60年)

  • 烏孫の昆彌翁歸靡が長羅侯常惠を通じて上書し、漢の外孫である元貴靡を嗣とし、改めて漢の公主を娶って婚姻を結んで親を重ね、匈奴と絶縁したいと願った。
  • 詔して公卿に議させると、大鴻臚の蕭望之は「烏孫は絶域にあり、変事は予測しがたい。許すべきではありません」と述べた。上は烏孫が大功を立てたばかりであるのを美とし、また旧来の関係を絶つことを重く見て、烏孫主解憂の弟の相夫を公主とし、盛大な支度をつけて送り出した。常惠に送らせ、敦煌に至った。
  • まだ塞を出ないうちに翁歸靡が死んだと聞いた。烏孫の貴人は元の約に従って岑娶の子の泥靡を昆彌に立て、狂王と号した。常惠は上書して少主を敦煌に留めることを願い、自ら烏孫へ馳せて元貴靡を昆彌に立てなかったことを責め、帰って少主を迎えたいと述べた。
  • 事を公卿に下すと、望之は改めて「烏孫は両天秤にかけており約を結びがたい。今、少主が元貴靡が立たなかったので帰るのは、夷狄に対して信を裏切ることがなく、中国の福です。少主を止めなければ徭役が興ります」と述べた。天子は従い、少主を召し戻した。

漢宣帝甘露元年(前53年)

  • 夏四月、烏孫の狂王が改めて楚主解憂を娶って一男の鴟靡を生んだが、主と睦まじくなく、また暴虐で人望を失った。
  • 漢の使者の衛司馬魏和意と副の候任昌が烏孫に至ったとき、公主は「狂王は烏孫の患いとなっており、殺しやすい」と言った。そこで酒宴を設け、士に剣を抜いて撃たせる謀を立てた。剣が逸れ、狂王は傷ついたまま馬に乗って走り去った。その子の細沈瘦が兵を集めて和意・昌と公主を赤谷城に囲むこと数か月、都護の鄭吉が諸国の兵を発して救い、ようやく囲みを解かせた。
  • 漢は中郎将の張遵を遣って医薬で狂王を治療させ、金帛を賜った。あわせて和意と昌を捕らえて鎖につなぎ、尉犂から檻車で長安に送って斬った。
  • はじめ肥王翁歸靡の胡婦の子である烏就屠は、狂王が傷ついたときに驚いて諸翕侯とともに去り、北山の中に住んだ。母方が匈奴の兵を呼ぶと吹聴したので、衆が帰した。後についに狂王を襲って殺し、自立して昆彌となった。
  • この年、漢は破羌将軍の辛武賢に兵一万五千を率いさせて敦煌に至らせ、水路を通し穀物を蓄えて討伐しようとした。
  • はじめ楚主の侍者である馮嫽は文書に通じ実務に習熟しており、かつて漢の節を持って公主の使者となったので、城郭諸国が敬い信じ、馮夫人と号した。烏孫の右大将の妻となり、右大将は烏就屠と親しかった。
  • 都護の鄭吉は馮夫人に烏就屠を説かせ、「漢兵がまもなく出る。必ず滅ぼされる。降るに如くはない」と言わせた。烏就屠は恐れて「小さな称号をいただいて身を処したい」と言った。
  • 帝は馮夫人を召して自ら事情を聞き、謁者の竺次と期門の甘延壽を副として馮夫人を送らせた。馮夫人は錦の車で節を持ち、烏就屠に長羅侯のいる赤谷城へ出頭するよう詔した。元貴靡を大昆彌、烏就屠を小昆彌とし、いずれにも印綬を賜った。破羌将軍は塞を出ずに帰った。
  • 後に烏就屠が諸翕侯の民衆をすべて返さなかったので、漢は再び長羅侯惠に三校を率いさせて赤谷に駐屯させ、その人民と地界を分けさせた。大昆彌は六万余戸、小昆彌は四万余戸だったが、衆心はみな小昆彌に付いた。

漢宣帝甘露三年(前51年)

  • 五月、烏孫の大昆彌元貴靡と鴟靡がいずれも病死した。公主は上書して、年老いて故郷を思い、骸骨を返して漢の地に葬られたいと願った。天子は憐れんで迎え、冬に京師に着いた。待遇は公主の制そのままとした。二年後に没した。
  • 元貴靡の子の星靡が代わって大昆彌となったが弱かった。馮夫人が上書して烏孫へ使いして星靡を鎮撫したいと願い、漢は派遣した。
  • 都護の韓宣は、烏孫の大吏・大祿・大監にみな金印紫綬を賜って大昆彌を尊び輔けさせるべきだと奏し、漢は許した。
  • その後、段會宗が都護となって逃亡・叛乱した者を招き戻して安定させた。星靡が死に、子の雌栗靡が代わって立った。

漢成帝建始四年(前29年)

  • 西域都護の段會宗が烏孫の兵に囲まれ、駅騎で上書して城郭諸国と敦煌の兵を発して自救したいと願った。丞相の商、大将軍の鳳および百官が数日議しても決しなかった。
  • 鳳が「陳湯は計略に富み外国の事に習熟している。問うべきです」と言った。上は湯を召して宣室で会った。湯は郅支を撃ったとき寒気に当たって病み、両腕が曲げ伸ばしできなかった。湯が入って謁見すると、詔して拝礼を免じ、會宗の奏を見せた。
  • 湯は「私は、これは必ず憂えるに足りないと思います」と答えた。上が理由を問うと、湯は答えた。「胡の兵は五で漢兵一に当たります。なぜか。刃は鈍く弓弩は良くないからです。今、かなり漢の技術を得たと聞きますが、それでも三で一に当たる程度。また兵法に『客(攻め手)が倍、主人が半分でようやく対等』と言います。今、會宗を囲む者の数は、會宗に勝つに足りません。陛下、ご心配なく。しかも兵は軽装で一日五十里、重装で三十里進みます。今、會宗が城郭諸国と敦煌の兵を発しようとしても、時を経てようやく着く。いわゆる仇討ちの兵であって、急を救う用には立ちません」と。
  • 上が「では、どうなるか。囲みは必ず解けるか。いつ解けると見るか」と問うた。湯は烏孫が寄せ集めで長く攻められないことを知っており、これまでの例から数日を超えないと考え、「もう解けています」と答えた。指を屈して日を数え、「五日を出ずに吉報があるはずです」と言った。四日後、軍書が届き、すでに囲みが解けたと伝えた。

漢成帝陽朔四年(前21年)

  • 閏九月、烏孫の小昆彌烏就屠が死に、子の拊離が代わって立ったが、弟の日貳に殺された。漢は使者を遣って拊離の子の安日を小昆彌に立てた。日貳は逃げて康居に拠った。安日は貴人の姑莫匿ら三人に逃亡を装って日貳に従わせ、刺殺させた。
  • そこで西域諸国は上書して、先の都護であった段會宗を再び得たいと願い、上は従った。城郭諸国はこれを聞いてみな一斉に親しみ従った。

漢成帝元延二年(前11年)

  • かつて烏孫の小昆彌安日が降伏民に殺され、諸翕侯が大いに乱れた。詔して旧金城太守の段會宗を左曹中郎将・光祿大夫として烏孫の鎮撫に遣わし、安日の弟の末振將を小昆彌に立ててその国を定めて帰らせた。
  • 当時、大昆彌の雌栗靡は勇健だった。末振將は併呑されることを恐れ、貴人の烏日領に降伏を装わせて雌栗靡を刺殺させた。漢は兵で討とうとしたができず、中郎将の段會宗を遣って公主の孫の伊秩靡を大昆彌に立てた。
  • 久しくして大昆彌の翕侯である難栖が末振將を殺し、安日の子の安犂靡が代わって小昆彌となった。漢は自ら末振將を誅せなかったことを悔い、再び段會宗を遣って戊己校尉と諸国の兵を発し、末振將の太子の番丘を誅させた。
  • 會宗は大軍が烏孫に入れば驚いて番丘が逃げて捕まらないことを恐れ、発した兵を墊婁の地に留め、精兵三十の弩手を選んで真っ直ぐ昆彌のいる所へ行き、番丘を召して末振將の罪を責め、自ら剣で番丘を撃ち殺した。官属以下は驚き恐れて馳せ帰った。
  • 小昆彌の安犂靡が数千騎を率いて會宗を囲んだ。會宗は来た趣旨を述べ、「今、囲んで私を殺しても、漢の牛から毛を一本取るようなものだ。大宛王や郅支の首が槀街に懸けられたのは烏孫の知るところだ」と言った。昆彌以下は服して「末振將が漢に背いた以上、その子を誅されるのはもっともです。ただ、我らに告げて饗応させてくださらなかったのはなぜですか」と言った。
  • 會宗は「あらかじめ昆彌に告げれば、逃げ隠れさせるのは大罪となる。饗応して私に引き渡させれば骨肉の恩を傷つける。だから先に告げなかったのだ」と答えた。昆彌以下は号泣して引き上げた。
  • 會宗は帰って復命し、天子は會宗に關内侯の爵と黄金百斤を賜った。會宗は難栖が末振將を殺したことを奏して堅守都尉とし、大祿・大監には雌栗靡が殺された件を責めて金印紫綬を奪い、銅印墨綬に改めさせた。
  • 末振將の弟の卑爰疐はもともと共に大昆彌殺害を謀った者で、衆八万余口を率いて北の康居に付き、兵を借りて両昆彌を併合しようと謀った。漢は再び會宗を遣り、都護の孫建と力を合わせて備えさせた。烏孫が二昆彌に分立して以来、漢は憂え労してほとんど安らかな年がなかった。
  • 当時、康居も子を漢に侍らせて貢献した。都護の郭舜が上言した。
  • もともと匈奴が盛んだったのは、烏孫と康居を併有していたからではありません。匈奴が臣妾を称したのも、この二国を失ったからではありません。漢は三国から人質を受けていますが、三国は内々に贈り物を交わし、従来通り往来している。互いに様子を窺い、都合がよければ動く。合しても親しみ信じ合えず、離れても互いを臣として使役できません。
  • 今から言えば、烏孫と縁組みしてもついに益はなく、かえって中国に事を生じさせた。しかし烏孫との縁は先に結ばれており、今は匈奴とともに臣を称している以上、義として拒めません。
  • ところが康居は驕り狡猾で、ついに使者を拝そうとしない。都護の吏がその国に至ると烏孫の諸使より下座に座らせ、王と貴人が先に飲食してから都護の吏に飲み食いさせる。わざと軽んじて周辺の国に誇示するのです。これから推せば、なぜ子を人質に送るのか。商売をしたいだけで、その言葉は偽りです。
  • 匈奴は百蛮の大国で、今は漢に甚だ丁重に仕えています。康居が拝礼しないと聞けば、単于に後悔と自らを卑しめた思いを抱かせかねません。その人質の子を返して国交を絶ち、二度と使者を送らず、漢家が無礼な国とは通じないことを明らかにすべきです。
  • 漢は通じたばかりであり、遠人を招くことを重んじたので、結局は羈縻して絶たなかった。