通鑑紀事本末叙(楊萬里)

淳熙元年(1174)、廬陵の楊萬里が厳陵で袁樞から『通鑑紀事本末』を示されて書いた序。かつて太学で袁樞と志を同じくした間柄を回想し、事の萌芽から結末までを一つに繋いだこの書を、編年体の『資治通鑑』では発端と結末を追えなかった不満に応えるものと評する。諸侯・大盗・女主・外戚・宦官・権臣・夷狄・藩鎮と国家の病は一様でないが源は一つに帰しうるとし、病の源を知れば処方も得られる書だと説く。最後に、他人の病には明るく自分の病には暗いのが人の常だと戒めて結ぶ。

年表(1件)

淳熙元年三月戊子(1174年)・廬陵楊萬里の序

  • 楊萬里は、かつて袁樞(子袁子)と共に太学の官に在り、袁樞は録、自らは博士として、志も行いも言葉も同じくする間柄であったと回想する。
  • その後、袁樞は厳陵で教職に就き、楊萬里は臨漳の守に出た。厳陵で再会した折、袁樞が一編の書を出した。それが『通鑑紀事本末』であった。
  • 読んでみると、事件の成立をその萌芽より後に置き、事の兆しをその明白化より先に提示する構成で、隠れた事情を明るみに出し、複雑な経緯を簡約にまとめ、遠い事柄を身近に引き寄せている。治乱存亡についていえば、病の根源を突き止め、その処方を示す書だと評する。
  • 楊萬里自身は『資治通鑑』を読むたび、事の発端がそこにあってもその結末がそこで完結しないことを惜しんできた。編年体では事が年によって分断され、年が事によって割かれるため、発端をつかんでも結末をたどれず、結末を見ても発端が分からない。山のように高く海のように茫漠として見えるのは、日を年に繋いで記す編年という体裁ゆえだと述べる。
  • これに対し袁樞の書を読むと、その時代に生きてその事件を目のあたりにするようで、喜ばせ、悲しませ、鼓舞し、ついには嘆息と落涙を誘うという。
  • 周・秦以来、国家の病は諸侯・大盗・女主・外戚・宦官・権臣・夷狄・藩鎮と一様ではないが、その源はひとつに帰しうる。安史の乱は李林甫がもたらし、藩鎮の乱は田令孜がもたらした、というように、病の源を得れば治療の処方も得られる。この書がまさにそれであり、国を治める者にも学ぶ者にもなくてはならないと説く。
  • ただし、他人の病を見、憂え、治し、その本質を得ながら、自分自身の病となると気づかず、隠し、医者を遠ざけ、あるいは誤った治療をする者は、古来まれではなかった。他人のことには明るく自分のことには暗いのが常であり、人に対しては切実でありながら自分については緩むのは哀しむべきことだ、と結ぶ。