東周列國志第九十三回 趙主父が沙丘宮で餓死し、孟嘗君が偽り函谷関を過ぎる (趙主父餓死沙邱宮 孟嘗君偷過函谷關)
趙武靈王の胡服騎射と主父退位
- 趙武靈王は威風堂々たる容貌で、韓女との間に太子章をもうけたが、夢に見た美女に似た吳娃を寵愛し、韓后没後は吳娃を后に立て、太子章を廃してその子何を太子とした。
- 秦・胡・燕に囲まれる地勢を憂えた武靈王は、胡服(革帯・皮靴・筒袖)を導入し騎射を国中に広めて軍を強化し、常山・雲中・雁門まで領土を拡大した。秦への侵攻を志し、太子何(惠王)に位を譲って自らは「主父」と称し、肥義を相国、李兌を太傅、公子成を司馬とした。長子章は安陽君に封じられた。(周赧王十七年の出来事)
- 主父は自ら趙の使者「趙招」に扮して秦に潜入し、秦の地形を偵察した上で昭襄王と対面。応対の巧みさと堂々たる風貌を怪しんだ昭襄王が後日追及すると、既に主父は関を脱していたことが判明し、秦王を驚愕させた。
楚懷王の客死と屈原の投江
- 秦から脱出を図った楚懐王は趙への亡命を拒まれ、秦軍に連れ戻されて憤死した。楚の民は懐王の死を悼み、諸侯は秦を非難して再び合従の機運が高まった。
- 楚では子蘭・靳尚が実権を握ったままで、屈原は讒言により官職を追われ放浪。姉の勧めにも耳を貸さず、五月五日、汨羅江に身を投じて死んだ。里人が粽(角黍)を投げ入れ、龍舟で捜索した故事が端午の節句・龍舟競渡の由来となったと伝える。後世、屈原は「忠烈王」に追封された。
沙邱の変と主父の餓死
- 主父は惠王と安陽君章の朝賀の様子を見て、兄が弟の下位に立つのを不憫に思い、趙を二分して章を代王に立てることを考えるが、公子勝(平原君)の諫めと、晋の故事(弟成師が兄の子孫を滅ぼした例)を引く吳娃の説得で思いとどまった。
- これを知った安陽君章と田不禮は、主父と惠王が沙邱に遊んだ際に反乱を企てる。偽の主父の命で惠王を呼び出させたが、相国肥義が身代わりとなって先に赴き、伏兵に殺された。田不禮は惠王の宮を急襲するが、公子成・李兌の援軍により撃退された。
- 敗れた安陽君は主父の宮へ逃げ込み匿われた。公子成・李兌は主父の宮を包囲し、隠れていた安陽君を捜し出して斬殺。さらに主父に累が及ぶことを恐れた二人は包囲を解かず、惠王の命と偽って「先に出る者は無罪、後に残る者は賊党として族滅する」と布告し、宮中の者を全て脱出させた上で主父だけを置き去りにした。主父は食を絶たれ、雀の卵を漁って飢えをしのいだが、三月余りで餓死した。
平原君の食客と斬美人の逸話
- 惠王は公子成を相国、李兌を司寇としたが、公子成の死後は主父の分封策を諫めた公子勝(平原君)を相国とした。
- 平原君も孟嘗君同様に食客を厚遇したが、寵姫が足の不自由な隣人を嘲笑ったことで食客が次々と離反。平原君は寵姫を斬ってその家に謝罪し、再び食客を集めることができた。当時「齊の孟嘗、趙の平原、佳公子・賢主人」と並び称された。
孟嘗君、秦を脱する
- 秦昭襄王は平原君の逸話に感心するが、側近向壽は「孟嘗君はさらに賢く、食客の離反を招く前から厚遇していた」と評し、秦王は孟嘗君に会いたいと望み、涇陽君を人質に齊へ送って孟嘗君を招いた。燕の使者蘇代は「土偶と木偶の譬え」で秦の危険を説き、孟嘗君は当初渡秦を渋るが、齊の匡章の進言で涇陽君を先に帰し、孟嘗君が正式に秦へ聘問することになった。
- 秦で厚遇された孟嘗君は貴重な白狐裘を秦王に献上したが、樗里疾が「孟嘗君を用いれば齊のために謀られる」と讒言し、秦王は孟嘗君を幽閉して殺そうとした。孟嘗君は世話になった涇陽君の仲介で秦王の寵姫燕姫に助命を頼むが、燕姫は「同じ白狐裘が欲しい」と要求。すでに秦王に献上済みで代わりがない中、食客の一人が狗盗の技で秦の宝物庫から裘を盗み出し、燕姫に献上して秦王への口添えを得た。
- 釈放された孟嘗君は秦王の翻意を恐れて偽名で急ぎ関へ向かうが、函谷関は夜明けまで開かない規則。もう一人の食客が鶏の鳴きまねをして周囲の鶏を誘い、関吏が夜明けと誤認して開門したため、無事に脱出できた。秦王は追っ手を出すも間に合わず、孟嘗君の智謀を嘆賞した。
評語
- 髯翁の詩は「胡服で辺境を鎮め秦を併呑せんとする雄心を抱いた主父も、吳娃への寵愛が禍のもとになった。夢の中の琴の音が人を誤らせた」という趣旨で、主父の末路を評する。
- 屈原廟についての髯翁の詩は「江辺に廟が立ち、香火は忠烈王に集まる。佞臣の骨はどこで朽ちたか知れぬが、龍舟は今も年ごとに屈原を弔う」という趣旨で、忠臣と佞臣の対比を詠う。
- 孟嘗君の狗盗・鶏鳴の逸話について髯翁は「明珠で雀を撃つより泥丸の方が役に立ち、白璧より一椀の飯が飢えを癒す。狗盗と鶏鳴の下賤な技も土壇場では聖賢の徳に勝る。人を用いるには器量に応じて用いよ」という趣旨で、孟嘗君の人材登用の妙を評する。