東周列國志第九十二回 秦武王が鼎を挙げ脛を絶ち、楚懐王が会に赴き秦に陥れられる (賽舉鼎秦武王絕踁 莽赴會楚懷王陷秦)

張儀の脱出

  • 楚懐王は張儀の身柄と引き換えに黔中の地を献上すると申し出た。秦惠文王は張儀を惜しんで躊躇するが、張儀は自ら赴くと申し出て「楚王の寵姫鄭袖と側近靳尚を頼れば死は免れる」と自信を示す。かつて鄭袖が政敵の美人を陥れた故事(大王の前で鼻を覆わせ、体臭を厭うためと偽って鼻を削がせた)を引き、鄭袖との縁を頼りに秦軍を漢中に留めて牽制させた上で楚へ赴いた。
  • 楚に着いた張儀は投獄されるが、靳尚が「秦が美女を差し出して張儀の罪を贖おうとしている、そうなれば鄭袖の寵は失われる」と鄭袖を焚きつけ、鄭袖は懐王に張儀の助命を涙ながらに訴えた。懐王は黔中の地を失いたくない思いもあって張儀を釈放し、厚遇して秦への服属を説かせた。屈平は齊から帰国後にこれを諫めるが、張儀はすでに秦へ逃げ帰った後だった。

連衡策と秦惠文王の死

  • 張儀は秦へ戻り、漢中の一部を楚へ割譲して婚姻を結び、諸国を「連衡」策で秦服属へ誘った。齊・趙・燕を歴訪し、それぞれ秦の強大さと合従の脆さを説いて服属を約させた。
  • しかし帰国前に秦惠文王が病没し、太子蕩(武王)が即位。齊湣王は張儀の連衡策を欺瞞と見抜いて激怒し、孟嘗君を通じて再び合従を呼びかけた。秦武王は張儀を疎んじる声を受けて疑心を強め、張儀は自ら魏へ逃れることを提案し、秦・齊を魏をめぐって争わせる策を武王に説いて認められた。魏で相国となった張儀は、齊の攻撃を舎人馮喜の弁で回避させ、翌年病死した。

武王の勇力好みと九鼎

  • 力自慢の秦武王は烏獲・任鄙に加え、怪力で知られる齊人孟賁を招き、三勇士を寵愛した。丞相制度を新設し甘茂・樗里疾を左右丞相とした。
  • 武王は「中原を見たい」と甘茂に韓の宜陽攻略を命じる。甘茂は「曾参殺人(同姓同名の誤解が母の信を崩す故事)」を引いて讒言を警戒させ、武王と「息壤」の地で盟約を交わした上で出兵。長期戦の末、増援を得て宜陽を陥落させ、韓と講和した。
  • 武王は雒陽に入り、禹王伝来の九鼎(各州の産物を象った鎮国の宝器)を見物。雍州の鼎を見て「秦へ持ち帰りたい」と述べ、孟賁とともに力比べで鼎を持ち上げようとしたところ、武王は鼎を落として自らの脛骨を砕き、その夜のうちに絶命した。孟賁は挙鼎の罪で一族もろとも処刑された。武王に子がなく、異母弟の稷(昭襄王)が即位した。

楚懐王の武関誘拐

  • 楚が齊に人質を送ったことを秦昭襄王が咎め、樗里疾に楚を攻めさせて勝利。秦王は「武関で会盟し和議を結びたい」と懐王を誘う書を送った。屈原・昭睢は「秦は虎狼の国、行けば帰れない」と諫めたが、靳尚と懐王の末子子蘭が入朝を強く勧め、懐王は武関へ赴いた。
  • 秦は涇陽君を身代わりに立てて懐王を油断させ、武関に入るや門を閉ざして懐王を拘束。咸陽へ連行された懐王は臣下の礼を強いられ、抗議するも聞き入れられず、黔中の地の割譲を迫られて拒絶し、そのまま秦に留め置かれた。

頃襄王の即位

  • 楚では昭睢が「王不在のまま太子(齊に人質中)を待たず、王薨去と偽って太子を呼び戻す」策を用い、孟嘗君の計らいもあって太子横は無事帰国し、頃襄王として即位した。秦は懐王を手元に置いたまま土地を得られず怒り、白起らに命じて楚の十五城を奪った。
  • 捕らわれの懐王は一年余り後に変装して脱出を図るが、東への帰路を秦軍に阻まれ、やむなく趙への逃亡を図った。

評語

  • 史臣の詩は「張儀は秦のために変わり身を重ね、朝には囚われ夕には賓客となる。懐王は木偶のように愚かで、忠臣の諫めを聞かず讒言者に従った」という趣旨で、懐王の判断の甘さを批判する。