東周列國志第三十回 秦晋が龍門山で大戦し、穆姫が台に登り大赦を求める (秦晉大戰龍門山  穆姬登臺要大赦)

管仲の遺言と鮑叔牙の起用

  • 病床の管仲は桓公に易牙・豎刁・開方の三人を遠ざけるよう遺言し、後任には隰朋を推挙した。
  • 易牙はこれを恨み鮑叔牙に不満をぶつけるが、鮑叔牙は「自分は佞人を排除する司寇の役には向くが、国政を担うには狭量だ」と道理を説き、易牙を退けた。
  • 管仲の死後、隰朋も一月足らずで病没。桓公は改めて鮑叔牙に政を任せようとするが、鮑叔牙は「三人を遠ざけるなら」と条件を付けて承知し、三人を朝廷から締め出した。
  • 淮夷が杞を侵すと、桓公は宋・魯・陳・衛・鄭・許・曹の諸侯とともに杞を救援し、都を緣陵へ遷させた。

晋の飢饉と秦の援助(泛舟の役)

  • 晋惠公の代、連年不作で国が飢え、惠公は婚姻国である秦に糴(穀物購入)を求めた。
  • 秦の朝議では、蹇叔・百里奚が「隣国を恤むのが道理」と説き、公孫枝も同調。丕豹は積年の恨みからこの機に晋を討てと主張したが、穆公は「恨みは晋君にあり、民に罪はない」として穀物を大量に運び入れた(この輸送は「泛舟の役」と呼ばれた)。(詩:晋の無道にもかかわらず穀物を送った穆公の度量を称える内容)

秦の飢饉と晋の拒絶

  • 翌年は逆に秦が凶作、晋は豊作となった。穆公は今度は晋に糴を求めるが、晋の呂飴甥・郤芮は「恩を返しても返さなくても恨まれるなら与える必要はない」と主張。慶鄭は道義を説いて反対したが容れられず、虢射は「天が与えた好機、むしろ梁と結んで秦を討つべき」と進言、惠公はこれを採用して秦の使者を追い返した。(詩:恩を仇で返す晋惠公を批判する内容)
  • 秦穆公は激怒し、まず梁を、続いて晋を討つことを決断。百里奚の献策により大軍を発し、自ら中軍を率いて晋へ攻め入った。

韓原の戦い

  • 晋の西境が危急を告げ、惠公は出兵。慶鄭は割地講和を進言するが、惠公は激怒して斬ろうとし、虢射の取りなしでかろうじて従軍を許された。
  • 惠公は寵愛する小型の名馬「小駟」に乗ろうとし、慶鄭は「異国産の馬は戦陣に適さない」と諫めたが聞き入れられなかった。
  • 両軍は韓原で対陣。晋の勇将屠岸夷と秦の白乙丙が一騎打ちの末に取っ組み合いとなり、両軍入り乱れての激戦となる。
  • 惠公の乗る小駟は泥濘にはまって動けなくなり、通りかかった慶鄭に救援を求めるが、慶鄭は以前の諫言を聞かなかったことを咎めて見捨てて去った。惠公はついに秦の公孫枝に捕らえられる。
  • 一方、韓簡は秦穆公の本陣に迫り、あわや穆公を捕らえるところまで追い詰めるが、かつて穆公に恩を受けた岐山の野人三百余人が乱入して穆公を救出。秦軍は勢いを盛り返し、晋軍は大敗した。(詩:秦の善悪応報の道理を詠む内容)

岐山の野人の恩返し

  • かつて穆公は名馬を盗んで食べた岐山の野人三百余人を罰せず、逆に「馬肉には酒を添えねば体に障る」と美酒を賜った。恩義に感じた野人たちは、韓原の戦いで穆公が窮地に陥った際に駆けつけて救い、褒賞も辞退して去った。(詩:恩に厚く報いた例えを詠む内容)
  • 秦軍は白乙丙が晋の屠岸夷と組み合ったまま気を失っているのを発見し救出。屠岸夷はかつて晋の内乱で公子たちを弑逆した経緯から、穆公の命で斬首された。

惠公の捕虜と穆姫の嘆願

  • 秦は大勝し、惠公以下呂飴甥・韓簡・梁繇靡らを伴い凱旋。穆公は当初、惠公を天への生贄として郊祀に用いる案を検討したが、公孫枝が「重耳を新たに立てれば新たな恨みを生む、いっそ惠公を赦して河西五城の割譲と世子圉の人質を条件に和睦すべき」と諫め、穆公はこれに従い惠公を離宮に幽閉するにとどめた。
  • 穆公の夫人穆姫(惠公の姉)は、弟の被虜を知って喪服姿で高台に上り、晋侯が城に入るなら自分もその場で自害すると使者を通じて訴えた。穆公は驚き、惠公を釈放する旨を伝えて夫人を宥めた。