唐史演義第九十回 龐勛を斬り始めて叛孽を清む/同昌を葬り奢華を極む (斬龐勛始清叛孽 葬同昌備極奢華)

泗州攻防と辛讜の奮闘

  • 龐勛は許佶に数千を率いさせ泗州攻めを継続、濠州の賊将劉行及も呼応して兵を送った。杜審権配下の救援軍は敗れ、淮南から派遣された李湘・郭厚本も敗北して捕らえられた(袁公弁のみ脱出)。賊軍は舒廬・沭陽・下蔡・烏江・巣県を侵し、和州では刺史崔雍が賊を城内に招き入れたため大虐殺が起きた。
  • 都招討使康承訓は賊勢を恐れて退却し、孤立した泗州は食糧が尽きかけた。義士辛讜は決死隊十人で水寨を突破し救援を求め、揚州・潤州を回って兵糧・援軍を得た。
  • 徐州南面招討使戴可師は油断から濠州賊将王弘立の奇襲を受け大敗、二万余の将兵を失い戦死した。龐勛は勝利に驕り享楽に耽り、幕僚周重の諫言も聞き入れなかった。
  • 咸通十年、馬舉・曹翔らが新たに招討使となり河北諸鎮も出兵。辛讜は再び浙西の援軍・食糧を得るため決死の突破戦を繰り返し、火計で賊船を焼き払うなど奮闘し、泗州の守りを支えた。

龐勛軍の敗走と乱の終息

  • 康承訓は沙陀の朱邪赤心の騎兵を主力に賊を撃破し続けた。王弘立は鹿頭寨で沙陀騎兵の反撃を受け大敗、二万余を失った。
  • 柳子寨で賊将姚周が敗れ、宿州で殺される。龐勛は動揺し、周重の勧めで崔彦曾ら幽閉していた官吏を皆殺しにし、民を強制徴発して自ら天冊将軍を称し、父の龐挙直を大司馬とするなど倫理を無視した専横を強めた。
  • 柳子寨での決戦で龐勛軍は伏兵にかかり壊滅、龐勛自身は変装して彭城へ逃げ帰った。泗州を囲んでいた吳迥も馬挙に敗れて退いた。
  • 宿州では張玄稔が内応を約し、賊将張儒・張実を謀殺して開城降伏。策略で符離・徐州も次々陥落させ、龐挙直・許佶を討ち取り、龐勛与党を徹底的に誅殺した。
  • 龐勛本隊も亳州付近で沙陀騎兵に撃破され、龐勛は蘄水で敗死。濠州に籠った吳迥も馬挙に討たれ、乱はついに平定された。

論功行賞と康承訓の左遷

  • 朝廷は康承訓を同平章事兼河東節度使、杜慆を義成節度使、張玄稔を右驍衛大将軍、辛讜を亳州刺史とし、朱邪赤心には李国昌の姓名を賜り大同軍を置いた。徐州には感化軍を新設し節度使を置いて鎮圧体制を整えた。
  • しかし康承訓は言官に討伐の遅延や戦功の誇張を弾劾され、恩州司馬へ左遷された(罪に比して罰が重すぎるとの評)。

同昌公主の婚礼と急死

  • 懿宗は在位十年、後継を立てず、淑妃郭氏の娘(同昌公主)を溺愛し、右拾遺韋保衡に嫁がせた。婚礼は五百万緡を費やす空前の豪奢ぶりで、器物まで金銀で作らせた。
  • 韋保衡は翰林学士から入相し栄達を極めたが、まもなく同昌公主は不治の病で急死。懿宗は悲嘆し、治療に当たった医官二十余人を無実のまま処刑、その一族三百余人も投獄した。

医官処刑と劉瞻の諫言

  • 宰相劉瞻は自ら上奏し、公主の死は天命であり医官の冤罪を訴えたが懿宗は聞き入れず、京兆尹温璋も強諫して叱責され服毒自殺した。
  • 韋保衡・路岩は劉瞻を医官と結託し毒殺を謀ったと讒言し、劉瞻は康州刺史、さらに驩州司戸へと次々左遷された。
  • 翌年、同昌公主の葬儀は空前の規模で行われ、金銀財宝を大量に副葬するなど浪費が極まった。

韋保衡・路岩の専横とその末路

  • 韋保衡は座師の王鐸を推挙して入相させたが次第に不和になり、また路岩とも権力争いの末に対立、路岩は保衡の讒言で西川節度使に左遷され、民衆から瓦礫を投げられるほど恨まれた。
  • 南詔の侵攻は盧耽・顔慶復らにより撃退され、成都は守りを固めた。路岩は蜀で辺咸・郭籌ら親吏に政務を委ね不正を重ね、荊南へさらに左遷された。
  • 于悰も讒言により韶州刺史に左遷、宰相は趙隠に交代するなど、朝政は混乱が続いた。

佛骨迎えと懿宗の崩御

  • 咸通十四年、懿宗は法門寺から仏骨を迎えることを強行、諫言を退けて盛大な儀式を行った。まもなく発病し、皇太子を立てた直後に崩御(享年四十一、在位十四年)。

評語

龐勛の乱は八百人の脱走兵から起こったが、唐は十万を超す兵を動かしてようやく鎮圧し、国威の衰えを露呈した。康承訓には格別の将才はなかったが朱邪赤心を用い、張玄稔を寝返らせるなど人を知り敵を利用する才はあった。功績の割に路岩・韋保衡の讒言で左遷されたのは不当である。韋保衡は駙馬というだけで宰相に昇ったにすぎず、懿宗の溺愛ぶりが露わになった。同昌公主の死に際し無実の医官を大量処刑し親族まで連座させ、諫言した劉瞻を冤罪で流罪にしたことも同断である。妹婿の路岩は退けても娘婿の韋保衡は退けられず、死の間際まで仏骨を迎えるなど、懿宗の在位十四年は見るべき善政が一つもなかった。