唐史演義第八十四回 皇弟を奉じ権閹旨を矯む/公主を迎え猛将功を建つ (奉皇弟權閹矯旨 迎公主猛將建功)
魏謨・柳公権の直諫
甘露の変で誅殺された李孝本の娘二人が没官となり文宗に召されようとしたが、拾遺の魏謨(魏徴の子孫)が諫めて放免させた。魏謨はその後も起居舎人として史官の記録に手を加えるべきでないと諫言し、宰相鄭覃の「笏より人物が肝要」との言も引用される。文宗が質素な衣を誇示した際には、中書舎人柳公権が「賢を用い諫言を容れることこそ本義」と諫め、諫議大夫に転じさせられた。
李石の遇刺と辞任
開成三年、宰相李石は入朝の途上で矢を射られて負傷し、さらに馬の尾を切られる事件に遭った。宦官の陰謀を疑った李石は辞意を固め、荊南節度使に転出した。楊嗣復・李珏が新たに宰相となったが、鄭覃・陳夷行との対立が絶えず、文宗も調停に苦慮した。李宗閔の再登用をめぐる争いも文宗の裁定で収まった。
裴度の死
太和末年、李逢吉が病没。裴度も老いを理由に政務から退き、開成二年に河東節度使を拝命したのを最後に、翌年病没した(享年七十六)。文宗は深く悼み太傅を追贈、遺表には私事に及ばず後継者問題への憂いのみが記されていた。
太子問題の混迷
文宗の長子・李永が皇太子に立てられたが、生母王徳妃は寵愛を失い、寵妃楊賢妃の讒言によって太子は繰り返し廃立の危機にさらされた。群臣の諫止でいったんは収まったものの、まもなく太子は少陽院で不審な急死を遂げた。文宗は次に敬宗の子・陳王成美を皇太子に立てたが、ある宴席で童を見て亡き我が子を思い出し、楊賢妃に讒言した宦官・女優を処刑させた。
文宗の崩御と武宗の即位
文宗は病に倒れ、楊嗣復・李珏に太子成美の監国を託したが、仇士良・魚弘志ら宦官は独断で偽詔を発し、穆宗の子・潁王李瀍(武宗)を皇太弟に立て、成美を再び陳王に戻してしまった。文宗はまもなく三十二歳で崩御、武宗が即位した。
武宗初政と楊嗣復・李珏の救命
仇士良の勧めで楊賢妃・安王李溶・陳王成美は自尽を命じられた。武宗は李徳裕を宰相に起用する一方、湖南・桂管に左遷していた楊嗣復・李珏を仇士良の讒言で誅殺しようとしたが、李徳裕ら四相が涙ながらに諫めて武宗の翻意を得、二人は死罪を免れて刺史に留められた。
回鶻情勢と石雄の勝利
回鶻では可汗が相次いで交代し衰運が続く中、部将勾録莫賀が黠戛斯と結んで本国を急襲、可汗㕎馺特勒は戦死した。残党の嗢没斯は唐に内附を願い、李徳裕は「窮鳥懐に入る」の故事を引いて受け入れを進言、武宗もこれを容れた。一方、烏介可汗を戴く回鶻の別部は、黠戛斯に捕らわれていた太和公主を奪って南下し、唐領を脅かした。唐は劉沔・張仲武・李思忠(嗢没斯)を配して迎撃、麟州刺史石雄が夜襲で烏介の牙帳を急襲して大破し、太和公主を無事に救出した。
評語
文宗は宦官に制せられる我が身を周の赧王・漢の献帝にも及ばぬと嘆いたが、それも自ら招いた不幸に他ならない。宋申錫の一件、李訓・鄭注の登用と、用人の不明を重ね、寵妃に溺れて実子さえ守れなかった。宦官が矯詔で潁王を擁立したのも、文宗が最後まで果断さを欠いた結果である。回鶻は唐にとって長らく脅威であり続け、和親のために皇女を差し出すという下策を取らざるを得なかったのも、夷狄を制御しきれなかった証左である。しかし嗢没斯の内附に対して李徳裕が夷を以て夷を制す策を進言したことで、強敵烏介を退け太和公主を無事に迎え戻すことができた。まさに政は人にありという道理を示す一事であった。文宗は李徳裕という人材を得ながら十分に用いきれなかったことこそ、生涯の恨事であったろう。