唐史演義第六十七回 朱泚、彭原城に敗死す/李晟、田希鑒を誘誅す (朱泚敗死彭原城 李晟誘誅田希鑒)
朱滔・朱泚の敗走
王武俊・李抱真は朱滔の敗兵を深追いせず遺棄兵糧を接収して帰鎮した。滔は敗因を部下の楊布・蔡雄に問い斬って幽州に戻ったが、兄朱泚もまた李晟に長安を追われ涇州へ敗走していた。
李晟の長安攻略
李晟と渾瑊は東西から進撃し、晟は諸将の「外城から攻める」案を退け、苑北から一気に中枢を突く策を採用。光泰門外で賊将張庭芝・李希倩らを撃破し、翌日も攻勢を続けて苑の城壁を破り、木柵を突破して城内に突入した。伏兵に背後を突かれた際も「相公来る」の一声で賊を敗走させ、朱泚は張光晟の勧めで長安を脱出、光晟は降伏した。
長安の平定と軍紀
李晟は残党を捕らえて処刑する一方、略奪を働いた部下を斬って軍紀を保ち、長安の民を安堵させた。以前予言を残していた術士桑道茂が賊の偽官の中にいたことが発覚するが、脅されて従っただけと情状を汲み、処断を徳宗に委ねた。李晟の上奏には長安を汚さず宗廟を守った旨が記され、徳宗は涙して「李晟は社稷のために生まれた」と述べた。奉天時に犠牲となった吳漵・劉迺らの忠節も顕彰され、追贈と諡が与えられた。
朱泚の最期
渾瑊も咸陽を回復し、涇原の田希鑒は朱泚誅殺を、李楚琳は源休・李子平誅殺を報告した。長安脱出後の朱泚は涇州で入城を拒まれ、田希鑒に「なぜ裏切るのか」と詰め寄るが、希鑒は節を火に投げ込み拒絶。姚令言は涇原の兵に斬られ、朱泚はさらに逃げるも部将梁庭芬・韓旻に討たれ首を取られた。源休・李子平も李楚琳に討たれ、諸将は徳宗のもとへ首級を送った。
論功と還都
徳宗は李楚琳・田希鑒の旧罪を問わず節度使に任じ、李晟を司徒中書令、渾瑊を侍中に進めた。梁州を興元府と改めて還都の途につき、途上で捕らえたた李忠臣・喬琳・蔣鎮・張光晟を処刑した(李晟の助命嘆願も容れられず)。長安帰還時は李晟ら諸将が盛大に出迎え、徳宗は功臣を厚くねぎらった。
楊烈婦、項城を守る
李希烈配下が陳州の項城県を攻めた際、逃亡しようとした県令李侃を妻の楊氏が「城を守れなければ死あるのみ」と叱咤し、財を投じて義勇兵を募り、自ら炊事や城壁の指揮にも当たって城を守り抜いた。侃が負傷して降りようとした時も戦い続けるよう励ました。賊将は嘲笑しつつ攻めたが撃退され、項城は守られた。朝廷は侃を昇進させたが、楊氏本人への褒賞はなかった。
李希烈の勢力縮小
李希烈は項城に構わず陳州を攻めたが膠着し、弟李希倩の処刑を知って激怒、蔡州で顔真卿に死を強いた。真卿は使者が「大梁から来た」と認めた時点でそれが偽の勅使と見抜き、従容として絞死した(七十六歳)。曹王皋の軍が各地で希烈軍を破る中、真卿の死は徳宗を悲しませ、司徒・諡文忠が追贈された。希烈は寧陵で敗れ、配下の翟崇暉も陳州攻めで劉昌・曲環の伏兵に大敗、捕らえられた。汴州も李澄の帰順とともに官軍に接収され、希烈は蔡州へ逃れた。李勉は失地の責を問われかけたが、李泌の弁護で同平章事に留任した。
韓滉の忠誠と関中救済
浙江東西節度使韓滉には謀反の疑いがかけられたが、李泌が忠誠を保証し、子の韓皋を帰省させて父に関中への糧秣輸送を促す策を献じた。韓滉は米百万斛を送り関中の飢饉を救い、疑いは晴れた。陳少游も米を献じたが、李希烈の記録から自分の内通が露見していたことを知り恥じて病死した。淮南の将王韶の反乱の芽も韓滉が牽制して防いだ。翌年、貞元元年と改元し大赦が行われた。
盧杞の末路と李泌の諫言
赦免された盧杞は再起を期したが、袁高をはじめ多くの臣が反対し、結局澧州別駕に留められ病死した。李泌は徳宗に「盧杞を貶死させたことは堯舜にも劣らぬ」と評した。徳宗は河中の李懐光の反乱と、吐蕃への安西・北庭割譲の約束について悩みを漏らすが、李泌は「懐光はやがて自滅する」「安西・北庭は要地であり、吐蕃は功も薄いので割譲すべきでない」と諫め、徳宗はこれを容れて吐蕃の要求を退け、李晟を鳳翔隴右節度使・西平王として吐蕃に備えさせ、渾瑊・駱元光らに懐光討伐を命じた。
田希鑒の誅殺
李晟は鳳翔で張鎰殺害の首謀者らを処刑した後、吐蕃の涇州侵入に応じて出兵、涇原節度使田希鑒を油断させるため親しく交際した末、送別の宴と称して招いた席で希鑒配下の一将を処刑し、続いて希鑒本人も「天子蒙塵の際に節度使を殺し賊の偽命を受けた」罪で捕縛した。(詩:叛臣が兵権を握り続けたが、酒宴に招いて国法を正し、涇原にも天誅が下ったことを詠う)
評語
朱泚は奉天を長期攻めながら落とせず、長安に戻っても李懐光との結託ゆえに版図を広げられなかった。李晟の一撃で長安を失い、彭原で部下に討たれたのはその無能の証左であり、人心が離れれば身の破滅も伴うことを示す。李希烈・李懐光らの逆乱も、長安収復後すぐに討伐すべきだったのに、徳宗は宴を開いて安逸をむさぼり、使者を送っては死地に陥れた(顔真卿・孔巣父の犠牲)。李楚琳・田希鑒のような裏切り者も討伐すべきでありながら、楚琳の誅殺は許されず希鑒のみが誅されたのは、せめてもの慰めに過ぎない。国を靖んずる忠臣はいても、それを率いる英主がいなかったことが惜しまれる。