唐史演義第六十六回 大梁に趨き徳宗命に奔る/貝州に戦い朱滔敗れて還る (趨大梁德宗奔命 戰貝州朱滔敗還)
李懐光の三害論と離反
李懐光は陸贄に「吐蕃の力で長安を奪回すれば略奪される」「吐蕃に恩賞を払う財源がない」「戎狄は信用できず戦況次第で寝返る」との三害を挙げ、勅への署名を拒んだ。陸贄はやり込められて帰還する。懐光は密かに朱泚と通じつつ表向きは李晟との合軍を求めたが、晟は分離を望み許された。陸贄は李建徽・楊惠元を懐光陣営から切り離す策を献じたが、徳宗は懐光を刺激することを恐れて先送りにした。懐光の不穏を察した李晟の密奏にも徳宗は決断できず、逆に懐光へ太尉・鉄券を賜ったところ、懐光は「反乱を促すのか」と激高し、諫めた部下の張名振を殺してしまった。
石演芬・李璀の忠義
懐光の養子石演芬(西域出身)は懐光の謀反計画を密かに徳宗方へ通報させ、実子の李璀もこれを知り父を諫める書を送るが、懐光は演芬を問い詰め、演芬は「主君に忠を尽くす」と答えて誅殺された。璀は徳宗に父の謀反を予告し、「父を捨てて君に殉じる」と涙して誓う。徳宗はこれに感じ、密かに梁州への避難を準備させた。
徳宗、梁州へ避難
楊惠元殺害・李建徽敗走の報が届き、懐光の謀反が明らかとなる。韓游環は懐光からの誘いの密書を徳宗に差し出して忠誠を示し、懐光の兵権を削って各地の将に分掌させる策を進言した。同日、渾瑊も懐光配下の内応者の自首を報告し、徳宗は急遽妃嬪を伴い梁州へ出発、渾瑊が殿を務めた。
懐光軍の乱れと離反
懐光配下の追撃隊は徳宗に追いつけず、途中で略奪を働いただけで引き返した。懐光は李晟襲撃を命じるが将士は従わず、幕僚王景略の勧めで長安攻撃・朱泚討伐へ傾きかけたが、都虞侯閻晏らの反対で河中へ退くことに決した。景略は失望して郷里へ去った。懐光は将士に略奪を許して懐柔し、邠州の張昕に合流を命じたが、韓游環は張昕を殺害し、崔漢衡の吐蕃兵と結んで邠州を制圧、游環が軍府を任された。懐光の子玫は游環にあえて生かされ、涇陽の懐光の元へ帰された。
朱泚と懐光の破談
朱泚は喬琳ら唐の旧臣を取り込みつつ国号を「漢」と改め、懐光からの書簡に対し「朕」「卿」と皇帝然とした返書を送った。かつて対等の盟約を交わしていた朱泚の豹変に懐光は怒り、涇陽など十二県を略奪して河中へ逃れ、呂鳴岳の河中軍を吸収した。同州では裴向が敵将趙貴先を説得して州を保全した。
李晟・渾瑊の反攻
徳宗は李晟を河中節度使兼副元帥、渾瑊を朔方節度使兼副元帥として長安奪回を命じた。李晟は家族が長安にあることを顧みず出陣し、賊の間諜を捕らえても寛大に扱い姚令言への伝言を託すなど、将士の心をつかんだ。渾瑊も邠州へ進み、李楚琳も帰順して援兵を送った。渾瑊は武功を奪還し、奉天に駐屯して李晟と長安を東西から圧迫した。
田希鑒の裏切りと吐蕃の撤退
朱泚は各軍への買収を図り、涇原節度使馮河清はこれを何度も撃退したが、牙将田希鑒が買収されて河清を暗殺、泚に帰順して吐蕃への賄賂も取り次いだ。吐蕃は厚い賄賂を得て撤兵した。
朱滔の南下と回紇の援軍
朱泚は弟の朱滔を洛陽へ呼び寄せ、滔は回紇に援軍を求め三千騎を得た。かつて回紇は郭子儀と結んでいたが、可汗の娘が乱で夫を失い平盧を経由した際に朱滔が厚遇して娶り、姻戚関係となっていたための助勢であった。
田悦の横死と田緒の簒奪
朱滔は田悦にも共同出兵を求めたが、悦は既に唐に謝罪していたため応じず、滔は回紇兵で悦の領内を掠奪した。徳宗の使者孔巣父が魏州で融和を図る中、悦の従兄弟田緒が私怨から悦とその母・妻ら十数人を殺害し、居合わせた幕僚らも殺して謀反を隠蔽、将士を金で懐柔して軍府の実権を握った。孔巣父はそれと知らず緒に軍事を委ねてしまい、数日後に真相が知れても既に手遅れであった。
貝州の戦い
朱滔は田悦の死を好機とみて貝州・魏州に兵を進め、田緒を誘おうとしたが、緒は李抱真・王武俊と結んで抵抗、徳宗から魏博節度使に任じられた。抱真は使者賈林を通じ武俊に「朱滔の勢いが強まれば王氏の宗族も危うい」と説き、両者は南宮で会盟、抱真は単身武俊の陣営に赴いて義兄弟の誓いを交わした。
決戦と朱滔の敗走
朱滔軍は回紇部酋達乾の豪語もあって出撃、武俊軍は敵を陣内に誘い込んでから抱真軍と挟撃、伏兵の趙琳隊も加わって回紇兵を撃破した。朱滔は敗走し、夜には陣営を焼いて逃走した。(詩:抱真・武俊の共闘による貝州の勝利と朱滔敗走を詠う)
評語
李懐光は戦わずして逃げ、朱滔は一戦で敗れた。これは唐室中葉になお人心が唐に帰していたためであり、両者とも思うがままに事を運べなかった。懐光の謀反は養子石演芬も実子李璀も従わなかったことに既に無力さが表れており、河中への逃走もその証左である。朱滔は四国同盟の盟主で兄朱泚の後ろ盾もあり懐光より勢力があったが、田悦・李納・王武俊が唐に帰順して外援を失い、李晟・渾瑊の朱泚討伐で内援も断たれた。貝州の勝利も李抱真が王武俊とよく結んだ功によるが、そもそも朱滔の勢いが既に孤立していたからこそ武俊も翻意し得たのである。徳宗が滅びなかったのは人心のおかげであり、諸将の功はその次に過ぎず、徳宗自身の働きによるものではない。