唐史演義第六十五回 帝号を僭し大いに逆師を興す/賊囲を解き詔を下し己を罪す (僭帝號大興逆師  解賊圍下詔罪己)

段秀実らの忠死

劉海賓は脱出したが百里余りで追手に捕まり、京師で殺された。何明禮も朱泚に従いつつ密かに泚暗殺を謀って失敗し死んだ。当時これら(段秀実・劉海賓ら)は「四忠」と呼ばれた。徳宗は段秀実の死を聞いて重用しなかったことを悔い、太尉を追贈し諡を忠烈とした。後に還都後には使者を遣わして墓を祭り、自ら碑銘を撰し、郷里にも旌表を与えた。

鳳翔の陥落と徳宗の動揺

徳宗は朱泚の逆乱を受け、奉天が守りにくいとして鳳翔への移動を考えたが、戸部尚書蕭復は鳳翔の兵の多くが元朱泚配下であり危険だと諫めた。まもなく鳳翔節度使張鎰が部将李楚琳に殺され、楚琳が自立して朱泚に降ったとの報が届く。徳宗は驚きつつも、逃げ帰った斉映・斉抗の両名を赦し、それぞれ御史中丞・侍御史に任じた。

朱泚の僭帝と唐宗室の粛清

朱泚は長安で皇帝を僭称し、国号を大秦、年号を応天と改めた。太常卿樊系は無理に冊文を書かされた末に服毒自殺し、大理卿蔣沇も抵抗して逃れた。姚令言・李忠臣・源休・蔣鎮らを要職に就け、甥の遂を太子、弟の滔を皇太弟格の冀王とした。源休の勧めで唐の宗室・郡王ら七十七人を殺害したが、蔣鎮の取りなしで多くの朝臣は難を逃れた。泚は奉天に檄文を送り、扈従の臣に降伏を促した。

涇原・崔寧をめぐる暗闘

涇原の馮河清・姚況は涇原兵馬使として姚令言の裏切りを非難し、独自に武器・甲兵を集めて奉天に送り、士気を支えた。徳宗は河清を涇原節度使に抜擢した。右僕射崔寧が到着すると徳宗は喜んだが、盧杞は崔寧が朱泚と内通しているとの讒言を仕立て、王翃に偽の書状を作らせて徳宗に示した。徳宗はこれを信じ、崔寧を陰謀により絞殺させてしまった。

奉天籠城戦の緒戦

邠寧の韓游環・慶州の論惟明らが便橋を守るべく出兵するが、朱泚軍の姚令言・張光晟に押され、游環は奉天に引き返す。渾瑊とともに応戦するが劣勢となり、高固が草車で城門を塞いで火を放ち、賊軍を撃退した。以後、朱泚は連日城を攻めたが、渾瑊・游環らの防戦により膠着状態が続いた。

高重捷・李日月の死闘

徳宗は各地に急を告げ、李懐光・馬燧・李芃・李抱真・李晟らが相次いで援軍に動いた。攻城戦では左龍武大将軍呂希倩が戦死し、その友高重捷が復讐に出て賊将李日月と激闘、渾瑊の援護もあって日月を追い詰めたが、伏兵の鉤索に馬を絆され重捷は討ち取られてしまう。徳宗は重捷を手厚く葬り、司空を追贈した。日月は重捷の首を朱泚に献じたが、泚も涙して忠臣と讃え、丁重に葬らせた。

その後、渾瑊配下の兵が計略で日月を挑発し続け、ついに激怒した日月は単身追撃してきたところを包囲され、矢を受けて絶命した。日月の母はその死を悲しまず、遺体を「国に背いて逆賊に従うとは死んでも遅いくらいだ」と罵った。泚の敗死後、逆党は皆誅されたが日月の母だけは罪を免れたという。

韋皋の隴州平定

朱泚は蘇玉を隴州に送り、隴右留後の韋皋に投降を促した。逃亡してきた戍将牛雲光と結んで韋皋殺害を謀るが、韋皋はこれを見抜いて宴席で蘇玉と雲光を討ち取り、鳳翔の李楚琳討伐を誓った。徳宗は隴州を秦義軍と改め、皋を節度使とした。

飢餓の中の籠城

朱泚は蘇玉の死に激怒し攻城を強めたが、渾瑊・游環の防戦で持ちこたえた。ただし糧道は絶たれ城中は飢餓に苦しみ、徳宗自らも粗末な食事で耐えた。徳宗は群臣に「自分の不徳の報いだ、降伏して身を全うせよ」と諭したが、群臣は涙して忠誠を誓った。渾瑊は夜陰に乗じて城外の草を採らせ飢えをしのがせ、将士を励まし続けた。

雲梯攻めと火計

朱泚軍は巨大な雲梯を用いて城の東北隅を攻めようとしたが、渾瑊はあらかじめ地道を掘り薪と火種を仕込んでおいた。強風の日に雲梯が地道の陥没で動けなくなったところへ火が噴き上がり、雲梯もろとも賊兵は焼き尽くされた。徳宗は太子に命じて三方から出撃させ、賊軍数千を討ち取った。

四方の勤王軍来援

その夜も朱泚は攻城を続け、矢が徳宗の御前近くに達する危機もあったが、衛士が撥ね落として難を逃れた。李懐光の使者張韶が蝋丸に隠した上表を届け、朔方軍来援の報に城中は歓声に沸いた。まもなく尚可孤・駱元光・馬燧配下の王権・李彙らの援軍も続々と接近し、朱泚は恐れをなして長安へ撤退した。

盧杞排斥と李懐光の不満

奉天の囲みが解けると、盧杞・白志貞・趙贊は扈駕の功を誇ったが、李懐光が「君側の奸を除く」との噂が立ち、盧杞は保身のため懐光に長安攻撃を急がせるよう徳宗に進言した。懐光は謁見も許されぬまま出兵を命じられたことに憤り、長安へ向かうも咸陽で兵を止め、盧杞・白志貞・趙贊の罪を弾劾する上奏を繰り返した。李晟の上奏もあり、徳宗はついに三人を左遷し、宦官翟文秀も誅殺したが、懐光はなお進軍を渋った。

興元改元・罪己の詔

河南都統李勉が汴州・滑州の陥落を報告し自ら処分を求めたが、徳宗は慰留した。年末、陸贄が考功郎中に進み、時弊を陳べて罪己の詔を勧めた。徳宗は建中五年正月を興元元年と改元し、大赦の詔を発した。詔では自らの不徳を認め、李希烈・田悦・王武俊・李納らを赦し、朱滔も連座を問わず、朱泚のみを除いて逆に従った者も帰順すれば赦すとした。重税も停止するとした。

李希烈の僭称と顔真卿の節義

この赦により田悦・王武俊・李納は王号を廃し謝罪した。しかし李希烈は兵力を恃んで自ら皇帝を称そうとし、顔真卿に即位の儀礼を尋ねたが、真卿は「諸侯が天子に朝する礼しか知らぬ」と突っぱねた。希烈は大楚皇帝を自称し武成と改元、汴州を大梁府とした。部将辛景臻が薪を積んで真卿を脅すと、真卿は自ら火に飛び込もうとし、景臻は慌てて止めた。希烈は淮南節度使陳少游・壽州刺史張建封に偽の勅を送ったが、少游は応じ、建封は使者を斬って少游の内通を告発した。希烈は壽州・鄂州方面への進出も阻まれ、江淮への侵入を断念した。

徳宗は盧杞を貶し、姜公輔・蕭復を同平章事としたが、奸邪の排除を強く進言した蕭復をかえって疎んじ、江淮宣慰使に出した。田悦・王武俊・李納の官爵を復した一方、吐蕃に援軍を求めると、吐蕃の尚結贊は李懐光の署名を条件とし、懐光はこれを拒み三つの害悪を挙げたという。その理由は次回に述べる。

評語

朱泚の反乱を招いたのはひとえに徳宗自身の失策である。朱滔の逆命の際に朱泚を都から遠ざけなかったこと、出奔の際に姜公輔の諫めを容れなかったこと、盧杞の讒言を信じて備えを怠ったこと、この三つの誤りが乱を招いた。渾瑊らの奮戦と李懐光らの来援がなければ奉天は持ちこたえられなかったはずである。懐光が到着して囲みが解けたのだから、本来なら入朝させ厚く労うべきだったのに、また讒言を信じて怨みを買い、朱泚の乱の上にさらに懐光の離反を招いた愚かさは甚だしい。罪己の詔が人心を得たのは、唐初以来の遺徳と、乱の極みに治を望む人心の作用によるもので、単なる文言の力ではないことを読者は理解すべきである。