唐史演義第六十三回 三鎮兵を連ね張家祀を覆す/四王号を僭し朱氏盟を主どる (三鎮連兵張家覆祀 四王僭號朱氏主盟)
楊炎の死と郭子儀の薨去
楊炎は罷免され、盧杞が権力を独占すると、「楊炎の私廟の地に王気がある」との讒言により崖州司馬へ左遷のうえ、道中で絞殺された。盧杞の入相を朝廷は歓迎したが、郭子儀だけは「この者が権力を握れば我が子孫は無事では済むまい」と嘆いた。子儀は病床でも見舞客を通したが、盧杞が来ると姫妾を退けさせ、「彼の醜さを笑えば恨みを買い、子孫に禍が及ぶ」と用心した。建中二年、郭子儀は薨去、享年八十五。徳宗は深く悼み、太師を追贈し忠武と諡し、代宗廟に配享した。子儀は生涯、程元振・魚朝恩らの讒言にも動じず召命に応じ、田承嗣や李霊曜も一目置くほどの威信を保ち、権勢は天下に及びながら猜疑を招かず、栄華を極めながら非難されず、まさに福徳兼備の人物として讃えられた。甥の郭昕は安西四鎮の留後として長らく本国との連絡が絶えていたが、子儀の死の直後にようやく回紇経由で消息が届き、徳宗は昕を武威郡王に封じた。
徐州救援と馬燧の魏州攻略
田悦・李納・李惟岳の連合軍に対し、李納配下が徐州を攻めたが、朔方の唐朝臣らが七里溝で撃破し徐州の囲みを解いた。馬燧は漳水のほとりで田悦と対峙し、糧を蓄えたと見せて夜間に密かに魏州へ向かう奇策を用い、追撃してきた田悦軍を伏兵で包囲・撃破した(多数が河で溺死)。田悦は千余の敗残兵と共に魏州へ逃げ帰り、絶望した田悦は自ら首を差し出そうとする芝居がかった演説で将士の同情を引き、士気を立て直した。李納は劉洽に追い詰められて田悦に援軍を求めたが、送られた将の符璘は父の説得で降伏に転じ、田昂も洺州を挙げて投降するなど、田悦方には離反が相次いだ。しかし馬燧と李抱真の不和(軍需の分配を巡る確執)で追撃が停滞し、魏州攻略は難航した。
王武俊の離反と李惟岳の死
朱滔は易州刺史の張孝忠を説き、共に李惟岳討伐に乗り出した。惟岳配下の王武俊は、惟岳から疑われ命の危険を感じ、常寧の勧めで挙兵、恒州で惟岳を捕らえて絞殺し、その一党を処刑して首級を京師に送った。李宝臣の成徳軍はここに二代十九年で滅んだ。深州・定州も相次いで帰順し、河北はほぼ平定されたが魏州のみが残った。朝廷は成徳の地を三分し、張孝忠・王武俊・康日知に分与したが、朱滔・王武俊の双方が論功に不満を持ち、田悦の誘いに乗って結託、朝廷への反抗に転じた。
四鎮連合と僭称
李納は劉洽の包囲で降伏を願い出たが、宦官の讒言で使者を抑留されたため、憤って脱出し田悦と合流した。朝廷が朱滔軍を召還しようとすると、王武俊が使者を捕らえて滔に送り、滔も将士を焼き討ちで恫喝しつつ反乱を強行、密告した将士数十人を処刑するなど残虐さを見せた。馬燧・李抱真・李晟の不和も李晟の仲裁で修復され、共同戦線を立て直したが、愜山の戦いで朱滔・王武俊連合軍に李懐光が功を焦って突出し大敗、馬燧軍も巻き込まれて水攻めに遭い窮地に陥った。馬燧は屈辱的な和議を申し入れて危機を脱し、諸軍は魏県へ撤退した。この勝利を背景に田悦は朱滔を盟主に推したが、朱滔は「勝利は王武俊の功」と辞退、結局四者は唐の正朔を奉じつつそれぞれ王を称する形で妥協し、朱滔は冀王、田悦は魏王、王武俊は趙王、李納は齊王を称して壇を築き盟約を結んだ。朝廷は李希烈に李納討伐、馬燧に田悦・朱滔らへの対応、李懐光に同平章事を加え、李晟には范陽方面の遮断作戦を命じた。
民への重税
朝廷は軍費調達のため長安の富商から強制的に借財を募り(判度支の杜佑の苛烈な取り立てで自殺者も出た)、後任の趙賛は間架税(家屋税)・除陌銭(取引税)という苛法を新設して民を苦しめたが、戦局はいっこうに好転せず、諸将も互いに功を譲り合って前進しなかった。
評語
盧杞が宰相となり郭子儀も世を去ると、内外に人材を欠き、藩鎮の禍はいっそう激しくなった。幸い馬燧・李晟ら諸将の奮戦で田悦は追い詰められ、王武俊の裏切りで李惟岳は誅殺、李納も降伏を願い、河北平定はもう目前に見えた。しかし王武俊・朱滔への論功行賞の不手際が新たな怨みを生み、李納の降伏使まで拘禁するという失策が重なった。代宗の誤りは姑息な追認にあり、徳宗の誤りは猜疑心の強さにある。四王の連合はかつての三鎮以上の禍をもたらすことになる。この回を見れば、藩鎮の乱が繰り返されるのは、朝廷の廟算(大局的な策)の失敗によるものだと分かる。