唐史演義第六十二回 忠州に貶され劉晏冤死す/臨洺を守り張伾援を得る (貶忠州劉晏冤死 守臨洺張伾得援)
徳宗の新政と崔祐甫の登用
徳宗は即位すると人事を一新し、郭子儀を尚父・太尉・中書令に、朱泚を遂寧王・同平章事に据えたが、二人とも実務にはあまり関与しなかった。政事堂を取り仕切る常袞は、朱泚が献じた「猫と鼠が同じ乳を飲む」祥瑞を祝おうとしたが、中書舎人の崔祐甫は「物の道理に反するものは妖であり、祝うべきではない」と反対し、以後も服喪の期間などで常袞と対立した。常袞は祐甫を貶めようとして郭子儀・朱泚の名を勝手に署名に加えたが、両者から「その上奏には関わっていない」と否定され、徳宗は常袞の欺瞞を疑って潮州刺史へ左遷、代わりに崔祐甫を専任の宰相とした。徳宗は地方からの貢献を停止し、梨園の伎人を太常に編入、祥瑞の奏上を禁じ、馴象や宮女を放ち、民の訴えを聞く制度を整えるなど刷新に努め、藩鎮の兵士すら「明君が現れた」と評判した。李正己は献金を申し出たが、祐甫の提案でその金を淄青の将士への恩賞として返し、正己を心服させた。徳宗の誕生日には諸道の貢献を辞退したが、正己・田悦は改めて絹を献上し、これは度支に組み入れられて租税とされ、劉晏がその出納を統轄することとなった。
劉晏の善政と楊炎の讒言
劉晏は財政の才に長け、韓滉から度支の実権を引き継ぐと、豊凶に応じた穀物の売買や常平塩法などで民を潤しながら国用も足らしめ、胥吏を退けて士人を用いる清廉な運営で高く評価された。だが長年の権勢は妬みと中傷を招いた。崔祐甫の推薦で入相した楊炎は、元載誅殺の折に自身を裁いた劉晏を恨んでおり、財政改革(天下の財帛を左藏に戻す策、両税法の創設)で徳宗の信を得ると、劉晏が兼ねていた諸使の職権を奪い、さらに独孤妃の子・韓王迥擁立の陰謀に劉晏が関与していたと徳宗に讒言した。徳宗は当初取り合わなかったが、楊炎の執拗な策動と腹心・庾准の偽証により、劉晏はついに忠州刺史へ左遷され、まもなく密使によって絞殺、家族も嶺南に流された。世間はこれを冤罪と評したが、楊炎は満足した。
涇州の乱と盧杞の台頭
劉晏の死の前後、楊炎の強引な築城策(段秀実の慎重論を退けて李懐光に強行させた)に反発した涇州別駕の劉文喜が反乱を起こしたが、朱泚・李懐光の討伐と部下の内応により鎮圧された。李正己は劉晏誅殺に抗議する上表を行い、徳宗の判断力を暗に批判したため、楊炎は責任逃れの弁明を諸鎮に送るが裏目に出て、徳宗の不興を買った。徳宗はこれを機に、醜悪な容貌ながら質素を装う盧杞(かつて安禄山に殺された忠臣・盧奕の子)を同平章事に抜擢し、楊炎と並び立たせた。盧杞は楊炎への恨みを募らせていく。
偽太后事件
高力士の養女である老婦が、生き別れの徳宗生母・沈太后に容貌が似ていたことから、宦官らの功名心により本物と偽って上陽宮に迎えられる騒動が起きた。真偽を確かめきれないまま徳宗は喜んで供養したが、力士の養孫・樊景超が真相を糾して偽りを暴いた。徳宗は「百回騙されても一度の真実を求める」として老婦を罪に問わず放免した。実の沈太后は結局見つからず、追って睿真皇后と諡され元陵に合葬された。長子の誦が太子に立てられた。
桑道茂の予言と奉天築城
陰陽を信じない徳宗だったが、術士の桑道茂が「三年以内に都で大変事が起き、奉天に天子の気がある」と進言したため、奉天城の増築を命じた。神策軍の将・李晟(吐蕃・南詔を撃退した功臣)は、道茂から「将来自分の命が公の手にかかる、あらかじめ赦しを一筆頂きたい」と懇願され、事情もわからぬまま「賊に脅されたための罪、赦免する」との一筆と衣服への署名を与えた。この伏線が後にどう回収されるかは、のちの回で明らかになる。
三鎮の叛乱と臨洺の攻防
建中二年、成徳節度使の李宝臣が病死し、子の惟岳が跡目を望んだが徳宗はこれを許さなかった。魏博の田悦・淄青の李正己も惟岳の後継を求めたがいずれも却下され、三者は反発して兵を挙げた。惟岳の家臣・邵真や母方の伯父・谷従政は諫めたが容れられず、従政は絶望して服毒自殺した。田悦は邢州・臨洺を包囲し、李正己は曹州に出兵、山南東道の梁崇義も呼応して叛いた。徳宗は淮西の李希烈に崇義討伐を命じ(楊炎の反対を押し切って)、また澤潞の李抱真・河東の馬燧・神策軍の李晟らに田悦討伐を命じた。臨洺では守将の張伾が、食糧尽き兵も疲弊するなか、愛娘を将士の前に出して「この子を売った金で一日の費えとせよ」と涙ながらに訴え、将士は感奮して城を守り抜いた。援軍の馬燧・李抱真は田悦の別動隊を邯鄲で撃破(柵に火を放って大将楊朝光を討ち取る)し、臨洺で田悦本隊を三方から挟撃して大敗させた。田悦は淄青・成徳の援軍を得て洹水に踏みとどまったが、勝敗はなお決していなかった。一方、李希烈は梁崇義の軍を蠻水で破り、翟暉・杜少誠の投降を経て襄陽を陥落させ、崇義は妻子と共に投井自殺、希烈はその首級を京師に送り、同平章事に加封された。後任の山南東道節度使・李承は希烈に脅迫されても屈せず、希烈は略奪して引き上げた。
評語
楊炎の財政策(左藏への集約・両税法)自体は当時の弊害を除く良策だったが、実はその裏に劉晏を陥れる意図が隠されていたことが明らかである。玄宗から代宗にかけての宇文融・王鉷・韋堅・楊慎矜らはいずれも民を苦しめる収奪の臣であったが、劉晏だけは公私を共に益する術を心得ていた。楊炎は私怨からこれを除こうとし、財政論で君心を動かしてから讒言に及び、劉晏を貶めて死に至らしめた。しかもその後を継いだ盧杞は、梁崇義の乱に乗じて借刀殺人の計で楊炎自身をも陥れようとする。徳宗はこれに気づかず、無情な李希烈まで重用して杞の奸計に陥っていく。三鎮の叛乱もまた、先代の甘い処遇が招いたものに他ならない。臨洺の攻防で張伾・馬燧らの奮戦がなければ、田悦の大敗はなく、後の奉天の危難も一層早まっていたかもしれない。